この地ポーツマスでの結婚式に招待され、日露戦争の講和が結ばれた街を散策する機会に恵まれた。
宿泊先であるシェラトン・ポーツマス・ハーバーサイド ホテル<Sheraton Portsumouth Haborside Hotel>は、ポーツマス中心街より北西、ピスカタクワ川Piscataqua Riverに近く、海から爽やかな潮風を運んでくるダウンタウンに建っている。
日本が鎖国という眠りから覚め、世界史に躍り出た日露戦争は、アジアにおける覇権にめざめ、列強に食入ろうとした瞬間であった。また、日本が欧米に呑み込まれ植民地になるか、主権を維持できるかの存亡の戦いでもあった。
しかし、世界の植民地図はおおむね出来上がっており、特に南下政策を進めようとしていたロシアにとっては、日本の台頭を面白く思っていなかった。
明治維新より富国強兵をもとに進めた日本の近代化、その最初の大国への挑戦が日露戦争であった。日本は国情にふさわしくない大戦争をロシアに仕掛けたのである。 この姿勢は、中国戦線と太平洋戦線という二正面で戦った第二次世界大戦(太平洋戦争)にまで引きずり、国力を消耗しきって敗戦を迎えることになる。
太平洋戦争時は、すでに軍独裁の感があったが、日露戦争時は官民一体による愛国の精神が満ちていた。ロシア黒海艦隊の動きを帝国海軍に知らせていたイスタンブール在住の日本人や、バルチック艦隊が寄港したマダカスカルでの詳細情報を打電していた民間人やからゆきさん、スマトラ島に立寄ったバルチック艦隊の行動を情報収集していたのは、商社の駐在員たちであった。
日露戦争における奇蹟の勝利は、このように日本の未来を心配した多くの国民の協力を得て勝ちえたものであった。それだけに、ここポーツマスでの終戦交渉の講和条約の内容にまで国民は大きな関心と、期待を寄せていたのである。
現在の日本という国の原形をつくったのが日露戦争と言っても過言ではない。 軍拡への道、そして敗戦、その上に立つ日本は独自な日本的民主主義、日本的資本主義を形成し、互助的な社会民主的国家を作り上げてきたといえるのではないだろうか。
日露講和条約正文・全権代表Komura/Takahiraの署名がある
日本講和代表団
小村壽太郎(前列右)と高平小五郎(前列左)、随員2名および米国人外交顧問ヘンリー・ウィラード・デニソン(後列中央)
向側左からコロストウェツ、ナボコフ、ヴィッテ、ローゼン、プランソン、手前左から安達、落合、小村、高平、
佐藤
ポーツマス講和会議のレセプション
ロシア・アメリカ・日本の関係者の集合写真で、最前列(やや右)中央の背の高い人物がヴィッテ、その三つ右隣で、一際背の低い人物が小村、その右が高平
ちなみに、ヴィッテはロシア帰国後、初代首相になり第一次ロシア革命の政府側の中心人物として十月宣言を起草するなどロシア帝政崩壊の時期に立ち会った重要人物の一人となる。
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日本の朝鮮に対する指導と監督を認める保護権を与える
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日本にロシアが借りていた中国・遼東半島南部の租借権を譲り渡す
<その後、関東州、満州帝国建国へと向かうと共に、満鉄に対する米国の参入要求もあり、日米の紛争の争点になり、日米決戦の遠因のひとつになる>
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南樺太(北緯50度以南のサハリン)を日本に譲り渡す
<樺太は1875年の樺太千島交換条約によってロシア領となっていたが、この条約によって日本領になり第二次世界大戦での敗戦まで続く>
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講和の結果、ロシア領の南樺太は日本領となり樺太庁が設置され、ロシアの租借地があった関東州については日本が租借権を得て、関東都督府が設置されるなど日本の勝利という形で終わった。しかし、戦勝国としての賠償金は断念せざるをえなかった。
日本はこれに憤慨してロシア革命に干渉してシベリア出兵を行う。そして、1920年には日本人が虐殺されたことを口実に北樺太を占領する。その後、1925年の日ソ基本条約の締結でソヴィエト連邦の承認に伴い北樺太より撤退した。
日比谷焼打ち事件
1905年9月、ポーツマス条約を締結調印し帰国した全権大使小村寿太郎を、条約に不満を抱くおおくの反対国民により、激しい暴動と化した国民運動が出迎えた。
大きな犠牲を払って戦勝したにもかかわらず、先にも述べたように、賠償金を一銭も取れなかった不利な講和内容に対しての不満の爆発であった。
日本側の全権大使、小村寿太郎と高平小太郎がパレードしたマーケットスケアーMarket Square を、歴史を振り返りながら散策した。
日露戦争講和のあと日本全権団がパレードしたマーケットスケアー
1904年(明治37年)8月10日に大日本帝国海軍連合艦隊が旅順港のロシア極東艦隊(ロシア帝国海軍第一太平洋艦隊・旅順艦隊)を攻撃して戦端が開かれた黄海海戦すなわち日露戦争は、日本・ロシア両国ともに事情を抱え、当初より早期の終結を望んでいたことはすでに述べた。
開戦にあたって、日本側は、当時日銀副総裁だった高橋是清を英米に派遣し、両国より8億円の外債をとり付け、戦費にあてていたが、1905年(明治38)年3月の奉天会戦、5月の日本海海戦のあと、武器・弾薬の在庫や戦費が底をついていた。また、第一線の戦闘を支える中堅将校の半数近くの消耗(戦死)によって、経済的にも軍事的にも戦争の続行は難しい状況に追い込まれていた。
一方ロシアでは独裁制政治による低賃金や住宅難に喘ぐ民衆の反乱が頻発し、革命運動の高揚で日露戦争の継続が困難な状況にあった。戦時中の国民生活の窮乏により、血の日曜日事件等より始まるロシア第一革命が発生することになる。 また、軍内部では、腐った牛肉入りのスープの不満をきっかけに、水平が将校を射殺するという有名な「戦艦ポチョムキンの反乱」なども起こり、兵士の士気も落ちて、ロシアもまた戦争継続がむつかしい状況であった。
このように、旅順攻略、日本海海戦の勝利に沸く国民の期待を背に日本全権大使としてポーツマス講和会議に臨んだ全権代表一行。 近代日本の分水嶺・日露戦争の講和交渉妥結に生命を燃焼させた彼らの姿が脳裏に浮かぶ。条約締結に至るまでの、各国の外交や諜報、会議での駆け引きや個人的信頼関係に由来するギリギリの折衝や暴徒による東京騒擾事件などについては、吉村 昭著「ポーツマスの旗」(新潮文庫)で読みながら歴史の流れに引き込まれたものである。
日露戦争と言えば、愛読書である司馬遼太郎著「坂の上の雲」をあげることができる。乃木大将や秋山兄弟の活躍により不落の旅順を陥落、無敵艦隊のバルチック艦隊を撃沈と勇ましい武勇伝しか出てこないが、その結末であるポーツマス講和条約では両国の痛み分けでおわり、当時の日本国民は納得しなかった。当時の軍部による情報公開や情報操作に踊らされた国民は敵国ロシアに圧勝したうえでの講和条約締結と信じ切っていたのである。 このような誤った情報操作は、大本営発表という形で、太平洋戦争終結まで続いたのである。誤った情報は、国民にとって悲劇であった。
戦費(外貨)調達
開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況であった。これは、 当時の世界中の投資家が、日本が敗北して資金が回収できないと判断したためである。 高橋是清は幾多の苦難を乗り越え、伝手を頼り帝政ロシアを敵視するアメリカのドイツ系ユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの知遇を得、ニューヨークの金融街から残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得した。1904年5月に鴨緑江会戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると国際市場で日本外債は安定し、N・M・ロスチャイルド&サンズとロチルド・フレールも参加している。
日本とロシアの間には、地理上朝鮮と中国(当時の清)がある。
さらに領土拡大、不凍港をねらって南下するロシア帝国と、そのロシアの勢力が日本列島に及ぶ前に朝鮮半島で阻止しようとする日本、そして、さらに植民地支配をアジアに広げようとするヨーロッパ各国、それぞれが自国の利害のもとに国際情勢を有利にしょうと三者が互いに画策していた。
すでに日本は、朝鮮半島の支配権を争い、1894年に「日清戦争」で清に勝利し、「下関条約」にて朝鮮の独立と台湾・遼東半島・澎湖諸島の割譲、さらに約3億1000万円の賠償金を認めさせたのだが、中国大陸への領土拡大の意欲を示すロシアのリードでドイツ・フランスによる「三国干渉」を受け、遼東半島を清に返還することになった。
ところが、その返還された遼東半島の旅順と大連をロシアが租借したことで、日本はロシアの策略に怒り、ロシアとの戦争に向けて準備を始めることになる。
1899年に清で起きた「義和団事件」を口実にロシアが南下し、満州に居座る。 ロシアの野心に日本をはじめ多くの国が危機感を強めた。
このような情勢の中で、1902年に「日英同盟」が締結。 中国大陸で日英双方の国益と朝鮮での日本の国益をお互いに守り、どちらかが攻撃された場合、相手国と戦争状態に突入するという条約を結ぶ。
弱小な新興国日本とは格の違う大国イギリスと締結されたこの同盟で得たヨーロッパからの信頼は、貧しい日本の戦費を作り出す国債を売るのに好都合であった。イギリスからのロシアに関する高い情報も入手できるようになり、ロシア国内への工作も活発に行われるようになった。
イギリスもまた、ロシアの南下によって中国での権益を侵されることを強く懸念していた。 イギリスとしては日本との同盟によってロシアを叩かせる意図も持っていたのである。
につづく