陸戦では、ロシアの誇るコサック兵と渡り合い、シベリア鉄道で送ってくる豊かな物資と兵隊を前に苦戦するが勝利する。しかしその勝利は多くの将兵の消耗によるもので、当時の司令官 乃木希典は熾烈な戦闘状況を憂い、次のような漢詩を詠んでいる。
ポーツマスの海風に当たりながら、そっと詩吟を口ずさみ、乃木将軍の苦悩をかみしめた。
<金州城下作> 乃木希典作
山川草木轉荒涼 山川草木(さんせんそうもく)轉(うたた)荒涼
十里風腥新戰場 十里 風腥(なまぐさ)し 新戰場
征馬不前人不語 征馬(せいば)前(すす)まず 人語らず
金州城外立斜陽 金州城外 斜陽に立つ
先にも少しふれたが、日本がロシアに対して国交断絶を通告(明治37年2月6日)し、両国が宣戦布告し、日露戦争の戦端が開かれた。日本の作戦計画は、戦費からみて短期決戦であったことはすでに述べた。 すなわち、戦略の主眼は短期間に華やかな成果を上げ、そのあとは外交でいう心理的契機をとらえて講和(和平)に持ち込むというのである。
ロシア側も日本軍を次のように分析していた。補給線が長くなり、食糧の補給もはかばかしくゆかなくなること、戦線ごとに兵力消耗し暫時衰弱していくこと、日本の国力はとぼしく長期戦にたえる戦力がないとみていたのである。ロシアは、日本軍に対して殲滅的打撃をあたえ、戦争に勝つと予想していた。
しかし、この時点で、日本の戦費も砲弾もほぼ底をつき、ロシア帝国も革命の機運により国政が荒れて戦争を続けるどころではなくなってきていた。日露両国の講和の条件が整ったのである。
余談だが、同志社ローバースカウト仲間である田中公郎君(旧姓 岩城)にポーツマスを訪問してきたことを告げたところ、ポーツマス条約の話しから日露戦争の講和条約へのターニングポイントになった日本海海戦の有名な東郷平八郎大将による開戦を知らせる「本日天気晴朗なれとも波高し」という電報の話しになった。打電は、自分の祖父 岩城富太郎であったというではないか。 その実話に驚くと共に、歴史の偶然を喜んだものである。
日露戦争で、なぜ日本はロシアに勝てたのか
日本帝国海軍の作戦として、まず旅順港に立てこもるロシア極東艦隊を壊滅させたうえで、バルチック艦隊を迎え撃つ方法をとる方法しかなかった。 日本は、戦費や、軍備において精一杯でのロシアへの挑戦であったのである。
日本の勝利への道は、戦略・戦術において短期決戦への思想の徹底と工夫にかかっていた。 大日本帝国の存亡を賭した戦いであるという覚悟を官民一体となって感じていたし、勝利以外に生存権はないという覚悟であった。 これに反して、大国ロシアは極東の小国 日本を過小評価しての日露戦争への取り組みであったことは否めない。
日本海海戦で、日本連合艦隊がバルチック艦隊に勝利を収めた要因は、長距離遠征艦隊であるバルチック艦隊の整備不良、士気低下、乗員の訓練習熟度の低さ、艦隊編成の不備、艦隊指揮官の経験の差、乗員の士気などがあげられる。
結局、ロシア艦隊は敗れるべくして敗れたといえる。
日露戦争における両国比較
日本 露国
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戦力 約300,000人 約500,000人 (陸海軍含む推定)
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戦死者 171,300人 42,600人 (戦死・戦傷死・病死含む)
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捕虜 1,800人 79,000人
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戦費総額 18億2629万円 未発表
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総動員兵力 1,090,000人 未発表
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日本海海戦参加艦艇数 99隻 39隻
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艦艇の整備状況 良好 大航海直後の不整備
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両国の戦力比 日本兵1.5~2.0人 ロシア兵1人 (ロシア側による戦力比較)
講和会議開催地としてのポーツマス
このような両国の戦争を終わらせるための講和条約締結を斡旋したのは、日本からの要請を受けた第26代アメリカ合衆国大統領、セオドア・ルーズベルトであった。当初、ワシントンDCを条約締結の場としたようだが、講和会議にアメリカが介入しているような印象を世界に与えることを避けるために選ばれたのが、ここニューハンプシャー州ポーツマスであった。
当時、ポーツマスには海軍基地があり、警備上、海軍工廠で講和会議がおこなわれることになった。 このことはポーツマスという無名の地方都市に世界の各地から多くの報道陣がおしかけ、一躍有名になった大事件でもあった。ルーズベルト大統領は、この条約締結の功労により、ノーベル平和賞を受賞している。
条約締結とポーツマス市民
日本全権大使小村寿太郎と、ロシア全権大使セルゲイ・ウィッテの両大使は、1905(明治38)年8月8日、船でポーツマスに到着した。全権大使一行は19発の祝砲とポーツマスの人々の熱烈な歓迎を受けながら、会議の開かれる海軍工廠の第86号の建物に入った。
会議は難航し、講和条約の締結が危ぶまれるなか、約1ヶ月後の9月5日、午後3時47分に調印された。ただし、条約締結にあたって日本は占領下にあった樺太の北半分をロシアに返還するとともに、賠償金の要求も放棄せざるを得なかった。 ロシアは敗戦を認めず、戦争継続をほのめかし、賠償金は一銭も支払わないと通告していたからである。
日露戦争の大勝利を伝える報道を信じていた日本国民は、このような条約締結の内容に激怒し、多くの人々が警察署や新聞社を襲った。 「日比谷焼打ち事件」を引き起こすほどであった。
当時、明治という時代は日本が欧米に呑み込まれ植民地になるか、主権を維持できるかの存亡の戦いであった。日露戦争は、日本近代化にあたって避けて通ることのできなかった最重要国策であった。
一方、締結が危ぶまれるなか、ポーツマス市民のサポートと多くの人々の外交努力がなされたことに注目したい。 しかし、113年後のアメリカ人、いやポーツマス市民の大多数の記憶から、ここポーツマスが日露講和条約締結の地であったことを知る人が少なくなっていることに寂しさを感じた。
宿泊先である、シェラトン・ポーツマス・ハーバーサイドSheratonPortsumauthHarborsideは、ダウンタウンのハーバサイドにあり、ホテルの前のマーケット・ストリートを南東に行けば、中心地マーケットスクエアーへは、約10分の近さである。
ホテルを出て、北側に流れるピスカタクワ川沿いの路地には、可愛いパブや小物の店などが立ち並び、ポーツマス・ハーバー・クルーズの発着所やポーツマスのシンボルであるTUGBOATS(タグボート)が舫われている。 その前に、シーフードが食べられる<OLD FERRY LANDING RESTAURANT>がある。 このあたりは、ポーツマスの古いハーバー(港)の雰囲気が一番漂っているロマンチク・エリアである。
ポーツマス港遊覧船発着所 ②
OLD FERRY LANDING RESTAURANT―Lobster ④
Tugboats からBow Streetに出て、メモリアル・ブリッジの方に進むとリバーサイド(川側)に宝石ギフト店や、数軒のレストランが続く。そのうちの一軒シーフードの店<SURFRestaurant>で夕食をとった。 新鮮な食材によるエビチリ、握り寿司の美味しさに驚嘆した。ぜひ訪れてみたいレストランである。
お奨め SURF Seafood Restaurant ⑤
BOW STREETを北東に進むと右手にセント・ジョーンズ・チャーチがあり、その石垣にはめ込まれたストーンに<WESTWORTH 1770> と刻まれている。 1770年のアメリカ、とくにボストンを中心にした東海岸は、1775年からのアメリカ独立戦争の前夜にあり、ポーツマスが古都であることがわかる。
石版のはめ込みがある1770年創立のセント・ジョーンズ教会⑥
その先に、メモリアル公園とプレスコット公園にはさまれて第一次大戦を記念したMEMORIAL BRIDGE(ピスカタクワ川)がBadger Island に向かって架かっている。二本の支柱間の橋桁を上下させて船の航行を助ける橋としての役目を担っている。 初代は1923年に建造されたとある。
1923架橋の第1次世界大戦のメモリアル・ブリッジ ⑦
ストロベリー・バンク博物館は、ポーツマスのダウンタウンの南東、メモリアル・ブリッジに隣接するプレスコット公園に向きあっている。この公園からピスカタクワ川の対岸にある日露戦争講和条約締結がもたれたポーツマス海軍工廠を望むことができる。 博物館のまわりには42の古い家屋が集められて並び、1630年ポーツマスがストロベリー・バンクと呼ばれていた時代に英国人が入植したポーツマスで一番古いエリアである。
メモリアル橋を後にして、Daniel Street をマーケット・ス久エアーに向かうと、すぐ左手に地元の人に人気のあるBreakfast & Lunch <GOLBY’S>がある。 長蛇の列に並んで順番を待った。 パティオのテーブルに席をとり、パンケーキとオムレツを注文。そのボリュームは住民の体格に合わせたように特大であり、その食欲には驚かされる。 庭であるパティオでブランチを楽しんだ。
Breakfast & Lunch <GOLBY’S>の看板が中央に見える ⑧
超巨大なパンケーキ
街のの中心マーケット・スクエアにあるポーツマス北教会にある
マーケットスケアーに集まるトランプ支持者 ⑩
ポーツマス北教会は、ポーツマスのランドマークであり、市街のどこからでも望見できる。 その前に日本全権団が行進したマーケットスケアーがある。この日は星条旗を掲げた大型バイクにまたがったトランプ大統領支持者による集会がもたれていた。
街の至る所に、イギリスからの移民たちが残した生活の跡が見受けられる。 1800年代に設置された「道標基準点」や消火栓、郵便ポストなど、まるでアンティーク・デコレーションとして街角に当時の輝きを残している。ポーツマスの街は、煉瓦造りの建物が立ち並ぶ、歴史を感じさせる落ち着いた街である。
1800年代の郵便ポスト ⑪ 1806年設置の道標基準点 ⑫
マーケットスケアーにある観光客向けのお土産屋さん ⑬ HAZEL- Oliveoil & Salt ⑭
1817年創設の「ポーツマス図書館」 ⑮ マーケットスケアーに面した⑯
と当時の消火栓(正面) 醸造所とジョッキーをかたどった看板
ポーツマスへの玄関口は、ボストンである。
帰路、ボストンに立寄り、米国建国当時の歴史ある街並みをダック・ツアー(DuckTours/水陸両用観光バス)で楽しんだ。 また名物のロブスターやクラムチャウダーを堪能した。
ボストンを走り回る水陸両用観光バス・ダックツアー
ロブスターを堪能したリーガル・シーフード ロブスターはニューイングランド地方の名物である
一方、ロシアは帝政ロシアの崩壊、レーニン指導の下でのプロレタリアートによる赤色革命によるソビエット連邦の樹立、国際共産主義の名のもとにおけるスターリンによる大虐殺、ベルリンの壁の崩壊にみられる赤色帝国の崩壊と、数奇の歴史的転換を味わうことになる。現在のロシアは、プーチンによる帝政ロシアの復活を狙っているのだから歴史は繰り返すようである。
歴史は、信念信条・宗教・思想の対立や、欲望・排他・人種・戦争の実験場としての繰返しを時系列に書きしるすだけなのだろうか。われわれは黙って歴史を見守るしかすべがないのであろうか。
いや、歴史を学ぶことにより人類の英知を集約し、相互理解と互助の時を迎えているように思えてならない。
歴史は一面、人間、国家による欲望の履歴かもしれない。
完