<潜伏キリシタンの里探訪 自転車巡礼にあたって 序章Ⅰ>
神を信じ、神に生かされ、神に感謝する小さな小石の一つにすぎない。
昭和56年に出版された遠藤周作著「沈黙」に出会ってから、キチジローにシンパシー(共感)を感じ、フェレイラ―
神父やロドリゴ神父に立ち返って、何度も「沈黙」を読み返し、おのれを省みたことである。
衝撃の出会い以来、いつの日かロドリゴ神父とガルプ神父がキチジローの案内で上陸した外海(そとめ)の漁村・トモギ村に立つことを夢みてきた。
その日が実現したのである。
「いったい神の沈黙はわたしたちに何を伝えているのだろうか」
暗闇におのれをおき、沈黙に対峙してみたいというシチュエーションを実現するため、自転車にテントを積み、リュックに「聖書」と「沈黙」をしのばせ、出かけてきた。
今回、巡礼のお供をし、サポートしてくれるのは、長きにわたってわたしの良き協力者であり、理解者である自転車・ワイルドローバー号である。
今回もまた、神は天地創造なる世界をわたしたちに賜った。
テントからみる朝焼け夕焼けは、けがれ無き純なるこころを現した神からの贈り物である。
<仲間、「星の巡礼」隊員昇天す>
生前の親交に感謝し、このブログを捧げるものである。
永生 死 <讃美歌472より>
そぼふる小雨のはるるも待たで
こずえにしぼめる花のすがたや
おもえばはかなし みじかき夜の
むすべどあとなき 夢路に似たり
ゆうかぜ過ぐれば みだれて落つる
小萩の葉ずえの つゆのいのちか
小川のほとりに 小松が丘に
ともども祈りし むかしこいしも
わが主はやすけく みちびきたまわん
<船友 小山昌一君昇天す>
鉄道マニアで、「青春18きっぷ」をこよなく愛し、駅弁をほおばりながら車窓から大自然を楽しんだジェントルマン、タキシードがよく似合う貴公子であり、世界一周船旅の友であった小山昌一君。笑顔がすばらしい友であり、志賀の里・孤庵にも足をのばしよく夢を語り、過ぎさりし日の青春話に、血潮を燃えたたせたものである。ミヤンマー(旧ビルマ)のアラカン山脈に連なる白骨街道(太平洋戦争におけるインパール作戦撤退路)を共に縦走(写真同行)した飯盒の友である。
長きにわたる闘病の末、この旅の直前に天に召されていたことを帰宅後、奥さまより知らされた。愛語にむすばれた友情に対し、潜伏キリシタンの里に広がる聖なる大自然と、人の一生を語る「葉っぱのフレディー」を贈り哀悼の意を捧げたい。
君、滔々と流れ往きてー
「 岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと 水は流れる」
いついつまでも、清く美しい星の王子様として 星空に輝きしや 實久
<弥次喜多コンビ 田中祥介君帰天す>
同志社ローバースカウトの大切な仲間であり、彼もまた列車時刻表を愛読し、駅弁をこよなく愛した鉄道マニアであった。同志社ローバー創立50年記念 「中山道てくてく弥次喜多道中」をはじめとして、多くの「星の巡礼」に写真同行した仲間であり、隊員の一人である。
天地創造―天草海中公園の絶景(大ケ瀬の夕陽)
天地創造―外海(そとめ)の夕焼け
<水溜り―魂の世界への門>
朝早く、外海の集落を覆う森の中を散歩していると、夜明け前に降った慈雨が窪みにたまり、光を放っている。
水溜りの放つ色彩のない光りに導かれ、のぞみこむと、白雲が地の底一面に広がっている。
それも、すいこまれるような天の広がりである。
魂の世界を覗きこんでいる自分の前に、魂の世界への門が開かれているではないか。
地なる奥の世界に、静かなる雲が見下ろす碧き天の底に悠々と流れている姿は、魂の世界へと誘う。
水溜り、いや水といえば精霊の宿る水、洗礼の水、聖水などと・・・神とのつながりをもちながら、水はこの世のほとんどのものに存在する。すなわち水はあらゆる水脈によってそれぞれがつながりあっているのである。
樹木の中を流れる水の音しかり、水に宿る精霊しかり、水に潜っての耳鳴りや、母の胎内音と、水は天と地と命をつなぐゲートでもある。
<沈黙>
ひとが苦しみながら何かにすがりたい、赦しを乞いたいと願うが、神はただ沈黙を守り、静かに見守っている。
いつもわたしたちの側にいて、にこやかに接してくれる神とははっきりと異なる姿をみせることがある。
その神の沈黙は、水溜りの奥に深く沈んでいる灰色の天から静かにわれわれを見つめているような気がしてならない。
あなたは何を求めているのか、あなたはどうしてほしいのか、神は問いかけながらただただじっと息をひそめ、沈黙を守っているのである。
わたしに与えられたテーマ、ここ地球という星での巡礼もいよいよ終わりに近づいているようである。
これからは、神から預かった肉体での巡礼から、神からあたえられた魂の巡礼に移していくことにこころしたいと思っている。
今回の「潜伏キリシタンの里探訪」という巡礼は、魂への確かな「巡礼門」でもある。
神の沈黙にもかかわらず、神に救いを求める人間の苦しみ、葛藤、望みに触れ、救いなき魂に何がしかの光があてられ、触れさせてもらえれば幸いである。
―蝶は神の化身、死者は蝶に化身して帰還という説―
あたかも天使のように空を舞い、花から花へ飛翔しながら語りかけ、導いてくれる蝶がいた。
それも、全行程630kmの自転車走行中に場所を変え、何度もも出会ったのだから、この黒い蝶に親しみと霊的なつながりを感じた。
いつしか、再会を期待するようになった。そして蝶は、何かを伝えにやってきたのではないかと考えるようになった。
蝶の化身、神との出会いが頭の中を駆け巡りはじめた。
蝶は神の化身であり、死者は蝶に化身して帰還する
蝶は霊魂・不死・復活の象徴である
大きな体は真っ黒で、後翅に白い斑紋がある。
帰宅して調べて分かったことだが、モンキアゲハ(紋黄揚羽)といい、日本産全種の中でも王者の風格を持ち、オスは日本で一番大きい蝶だということも分かった。
真っ黒な羽に、ふたつの真っ白な斑紋をもつ蝶・モンキアゲハは、病床にあり、写真参加していた友人たちが、蝶の化身になって帰還の挨拶にやってきてくれたのではないかとも思うようになった。
そう、殉教キリシタンのみなさんと二人の友の死に対し、共感・共鳴そして悔やみを共有し、交感していることに、深い霊との交わりを感じる蝶との出会いであった。
「面(向)わずして愛語を聞くは、肝に銘じ、魂に銘ず。 愛語よく回天の力あるを学すべきなり」、道元禅師の言葉をかみしめた。
感謝である。
外海・黒崎集落付近にて 生月・壱部集落付近にて
<潜伏キリシタンの里探訪 自転車巡礼にあたって 序章Ⅱ>
につづく