『びわ湖冬景色―近江の歴史をたどる老人自転車ひとり旅』 ③
―坂本の街―
坂本の街は、比叡山延暦寺や日吉大社の門前町として栄えた。 また、光秀の坂本城はじめ、信長の安土城など全国の戦国武将が好んで採用した野積みによる築城壁を生業とする集団・穴太(あのう)衆のふるさとでもある。
<穴太衆の野積みのふるさと>
今でも、坂本の南に隣接して穴太(あのう)の地名が残っている。この穴太集落には6~7世紀の朝鮮半島のオンドル遺構が数多く残っている。
「穴太衆の石積み」の技法は渡来人によって持たされたものである。
信長も安土城を築城するにあたり、穴太衆に堅固で美麗な城壁を造らせた。
これを機に、全国の戦国武将に知れ渡り、穴太衆による築城壁が多く残されたようである。
近くでは、日本のマチュピッチュとか天空の城ともいわれる竹田城址で見られる。
しかしマチュピッチュや近くのクスコで見られる石積み技法とは根本的に相違がある。穴太衆の野積み、乱積みにたいしてインカの石積み技法は、隙間のない幾何学を駆使した積み方であり、クスコ訪問時その緻密さに感嘆したものである。
穴太衆の野積み(坂本)
<近江の城郭>
ていた。
また、西近江の高島にある大溝城は、湖西・北陸の備えとして織田信澄(信長の甥)に築城させ
ている。
その信長の着眼点は、びわ湖の東西流通の重要性と、大量の物資や兵員を輸送できる船運の優位性にあった。
各城郭の詳細は、ビワイチ・ルート上で案内していきたい。
である。
水城であった。
光秀は坂本城から湖岸沿いに、信長は船団を組み湖水から湖西地方を征していった。
その中の一つに、わたしが住んでいる木戸にあった木戸城も攻略されていることは先にも述べた。
しかし、その後、光秀は信長の命に背いて中国攻めに向わず、本能寺に信長を火攻めにし、謀反を起こす。 追討した秀吉との山崎の戦に敗れて坂本城へ逃れる際、京都伏見深草の竹藪で土地の農民の竹槍で打ち取られた。
坂本城は、時の権力者によって数奇の運命をたどるのである。
<唐崎神社内にある老松> (大津市唐崎1丁目)
一つ<唐崎の夜雨>の老松があり、その景観は、天下の名勝としてしばしば安藤広重らの浮世絵などにも取り上げられてきた。
現在の松は三代目で樹齢約100年、大正10年に枯れ死した二代目を引き継いでいるという。
②広重筆 <浮世絵・近江八景―唐崎夜雨>
(からさきのやう) 唐崎/大津市
<夜の雨に 音をゆづりて 夕風を よそにそだてる 唐崎の松 ― 広重>
―大津の街―
チェックポイントのある大津港に出る。
<三井寺の晩鐘>
広重の浮世絵でも、近江八景「三井の晩鐘」として描かれている。
前の低い山並みが長良山であり、背景の高い山が比叡山であろう。
山々に響く鐘の音が聴こえてくるような情景が描かれ、わたしの好きな構図・彩色である。
③広重筆<近江八景―三井晩鐘>
<思うその 暁ちぎる はじめとぞ まづきく三井の 入あひの声 ―広重>
<琵琶湖疏水>
復興のシンボルとして提案された。
京都の飲料水や、工業用水をまかない、さらに水力発電により、市電を走らせたり京都の繁栄に
寄与している。
また昭和の20年代まで、水運の水路として観光船や舟による物資の輸送を担っていたが、鉄道の整備が整うとともに衰退、その姿を消していった。
壮大な夢を実現した明治の人々に、果てしなきロマンを感じるのである。
<チェックポイント―大津港> WC/水補給
びわ湖周航の観光船の拠点である大津港向って右側の建物の一階にある総合案内所のガラス戸
前に<びわイチ>チェックポイントのクイズがある。
チェックポイント <大津港>
<大津城>
大津城は、京の外堀としてのびわ湖の水運、特に膨大な集荷・出荷の保管とチェックを主たる目的で築城した城である。
津田三蔵巡査がサーベルで頭部に切りつけた「大津事件」の発端となった場所である。
当時ロシアは強大国で、日本は近代国家として発足したばかりで弱小国のため、国民を不安の
どん底におとしいれた。
大国ロシアを恐れた松方内閣は皇室に対する大逆罪を適用し、死刑を画策。しかし大津地裁で
ニコラス皇太子は、大津事件の三年後(1894年)、父・ロシア皇帝の死によって、ニコラス二世として帝位に就く。しかし、この時すでにロシア革命の炎はロシア全土に徐々に広がっていた。ニコラスは50才にしてボルシェブイキ(マルクス主義者によるソ連共産党の前身)の手で殺され、ロシア最後の皇帝となった。
津田三蔵巡査は、ロシア皇太子の来遊を見物旅行ではなく、他日東亜を蚕食しようとする野望の下にある軍事的偵察であるとし、またロシアの勢力が朝鮮におよび日本を威嚇するという恐露思想の持ち主であったという。
露国皇太子遭難の地碑
皇帝 ニコラス二世 津田三蔵巡査
『びわ湖冬景色―近江の歴史をたどる老人自転車ひとり旅』 ④