shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2021星の巡礼『 いざ天王山! 山崎合戦跡を歩く 』

2021星の巡礼『 いざ天王山! 山崎合戦跡を歩く 』

 

<本能寺後の明智光秀 と 三日天下>

先に、明智光秀の最期の敗走ルートを歩いてみたが、その孤独な最期は京都山科小栗栖の「明智藪」で終わっている。 いま明智光秀の敗走の地となった山崎合戦場跡をながめる天王山(山崎城跡)に立って、その原因となった<本能寺の変>後の光秀の足跡を見ておきたい。

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         天下の分け目 天王山(山崎城址)(標高280m)山頂にて

 

ここでも、明智光秀を中心に天王山「山崎合戦」を眺めたい。

 

まず、本能寺の変や、山崎合戦の短時間での勝敗に驚かされるのである。

本能寺の変は、6月2日の早朝4時からの4時間で信長を自刃させ、本能寺を制圧。

山崎合戦は、6月13日の夕方4時半から秀吉軍との戦闘開始、秀吉軍の淀川沿いからの後方攪乱により光秀軍総崩れとなり、夕方7時には勝竜寺城への敗退となり、約2時間半の戦闘での秀吉軍の勝利で終わっている。

 

本能寺の変で、光秀と重臣達は「信長を討伐、天下の主となるべき調儀」を練ったあと、たてまえは上洛中の家康訪問ということで老ノ坂を越え、京都沓掛の備中高松城と京への分岐にいたる。

ここ沓掛の分岐ではじめて全軍に向かって「敵は本能寺にあり」と宣言。その後、約4時間の戦闘で、信長を自刃に追い込み、本能寺を灰燼に帰し、首級を上げられないまま制圧を終える。

また別動隊は、二条城にいた信長嫡男である信忠をも討ち取っている。

 

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               楊斎延一作 <本能寺の変>    (東建コーポレーション提供

 

本能寺の変後、光秀は主君を討った謀反人というレッテルを貼られ、盟友たちに天下取りへ誘うが、ほとんど断られている。その間に主君の仇討と勢いづく秀吉の「中国大返し」の尼崎通過を、本能寺変後の近江平定に力を裂いていた光秀が聴くのは「山崎合戦」の3日前の6月10日である。

ここでもたった3日間で光秀直属軍16000は、十分な兵力や装備など追加の戦闘準備を整える間もなく秀吉軍40000との山崎合戦を迎える。

 

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                歌川貞秀作 「山崎大合戦之図」    (東建コーポレーション提供)

 

戦闘開始から約3時間後の19時に勝竜寺城に撤退、そのまた数時間後には近臣数名と夜陰にまぎれて明智家本拠であり、家族のいる坂本城に向かって敗走し、またその数時間後の 6月14日未明に京都山科小栗栖の竹藪(光秀最期の地「明智藪」)で、地元百姓の武者狩りの槍に刺され傷つき、自刃の後、家来に首を斬らせている。

 

光秀最期の11日間の何と短いことか。歴史の節目の大切な時間を、光秀は己を見失ったように駆け抜けていることに驚くのである。

 

山崎合戦の戦場跡に立っても、その戦略なき戦術に光秀の狼狽ぶりを見るとともに、孤独な武将の想い通りにはいかない焦りを感じるのである。

 

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               小国碇 作「小栗栖之露」    (大山崎町歴史資料館提供)

 

光秀の無策や盟友の離反からか、すべての作戦にあたって短時間での決着を見ており、特に決起から自刃までの短期間をもって「三日天下」といわれている。

 

<天王山からの眺め>

天王山への登山路は<秀吉の道>ハイキングコースになっている。 秀吉軍のシンボルである千成瓢箪を掲げて見方を鼓舞したといわれる<旗立て松>から、山崎合戦跡の隘路を形成している大山崎の地形を見下ろしながら、光秀と秀吉のそれぞれの想いに馳せてみた。

 

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       天王山ハイキングコースにある<旗立て松>より<山崎合戦場>を眺める

        

       写真解説 : 左から右へ走る京都縦貫自動車道(手前)と交わる名神高速道路の

              大山崎インターチェンジ辺りが<山崎古戦場跡>である。

              京都縦貫に沿って流れる<小泉川>を挟んで両軍は対峙した。

              小泉川より奥(北東)に光秀軍、手前(南西)に秀吉軍が布陣した

              写真右端に三川合流点があり、大山崎が突き出て、隘路を形成している。

              ここ天王山から写真左端に伏見桃山城が望遠でき、

              その背後に光秀 最期の地・山科小栗栖<明智藪>がある。

 

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               天王山中腹にある「旗立ての松」 

 

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        古戦場を一望できる旗立松展望台に建つ<山崎合戦之地>石碑

 

 

振り返ってみて、光秀はなぜ死に急いだのか。

実直であり、慎重な光秀を「本能寺の変」、それに続く「山崎合戦」を決意させ、戦略なき作戦とみられる事変を実行させたのか。

本能寺の変」に先立って、愛宕山に参詣、必勝祈願をし、直前まで決められなかった謀反・主君殺しに対する迷いを払しょくするためにおみくじを三度もやり直し、大吉が出るまで引いたとも言い伝えられている。

 

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            大岩山(小栗栖-光秀最期の地)より愛宕山(中央)を望む

 

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          大岩山(小栗栖)より見る伏見桃山城(中央)の背後に天王山があり、

          ここ大岩山を背後に下った小栗栖に、光秀最期の地<明智藪>がある。

 

 

誰が見ても勝ち戦は見込めない一連の流れや、光秀本人が一番理解していた謀反に対する自己嫌悪があったにもかかわらず、なぜ最後の手段に訴えたのであろうか。

諸説が言い伝えられているように、そのすべてに悩み苦しんでいた光秀だとしても、光秀が己を少しでも見失っていなければ、己を押さえることのできる聡明な考えに従っていたと思うからである。

そこで考えられるのは幻覚と妄想というこころの病に侵されていたのではないかとの説を考えてみたい。

 

<レビー小体認知症説>

まず考えられるのは55歳という初老の光秀は、すでに幻覚と妄想を引き起こし、臭覚のマヒに侵されるレビー小体認知症にかかっていたのではなかったか、という説である。

光秀は、すでに幻覚の中で天下取りの自分に出会って、その気になっていたのではなかろうか。妄想はさらに、天下人となった自分を信長の立場に置き換えて、己の描く世を強く願っていたかもしれない。

また、レビー小体認知症にも見られるように、幻覚と妄想から覚めた自分との乖離に心身ともに疲労困憊していたとも思われる。

さらに追い打ちをかけるように、安土城での家康接待役での、腐った魚を出して信長に打擲・罵倒される仕打ちにあったことへの怨恨へと続いていったのではないだろうか。

さらに、光秀のレビー小体認知症の症状を悪化させるように、信長の丹波および近江坂本の領地を召し上げ、まだ敵国であった出雲・岩見への領地替えや、備前高松城攻めの総大将秀吉の配下としての下知など、光秀の自尊心や、服従心に疑問を投げかける命令が続いていた。

光秀はそれら信長からの不信感に耐えられなかったとみる。

本能寺の変前に、光秀はおのれの限界を押さえられなくなって暴走したといえる。

そこで考えられるのは幻覚と妄想というこころの病に侵されていたのではないかとの説を考えてみた。

 

<光秀の盟友たちの離反>

このような光秀の症状や苦悩を、光秀に近かった細川藤孝筒井順慶らは気づいていたのであろう。さらに彼らは、光秀の性格からして、天下人にはなりえないことを誰よりもよく認識していたといえる。現実に、彼らは光秀の期待に応えることなく、それぞれ理由をつけて光秀に与することはなかった。

本能寺の変後、すでに光秀から人心が離れ、光秀は裸の王様になっていたといえる。

 

細川藤孝は、光秀が長年にわたって親交を温め、互いに助け合ってきた盟友であり、娘たま(細川ガラシャ)を嫡男忠興に嫁がせるほどの仲であり、両家の結びつきは深かった。

婚姻関係は、互いの同盟関係であったはずである。光秀は間違いなく細川親子は自分の味方だと信じていたといえる。

しかし、細川藤孝・忠興親子が、光秀の本能寺の変後、髷を落してみずから蟄居したことを知って、光秀は三ケ条の覚書を送り、自分には今回の行動に私利私欲はなく、天下を狙ったものではないとのニュアンスを伝え、今後とも友情を深め、味方になって欲しいとの書状を送っている。

また領地に希望があれば申し出て欲しいとのことや、近国を固めたあとは隠居するつもりだとの内容を添えている。

盟友・細川藤孝のこころは、すでに本能寺の変の前に光秀から離れていたといっていい。

 

一方、同じく盟友であった筒井順慶の「洞ケ峠の日和見」は有名である。洞ケ峠は、京都八幡にある男山の南に続く峠である。

天王山「山崎合戦」前、男山に本陣を構える計画であった光秀は、その足で-みずから順慶軍が集結して、日和見を決め込んでいた洞ケ峠に出向き、半日かけて順慶を説得している。しかし順慶は、信長によって規定されていた大和の与力衆の意見に従って秀吉に与し、洞ヶ峠より兵を引いたのである。

振り返ってみると、光秀が最初に陣を張ろうとした八幡男山の後方にある洞ヶ峠に筒井順慶軍もまたすでに駈けつけていたのである。その後、光秀は秀吉軍の規模の大きさに対処するため、順慶の説得を諦め、男山の陣から山崎の平野部に本陣を移動させてしまっている。この時、筒井順慶の光秀離反は決定的になったのではないだろうか。

また順慶は、洞ヶ峠より見下ろした両軍の陣の優劣や、兵力の配置状況や、攻防の推移をも想像できたと思われる。

百歩譲っても筒井順慶は、光秀の恩に報いて、ただ一人でも光秀軍に参加してもよかったはずである。だが、順慶が光秀に与しなかったのは、先に述べた主君殺し・謀反という世間の光秀観に恐れをなしたともいえる。

 

しかし見事な盟友たちの離反である。賢明な光秀がいかに滑稽な役を演じたのか、最大のライバルである秀吉のその後の天下人への実績をみれば納得できる。

また、光秀を三日天下に終わらせてしまった秀吉の凄さがうかがえる。

当時、山崎合戦場を見下ろせたであろう天王山の山頂、山崎城跡に立って光秀の盟友たちにしばし想いをはせた。

 

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      天王山中腹より三川合流点越えに見える光秀本陣候補地であった男山(八幡)

     男山右手に下ったところに「洞ケ峠の日和見」といわれる筒井順慶終結地がある

 

 

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       明智光秀          細川藤孝            筒井順慶

 

<地の不利>

山崎の合戦跡に、戦いの始まった午後4時半ごろに天王山(標高280m)に登ってみた。西陽を背にしてみる山崎の平野部の目標物すべてがくっきり浮かび上がり、動きを正確に把握観察できる高さにある。

逃げ込める勝竜寺城を背に、陣をひいた光秀軍は、初戦から敗走の陣をひき、弱小軍のイメージを植え付けている。なぜ、奇襲奇策を練らず正面からの戦いを挑んだのであろうか。

光秀軍は、40000に近い秀吉の大軍を迎撃する戦略陣形ではないということである。

 

先述したが、光秀は当初、淀川対岸にある八幡、男山に陣を置こうとしたようである。

敵の天王山に対し、光秀は八幡の男山になぜ陣を残さなかったのであろうか。 秀吉側の大軍に抗しきれないと判断し、急遽山崎の平野部に本陣を移したというが、戦術的に敵の背後をつくと見せかける奇襲攻撃のための遊軍を男山に残さなかったのは光秀らしくない。

 

一方、秀吉の本陣や陣形は、天王山や太陽を背に、隘路付近を押さえ、万全の布陣であることが、天王山に立つとその地形的優勢がわかる。

文献によると、合戦の日は曇天で、前夜に降った雨で平野部にあった大きな沼付近の湿地帯はさらにぬかるんで足をとられたようである。

秀吉軍は、沼と淀川のわずかな地続きを突破し、光秀軍の側面、背後をついた時点で、光秀軍は浮足たち始めたと陶板絵図は語っている。秀吉軍の攻撃に、絵図の左側の光秀軍は後方にある勝竜寺めがけて敗走を始めているように描かれている。

 

地の利からしても、秀吉軍の有利が一目瞭然で、光秀軍は不利であることが判然としている。

 

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North         天下分かれ目の山崎合戦絵図  <天王山>          South                       (絵図は西から東を向いて描かれている。絵図をクリックすると拡大絵図になる。)

     

       絵図解説天正10(1582)年6月13日午後4時半ごろ、天王山と淀川の

            わずか200mの隘路から出てくるは秀吉軍を各個撃破する

            光秀軍の作戦が開始された。

            合戦が始まって1時間後に、秀吉は本陣を宝積寺より天王山の

            東(右端上)に移している。

            光秀の本陣は絵図左手に構え、後方の小畑川と前方の小泉川に

            挟まれている。

            また永荒沼の周りの湿地帯を戦場に選んでいるところに光秀軍の

            戦術をうかがい知ることが出来る。大軍を沼地に引き入れ討つ

            戦法と言えようか。

                 秀吉軍は、大山崎の村からと、淀川沿いに駆け抜けて光秀軍の

                 側面と背後に廻って攻勢をかけている絵図となっている。

                 合戦開始から1時間後のこの絵図でもわかるように光秀軍の一部

                 は、すでに勝竜寺城方面に向かって敗走を始めている。

                 山崎合戦は、午後7時ごろ秀吉軍の勝利で終了している。

                 約2時間半という短時間決着となった。

 

 

反対に、光秀側の各本陣にも立ってみた。天王山方面は、曇っていたにせよ西陽の明るさにより山をはじめ敵側が灰色に染まり眺望が一段と暗さを増していた。

 

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        山崎合戦場跡から天王山を望む          石柱碑<天下分け目の天王山 

                                                                                                                                         山崎合戦場跡>

 

 

午後5時頃の夕暮れの迫った合戦場(写真左)、光秀側より秀吉側を見た時の眺望、敵の動きが見えにくいことが分かる。写真中央に天王山を背景に石柱碑<天下分け目の天王山 山崎合戦場跡>が建っている。 (天王山夢ほたる公園にて)

 

山崎合戦や明智光秀本陣跡、光秀が坂本城へ敗走する途中に立寄った勝竜寺城について、大山崎教委員会と長岡京市の解説案内文を参考に載せておきたい。

特に、光秀本陣跡の地理的位置は特定されておらないので、大山崎町の「明智光秀本陣跡-境野1号墳」と、長岡京市の「明智光秀本陣跡―恵解山古墳」の2説を載せておく。

 

               <天下分け目の天王山 山崎合戦>

     「織田信長の天下統一は目前に迫っていた。天正10(1582)年6月2日、毛利攻めの

                  総仕上げに向かうため京・本能寺にあった信長を亀山城主で家臣の明智光秀が急襲した

     のである。

     手勢僅かの信長は紅蓮の炎の中で亡くなってしまう。世に言う「本能寺の変」の勃発である。                          この変によって光秀はポスト信長の最右翼に躍進した。

     3日「信長死す」の知らせは備中高松城で毛利の先鋒清水宗治軍と対峙していた羽柴秀吉

     元にも届く。秀吉は黒田官兵衛の進言により戦いを納めるため毛利との講和を急いだ。

     城主の切腹、開城を条件に講和を固めることが出来た。

     毛利の主力が引き上げるのを確認すると、世にいう「中国大返し」の始まりである。

     1日に50キロ以上を移動し京へ向けて突き進んだ。

     一方光秀は、京周辺の武将に同心,合力を求め書状を送るも応じる武将は少なく、

     娘が嫁いだ丹後の細川藤孝、忠興父子にも見放されてしまった。

     12日羽柴軍は摂津富田に進行。 光秀は京から桂川を渡り、長岡・勝竜寺城付近に主力を展開

     した。

     13日午後4時頃、大山崎荘の町場外れを流れる円明寺川(現小泉川)を挟んで羽柴軍36000,

          光秀軍15000の軍勢が対峙した。

                 そして午後4時30分頃合戦の火ぶたが切って落とされる。高山右近中川清秀池田恒興等摂津

                 に いる主要な武将を味方につけた秀吉軍は一方的に攻め、わずか1時間余りで勝利を収めた。

                 大山崎の住人は合戦に巻き込まれることなく住んだことに安堵したことであろう。

                勝利した秀吉は天王山頂から山麓に山崎城を築城し、大山崎から天下統一を目指すことになる。」                                                                                                                                         大山崎町教育委員会

 

    明智光秀本陣跡-境野1号墳>

     「境野1号墳は天正10(1582)年6月13日夕刻に起こった天下分け目の天王山<山崎合戦>

     の時、明智光秀の本陣が置かれた場所ではないかと考えられている。

     <太閤記>の記述に御坊塚に光秀本陣が置かれ、兵力は五千有余とあり、当時周辺の地形を考慮

     すると、当古墳上が本陣に利用されたものと考えられている。

     古墳のある場所は標高25.2mを測り、周辺に比べるとひと際高く、天王山や西国街道方向に

     視界がひらける。羽柴秀吉の軍勢と対峙し、味方の軍勢を把握して指揮するのにうってつけの

     場所が、本古墳であったと云える。

     合戦は圧倒的な兵力を誇る秀吉軍の勝利に終わる。光秀はわずかばかりの手勢を伴い勝竜寺城

     から近江坂本城に向かう途上、山科小栗栖で落ち武者狩りの村人の手にかかり、無念の最期を

     遂げたといわれる。」                        大山崎町境域委員会)

 

    

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                光秀本陣跡(推定)<境野1号墳> 

    

    

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           <境野1号墳>隣接の墓地から天王山を望む

 

    <明智光秀本陣跡―恵解山古墳>(いげのやまこふん)

     織田信長明智光秀に倒された本能寺の変の直後、羽柴(豊臣)秀吉と光秀が激突した

      山崎合戦 は、あまりにも有名であるが、恵解山古墳も、この戦いの舞台ともなった

      可能性がある。

      発掘調査で、当時の土器片とともに火縄銃の鉛弾が出土している。また、後円部にある

      現在の墓地が棚田状に3段になっていることや、前方部に大きな掘り込みがあることも、

      光秀方が恵解山古墳に陣をおいた際の造作である可能性がある。」 

                                  長岡京市教育委員会

     

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                光秀本陣跡(恵解山古墳)

 

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             光秀本陣跡(恵解山古墳から天王山を望む              

 

     

<秀吉軍本陣跡>

秀吉軍本陣はそれぞれの役割に従って3か所あったと推測される。

中国大返しの時に秀吉が入った兵站総合指令所としての本陣<高槻・上宮八幡宮>と、

合戦総合指令所としての本陣・天王山麓にある<宝積寺>、

そして前線本陣として<大山崎瓦窯跡>付近に設けられたと推察される。

 

     

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左: 高槻・上宮八幡宮境内にある<山崎合戦秀吉本陣跡>石柱

                右: 天王山麓にある<宝積寺>に秀吉本陣があったともいわれている

 

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           秀吉軍合戦場最前線本陣跡と推測される<大山崎瓦窯跡>

          (当初予定された光秀軍本陣 男山(八幡)が正面に見える)

 

 

<戦闘開始時間の疑問>

なぜ、朝早くの戦闘開始ではなく、夕方近くの戦闘になったのであろうか。ここにも光秀の誤算があったような気がする。多分秀吉側の理由に、光秀側が巻き込められて夕方からの戦闘開始になったのではなかろうか。光秀軍は、兵力の大差、主君殺しの天下取りという謀反軍という心理が働き、すでに戦いへの意欲が薄れていたように思える。

 

次に、山側の陣地と、平野部の陣地では戦の仕方、難易が違ってくるのも当然である。

光秀側の事情は、本能寺の変後の味方してくれるはずの武将が動かなかったことにより、秀吉軍の約40000の兵に正攻法での対峙が出来なかったといえる。。

故に、高地の男山をあきらめ、<大山崎>の地の利である隘路から進出攻撃してくる敵を各個撃破する作戦に切りかえ、山崎の平野部にある隘路出口で待ち伏せする作戦をとったようである。

しかし、当日の天気にもよるが、湿地帯の泥濘に足をとられたにせよ、相手の勢いに押された光秀軍は勝龍寺城への敗走が続き、その日の夕刻7時頃には勝負がついたとある。

 

  <山崎合戦 と 勝龍寺城

   「元亀2年(1571)には、織田信長の意向を受け、細川藤孝によって大きく改造された。

    藤孝在城時の勝龍寺城は、小畑川・犬川に挟まれ神足と勝龍寺の集落を含む、いわゆる

    惣構の城郭として評価されている。

    天正10年(1582)6月2日、本能寺で織田信長を討った明智光秀は、同6月13日に、

    山崎合戦で羽柴秀吉と戦う。主戦場は山崎から勝龍寺城の間一帯で、天王山を奪い

    合う戦いではなかった。

    一部の軍記物語には、光秀は「おんぼう(御坊)塚」に本陣を置いたとあり、

    これについては恵解山古墳(長岡京市)と境野1号墳(大山崎町)の2説がある。

    戦いに敗れた光秀は、いったん勝龍寺城へ逃げ込み、夜中に城を脱出して居城の

    坂本城大津市)を目指した。しかし、途中の山科・上醍醐付近で落ち武者狩りに

    遭い命を落としたという。

    寛文5年(1665)の絵図には、小泉川を挟んで対峙する両軍の陣が描かれている。」

                         長岡京市の案内板より一部抜粋)

 

   

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                      山崎合戦布陣図       (長岡京市教育委員会提供)

 

では、次に光秀をとりまく不利とされる所説を見ておきたい。

 

<民の不利>

地の利でみたように、天王山と三川合流点(桂川宇治川・木津川が合流し、ここ大山崎から淀川となって大阪湾に注ぐ)の間の200mほどの隘路の大山崎(大きい山が突き出ている先)には、当時すでに現在と同じく商家や旅籠、人足や馬屋などが密集した河川陸上の交わる宿場があり、ロジスティックの中心であった。

信長も大山崎の地の利を最大限に生かし、商売繁盛に力を貸していたのである。大山崎の商売は信長という天下布武をまっしぐらに突き進んでいた武将によって守られていたといっていい。

その証として、信長は大山崎の町衆にお墨付きとして<禁制>(きんぜい・戦火より町を守るという一種の誓約書)を発行していたのである。

天王山の山崎の合戦でも、町衆は信長発行の<禁制>の実行を光秀にせまり、光秀からも山崎の合戦から町を守るという一種の誓約書をとっていたようである。結局、この隘路(大山崎の街の密集地帯)においての秀吉軍の各個撃破も曖昧となり、秀吉軍に容易に隘路突破を許したようである。

秀吉軍は、主君の発行した<禁制>をうまく利用したのと、町衆の信長寄りの姿勢に助けられ、光秀軍の隘路作戦を打ち砕き、早い段階で勝敗は決していたといえる。

 

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           織田信長禁制(東寺国境)が大山崎の油座にも発行されていた

 

信長の天下布武の捺印が押された同じ「禁制」が大山崎村の油座にも発行されおり、光秀は大山崎を戦いに巻き込むが出来なかった。反対に、主君信長の仇討を掲げる秀吉は大山崎の村をなんなく駆け抜け、光秀軍の側面と背後を突いている。

 

<時の不利>

なぜ光秀は、備中高松城攻略の加勢のため京都滞在中の信長を、この時期に討ったのであろうか。信長の天下布武邁進の絶頂期にである。

商売(楽市楽座)繁盛政策をも推し進めていた時期、信長の天下統一が見えていたにもかかわらずにである。

不思議であり、理解しがたい所がある。

もちろん、8歳ほども年下であり、それも55歳にもなった己を足蹴にし、折檻するなど、どうにも我慢が出来なかったのであろうが、いや、光秀にはそれに耐えられる教養と己を律する修養を長年積んできたはずである。

光秀は教養人であり、朱子学儒教思想論語を学び、主君への絶対的服従や道徳や倫理という価値観を誰よりも身に付けていたはずである。

その光秀が、本能寺の変で信長を自刃に追い込み、<主君殺し・謀反人>というレッテルを背負ってまで、何に対して忠誠を誓ったのであろうか。

戦国時代の主君殺しは、それ自体下剋上だとしても、正当化しない世論が形成されていたともいえる。

山崎の天下分かれ目の戦いでも、<主君殺し>により、味方であるはずの武将が離れ、庶民の味方をも敵に回してしまった光秀は、この山崎の合戦を聖戦と考えていたであろうか。

そこには光秀の戸惑いと、自責の念と不安が渦巻いていたように思えてならない。

 

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             織田信長が加納に掲げた制札 (円徳寺所蔵文書より)

          (札中ほどに、<一、楽市楽座之上、諸商売すべき事、>とある)

 

 

<噂の不利>

そこまで追い込んだものは一体何だったのだろうか。

多くの説が取り上げられているが、実母に対する信長の仕打ちや安土城での接待への信長の不機嫌に対する<怨恨説>、天皇や公卿による朝廷側の<そそのかし説>、ノイローゼ説、認知症説、二重人格説、天下取りの<野望説>や将軍義昭による<陰謀説>、秀吉が天下取りのために仕組んだ<黒幕説>のほか諸説がある。

最近では、安土城での家康接待にあたって、腐ったものを宴席に出したと怒って信長が光秀を打擲したのを受けて、光秀はレビー小体型認知症であるうつ症状や匂いに対する認知機能が低下していたのではないかという説まで出てきた。

かかる多くの説の言い伝えにより、光秀のミステリアスな行動に注目が集まるのであろう。

 

 

<策の不利>

本能寺の奇襲成功に対し、天下分け目の山崎の合戦では、平凡な戦をし敗れている。

少数をもって多数の群を打ち破るには光秀は奇襲を策すべきであったでろう。

天王山を先に秀吉軍側に抑えられたことも腑に落ちないが、もしそうだったにしても天王山の背後から奇襲攻撃をかけてみる必要があったと思われる。

負ける戦と知ってか、平地に本陣を構える結果となり、相手を打ち負かすという気概が最初からなかったのではないかと見て取れる。最前線の<境野1号墳跡明智光秀本陣>(または<恵解山古墳跡明智光秀本陣>)、そして最終的に逃げ込んだ<勝竜寺城>をも捨て、坂本城への逃避と、半日の間に目まぐるしく敗退移動を繰り返している。 

これらの撤退敗走に、友軍はどのように見ていたのだろうか。天下取りの合戦とみて参加した将兵の無残な姿が目に浮かぶようである。

 

 

<天下分け目の天王山-山崎合戦>

また秀吉が戦っていた毛利側が、秀吉の背後をついてくれることに期待をかけたがその気配もなく、光秀の望みは絶たれ、わずか16000名で合戦に臨むことになった。

光秀のもう一つの誤算は、淀川等三川を背にした陣(難攻不落の陣)を敷けなかったことにあるといえる。

先にも述べたが、一説によると〈禁制・きんぜい〉を守って三川を背に立ち並んでいた町家を避けて、本陣を平野部に移動させたところによる布陣の失敗である。信長が町衆と「禁制」を交わしていた約束を光秀も守ったためだといわれている。

斉藤利三ら参謀による坂本城亀岡城に籠城して軍勢を整えてからの合戦を光秀に進言した。しかし光秀は、山崎での決戦を命じている。また、戦略上重要な三川合流点と天王山の間に横たわる<永荒沼>さえ秀吉側に突破されてその地理上の防禦地点を確保できなかったことにもよる。

 

信頼厚い武将 齋藤利三の戦略・献策にも関わらず、光秀の性格である情深さや、領民や家族のことを大切にしてきた己の生き方に従うとともに、信長のような血なまぐさい無慈悲な戦を避けたかったのであろう。地元の坂本や、亀岡を避け、ここ山崎の地での合戦を決したとも思われる。

あとは時間の問題、その日の夕刻7時、陽は沈み勝敗は決してしまっている。

 

さらに、天王山を秀吉側に先に制されたことにより、平野部に陣をひいたことであろう。もし天王山の張り出し(大山崎)と三川を背後にした布陣であれば、隘路を抜ける秀吉軍を許さず、もう少し持ちこたえられたかもしれない。

やはり近習の武将を味方につけ、大山崎の地形を熟知していた秀吉側の勝利はすでに決していたといえる。

合戦布陣図からもわかるように、両陣営の対面する小泉川(円明寺川)は平野部から沼地に入り込んで湿地帯を形成していたことが分かる。光秀軍の劣勢は、合戦前すでに光秀もまたその軍団も認識していたように思える。

見てきたように、天下分け目の合戦は<天王山>ではなく、東側に広がる淀川沿いの湿地帯で行われた。 そして約2時間半の戦闘で、光秀は秀吉軍に敗れ、背後の勝龍寺城に逃れ、山崎合戦は終る。

 

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            山崎合戦の両軍布陣を現在の交通網からみる

            (現在、永荒沼は干拓され住宅地である)

 

 

その後、退却の勝龍寺城より夜が更けてから近臣数名と共に居城である近江坂本城に向かって敗走する。途中、山科小栗栖に差し掛かった時、地元の百姓による落ち武者狩りにあって、重傷を負い、自刃して果てる。

 

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      勝龍寺城 (光秀三女玉輿入れの城・山崎合戦後敗退した城・坂本城への敗走の城)

 

ここに「山崎合戦」は終結し、勝者である秀吉は天下取りに邁進し、政治的にも、経済的にもまた、文化的にも覇者となっていく。

 

勝龍寺脱出以降の光秀敗走については、ブログ『明智光秀最期の地を歩く』を参照願いたい。

 

 

shiganosato-goto.hatenablog.com

 

 

 

                                      『いざ天王山! - 山崎合戦跡を歩く』