2023 『星の巡礼 家康伊賀越え追跡記』
ー 追跡ハイキング報告書ー
<家康伊賀越え>を訪ねる
このゴールデンウイークに、長年温めてきた『家康伊賀越え』を追跡し、訪ね歩いて来た。
住まいの志賀の里(大津)から信楽を越えれば、待望の<伊賀越え>が西東に延びている。
当初、自転車に野営用具を積み、気ままな老人旅を楽しむつもりであったが、年月を重ねるうちに、オートバイでの伊賀越ツーリングに変わり、いつでも行けると思っている間に老いを重ねてしまった。
ようやくパートナーの助けを借り、車に頼りながら、伊賀越えの難所の幾つかを、リュックを担ぎ、杖をつきながら、家康一行の息遣いを感じ取りながら追跡し、歩いてきた。
京で<本能寺の変>を起し、信長を自刃に追い込んだ光秀の軍勢や、落ち武者狩りや、伊賀衆の復讐を避けるため、伊賀山中を越えたことから「伊賀越え」と呼ばれている。
<家康伊賀越え>ほど、随行者による記録が残っておらず、立寄った時間帯も全行程としては辻褄が合わず、それぞれの、また近在の伝聞による所説が入り混じって、幾多のルートが自薦他薦されているのだから、歩く者にとっても一面気楽なところがあり、新しい発見をしては喜ぶことができるのだから、面白い歴史探訪の追跡コースともいえる。
もちろん、家康伊賀越えに関する記述を残している古文書もあるのだが、言い伝えを記述したものでり、歩き追跡してみて初めて伊賀越えにおける家康一行の息遣いや、苦難や、逃避行の迫真にせまることが出来ると言っていい。
通説の<家康伊賀越>を軸にしながら、出会った情報を加え、新たな発見をしてきた。 今回の参考書である山岡荘八全集第4巻<心火の巻>(落日前後306頁~・伊賀の龍巻326頁~・民の声340頁~)を紐解き、記録をブログに残しながら、あらためて<家康伊賀越え>を考察し、旅の後も楽しませてもらっている。
1582(天正10)年、6月2日未明に起きた明智光秀による「本能寺の変」が勃発し、織田信長が自刃した当時、織田信長の勧めで堺を遊覧していた徳川家康は、信長への御礼言上のため京への上洛途中、明智光秀の襲撃によって信長が自刃したことを知った。
信長派と目されていた家康も、光秀側に見張られ、討たれる危機が迫っていた。
供30数名しか連れずに行動していた家康は、自らも知恩院で自刃することを決意するが、本多忠勝の説得により三河岡崎城への帰城を決意する。
山城から近江の甲賀・伊賀を通り、白子浜から伊勢湾を横切り、常滑へ船で渡る最短ルート、後世<家康伊賀越え>と呼ばれるルートを選択するが、道中には家康の命を狙う百姓一揆や落武者狩りなどの危険があったことはすでに述べた。
この危険な道のりを、先々で信長派の城主や土地に詳しい案内者の協力を得て、3日間の決死の逃避行のあと、無事三河にある岡崎城に帰城した。
<家康公伊賀越えの道>の出発点とした四条畷神社
ここでは、家康一行が、京からの茶屋四郎次郎の報、<本能寺の変>すなわち信長自刃に接した現在のJR四条畷駅東側に広がる飯盛山西麓の四条畷神社からスタートした。
現在では、飯盛山(314m)西麓から<伊賀越え>の出発点となる尊延寺郷へは、街中を進むこととなるので家康一行の足跡を追跡することは難しい。 当時、旧高野街道は人目に付きやすいため、家康一行は裏街道を進み、<伊賀越えスタート地点>尊延寺郷に向かったと思われる。
<甘南備山西麓・尊延寺郷より、岡崎に向かって東進開始>
家康一行が、堺を1582年6月2日 午前7時ごろ京都に向かって出立し、午前10時ごろ飯盛山西麓あたりで光秀謀反・信長自刃という本能寺の変を茶屋四郎次郎によって聞き知り、京都行を急遽岡崎に変更して東に向きを変えたところが甘南備山西麓・尊延寺郷であった。
飯盛山出立は、情勢判断や、岡崎城への退避ルートの選定、通過地への協力要請の派遣など重要協議を終え、現在の四条畷神社を出立し、尊延寺郷に向かったのは、お昼もだいぶ過ぎた頃であろうか。
ここ甘南備山西麓・尊延寺郷が事実上の<家康伊賀越え>の西側のスタート地点である。
地図でも分かるように<尊延寺―岡崎城>は、東西線上に位置していることから、家康一行は最短距離で伊賀越を果たしていることが分かる。
当時の地図と言えば、古地図でも分かるように、筆で山川を書き入れたスケッチ図面であり、
家康一行の行軍も難儀なものになるはずであったが、行き先々で家康に味方する郷の者や、領主や、その家臣たちや、味方する忍びの者の先導により、正確なルートを確保して東進していることが分かる。
その伊賀越え東進への最初の郷(村)が甘南備山西麓・尊延寺郷であった。
家康一行は、尊延寺で休憩をとったと言われるので、尊延寺に立寄ってみたが、寺の記述には家康一行の立寄り休憩を示唆する解説はなく、通説でいわれる<尊延寺>は、ここ地元の郷(村)名であることが分かる。
地図でも分かるように<尊延寺郷~岡崎城>は、緯度にして<北緯34.80~34.95>の間にあり、家康一行は、正確に西東を<尊延寺郷~岡崎城>を直線的に走り抜けている。
<家康伊賀越えルート>の緯度から見る位置関係
(国土地理院地図)
<家康伊賀越ルート>である堺から岡崎城へは、N(北緯)34.50~N34.95間の西東208kmを駆け抜けている。
ただし、実質《伊賀越え》は、尊延寺(起点とした)より白子浜を指すといわれ、約110㎞であり、その緯度に見る位置関係は、N34.80~N34.95と、さらに西東に直線的であることに驚かされる。
家康一行は、山中を突っ切り、谷を下り、人目を避け、直線的に強行突破し、堺よりの210kmを3日間という短日での三河岡崎城に向け、駆け抜けていることが分かる。
ここでは、実質《家康伊賀越え》である<尊延寺~白子浜>約110kmを踏破し、家康一行の休息・宿泊・難所に立寄り、または歩き、その苦難の時間と場所を共有することにこころがけた。
まずは、伊賀越えのスタート地点となった尊延寺郷、その中心であったと思われる真言宗 尊延寺前を
出発し、<家康伊賀越え>一行を追跡した。
通説によれば、家康一行は伊賀越えを決心し、ここ尊延寺郷を6月2日午後5時頃通過している。
今回の探訪は、尊延寺郷の中心にある<尊延寺>をスタートの基点とした
家康伊賀越えルートを先導したのは、先にも述べたように地元の地形を熟知した郷の者や、信長派領主の家臣、伊賀衆たちであった。
今回、伊賀越を実際に歩いてみて、土地勘や先導者がいなければ山中の正確なルートを判断、見つけること
は困難であることが分かった。 なぜなら、地図を持っていてさえも山道を正確に歩き通すことが難しかった
からである。
時には、コースを外れて伊賀の大自然の中に迷い込んだりもした。 これまたロングトレイル愛好者への
ご褒美である。
伊賀越え先導集団を観察しながら、家康一行の行動を追跡してみた。 何といっても家康伊賀越え成功の第一の功労者は、その道先案内人にあったからである。
<家康伊賀越え>第1番目の難所
《尊延寺郷➔ 普賢寺谷ルート➔草内渡し>
尊延寺郷~普賢寺谷郷~草地渡し(木津川)ルートの道案内をしていた信長の家来・長谷川秀一(竹丸)は、ルート上の信長派関係者に対し支援依頼の密使を送っている。
ただ草地渡しまでは、一揆集団を恐れてか、一行は家康本隊と陪臣・穴山梅雪の別動隊に分かれ木津川へ向かっている。
この間の最大の難関は、普賢寺谷という複雑な地形にあると言っていい。
歩いてみて、細い山道は複雑に分かれ、自分の位置を見失う恐れもあった。
推論だが、別動隊の穴山梅雪一行は普賢寺谷を下らず、現在の県道71をさらに南下、一山という百姓の案内で天王高ケ峰にある朱智神社を経由し、木津川の渡しに向かったという説もある。
しかし、穴山梅雪の別動隊は、飯岡郷北側の木津川堤あたりで地元の一揆集団(落ち武者狩り)に襲撃されて全員命を落としている。
その理由は、普賢寺谷をおりきったところにある観音寺の解説板に見られる一説を採り入れ、別ルートを検証してみた。
そこには通説である家康一行の普賢寺砂子ルートではなく、朱智神社ルートをとったのではないかと書かれているからである。
『本能寺での急変を知った家康は、急ぎ京都を避け、堺から飯盛山、枚方から河内の尊延寺東の山中を経て京田辺市に入り、途中、朱智神社で一泊し、一山という百姓に案内され、普賢寺・興道・草内を通り、飯岡の村民にも助けられ、木津川を渡り、宇治田原から伊賀を抜け、無事に、岡崎城に辿り着いたことから「家康公伊賀越えの道」とされています』と。
ただ、穴山梅雪一行も、朱智神社では休憩にとどめ、家康本隊と同じように急ぎ飯岡渡しに向かったはずである。 ここでは穴山梅雪一行がどのようなルートで朱智神社に立寄ったのか、未検証である。
観音寺 <普賢寺/家康公伊賀越えの道>解説板
家康伊賀越え<普賢寺谷ルート>の推測
・・・・・家康本隊<普賢寺砂子谷ルート>
・・・・・穴山梅雪別動隊<推定・朱智神社ルート>
通説によると、本隊である家康一行は、現在の県道71号線を尊延寺郷より南東に下り、大阪京都の境を越えた左側にある小径に入り、途中、宇頭城郷を経て、普賢寺砂子谷を下り、普賢寺郷(村)にたどり着いている。
今回の<家康伊賀越え>の第一番目の難所である<普賢寺砂子谷>を歩いてみた。
河内・山城(大阪・京都)国境(くにさかい)を越えて入った山道は、車一台がようやく通れるアスファルト路であるが、森の中を谷沿いに下る小径は、ひんやりとした冷たさを感じた。
16世紀前半の山城国一揆などで荒れていたおり、ここ普賢寺郷もまた信長によって徹底的に破壊され、平定された。 信長を恨んでいた普賢寺郷の突破には、家康一行も十分注意し、駆け下ったに違いない。
家康一行が下ったとされる昼なお暗き普賢寺砂子谷
車では折り返しのきかない小径であるが、素晴らしいハイキングコースではある。
当時、ここ<普賢寺砂子谷>ルートの途中には、宇頭城という山村(郷)があったと言われる。
家康一行は、陽が沈む前、信長に恨みをもつ宇頭城郷の山村民とも接触を避けるように、息を凝らしながら木津川の<草内の渡し>にむかって急いだに違いない。
すでに、陽は沈み暮色に染まっていたと思われる。
現在の京奈和自動車道東西に広がる普賢寺郷にある観音寺前を推定6月2日夕刻7時ごろ通過したと思われる。
普賢寺砂子谷より下って来たところ
(京阪奈自動車道の下に出る)
普賢寺谷を下った家康一行は、現在の京阪奈自動車道の下に出てきて、左に曲がり観音寺前を通って、現在同志社校地のある興戸を経て、木津川の<草内渡し>に向かっている。
この時間帯より少し前、観音寺説を採り入れ、朱智神社を下り、飯岡の渡し(現在の玉水橋付近)に近づいていた先行の別動隊・穴山梅雪は、多々羅郷を過ぎ、飯岡郷北の木津川堤防あたりで山城一揆集団に襲撃され、自害している。
この別動隊・穴山梅雪に一揆衆の目を向けさせた<家康伊賀越え>作戦であったかどうかは定かではない。
ここでも<穴山梅雪翁の墓>、<飯岡渡し跡碑>に立寄って検証してみた。
この時、家康の陪臣であった穴山梅雪は、武田信玄に仕えていた武将で、信玄の亡きあとの勝頼に反旗を翻し、徳川家康の配下に属していた。 この<伊賀越え>の時も、家康随行の一員として付き従い、尊延寺辺りから、光成側の目を欺くために二手に分かれて別行動をとっていたとも考えられる。
家康伊賀越え<尊延寺~木津川・草内渡しルート図>
‥‥家康本隊ルート
‥‥穴山梅雪別動隊推定ルート
家康本隊は、先にも述べたように<普賢寺砂子谷>を下り、木津川の草内渡しを目指した。
一方、穴山梅雪は別動隊として現在の県道71から65を経て(観音寺説によると朱智神社経由)観音寺を通過、また一説には殿(しんがり)として、木津川の飯岡渡しに向かっている。
しかし、信長の徹底した山城国一揆潰しに反発していた地元の一揆衆に襲われ、飯岡北方の木津川堤付近で自害したことは、先にも述べた。
現在、<穴山梅雪翁の墓>は、木津川の氾濫を避け、田辺病院の西側にある飯岡区墓地の中央付近に移設されている。
田辺病院を西へ200mほど坂を下ると左側に、飯岡区墓地と草内区墓地が並んでおり、手前の飯岡区墓地の中央辺りに<穴山梅雪翁の墓>がある。
<飯岡の渡し 石柱>は、舟形(公園)の北側堤防にある
ここでも<穴山梅雪翁の墓>、<飯岡渡し跡碑>に立寄って検証してみた。
<穴山梅雪の墓>は田辺病院の西側、飯岡区墓地にある
<飯岡の渡し 石柱>は、舟形(公園)の北側堤防にある
<飯岡渡し跡碑>は、田辺病院の方にもどり、突き当りを左折し、直進後、右へ曲っていくと木津川の堤防に出る。 右側に玉水橋が見え、左に<飯岡渡し跡碑>石柱が建っている。
堤防分岐に公園があり、渡し舟を模した休憩場がある。 またその背後に駐車場がある。
さらに、堤防を川沿いに南へ進むと<玉水橋>に出る。
木津川西岸<飯岡の渡し>から玉水橋を望む
玉水橋から、<草内渡し跡>へは、同志社校地を見ながら(興戸を通るルート)と、玉水橋を渡って木津川東岸より向かう方法がある。
なお、<草内>は、クサジまたはクサウチと読む。
では、その直後に、普賢寺砂子谷を下って来た家康本隊は、下記の略図の推定ルートで、観音寺・多々羅郷を経て、木津川の西堤にある<草内の渡し>に6月2日、午後7時頃に到着したと思われる。
家康一行は、この地<草内の渡し>で、別動隊・穴山梅雪一行の山城一揆衆による襲撃を受け、落命したとの報せに接し、より警護を厳重にしながら、一行の木津川草内渡しが始まった。
家康一行が渡り終えるのに2時間ほどかかり、その間、一行は水補給や仮眠、草鞋替えを行ったとの記述がある。
山口城からの先導・案内者と警護者の出迎えを受け、 その足で山口城に向かっている。
木津川西岸堤にある<草内の渡し場>石碑 <草内の渡し>解説板
(山城大橋南付近の堤防)
<草内の渡し 家康公伊賀越えの道>解説板
『天正10年(1582)の本能寺の変により織田信長が明智光秀に討たれた時に、徳川家康はわずかな近臣とともに泉州堺に滞在していました。 本能寺での急変を知った家康は、急ぎ京都を避け、堺から飯盛山、枚方より河内の尊延寺東の山中を経て京田辺市に入り、普賢寺川沿いの道を経て、奈良・宇治田原に出る主要な渡しである「草内の渡し」を渡り、家康一行は無事三河まで辿り着きました。 (後略)』
<草内の渡し場跡>より山城大橋を望む
<家康伊賀越え>と 光秀謀反・信長自刃直後の世情
まさに、明智光秀の主君に対する謀反は、乱世への逆行であった。
信長の天下統一への執念が産んだ、敵対者である武将はじめ、一向宗弾圧、比叡山延暦寺焼討、一揆衆への無慈悲な徹底虐殺、また敵対する伊賀者の里の徹底破壊は、信長への怨念と復讐を生み育てていた。
光秀も信長のこの無慈悲な弾圧や言動に批判的であったがゆえに、その信長を討つという大義名分によって<本能寺の変>に討って出たといわれている。
光秀の<本能寺の変>は、一気に反信長をはじめ、権力者への反抗を助長させてしまったことは確かである。
信長の武将の一人であった<家康の伊賀越え>にあたっても、自衛百姓一揆衆による落人狩りが頻発していた。
家康一行も、田原一揆衆や、敵対する一部の伊賀者からの危難を避けるため、<伊賀越え>という最短コースの中でも、迂回したりと、苦労していることが見てとれる。
家康も、木津川を渡船後、穴山梅雪を襲い、自害させた田原一揆衆に遭遇し、首謀者・大石村孫四郎の持つ、戦利品の中に梅雪の血染めの刀を認めている。
この時の家康と孫四郎との出会いからも、家康の人間力というか、人垂らしが見えてくるのである。
家康は、一揆首謀者孫四郎に、太平の世を説き、年貢に苦しむ百姓無き世や、民衆の安寧を願う世を創ることへの参加を呼び掛けている。
一方、一揆衆の望む世のあるべき姿、道理を孫四郎に問いかけて、その成就に加われとも説いているから面白い。
このように道理を説くとともに、家康は年貢の取立による農民の貧困も見抜いていた。
<家康伊賀越え>において遭遇した一揆衆に対して、信長から堺遊興に贈られた金子を惜しみなく分け与えている。
すっかり家康の理解者になった一揆衆首謀者である大石村孫四郎は率先して、白子浜までの先導役を引き受けている。
孫四郎はじめ、信長家臣・家康接待役である長谷川秀一の要請で、山口城主・山口藤在衛門光広の遣わした2名の先導者と警護者に守られ、6月3日午前0時頃、無事山口城に入ったと思われる。
② <家康伊賀越え>第2の難所
《郷之口・山口城 ➔ 遍照寺 ➔裏白峠 ➔ 小川城》
先を急ぐ家康一行は、山口城主炊き出しの赤飯を立ち食いし、わずかな休憩を取ったあと、山口城主からの連絡を受けた隣郷・小川の多羅尾光俊が派遣した迎えの警護手勢に守られ、遍照寺で休憩し、裏白峠384mを越え、小川城へ向かった。 山口城出立は、6月3日午前1時頃と思われる。
山城大橋(草内の渡し場)を出た家康一行は、現在の国道307号を東へ向かい、県道62との分岐に出る。 ここ分岐の東北角に、<宇治田原歴史の道>案内板があり、下記のような説明が書かれている。
『宇治田原町郷之口~奥山田地区を東西に横断する信楽街道は、山城と近江を結ぶ重要な交通路の一つであった。 天正10年(1582)、織田信長が倒れた<本能寺の変>が勃発すると、堺に逗留していた家康は、少数の供を連れて宇治田原に入り、郷之口の山口城で休憩後、奥山田から信楽に入り、伊勢湾を渡って三河に帰国したという。』
山口城を深夜1時頃に出発した家康一行は、睡眠不足の上、闇の野山を先導の松明の炎をたよりに駈けたことになる。 午前3時頃、先発隊によって用意された白湯や、握り飯が遍照院に準備されていたと思われるが、相当な強行軍であったことが分かる。
行軍ルート上の郷之口・贄田(ねだ)・立川・湯屋谷・奥山田の各郷民は、闇に動く家康の一行の駆け足の音に息をひそめて聞いていたに違いない。
R307/県道62分岐交差点<郷之口下町>から郷之口の街並みに入る道
家康一行は、旧信楽街道<郷之口~奥山田>を通って小山城へ向かった
山口城跡は、現在茶畑である <山口城跡>標示板
<山口城址前に立つ案内板によると>
『山口城は、織田信長の命で山口甚助秀康が築いた城でした。 城下町は郷侍を集めて屋敷を構え、本町を士分、裏町を民家として城の守りとしました。 天祥10年(1582)6月2日、本能寺の変に堺にいた徳川家康は、急いで帰国するため河内より尊延寺越えに田辺・草内を経て、木津川を渡り、田原郷に入り山口城に3日の巳の刻(午前10時)に着きました。 昼食をとり、馬を乗り換え、信楽へと向かいました。 途中奥山田の遍照院で休んで、多羅尾光俊の侍に引継がれ、無事多羅尾に入り(小川城)一泊したと伝えられています。 山口氏は関ヶ原の戦いで滅び、城はその後廃城となりました。 城址の東にある極楽寺は山口氏一族の菩提寺で、その山門は城の裏門であり、境内の石灯篭一基も城のものと伝えられています。 城址の北側は「城の川」といわれ、城の濠でありました。 近年石垣の巨石が発掘されました。 宇治田原商工会』
家康一行はかかる茶畑の小径を闇夜のなか行軍したのであろう
家康伊賀越ルート と 山口城址付近図
《旧信楽街道/家康伊賀越えの道》
<郷之口・山口城~遍照寺の間を歩く>
山口城址を後にした家康一行は、極楽寺前を通って、旧信楽街道に出て、犬打川に架かる中町橋を
渡って、いくつかの峠を越え、谷下りをつづけながら次の休憩地・遍照寺へ向かった。
山口城で一服した家康一行は、真夜中、闇夜に紛れて極楽寺前を急ぎ足で遍照寺に向かった
<歴史探訪―山口城主 山口藤在衛門光広>
山口城の城主 山口藤在衛門光広は、家康一行を小山城からの迎えに引継ぎ、安堵したことであろう。 山口光広は、織田信長が訪問した際に宇治田原の城主山口長政の婿養子となることを命じられ、信長に仕えるようになったという。
家康が信長の招待で堺漫遊中、本能寺の変に遭遇し、家康一行の案内役であった信長配下の長谷川秀一と協力し、逃避行中の先々の信長派有力者・寺院に、家康に協力し、一行の休養をもてなし、宇治山田の信楽街道を無事に通過させるように要請している。
山口城主 山口藤在衛門光広は、甲賀衆の協力をえて、家康一行を警護し、白子まで付添っている。
だが、その後、羽柴秀吉により徳川家との善き関係を嫌われ、領地の没収と山口城の廃城に追い込まれたが、秀吉没後、家康から伊賀越えや長年の功により、信楽に600石の朱印状を与えられている。
人の世の移り変わりを見ているようで、山口氏一族の菩提寺である極楽寺前を歩きながら戦乱の世を思い浮かべたものである。
旧信楽街道/家康伊賀越えの道 ➀ <郷之口・山口城址~立川・大道神社>
標高119m 標高75m
旧信楽街道/家康伊賀越えの道 ② <立川・大道神社~松峠~奥山田・遍照院>
標高175m 313m 標高314m
<表示がなく松峠を特定できなかったが、地図中央左の高圧線とルートの交わっ
ている辺りではないだろうか>
ルートはR307(国道)を渡り立川方面へ向かう <立川神上>通過
旧信楽街道<家康公伊賀越の道>の標識あり
<立川段橋>渡って左へ向かう 通過後<段橋>を振返る
<正寿院> 立川郷 立川郷の風景
家康一行も竹藪を背にした大道寺前を通過したであろう
菅原道真公が祀られている<天神宮> 大道神社通過 鷲峰山682m 登山口前を直進
鷲峰山(じゅぶせん)は、この地の守護神として祀られ、おおくの村民の信仰の対処として崇められている。 この<家康伊賀越え>でも、ルート上の多くの山道が、鷲峰山に通じていることに驚かされた。
宇治田原町によると、鷲峰山(じゅぶせん)を次のように紹介している。
『南山城地域の最高峰である「鷲峰山」(じゅうぶせん)は、宇治田原町と相楽郡和束町にまたがり、
古くから山岳信仰の霊場として周辺地域に大きな影響を与えてきました。
霊山としての歴史は白鳳4年(675)に役行者(役小角)によって開かれたのがはじまりといわれ、
奈良時代に聖武天皇の勅願寺として堂が建立されたと伝えられます。次第に山岳信仰の場として、
奈良の「大峰山(吉野)」に対し「北大峰」と呼ばれるほど栄え、中世の絵図には58もの堂舎が
描かれています。
もともと全山が「鷲峰山寺」と呼ばれて広大な寺領を有していましたが、元弘元年(1331)鎌倉幕府
に追われた後醍醐天皇が笠置に入る前に入山したため焼かれてしまい、その後も火災や寺領の没収に
より衰退していきました。
現在は山頂付近が「金胎寺(こんたいじ)」として国の史跡に指定され、仏像や堂塔などが残されて
います。中でも絵図にも描かれた建築物で現存するものは「多宝塔」と山頂(標高682m)の「宝篋印
塔」(いずれも重要文化財)のみで、点在する墓地や平坦地がかつての伽藍の規模を偲ばせます。
なお、山頂部及び金胎寺境内は和束町側になります。 宇治田原町』
宇治田原工業団地のランドマーク <貯水塔> <七曲り径/黒豆坂>右へ入る
あたり一面は斜面を彩る緑豊かな茶畑
茶畑の中に立つ標識 至黒豆坂 <家康公伊賀越えの道> 黒豆坂267m
家康一行、黒豆坂を下り長福寺、湯屋台へ向かう
家康一行が下った黒豆坂 黒豆坂より湯屋谷を望む
<家康公伊賀越えの道>は、橋を越え左へ直進 長福寺駐車場より黒豆坂出口の橋を見る
湯屋谷よりの<塩谷コース> 普通車可 <石詰コース>の入口分岐 A左・B右
A:小型車可 B:徒歩のみ
石詰コースA左を進む 石詰コースAやB/Cが集まる十字路に出る
十字路にある<家康伊賀越えの道 案内板>を直進 案内板より松峠に向かう
A/B/Cルートが集まる十字路 (標高272m)
松峠近くの舗装道を上がる 松峠付近 標高313m
家康一行は暗闇を急いて歩き、松景色の峠など暗くて見るところではなかったであろう。
松峠辺りの小径を行く
松峠を過ぎると茶畑が広がる 地蔵様に見守られ奥山田の里に下る
松峠を過ぎると生活空間である茶畑農家が眼前に開けるが、
<家康公伊賀越えの道>は背の低い笹薮でふさがれ、不安を覚えてしまう。 迷うことなく
直進すると、その先に通常の道が現れるので心配はいらない。
地蔵尊あたりの分岐を右に登っていくと、鷲峰山(じゅぶせん)への登山路である。
<家康伊賀越えの道>は、分岐にある標識に従って直進し、下っていくことになる。
後は、地蔵様に見守られながら奥山田の里へと下りて行けばよい。
奥山田の村のT字路にある標識に従って右に進めば、正壽院を経て遍照院に向かう。
荒れた山道を下る 里に着き、茶畑が迎えてくれる
松峠より下ったところにある標識 松峠より奥山田に入り、正壽院を経て遍照院に向かう
左/遍照院・右/松峠
さらに下って遍照院へ 家康一行が休息を取った遍照院 (標高314m)
<遍照院 と 家康伊賀越え>
『天正十年(1582)6月2日未明、京都本能寺に止宿中の織田信長が、家臣明智光秀に襲われ自刃した。
(本能寺の変) この時家康は信長のすすめで堺見物をしていたがそれも割り引き返そうとした矢先、
本能寺の変の急報を受けた。 驚いた家康は、とにかく本国三河に帰る事にし、危険は多いが伊賀越を
選んだ。 守口、枚方と不眠の行動で尊延寺を経て草内で木津川を渡り、郷之口の山口城に入った。
ここで昼食をとり、案内人を得て物見の者と連絡を取りながら、(信楽)街道沿いの(ここ)遍照院に
着いた。 ここで新しい案内人も出来、朝宮を通る頃には日もとっぷり暮れていたが無事多羅尾に
着いた。 ここで夕食をとり一睡の上伊勢の白子浜目指して出発した。 この辺りから守りの人も増え
白子浜に安着した。 ここから船で三河に渡った。 6月4日であった。家康が伊賀越の時立寄ったと
いう真言宗遍照院は元亀元年(1570)の建立である。 宇治田原町商工会』
家康一行は、出発地 山口城を6月3日 深夜1時頃出て、暗闇の中、旧信楽街道の峠を抜け、一路東に向かい、 午前3時頃、遍照院に着いたであろう。
この間<郷之口/山口城 ➔ 奥山田/遍照院>約8km(2里)を、馬上の家康と家臣や先導・警護隊は先導の松明に導かれ、早足で駈け抜けたものと思われる。
途中、標高313mの松峠をピークに全体としてなだらかな旧信楽街道を早駈けし、所要時間2時間ほどで走破したとみている。
休憩と言っても、松明に照らされた庭すみにある石に腰を掛け、茶を所望し、握り飯を口に放り込んだあと、午前4時ごろ遍照院を出て、山城/京都・近江/滋賀の国境である裏日峠382mを越え、午前4時半ごろお茶の里で有名な上朝宮を経て、城主 多羅尾光俊の待つ山城である小川城に6月3日 午前6時ごろに入ったと見ている。
裏白峠386m 朝宮の美しい茶畑風景が続く
② <家康伊賀越え>第3の最難関―敵地迂回突破
《小川城 ➔ 御斎峠 ➔ 徳永寺》
家康一行は、<伊賀越え>の最重要核心区間である《小川城 ➔ 御斎峠 ➔ 徳永寺》間の約35㎞を駆け抜けている。
小川城(標高470m)に入った家康一行は、小川城主 多羅尾光俊から、赤飯・新茶・干し柿のもてなしを受ける。
堺を出立して以来、尊延寺からの一睡もせずに駈け続けてきた家康一行は、ここ小川城では、その疲れもピークに達していたと思われる。
家康一行がここまでの道中で唯一仮眠をとったのがここ小川城である。
街道の押さえであった小川城は、山城であり守りも固く、安心できたのであろう。
<小川城址に登る>
国道307号線上の信号・中野交差点(角にコンビニ・セブンイレブンあり)で右折して、突き当たった県道138の東側に広がる緑の森に小川城址がある。
突き当たって右折するとすぐ左に入る道がある。
角の<小川城址の案内板>を、300m程直進すると<小川城址北入口>にでる。
舗装され、車一台ようやく通行出来る林道を城址近くまで上ることが出来た。 ただ、対向車のことを考えて退避スペースを確認しながら車を進めた。
城址入口より、城跡まで約2km、薄暗い杉林の中を進み、Uターンできそうなスペースに駐車し、さらに急な坂を歩いて城址に立った。
低く見えた森も標高470mもあり、この山頂に塁を設け、街道に睨みを利かす城を築いていたようである。
城址に登ってみると、その周囲の険しい斜面は、容易に敵を近づかせない険しさを持ち、またその高さは遠く信楽の街を遠望出るほどであり、近場の街道を往来する人の姿さえ視認できる要地であることが分かる。
南北に京都奈良を結び、東西に大阪鈴鹿が交差する重要な交通の要所であったことも分かる。
小川城址入口(県道138) 小川城跡 案内板
車一台が通れる林道が途中まで続く 小川の城山頂に着く(城山 標高470m)
<小川城址>
『小川城址は、信楽町大字小川字城山に所在している。 本城の歴史は、嘉元3年(1306年)
に鶴見氏によって築城されたとの伝承があるが定かではなく、戦国時代には多羅尾氏の
勢力下に入り、文禄4年(1595)豊臣秀次事件に連座し、領地を没収されたため廃城と
なった。(中略)
また天正10年(1582)の<本能寺の変>の際、徳川家康が三河へ逃げる道中信楽で
一夜を明かしたのは、本城であったとも伝えられている。 信楽町観光協会』
非常時に備えた侍たちの鍛錬のための力石 城址からの眺望
古い塁がそのまま残されている
<御斎峠越え 慎重な迂回路>
さて、家康一行はここ小川城から徳永寺に向かっての最短ルートである桜垰越え(現在の国道422号線)を避けて、伊賀上野方面に南下し、御斎峠(おとぎとうげ・標高585m)よりの迂回ルートをとるという、慎重な行動をとっている。
<神君伊賀越え>の呼び方は、地形的難儀というよりも、ここ敵地である伊賀の里突破の難儀からきている。 家康らしい慎重さ<家康どうする?>が、垣間見られる迂回戦略に、蹴散らかして進む信長との違いを見る思いである。
家康公が、徳川家による265年間という長きにわたる統治を可能にしたその慎重さをすでに見せている。
(参考資料) <小川城➔徳永寺>ルート比較
御斎峠(おとぎとうげ・標高585m)迂回ルート 約35km 徒歩約7時間
桜垰 (さくらとうげ・標高321m)最短ルート 約23km 徒歩約5時間
多羅尾御斎の森展望台 御斎峠(おとぎとうげ)578m
これより三重県 伊賀に入る。
<御斎峠に立つ歌碑> 《切通し 多羅尾寒風 押し通る 聖子》
この辺りはまだ信楽 小川城 城主多羅尾光俊の領地なのだろう。
これから向かう伊賀の地は、信長派と光秀派に分かれ、信長派の家康一行には危険が伴うと判断し、危険を避けるため伊賀の中でも山地である鷲津山路(間道・現在の「伊賀コリドールロード」)をとることを、小川城主である多羅尾光俊の進言に従ったとも言われている。
また、伊賀の地が危険なのは、信長に敵対した伊賀成敗<第二次天正伊賀の乱>の際、一族郎党はもちろん、他国に逃げた関係者全員を見つけ出して殺していることからの恨みから、信長派の家康一行には最も危険な敵地として見ていたようである。
また、かかる危険地帯を突破するために、伊賀にも精通していた家康の家臣 服部半蔵は狼煙を上げ、味方する伊賀甲賀衆300人を集め、白子浜まで警護にあたらせたともいわれる。 これまた大げさである様に思われる。 わざわざ間道を通ってまで危険を避けたい一行が、400人規模の目だった隊列をつくる必要があったのだろうか。
ともあれ、家康一行は小川城での数時間の仮眠の上、草履を取替え、水を補給し、小川城を6月3日朝、午前8時ごろ御斎峠に向けて出立したと見る。
<小川城➔徳永寺を車で走る>
まずは、小川城より、次なる休憩地である伊賀信楽 <徳永寺>までのルートを見ておきたい。
これは、あくまで今回の車による<家康伊賀越えの道 ・ 小川城址➔徳永寺>間の推定ルートである。
今回の旅では、小川城址から <県道138>を南下し、御斎峠を越え、 T字路の門口地蔵尊
(補陀落寺跡)を左折し、伊賀コリドールロード(旧鷲津山路・間道)に入り、 伊賀諏訪で国道422を
横切って、 音羽の里を通り、下柘植に出て旧国道25<伊賀街道>を東に向かい、伊賀市柘植にある
次なる休憩地<徳永寺>に到着した。
<旧鷲津山路・間道>と言われた現在の整備された<伊賀コリドールロード>
家康一行は、御斎峠(おとぎとうげ 標高585m)を6/3 10:00amごろ通過し、徳永寺には信長派伊賀衆に守られ、慎重な行軍の末、14:00pm頃、徳永寺に到着したと思われる。
徳永寺でも、家康は先に越えなければならない難所、 山賊の棲みかである<加太峠越え・かぶととうげごえ>のことや、白子浜から岡崎城までのルートについて検討、指示を与えていたであろう。
<浄土宗 平庸山 徳永寺>は、近江の国 安土にあった浄厳院の末寺であったが、信長公伊賀越えの際の功労により、後年<葵のご紋>の使用と、恩賞として周囲の土地や山林を下賜され今日に至っているという。
<小川城 ➔ 徳永寺>ルート図 ・・・・家康一行迂回ルート / ・・・・最短ルート
浄土宗 徳永寺 功労により<葵のご紋>使用を許される
休憩をとり、夕餉としての握り飯を携え、家康一行が徳永寺を出立したのは16:00pm頃であろう。
徳永寺を出るころには、伊賀衆柘植村の者約200人に、徳永寺からの福地伊予守一族約100人の加勢護衛に守られて加太峠に向かっている。
<伊賀街道>と言われる旧国道25号線を東へ進み、伊賀から伊勢へ抜ける難所である<加太垰 かぶととうげ 標高264m>を、6月3日17:00pm頃越え、陽が西に傾きかけるころ伊勢國に入った。
<加太垰 標高264m>を越えて、伊勢国に入る 加太垰を越え加太不動滝入口が左手にある
加太峠からは、加太川沿いに走る旧国道25号線<大和街道>を東に向かい、休憩のため関市木崎町にある瑞光寺に6/3 19:00pm頃に入ったと思われる。
真言宗 瑞光寺 (関市木崎町) 瑞光寺境内にある<権現柿>
2時間ほどの休憩をとった家康一行は、6/3 21:00pm頃 瑞光寺を出て、鈴鹿川沿いに下ったあと、信長の三男 織田信孝の領地である神戸に入って、安堵の伊勢平野を突っ切り、6/4 01:00am頃、ようやく伊勢湾鼓ヶ浦の白子浜にたどり着き、柴舟で本船に乗り移るまで最後の行軍に備えて仮眠がとられたと思われる。
ここ白子浜で、今回の<家康伊賀越え>ルートの追跡は終る。
今回の終着点<白子港>に到着 白子港南に広がる<鼓ヶ浦の白子浜>
その後、白子浜からは、明け方を待って、先発隊によって準備されていた柴舟に分乗し、沖合に停泊していた角屋船に乗り移った家康一行は、伊勢湾を横切り、常滑(とこなめ)の浜に上陸した。
家康一行は、常滑浜に接した正住院で休憩したあと、陸路 知多半島を横断し、半田の成岩(ならわ)にある家康の従兄弟が和尚である常楽寺に向かった。
さらに、成岩から船で碧南市の三河大浜に渡り、岡崎街道を駈け上って三河 岡崎城に6月4日夕方には帰城できたと思われる。
非常時のこと、睡眠を削り、早駈けして家康一行は、<堺~伊賀越え~岡崎城>間の約208kmを3日間で踏破している。
<家康伊賀越え 立寄り地区間距離 と 総距離>
堺~ 飯森山~ 尊延寺~ 草内渡し~ 山口城址~ 遍照寺~ 小川城址~
区間 28.45 13.84 8.47 7.27 8.72 12.18
累積 28.45 42.29 50.76 58.03 66.75 78.93
35.00 16:00 21.00 22.80 34.40 208.13km
113.93 129.93 150.93 173.73 208.13 208.13km
<家康公伊賀越え>は、戦時の逃避行であり、記録者はいなかったようで,口伝えの記録に基づいた諸説が飛び交っており、特に日時の不明確さは、いろいろな推測・憶測を呼び、<家康公伊賀越えの道>を探訪した者の数だけ、諸説が飛び交っているといっても言い過ぎではない。
今回も、それぞれの立ち寄り先や、通過地点に時間をあてはめて考察し、改めては手直しする非常に手間のかかる旅であった。
しかし、かえって諸説があるがゆえに、いろいろと推測・推理しては自分なりに夢を膨らませ、歴史の中の家康一行になりきって逃避行のスリルを楽しめたことは、この上ない歴史探訪の醍醐味でもあった。
今回の旅の目的である<家康公伊賀越えの道>の中心区間<尊延寺郷~白子浜>を無事探訪し、長年の夢であった<神君伊賀越え>を終えることができたことに満足している。
<徳永寺 ➔ 瑞光寺>ルート図 ・・・・・・家康一行ルート
<瑞光寺 ➔ 白子浜>ルート図 ・・・・・・家康一行推測ルート
<帰路、伊賀上野城に立寄る>
<家康公伊賀越えの道>の核心部分である<遍照寺郷~白子浜>を終えての帰路、伊賀上野城に立寄った。
なぜなら、家康が伊賀越えを果たした時、甲賀伊賀衆の結束の強さによるこの地の統治の難しさを感じ取っていたと思われるからである。 天下に睨みを利かせる前段階として、重臣 藤堂高虎に命じて、ここ伊賀上野にあった城を、堅固な城へと大改修させおり、その理由を知りかったからである。
すでに後年の大坂の陣を考えていたのか、大阪の豊臣秀頼に備える徳川家康の出城的存在と考え、信任厚い藤堂高虎を移封させてまで改修にあたらせているその用意周到な計画性に驚かされた。
すでに見た地図からもわかるように、<伊賀越えルート>は、大阪より東国 三河岡崎城への最短コースであり、逆に東国 三河岡崎城から京への隠れ街道であり、大阪への戦略的最短コースでもあった。
すでに家康は、この<伊賀越えの道>を駈け抜けながら、伊賀の地の戦略的重要性を感じ取っていたと云える。
城の実戦的規模の大きさ、特に天守閣を取巻く内堀に面した高石垣の堅固さに目を見張った。
それも内堀に面した二か所の角に張りだし塁があり、攻め上りくる敵を横矢で防ぐ工夫もなされているから驚きである。
多分、大阪城の石垣の規模に劣らないものであったに違いない。
<伊賀上野城>張り出した塁から高石垣を見る
<家康伊賀越えの道>探訪を終え、伊賀上野城に立寄り、伊賀上野城を見て、家康の周到な天下取りの準備が始まっていたことを思い知ったと同時に、徳川家の隠密であったという説のある松尾芭蕉の生家にも立ち寄ることもできた。
数年前、芭蕉がたどった<奥の細道>を歩き、芭蕉の句の地に立って、『私も一句』と、句作に興じた日があったからである。
間もなくNHK大河ドラマ<どうする家康>でも、ここ<神君家康伊賀越え>が取り上げられ、どのように紹介されるのか楽しみである。
家康一行の伊賀越えの3日間の逃避行、敵中突破の演出に、汗握りながら、追跡し、たどった情景を重ねたいと思っている。楽しみでもある。
最後に、今回の旅では、家康生涯最大の危機であった逃避行であったがゆえに、記録に残らなかった時間的経過を、あえて当てはめて、家康一行の撤退作戦の情景を想い描いてみた。 なぜなら、時間的配分が夜と昼とでは、まったく違った情景となるからである。 例えば峠越えが、夜と昼とでは、息を凝らし松明に導かれる影の集団なのか、炎天のもと汗する集団とでは、全く異なる情景だからである。
<家康伊賀越え>は、夜も昼も区別なく敵の襲撃に備え、主人を守りながらの敵中突破であったから、本人たちには夜も昼もなかったであろうと思うが、あえて時間的要素を当てはめてみたのでご了承願いたい。
<家康伊賀越え>ルート追跡を終えて、伊賀上野城前で
オールド・スカウトの心を魅了した<家康伊賀越え>の追跡をここに終えたい。
2023年5月
志賀の里にて
星の巡礼者 & 追跡者 後藤實久
『星の巡礼 家康伊賀越え追跡記』
完
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<関連ブログ>
https://shiganosato-goto.hatenablog.com/entry/2021/02/16/222202
■2021星の巡礼 『 いざ天王山! 山崎合戦跡を歩く 』
https://shiganosato-goto.hatenablog.com/entry/2021/02/28/194214
■2017星の巡礼 『奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』 1~58
https://shiganosato-goto.hatenablog.com/entry/15268684