『星の巡礼 光秀軍の老ノ坂越え追跡記』
―本能寺の変 光秀軍<老ノ坂ルート>を追跡する―
NHKの大河ドラマは、多くの歴史的事件の現場検証を私に課してきた。
テーマが変わるごとに、家の近くの古道を歩き、主人公の息吹を感じる幸せな時間を持っている。
前回の「麒麟が来た」では、光秀が寄留していた越前朝倉家を訪ね、<本能寺の変>後の「山崎の戦」
の戦場を歩き、光秀最期の地である伏見小栗栖の竹藪を歩いた。
今回の「どうする家康」でも、京都と三重にまたがる<神君家康伊賀越え>ルートを追跡し終え、
ほっとしていたところ、<本能寺の変>が近づき、慌てて<光秀軍老ノ坂越え>ルートを2日間に
わたって追跡し、新たな出会いに恵まれた。
「どうする家康」鑑賞の手助けになれば幸いである。
( 追跡者 後藤實久)
Sketched by Sanehisa Goto
天正10(1582)年6月1日深夜、信長より備中高松城攻めの秀吉軍に加勢せよとの命により丹波亀山城を出陣した明智光秀軍約1万1000は、京への旧山陰道<老ノ坂峠>を駈け下って、ここを越えれば京の都であるという桂川に到達したとき、光秀は全軍に対して《敵は本能寺にあり》と、備中高松城より京都・本能寺へと進軍先変更を伝えた。
ここ桂橋西詰は、東西へ旧山陰道と、南北へ府道123号線が交差し、京への玄関口であると共に、南下し、大山崎で淀川に突当り、備中高松城へとつながる最後の分岐でもあった。
しかし、もし備中高松へ向かうのであれば、亀岡より現在の国道423/171を通って山陽道に抜けるか、沓掛から西国街道を南下することを将兵は知っていたはずであるから、沓掛では京方面へ向かう口実を<信長公による出陣前の閲兵希望>により、京へ行先を変更すると伝えている。
しかし、日常の信長の光秀に対するパワーハラスメントをうすうす感じていた将兵は、主人光秀に同情していたとも受け取れ、行先が京に変更されても、それなりの同意がなされていたと云える。
大山崎の淀川との隘路に位地する天下分け目の天王山(標高270m)は、皮肉にも<本能寺の変>後、秀吉軍と光秀軍が激突した山崎の戦場にある。
愛宕山参籠や、そこでの御神籤で戦勝が吉と出るまで引くなど、ここ数日間思い悩んだ末、意を決していた光秀は、天下統一間近な主君 織田信長を討つため、京の本能寺を急襲するべく軍団を進めた。
今回の追跡ハイキングは、亀山城址東側の南郷公園にある明智光秀公像前をスタートし、油小路蛸薬師にある本能寺跡までの約23㎞のうち、旧山陰道(山陰古道)にある<老ノ坂峠越え>前後約8㎞を追跡ハイキングした。
光秀軍1万1000が3軍団に編成され、亀山城を6月1日午後7時に第一陣の小隊がスタート、6時間かけて本能寺付近に到着したとして、6月2日午前1時ごろであったと思われる。 最後の部隊も、6月2日午前3時ごろまでには本能寺に到着し、戦闘準備に入ったとおもわれる。
ただ、今回の追跡ハイキングで分かったことだが、一般的に言われる老ノ坂峠でのルートの選択・設定の仕方で時間・距離は違ってくることが分かった。
今回、追跡した老ノ坂峠ルート 約8㎞の特徴は、最短距離であるが、大軍が移動するためには一部区間の山道が狭すぎるような気がした。
同じ老ノ坂ルートでも、老ノ坂峠を越えたあと、B点で左折し、老ノ坂城址(京都守護西関所)前を通って、現在の国道9号線(山陰道)を下って、沓掛で旧山陰道に入っていくルートも考えられる。
ただ、当時京の警備を担っていたのは信長であるから、関所として機能していた<老坂城址>には、信長配下の役人が詰めていたと推測する。 しかし、光秀軍は信長の命令による備中高山城への派兵指令書を携行していたであろうし、堂々と関所を通過できたと思われる。
老ノ坂峠越え付近図
光秀軍<老ノ坂峠越え>進軍ルート概略図
当時の西の<老ノ坂城址>は、東の<逢坂の関>と共に、京の東西二大関所として人流・物流を取り締まっていた。
歴史書では<本能寺の変>で、<老ノ坂峠越ルート>のほかに、丹波から京への進軍ルートとして<明智越えルート>と<唐櫃越(からと)ルート>も取り上げられている。
しかし、比較検討した結果、まず標高のある登山進軍路<愛宕山麓の明智越え>の大部隊進軍は考えにくいので除外した。 次に標高400m級の尾根道を約15㎞も駈け抜ける<唐櫃越え(からとごえ)>も武装した大軍の移動には無理があるので、こちらも除外して考えた。
ただ、<明智越え>と<唐櫃越(からと)>のルートは、先発隊、隠密や、伝令・情報ルートとして使用したと思われる。
<本能寺の変> 光秀軍 進軍ルート
―明智越え・唐櫃越え・老ノ坂越え―
<本能寺の変>の6日前の天正10年(1582) 5月27日、光秀は信長の命による中国出陣を命じられ、坂本城より亀山城に向かう途中、京都を見下ろせる愛宕山に登り、必勝を祈って参籠している。その際、先ほども述べたが、光秀は社前で3度もくじを引きなおしたという言い伝えは有名である。
信長との家康接待の在り方にたいする考えの相違から来る確執と、家康接待準備中での役替え、それにつづく中国地方への派兵命令と、心中穏やかでなかった光秀の様子が見えてきて、主君信長への謀反のこころの揺れが見てとれる。
また、翌日に催した連歌の会での光秀の発句が、「時(土岐=明智家)は今あめが下しる五月哉」であると伝えられ、この時すでに光秀の謀反の決意が固かったとも言われている。
ではなぜ、光秀をここまで追いつめていたのか、主君信長から備中高松城攻めの秀吉の援軍として派兵命令を受ける直前の二人の確執や、互いの行き違いについて少し触れておきたい。
1)両者の生来の性格の行き違い
信長と光秀の性格は、光と影ほどの開きがあったと山岡荘八も全集「徳川家康」の<心火の巻・離間>で書いているが、いや真逆であったと言う方が正しいかもしれない。 これまでは、その相違がお互いを認め、高め合って来たともいえる。
信長は、光秀の築城や砲術を高く評価し、学問や社交術を認め重用してきていた。しかし、信長の野生的激しさをもっての持論の押し付けに対し、光秀は正反対に何事にも重厚さを見せ、尊大ぶるところがあり、その両者の極みが<家康の接待>で爆発したと云える。
2)家康接待に見る両者の齟齬は、不審の頂点
例えば、光秀の設計による城であったと言ってもよいびわ湖東岸にそびえる華麗なる安土城に、信長が戦賞のお礼にくる家康をねぎらうとあって、饗応役に抜擢された光秀は、信長と家康双方に満足いくプランを練っていた。
家康の宿所を大宝院の森に造ることに決め、信長の許しをもらうと、優美な安土城にも劣らない華麗を極めた御殿が出来上がった。
しかし、検分した信長は、「手落ちのないようよきに計らえ」と言っておきながら、次のように光秀を𠮟責、戦賞のお礼にくる者をもてなすのに「これは一体、何者を泊める宿舎なのじゃ」と形相を変える。
光秀は、信長の怒りの真相を知りたいために信長に迫るが、「あとで城に来い」の一言を残して去る。ただ、信長のその怒りは、何時ものように突発的であり、一瞬にして消え失せているのが常である。 それに対して、光秀の性格は、慎重すぎるほど慎重な態度で接するのである。
そのたびに信長は、再びじれた怒りが湧いてきて、罵声を浴びせるという悪循環が両者の間に繰り返され、引くに引けないところまで行き着いたのが、今回の<本能寺の乱>の大きな要因であるとみる。
決裂したあと、家康饗応役を解かれ、秀吉援軍として中国行を命じられる。
その後、妄想は妄想を呼び、お国替えにまで至り、不信感は膨れ上がるばかりで、光秀謀反<本能寺の変>へとつながっていく。
<本能寺の変>は、起こるべきして起こった日本史における歴史的大事件であったと言われている。
だが、当時の下剋上のもと、戦国武将であった光秀は、主君信長に対する忠誠と反感のはざまで悩み苦しんだ一人でもあったとも云える。
結局、天正10年(1582)6月2日未明、光秀は、京都・本能寺に宿泊していた信長を急襲し、歴史をひっくり返す「本能寺の変」を起すことになる。
信長の信頼厚かった光秀と、家臣でも容赦なく切り捨てる信長との性格の相違からきた「本能寺の変」は、疑心暗鬼がもたらした日本史上最大の下剋上を生んだとも言われている。
さて、先でも述べたが、光秀軍が丹波亀山城を出て、本能寺へ向かったとされるルートには
<唐櫃越(からと)>や<愛宕山麓の明智越え>があるが、ここでは最も可能性がある<老ノ坂越え>を
追跡することにした。
特に、<篠村八幡宮~老ノ坂峠~首塚大明神~沓掛>の旧山陰道(一部山陰古道)を歩き、明智軍を追跡し
てみた。
では、追跡サイン■をたどりながら<旧山陰道 老ノ坂峠>を越えることにする。
― 光秀軍<老ノ坂進軍ルート>を追跡する―
<老ノ坂進軍ルート>を追跡する前に、亀山城から始まる<本能寺の変>の流れを再度考察しておきたい。
明智光秀は、天正5 年(1577)、信長より拝領した丹波攻略および平定の拠点とするために丹波亀山城(三重三階)を築城したが、 領国経営が軌道に乗りかけた天正10(1582)年6月1日、主君信長を討つため、この城を後にして、本能寺に向かって進軍を開始した。
五層の天守を持つ重厚な亀山城(写真参照)は、明治維新に入って廃城処分となり、最終的に宗教法人大本教の手に渡り、本丸跡の石垣が修復され、現在に至っている。
(大本本部みろく会館総合受付に申し込むことによって石垣を見学することができる)
亀山城址について<大本・天恩郷 (丹波・亀山城址)>で次のように紹介されている。
「亀山城址は、現在、(宗)大本の境内地となっています。歴史は古く天正3年(1575)織田信長から丹波攻略を命じられた明智光秀がこの地に城を築いたことに始まります。丹波を平定したものの、ここから兵を進めた同十年の「本能寺の変」はあまりにも有名です。
慶長15年(1610)、徳川家康が命じた「天下普請」で藤堂高虎による五層の層塔型天守が出現、亀山城は近世城郭として完成し、亀山藩ができます。その後は、京都に隣接する山陰道の要衝として栄えました。
明治維新で藩は亀山県になり、明治11年(1878)頃亀山城は取り壊されます。建物の一部は寺院の山門などに再利用石垣は京都鉄道(現・トロッコ列車)の鉄道工事用石材として大量に転用されたといいます。
大正8年(1919)、転売を経て荒廃した土地を大本が購入、石垣を積直し神苑として整備、「大道場」を開設しました。大正と昭和の大本弾圧事件で、敷地を没収され廃墟と化しますが、返還され今に至っています。 (受付申込みで城址の一部が見学できます)」 (案内板より)
亀山城天主台石垣 南郷公園に建つ<明智光秀築城亀山城址>の石碑
スタート地点<南郷公園の明智光秀公の像> 明智家の紋である青桔梗紋
<南郷公園の歴史的考察―解説板より>
「山陰街道が通り、城下町が広がる亀山城の南側は、内堀、外堀、惣堀(そうぼり)の三重の堀と御土居がめぐり、堅牢な構えを呈しています。一方、南郷公園の立地する北側の搦手(からめて)は、外堀が一重にめぐらされているだけとなっています。これは、有事の際には、保津川の流れを塞(せ)き止めると、北側の水田は一気に大きな堀となるように考案されているためです。 亀岡市」
南郷公園池(亀山城外堀・雑水川利用)
<スケッチ亀山城>
スケッチに見る亀山城の出陣時の背景 : 天正10年6月1~2日は、日本史における最大の下剋上<本能寺の変>が起こった2日間である。
この日は新月にあたり、亀山城(丹波亀岡)も本能寺(京都)も、月は暗闇の中にあった。
新月とは、地球から見て月と太陽の方向が同じになり、月から反射した太陽の光が地球に届かず、地球から月が見えない状態である。
暗闇は、光秀軍の本能寺への進軍を助けたと云える。 進軍中、ただ1件のご注進があったが上司に取り合ってもらえず、光秀軍は妨害を受けずに本能寺にたどり着いている。
また、この頃、夜間それも暗闇での進軍は見られないところから、光秀軍将兵も異常を察知していたともいえる。
また、スケッチでは暗闇を黒い月で表現し、その日の北斗七星を書き加えている。 なぜならば、光秀はこの時、必勝を願って<破軍星である北斗七星>を背にして少し迂回しながら進軍したと言い伝えられているからである。
スケッチにある五重五層の亀山城は、明治に入っての廃城時のもので、<本能寺の変>における三重三層の亀山城ではない。
Sketched by Sanehisa Goto
<明智光秀の略歴>
光秀軍<老ノ坂峠越え>追跡ハイキング出発前に、京の東の守りと、西の坂本城という重要な拠点を任されていた亀山・坂本両城主であった明智光秀について見ておきたい。
明智家は、美濃国(現 岐阜県)を根拠とした摂津源氏の流れを汲む土岐氏(ときし)の一族である。
斎藤道三に仕えるも斎藤家の内紛によって明智家は離散するが、一族の明智光秀が落ち延びて明智家を再興している。
その後、越前国の朝倉義景に仕える。 この時、朝倉家の庇護のもとにあった足利義昭は、信長に推されて第15代将軍に就任することになる。
その際、信長と将軍との連絡係として信長に信任され、これを機に織田家直臣として破格の待遇で召し抱えられ、信長の命令により困難で、残虐な多くの戦いに従軍し、功名をたてている。
しかし、宣教師で信長と親交のあったルイス・フロイスは、その著書「日本史」で「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」、「裏切りや密会を好んだ」、「刑を科するに残酷」、「独裁的でもあった」などと評している。
信長と同じく冷徹な合理・現実主義者としての顔と、真逆の温情深い反面、猜疑に満ちた顔を合わせ持っていた。
しかし、主君 信長への不信から<本能寺の変>という謀反(クーデター)を起こし、<山崎の戦い>で秀吉軍に2時間ほどで敗北、坂本城への逃避中、伏見・小栗栖の竹藪で土民の落ち武者狩りにあって落命している。
《追跡ハイキング指令書》
―<本能寺の変>における光秀の足跡(サイン)を確認し、そのルートを追跡・踏破せよ―
<老ノ坂峠越え>約8km追跡ハイキングに出かける前に、まずは<本能寺の変>へ至る明智光秀の動線に触れておきたい。
<本能寺の変>は、自由奔放な織田信長と、真面目な明智光秀、その性格の違いが表面化した結果であったといわれる。 光秀の信長に対する、その怨念の幾つかを見ておこう。
例えば、光秀との親交があった朝倉義景や、将軍足利義昭への信長の攻撃・滅亡への嫌悪感、
特に光秀と親交深かった浅井長政と朝倉義景の頭蓋骨に金箔を貼り、飾って酒宴をしたことへの嫌悪感、
「比叡山の焼き討ち」や「長島一向一揆の虐殺」への人道的反感、
酒を飲めない光秀に、からかい迫り、満座の嘲笑を誘う信長の嫌がらせへの反感、
長篠の戦後の、信長富士山初見物の酒宴での光秀の口上に激怒、蹴とばしへの恨み、
(「長篠の戦の勝利は信長公と皆さんのお陰」に対し「お前が何をした?」と激怒)
朝倉家後の越前を本願寺の一向一揆が支配、信長は皆殺しを命じ老若男女を虐殺など
列挙するときりがない。
とくに光秀を苦しめたのは、丹波を支配する波多野家を信長の命により光秀は攻めるが、攻めきれず母親を人質に降伏を勧め、波多野兄弟を信長のもとに送るが、赦さず処刑、これに対し波多野側は光秀の母親を殺す。
<本能寺の変>の3年前のこの事件は、信長への深い恨みとなって、光秀謀反の最大の因となったといえる。
ただ、信長の無茶は、家康の正妻と長男信康の武田家内通に対する罪として切腹を命じたり、秀吉の備中攻めでの宇喜田直家との対毛利同盟に対する信長の「勝手な真似をするな。宇喜田を滅ぼせ」との無茶と、光秀にだけではなかった。 しかし、秀吉や家康は、光秀による謀反と異なる道を選んでいることに注目したい。
家康・秀吉両武将は、光秀の<本能寺の変>を契機に、信長亡き後の天下統一に邁進していることである。
<本能寺の変>直前の、信長軍団は各地に参戦中で、信長の周りは防備が手薄であった。
秀吉は中国地方で毛利と戦闘中、柴田勝家は北陸地方で上杉謙信と戦闘中、滝川一益は信濃で北条家と対峙、織田信孝と丹羽長秀は四国の長曾我部への侵攻準備中で、信長は天下統一の仕上げに入っていた。
信長軍のほとんどが遠征中で、無防備な信長の空白地帯を突いたのが光秀による<本能寺の変>であった。
では、<本能寺の変>前後の光秀らの動きを時系列に見ておきたい。
<本能寺の変>前後の光秀らの動き
<本能寺の変>の前後の光秀らの動きを略図で見てみると次のようになる。 数字➀~⑲は、前の表の時系列を示している。
<本能寺の変>前後の動き 1582(天正10)5/15~6/13
■②追跡ハイキング: 亀山城 ➡ 篠村八幡宮(光秀軍終結地)
亀山城にいた将兵は、集結地<篠村八幡宮>に向かって城を後にした。
光秀築城の丹波亀山城跡を<老ノ坂越え>の追跡ハイキングのスタート地点とし、城址公園ともいえる南郷公園の池(亀山城の外堀・雑水川/ぞうずがわ)前に建つ<明智光秀公の像>を出発した。
<旧山陰道>(府道402号線)を<篠村八幡宮>へ 亀山城の外堀としての役割を担った<年谷川>
亀山城の外堀的役割を果たし、南側防衛線であった<年谷川>を渡る。 川沿いには、光秀による千本松の松並木がかってあったと言われる。 また城外へ出たとはいえ、古からの街道筋<旧山陰道>であるだけに、現在でも街道の華やかな面影が残っているように感じられる。
いよいよ城下町を外れ、集結地である<篠村八幡宮>向かう。
亀山城址の南郷公園にある<明智光秀公像>より約3km、1時間ほどで追跡サインである<篠原八幡宮>にたどり着いた。
■③追跡ハイキング:
篠原八幡宮(光秀軍終結地) ➡ 王子神社をへて<老ノ坂峠>へ向かう
光秀軍11000の将兵は、午後7時ごろ亀山城より京寄り約3km先にある<篠原八幡宮>の鎮守の森に集結して、出陣の命令を待った。
出陣にあたって、重臣による軍議が篠原八幡宮社殿で行われ、行先変更による混乱を避け、全軍の意思統一を図るため、重臣たちに本能寺襲撃を伝え、兵士には京で信長の閲兵を受けることになったと伝えたともいわれている。
もちろん、先行する関所宣撫隊や、山陰道ルート上の各村・村民に対する慰撫隊、また光秀軍の京への進軍情報を信長陣へ通報する者を阻止(殺害)する工作隊を先行させ、さらに隠密に行動する別動隊を<唐櫃越え>ルートで潜行させたと思われる。
<篠原八幡宮>の参殿で行われたであろう軍議では、緻密な計画を練ることで知られている光秀は、さらなる差配を直近の部下に指示したと思われる。
特に、本能寺での幾重もの包囲陣の徹底した掃討作戦を指示し、信長の首印を確実に上げるように念を押したと言われる。
出陣にあたっての、新月の暗闇の中、必勝を期した鬨の声が篠村八幡宮の鎮守の森から聴こえてきそうである。
話はそれるが、ここ<篠原八幡宮>が、足利尊氏(高氏)旗揚げの地であり、縁起のいい地であることをもちろん光秀も知っての終結地であったいえよう。
光秀が、縁起を担いだ<足利高氏旗揚げの地 篠村八幡宮>について少し述べておきたい。
1333(元弘3)年4月27日、足利高氏(尊氏)は鎌倉幕府討幕の旗挙げにあたって源氏復興を願う願文や鏑矢をここ篠村八幡宮に奉納し、戦勝祈願をしている。
明智光秀もまた源氏、<本能寺の変>に向かうにあたって、ここ篠村八幡宮で戦勝祈願している。
また、足利高氏が残した願文や寄進状はじめ境内には奉納された矢を納めた<矢塚>や白旗を掲げ参戦諸侯の集合目印とした<旗立ての楊>(はたたてのやなぎ)が山陰古道に面してそびえ、往時が偲ばれる。
さて、出陣の号令をかけた光秀の心境はいかほどであっただろうか。
主人殺しに向かうその光秀の覚悟は、計り知れないが、平常心ではなく異様な精神状態であったと言えよう。 光秀の言動から見て謀反を起すような武将ではなかったと見られていた。 いつからか、信長の虐殺癖に逆らいながらも付き合わされ、その鬼畜的な蛮行に、<本能寺の変>によってみずから立ちはだかったように見られるからである。 やむに止まれない謀反であると見たいし、主人を間違えた、文人武将の最後の抗いであったとも、また、<本能寺の変>に光秀の正義が隠されていたとも受け取りたい。
山陰古道に面して立っている<旗立楊>(はたたてやなぎ)全景
全国からはせ参じる武将たちの目印として楊の木に白旗を掲げたとある
<足利尊氏 旗立楊>(はたたてやなぎ)石碑
<矢塚 篠村八幡宮>
社殿の左手奥、二代目椎の木の前に<矢塚>がある。
光秀が、<本能寺の変>決起の前に、ここ篠原八幡宮を明智軍の集結の場とし、必勝の祈願をした場所であり、恐らく故事にのっとって祈願が行われたとも思われるので、ここに紹介しておきたい。
<本能寺の変>より約250年前、ここ篠村八幡宮に陣を張った足利高氏(尊氏)は、戦勝祈願の<願文>を神前で読み上げている。
高氏が自ら<願文>に添えて一本の鎬矢(昔の合戦開始の合図として敵側に射込む矢)を奉納したところ、今川・上杉・細川ら多くの武将が上矢を奉納して祈願し、社壇には矢が塚の様にうずたかく積み上げられ、その矢を埋納した場所が<矢塚>と呼ばれている。
<矢塚> 篠村八幡宮
<篠村八幡宮境内案内図>
篠村八幡宮の裏を山陰古道が走り、街道を<旗立楊>が見下ろしている。
亀山城の城下町より離れた篠村八幡宮は、人家も少なく明智軍が終結するためには、絶好の鎮守の森の中にあったと思われる。
足利尊氏も鎌倉幕府打倒の宣誓書を全国の武将に送り、その集合場所をここ篠村八幡宮の山陰古道に面した楊(やなぎ)の木に、白布切れを結び、目印にしたという言い伝えに、 光秀も天下取りの己を重ねていたに違いない。
<光秀編成軍 篠村八幡宮の鎮守の森を発す>
新月の暗闇に星が輝き始める前、東北の愛宕山麓の影を引くここ篠村八幡宮の鎮守の森に集結した光秀軍は、鬨の声を高らかに揚げ、京への道である<明智越え>、<唐櫃越え>、そして本隊が向かう<老ノ坂越え>に分かれて出陣した。
時刻は、6月1日19時(午後7時) <暮六つ 酉の刻半>である
明智光秀軍の中国派遣軍は、次の3軍団に編成された。 これはもちろん<本能寺の変>信長襲撃軍の編成でもある。 総兵力約11000であった。
第1軍団: 大将・明智左馬助光孝 将兵 約3700 本能寺襲撃隊
第2軍団 : 大将・明智治左衛門 将兵 約4000 二条城と妙覚寺襲撃隊
第3軍団 : 総大将・明智光秀 将兵 約3200 <本陣> 三条堀川
(今回の追跡ハイキングでの数値は、山岡荘八全集「徳川家康」を参照した)
篠村八幡宮より続く山陰古道 チェックポイント<愛宕常夜灯 篠原>
篠村からの山陰古道を追跡
<1582年6月1~2日>月齢を見ると、
光秀軍本隊が老ノ坂峠を越え京へ向かった6月1日夜と本能寺襲撃の6月2日早朝の月齢を見ると新月0.4%の微光でほとんど暗闇であった。 新月は、闇夜に乗じて将兵を動かすためには絶好の条件を備えていたといえる。 しかし、この時代<夜間進軍>は行われていなかったので、不審に思った者もいたといえる。
またその分、闇に進む光秀軍も大変であったと思われる。
<6月1日午後7時 酉の下刻 同時刻 本能寺 ―信長「敦盛」踊る>
光秀軍が京に向かって動き出している頃、本能寺では中国出征の織田信忠と源三郎兄弟を囲んで信長、濃御前は親子水入らずの酒宴をもち、信長は「敦盛」 <人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり>を踊っている。
ここで信長が踊った幸若舞『敦盛』が意味する哀愁に満ちた一節を見ておきたいと思う。 あとわずかで人生50年を迎える信長にとっては、人生の節目として、自分に重ねながら踊ったに違いないからである。
「敦盛」
思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ
<現代語訳 歌詞の意味>
思えばこの世は無常である
草葉についた水滴や
水に映る月より儚いものだ
晋で栄華を極めた金谷園(きんこくえん)も風に散り
四川・南楼の月に興じる者も
変わりゆく雲に被われ姿を消した
人間界の50年など
下天(化天)での時の流れと比べれば
夢や幻も同然である
ひとたび生まれて
滅びぬものなどあるはずがない
これを悟りの境地と考えないのは
情けないことだ
篠村八幡宮の鎮守の森を出た、光秀軍各隊は次の進軍ルート図のように京に向かっている。
老ノ坂峠を越えた本隊が、沓掛で休憩をとっている時、兵は自分たちが京に向かっていることに疑問を持ち始めたようである。 その時、本部より下知が届き、「これより軍兵を、京で信長公が閲兵される。 軍装を整えよ」との命が伝えられた。
有名な<敵は本能寺にあり>という光秀の宣言は、ここ沓掛で発せられたとも、また桂川到着時京を目前に発せられたともいわれる。
これだけの重武装した将兵の進軍には、光秀軍も発見を恐れたようで、先鋒隊を出して密告に走る者を消し去る様にしていたようである。 しかし、百姓の一人が闇夜に紛れ行進する大部隊に疑問を持ち、注進した者があったという。 それは京都所司代村井長門の家人 小平太というもので、注進するが上司に取り合ってもらえなかったという。
歴史は、案外ひょんなことから成り立っているようで、今があるのだから面白い。
注進を受けたとしても、信長手勢の500では、防ぎようがなかったともいえる。 やはり、<本能寺の変>は、確実に後の歴史へ引き継がれたのである。
■④ 追跡ハイキング:<王子神社> ➡ (山陰古道を歩く) ➡ <老ノ坂峠>
篠村八幡宮の裏手にある山陰道を出た光秀軍は、老ノ坂峠に向かって進み、途中の王子神社の湧き水(清水)で口を潤し、小休止した小隊もあったことだろう。
また、山陰道を上る多くの旅人が、老ノ坂越えにあたって、<峠神>でもある王子神社で守護を願ったとある。
ここ王子神社より、現在の国道9号線(山陰道)に抜ける分岐<メガネ橋跡>の間は、<山陰古道>として紹介されている。
王子神社前の標識に従って、旧山陰道(府道402号線)より左に下って、<山陰古道>に入っていく。
<山陰古道>分岐に建つ標識に従う
<山陰街道の宿場町>
王子神社あたりには、いくつかの旅籠があって、京から老ノ坂峠を越えての<間ノ宿・大枝宿>があったともいわれている。 また、京へ上る旅人にとって、京の手前でもあり衣服を整え、化粧直しをしたとも思われる。 そしてまだ見ぬ京の都を想い描き、浮立つこころを抑え、ちょっぴり不安をもって出立したであろう。
ここ<間の宿・大枝宿>は、京側の<樫原宿>と、次の<亀山宿>との間に位置していることになる。
ちなみに、明智光秀以降の近世の山陰街道の宿場町を見ておきたい。
京の丹波口を起点として、➀樫原宿を経由し<老の坂>を越えて丹波国に入り、②亀山宿、③園部宿、④須知宿、⑤檜山宿、➅莬原宿(うばらしゅく)、⑦福知山宿に達し、⑧和田山宿からの但馬国へとつながり、<山陰街道>は全部で36宿で成り立っていた。
王子神社からの<山陰古道>は田圃を見ながら<鵜の川>を渡ると<船着場跡>にでる
光秀時代、ここ鵜の川の<船着場>から、小舟で桂川(保津峡)に運び、地元の特産品や農産物を、筏で京へ運んでいたと思われる。 現在、ここから桂川(保津峡)まで随分と離れており、水運を支えた舟着き場としての面影は全く見当たらない。
保津峡下りは、1200年前の長岡京造営の木材調達のための筏流しが始まりで、筏と共に舟が流通したのは1606年の保津峡開削後であるとされる。
長閑な<山陰古道>を追跡 <三軒屋>跡
<山陰古道>は田園風景を見ながらなだらかに上っていくと、2番目の鵜の川支流に架かる橋の手前に<三軒屋>標識があり、付近に廃屋が幾つか見られる。
山陰古道<府道402古道入口➡国道9古道出口>ルート図
さらに<山陰古道>を緩やかに上っていくと、急に昼なお暗き竹藪のトンネルに入っていく
山陰古道の竹藪に今も残る占い師の坐った岩 山陰古道の息吹を観ずる竹藪街道を追跡
旅人は、京に近づいてほっとするとともに、まだ見ぬ都に不安を感じる時、この岩に座って手招きする占い師に引き寄せられ、これからの運勢を見てもらい、こころ安らかにして京へ向かったのであろう。
<唐櫃越え>へ向かう中の谷林道との分岐 国道9号線<山陰道出入り口>が見えてきた
山陰古道は直進(右へ) ( 左・老ノ坂峠へ / 右・メガネ橋へ)
<山陰古道>の国道9号線の出入口(メガネ橋手前分岐)
<メガネ橋>は右へ約100m先にあり
<山陰古道>の国道9号線の出入口(メガネ橋手前分岐) にあったはずの標識がなくなっていたので、行先(方向)を間違わないように注意したい。 (写真右は、数年前に撮った標識)
光秀軍<老ノ坂峠越えルート>は、山陰古道(メガネ橋)分岐から、現在の山陰道(国道9号線)にでて、左折し、山手へ400mほど路肩を進み、通行車に注意しながら横断、京都縦貫自動車道のガードをくぐり、自動車道の上下路の間に残された旧山陰道を進んで、竹藪の道<老ノ坂>を上り峠に向かっている。 国道9号線(山陰道)を横切る時は、左右の車に厳重注意のこと。
<光秀軍・老ノ坂峠進軍ルート詳細概略図>
ガード上は<京都縦貫自動車道>
<王子橋 ― 明治初期に造られた石積みアーチ型メガネ橋> 立寄り先
旧道R9に架かる<石積アーチの王子橋>
光秀時代、桂川に注ぐ鵜の川は、老ノ坂の上り口辺りで深い渓谷をなす難所であったといえる。
山陰古道は、この難所である渓谷を避けて、迂回して作られていた。 明治17年(1884)に西欧式石積技法によってアーチ式石積渓谷橋<王子橋>が架けられるまで山陰古道がメイン街道であった。
<信長は何故 光秀中国派遣軍に軍監を付けなかったのだろうか>
追跡ハイキングをしながら、ふと疑問に感じたのである。
もし、信長が各戦場で戦う軍団に信長の信頼する軍監を派遣し、その情況を逐一報告させていたように、光秀軍にも同じく軍監を派遣して、その動きを報告させていたならば<本能寺の変>を防ぎえたと思われる。
なぜなら、光秀中国派遣軍は、中国方面に向かうならば亀岡より現在の国道423号線と171号線を南下するはずだが、京への街道である山陰道、それも老ノ坂峠を越えたこと、老ノ坂峠後の、最短の中国方面行である西国街道に通じる沓掛通過に関する情報さえも信長には報告されていないのである。
その光秀の京へ向かっての進軍を、誰も信長に情報提供していないところに、あの用心深い信長の不用意さが見てとれる。
それだけ信長は、光秀を信頼していたのだろうか。 いや、この出兵の最たる原因である、家康接待饗応役解任を考えても、光秀の行動に注意すべきはずであったと思われるからである。
あの家康一行の堺遊覧でさえ、長谷川秀一(竹丸)を案内接待役(監視役兼務)として同行させ、逐一報告させていたほどである。
<老ノ坂峠越え 光秀軍進軍ルート>
今から441年前、光秀軍は新月の闇夜のなか丹波の国と山城の国の境である老の坂峠を越えようとしていた。
もちろん、これから向かう旧山陰道を監視する関所としての<老坂城址>や、いくつかある山陰道の間道や脇道全体を抑えるために設けられた<沓掛城址>にも光秀の手の者による慰撫・懐柔がなされていたと思われる。
老ノ坂峠へは京都縦貫自動車道上下路の間道進み、老ノ坂を上っていく
京都縦貫道南北路間にはさまれた旧山陰道を進み、竹藪を見ながら坂を上ると<老の坂峠>に出る。 峠には、追跡ハイクで必要な目印<老ノ坂峠>の標識がない。 グーグルマップで同定(GPS)し、<老ノ坂峠243m>であることを確認した。
写真右手に脇道があり、上っていくと峠上の大枝山(おおえやま・272m)を経て、西山霊園に続く。
<是より東 山城国>の石柱碑は、この先の<首塚大明神>手前右手の草むらに立っている。
<従是東山城國>石柱碑
<首塚大明神>手前右手にある
光秀はどのような心境で、元には戻れない一線、ここ「老ノ坂峠」を越えたのであろうか。
天下人は、決して実力だけでなく、目に見えない運命に支配されていることに賢い光秀は知っていて、<なぜ自分は動いたのだろうか>と彼の性格からして幾度も反芻していたに違いない。
光秀軍 老ノ坂峠ルート <山陰古道出口➡首塚大明神>
<老ノ坂峠>上にある 大江山山頂272mにて
■⑤追跡ハイキング: <老ノ坂峠> ➡ <首塚大明神> ➡ <沓掛>
<敵は本能寺にあり>はどこで発したのか?
ここ旧老ノ坂峠において、<敵は本能寺にあり>と光秀は、京へ向かうことを宣したとも言われている。 しかし、休憩した沓掛で発したとか、京に入る前の桂川で発したとか諸説がある。
ここでは、通説の桂川で中国行から京へ向かうにあたって<敵は本能寺にあり>と発したとしたい。
<旧老の坂>に咲く野花 老ノ坂峠先にある<首塚大明神>
旧山陰道の<老ノ坂峠>を越えている時、野花が語りかけてきた。
「私たちの言い伝えによると、光秀軍は一人として口を開かず、これから起こるであろう<本能寺の変>を予見しているかのように、一糸乱れない緊迫感あふれる夜間行軍であったと伝えられており、すでに将兵は、<敵は本能寺にあり>を知っていたのではないか」 と教えてくれた。
わたしもそう思う一人である。 その根拠は、光秀軍の京へ向かっての進軍が、ここ老ノ坂にあっても信長側に伝わっていないことである。
西の関所であり、物見の塔があった老坂城・沓掛城にも察知されていない所を見ると、光秀軍の宣撫工作や、将兵への徹底した箝口令が敷かれ、意思統一が図られていたとみるからである。
<首塚大明神> 立寄り地
明智光秀軍の<老ノ坂進軍ルート>にある<首塚大明神>は、その昔から心霊スポットとして有名であったらしい。
<首塚大明神>は、平安時代の初期、丹波の国大江にいた酒呑童子が婦女子をかどわかすなど悪行を重ねたので、天子は源頼光らに酒呑童子の退治を命じる。 童子とその一族を退治し、その首級を京へ持ち帰る途中、ここ老ノ坂で休憩、子安地蔵尊から<不浄なものを京へ持ち込んではならない>と云われ、この地に首を埋めて<首塚>をつくったと言われる。
光秀軍が新月の夜道を歩きながら、首塚を祀る大明神を縁起悪がったとも思われる。 なぜなら、彼らの多くは数日後に起こる天王山の<山崎の戦>で、秀吉軍に敗れ、首を刎ねられるか、落ち武者となって四散、壊滅したからである。
大将である明智光秀は、秀吉軍に敗れ、居城であるびわ湖畔の坂本城に向かっての逃避行にあって、淀川沿いに伏見にでた小栗栖の竹藪で待伏せの土民に襲われて全滅、光秀も命を絶っている。 そしてその御首は、粟田口刑場で晒されたのち、三条白川橋南を下ったところに、光秀の首塚として残されている。
三条白川橋南にある光秀の首塚
確かに、<首塚大明神>は鬱蒼とした樹木に囲まれた、昼なお暗き、すこし高まったところにある。
勢いよく丹波亀山城を出陣した光秀軍11000名の将兵は、深夜、暗闇の中、老の坂峠を越え、これより京へ向かって下る矢先に首塚をみて、その前途の不吉なることを恐れた者もいたのではないだろうかと思いつつ、旧山陰道を下り、追跡した。
考察:<もう一つの光秀軍老ノ坂進軍路> 老の坂峠➡山陰道(国道9号線)への間道
老の坂峠(標高244m)を過ぎて150mほど先に右手から上がってくる細い道がある。 ちょうど蜂蜜販売店のところでT字路となり、標識が出ている。
この道は、現在の老ノ坂トンネルの京都側入口左手から上がってくる<西山古道>(トレッキングコース)であり、ここには<老坂城址>(標高230m)があり、丹波方面からの敵を防ぐ砦・関所としての役割を持っていたと思われる。
光秀軍11000名の大部隊も、分散して京へ下ったと思われるから、この間道も明智軍進軍路として使用したであろう。 もちろん<老坂城址>に設けられた関所も先ほど述べたように、光秀先遣隊による慰撫あるいは制圧によって、難なく通過できたと思われる。
このことから、現在の国道9号線(山陰道)も、光秀時代以前から旧山陰道として一般に広く使われていたと思われる。 もちろんトンネルはなかったので、この間道が<老ノ坂峠>に向かっていた。
老ノ坂峠別ルート(老坂城址至る間道)
老の坂峠より、現在の<老ノ坂トンネル>入口手前下りてくる間道
(西山古道トレッキングコース)
この間道先の左手に<老坂城址>があった <老坂城址>手前の<サン・リバー>ホテルの廃墟
東の関所的役割のあった<老坂城址> 坂を上りきったT字路(旧山陰道)の標識
<左・首塚大明神/右・老ノ坂峠>
横道にそれたが、<首塚大明神>より先の追跡ハイキングを急ぐことにする。
首塚大明神より20m程先に鎖による車止めがあり、ここからは完全に歩きとなる。
車止めより続く舗装路は約100m先で、獣道のような細い山道に変わる。
その先にクリーンセンターへの道路がまたぐガードがあり、潜って向こう側<東の峠 標高269m>に出る。
首塚大明神の先の車止めより100m先のガード<東の峠269m>をくぐる
(ガード上は、クリーンセンターへの専用道路)
光秀軍通過時のガードがない風景を想像してみた。
西の<老ノ坂峠 標高243m>からの平らな旧山陰道は、<首塚大明神250m>あたりからゆるやかに上り、ガード下の<東の峠269m>を越えて一気に下り、<京都霊園の西端191m>に出ることになる。
<首塚大明神>先からは、<東の峠269m・ガード>を挟んで、<京都霊園西>までの間は、細い山道となる。 <光秀軍老の坂ルート>の最難関と言ってよいだろう。 夜間に重装備の将兵が通過するには難儀したと思われる。
光秀軍 老ノ坂峠進軍ルート <首塚大明神➡沓掛>
ガード(東の峠269m)をくぐり直進する ガードを振り返る
ガード(東の峠)を直進し下っていく
500m程下ると京都霊園に続く舗装道に出る
舗装道を下ると<京都霊園裏口>との分岐に出る(直進)
(分岐に鎖による車止めがあるので注意)
分岐左横は<京都縦貫道トンネルの京都側入口> 進軍路は直進
<沓掛城址>に関する考察 ー 立寄り先
右手に京都霊園を見ながら進むと左に<洛西の森散策路入口>があり、京都縦貫道のガードをくぐりピーク329mをへて<沓掛城址>のあった山頂321m及び<塔見の曲>に続いている。
今回の追跡ハイキングでは、クリーンセンター専用道路のガード手前で道路に出て、向かい側に渡ってセンターと反対側に15m程下ると、右手に高圧鉄塔保線用小径が尾根に続き、標識のある十字路に出る。 直進は高圧鉄塔をへて<塔見の曲>へ出る。 左折しても同じところに出る。
ガード手前の草むらを登りクリーンセンター道路にでて、約10m下り右手に入る
上っていくと十字路に出る 直進・鉄塔へ、左<塔見の曲>へ
沓掛城址は<洛西散策の森>として親しまわれている
この戦略的に重要な山頂に<沓掛城址>があり、先に述べた光秀軍進軍路である旧山陰道の<首塚大明神ルート>と間道<老坂城址ルート>を監視していたと思われる。
さらに、<沓掛城址>は、現在の9号線(山陰道)の北側の峰を走る尾根、光秀軍の一部が進軍路としたであろう<唐櫃越ルート>(からとこえ)をも監視の対象とした<峠監視用砦>としての役目を果たしていたと思われる。
<塔見の曲> 標高300m <塔見の曲>より亀岡方面の眺望
<塔見の曲>を上り、尾根に出たら左へ入っていく(不鮮明なルート・倒木に注意)
<塔見の曲>を更に上ると尾根に出る、尾根を左へ分け入っていくと<沓掛城址>標高321mに出る。 ただルート(獣道)は不鮮明で、倒木などを迂回しながら城址にたどり着く。
危険を感じたら入山を断念していただきたい。
尾根に出て右へ進むと略図にあるピーク329に出て、正規の下山路を下り、京都霊園側にでる。
ただ沓掛城址は、この尾根全体であり、黄色テープのある跡が標高321mの地点であると推測する。
この森全体が<洛西散策の森>であり、各地点に標識や、休憩用の長椅子も設けられている。
沓掛城址に進入危険のテープあり(標高321mか) 城址に書体不明の石柱あり
<洛西散策の森>案内板
<老ノ坂峠越え>ルートにもどる。
クリーンセンターのガードをくぐり、山道を500mほど下ってくると、舗装道路が見えて来る。
この道路は京都縦貫自動車道の側道なのだろうか、左手に高速道路、右手に京都霊園を見ながら自動車道のガードをくぐり、国道9号線(山陰道)の沓掛信号に出る。
京都縦貫自動車道のガードをくぐる 山陰道(国道9号線)の沓掛信号に出る
(京都霊園横の進軍路をすすむと山陰道・国道9号線の沓掛信号を横断し、側道を右へ下る)
沓掛信号を渡り、山陰道(国道9号線)の歩道を約250m下り、左手にあるホテル<和茶和茶>前より左手<旧山陰道>(府道142)に入っていく。 国道9号(山陰道)は、車の通行量が多いので、信号に従い横断・歩行には充分気を付けたい。
光秀軍「本能寺の変」本隊進軍路
(・・・・・・・・・・・・・老ノ坂越えルート)
今回の光秀軍<老ノ坂峠越え>追跡ハイキングは、ここ沓掛で終える。
沓掛から本能寺へは車で時系列をたどり、<本能寺の変>とその後の光秀を見ておきたい。
■➅ <沓掛 ➡ 樫原宿 ➡ 桂川 ➡ 本能寺>
<沓掛 明智軍休憩地>
<老ノ坂峠越え>の光秀軍は、ここ沓掛で本能寺襲撃に備えて夜食をとり、休憩をとっている。
こちらの追跡ハイキングも、ここ沓掛で終了し、引き続き<本能寺>に向かって、旧山陰道(府道142)に隠されているチェックポイントのサイン<愛宕常夜灯>を見つけながら、車で追跡することにした。
光秀進軍路・・・・・・<沓掛 ➡ 樫原 ➡ 桂川 ➡ 本能寺>
旧山陰道(府道142)は沓掛の街並みを抜け 国道9(山陰道)の信号<樫原秤谷>をまたぐ
国道の信号を越え、左へ下っていく 昔の山陰道の樫原宿の街並みが偲ばれる
<山陰道 樫原宿> (かたぎはらしゅく)
樫原に入っていくと、旧山陰道と物集女街道(もずめかいどう)の交差点<札ノ辻>(ふだのつじ)に行き着く手前に、光秀が信長の命令で丹波攻略にあたった折、老ノ坂より、樫原、桂川までの山陰道を整備し、その際、嵐山の渡月橋付近で桂川からの灌漑用水路を築造、地元の農民に<明智川>と呼ばれ、その功績を称えられてきた<小畠川>がある。
小畠川(明智川・灌漑用水路)
樫原を通過する光秀には、おのれが手かけてきた国造りを思い出し、感慨深いものがよぎったに違いない。
樫原宿は、旧山陰道(府道142)と物集女街道が交わる交通の要所<札の辻>(ふだのつじ)であった。 ここからでも西国街道を南下して、光秀軍本来の中国地方に向かうことができる。
もし光秀が優柔不断から、謀反を翻し、正気に戻って、京に向かわず、ここ樫原より中国地方にむかっていたならば<本能寺の変>は歴史から消え、信長は天下を取り、その後の日本の姿は変わっていたと思われる。
それだけ、樫原宿は、光秀の信長討伐の覚悟が見てとれる最後の<覚悟の通過地点>、いや<引き返すことのできない通過点>、光秀最後のターニングポイントであった。
ここ樫原宿には、<樫原陣屋跡・本陣>があり、早くから宿場町として設備も整い、丹波・山陰よりの物資の集積地として賑わいを極めていた。
全国各地に建てられた米蔵である<郷倉>が札ノ辻近くにも残っている。
また<本能寺の変>以降、徳川三代将軍家光が参勤交代制を敷くと、この陣屋は山陰道を参勤交代で往来した諸大名の宿舎となり賑わった。
樫原陣屋跡 (本陣・玉村家) 全国各地に建てられた米蔵<郷倉>
<チェックポイント 愛宕山常夜灯 樫原>
樫原宿を抜ける東端に、今回のルート追跡のチェックポイント<愛宕山常夜灯 樫原>がある。
ここで少し、愛宕山信仰についてふれておきたい。
丹波攻略のため信長に命じられ築城した亀山城(亀岡市)に通うことになった光秀は、度々愛宕山に参籠し、次なる作戦の戦勝を願ったと思われる。
また天下を狙っていたと言われる絶頂期の光秀にとっては、亀山城より京に通じる<明智越え>より嵯峨水尾(近くに清和天皇陵あり)を抜け、標高924m愛宕山にある<愛宕神社>に立って、天下の中心である京の天子の住まい<御所>を見下ろしながら、おのれの行き着いた姿を想い描いたに違いない。
<本能寺の変>直前の愛宕神社参籠にあたっては、今までにまして戦勝、いや天下人を強く祈願している。 しかし、願いもむなしく14日後には敗将となり、おのれの御首が粟田口刑場に晒されるという運命をまだこの時、光秀自身は知らなかったのである。
人生は不思議なものである。
漠然と生きた人生、いや平穏無事に生きてきた人生は、当然のように思い、あまり感謝がないものである。 しかし、与えられた長い人生の一瞬を切り取ってみた時、誰もが危機存亡の一世一代の危難を何度も切り抜けてきた人生であり、その瞬間天を仰いで感謝してきたものである。
しかしその後の歴史が、光秀に与えた称号が<三日天下>であったことは、光秀の天下取りからしてあまりにも悲哀に満ちた一生の締めくくりであったといえる。
<山崎の戦>で、秀吉軍に敗れ坂本城への敗走中、伏見の小栗栖での土民による襲撃により、一撃された瞬間、そこには、神仏に最後の感謝する時間さえもなかったと思うと、光秀の無念が伝わってくるようである。
追跡のチェックポイント<愛宕山常夜灯 樫原>
<チェックポイント 愛宕山常夜灯 西山御坊>
桂離宮の先に桂川あり 桂大橋より愛宕山(右端)を眺めながら渡る
6月2日未明、桂川に到達した光秀は、全軍に対して「敵は本能寺にあり」と号令を発し、決行の時<本能寺の変>を迎えた。 この宣言は、悩み抜いた後の光秀最後の<己への覚悟の誓い>であり、鼓舞であったに違いない。
一方、天下統一最後の仕上げをしていた信長は、本能寺に攻めこんだ光秀の軍勢を前に、火を放ち自刃し、その生涯を閉じる。
なぜ光秀が信長を討ったのか、その動機の真相は現在でも不明と言われる。 しかし、光秀の最後まで躊躇し続ける心境を見てきたが、光秀の中でも、天下に届く一番近い時に出会っている自覚を持っていたと言うことである。
信長に対して積もり積もった鬱憤を爆発させた「怨恨説」や、光秀が天下を取ろうとした「野望説」、 公家が権力を回復しようと光秀をそそのかして信長を討たせた「朝廷黒幕説」など、諸説がささやかれている。
しかし、信長への恩義をも感じていると思われる箇条書きが、御霊神社(福知山・光秀の霊を祀る社)の蔵書に、本能寺の変1年前に光秀の定めた明智家<家中軍法>の中に、「水に沈む瓦礫のように落ちぶれた身分であった私を召し抱え、たくさんの軍勢を預けられた。粉骨して忠節に励めば、主君にも伝わるだろう」と書かれているという。
当時は、現在とは違い、下位の者が上位の者を政治的・軍事的に打倒して身分秩序(上下関係)を侵し、権力を奪取する行為をさす「下剋上」の時代であり、光秀もその渦中にあり、主君信長への忠誠と反感の狭間に苦しみ、政治的手腕の相違に悩んでいたと識者の大半は認めている。
光秀軍が襲撃した<本能寺>は、蛸薬師と油小路を起点に、南東に広がる一角にあった
<本能寺>
本能寺は現在、京都市役所前の御池通りの南側にあり、信長公廟もここにある。
本能寺にある信長公廟
この地は<本能寺の変>後、豊臣秀吉の命令で、移転したもので、実際の<本能寺の変>が起きた場所は、蛸薬師と油小路を起点に南東に広がる一角(現在は「本能老人ホーム」や「堀川高校本能校舎」が建っている)にあった。
信長の京での宿舎でもあった本能寺は、信長の命令で四方に堀と土塁をめぐらした城郭構えに改められ、土塁に沿って敵の浸入を防ぐために、トゲのあるサイカチの木が植えられていたという。
丑の下刻 午前3時 光秀軍<本能寺>包囲・突入準備を完了
辰の正刻 午前8時 光秀軍<本能寺>で信長を自刃に追込み、討入り終了
光秀軍に囲まれたことを知った信長は、「是非に及ばず」と発したといわれる。
これには<光秀に謀反を起されても仕方がない>、<光秀に攻められたら、どうしょうもない>
という意味が込められているという。 信長の光秀謀反に対する覚悟の言葉、率直な言葉であると
受け止めたい。
この後、信長は蘭丸に火を付けさせ、自刃して、己の亡骸を灰塵と化している。
光秀は、信長の首を三条ヶ原に晒して、天下取りを宣言するはずであったが、予想外の信長自刃、遺体消失に再三檄を飛ばし、その信長の亡骸発見にこだわった。 光秀は、主人殺しの謀反人になることだけは避けたかったといえる。
だが、それは叶わず、光秀の美学が崩れ去る瞬間であった。
親しくしていた諸侯の離反・日和見、敵である秀吉側に追いやるという最悪の結果を招き、天下分け目の戦いである<山崎の戦>で、わずか2時間の戦闘で大敗を喫し、光秀は築いて来たおのれの理想のすべてを失い敗退。 坂本城に逃避中、伏見の小栗栖で土民の落ち武者狩りに遭い落命。 下剋上の戦乱の世に、光秀らしい一生を終えた。
伏見小栗栖にある本経寺境内には、<明智光秀公終焉の地>木札、<明智日向の守光秀公供養塔>があり、寺の裏手に<明智藪>が残っている。
光秀最期の地 <明智藪>
<老ノ坂越え追跡ハイキングを終えて>
光秀軍の<老ノ坂越え>約8kmを追跡ハイクし、光秀の心理を覗き見し、その息遣いに触れてきた。 しかし、夜襲といい、謀反と言い、追跡ハイキングにも最初から最後まで、何か空しさがついて回った。 そこには、希望や光を求めての追跡ではなく、いつも息を凝らし、暗闇の中、隠密に動く何か後ろめたいものがハイキングにも付きまとった。
あまりにも光秀の心理を覗き見し過ぎたからだと思うが、このブログに関しても重たい空気に押されて、なかなか本能寺にたどり着かず、立ち止まっては深呼吸し、何とか目的地にたどり着いた次第である。
いま、ようやく光秀公の最期の時を迎え、己に向かって「お疲れさま」と言うとともに、光秀公にも「お疲れさま、ゆっくりお休みなさい」と、その労をねぎらったものである。
それだけ、光秀公のストイックな生き方に付き合わされ、こちらも疲れ切ったのかもしれない。
この5月に行った<家康伊賀越え>追跡ハイキングのスリリングな逃避行追跡の方が、より明るく健康的であったことを懐かしく想いだしている。
追跡ハイクにあたって、研究不足には悩まされた。 帰宅しては勉強しなおして現場にもどっては確認し、約3週間を費やしてのブログのゴールである。
山陰古道では、<唐櫃越え>に迷い込んでは駆け戻ったり、<老坂城址>では何回も前を通っているのに見つけられなかったり、その隣の廃墟<ホテル・サニーバレイ>が日本有数の心霊スポットで老ノ坂でのナンバーワン訪れたいポイントであるのに驚いたり、草むらに埋もれた石碑を探したり、道なき道を、倒木を乗越えて沓掛城址に行き着いた時の喜び、朽ちた石碑の窪みに触れて読字するときの真剣さ、と追跡ハイキングの醍醐味も十分味わった。
まだまだ調査不足があるとともに、追跡結果に誤りもあると思われる。 どうかお気づきの点があれば下記のコメント欄をご利用いただき、ご意見をお聞かせ願えれば幸いである。
『星の巡礼 光秀軍の老ノ坂越え追跡記』
―本能寺の変 光秀軍<老ノ坂ルート>を追跡する―
完
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<関連ブログ>
2021星の巡礼『 いざ天王山! 山崎合戦跡を歩く 』 <本能寺後の明智光秀 と 三日天下> 先に、明智光秀の最期の敗走ルートを歩いてみたが、その孤独な最期は京都山科小栗栖の「明智藪」で終わっている。 いま明智光秀の敗走の地となった山崎合戦場跡をなが…
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2021星の巡礼『明智光秀最期の地を歩く』 明智光秀最期の敗走ルート<小栗栖の竹藪>を歩く NHK大河ドラマ「麒麟がくる」が終盤に差し掛かったころ、わが家では明智光秀と織田信長の性格の違いから、両者の血液型が話題になり、光秀の人となりを論じ合ったこ…
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2023 『星の巡礼 家康伊賀越え追跡記』 ー 追跡ハイキング報告書ー <家康伊賀越え>を訪ねる このゴールデンウイークに、長年温めてきた『家康伊賀越え』を追跡し、訪ね歩いて来た。 住まいの志賀の里(大津)から信楽を越えれば、待望の<伊賀越え>が西東…