shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2021星の巡礼『明智光秀最期の地を歩く』

2021星の巡礼明智光秀最期の地を歩く』

 

明智光秀最期の敗走ルート<小栗栖の竹藪>を歩く

 

NHK大河ドラマ麒麟がくる」が終盤に差し掛かったころ、わが家では明智光秀織田信長の性格の違いから、両者の血液型が話題になり、光秀の人となりを論じ合ったことがある。

 

天下統一を図った信長の女房役として、知性と良心あふれる才能を備えた智将が、夫婦間のつもりに積もった行き違いから、主君殺しという破廉恥な所業となり、共に倒れてしまった悲運な関係を解明するためであった。

 

今まで多くのNHK大河ドラマに接してきたが、幾つかを除いて真剣にまた楽しく年間を通して視聴することはなかった。

今回の「麒麟がくる」は、主人公 明智光秀が治めていた西近江の領地であった滋賀郡(志賀町木戸)に在住しているという親しみからと、明智光秀人間性に関心を持ったからである。

 

また晩年の光秀を輝かせ、栄光と挫折を見届けた坂本城が比叡比良連山の麓のびわ湖畔にあったことや、光秀の主君 織田信長天下布武安土城がこれまたびわ湖を挟んで我家と坂本城との三角点上に結ばれている地縁からでもある。

 

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                CG復元 坂本城

 

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                 CG復元 坂本城

 

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               坂本城と城下町のCG俯瞰図

 

麒麟がくる」をより理解し、歴史上の明智光秀の鬱憤と無念を少しでも晴らすためにもと、近くの明智光秀最期の地「明智藪」を歩き、万全の夫婦関係であったと思われた安土での信長による光秀への折檻の情景を想い描くために安土城天守閣跡に立つとともに、坂本城址や山崎の合戦の跡を歩いて光秀のこころの動きに触れてみることにした。

 

いまから439年前の天正10(1582)年6月2日に起こした「本能寺の変」前後の光秀の足跡は、すべて近江坂本城を中心に動き、山崎の合戦後 勝龍寺城大山崎)より坂本城への敗走の途中、後の秀吉築城の伏見桃山城跡となる森を経て、大亀谷から竹藪の続く大岩山の麓 小栗栖の地にさしかかった時、地元の百姓による落ち武者狩りにあい、竹槍で無念の最期を遂げたと伝えられている。

 

光秀の血液型論争は最後に回すことにして、まずはボーイスカウトとして青少年時代歩き回ったハイキングコースである伏見桃山城(京都市伏見桃山)から大岩山(標高182m)経由小栗栖(京都市伏見区醍醐)に続く竹藪のなかの<光秀敗走コース>を60年ぶりに再び歩いてみた。

 

スカウト隊長をしていた1961年当時、この辺りは伏見桃山城の再建もなく、明治天皇陵から桓武天皇陵に続くうっそうとした森林でおおわれ、一大原生林であった。昼なお暗く、起伏にとんだ丘陵地は京都市伏見に団本部を置く京都ボーイスカウト第11団ボーイスカウト隊の格好の訓練の場であった。

当時はその北続きに大きな貯水池があり、その先の大亀谷から竹藪の中の細い道を東北に上って行くと大岩山を経て小栗栖にたどり着いた。

 

大岩山頂(標高182m)から京都市内や西山、遠くにそびえる光秀も本能寺の変の前夜訪れた愛宕山(標高924m)を眺めながら飯盒炊爨(はんごうすいさん・火を焚いて食事を作ること)に汗を流し、スカウト訓練をしたものである。手旗信号やモールス信号、縄結び、自然観察、追跡サイン、宝探しなど懐かしい思い出がいっぱいつまった山である。

 

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           大岩山(標高182m)より京都市内・愛宕山(右端)を望む

 

現在は、大岩山の近くまで住宅街が広がり、その姿は一変しているのに驚かされた。

とくに大岩山頂上付近は太陽光パネルが引き詰められ、土木関係の資材置き場となり、スカウト時代のハイキングコースの面影は、今はない。

ただ救われたのは、現在も「京都一周トレイル」として多くの市民ハイカーに親しまれていることである。知らずのうちに<光秀敗走路>をたどり、光秀と共に歩かれていることに歴史を感じていただければとこの紀行文を書き綴っている。

 

さて大山崎勝龍寺城を出て、居城である坂本城に向かって敗走のため光秀がたどっていた小栗栖の村へは、ここ大岩山頂より1㎞ほど手前の、Y字路を右へ曲がり、竹藪の小径を下っていく。

 

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            トレイル標識のあるY字路を右に入り竹藪の坂を下る

 

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           光秀一行もこの竹藪小径を下って小栗栖を目指した

 

坂道は急であり、曲がりの多い昼なお暗き竹藪でおおわれている。

竹藪のトンネルを抜けると畑が現れ、人家が立ち、小栗栖(石田)に出たこの辺りから現在は舗装された道に変わっている。

 

その最初のY字路、ここに光秀が通ったとされる小道(現在の路地)がひっそりと残されている場所がある。

Y字路を左に曲がり最初の家の右側に細い路地が残っている。この路地が手つかずの光秀の足跡を残している「光秀小栗栖敗走ルートの原始の姿」であると地元の老人が説明してくれた。

その右手の屋敷が老人の家で、その屋敷右隣にある細くて急なセメントの坂道が竹林の山に30m程延びており、突当りの立入禁止札の左手より手作りの階段を下りて「光秀小栗栖敗走ルート」である竹藪へと続いていく。

 

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        左の白い鉄柵に沿って唯一の<古来からの光秀敗走路>の一部が残っている

   中央の細いコンクリート坂道を上がり、突当りの左手の手掘りの段々を下りていくと敗走路に続く

 

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           <唯一の古来からの光秀敗走路>といわれる現存の路地

 

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  中央の細いコンクリート坂道を上がり、突当り左手竹藪の段々を下りていくと、光秀敗走路に続く

 

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            竹藪を下りていくと<光秀敗走路>に続く

 

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              光秀敗走路<小栗栖の竹藪>が続く

左手に大岩山よりの小さな水の流れや湿地を見ながら、うっそうとした竹林に挟まれ、汗をにじませてなだらかな坂を上って行くと、低い峠を越えて小栗栖(小坂)の村に向かって再び下っていく。

 

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            峠を越えて下っていくと小栗栖(小坂)の村へと続く

 

この竹藪を通る小径「光秀小栗栖敗走ルート」上には、わざわざ公道であるとの標識が貼られ、小径の崩落を防ぐため同好の士のマナーに注意を与えている。お互い光秀敗走小径を探訪散策するときは、竹の子畑の柔らかい赤土の崩壊を防ぐための土止めの竹柵には注意したいものである。

 

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           小径の崩落を防ぐため同好の士のマナーに注意を与える標識

 

峠から少し下ったT字路の右手に昔からの由緒ありそうな苔むしたお墓が十数基立ち並んでいて、この墓のいくつかは光秀一行を見守っていたのかもしれないと想像を豊かにさせてくれた。

その墓のほとんどの墓石に同じ家名<石田家先祖の墓>(石田は小栗栖所在の地名でもある)が見られる所から、この墓の中の人の内、歴史上の偶然かもしれない光秀最期の瞬間に立ち会った人たちがいたのかも知れないとも考えてみた。

 

光秀最期の地であった小栗栖の村民は、この苔むした墓石群の沈黙のように光秀の最期についてのすべてを封印したあと、長きにわたって沈黙を通してきたように思える。

 

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               小栗栖石田在の石田家先祖の墓石群

 

 

先に述べた竹林に囲まれ古色蒼然とした一列に並んだお墓群と語り合っていた時、この付近一帯の竹の子畑を管理し、育てているお墓の子孫とおもえる青年に出会った。

彼によるとこの道こそ「光秀小栗栖敗走ルート」であり、光秀はこの先で小栗栖の村に抜け出る前に、武者狩りにあって最期を遂げたと語ってくれた。

 

竹藪は太陽の陰りで一瞬暗くなり、光秀敗走の小径は今にも消え去りそうであった。

 

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その先のひらけた畑を左手に小栗栖墓地を見ながら進むと、右手に学校があり(小栗栖宮山小学校)、さらに進むと住宅街(小栗栖小坂)に入り、右手に「明智藪」という手書きの標識がある。

標識に従って200m程、本経寺を左に見ながらすすむと、左手に石碑「明智藪」が建ち、その先の植栽の竹林に明智光秀最期の地である「明智藪」がある。

 

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      竹藪を抜けると左手に<小栗栖墓地>、右手に<小栗栖宮山小学校>が見えてくる

 

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     小栗栖小坂に入ってY字路右手にある<本経寺・明智藪 右170m➡>の標識に従って進む

            (写真は来た道を振り返って写している)

 

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               明智藪>石碑と歴史案内

               (この先右手に明智藪跡がある)

 

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    木札<明智藪 天正10年6月13日 明智光秀が討たれたといわれる場所>と 浮世絵版画

 

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           明智光秀の最期 浮世絵「小栗栖の露」 画・小国政

                大山崎町歴史資料館提供)

 

現在は周囲の竹林が伐採され、ボーイスカウト時代の竹林の面影は完全に失われ、住宅地に生まれ変わる日を待っているようである。

残念だが、月日は移りいつの日にかこのささやかな記念碑の立つ手植えの竹林も住宅の中に埋もれてしまうのであろうか。

  

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       明智藪周辺の景観 <正面の明智藪の背後の醍醐の街、右手に本経寺の墓地>

 

400年近く風化した史実は、竹林に埋もれ、沈黙に閉ざされていたが、大河ドラマによって人々の記憶に宿り、明智光秀という人物像に光を当てたことは確かである。

ドラマには取り上げられなかったが、光秀の最期の竹藪を歩き、悲哀なる武将の気概に触れたいと、忘れ去られたこの地を訪れる人がいることに、埋もれた歴史のなかにかすかな光を見る思いがした。

この日も、数組の若いカップルが「明智藪」で手を合わせている姿に出くわした。

 

わたしたちボーイスカウト時代に歩いたハイキング<小栗栖コース>は、当時1964年開催予定であった第一回東京オリンピックに合わせて、国土開発の真最中であった。ここ大岩山頂からは、間近に名神高速造成中の竹藪独特の赤茶色の帯状の土がむき出しに東西に盛られ、京都を南北に分断していたことを記憶している。

 

そしてさらにその北、京都を二分する新幹線の高架の土台が延々と出来上がっていた。

この2つのインフラ整備開発は、1957に着工した名神高速と、1962年にモデル区間が出来上がっていた新幹線の大動脈であり、経済高度成長期1960~1970年代のシンボルとしてその大役を果たすこととなった。

この地で亡くなった光秀もまた、歴史の移り変わりを見守ったひとりかもしれない。

 

 

なぜ彼は、当時としては高齢者(56歳)であったにもかかわらず、主君を討ち果たすまで思いつめたのであろうか。なぜ隠居して人生を謳歌しなかったのであろうか。

人生は十人十色といわれるが、光秀は哀れであるとみるか、滑稽であるとみるか受け取るひとにより異なるといえる。

 

いや光秀は、信長という主君の想い描く世には絶対させたくなかったがゆえに、体を張って信長の想い描く世界を阻止したのではないだろうか。

自分の人生模様を、彼は後世に箴言として残しておきたかったのではとふと思った。

ただ沈黙を守る光秀に、歴史の風化を感じる一方で、光秀の想いが何時の世でも静かに受け入れられているような気がしてならない。

 

最後に、NHK麒麟がくる」の結末は、見る人それぞれに結論をゆだね、無難な終わり方で幕をひいたところに私としては不満が残ったのである。

この大河ドラマは、現代の光秀論として一考察を残すべきであったと思う一人である。

またいつの日にか、光秀は取り上げられるのであろうが、それは半世紀のちかもしれない。その時もまた光秀像は曖昧に語られ、今と変わっていないような気がしてならない。

 

 

明智藪>(あけちやぶ) 京都市伏見区小栗栖

近江国坂本城主 明智光秀は1582年(天正10)6月2日早朝、中国地方出陣のため上洛していた織田信長を京都 本能寺に襲撃して自刃させた。

その後、光秀は6月13日山崎の合戦で秀吉軍に破れ、近臣10数名と共に坂本城を目指したが、途中、ここ小栗栖にさしかかったところを信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃により、あえない最期を遂げたといわれる。

この明智藪は、今日にいたるまで戦国武将明智光秀の終焉の地として伝えられており、現在は西側にある本経寺の寺領となっている。」<明智藪案内標識より>

 

本通りに戻り、明智藪の標識の右手階段を上がると小栗栖館があったといわれる「小栗栖八幡宮」がある。信長の近臣小栗栖館の武士集団一党が明智待ち伏せ、打ち取ったとする地元の説もうなづけるのである。

京都近在小栗栖の衆が、本能寺の変後の山崎の合戦の報に接し、中でも信長の近臣であったとすれば、主人の仇をとるべく待ち受けていたとしても不思議ではない。

そのなかに先程出会った墓石群の石田家の人たちも歴史の証人として立ち会っていたかもしれない。

 

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             小栗栖館があったといわれる「小栗栖八幡宮

 

 

勝龍寺城坂本城間の抜け道としての小栗栖ルート>

山崎の合戦に敗れた明智光秀は、最期の夜逃げ込んだ勝龍寺城(しょうりゅうじじょう・京都府大山崎町)で休息し、闇夜に乗じて供回りと共に城を出て、居城である坂本城に戻るため人目のつかない間道をとおり醍醐にある小栗栖をへて近江の国へ抜けようとしていた。途中、小栗栖の竹藪で武者狩りの百姓の手にかかって最期を遂げたという説が、先にみたように有力な通説となっている。

明智光秀の野望は、俗にいう三日天下としてついえたのである。

 

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勝龍寺城は、信長の命により摂津と山城の境を守るため細川藤孝が築城した。光秀の娘たまは、細川藤孝の嫡男忠興と祝言を上げ、3年間の結婚生活をした城でもある。

姻戚関係にあった明智家の坂本城と、大山崎にあった細川家の勝龍寺城との間では頻繁に出入りがあったであろうし、そのルート(経路)も両家の密使の道、忍びの道、馬の道、物資運搬の道と幾つかの往来のルートがあったと思われる。

 

光秀敗走の道は、人目につきにくく、最短で、忍びの道であったと推測できる。

<小栗栖敗走ルート>も淀川沿いの間道を伏見に出て、現在の明治天皇陵のある桃山の森に入り込めば、身を隠し素早く動け、大亀谷からの竹藪に身を隠しながら小栗栖まで前進できる。

あとは推測だが、醍醐寺の裏手から高塚山(標高485m)、牛尾観音(標高364m)を経て音羽山(標高593m)に至り、逢坂の関(標高164m)より三井寺から坂本城に入るコースもあったのではないだろうか。

 

 

明智光秀敗走の小栗栖ルート と その前後の推定敗走ルート>

秀吉軍との<山崎の合戦>後の光秀敗走ルートを推定し、足取りをたどってみた。

 

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(敗走ルート概略図は、図をクリックし、拡大したうえで参照願います)

 

では、光秀敗走ルートを概略図の順番➀~㉑に従ってたどってみたい。

 

①山崎の合戦で、6月13日秀吉軍に敗れた光秀は、

 逃れた大山崎勝龍寺城を6月14日未明に脱出➡

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②淀川沿いの間道を夜陰にまぎれて進み➡

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 大山崎三川合流地点付近 (桂川・淀川・木津川)

 

③淀川(宇治川)にかかる観月橋付近より➡

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④森林の丘陵地帯(現在の明治天皇陵あたりから)に分け入り➡

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⑤(現在の伏見桃山城あたりの)森林のなかを進み➡

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  光秀時代、伏見桃山城はなく、森であった

 

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《現在、光秀敗走ルートとして明らかになっている大亀谷の竹藪から

 光秀最期の地といわれる光秀藪までを歩いてご案内したい》

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➅現在の貯水池(伏見北堀公園)あたりから竹藪の続く大亀谷に入り➡

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⓻大亀谷の竹藪を進み➡

 

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➇大岩山頂手前Y字路を右へ入り、竹藪の続く坂を下ると➡

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 Y字路の「京都一周トレイル」標識を右に入る

 

⑨小栗栖村(石田)の入口Y字路に到達➡

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⑩Y字路を左折したすぐ左手に<古い光秀敗走路の路地>があり➡

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 ⑪約10m先の左手にあるセメント小道を上がり➡

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⑫立入禁止標識左手の竹林に造られた手作りの赤土段々を斜めに下ると➡

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    手作りの赤土段々を斜めに下ると     <光秀敗走路である小栗栖の竹藪>に続く

 

⑬竹藪がつづく敗走古道のゆるやかな上りが700m程続き低い峠を通過➡

⑭峠を下っていくと➡

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⑮T字路直進(右に入ったところに石田家先祖代々墓石群)➡

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⑯左手に「小栗栖墓所」を見ながら進むと➡

⑰右手の「小栗栖宮山小学校グランド」を過ぎて➡

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アスファルト道を現在の小栗栖(小坂)の村に入る➡

⑲右手の「明智藪」の標識に従って左折➡ 

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 来た道を振り返っての写真なので、右手に入って行く

 

⑳本経寺前を通って道なりに進むと➡左手に「明智藪」石碑」あり➡

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          本経寺                   「明智藪」石碑」

 

㉑ その先に「明智藪」(光秀最期の地)標識がある

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   光秀の敗走は、ここ明智藪で終わった

 

 

以上の小栗栖ルートは、シニア(年長)スカウト時代、ビバーグ(野宿)しながらオーバナイトハイクした時に一度歩いたルートでもあり感無量である。

ただ、光秀一行が敗走路としてあえて難儀な竹藪の続く小栗栖ルート>を選んだのは、すでに秀吉軍によって坂本城への主な道が抑えられていたためであろう。

最期の地 小栗栖より先は、さらに厳しい山道を進むことになっていたと推察する。

もちろん最短コースは、現在の国道171号線大山崎より京の都に入り、堀川通りを北上、御所の北に東西に延びる今出川通りから、山中越えに入れば坂本城に簡単に到着できるはずだから、光秀は敗退という辛酸をなめながらの苦難の敗走となったといえる。

 

この概略図は、光秀一行が小栗栖ルートを選んでいたことからの推論であり、私見であることを申し添えておく。

 

さて、先に述べた光秀の血液型は、A型と、AB型に分かれ論じ合った。

AB型論は、人間関係に不器用で、秀吉のように調子者で、要領よく立ち回り、ゴマをする奴が嫌いなタイプであると言い、一方主人に誠実に仕え成果を上げるが、自分の信条で動いてしまい不信感を持たれるタイプでもあるという。誠心誠意仕える割には逆切れや怨念を持つタイプでもあるという。

 

A型論は、常識的にいえば光秀の性格はA型そのままだと主張する。

忍耐強いが、本能寺にみられるように我慢の限界を越えると一気に爆発する性格である一方、合理的で我慢強く、真面目であるが、猪突猛進という欠点をも併せ持っていたと主張するのである。

 

あの世にいる光秀も、久しぶりに本能寺の変を思い出し、その前後の自分らしくない戦略と戦術なき作戦を反省し、盟友たちの先を見る確かな目に感服するとともに、またまた秀吉に一本やられたと苦笑しているように思えてならない。

 

 

明智光秀終焉の地>

日蓮本宗 本山要法寺の末寺で1,506年に創建。
江戸時代には「小栗栖檀林」という僧侶の学校があり,その跡地に現本堂、墓地等が整備された。本能寺の変後、その最後には諸説あるが、近江の坂本城へ敗走中、落武者狩りに遭って落命したとされる竹藪が本経寺裏に残る。この小栗栖の地が明智光秀の終焉の地であることにより供養塔を本堂左手に建てた。」 (本経寺 当山識より)

 

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      明智光秀公終焉の地」木札         明智日向の守光秀公供養塔

 

 

明智光秀の死と、死後の影>

光秀最期の地に続く、巨大な竹が無数に横たわった昼なお薄暗き竹藪に踏み入ったとき、最初から最後まで光秀の影に寄り添い、離れなかった一人の人物を想い描き続けていた。

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           光秀敗退小栗栖ルートに迫りくる現在の竹藪の惨状

 

光秀に関して、これほど諸説が多い、ミステリアスな武将は少ない。

あまりにも<なぜ>という疑問符と、<Why?>という問い返しの多い人物が、である。

知略家である反面、極悪ではなく清貧に生きた武将として、また大器晩成型の苦労人として伝えられ、庶民に近い生活をした人物として、隠れた人気が現代にまで引き継がれている不思議な人物である。

誰もが考えなかった主君殺し、謀反、三日天下という哀れさが、庶民のこころを揺り動かすのかもしれない。また自分だったらどうしたであろうかと、光秀に成り代わって深く考えてしまいたくなる人物であるからでもあろう。

光秀の弱さを、どこかでかばってやりたいという庶民的感覚をもつ者がいても不思議ではない。

 

そう、光秀は庶民の手の届く武将として秘かに愛され続けてきたのではないだろうか。

 

暗い竹藪で考え続けた一人の人物、光秀亡き後、その影や残滓を徹底的に消し去り、歴史から抹殺した人物が重くわたしの背中にのしかかってきた。

次の天下取り、天下布武のために主君殺しを最大に利用したあと、物語そのものを消し去りたかった人物がいたということかもしれない。

それも微にいり細にわたる演出と、万全の根回しと、巧みな戦術で追い込んでいき、己の天下を勝ち取った人物がいたということでもある。

 

そもそも本能寺の変は、信長・光秀主従に関わりある人物の巧妙なシナリオに従って進行したようにも見える。両者の亡骸さえ消し去った完璧な演出は、現代ですら事変後の両者の生存説が取りざたされるほどである。

 

かかる考えをも語れるほど<本能寺の変>はミステリアスだと言えるのである。

 

天下取りとは所詮かかる仕儀であるが、<本能寺の変>は、その歴史の中の人物像をもロマンあふれる悲劇のヒロインとして引き継いでいるのがうれしい。

そして秀吉は、信長亡き後の後継者として自他ともに認めさせるために、光秀が敗走し、最期の地となった小栗栖に連なる桃山の丘陵に<伏見桃山城>を築城したとも云える。

 

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                                     光秀敗走路とも思われる桃山の丘陵に建てられた伏見桃山

 

一体、光秀は、信長・秀吉・家康にとってどんな存在であったのであろうか。

もし、この内のひとりでもいなかったら歴史は変わっていたと思うと、誰一人歴史から消し去ることは出来ない。

 

わたしたち一人一人が歴史上の登場人物であり、脇役であることを実感させられるのである。

 

最後に、小栗栖より醍醐にまわり、沈みゆく夕陽のなかに浮かび上がった<光秀敗走の峰々>を眺めながら、家路についた。

 

                 

 

《参考資料:光秀小栗栖敗走ルートに関する一考察》

     

      <光秀敗走ルートの桃山・大亀谷・大岩山に連なる稜線>    

                    醍醐方面より望む

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①         ②    ➂            ④       ⑤  ⑥   ⑦   ⑧

 

観月橋(白い建物の後方・宇治川と淀川の分岐)辺りから桃山の丘陵に入ったと推測

②現在の明治天皇陵付近を通過し、(現在の伏見桃山城跡に続く尾根道を進んだと推測)

➂光秀没後、秀吉築城の伏見桃山城跡を通過し、(大亀谷の竹藪道に向かったと推測)

④大亀谷の竹藪路を進み

⑤大岩山頂方面⑥に向かわず、手前のY字路⑤を右折し、小栗栖石田村⑦に下る

⑥大岩山(標高182m)山頂(電波塔を目視できる)は推定敗走ルート線上にある

 <天王山(山崎・勝龍寺城)➡伏見桃山城➡▲大岩山➡小栗栖・醍醐➡比叡山坂本城

⑦小栗栖石田村を通過、最初のY字路当たりから小栗栖の竹藪路に入る

⑧小栗栖小坂にある現在の本経寺所有竹藪で落ち武者狩りにあって光秀最期を遂げる 

 

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大岩山(標高182m)より伏見桃山城(中央)、その背後の山崎の合戦跡(天王山・勝龍寺城)方面を望む

         

振り返ると、醍醐の峰々が比叡山方面へのび、その麓に坂本城があるところから、光秀小栗栖敗走路は、

坂本城への最短ルートであったのではないかと推測する。  


                                (2021年2月16日 後藤實久記)

   

   

 

            2021星の巡礼明智光秀最期の地を歩く』

        明智光秀最期の敗走ルート<小栗栖の竹藪>を歩く