shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2019『星の巡礼 びわ湖冬景色・老人自転車ひとり旅』②

びわ湖冬景色―近江の歴史をたどる老人自転車ひとり旅』 ②
                                                                

■ 1日目 <JR志賀駅前 ⇒ 膳所城址公園 35km>  Ⅰ

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びわ湖は、覇権を競う戦国武将にとって、京への東の玄関口として、また京への睨みとして地政学的に重要な存在であった。
中でも、京への物資の運搬や軍隊の移動という水運はもちろん、京の情勢を探索する上でも重要拠点であり、戦国時代以来、多くの戦国武将がびわ湖畔に築城し、天下統一の野望を抱いてきたのである。
歴史上、いや現代でもびわ湖は、都の外堀としての役割をはたし、決して歴史の主役として躍り出ることなく、脇役を粛々と演じて都を支えてきたといえる。
今回のサイクリングの旅でも、時空の中に生き続けているびわ湖の周りの歴史に触れながら、ゆっくりとペダルを踏むことにした。
 
-木戸の集落- <今回のびわ湖一周発着地点>
 
<木戸城と志賀の陣>

1573(元亀4)年726日、京を出立した織田信長白川道越え(現在の比叡・山中越え)で
明智光秀坂本城に入り、船で浅井久政・長政が治めていた高島を火攻めにし、光秀率いる
陸上部隊と連携で、木戸城や比良城を攻め落し(志賀の陣 : 朝倉義景浅井長政本願寺
包囲された戦い)、これらの城を光秀に治めさせたと信長公記に出てくるから面白い。
 
いま住んでいるこの木戸で、446年前、信長が船団を組み、陸上部隊の光秀と連携して、
浅井長政軍と攻防戦が繰り広げられたことを思うだけで、歴史に花が咲き、夢が広がる。

木戸城は、現在のJR志賀駅の西口一帯に広がる棚田であると研究者は指摘している。夏に
孫たちとメダカ獲りに夢中になる水路があるところである。この流れは比良山系の清水が集まって
びわ湖・松の浦に流れ込んでいる。
 
目を閉じると、湖上の信長の下知や、木戸の集落の長政軍を追討する光秀の声が聞こえて
くるようである。

歴史は、無常なる勝敗と、尽きないロマンと夢が交錯するのである。
 
<相撲の先駆者  志賀清林

ここ、志賀郡木戸集落出身に7世紀後期・奈良時代の力士であり、行司であった志賀清林がいた。
志賀清林は、相撲の技四十八手、礼法、三手の禁じ手<突く・殴る・蹴る>の制定を聖武天皇に奏上した人物と言われている。
志賀清林の墓は、清林パークの南側に隣接して建っている。
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                        志賀清林の墓
 
<スタート: 志賀観光協会チェックポイント―JR志賀駅隣接>    WC//自販機  

曇り・5.0℃、時々日差し有、サイクリング日和。
観光協会入口正面左横台上にスタンプあり、クイズ無し、ナンバー11とある。
駅前駐車場の北側に公衆トイレあり、水補給可能、駅前飲食店あり。

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    チェックポイント<志賀観光協会>をスタート                     
 
<松の浦浜緑地公園>  WC・水・自販機・△(避難用東屋)

JR湖西線志賀駅より、湖岸ルート南へ300m先に<松の浦浜緑地公園>がある。
公園南西角に<びわ湖サイクルライン距離表示>あり。
同様の距離表示は、びわ湖一周ルート上に距離確認のため十数か所設置されている。

 
これより、左回り・瀬田唐橋へ35km―瀬田唐橋から158km、びわ湖一周193kmへの
挑戦である。 では、まず小野の集落まで走ることにした。

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      木戸・松の浦浜緑地公園
 
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 びわ湖サイクルライン<ビワイチ>距離表示
 
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小野道風神社>

小野道風は、平安中期の書家であり、それまでの中国的書風から和様書道の基礎を築いたことで知られている。
少年時代に遊んだ花札の<雨に蛙>で知られている。
 
ある時、池のほとりを散歩していた小野道風は、蛙が柳の虫を取ろうとして何度も飛び上るのを
目にする。何度も繰り返し飛びついていた蛙は、ついに柳に飛びつくことに成功するのである。
 
それを見た道風は発奮努力して学問・書道に専心し、ついに大成したといわれている。


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            道風社
 
「身を捨てて いりやしにけむ おもひより ほかなるものは 心なりけり」  道風


小野妹子神社>

また小野の集落は、遣隋使の使節団長として活躍した外交官・小野妹子の出身地でもある。
ここ近江国滋賀郡小野村の豪族出身である小野妹子は、607年(飛鳥時代)、聖徳太子の命で
遣隋使として中国の隋に派遣され、国書を隋の皇帝に奉呈し、日本と中国が対等の関係で
国交を開こうとした。
遣隋使によって、中国の先進的な文化や技術が、日本に入ってくるようになり、のちの大化の改新の引き金となったといわれる。
ちなみに、妹子は蘇我馬子と同じく「子」がつくが男性である。

 
堅田の町―

小野妹子神社を後にして、びわイチルートに戻り、南に自転車を走らせると堅田の街にでる。
「道の駅・びわ湖大橋米プラザ」に立ち寄り、WC/水補給/休憩を取る。

道の駅から見るびわ湖大橋>の曲線はまるで虹がかかったように美しい。その美しい曲線を見ていると、先にも取り上げたが、今から330年前の1690(元禄3)年、芭蕉がまるで<びわ湖大橋>を予見したような句を詠んでいるのを思い出す。その句碑は、これから向かう浮御堂に建つ。

比良三上 雪さしわたせ 鷺の橋 > 芭蕉
―ひらみかみ ゆきさしわたせ さぎのはし―

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             びわ湖大橋

<水運の街 ・堅田 と 出島灯台

堅田は、びわ湖の狭窄部に位置し、湖上水運の拠点として栄えた。
現在は、びわ湖大橋がかかり近江の東西を結ぶ大動脈となっている。
また、堅田途中越え、大原街道を駈けて京の御所に通じる生活路であり、軍事路でもあった。
 
戦国時代、びわ湖の水運は活発であり、いくつかの水軍衆によって支配・運営されていた。
堅田堅田水軍の支配下にあった。
安土城をもって天下布武を狙っていた織田信長は、ここ堅田を湖上交通、水運の最重要拠点と見なしていた。

しかし、その堅田比叡山延暦寺の荘園であって信長と敵対していた。
信長は堅田水軍の内通をえて、町衆を切り崩して支配下に置き、堅田船の船団(堅田水軍)の
支配権を手に入れて堅田をもぎ取るのである。

信長の京都進出にあたり、拠点としての湖西地方の重要性をうかがい知ることができる。
今でも堅田の水運繁栄の残像として、明治時代に設置されたという木製の出島灯台(レプリカ)が
残っている。

<湖上水運―丸子船>

びわ湖は古くから、地域の水がめや漁場としてだけでなく、水運による生活の道であり、天下取りの道であった。
そのため、船はその水運の道に欠かすことのできない大切な手段であった。
百石積の丸子船などが、農産物はじめ築城のための重量物や兵士・武器の輸送に活躍していた
という。
特に、16世紀後半、織田信長豊臣秀吉の時代、水城を造り、びわ湖を支配管理する
体制が整うと、経済的流通や軍事的利用が拡大していった。

安土城を湖上取締りの拠点とし、坂本城膳所城、大溝城などに水上関所としての役目を
果たさせた。
その後、江戸時代末期に西回り航路が開拓され、びわ湖経由の敦賀・大津間の水運は激減していくことになる。
また後でも述べるが、大正期、西近江路(湖西)に江若鉄道が開通すると、汽船での人物往来は
鉄道に取られてしまうことになり現在に至っている。

江戸期の丸子船のレプリカや明治期の汽船湖水丸の写真は、チェックポイント「道の駅 草津」の手前、琵琶湖博物館で見ることができる。

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       江戸期の丸子船(レプリカ)                     
 
 
堅田の浮御堂>

出島灯台のすぐ近くに浮御堂がある。
 
平安時代源信が湖上安全と衆生済度を祈願して建立した阿弥陀堂が、近江八景堅田落雁」で名高い浮御堂であり、御堂がびわ湖上に浮かんで見えることからこの名がついた。
寺名もまたその優雅さをたたえるように、海門山満月寺というから素晴らしい。
この情景は、芭蕉をはじめ多くの俳人を惹きつけてやまなかった。

鎖明けて 月さし入れよ 浮見堂   芭蕉  <じょうあけて~>
やすやすと 出でていざよう 月の雲   芭蕉
 
浮御堂の山門のそばには、五月雨に濡れた浮御堂の美しさを詠んだ青畝の向碑が立っている。
五月雨の 雨垂ばかり 浮御堂   青畝

わたしも一句、
 
雁背負う 月もみだるる さざれ波   實久

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       浮御堂(海門山満月寺)大津市堅田
 
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  ①広重筆<近江八景堅田落雁>  (かたたのらくがん)
 
 
 
 
 
 びわ湖冬景色―近江の歴史をたどる老人自転車ひとり旅』 ③
 ■ 1日目 <JR志賀駅前 ⇒ 膳所城址公園 35km> Ⅱ          
    につづく