元禄2年(1689)、いまから328年前の5月、俳聖 芭蕉(46歳)は、高弟 曽良(41歳)を伴って歌枕の地を訪ね、江戸深川~岐阜大垣600里(2400km)を旅した。この旅をまとめたのが「奥の細道」である。
歌枕(うたまくら)とは、古くは和歌においてよく使われた言葉や詠まれた題材を意味したが、江戸時代には和歌の題材とされた日本の名所旧跡のことをさしているようである。
現在、歌枕の地は古の面影はなく、訪れる旅人も少ない。地元の努力によりその歌枕の地はどうにかその姿が守られている。
しかし、その地に立ち、古の和歌を口ずさむとき、作者の心情を歌枕に託するその切なる想いをかみしめることができる。
わたしも俳句をたしなみ、俳句を愛するひとりである。
俳句は、その場・時・事象・感情という写実を絵画することであり、生きた言葉に坐禅するということではないだろうか。奥の深い世界である。
5・7・5の17の世界に迷い込み、芭蕉の想いに駆けてみる、そして創造の世界に一心に遊んでみた。
芭蕉が俳聖としてその名声をいまに残している凄さは、蕉風のリズム、それもすべてのぜい肉を取り除いたエキスの、この言葉(感情・事象)しかないという句を残していることであろう。「奥の細道」のその場に立ち、芭蕉の句を口ずさんでみると、その凄さに身震いする感動と、その写実がいまに蘇生する鮮やかさに、名画を観ているかのごとくである。
奥の細道は、156日(約6か月)間の大旅行であった。馬や舟、駕籠といった乗り物以外は徒歩であったようで、当時としては2400kmをこの日数で歩き通したことは速かったという。かえってこの速さでの踏破を隠密であったが故のことであるとの憶測もなされるほどである。いや、芭蕉が忍者の里として有名な伊賀の出であることに、その因があるようだが興味深い。
わたしも5月3日にここ志賀の里を、自転車を車に積み込んで出発、5月6日に東京 深川を早朝、わたしの「奥の細道」をスタートさせた。
■2017『星の巡礼・わたしの奥の細道行程表』 | ||
1.深川⇒日光⇒白川 <奥の細道紀行1> | 281km | |
① | 深川・千住・春日部泊⇒草加⇒儘田 | |
② | 日光 | |
③ | 黒羽(くろばね) | |
④ | 那須 | |
⑤ | 芦野の里 | |
2.白河⇒飯坂 <奥の細道紀行 2> | 104km | |
⑥ | 白河 | |
⑦ | 須賀川 | |
⑧ | 飯坂温泉 | |
3.飯坂⇒仙台⇒松島⇒登米⇒平泉 <奥の細道紀行 3> | 372km | |
⑨ | 多賀城 | |
⑩ | 塩釜・松島・石巻 | |
⑪ | 登米 | |
4.平泉⇒山寺⇒新庄 <奥に細道紀行 4> | 532km | |
⑫ | 平泉 | |
⑬ | 岩出山・陸奥上街道 | |
⑭ | 出羽街道中山越え | |
⑮ | 山刀伐峠⇒尾花沢 | |
⑯ | 山寺 | |
5.新庄⇒出羽三山⇒鶴岡 <奥の細道紀行 5> | 187km | |
⑰ | 新庄 | |
⑱ | 羽黒山(414m) | |
⑲ | 月山(1979m)・湯殿山(1500m) | |
6.鶴岡⇒象潟⇒新潟 <奥の細道 6> | 184km | |
⑳ | 鶴岡 | |
㉑ | 酒田 | |
㉒ | 象潟(きさがた) | |
㉓ | 温海(あつみ) | |
7.新潟⇒親不知⇒金沢 <奥の細道紀行 7 - 越後路> | 452km | |
㉔ | 出雲崎 | |
㉕ | 親不知(おやしらず) | |
㉖ | 市振 | |
㉗ | 倶利伽羅越え | |
8.金沢⇒山中⇒福井⇒大垣 <奥の細道紀行 8> | 282km | |
㉘ | 金沢 | |
㉙ | 小松 | |
㉚ | 山中温泉 | |
㉛ | 大聖寺 | |
㉜ | 福井 | |
㉝ | 敦賀 | |
㉞ | 大垣 | |
わたしの奥の細道・全走行距離 | 2398km |
■奥の細道行程図
詳細は、写真・図の右下角をクリックし、行程図を拡大して「奥の細道」をたどる (足立区地域文化課作成)
奥の細道に同行した車デリカ(三菱)と サイクリング車ワイルド・ローバー号