shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2004『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』①<大阪⇒西安>

星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』①前編 

       星の巡礼者 後藤實久

    <シルクロード踏破 大阪⇒西安

 

<はじめに>

2020年4月15日現在、中国武漢で発生したコロナウイルスが全世界に伝播し、感染者190万人・死者12万人を越えたとWHOは伝えている。
日本でも7つの都府県市に緊急事態宣言が発せられ、感染者7700人・死者110人であると厚生省が発表した。

最近、中国の一帯一路による覇権主義や、ウイグルチベット少数民族弾圧などに関するニュースを目にすることが多い。
その中での今回の中国武漢におけるコロナウイルスの発生である。
コロナウイルス防御の決め手は、手洗い励行、マスク着用、自宅待機により三密<密閉・密集・密接>
という古典的な方法であるという。
行動原則 <ひとからもらわない  ひとにうつさない> を徹底しょう。 

日々拡大するコロナウイルスの感染者に寄り添い、命を顧みず献身的に治療にあたっておられる医療従事者のみなさんに感謝の気持ちを伝え、声を大にしてエールを叫ぼう。
<頑張れニッポン! 頑張ろうニッポン!>

わたしも後期高齢者、みなさんに迷惑をかけないように自宅にこもり、隣接する森の再生のため枝打ち、間引き、蔦の除去に汗を流している。
また、自宅待機要請に、2004『星の巡礼 シルクロード16000㎞踏破日記』の写真やスケッチ、記録ノートを整理することにした。

なかでもシルクロード中国最西端国境の村クシュクルカンで姿を消した「消えたスケッチブック」が現地当局と村民の熱意と好意によって1年後に発見され、ここ志賀の里に里帰りしたエピソードをお伝えし、<シルクロード踏破16000㎞日記 前編> を書き終えることにする。

当時のシルクロード中国を、現在の中国の経済や政治状況を鑑みながらお読みいただければ幸いである。
日中両国の人民による相互理解の上に立って、息の長い友好関係が続くことを祈るものである。

 

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      西の万里長城入口「天下第一雄関」は、シルクロードの要所・嘉峪関にある

 

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            2004『星の巡礼 シルクロード16000km踏破日記』 行程表
                     2004年7月30日~11月13日

 

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        シルクロード16000km踏破ルート地図  (NHK発行地図参照)

 

 

《 7月30~8月1日  船舶・蘇州号 大阪港12:00出航 ⇒ 上海港11:00入港》

 

<蘇州号で上海に渡る>

2004年夏7月30日、少年時代に読んだマルコポーロの冒険と夢に満ちた「東方見聞録」の跡をたどって大阪から蘇州号に09:30am乗船、12:00出航の汽笛を聞きながら、ローマ目指して16800㎞のシルクロード西進をスタートさせた。

 

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               大阪を出航し、上海に向かう<蘇州号>

 

蘇州号は、夏季休暇を日本で過ごした旅行客や中国の修学旅行生でにぎわっていた。
こちらは、昔蚕棚といわれた三等寝室で、中国からの留学生に囲まれ、遣唐使気分である。
船には、日本での勤務を終え、中国経由で帰国するスコットランドのジョンやオランダのポールとの
親交を深め、情報を交換した。

 

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       中国からの修学旅行生との日中交流

 

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             上海港にてジョン&ポールと

 

遣唐使は、荒波の海を帆船で命を懸けて何週間もかかって中国大陸に向かって渡海したのに比べたら、わずか2日半の船旅である。台風接近という悪天候のもと、タグボートに押されて、回転運動を行い、船首を上海に向けた。

 

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       復元遣唐使船               現代の遣唐使船 蘇州号

 

<蘇州号船内生活>

ランチ、700円の中華定食(四川風麻婆豆腐・チンゲン菜・五目スープ・米飯・烏龍茶)を堪能した後、約束していた英国青年キパー君とディナーを共にすることになった。
彼は英国の教師協会に属し、協会から派遣されて岐阜県立大垣北高校で英語の教師を三年間勤め終え、母国英国への帰路にある。
上海から、北京を経由し、ウランバードル(モンゴル)よりイルクーツク(ロシア)に入り、シベリア横断鉄道にてモスクワへ、その後リトアニアポーランドハンガリー・フランスを経て帰宅するので、青年時代の夢が実現するという。
英国の青年は、かかる派遣制度を利用して、いまなお全世界へはばたき、当地の歴史・生活習慣・人的交流などをとおして己を磨く修行をするようである。それは幾世紀にも及ぶ、長きにわたる英国の海外統治の歴史によっているのであろう。
「わたしは日本がだいすきです。」 この一言に彼の東洋的神秘性を見ることが出来る。

 

夜、メインホールに哀愁に満ちた中国の歌曲が聞こえてくると、中国の若者たちが曲に合わせて歌い出す。
若者の熱気、天を衝く歌声、歌には国境はなく、自由と平等を謳いあげている。

色とりどりの女子学生の下着が、通路の手すりに花のように咲きほこっている。
おおらかである。共産主義の国の青年たちも、自由主義の国の青年も、主義主張を論ずることもなく若者独自の世界を演出しているのである。

 

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                 上海入港の蘇州号にて 

 

シャワー室で、下着を手洗いし、汗を流す。
21時45分消灯。中国青年4人と相部屋。 そのうちの一人は、立命館大学衣笠校舎で国際経済を学ぶ留学3年生。広東に夏休み帰省するという。


現在、共産中国は鄧小平のもと改革解放経済を推し進め、2004年現在、名目GDPは16.8%(2819億US$)であり、イタリアを抜いて世界第6位の経済規模になっている。
更なる飛躍を目指して、欧米日の経済政策や科学技術を学ばせるため多くの留学生を派遣している。国を代表している中国の若者たちは、すべての行動や会話の中に明確な計画と信念を見て取ることが出来る。
富国強兵を国家目標に掲げた日本の明治初期の青年たちの気概に似ている。


中国には青年たちの夢が詰まっている。将来どのような国になっているのだろうか。

 


《 上海 - 8月1日 晴れ 》

5時45分蘇州号船内起床。
上海港に近づきつつあるのだろうか、海水に黄河の砂が混じり泥色に変色している。
船の甲板では、中国式ラジオ体操 太極拳が始まった。
上海の摩天楼を眼前に眺めながら港に入って行く。
入管を済ませ、港近くにある浦江飯店に宿をとった。

▲浦江飯店 : 上海市黄浦路15号 TEL21-63246388 ドーム100元(1600円)

        アスター・ハウス・ホテル(Astor House Hotel)

浦江飯店(Pujian Hotel)は、外国人にはAstor House Hotelとして有名であり、
典恵的クラッシック英国調内装で、重厚な雰囲気に満ちた品格あるゲストハウスである。
このホテルは、バックパッカー用として5人部屋を提供、今晩の宿泊者は、私以外全員英国青年であった。
過去にバートランド・ラッセル卿(1931)、映画王チャップリン(1936)、グラント大統領(876)、アインシュタイン博士(1926)が宿泊した時の写真が飾られた上海でも老舗ホテルである。
隣の青年は、同じ蘇州号でやってきた英国ヨークシャ出身で、明日は香港に向かって出立とのこと。

 

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上海・浦江飯店(Astor House Hotel)のドームに宿泊

 

宿のドームに荷物を置くと、ネオンに輝く上海の夜の街に出かけた。
南京西路の歩行者天国は、人があふれ、そぞろ歩きを楽しむ人々に向かって、香濃い夜の蝶たちが
声をかけてくる。ここは上海の租界があったところである。ニューヨークのマンハッタンにも劣らないハイライズビルディングに目を見張った。特に、街の夜景がファンタスティックである。

地下鉄に乗って「上海站售票処」へ、北京行切符の予約購入に出向いた。
電車の乗車口に殺到する風景、降りるに下車できない人の垣根、人間のるつぼである中国にやってきたという実感がわいてきた。無秩序の中に一定の暗黙のルールがあり、その定石を知れば案外スムーズに時の流れに乗ることが出来るのである。
わたしのような放浪人間には、案外と居心地が良い環境である。

 


上海市内観光― 8月2日 晴れ 》

 

シルクロード横断旅行のユーラシア大陸東の入口が上海なら、シルクロード西の出口はイタリアのローマである。いよいよ16800㎞という途方もない陸路を電車やバス、船を乗り継いで向かうのであるから興奮を抑えきれないでいる。

 

上海租界であるBUND(バンド)>
早朝、かっての上海租界であるBUND(バンド)に向かう。
中国や東南アジア、世界各地に散らばる華僑たちの朝の日課、公園や空き地に集まっての太極拳や刀舞踊、瞑想などがグループ別に熱心に行われている。
中でも、太極拳は宇宙と一体となる流れの中で、呼吸法による命を無にし、想いを無くし、静かにゆっくりと宇宙に溶け込んでいくさまが好きである。

丁度、朝日を浴びたBUND(バンド)の摩天楼や、欧米の進出による100年の歴史を刻んでいるであろう円柱やロマネスク朝の建物が光り輝いているさまはなんと優雅に見えることか。ここは本当に中国なのだろうかと疑ってしまう。
欧米各国は、未開であったこの地に競って文明の花を咲かせたのである。

天高く宙に舞うカイト(凧)が朝日を浴びて自由に大空を飛翔するさまは、中国という覇権に生きたこの国のこれからの姿を現しているようにも見える。

日本は、過去に中国との間に悲しい一時期を持った。上海事変勃発の折、わたしの叔父は陸戦隊として上海出兵にあたって支那兵(当時公称)から投げられた手榴弾によって、片足を無くしている。

平和な時期に中国におられる幸せを、決して中国や中国人を悪く言わなかった叔父に報告した。

朝の散歩、BUNDから帰り、朝食をとる。 お粥に餃子と万頭、実に懐かしく、美味しい。 世界中を駆け巡って、どんな田舎にもある中華料理店に助けられたものである。安くて、美味しく、ボリュームがあって、食べ残しは持ち帰れる中華料理はアドベンチャートラベラーにとって最高のパートナーである。

 

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        上海租界であるBUND(バンド)  Sketched by Sanehisa Goto

 

< 上海博物館 観賞 >  (入館料20元)
西安への予約切符について確認の電話をすると、明日の寝台列車の切符が取れたとのことで、上海滞在を1日早く切り上げることになった。

出発前に、ぜひ「上海博物館」を観賞しておきたく出かけた。

博物館で出会った漢詩『雨水酔草』、なんと素晴らしい情緒たっぷりな四字漢字であろうか。雨しぶきに濡れ、ほろ酔いの体を草に伏して、この世の夢を楽しんでいる情景を詠んだのだろうか。
青年時代に味わった泥酔にかまけて彼女の柔肌のぬくもりが伝わる膝枕に伏したあのときのときめきを思い出した。
博物館では、やはりシルクロード関係の絵画や彫刻、陶器、彫塑、玉に観賞時間を費やした。

 

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 ラクダにまたがるペルシャ商人        玉(ギョク/ヒスイ)による「神人」

 

シルクロード西方からやってきたラクダにまたがるペルシャ商人や、友人のつくるトンボ玉(京瑠璃玉)の
源流といわれる7000年の歴史を持つホータン玉や博物館のイメージシンボルになっている中国玉器である「神人」に見入った

菩薩像の微笑みに魅せられて筆を走らせた。

 

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           「菩薩」上海博物館  Sketched by Sanehisa Goto

 

<列車で西安に向かう> ―上海より西安行車窓記―

上海博物館より、浦江飯店にもどりリュックを担ぐと、西安に向かう夜行列車に乗るため、地下鉄で西安駅に向かった。
上海駅 第7待合室で、T138次16:19発 西安行を待つ。
さっそく、盗難防止にとリュックを待合室の長椅子に鎖で結び付けていると、家族連れの中年男性がこちらを見てにっこりと笑っている。 列車T132 で中国東北部遼寧省大連(旧満州)行きに乗るという。
戦前の日本からの満州開拓民の家族のイメージが重なって、なぜかこの家族に対して親しみがこみ上げてきた。
相手も、日本からの初老のバックパッカーに興味を持ったのか、いろいろと中国国内の情報を伝え、楽しい時間を共に待合室で過ごした。

東南アジア諸国や、インド・ネパール・ブータンに見られる水田の風景に比べ、中国の田園地帯に見られる水田は、整然と田植えがなされ、日本国内でみられる田圃と見まがうばかりに手が入っている。
先進国への仲間入りを目指している共産中国は、政経を分離し西欧の資本と技術導入を国を挙げて積極的である。
世界の工場として、その低賃金の労働力を提供し、今後世界中から多くの製造工場を誘致することであろう。徐々に、経済発展の自信を持ちつつある中国は、より高い目標をたてている。その発展のシンボルである中国全土に張めぐされているインフラ、鉄道と高速道路の整備があげられる。
中国は現在、ITをはじめより高い目標を達成する意欲に燃えているようである。
近い将来、経済レベルはアメリカに迫るであろうと予想されている。

車窓より移りゆく農村風景、そこには支那といわれた貧しい農家が消え去りつつある。それは、今乗っている寝台列車(硬座臥―三等寝台)でさえ、日本のものよりも快適に思える。それは日本の狭軌と中国鉄道の広軌の差によるのかもしれない。とにかく住空間が広く、清潔なのである。数年前まで座席に痰壺があった時代は過ぎ去ったようである。乗車している乗客もみな豊かな表情である。
車掌や警乗員の帽子に光るいかつい中国共産党の徽章をのぞいて、ここが共産主義の国であることを忘れさせてくれる。

駅弁を買ってみた。 二段式弁当で、ご飯はパラパラの日本でいう外米、水っぽくおこげ交じりの飯に、野菜の煮物、卵焼き、厚揚豆腐料理である。15元(約290円)

スケッチ「上海租界であるBUND(バンド)」を仕上げていると、彩色をじっと見つめる向かいの席の5歳くらいの女の子に気づいた。目を合わせると、にっこり笑いをかえす可愛い少女である。
ひと塗りひと塗りに目を輝かせ、自分の考えを伝えてくる。
ここに赤、ここに緑と・・・絵はその一言に応えるように仕上がっていく。
少女の歓びは、頂点に達した。スケッチと少女が溶け合った瞬間であり、少女が画に魂を吹き込んでくれた瞬間である。
愛とは語り掛けであり、愛とは興味であり、愛は次なる魂の世界を作り上げてくれる。


少女から大切な深い愛を教えられた。

 

 


《 8月3日 上海⇒西安行  列車T138 寝台硬臥中段#19  5:00起床 晴 》

 

<天人一人有>
寝台車の厠(かわや・便所・トイレ)に貼られた標示「天人一人有」、意味は理解できなかったが、自分なりに解釈してみた。
なんと素晴らしい厠(WC)の使用表示ではないか。 トイレに天と人を結びつける豊かさは、中国古来の思想からきているのであろう。
人類は、地球星の至る所で、その環境に合わせて自分たちの智慧を表現し、お互いの愛の形を姿に現してきた。 悩みや、権力や、喜びをも何らかの形や言葉にして、その影を残してきたのである。
漢字の意味を考えてみるのも面白い。
いつか「天人一人有」とトイレの関係の本当の意味を知りたいと思っている。
多分、使用中、中に人がいますという表示だろうが・・・


西安駅に着いて、次なる目的地である「蘭州」行の切符を予約する。
<8月5日 列車T52/3 西安12:52発 ⇒ 蘭州20:23着 硬座 270元>


< トンボ玉とシルクロード
わが朋友に、琥衆を号するトンボ玉(京瑠璃玉)作家がいる。
彼の依頼もあり、シルクロードにおけるトンボ玉のルーツをたどる使命もおびている。
エジプトや、ペルシャ・サザン朝を発して、カジュアル・ホータン・西安と渡り、日本に渡来したトンボ玉技法は、奈良正倉院平等院の台座に散見される。
トンボ玉のルーツをさかのぼり、トンボ玉の根源に触れ、永遠の光と命を友に持ち帰ることもシルクロード踏破の一つの使命である。

 

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      琥衆作とんぼ玉(京瑠璃玉)          サザン朝とんぼ玉 5~6世紀 中東地域 


< 砂漠とシルクロード

シルクロードは、遊牧民が住する果てしない砂漠の道であった。
平山郁夫画伯の日本画に見るように、夕日に照らされた隊商がラクダとともに月明を引く幻想の世界である。
今回、一度は訪れてみたかったタクラマカン砂漠

サハラやゴビ、ナムビア砂漠の地で天の川を見上げた時の感動がいまだ忘れることが出来ない。

中国唐の詩人 白楽天白居易―はくきょいーの号)も「花を香ぐ」と謳いあげている。

 

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       月明の砂漠 平山郁夫

 

シルクロード、それは果てしない砂漠の道である。
夕陽に照らされ隊商がラクダと共に影をひく。

 

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      タクラマカン砂漠の隊商  クチャ(輪台)近辺   Sketched by Sanehisa Goto

 

西安(Xi an - 長安 )とシルクロード

シルクロードは、長安に始まり長安に終わると古人は言う。今日の西安である。
日本では、遣唐使や仏教僧の往来により、大唐の都 長安をモデルに平城京平安京が造られた。
長安は、2000年の間、秦の始皇帝前漢武帝武則天、唐の玄宗楊貴妃など、歴史上のヒロインを輩出し、多くの物語を今に伝えている都であった。
この長安西安)が、シルクロード東の起点であり、天竺まで仏教の経典を求めて旅に出た三蔵法師である玄奘が出立した地でもある。
また、西安と日本との交流も古く、遣隋使や遣唐使が派遣され、日本の国づくりに多大の影響を与えた。

その西安は、陝西省省都で、関中平原の真ん中にあり、人口約700万人の大都会である。
南に横たわる秦嶺山脈からの風が吹き込み、空気は乾燥している。

 

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        長安城南門 (西安) シルクロード東の拠点 Sketched by Sanehisa Goto

 

シルクロード東の起点であり、入口である西安には、上海より列車に乗り、北京経由で到着した。
西安での8月3日~6日間の3泊の滞在先は、西安国際ユースホステルである。

 

    △ 8月3~6日  西安滞在先 「西安国際ユースホステル」5連泊 
 西安邦院国際青年旅舎」Xi’an International Youth Hostel

  西安市南大街里西順城巷甲2号   地下五人部屋ドーム @20元X2泊=40元

 

西安国際ユースホステルは、古典中国の宮殿風「大海鮮飯店」の一部で、ドミトリーとしてバックパッカーに開放している。

同室のムスレムのモハメッド君と意気投合、立派なムスレムである。彼の意見「将来、ユダヤ教イスラム教・キリスト教は必ず平和と自由と愛のもと、平等な暮らしができることを信じている」と。 わたしも同感であることを伝え、互いに平和と平等に向かって努力をすることを誓い合った。
現在、彼は西安大学のドクターコースに在籍し、歴史学と考古学を研究中とのことである。
宗教を認めない共産中国での勉学の困難さを克服しているその姿勢に確信に満ちた強い意志を感じた。
彼は、授業料に回すため、生活費節約のためここユースホステルを仮の住居としているという。

西安国際ユースホステルの地下1階110号室、入って奥の二段ベットの上段が、西安での居住空間である。頭上30㎝の天井扇がうなる中、決死の昇降を繰り返すこととなった。
隣にあるリビング・ルームではテレビが置かれ、「サッカーアジアカップ準決勝」二試合が行われ、多国籍宿泊者の応援合戦が繰り広げられていた。
<日本vsサウジアラビア>、<中国vsイラン>の両試合とも延長戦となり、PK戦での決着という壮絶な戦いとなった。中でも<中国vsイラン>のシルクロード国同士の戦いは、激しい肉弾戦であり、消耗戦を繰り広げ、両国応援団の熱き絶叫が夜遅くまで響き渡った。
アジアで覇権を争う中国とイラン、それも今夜はサッカーによる代理戦だけに両国応援団も一歩も引かない。その異常な雰囲気を、フランス・ソルボンヌ大学院・中国考古学専攻のヌボール君と一緒に固唾をのみながら見守った

 

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                  西安国際ユースホステル

 

西安国際ユースホステル近くの鐘楼より西へ1筋目を下ると屋台が延々と並び、シシカバブを焼く香ばしい匂いが流れるなか、たくさんの市民がそぞろ歩きを楽しんでいる。中国では人の群れる様に出会うたびにその生きる力、熱気、エネルギーを感じたものである。その人の流れは、大河のうねりとして迫ってくる。

小物屋が集まる、一本の細長く人の肩が触れ合う路地を歩くのも中国の宇宙観にひたれる瞬間である。


裸電球の光は、路地の隅々までは届かず、片隅に吊るされた竹籠の住人である鉄仮面のコオロギが、差し込まれた一本のキュウリを不愛想にかぶりついている。食べ疲れては、チロリンチロリンとチェロを弾いては、流れゆく人の群れを引き付ける様は、まるで山水画に描かれた仙人のようである。

さらに横の狭い路地に足を踏み入れると、そこには貧民窟のようなすえた匂いの中に、人懐っこい笑顔、声高な笑い、小さな幸せ、干された洗濯物、かじられた大根の切れ端、穴の開いたぼろ靴下が捨てられている。そして路地を抜けると高級マンションの世界が広がり、ベンツが走り、高級品で身にまとった夫人が闊歩している。

ここにも清潔な街路の陰に、苦悩と貧困、喘ぎ、悪臭、いざり、物乞いが見え隠れする中国の現在の影がある。

 


《 8月4~5日 西安 快晴 本日のスケジュール:兵馬俑

 

<ミニバスで兵馬俑に向かう>

西安駅広場東側より、路線バス#306・#307 <兵馬俑>行が出ている。
路線バスに乗るつもりだったが、ミニバスに声を掛けられ5元で兵馬俑へ行くという。
安さに負けて、飛び乗ったがなんとすでに定員の倍のすし詰め、外人と見て取ったのか、運転手席の半分に座らせてくれた。
今度は、高速道路に入ったらおんぼろのミニバスは、時速100kmの猛スピードで突っ走るのである。
それも、急停車したと思ったら乗客の半分を降ろすのである。何が起こったのか一瞬わからなかったが、
どうもその先で警察の検問があるようで、定員オーバーをごまかして通過、移動してきた乗客を再び乗せて発射オーライである。


それは西遊記に登場する孫悟空の活躍である軽業を見る思いであった。
これこそ中国ビジネスの真骨頂といえようか。庶民の生きるための知恵なのであろう。

秦の始皇帝は、中国4000年の歴史にあって、紀元前221年この地に初めて統一国家「秦王政」を作り上げた。
西安の近郊で、秦の始皇帝を守る地下軍団の杭である兵馬俑が1979年に発掘されたときの新聞発表は世界中に衝撃を与えたものである。


その時に受けた興奮を今も覚えている。
ニューヨークタイムズが、その第一報を伝えた時、わたしはマンハッタンのオフィスで人類史上、大きな遺産の発見となった兵馬俑の発掘を祝ったものである。
その25年後、シルクロード西進時、現場の地下に立ってその兵馬俑のパノラマの壮大さに度肝を抜かれた。

秦の始皇帝は在位15年で没したが、地下の兵馬は紀元前221年より、現代の2004年の約2225年間始皇帝を守り続けているのだから、その権威の継続に驚かされ、権力の絶大というかその権力への執念がうかがい知れる。

古代中国の宇宙観である「天は丸く、土は四角」を、銅車馬が物語っているのだから壮大である。また、始皇帝は永遠の魂を信じていたように、わたしもまた、人間は星の王子さま・星の王女さまとして地球での勤めを終えれば、魂となって自分の星に帰っていくと信じている一人である。

 

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          2225年間、兵馬俑始皇帝を守達り続けている兵士達

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                 <秦始皇兵馬俑参観留会>スタンプ

 

<激辛ラーメン 1.5元 と 漢詩

兵馬俑の観賞を終え、博物館の建物を出て、バス通りを右へ100mほど行ったところで、しきりに笑みを浮かべ、手招きしているラーメン屋の女将さんと目が合った。
まだ朝食をとっていなかったお腹は、しきりと激辛ラーメンを所望、お陰で中国本場のラーメンを、汗をふきふき香辛料の効いた激辛のハッカ味を楽しむこととなった。
シルクロードの東の入口でラーメンを食べたというだけで、孫悟空になった気持ちだから不思議なものである。すでに絹之道を一歩踏み出しているのだ。


興奮冷めやらないなか、朝の激辛ラーメンを食べ、兵馬俑の近郊を散策し、秦の始皇帝の墓陵を訪ねたおり、石榴の実を愛でながら、絹之道<シルクロード>へ発つよろこびを漢詩金玉佝編「王維渭城」に託して吟じ、シルクロード出立にあたりスケッチに漢詩を書いてみた。

 

「王維渭城」漢詩金玉佝編       

渭城朝雨 浥軽塵客    渭城に、朝降った雨が 客の塵を軽く濡らし
舎熟石榴 色新功書   屋敷の石榴も熟し、功書色新たなり
更盡酔酒 西出陽芖   酒に酔うままに 芖の陽のもと西へ立たんとする
無故人我 長安音惜   人われなきゆえに 長安の音を惜しみながら
歩訪霊魂 発絹之道   霊魂を訪ね歩くため いま絹之道を出発する

 

 <歩訪霊魂 発絹之道>

  改詩 後藤實久

古城の跡に 小雨煙る朝が訪れ
人は自然に親しみ 心軽やかなり

舎殿の跡 周りには石榴実り
青色から黄、橙と色新しくある

昨夜飲みし酒の酔いいまだ残り
陽の昇る様を西に映る陽光で知る

今はなき昔人の心 我を包み込み
長安の昔 懐かしき都を思い出している

これからの霊魂を求めての歩みを
この西安から絹之道に入らんとする

 

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        「王維 渭城」 改詩 <歩訪霊魂 発絹之道> By Sanehisa Goto 


兵馬俑の付近には熟した実をつけた石榴の果樹園が目を引く。
始皇帝が自分の墓と定めた農村の小道の両側に石榴がたわわと実をつけているさまは、詩を詠み、絵をかき、書を遺す雰囲気を醸し出している。

《 精華池に 熟し楊貴妃 石榴かな 》  實久
―せいかちに じゅくしようきひ ざくろかなー

 


<16年後、中国政府「デジタルシルクロード」を提唱>

この「シルクロード踏破16800㎞」を仕上げていた2020年1月のNHKの日曜スペシャル番組で、中国はファーウエイの5G を中心とした新たな「デジタルシルクロード」を提唱し、関係各国とスマートシティ構想の提携を進めているという内容の特集を組んでいた。
現在、中国共産党の指導のもとにある中国は、中華思想(世界の中心)の再確立と覇権を目指しており、近年の世界の工場として蓄積した潤沢な外貨でAIや電気自動車、5G、ロボット、ドローンなどを育成し、世界市場いや世界制覇に着手していることがうかがえ知れる。

マルコポーロ時代の、シルク(絹)による世界市場獲得に変わって、現代シルクロードの「一帯一路」による 、スマートシティというインフラ整備の投資もまた、シルクロード的発想によるのだから、中国から世界への挑戦の姿勢はいまだ続いているといえる。

シルクロード<絹の道>は、繭から吐き出す糸で織った絹を胡の国(えびす・西方民族)に運び、天馬<天駈ける馬>が欲しかった中国皇帝との交換から始まった交易の道である。
その交易の道シルクロードは、絹からデジタルに受け継がれているのだから、その交易の内容が変わっても、シルクロードの役割は変わっていないようである。

ちなみに、現在の<天架ける馬>天馬はイランのペルシャの遺跡ペルセポリスでお目にかかれるし、<天架ける馬>と思われたダチョウはアフガニスタンパキスタン東北部パミール高原を源流に、シルクロードを経由して長安に届けられた。

 

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                  天馬<天架ける馬>二頭の馬浮彫
         (イラン ペルセポリス アケメネス朝ペルシア 前522-前465年)

 

西安  食品市場での光景>
兵馬俑の帰り、食品市場に立寄った。
ダッグ(鴨)の頭、スッポンの甲羅と手足、鯰(なまず)、鶏の脚、蛇(へび)、ハクビシン、イタチ、田螺(たにし)、蛙、カタツムリ、泥鰌(どじょう)、ネズミ、アナグマ、コウモリが所狭しと重なり合っている。
また水槽には生きた彼らが頭をもたげ、必死に「わたしたちを助けてー」と叫んでいるように見える。
目と目が合って、親しみを感じるが、かれらは胃袋におさまるのを待っている哀れな生贄なのである。
蛙の大きいこと、良くもここまで大きく育てたものである。コオロギの巨大さにも驚かされた。

ウサギ、ガチョウ、しゃも、鳩、鴨、ハクシビンや蝙蝠(コウモリ)たちも狭いゲージに押し込められ、動きもままならずこちらに向かって助けを求めている。中には元気なのがいて檻から脱出しようとチャレンジし続けている。
その空しい動きに反して、人間の生存への貪欲さを見る思いであった。


かれらの生きている匂いがいつまでも消え去ることはなかった。
かれらは中国14億人の胃袋を満たすのである。

しかし、現在2020年4月、彼らは人間にコロナウイルスという細菌で復讐しているように見えるのである。

 

SARSと野生動物>
中国では古来、野生動物を珍味として食する習慣がある。
SARSが流行った2003年、わたしは青島から北京、西安重慶武漢黄山、桂林に旅した時、桂林の屋台で食べた肉炒めによって痰の絡む咳、高熱、吐き気と悪寒に襲われ、現地の病院に入院することなく、急遽香港経由日本に帰国した。
その足で自宅近くの総合病院にて受診、重度急性肺炎と診断され、即入院した。CT検査に映し出された両肺は右肺が100%真っ白の影、左肺が90%白い影であった。医者によると完治する見込みのない症状であったという。
わたしは死を覚悟し、頭を丸めて入院療養に入ったが、医師団の懸命な治療により奇跡的に命を取り留め、退院にこぎつけたのである。
その後、屋台で食べた肉炒めが、SARSの病原因といわれたハクビシンではないかと疑っている。

2020年4月現在、全世界に蔓延しているコロナウイルスの病原体が、野生動物であるコウモリともいわれているが、それであればSARSと同じく、すでに抗体があるはずだが、SARSと異なり対処法がないといわれ、新型コロナウイルスとして医療崩壊を起こしている。
一説には、バイオテロに使われる細菌が漏れ出たとの報道もある。
一日も早い終息を祈るものである。

あの市場で出会った哀れな動物たちの視線がいまなお脳裏に焼き付いている。


食品市場の帰り、西安城南門にある「西安中國書海芸術博物館」に立寄った後、西安駅で8月7日の<蘭州⇒張液>間の硬臥(三等寝台)の切符予約をした。

 

 

 

      星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』②前編 

            西安 ⇒  ウルムチ/烏魯木齊 >

                に続く

         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020『星の巡礼 蓬莱山雪中キャンプの春嵐』

2020『星の巡礼 蓬莱山雪中キャンプの春嵐』
    ー比良山系・春嵐<比良八荒>からの脱出―

       ―蓬莱山登山<金比羅峠ルート>の現況―

 

どんな山も登山者を拒まない。
そこにある山はいつも優しく誰でも迎えてくれる。
山々はいつもそこにどっしりと腰を落ち着かせ、哲学者のように自分を見つめ、己を深め、己の運命を甘んじて受け入れている。


その不動にして寡黙なる姿に、人々は神の存在を感じるのである。
この愛する山々も自然の猛威に耐え、己の存在に時を刻み込んでいる姿はいつの時代にあっても人々に感動を与えるものである。
山への畏敬の念をもって接する心が人々に芽生える瞬間でもある。


山の姿はその自然の移ろいによって変化しつつ、静かに登山者を見守ってくれるのだからうれしい。
今日も又、愛する山に抱かれ、優しい春の風に包まれている喜びを体いっぱいに感じた。
しかし、夜半に吹き荒れた春嵐である春一番<比良八荒>はまた、季節の変わり目の山の厳しさ、死を招く強い風の恐ろしさを登山者に教えてくれた。

 

《 八荒や 琵琶に吹き落つ 比良の神 》  實久
        ―はっこうや びわにふきおつ ひらのかみー

(比良八荒とは、比良山系からここ志賀の里―志賀より近江舞子にかけてーを駆け抜けて琵琶湖に向かって吹く、冬衣を捨て、春を知らせる強風のことである。)

 

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木蓮が咲くころ、雪中キャンプを楽しみに蓬莱山に登っている。今年は極端に積雪少なく、びわ湖バレーのゲレンデもコロナウイルスの影響もあってか人影もまばらであったが、大自然の美しい夕暮れや夜空に輝く星座に魅了された。寝袋に潜り込んでからの深夜の強風(体感風圧30)にテントごと吹き飛ばされる直前、急遽避難、ヘッドランプを頼りに深夜の撤退下山というハップニングに見舞われた。長年の登山の中での貴重な体験に少し興奮したものである。

 

《 咆哮の 怯え縮みし 春嵐 》 實久
 ―ほうこうの おびえちぢみし はるあらしー

テントを揺さぶる春嵐の咆哮に、身を縮め怯えた一夜であった。

 

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               びわ湖バレー打見山ゲレンデをバックに 

 

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                  びわ湖を見下ろす蓬莱山での露営

 

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残雪少ない蓬莱山(ゲレンデ)を眺める        打見山を見下ろすテントで夕食の準備

 

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                   蓬莱山の夕日に映える鱗雲

 

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                   蓬莱山頂より夕陽観賞

 

先日、NHKBSで田中陽希氏によるグレートトラバス3 日本三百名山全山人力踏破として55座目の蓬莱山が紹介されていた。その蓬莱山に何度登ったことだろうか。

 

             1174m蓬莱山☟        ☟打見山1108m

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        NHK BS グレートトラバース3で、 三百名山 蓬莱山1174mが紹介された

 

今回も残雪の比良山系に連なる蓬莱山の春を迎える懐に抱かれて眠るため、十分な準備をして蓬莱山に登ってきた。
春の陽気は、テントに敷かれた山の土の柔らかい温もりとなって、寝袋をとおして優しく体を包み、冬の厳しさを乗りきった日々を聞かせてくれるのである。
蓬莱山の寝物語を聞きながら、眼前の暗闇に広がるびわ湖に映る湖畔の灯火に哀愁のメロディーを聞き取るとき、神に抱かれている喜びにひたるのである。
ふちどられた湖畔に比良の山々の雪解け水が黒く浮き立っているのが見える。
なんと素晴らし影絵であろうか。


優しい春風がテントに溢れた。

 

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             テントから眺めるびわ湖(堅田)のファンタスティックな夜景

 

闇夜をとおして対岸の近江富士と呼ばれる三上山のシルエットがほんのりと東に腰をおろし眠りにつこうとしている。

当初の計画では、天気予報に合わせて18~19日の二日間の野営を決めていた。それは16日夜半に積雪があり、17日の母の命日に彦根へ墓参した折、雪をかぶった比良山系の銀峰の美しさが目に飛び込んできたからである。
墓参より帰宅し、この時を逃してはならないと急ぎパッキングに取り掛かった。
18日朝、いざ蓬莱山への雪中キャンプに出掛ける段になって、前日までの墓参・登山準備に疲れたのであろうか、倦怠感のままでの登山をあきらめ、一日延期させたのである。
想いは強くても体がついていかない年齢に達しているのだ。

19日朝の天気は、快晴であり、気温も18度と登山日和に気をよくして、一日延期の天気予報を確認しないまま登山に出発した。
帰宅して天気予報や天気図を確認したところ19日夜から20日の明け方にかけて、日本列島は東西に低気圧が居座り、強風を伴った北風が吹き荒れることを示していた。
そう、天気図は湖西地方に吹く春一番<比良八荒>を描いていたのである。

老ゆるのもいい。 
枯れゆくとは、素晴らしい人生の黄昏である。
山に登るにも一歩一歩味わいながら、己を見つめながら時間をかけるようになってきた。
老ゆるとは、歳と共に己の若さを削って老いの楽しさを加えていくことなのであろう。

老が始まってから、若さに任せた無謀というか無茶な登山が出来なくなってきた。
百名山を踏破していた頃のように山頂に立つこと、征服することの満足感や達成感は過去のものとなった。
老いてからはそれなりに山と語らい、その山の持つ魅力を味わいながら登らせていただくという姿勢に変わってきたのである。

今回も、冬季の厳しい雪山ではなく雪残る春爛漫の低山での雪中キャンプンを楽しみに出かけた。
残雪の上にテントを張り、雪をバーナーで溶かし熱いコーヒーをすすりながら、ヒーリング・クラッシックを聞き、びわ湖を囲む峰々の眺望を楽しみ、夜景の美しさに心奪われ、夜空に輝く星座に見とれたこれもまた老いの楽しみの一つである。

打見山を経由し、蓬莱山に着いた頃は、晴天のもと照り付ける太陽をさんさんと浴び、春を迎える優しい山の風を胸いっぱいに吸い込んでいた。

久々の山登りである。心も晴ればれ、汗も山の風に清々しい。


山の上で、雪に囲まれ独りいることの豊かさ、何にもまして贅沢である。

 

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                                         春うららの山に臥すー独り寝の楽しみよ~

 

年一回の雪中キャンプ、今年は積雪少なく、いつもの設営地である金比羅峠ルート上には雪は消えていた。二日前対岸の湖東からみた雪帽子をかぶった比良山はどこにも見当たらない。18度を越える気温に雪は溶けてしまっていた。

 

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              1174m蓬莱山☝        ☝打見山1108m

 

ただ、びわ湖バレーのゲレンデには今なお雪が残り、太陽に輝くなか軽装のスキーヤースノボーを楽しむ人たちが散見された。

 

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                  びわ湖バレー<蓬莱ゲレンデ>

 

蓬莱山東尾根からはじまり、JR蓬莱駅びわ湖バレー山麓駅へ下る<金毘羅峠ルート>下山口には、立入禁止の標識がいまだ立つ。この金比羅峠ルートのうち、峠からのびわ湖バレー山麓駅コースは一昨年の台風による倒木で立入禁止になっているからである。


この標識より約100m入ったルート上が恒例の露営地である。
この露営地からの雄大な景色であるびわ湖とそれを取り巻く鈴鹿山脈の絵画的な風景が好きである。
夜は灯火に囲まれたびわ湖が漆黒の水がめとして浮かび上がり、その神秘性にも心揺さぶられる。

また、テントから眺める夜空一杯の星座の美しさは格別である。
何といっても狭いテントで独り闇夜と向きあい、山の鼓動に耳を傾け、神と語る喜びにひたれること、
これこそがここ蓬莱山で露営する魅力である。

夜7時半、赤ワインを流し込み、NHKの深夜番組に耳を傾ける。ジャパニーズポップスの軽快なメロディーを流している。


幻想的な霧がかかりはじめたと思うや、その二時間後には灰色の重たい雲の中にテントは孤立していた。
荒ぶる気流にテントは徐々に鳴き声を上げ、悲鳴をあげだしたのである。
灰色の雲が時速30~40k/h(推測)で黒雲に襲い掛かり、漆黒の天空は一瞬にして戦場と化した。
テントはただただ身をひそめ時を過ごすつもりだが、強風は容赦なく襲い来る。

そうだ、この暴風は比良特有の春一番<比良八荒>であるのではないのだろうか。
この時期、昔からびわ湖での漁に襲い掛かる強風があり、多くの犠牲者を出していたこと、荒ぶる死を招く恐ろしい強風<比良八荒>を鎮めるための祈りがささげられたことを聞き知っていた。

顔を出して様子を見るに、意外にも天空の隙間、雲間に星空がひろがり、星たちが駆けっこをしているように見える。そう、星たちは悠久にその位置を変えはしないが、近くの雲たちの駆けっこが星を動かし、走らせれているように見えることに気づいて、恐怖の中の一瞬、こころが和んだ。

まだこの時点では強風も、露営で味わえるエンターテイメントに思われていたが、深夜に近づくにつれて、咆哮は暴風に変わり、テントは春一番<比良の八荒>に耐え切れずに悲鳴をあげだしたのである。


緊張が走り、停滞か退避かを考え始めた。

 

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金比羅峠ルート<蓬莱山下山口>          露営地よりの打見山眺望

 

 

<強風に大荒れの蓬莱山より退避・下山する>

 ―蓬莱山登山<金比羅峠ルート>の現況―

 

比良山系の春一番<比良八荒ーひらはっこう>の洗礼

 昼間の快晴、優しい風、高い気温では考えられない天候の急変は、夜半の強風に見舞われるまで心することはなかった。

ただ、設営にあたって、ラジオが伝える今夜の気象状況で、気になる<風が吹き小雨があるかもしれない>という点を頭に入れながらテントを張ることにしていた。

特に強風は要注意である。ここ比良山系には比良八荒という強風が季節の変わり目にあるということを山麓住民として経験上その強風の威力を知っていた。強風に耐えるロープの張り方・ペグ打ちにこだわった。
このこだわりが夜半に襲いかかる強風<比良八荒>から身を守ってくれたのである。

特に比良八荒という強風に煽られないために、二本のロープを枯れた大木に結んだ。そして反対側の二本のロープを、根っこを束ねた枯れ笹にくくりつけた。また強風でテントが移動しないように四隅にペグを打ち込んだ。
しかし強風の絶え間ない来襲で、テントは凧のように風を受け、くノ字に曲がり今にも谷底に向かって吹き飛ばされそうである。 必死で風圧に対して立ち向かうが、体そのものを吹き飛ばすような圧がかかりテントともに体をも動かし始めたのである。

そう、強風に立ち向かう雨傘をすぼめて風圧を和らげようとする行動によく似ている。しかし一瞬にして強風は傘を破壊して吹き飛ばしてしまう様に似ているのである。


その危険な一瞬を思い描きながら、必死になってテントを自分の体重で抑えようと頑張ったが、風圧に抗しきれず少しずつテントの移動と共に己も体重移動し始めた。


このままだと危険であり、死へとつながる。

 

谷間に落下していくのは時間の問題であるように思われた。
それからの脱出行為は脱兎のごとく果敢に行動した。全体重でテントを押さえながらまず登山靴を履き、リュックに寝袋はじめ携行品を押し込め、思い切って強風の中へ飛び出したのである。それは立っていることすら困難な強風であった。

リュックを飛ばされないように枯れ木に結び付けているあいだ、テントは風にはためき今にも千切れんばかりの勢いである。大凧が今にも糸を切り大空へ飛び出す勢いである。
そう、テントを離れたと同時に四隅のペグは抜けてしまっていたのである。

当初、テントを放棄し、リュックだけをかかえて避難するつもりであったが、長年連れ添った愛着のあるテントを見捨てるにしのびず、危険をかえりみずテント救出に取り掛かった。
今から考えると無茶な行為であったと反省しきりだが、自分の分身を失い、悔いをのこすことよりも、最善を尽くしてみることの方に無意識に体が動いていたのである。

それは、昨年の鯖街道縦走での<根来坂峠>での倒木回避中に起こったリュック滑落紛失での喪失感にある。

まず、枯れ大木にくくりつけたメインロープ二本を解き、テントを懐に巻き込みながら、残りの枯れ笹の根っこにくくりつけていた二本のロープを解きにかかった。しかし、なかなか解くことが出来ないのである。
風によるテントの吹き上げによって、結び目がより強固になり解けない。枯れ笹の根っこも大地に張り付き抜くこともできないではないか。

更なる強風の加圧にこれ以上時間を無駄にすることは身の危険にさらすことになる。
枯れ笹に申し訳ないが、ナイフで二本のロープを切り離すことにした。
いまにも強風に体をさらわれそうになりながら、リュックを担ぎ、テントを胸に抱きしめ<金比羅峠ルート>上の150m先の窪地に転がり込んだ。

 

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蓬莱山・金比羅峠ルート上の窪地に退避

 

暗闇の天空は強風の轟音と、音に合わせて強風が舞い、蓬莱山頂を覆っている白雲や黒雲がぶち当たっては千切れ、激しくその形を変え、北から南に向かって咆哮を残して走り去っていく。
まるで悪夢であり、戦場である。

しばらく息を凝らして窪地でテントを体に巻き付けて低体温をふせぎながら、激しい雨雲の乱舞を見ていたが、疲れのためかうとうとしたようである。
目を覚ますと深夜3時過ぎであった。

強風がおさまりかけていたこの時とばかりに窪地を抜け出て、下山することにした。
暗闇の下山は滑落や転倒の危険性はあったが、それよりも強風による低体温の危険が迫っていたからである。
手足の指の感覚がなくなりつつあった。

 

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            昼間の快晴から深夜の強風への急激な天候の変化に驚く

 

帰宅して過去2日間の天気図を調べてみると急激な天候の変化がみられ、特に
19日深夜から20日早朝にかけての日本列島は、気圧の谷に入り、猛烈な北風<春一番>が吹き荒れたことがわかった。
山は急激な天候の変化を伴うという原則を知りながら、春の陽気に誘われて入山したことへの反省しきりである。

 

<比良・金比羅峠ルート>倒木・崖崩れによる危険地帯情報

(2020年3月20日現在)

 

深夜の暗闇、ヘッドランプを頼りに下山するとき、緊張感が走り、浮石や岩に足を取られ、倒木を避け、ロープを頼る腕にも力がはいる。

永年の登山をしている間に幾度も命を落としかねない数多くの場面に出会ってきた。
最近では、昨夏踏破した鯖街道の峠<根来坂峠―ねごろさかとうげ 833m>を越したあと、倒木に出会い、突破しているときにリュックを谷間に滑落させた苦い記憶がよみがえった。一歩間違えリュックの代わりにわが身の滑落であったならば命を落としたであろうことを思い出していた。

(参照:ブログ「東の鯖街道<針畑越えルート> 縦走日記②」)
https://shiganosato-goto.hatenablog.com/entry/2019/11/27/150923

蓬莱山からの下山路<金比羅峠ルート>は、金比羅峠までに二か所の<危険立入禁止>や<遭難多発危険>の標識のもとルート変更を余儀なくされ、指示された下山方向へ向かった。
各危険・立入禁止個所にはロープが張られ前進を阻んでいるので従ったからである。
特に、金比羅峠手前の<立入禁止>標識には倒木による危険性、遭難多発、婦女子は絶対避けるべきであるとの警告書が貼られていた。

迂回路として熊笹の繁る急斜面に左右2本のロープが張られ誘導しているので、暗闇のなかロープに身を託し、足を笹に滑らせながら金比羅峠にたどりついた。
通常、金比羅峠より左に入ると<びわ湖バレー・ロープウエー山麓駅>ルートに下っていくのであるが、ルート途中の一昨年の台風被害による倒木地帯が横たわり、登山道が失われ遭難の危険性があるとのことで完全通行禁止となっている。
ただ、金比羅峠を左に<JR蓬莱駅>へ向かうルートは異状なく、安全な登山道が確保されていた。

 

 

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金比羅峠手前(下山時)の危険個所には次のような警告書が貼られ、ロープが三重に張られている。

 

<この先、事故多発!! 倒木が進路をふさいでいます
 昨年の体位21号のえいきょうにより、この先の「金ピラ峠コース」は、写真のように大量の倒木が登山道を塞ぎ進路を阻んでおり、下山できないなどの救助事故が多発し、負傷者も発生しています。
可能な限り、このルートへの入山は避けてください。
特に情勢やお子様連れのパーティは入らないことをお勧めします。>

 

暗闇の中での下山中だったため、詳細をお伝え出来ないのは残念だが、金比羅峠を通過して蓬莱山へ向かうときには、峠先の登山路を右へ行かずに、迂回路に入ってロープの力を借りて上りきって登山路に出ることを記憶に留めておいていただきたい。この迂回区間の登山道はがけ崩れのため死者も出ているという。

 

  ☟蓬莱山1174m

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   比良山系・蓬莱山登山道<金比羅峠ルート>付近地図               JR蓬莱駅☝ 

 

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           2020年3月20日現在 比良<金比羅峠ルート>現況

 

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金比羅峠に立つ標識<至びわ湖バレー山麓駅/至JR蓬莱駅>   <山麓駅ルート下山路・立入禁止>   

 

金比羅峠分岐では、左へ下り<JR蓬莱山>へのルートをとることになる。
峠より先は問題なく、林道のある登山口(下山口)に到着する。

 

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林道に立つ登山口標識「金比羅峠経由 至蓬莱山」  

 

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               JR蓬莱駅への林道にて穏やかな朝を迎えた

 

その先の登山届ポストの前にも警告板が立てられ注意を促していた。

 

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<注意  この先の金比羅峠から山麓駅ルートは
現在通行止めです。又峠の直後の蓬莱山ルートは崖崩れで危険ルートです。
滑落死亡事故個所です。十分注意して通行してください。>

 

金比羅神社あたりで朝日に迎えられ、一夜の強風の洗礼から脱出、安堵から歩をゆるめた。下山と共に、低体温からの手足の指のしびれも感覚が戻っていた。
南東の空にうかぶ上限の月が優しく無事の下山を喜んでくれていた。

無事生還したという気持ちになったとともに、貴重な体験をさせてもらったことに感謝した。
比良山系の春一番<比良八荒>を身をもって体験をさせてもらった一人となった。

これから<比良・金比羅峠ルート>の登山計画を立てられる方への参考になれば幸いである。

 

 

         2020『星の巡礼 蓬莱山雪中キャンプの春嵐』
          -比良山系・春嵐<比良八荒>からの脱出―

 

                完

 

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          比良・蓬莱山頂の鱗雲に夕陽が輝く瞬間を楽しむ

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            比良・蓬莱山頂より京都・西山方面に沈む夕日

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             春一番<比良八荒>に備えて設営したが・・・

 

2020『星の巡礼 淡路島一周サイクリング老人の旅』③

2020『星の巡礼 淡路島一周サイクリング老人の旅』③
   《第三日目 明神の浜 ⇒ 岩屋<道の駅あわじ>》

 

■ 3日目 <2月20日> 快晴 
 <山田漁港 明神浜―郡家―室津―斗ノ内―富島―野島江崎灯台

  道の駅あわじ(岩屋ゴール)>

  走行距離 31KM    :   走行休憩時間 6H
  △3日目最終ゴール    :          岩屋<道の駅あわじ>

 

昨夕、サンセットラインの夕陽に魅せられて、露営地である山田漁港につづくここ明神浜に着いたときはすでに日は沈み、ヘッドライトを頼りに暗闇での設営となった。

とっては返す小波の打ち寄せる音と、襲い来る心地よい疲れからくる睡魔に誘われて、寝袋に潜り込んだ。

実は、このときまだここが山田漁港の先に連なる明神の砂浜であることに気づいていなかったのである。

今朝は、GPSを頼りに近くの漁村を歩き、露営地がどこかを確認することにした。

 

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   最終露営地出発前に 明神の砂浜にて       砂浜設営は高波の危険があるので要注意


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   明神浜から山田漁村・漁港を望む

 

<日本の海岸線をゴミから守ろう!>

日本の海岸線の多くはゴミの漂着で汚れているが、ここ明神の浜は瀬戸内海の海流の関係であろうかプラごみやペットボトルの集積地のような観を呈している。

片づけても後からあとから押し寄せるゴミの山に対し、地元の住民や漁港関係者によって清掃活動が続けられていることに頭が下がる思いである。

出発前に、一夜のご縁に感謝して漂着ゴミ拾いに汗した。

人間の文化的利便性のもと使われているポリエステルやプラスチック製品の不使用、またそれに代わる地球に優しい製品開発が待たれる。それも急務である。

これらのゴミは地球温暖化を推し進め、いつかは恐竜のごとく人類もまた近未来に化石化して地球上より消滅する日が近いことを肝に銘じるべきである。

今に生きる一人一人の自覚に待ちたい。
われわれの素晴らしいこの地球星を汚染から守ろう!

 

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 ゴミのない美しい砂浜にもどることを祈りつつ       砂浜より集められたプラ・ポリのゴミの山 

 

<砂浜でのテント設営上の注意>

砂浜での露営は、水平線と同じ目線に沈み、打ち寄せる波の音に心癒され、天空の星空と語り、柔らかい砂ベットに臥せ、水際の散策、住民の皆さんとの交流という楽しみをあげることが出来るが、注意しなければいけないことは潮の満ち引きである。

波の浸入に慌てたり、荒波に身を危険にさらしたりと事故に遭うことである。
まずは、テントを張りたい浜と波の情報を集めておくことである。

浜に面するお宅を訪問し、聞き取りをするとともに、浜での一夜を過ごすことを伝えておくことが大切である。

意外と住民の皆さんとの交流を深めることができ、万が一のときの理解者となり、助っ人となることである。

テントを張ると、目立つものである。近隣住民の皆さんにいらない心配と、危惧を与えないようにするのがキャンパーとしての務めである。

撤収するときには、一夜の宿泊(露営)に感謝し、浜の清掃に汗することを心掛けたい。そして、浜を離れる(出発)時には、必ずお声掛けしたお宅に、出発の旨とお礼を伝えたいものである。

 

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<山田漁港・明神浜はどこに?>

前夜遅くに設営した明神の浜が、地図上でどこにあるかを確認せずに眠りについてしまったので、出発にあったって山田漁港・漁村をGPSを使って探索してみた。

 県道31(バイパス)と県道468の交差点に標識<智善寺1㎞>が出ている。
この交差点を左折すると漁村の細い旧道がつづき明神の街並みへと入って行く。

その先に山田漁港があり、その漁港を明神崎の鳥居が見下ろしている。 そしてその先で、昨夜通過したバイパス・県道31に出る。

昨晩設営した砂浜は、先の標識「智善寺」のある交差点を左折するとすぐに橋があり、橋を渡らずに右折し浜に出ると、露営に適した砂浜に出る。

 

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    標識<智善寺1㎞>を海側に左折      明神にある山田漁港(右手奥に江井崎が見える)

 

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       漁村の街並みー明神               明神浜より江井崎を望む

 

<江井を経て郡家にあるー伊弉諾神宮―に立寄る>

露営地である明神の浜をでて、前方に突き出ている江井崎を目指してペダルをこぐ。

早朝のサンセットライン(県道31)は、明石に向かうトラックが<明石淡路鳴門自動車道>に入るため速度を速めている。

そのトラックの風圧に、路肩に沿って走る自転車は横ぶれを起こし、一瞬ひやりとすることがある。

江井漁港をバイパスし、しばらく自転車を走らせると<郡家>の街に入る。

郡家の信号をサンセットラインから県道88に右折してしばらく行くと、左側に神話国産みの<伊弉諾神宮・イザナギじんぐう>がある。

 

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            サンセットラインの路肩の状況(大型車の風圧に注意)

 

伊弉諾神宮・イザナギじんぐう>

伊弉諾神宮は、古事記日本書紀に記載がある日本最古の神社であり、それも<はじまりの国 淡路国一宮>にある古来より人々に崇敬されてきた神社である。

 

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            淡路市一宮郡家にある日本最古の神社<伊弉諾神宮>

                                                      (写真・淡路観光協会提供)

 

<サンセットラインは最終地・岩屋へ向かう>

サンセットライン(県道31)にもどり、街にあるコンビニ<ローソン>で熱いコーヒーを流し込みランを続け、尾崎浜公園にある公衆トイレを拝借後、白い砂浜で休憩、さらに自転車を走らせると高速道路のインターチェンジ室津>の入口を通過する。

尾崎浜公園の先では、地点標識<岩屋から135㎞>を通過する。

ほとんどの大型車はここから高速道路を利用することになるので、室津から最終ゴールの<道の駅 あわじ>までは車の数が減り、走りやすいサイクルロードとなる。

 

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    尾崎浜公園にはきれいなWCがある      公園の先で地点標識<岩屋から135㎞>通過する

 

弥生時代の鉄器製造集落―五斗長垣内遺跡・ごっさかいといせき>

室津から東にむかうと、五斗長の集落がある。その先の黒谷に弥生時代後期(1~ 2世紀ごろ)に鉄器づくりをしていた村の跡(五斗長垣内―ごっさかいと遺跡)がある。

今から1900年前の弥生時代に、すでに日本では珍しい鉄鉱石を朝鮮半島などから輸入し、鉄器を作っていたという。
鉄矢じりを主とした鍛冶技術がすでにこの地にあったという先進性が淡路島には見られるから驚きである。

立寄って見るのもよい。

  

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     五斗長垣内遺跡の復元・鍛冶小屋

    (写真・淡路観光協会提供)

 

室津を出て育波漁港で休憩、海風にさらされた精悍な船姿に心をかき立てられる。
お土産の特産淡路島玉ねぎを購入し、アワイチ・淡路島一周の最後のランを楽しむ。

 

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          育波漁港             お土産の淡路玉葱を購入


育波漁港を出て、斗ノ内、モダンな新しい街・富島を抜けると最後の<淡路サンセットライン>に入る。

続く野島の浜には<サンビーチ>があり、テントを張ってみたい浜である。

サンセットラインには、自転車専用路が所々に見受けられ、ゆっくりと写真が撮れるのがありがたい。

しばらく走ると瀬戸内海を挟んで対岸に明石の街が見えだす。

<ステーキ&カレー Ocean Terace>(野島蟇浦)あたりから、のんびりゆっくりしたシーサイド・サイクリングを楽しめる。

堤防も低く、車も少なく、空気もきれいな<野島シーサイド・サイクルロード>がここ蟇浦から江崎灯台までの7㎞ほど続く。

しばらく陽光を楽しみながら潮風に押されて淡路島一周最後のサイクリングを楽しんだ。

 

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      野島の浜<サンビーチ>        堤防に造られた自転車専用路も一部に見られる

 

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      対岸の明石の街が見えてきた       野島平林では象さん親子が出迎えてくれる

 

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    野島シーサイドのサイクルレーン         江崎先海面での潮流の衝突がみられる

 

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    ゆっくりのんびりサイクルレーン          ようやく明石海峡大橋が見えてきた

 

<野島 江崎灯台

明石海峡大橋を見ながら走ると、右手に灯台のレプリカが見えてくる。
ここから180ある石段を上ると、明石海峡を見下ろせる丘の上に、明治4年から瀬戸内海を往来する船舶を見続けてきた日本で8番目の白亜の江崎灯台が建っている。

現在の灯台阪神淡路大震災で崩壊し、再建された2代目である。
ただ立入禁止なので海峡の絶景を眺望することは残念ながらかなえられなかった。

 

f:id:shiganosato-goto:20200220143434j:plain f:id:shiganosato-goto:20200220114404j:plain 明石海峡をコントロールする<野島江崎灯台>入口   明治4年に建った日本で8番目の江崎灯台

 

江崎灯台からは緑の歩行者・自転車道ラインに迎えられ、明石海峡大橋の下をくぐって、アワイチ・サイクルロードの発着地点である<道の駅あわじ>にゴールする。 

アワイチ標準総距離150㎞に対し、サイクルメーターの総距離は169㎞をさしていた。
アワイチを10~15時間で走りきるのがサイクリストの挑戦であり夢であるようである。 

しかし老サイクリストとしてはアワイチの風と語り、水平線と並行して走り、岬を目指して自転車を走らせる喜びを味わいながらのペダルこぎであった。

2泊3日のサイクリングは、この老人にとってゆとりある走りであった。

 

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   緑の歩行者自転車ラインに迎えられる

 

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             明石海峡大橋の下をくぐり<道の駅あわじ>に着き

            明石海峡大橋でアワイチ完走を祝う

 

神話の島である淡路島を巡り、神々にあたたかく迎えられ、神々と語りあいながら神々の息吹に触れることが出来た。

この島を作られた神々の声を聞きながら、豊かな恵み、さんさんと照る太陽に包まれ、神話の世界に遊ぶことが出来たことを喜んである。

今回も又安全走行を第一にして、時速約6㎞/h(走行総距離169㎞/走行総時間30h)という超低速であった。

亡き友と共に走った、思い出に残る自転車旅をなしえたことに感謝するものである。

 

          《 同衾の 猛る海峡 春嵐 》            

               -どうきんの たけるかいきょう はるあらしー

 

         《 羽振りて 潮呼び込みし 啼き海鵜 》   

            -はねふりて しおよびこみし なきうみうー

 

          《   淡路なる 神話の島や 春焦がる 》     

             -あわじなる しんわのしまや はるこがるー

 

          《 国生みの たどりし淡路 爺の春 》     

            ―くにうみの たどりしあわじ じじのはるー

 

            <俳句  ー淡路島ー 後藤實久>

 

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             夕日に照らされた優雅な明石海峡大橋

 

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  今日も岩屋へ向かうジェノバライン          明石海峡大橋の精悍な立ち姿

 

 

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        『星の巡礼 淡路島一周サイクリング老人の旅』

 

                    





 


 




 


 

 

 

 

2020『星の巡礼 淡路島一周サイクリング老人の旅』②

2020『星の巡礼 淡路島一周サイクリング老人の旅』②
  《第二日目 由良生石⇒明神の浜》

 

 

■ 2日目  <2月19日> 快晴


<由良生石(おいし)―相川―畑田―土生―阿万―福良―大鳴門橋―阿那賀―
   津井―松帆―五色―都志―明神の浜>

 

<由良生石(県道76/淡路水仙ライン)-阿万(県道25)-福良(県道25)-
   道の駅うずしお(県道25)―松帆(県道31)-都志―明神の砂浜>

 

   走行距離 87KM : 走行休憩時間 13H
   △2日目露営地   :      山田漁港先 明神の砂浜

 

 

凍でつく寒さのなか5時起床、さっそくガスコンロに火をつけ、体を温めるためにインスタントラーメンを作り流し込む。残り湯でコーヒーを沸かして一服。

テント内の湿気を乾かすために張りおいて、紀伊水道の防人である<生石鼻灯台>へ散策に出かける。

生石公園の紅白の梅の花が咲き誇り、梅香るなかで紀伊水道に浮かぶ友ケ島を遠望。

散策より戻り、撤収作業、感謝の祈りを捧げて一気にかけ下り、淡路水仙ラインである県道76の分岐に向かった。

途中、生石公園第一駐車場にあるWCに立寄り、用を足し、洗顔し、水を補給した。(雨水なので煮沸使用)

 

 

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     紀淡海峡から朝日が昇る          出発準備のためのパッキング

 

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  紀伊水道の防人<生石鼻灯台>             <生石鼻灯台>遊歩道

 

瀬戸内海国立公園 紀淡海峡

紀淡海峡に浮かぶ友ケ島は、神島・虎島地ノ島の総称である。

友ケ島は江戸幕府のころから大阪湾に出入りする船舶を監視する上で重要な位置であることから、紀州藩が加太に友ケ島奉行を置き藩士を常住させていたほか、明治21年には陸軍の軍用地として友ケ島一帯は由良要塞となり、第2次大戦が終わるまで一般人は近づくことも禁止されていた。

 

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  紀淡海峡に浮かぶ要塞・友ケ島を望む            紀淡海峡解説版

 

<南淡路水仙ラインー県道76を走る>

岩屋よりスタートしたアワイチ(淡路島一周サイクルロード)は、ここ由良生石(標高2.6m)より第一の峠(標高138m)への急登から始まる<南淡路水仙ライン>に入って行く。

県道76号線の一部である<南淡路水仙ライン>は、ここ由良生石より阿万(県道25との分岐)までの約20㎞の区間を呼ぶことにする。

 

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<南淡路水仙ライン>の起点<生石公園>分岐     県道76の分岐に戻り、急登を駆け上がる

 

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 水仙ラインは1.6㎞に渡り急勾配8%の表示     サイクルロード標識(岩屋より45㎞地点)

 

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    峠にある<立川水仙郷>

 

<南淡路水仙ライン> (県道76号線)

第一難関の峠(標高166m)を越えると、沼島を浮かべている大海原が目に飛び込んでくる。

峠を下ると素晴らしい海岸沿いの弾丸サイクルライン<南淡路水仙ライン>である。

<南淡路水仙ライン>は、峠に始まり峠に終わるが、その間の海岸弾丸道路はサイクリストの桃源郷である。


多くのサイクルグループがスピードを競って、弾丸のように一列になって風を切って走り去る姿は、つむじ風のようである。

 

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            <南淡路水仙ライン>の快走路 (背後の島は沼島)


 アワイチの醍醐味は、多くのサイクリストを魅了する条件の一つであるタイム・チャレンジができることであろう。タイムレースに挑戦できることである。


ここ<南淡路水仙ライン>は、サイクル条件である車の量、大型車からの風圧やアップ&ダウンそして難路が少なく、タイムアップできる数少ない平坦地のつづく区間であるといえる。

10・8・6時間切りを目標にするタイムレース中のサイクリストにとって、ここは時間短縮をはかれるサイクル区間であるといって言い。

そのタイムレースの中に紛れ込んで、古風なサイクリングを楽しんでいる2泊3日の老サイクリストもいるのである。

タイムレースもいいが、風に遊び、雲に導かれ、海と語り、テントから天の川に紛れ込み、俳句を作り、詩吟を吟じる。そして火をおこし、熱いコーヒーを流し込む。

なんとロマンチックなサイクルの旅ではないか。

 風に吹かれてさまようサイクリングも又いい。

 

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             <南淡路水仙ラインを沼島目指して快走>

 

南淡路水仙ラインでは、<立川水仙郷>・<淡路島モンキーセンター>・<灘黒岩水仙郷>に立寄ることが出来る。

 

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   お猿さんが潮塩をなめる姿に出会う     海鵜たちもサイクリストに声援を送ってくれる

 

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            サイクリストのパラダイス<水仙ライン>

 

<神話の沼島 と 沼島水軍>

ここ土生(はぶ)港より、神話の島<沼島>への連絡船が出ている。自転車は土生港に駐輪。
先にも述べたが、沼島は古事記にでてくる神話<国生み>の島の一つである。

島には、港の右手丘にある自凝神社(オノコロじんじゃ)、港より島を横断し約20分で行ける東岸に突き立つ「上神立岩」や、 港の観光案内所の近くにある神宮寺に梶原景時の墓がある。

自凝神社(オノコロじんじゃ)は、国生みの神話に出てくるイザナギイザナミの二神が祀られ、結ばれて生まれたのがここ沼島といわれる。

上神立岩は、高さ30mで、国生み神話の「天の御柱」といわれ、竜宮城伝説の表門ともいわれている。

ここ淡路島土生と沼島の間には、沼島汽船が運航している。 天候により出航決定は、定時の20分までに船長によってなされる。 

便数は6時より18時までの、10・12・16時を除いた10便である。 所要時間は10分。

運賃は480円である。 出航の確認は、沼島汽船土生営業所:0799-56-9644にて確認のこと。

鎌倉時代武家の棟梁源頼朝の側近であった梶原景時は、頼朝の死(1199‐建久10年)と同時に頼朝の妻・政子の実家である北条氏をはじめ有力な御家人たちにより鎌倉から追放され、静岡あたりで首を討ちとられる。

逃げのびた一族は、源平の合戦以来、配下にあった沼島水軍の本拠地であった沼島に居を構え、梶原景時の霊を祭ったという。

 

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 沼島汽船<しまちどり 土生⇔沼島>              沼島港マップ

 

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自凝神社(オノコロじんじゃ)     <沼島>      上神立岩

 

<淡路島と承久の乱

源氏が滅んだあと(1218―建保6年)、朝廷(京都)が政権奪取のため挙兵した「承久の乱」(1221)において、淡路国の守護と武士たちは朝廷に味方した。しかし北条氏の率いる大軍の前に敗北し、領地を没収され追放されるという運命をたどる。

 

<福良へ向かう> 阿万で県道25に入る

灘・土生(はぶ)港先より県道76は、第二の峠(標高93m)を越え、地点標識「岩屋から65㎞」を見ながら阿万(南あわじ市)に入って行く。水仙ラインは、阿万で県道76と別れ県道25に入って、福良へ下っていく。

 

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地点標識「岩屋から65㎞」通過(南あわじ市阿万)  峠への途中、初めて出会ったソロサイクリスト

 

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 淡路島特産の見渡す限りの玉ねぎ畑(東阿万)            淡路玉葱

 

<特産 淡路島産玉ねぎ>

阿万を走っていると玉ねぎ畑が延々と続く風景に出会う。
瀬戸内海特有の温暖な気候と風土で育つ淡路島産玉ねぎは、雑味のない美味しさと深い甘みをもち、「甘い・やわらかい・みずみずしい」と全国的にその名が知られている。    
鳴門海峡を吹き抜ける自然の風や、淡路島の日照時間が長いことが、また標高50mの台地が甘味たっぷりの玉ねぎを作り上げている。


阿万の玉ねぎ畑に見送られながら峠(標高53m)を越えると、さわやかな風を受け、鳴門の海を見ながら福良の港に向かって急な坂を転がり下っていく。 スピードに注意!

 

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阿万より福良への峠越えにサービスポイントがある    福良港を眺めながら坂を走り下る

 

<福良>

福良は陽光がさんさんと降り注ぎ、南国の風吹く、解放感に溢れた港町である。
福良湾には「煙島」、その背後に建つ白亜の「休暇村南淡路」が目に飛び込んでくる。
港には鳴門海峡うず潮観賞のクルーズ船<咸臨丸>がその雄姿を停泊させていた。

 

<福良港と太平記

鳴門海峡を望む福良港は、平家の都落ち(1185-文治元年)の際に敗走経路となったようで、「太平記」には越水の合戦(西宮)の合戦で敗れた将兵が、阿波へ逃れるために当地にやってきて、潮の状況を見て鳴門海峡を渡った、と記されている。また、古くから福良港は、明石の瀬戸に始まり阿波にいたる阿波路の要所として知られ、阿波への渡り口として「福良の渡」と呼ばれた。


<阿波への交通の要衝―福良>

福良港は、袋(ふくろ)の形状をなした福良湾の奥部にあり、平家秘話伝説を持つ煙島や洲崎の2つの小島などによって外海からの風浪が防がれ、波の穏やかな天然の良港となった。そして、港外は、天下の難剣と呼ばれる鳴門海峡に面しているため、難を避ける船舶の避難港(風待ち・潮待ち)港として古くから利用された。


<淡路島と天皇南あわじ市賀集>
淳仁天皇陵は、ここ福良から国道28号線を東へ向かった賀集(南あわじ市)にある。
淳仁天皇な、758年に第47代天皇に即位したが、仲麻呂の乱が起こり皇位を奪われ淡路島に幽閉された。
僧の道鏡藤原仲麻呂恵美押勝)らの権力争いに巻き込まれ、わずか5年で天皇の位を奪われて、母親とともにここ淡路島に流されている。

 

鳴門海峡渦潮観光基地 福良>

<道の駅 福良>に 鳴門渦巻観光船乗船場がある。
うずしおクルーズ船<咸臨丸>の乗船地である。

咸臨丸は、渦潮観賞時間に合わせて出航する。満潮と干潮により日々スケジュールが変わるので前もって問い合わせるか、出航スケジュール表を手に入れておいた方がよい。

約60分コースで、料金は大人2000円である。
間近で見るうずしおは、想像をはるかにこえる大迫力である。

 

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<道の駅 福良> 鳴門渦潮観光船乗船場                             鳴門渦潮 乗船券自販機

 

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 渦潮クルーズ船<咸臨丸>        咸臨丸より観賞する鳴門渦潮

 

源平合戦ゆかりの地 福良>

鳴門大橋を後にして、県道25に入る手前の坂道をのぼり、平安時代の終わりに繰り広げられた源平の合戦の語りが残っている福良鶴島城跡<国民休暇村南淡路>に立寄った。 そして平の敦盛の首塚があるといわれる福良湾に浮かぶ煙島を探してみた。

 

《 月よ出よ むかし平家の落ちびとの 浪まくらあと 福良の湾に 》 中村憲吉

 

福良の港に竹島という周囲四町ばかりの小島<煙島>があり、 寿永の春 平家一門が<一ノ谷>より落ちてしばらく身を寄せた。
煙島には安徳幼帝の行在所跡や、平の敦盛の首塚などがあるという。

 

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  国民休暇村への坂より眼前に煙島を望む    中村憲吉歌碑「平家の落ちびとの」

 

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  福良鶴島城跡にある国民休暇村<南淡路>

 

大鳴門橋 と 「道の駅 うずしお」>

福良へ戻り、県道25を走って「道の駅 うずしお」へ向かった。
県道25をそれて左折すると、鳴門海峡を見下ろす立派な道路が「道の駅 うずしお」へ向かって下っていく。

 

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       鳴門海峡、讃岐の峰々を眺めながら「道の駅 うずしお」へ下っていく

 

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「道の駅 うずしお」にある巨大玉ねぎ    大鳴門橋>                 演歌<鳴門海峡>歌碑

 

          <鳴門海峡> 作詞 吉岡 治  作曲 水森英雄

      髪が乱れる 裳裾が濡れる      潮が渦巻く 心が痩せる
      風に鴎が ちぎれ飛ぶ        頬の涙が 人を恋う
      辛すぎる 辛すぎる   恋だから 紅の 紅の 寒椿
      夢の中でも 泣く汽笛         夢の中でも 散りいそぐ
      鳴門海峡 船が逝く          鳴門海峡 海が鳴る

 

 

<南淡西淡線―県道25-のどかなサイクルロードを走る>
「道の駅 うずしお」を後にすると、南淡西淡線である県道25に入り、阿那賀の海岸線ののどかなサイクルロードを走る。
丸山港近くには活魚料理を食べられる「うずしお温泉」があるという。
立寄りたいが、老人には長すぎる今日のラン(RUN)、走行距離87㎞を考えて、できるだけ今夜の露営地に近いところで温泉に入ることにする。

 

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阿那賀の海岸から大鳴門橋が小さく見える      丸山漁港近くには<うずしお温泉>がある    

 

<漁港の走り方>

淡路島の西海岸には沢山の大小の漁港があり、その地域の生活の中心的存在として立地している。
ゆっくりと淡路島一周サイクリングを楽しむ仲間には、どうかバイパスを走行して漁港をスルーするのではなく、各漁港の古き良き村の魚の匂いや、時間を忘れさせてくれる街並みに触れてみてほしい。
そこには長閑な漁村の営みに触れ、人情に出会うことが出来る。

 

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  丸山漁港先に延びる海岸道路ー県道25 <サンセットライン> 地点標識「岩屋から95㎞」

 

国民宿舎 慶野松原荘の日帰り湯に立寄る> 
南あわじ市松帆古津路970-67 入浴料500円

阿那賀西路の海岸道路(県道25)を通り抜け、津井の漁港経由で湊の街に入る。

湊を流れる三原川の御原橋を渡ると信号があり、洲本へ向かう県道125とアワイチの県道31との分岐に出る。

自転車を県道31<サンセットライン>に走らせると慶野松原海岸にある「国民宿舎 慶野松原荘」の看板が目に入る。

立寄って日帰り湯をお願いしたら大丈夫だという、一日の潮風と汗を洗い流すため温泉につかることにした。

ただ一人の貸切湯である。

松風の舞う露天風呂がいい、炭酸を含んだ弱アルカリ性の温泉がぬるぬると体に絡みつき心地よい。

 

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    三原川の御原橋を渡り湊(松帆)の街に入る   <アワイチ・サンセットライン>は橋を渡り直進

                       (ここは県道25ー31ー26の重要分岐点である)

 

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              国民宿舎 慶野松原荘>

 

温泉につかり火照った体を松林に吹き来る海風にさらしながら、浜に建つ句碑 柿本人麻呂の和歌を口ずさんで旅の情緒を味わった。

 

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              柿本人麻呂の歌碑(慶野松原浜)

 

《 飼飯の海乃 庭好くあらし 刈薦の 乱れ出ず見ゆ 海人のつり舟 》柿本人麻呂万葉集

―けひのうみの にはよくあらし かりこもの みだれいずみゆ あまのつりぶねー

 

<飼飯の海の海上も穏やからしい、刈り取った薦のようにあちらこちらから海人たちの釣り船が出て来るのが見えるよ>と詠っている。

他界との境をさまようような不安な舟旅から無事明石の海峡へ戻って来た人麿たちであったが、陸地近くへ戻って来た安堵感が遠くに見える海人たちの釣り船を詠うことによって表現されているという。

 

<淡路島と高麗陣討死衆供養碑>

ここ南あわじ市の松帆江尻の江善寺に「高麗陣討死衆供養碑」がある。

豊臣秀吉朝鮮出兵(1592文禄の役)をおこなったとき、淡路島の秀吉の部下である脇坂安治加藤嘉明たちも多くの水軍を率いて従軍した。

しかし秀吉の水軍は李舜臣(りしゅんし)の率いる朝鮮水軍と戦った際、多くの戦死者を出したといわれる。

その供養碑がここ江善寺にあり、英霊が祀られている。

 

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       江善寺にある「高麗陣討死衆供養碑」

 

細川氏の養宜館跡>

湊にある三原川にかかる御原橋の信号を県道126に入り、東へ向かうと国道28との分岐信号「養宜上」近くに淡路国守護の居館であった細川氏の養宜館がある。

1333 (元弘3) 年、鎌倉幕府が滅び、南北朝の争いが始まる。

ここ淡路島の武士の多くは、後醍醐天皇南朝側に組みする。一方の足利尊氏は、 有力な武将である細川氏を淡路島へ攻め込ませる。 細川氏は、ここ南あわじ市八木の「養宜館」を本拠にして淡路全島を支配した。

現在、北側の一部の土塁以外、城内は水田化してその跡を見ることはできず、石柱<養宜館跡>のみが迎えてくれる。

 

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      細川氏の淡路支配の拠点<養宜館跡>

 

<淡路サンセットラインの夕日観賞>

入湯のあと播磨灘の涼しい風に吹かれ、サンセットラインに沈む夕日を観賞しながら今夜の露営地である山田漁港先の<明神の浜>に急いだ。

 

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  夕日にそまるサンセットライン(県道31)        播磨灘に沈みゆく太陽

 

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  サンセットラインが一段と赤く染まりだす      夕日に自転車のシルエットが浮かぶ

 

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           天地創造―サンセットラインの日没

 

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           天地創造―サンセットラインの夕焼け

 

 

▲ 2日目露営地―山田漁港先 明神の砂浜

サンセットラインの夕陽に魅せられて、今夜の露営地である山田漁港につづく明神浜に着いたときはすでに日は沈み、ヘッドライトを頼りに暗闇での設営となった。

とっては返す小波の打ち寄せる音と、襲い来る心地よい疲れからくる睡魔に誘われて、寝袋に潜り込んだ。

実は、このときまだここが山田漁港の先に連なる明神の砂浜であることに気づいていなかったのである。

 

 

 

 

        『星の巡礼 淡路島一周サイクリング老人の旅』③
       《第三日目 明神の浜 ⇒ 岩屋ゴール「道の駅あわじ」》

                  につづく

            

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 


 
              

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020『星の巡礼 淡路島一周サイクリング老人の旅』①

2020『星の巡礼 淡路島一周サイクリング老人の旅』①

  《第一日目 岩屋⇒由良生石》

 

2019年3月、びわ湖一周サイクリング時、次なる目標に<淡路島>をあげていた。
1年かけて、サイクルロードの情報の収集・携行品・淡路島の歴史ほか楽しい準備期間を過ごしてきた。
その間に、病床にあった友が、息子さんの誘いで淡路島一周の車の旅に出かけ、その自然の美しさと父子のこころの結びつきを熱く語ってくれたことが決定的な後押しとなった。
また、神話の島としての神秘性にもこころ魅かれていた。
老体に一抹の不安があったが、この世を去った友にもう一度淡路島の潮風にふれ、天地創造なる夕陽を見てもらおうと意を決して出かけてきた。

すべては、<淡路島サイクリングマップ>の取り寄せから始まった。

 

<淡路島サイクリングマップの取り寄せ>

 

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                   淡路島サイクリングマップ

 

下記リンク先のPDFより取りだすことが出来る。
https://web.pref.hyogo.lg.jp/awk12/map.html 
兵庫県 淡路県民局サイト)

 


<世界一の吊橋 明石海峡大橋

淡路島一周のサイクリングを始めるには、世界一の吊橋である明石海峡大橋(全長1991m)を渡るか、高速フェリーによる淡路ジェノバライン明石港岩屋港 13分)を利用することになる。

今回は老体を考え、輪行袋での淡路島一周スタート地点である岩屋への公共交通機関(フェリー・バス)での移動をあきらめ、車での移動となった。

垂水インターより始まるトンネルを抜けると、突然青空に吸い込まれる世界一の<天空の吊橋>が目に飛び込んでくる。アーチ状の吊橋を上りきると、その先に神話の国<淡路>を見下ろせるのである。

 

<初めての淡路島は原付オートバイで縦走>

明石海峡大橋には懐かしい思い出がある。 若かりし頃、ホンダ・マグナ50㏄で日本一周ツーリング途上、この原付オートバイで垂水インターより大橋に闖入。 当時はのんびりしていたのだろう、インター入口でのお咎めはなく、マグナ50㏄が250㏄に見間違われての進入となってしまった。

大橋を渡り始めてまもなく、パトカーの呼びかけに停車させられ原付オートバイは通行禁止であることを告げられる。わたしは大橋開通以来、初めての原付自転車での乗り入れと大橋を通行した記録をつくることになってしまった。
それも、大橋は一方通行で、折り返し方法がなく、赤色灯とサイレンを鳴らされながら、これまた大橋初めての原付自転車の最高速度30㎞/hという超低速でのろのろと淡路島岩屋インターへ誘導されたのである。

本当は日本縦断時に<しまなみ海道>をサイクルしたように、瀬戸内海の明石海峡を自転車で渡りたいという夢はあったが、この明石海峡大橋は自動車専用橋でその夢をかなえることはできなかった。
ただ偶然にもあの日、原動機付自転車で渡れたのだから良としたい。

 

<亡き友と共に淡路島一周>

昨年10月末、自宅療養を続けていたわが友・竹内正照君は、息子さんの運転で淡路島を一周したと、月例友の会の昼食会で目を輝かせ、うれしく語ってくれたものである。
輝かせた目に生きる炎を燃え立たせ、無口は雄弁に変わり、息子さんとのドライブがこの上ない喜びであったことを表現していた。
長距離ドライブの苦痛よりも、父子の無言なる情愛の心地よい交歓に酔いしれていたことを物語っていた。
その友は、この世でのなすべきことをなし終えて昨11月14日召天、帰らぬ人となった。
その彼が体験したであろう淡路島の心温まるサンセット・夕陽の情景をもう一度見せてやろうと遺影(写真)を懐に忍ばせてのサイクリング行となった。

 

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       亡き友も仰ぎ見たであろう天地創造―淡路島サンセットラインの夕陽

 

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      《無の風に 戯れ遊ぶ 雲遮月 悲しみ深き 君の旅たち》 

 

      《時来たり 旅立ちし君 スカウトや こころ清めて 弥栄贈る》

 

      《安かれと 祈りし我に 微笑みて 清けき風に 戯る君や》

 

      《友往きて 残せし香り 白菊の 想いて哀し 君の残像》

 

 

<神話の島 淡路島>

淡路島は、古事記・日本書記に出てくる神話<国生み>の島であり、イザナギ伊弉諾)とイザナミ伊弉冉)が結ばれて生まれた島といわれる。
その源である淡路島の二か所、ここ岩屋にある<絵島>と、淡路島南西に浮かぶ<沼島>と、西岸郡家にある伊弉諾神宮を訪れてみたい。楽しみである。

 

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          世界一の吊橋の雄姿<明石海峡大橋> 全長1994m


明石海峡大橋 と ボスポラス海峡大橋 と びわこ大橋>

夕陽を浴びてピンク色に染まる明石海峡大橋を眺めて、その美しさに見惚れた。
美しく、どこが優雅である。

バックパックを背負い世界一周の途上、ユーラシア大陸をまたぐボスポラス海峡大橋(トルコ・イスタンブール)を思い出した。橋は、人類をつなぎ、歴史をつなぎ、愛をつなぐ。橋にはいつも夢がかかっているのである。
話は変わるが、びわ湖にも松尾芭蕉が詠んだわたしの大好きな一句が残っている。

《 比良三上  雪さしわたせ  鷺の橋 》 (俳諧翁艸)

この夢の鷺の橋が、芭蕉が詠んでから174年後に<びわ湖大橋>として完成している。

 

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     夕陽に映える明石海峡大橋(手前淡路島岩屋と対岸明石をつなぐ夢の大橋)

 

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      懐かしのボスポラス海峡大橋        芭蕉が鷺の橋と詠んだ夢の橋<びわ湖大橋>

 (手前ヨーロッパと対岸アジアをつなぐ夢の大橋)

 

<岩屋―淡路島一周サイクリング起点に到着>

神戸淡路鳴門自動車道明石海峡大橋を渡り、淡路インターでおりて、サイクリング起点と決めている<道の駅 あわじ>に到着した。
岩屋で一泊し、水の補給、緊急用食料の調達、サイクル地図や情報を収集。
出発前日、体を休めるため、道の駅近くの丘の上にある日帰り湯<美湯 松帆の郷>につかり、照明に浮かぶ魅惑の明石海峡大橋を楽しんだ。 淡路島一周を成し遂げた折も、同じ湯につかり、老いの体を癒したものである。

 

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 淡路島一周サイクリング起点<道の駅 あわじ>    出発前日、体を休めた<美湯 松帆の郷>

 

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     明石須磨方面の夜景をバックに着飾った明石海峡大橋  <美湯 松帆の郷>より

 

 

■ 1日目 <2月18日> 快晴

 

<岩屋―東浦―淡路市―洲本―由良―生石(おいし) >
岩屋(国道28)-洲本(県道76)-生石分岐より生石鼻(由良要塞跡)に向かう
走行距離 51KM : 走行休憩時間 11H
△1日目露営地     :     生石山頂「本土防衛由良要塞跡」

 

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                    06:30 明石海峡大橋をスタートする

 

<淡路島サイクリストロード 起点>

淡路島サイクリストロード 起点標示は、高速船のりばであるポートビルより南約200m先にある。 一周サイクルロードには岩屋を起点とした同じ地点(距離)標識がたっているので現在地を確認するのに役立つ。 ただし、サイクルロードの時計回りルートにだけ表示されている。 路面にもサイクルサインが描かれているがごく一部に限られている。

 

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 <淡路島サイクリストロード 岩屋起点標識>        路面のサイクルサイン

              起点 スタート      0km 地点
           ゴール      150km 地点

 

<高速船 淡路ジェノバライン 明石 ⇔ 岩屋>

明石から岩屋への交通機関は、所要時間13分の<淡路ジェノバライン>高速船がある。
5時~23時の間に1~3本の便が出ている。
片道運賃は、大人530円と自転車240円、計770円である。
自転車は輪行袋に関係なく運賃をチャージされる。

 

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岩屋漁港を回り込むと明石行き高速船のり場<ポートターミナル>があり、右手にバス乗り場がある

 

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本四海峡バスのバス停<岩屋ポートターミナル>

 

淡路市は子午線の通る町であるー中央標準時 東経135°>

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淡路市ー子午線の通る町<中央標準時 東経135°>

 

《アワイチのサイクルルートを走りながら淡路国の歴史を訪ねたい》

 

<絵島―国生み神話に伝わる「オノコロ島」・淡路島>

絵島は、国生み神話に伝わる「オノコロ島」伝承の地だとされる場所の一つである。ほかに、明日通過する淡路本島の南西にある沼島もまた「オノコロ島」といわれている。
古事記に出てくるイザナギノミコト・イザナミノミコトによる<国生み神話>で知られ、神々がつくり出した最初の島がここ淡路島といわれている。

 

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  絵島「神話オノコロ島」と西行法師の歌碑      神話オノロコ島のもう一つの「沼島」

 

《千鳥なく 絵島の浦に すむ月を 波にうつして 見るこよいかな 》 西行山家集


  千鳥の鳴いている絵島の浦の澄んだ月を、波に移してみている。今夜の絵島は

  何と美しいことか。  ―平家物語の「月見」よりー


奈良時代には淡路島にすでに「淡路国」が置かれ、畿内(都周辺)から阿波(徳島)に通じる「南海道」(現在の国道28号線の一部)という重要なルート<由良港―洲本―三原―賀集―福良港>があった。

淡路島の東岸は、大阪湾・紀淡海峡に面しアップ&ダウンの少ないサイクルロードである。この日も美しい白雲の間からさんさんと南国のような陽光が白浜に差し込んでいた。 快適な広々としたサイクルルートに沿って棕櫚、蘇鉄、ヤシの並木がつづき、アロエの赤い花たちも情熱的に歓迎してくれる。
日本縦断の時に走った宮崎の日南海岸を思い出していた。

 

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         <淡路島東岸の典型的なサイクルルートの風景>

 

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           <明石海峡公園沿いのサイクルロードを南下する>

 

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          <淡路夢舞台>あたりの広々としたアワイチサイクルロード

 

<似てるね、淡路島は琵琶湖の双生児か―比較してみよう>

ダイダラボッチ伝説を学生時代に聞いたことがある。確か柳田邦夫著「ダイダラ坊の足跡」 に出ていたが、ダイダラボッチとは<大太郎法師>で、その巨人の馬力で土地移しをやったという話(伝説)だったと思う。そこでは近江の土地(びわ湖)を掘った土で富士山を作ったという伝説であった。

しかし今回、淡路島一周サイクリングをするにあたって島の地図を眺めることが多く、その都度前回走ったびわ湖の形と類似することが気になっていた。
形を逆さにしたり、周囲の距離、面積(大きさ)を比較してみても類似点が多いのだから驚きである。

淡路島がびわ湖の姿に似ているのは、ダイダラボッチ(巨人)が作った島であり、湖であるという伝説を作りあげても面白そうである。夢を語り伝えるのは愉快である。

面積で比較すると、琵琶湖 669㎢・淡路島 593㎢であり、周りの距離ではびわ湖189km・淡路島150㎞で淡路島の方がわずか小さいが、ほぼ同じである。

また地図を見ると、淡路島の南に浮かぶ神話の島である<沼島>が、びわ湖の北にある<余呉湖>に不思議なほど同じ位置にあることに気づかされるのである。

 

                      ☟余呉        ☟沼島

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       淡路島            びわ湖            逆さ淡路島

 

<道の駅 東浦ターミナルパーク>

「アワイチ」である国道28号線を南下、あたたかい陽光を浴びながらペダルを踏んでいると東浦漁港につづき「道の駅 東浦ターミナルパーク」に着く。しばしの休憩、WCを済ませ、水・飴・チョコを補給。 ここにはレンタサイクル<Bicycle Hub Awaji>がある。
 

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      出迎えのロンドン紳士と                 東浦漁港

 

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    標識「道の駅 東浦ターミナルパーク」で左折 「道の駅 東浦ターミナルパーク」

 

<宿泊温泉情報―「東浦サンパーク」>

国道28を道の駅より南へ進むと、久留麻の信号の手前にあるコメリの横を入って行くと「東浦サンパーク」に出る。宿泊3200円より、日帰り湯730円。

 

<西日本最大の縄文集落佃遺跡>

ここ東浦には、西日本最大の縄文集落佃遺跡(つくだいせき)があり、淡路島にはすでに今から約2500年前人の営みがあった。

遺跡からは、竪穴住居跡や丸木舟の一部が発見されているという。
淡路島には佃遺跡をはじめ、縄文集落が20ほど残っているから遺跡発掘に興味のある研究者には夢の島である。

さらに弥生時代には淡路島の至る所に水田跡があったことが分かっている。 そして、豊作を神に祈ってお祭りをする際に使われたと思われる銅鐸がたくさん出土している。

もし時間が許し、体力があれば立寄って見てはいかがだろうか。
日本の原風景に出会えるかもしれない夢の島でもある。

 

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             兵庫県教育委員会編より

 

道の駅・東浦ターミナルパークをでて、巨大な白亜の観音様の激励を受け、海風に押されながら淡路市を目指す。

 

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            巨大な観音様の出迎えを受ける

 

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       <由良方面を望見しながら、東浦の街を駆け抜け淡路市に向かう>

 

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   淡路と洲本の中ほど、安乎に「シーアイガ海月」がある(情報:宿泊4100~・日帰り湯600円)

 

明日走る由良からの<水仙ライン>には、コンビニや食料調達の店がないので洲本のイオンに立寄り、食料を購入する。
南国の太陽はまぶしいので、ダイソーではサングラスを手に入れることにした。

 

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      洲本のイオンで食料購入      大浜海浜公園の美しい松林と砂浜(洲本) WCあり

 

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洲本から由良に向かって断崖道路(県道76)となる     大浜公園先より洲本城址に立寄る

 

<淡路島の代表的な城 洲本城>

洲本の大浜公園をでて、県道76を南へ少し走ると、右山手へ入ると、洲本城への急な坂道がある。

洲本城址の石垣は見事である。
洲本城は標高135mの三熊山頂に建っている。淡路水軍として活躍した安宅(あたぎ)氏によって築城された。洲本港を見下ろし、遠くは友が島水道を挟んで紀伊の山々が霞んで見える。

大阪湾を見渡すことのできる洲本城は、由良城・炬口(たけのくち)城とならんで、淡路水軍の根拠地であった。 

その後、天下統一を目指す秀吉は安宅氏を滅ぼし、洲本城をして淡路島全島を支配させた。
また1615年には、大阪の陣で功績のあった徳島藩主蜂須賀氏に加増され、洲本城を政治的に利用した。

 

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洲本城(復元)             立派な洲本城の城壁               


<淡路島と信長の天下統一への道>

天下統一に立ちあがった織田信長は、 中国地方の毛利氏との決戦に備えて、秀吉を大将に 進撃を開始させる。この時、秀吉は瀬戸内海の制海権を持つ毛利水軍を撃破するため、 淡路島への攻撃を始める。

1581 年、秀吉は、敵対する淡路島の武士をすべて攻め滅ぼしてしまうのである。

この洲本城は、安宅(あたぎ)氏の主城で、ほかに淡路島には岩屋城、安乎城、炬口城、由良城、猪鼻城、白巣城、湊城の全部で8つの城があった。

洲本城でも見られるような立派な土塁や城壁がいまでもいくつかの城跡でみられる。

<案内板より抜粋>

 

 


県道76にもどり、由良に向かうが、歩道はなく車道との共用道路を走ることになるので車には十分な注意を要する。

ヘルメット、後方点滅灯、サイドミラーを確認し、路肩走行を心がける。

友ケ島水道にうかぶ白雲に春の訪れを感じながら南下を続ける。

 

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 洲本城址より紀淡海峡先の和歌山の峰々を遠望    県道76(海岸道路)を由良に向かう     

 


▲ 1日目露営地―生石公園・由良要塞(標高118m)

 

県道76の由良生石(ゆらおいし)分岐で、真っすぐ進む<アワイチ>(淡路島一周サイクルロード)と、左折して今夜の露営地に向かう生石公園道路に分かれる。
分岐を左に進むと、急登し山頂の要塞跡<1日目露営地>にでる。

 

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分岐<由良生石>を左折、今夜の露営地に向かう  生石公園第二駐車場展望台に設置されているスタンプ

 

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露営地(生石山標高118m)への急登を手押しで上る     設営前に要塞跡を下見散策する

 

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     ☝生石山第一砲台(第二駐車場)  <由良要塞全容図> 

    

1日目露営地は地図左の<生石山第一砲台>付近でテントを張る。

 

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             <生石山第一砲台跡>

 

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      設営完了       <生石山頂・由良要塞跡にて>      夕食準備

 

<ペリー来航 と 松帆台場(砲台)の備え>

ペリー来航を機に幕府は、開国し、貿易を強いられる激動の幕末が始まっていた。

幕府や諸藩は、外国艦船に対する海防の強化に迫られ、幕府は、江戸品川に「お台場」を築造する。

徳島藩支配下にあった淡路島では、淡路の由良・洲本・岩屋に「台場」を築造し、武士だけではなく、島内の百姓の若者を訓練して警備につかせたといわれている。

 

<大阪湾・京阪神を守る由良要塞―生石山>

明治政府は、日清戦争を機に和歌山県加太から由良にかけて要塞(砲台)を建設した。京阪神を 防衛する大きな使命をにない、陸軍要塞としては、 東京湾要塞に次ぐ重要な地点と位置づけられた。

ここ由良には、要塞司令部が置かれ、生石山砲台や関連施設が建設された。

敗戦後、アメリカ軍の命令により、由良要塞の施設は爆破されたが、砲台跡は今も見ることができる。

 

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      諭鶴羽山439m方面に沈む夕日 <生石山頂より> 夕焼けに染まる紀淡海峡

 

すでに太陽も沈み、強風が吹き始めた。
深夜は厳しい寒さになりそうである。 ラジオ・ヘッドライト、水、ホイッスル・スティック(獣撃退用)・小用袋とカイロを準備し、眠りについた。

 

          《ああわれいま淡路島 由良要塞に臥して》

              

               ああわれいま由良要塞におり
               亡き将兵と共に臥して
               ワインを献じ 霊を慰める

              

                 強風 われを明治に誘いて
                心躍らし 敵艦隊遅しと
               遥かなる友ケ島と交信す

                 

                  灯火信号ありて
               「われら意気軒昂なり」と
                漆黒の紀淡海峡 黙して眠らず

 

               ああわれいま由良要塞に臥し
                   英霊と同じ風を味わい
                  国防の要塞で心躍らすなり

 

 

 

         2020『星の巡礼 淡路島一周サイクリング老人の旅』②
              《第2日目 由良生石⇒明神の浜》

                     につづく

 

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             淡路島観光協会<淡路島おもしろマップ>

 



 





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 


               

 

 



 

 

 

2020ブログ『星の巡礼 蔓陀羅山―大塚山散策』

2020『星の巡礼 蔓陀羅山―大塚山散策』
   ―金比羅宮と大塚山古墳を巡る―

 

金比羅宮は、びわ湖西岸真野に広がる丘陵地帯―現ローズタウン―を東西に二分割するように南北に横たわるひょうたん型の小高い山並みの南側の標高184mの曼陀羅山にある。
そして、大塚山古墳は、曼陀羅山より尾根伝いに北へ250mほど先の北側にある標高193mの大塚山にある。

 

           

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                                                             「史跡 大塚山古墳」石碑と

 

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           標高184mの蔓陀羅山 と 193mの大塚山 ルート地図

              (JR湖西線 小野駅付近ー地理院地図より)

 


最初、堅田にあるショッピングモール平和堂の三階のフードコートより眺めた北西に横たわる瓢箪型の山並みにくぎ付けになった。

というのは住宅街の中にひょっこりと2つのコブ(瘤)が突き出ていたからである。

なぜローズタウンという住宅街に、緑樹に覆われた双子の低山が横たわっているのか、俄然興味を抱いたと同時に、その奇妙な瓢箪型の低山に上ってみたいという願望に変わったのである。

 

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                      冠雪の比良山系の前に見える双子の丘陵(左・蔓陀羅山  / 右・大塚山)

            平和堂 堅田店三階より望む (前の広場は、JR湖西線堅田駅前)

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車を走らせると、なんといつも湖西高速道路の真野堅田インターチェンジへの道筋にあったのであるから驚きである。というのは今まで瓢箪型の小高い山並みが目に入っていなかったからである。

ローズタウン入口にあるJR湖西線小野駅の南側幹線道路を西北に進むと、右手にひょうたん型のコブの南側の山である曼荼羅山(標高184m)への階段が見えてくる。


その麓には駐車スペースがあり、階段登り口に石碑「金比羅宮」が建ち、立派な石鳥居が出迎えてくれる。

 

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              階段登り口に立つ石碑「金比羅宮」

 

階段状の参道は、丸太を土止めにする素朴な階段がつづき山頂の金比羅宮へと導いてくれる。階段参道の両側には桜が立ち並び、春爛漫の桜トンネルが待たれる。


なだらかな上り階段と思っていたが、上るにつれて老体に心地よい汗と疲れを感じさせてくれる。

香川県の琴平にある「さぬきのこんぴらさん」で有名な金刀比羅宮の階段を思い出す。

老人が登山靴を履き健康登山をされている姿が、この参道である山道の階段の風景によく溶け込んでいる。


ときどき休みながら後ろを振り返ると、びわ湖の恩恵を受けている湖西の街並みとその背後にそびえる比叡の山並みが、また途中峠からの比良山系の霊仙山から権現山への美しい稜線を眺めることが出来る。

この美しい眺望は、古より保たれていたであろうし、この地の頂にお墓をもうけて先祖を祀りたいと思う人もいたであろうと考えながら、階段を踏みしめて蔓陀羅山の頂にある金比羅宮に立った。

 

この急な階段参道を上ることは、金比羅宮への道として御利益があるのであろう。

蔓陀羅山頂に「金比羅宮」の社殿があり、ご利益のある護符を授ける社務所もある。
古来より海の神様(この地では湖の航海をつかさどる神様であろう)、五穀豊穣、大漁祈願、商売繁盛など広範な神様として、善男善女の信仰を集めて、ご利益を求め多くの庶民が訪れる人気の神社(宮)であり、パワースポットであったらしい。
なかでも金運と縁結びはもちろんだが、縁切りのご利益があるというのだから面白い。
その他、豊作の神、医薬の神、技芸といった音楽芸術の神でもあるという。そのご利益は万能であるのだから、庶民にとってまたとない祈願の地であったに違いない。

 

しかし、豪恕(ごうしょ)上人による「金比羅宮」勧進の主たる目的は、地域の水利の改善による繁栄にあったことは碑文解説に見られるとおりである。  

 

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                 蔓陀羅山頂にある 「金比羅宮」全景

 

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    金比羅宮                     社務所

 

ここは蔓陀羅山という。 山の名がいい。

 

しかし、なぜ天台宗の高僧である豪恕(ごうしょ)上人がこの山を開山し、蔓陀羅山と命名したのだろうか。
金毘羅宮の左横に、ここ蔓陀羅山を開いた天台宗の高僧の法名「探題前大僧正豪恕」と彫られた石碑が建っている。
探題(たんだい)とは、探題職のことをいい、座主が万一の場合、この探題職の順位で次席の者が上任することになっている。
座主の次の位にあった大僧正がこの山を開いたと思うだけでも、いかにこの蔓陀羅山が生活に密着した重要な地であったかが推測できる。


日本史から見て、飛鳥時代の667年、ここ近江の地には飛鳥から移ってきた天智天皇が営んだ「近江大津宮」があり、一時短期間だが日本の中心であった。
ここ蔓陀羅山近くには多くの古墳が散在している。

 

とくに有名なのは、ここ小野の里には同時代607年 聖徳太子の命により、遣隋使として活躍した小野妹子の墓があることである。 小野妹子神社の後ろには、妹子と関係があるといわれる唐臼山古墳(大和朝廷の官人だけが造営を許されたという)もある。是非立寄ってみたい。 (所在地:滋賀県大津市水明1丁目)


わたしは現在、日本書記に出てくる天智天皇の都「近江京」のあった近江国滋賀郡(現大津市・旧志賀町)に居住しているのだから興味が尽きないのである。
この地、大津京のあと平城京平安京へと移り、日本の歴史は連綿と続き、現在に至るのである。
実に、歴史は面白い。
その歴史の中に生きており、そしてそのいにしえの中心に立っているのだから愉快である。

 

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 墓碑「探題前大僧正豪恕」            豪恕上人に関する解説版    

 

 

ここ蔓陀羅山から南西の彼方に天台宗総本山である延暦寺がある比叡山の雄姿を見ることが出来る。
また眼下に堅田の街やびわ湖にかかる「びわ湖大橋」を一望できる。

石碑の横にある案内板には次のように解説されている。


「碑文について
 豪恕(ごうしょ)上人 = この山(蔓陀羅山)に金比羅宮を開基した人,
 上人は愛知郡泰荘町の出身
 比叡山延暦寺で修行し寛政七年(1179年)大僧正
 となられました。 碑文に「探題」とあるのは延暦寺
 の座主に次ぐ高い位のことです。
 上人は、水脈や水利に造詣が深く字に秀れ、上人の書
 を家に貼っておくと火災除けになると評判でした。
 昔から(ここ真野)普門村は水利が悪く経済的にも苦しいので
 上人に依頼し溜池を含め色々と世話になったと
 いわれます。 また将来も水に恵まれ水利の向上が図ら
 るよう見晴らしがよく由緒ある蔓陀羅山山頂に
 「金比羅宮」を勧進し社を建て、地域の繁栄を祈願
 したと伝えられています。  文責 中野清明」 (一部抜粋)

 

 

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蔓陀羅山山頂より びわ湖大橋方面を眺める                          

 

 

金比羅宮」のある蔓陀羅山は、南北にある双子の山の南側にある。
金比羅宮を右へ回り込んで下っていくと、北側にある大塚山へ向かう尾根に出る。
尾根に出る前に、ローズタウンに下りる作業道路があり、その手前に電波塔が樹立する。
この尾根からは東西にローズタウンの街並みが見渡せる。 

 

その尾根の鞍部に、豪恕(ごうしょ)上人が
地域繁栄を願って手掛けた水利事業の遺産として現代に受け継がれ、上人の偉業を形にした巨大な2基の貯水タンクが設置され、地域の水利の便に供されている。
また、地理院地図をみると双子の山の周辺に9個の溜池が確認できる。
いかにこの周辺が大昔から水利の便が悪かったかが分かるのである。

 

しばらく痩せ尾根に咲くツツジの花を愛でながら進むと、双子の北側の山、史跡・大塚山古墳のある大塚山に出る。

 

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     電波塔群        双子の山をつなぐ尾根道    お山はすでに春、ツツジが咲いていた

 

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        水利対策の真野配水場の巨大貯水タンク (双子の山の鞍部)

 

 

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           大塚山に向かう尾根より西側の夕日に沈むローズタウンを望む

 

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                     南側の堅田の街並みを望む

 

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                東側の小野・ローズタウン・びわ湖を望む

 

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              大塚山の「和邇大塚山古墳」より蔓陀羅山を望む

 

古代のロマンの詰まった古墳に興奮を抑えられない。
この大塚山に古墳という花が咲いていたのである。古墳の根が1500年近くもこの地に張っていたのだからワクワクするのも当然である。
エジプトの砂漠の地でピラミットをスフィンクス越しに見上げた時のワクワク感が蘇ってきた。
古墳物語が頭をよぎり、ページを忙しくめくりだした。
まず歴史の事実を見ておきたい。

 

和邇大塚山古墳」(わにおおつかやまこふん)

双子の山の北にある大塚山は、南にある蔓陀羅山より9m高い193mの標高である。
この大塚山に約1500年前に造られた古墳がある。

 

和邇大塚山古墳」は、滋賀県大津市小野朝日2丁目、丘陵地の大塚山頂にある。
紀元後500年ごろの造営で、墳丘は鍵穴型の前方後円墳であるという。


古墳の規模は、二段構築の後円部が50m径X8m高、前方部が30m幅X5m高であり、全長約72mという。
1988年の発掘調査で、石室は、竪穴式石室といわれ、すでに発掘・破壊されていたといわれている。
また、出土品として、中国製青蓋盤竜鏡・硬玉製丁字頭・碧玉製管玉・鉄剣・太刀・斧・甲冑類・土師器などが出土したことが伝えられている。
現在、志賀町は合併し大津市となっている。

 

志賀町教委員会によれば、

 

「(和邇)大塚山古墳は、志賀町の最南端、大津市との境界線上に南北に横たわる蔓陀羅山の最高所(標高191m)に所在する全長約72mを測る前方後円墳である。
前方部を南東に向け、その側面を小野集落およびその沖合の湖上からよくとらえることが出来る。
封土は二段構成で、前方部の先端は、バチ形に開く。 墳庇斜面の各段には、表面を人頭大の礫を敷き詰めて土止めしている。
だが、埴輪は設置されなかったようである。
古墳の埋設施設は後円部中央にあるが、すでに明治40年に地元の人により発掘され破壊されている。
礫床の上に作られた粘土棺であったようである。
4世紀後半から5世紀初頭頃に造営されたものと推定される。 

平成2年3月 志賀町教育委員会

 

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石碑「史跡 大塚山古墳」           「史跡 大塚山古墳」解説版            

 

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石碑横にたたずむ無縁墓     大塚山山頂にある一級基準点・三級水準点に出会ってほっとする

 

金比羅宮のある蔓陀羅山から大塚古墳のある大塚山に向かう尾根の枯草の上に仰向けになって暮れゆく冬空を眺めると、ハミングを口ずさみながらゆっくりと東に向かう風に出会った。


風は時間の流れに逆らわず、比叡の峰から琵琶の湖(うみ)に向かってスローモーションを見るようにその翼を上下させている。わたしのこころに手を振りながら風は、歴史の彼方へといざなってくれている。

空を見上げると、雲隠れしている太陽も仲間に入れてくれといっているようだ。

 

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わたしは、この一瞬を切り取った風景が好きである。
風に揺れた一枚の枯葉が、落ちてわたしの頬に触れた。
人生での出会いにぬくもりを感じる瞬間である。


生きるとはなんと神秘的で、神々しいことだろうか。

心地よい散策を終えて帰路に着いた。

 


  

                      

2019『星の巡礼 ボーイスカウト京都第11団歴史をたどる写真展』 

    『星の巡礼 ボーイスカウト京都第11団歴史をたどる写真展』

 

「故大西孝雄氏スカウト活動追悼写真展」開催ご案内

 

ボーイスカウト京都第11団BS/SS元隊長・京都大学ローバースカウト(青年隊)OB・ 大西孝雄氏(81歳)は、病気療養中のところ、2019(令和元)年12月22日朝、不帰の客となられました。
生前の京都BS11団への情熱と活動、指導にたいし、OBを代表して感謝申し上げ、ご逝去に対し深い哀悼の念を表します。

なお、OB会としては、長年のご指導に感謝し供花をお贈りすると共に、その功績を回顧するためOB参加のブログによる「故太西孝雄氏スカウト活動追悼写真展」をここに開催いたします。

懐かしの写真をお持ちの方は、コメントを添えて下記へ添付送信いただければ幸いです。
写真またはコメント送信先          : sanegoto1941@yahoo.co.jp  
ー追悼写真展ー掲載ブログ先 : <shiganosato-goto.hatenablog>

 

弥栄合掌

BS京都第11団OB会 幹事長      青木  昭
故大西孝雄友人代表 11団OB    後藤 實久

 

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           1961 ボーイスカウト日本連盟山中野営場での

               故大西孝雄氏 (享年81歳ー1938~2019)

           世界ジャンボリー派遣団員訓練キャンプ―にて


 

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          写真展会場 : ブログ館<shiganosato-goto.hatenablog>

          写真展期間 : 2019(令和元年)12月22日~

          写真出品者 : ボーイスカウト京都第11団関係者 ・OGOB

                  故人を知るボーイスカウト関係者

          写真展構成 : 関係者の出品写真で飾るオープンスペースとし随時展示

                  出品希望者は下記へ写真又はコメントを添付送付願います

          展示方法等 : 受付順の展示を原則としますが、

                  管理者による時系列・重複写真等改編集も可能とします

          写真等送先 : sanegoto1941@yahoo.co.jp

          展示管理者 : Sanehisa Goto

                <最終掲示許可・削除・管理等の権利を展示管理者が有するもの

                   とします>

 

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           BS11団OB各位の供花に感謝します

 

 

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                  故人手作りの机の上にBS11団ネッカチーフ・ホイッスル・ベレー帽などが飾られた

 

 

 

1950~1961の足跡 ボーイスカウト京都第11団少年隊 隊長時代

 

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       1958/3 京都連盟指導者講習会にて 大西孝雄氏 (後列右より3人目)と高島昭佳氏(前列右端)

 

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   1958/4 復団隊員募集 牛尾山ハイクにて挨拶とカレーライスをサービスする大西隊長       

               高田芳二団委員長(左写真後方)

 

       ボーイスカウト京都第11団の発団(初期登録)は、1950(昭和25)年5月18日である。

      6月10日伏見にあった南浜小学校で結団式が行われ、連盟から認定証が授与された。

       当時伏見の青年団員であった永松迪哉(みちや)氏を隊長に、団委員長 松村清司氏、

               育成会長 今北栄三郎氏を中心に準備隊を発足させた。

 

                    準備隊発足ごろより京都少年義勇軍出身の元団委員長 故高田芳二氏の参加をえて、

       明治天皇陵や伏見城跡を中心とした桃山丘陵宇治川・淀川水域をはじめ、八幡・

       宇治・稲荷方面の自然環境を生かした野外活動を展開、これらの地域から新たな

       スカウトが多く入団した。後に、これらのスカウト達を中心に、宇治1団・京都25団

       などが発団していく。

 

       これらの活動後、当団は一時指導者の欠員により休眠状態に入るが、1958年スカウト

       より育ち大学に進んだ大西孝雄・高島昭佳両氏の指導者昇進により11団は復興し始めた。

 

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     1958/8  夏季隊キャンプ  柘植にて 隊付高田善八氏と共に 故大西孝雄隊長(19歳)

 

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          1958/8 京都キャンポリー 於・下鴨神社糺の森仮装行列を終えて

     後列中央/ BS11隊長・故大西孝雄氏(20歳) 後列右端/副長・故高島昭佳氏(20歳)

 

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            1958/8 京都キャンポリー 於・下鴨神社糺の森

              11団BS隊キャンポリー参加隊員記念写真

   前列左端・高島昭佳副隊長 / 高田芳二団委員長 と 大西孝雄隊長(中央) / 右端・後藤實久隊付

               後列左3人目・大西秀雄上級班長

 

 

          

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      故 高田芳二 元団委員長                                    故 高島昭佳 

                             元11団BS 副隊長 / 前 団委員長       

 

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                       小野嘉久 元BS副長

 

復団を目指したBS11団は、団委員長を引き継いだ高田芳二、隊長 大西孝雄、副隊長 高島昭佳(前団委員長)各氏が一丸となって活動周辺の小学校でのスカウト隊員募集デモンストレーションやハイキングを積極的に取組み、30数名のテンダーフット(見習いスカウト)が加入、再建の第一歩を踏み出した。

 

 

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     1958/5 初期の隊集会 旧隊長宅(桃山正宗)の庭で 手旗信号塔を完成させた隊員たちと 

  

  

     その後、近隣周辺からのスカウトを中心に新しい隊を発足させ、BS11団の最盛期を迎えた。

     また、BS11団の班や隊指導者は次なる新たな団を創設することになる。

 

  1958(昭和33)年、副隊長だった高島昭佳氏は、鳥取医大への進学と共に、米子第6団を創設。
  1959(昭和34)年、BS隊長であった大西孝雄氏は仲間と共に京大ローバースカウト(青年)隊である

            京都第36団を創設。
  1961(昭和36)年、当時BS隊長だった後藤實久氏は、仲間8人と同志社大ローバースカウト隊である

            京都第43団を創設。

  1961(昭和36)年、宇治のスカウトを中心に結成されていたフクロウ班が分離独立し、
            団委員長 平岡博次氏、隊長 広瀬氏として宇治1団が発団した。

 

 

       上記の通り、大西孝雄氏19歳の時、京都大学入学と同時に高田芳二11団委員長の要請を受け、

  高島昭佳氏と共にBS指導者養成講習会に参加して隊長に就任、高島副長と共に京都11団の再興に

  取り掛かる。

   また、大学3年の時、京都大学ローバースカウトを仲間と共に創設された。

  

  一方、高島昭佳氏は、翌年鳥取県医大に進み、米子に新隊を発隊させ、隊長として尽力され、

  高田芳二団委員長亡きあとは、開業医の傍ら京都11団団委員長としてお亡くなりになるまで尽力・

  貢献された。

 

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      1958/9  ボーイスカウト隊タイガー班(橘班長)の班集会を指導中の大西隊長(19歳)

 

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       BS隊タイガー班との昼食会  大西BS隊長(奥)と 高島BS副隊長(右手前)

 

 

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            11団BS隊 隊訓練(於・淀川堤防 三栖公園)

       最後列 左より後藤BS副隊長・大西(孝)BS隊長・大西(秀)BS上級班長

        

 

 1960-1961   ボーイスカウト京都第11団年長隊(シニアスカウト)隊長時代

 

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                            11団年長隊 SS隊長 大西孝雄・SS副隊長 高島昭佳 任命式

                 および シニアスカウト上進式

           後列左より 高島SS新副隊長・原・溝口・橘・田中・後藤BS新隊長

          前列左より 大西(秀)・河原井・高田団委員長・大西SS新隊長

 

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         11団年長(シニアスカウト)隊 隊訓練 (於・淀川三栖堤防公園)

           左より、樋口・原・大西(孝)・後藤・高田・田中・大西(秀)各氏   

 

 

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       11団BS/SSスカウト合同集会 (於・京都教育大付属小学校校庭)

          最後列 シニアスカウト隊員(訪問者 岩城氏を迎えて)

 最後列左より、樋口・橘・原・ 大西SS隊長・ 高田BS副隊長・後藤BS隊長・河原井・溝口・岩城

 

 

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     1960/7  年長隊富士野営 年長隊派遣隊員 と  大西孝雄派遣隊長(22歳 右端)

    左より、後藤BS隊長・金沢・原・浅井・大西(秀)・鈴木・橘・大西(孝)派遣隊長各氏

 

 

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               年長隊富士野営 京都派遣隊ゲート前で 

       左より 大西(秀)・大西(孝)派遣隊長・鈴木・後藤・浅井・金沢・原各氏

 

 

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 1960/7  年長隊富士野営 京都派遣シニア隊員 と 大西孝雄京都派遣隊長(22歳 左より3人目)

 

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        1960年長隊富士野営 山中野営場に集った代表シニアスカウト達

                                             BS11団派遣年長スカウトは右端3~5列目周辺にいる 

          (大西孝雄派遣隊長は4列目右端の隊杖を持っている人)

 

 

 想い出 :国道1号線(東海道ヒッチハイク

 

いまから約60年前 1960年8月大学1年生のとき、ボーイスカウト京都第11団年長隊(当時シニア
スカウト)ではアドベンチャーハイキングとして国道1号線東海道)を東京に向かうことになった。
京都より東京まで約500キロをヒッチハイクで踏破するのだ。

ペアを組んだのは、ボーイスカウト隊の隊長・大西孝雄氏と副長のわたしである。大西BS隊長は
当時、京大ローバースカウト(青年隊)を立上げ、京都連盟青年指導者層の中核として活躍されて
いた。尊敬する立派な実践派若手リーダーであった。

わたしたちは国道1号線京都伏見、城南宮の国道でヒッチハイクの旅を開始した。ふたりとも初めてのヒッチハイク、恥ずかしさよりも未知への挑戦に興奮していた。当時、東名神高速道路は東京
オリンピックに向けて工事中であったと記憶する。国道1号線が日本の骨格であり、大動脈であった。現在よりも通行量が多かった。

何台目かは記憶がないが、名古屋へ回送される大型トラックの荷台に乗せてもらい西の天下の剣・鈴鹿山脈を越え、高度経済成長にむかって走りかけていた四日市の巨大石油コンビナートの姿に
目を見張りながら第一日目の宿泊地・名古屋の熱田神宮近くの国道1号線で降ろしてもらって、
お世話になったトラックの運転手に感謝の言葉を述べたことをいまなお鮮明に覚えている。

今回の「東海道53次自転車ぶらぶら旅」でも、旧東海道近くにある思い出の地・熱田神宮(名古屋)
に立ち寄って約60年前にツエルト(簡易テント)を張った参道横の樹林に立った。

青年のこころをかきたてたヒッチハイクという冒険旅行の第一夜、パワースポットである境内を懐中
電灯を照らしながら歩きまわったことが懐かしい。一夜のツエルトには訪問者である蚊の大群が押し寄せたが、荷台に揺れて疲れ切っていたわれわれには苦にもならず爆睡、二日目の朝をむかえた。

熱田神宮の樹林から漏れる木洩れ日は、勇み立つ青年たちのこころに静寂と希望の旋律を奏でていた。1日目の体験に自信を持ったわれわれは、「東京方面ヒッチハイク中」という行先を書いたプラカードを胸にかかげ熱田神宮近くの国道1号線に立った。それもボーイスカウト・ユニフォーム姿だからひときわ目立つ。

2日目、東京へ回送される荷台の長いトラックがわれわれを拾ってくれた。次々と現れる太平洋の風景の大パノラマのなか、潮風をあびながら浜名湖を通過し、登呂遺跡のある日本平で降ろしてもらった。そのとき静岡の海岸でとった一枚の懐かしい写真がある。ベレー帽の良く似合う、青春を謳歌する青年たちの若き姿である。 (後藤記  2020年1月21日追記)

 

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年長隊東海道ヒッチハイク遠征隊ペアー 故大西孝雄BS隊長Bと後藤實久副長(右)

静岡の海岸にて(登呂遺跡のある日本平付近)

shiganosato-goto.hatenablog.com 星の巡礼東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』より

 

 

OBとしての後半生 

一般財団法人 京都ボーイスカウト振興会に所属し、京都のスカウト活動を長年支えられた。

 

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            2008 ボーイスカウト京都第11団OB年次総会 志賀の里にて 大西孝雄氏(前列中央 69歳)

          後列左より 今井氏・岡田氏・西崎氏・青木勉氏・渡辺徹氏・青木昭氏   

              前列左より 蜂矢氏・原氏・大西氏・後藤  

 

 

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     2015 ボーイスカウト京都11団OGOB年次総会  京都城太陽が丘にて舎営 (大西氏76歳)

      後列左より 島崎氏・篠田氏・岡田氏・浅井さん・・中野さん・・渡辺益男氏

    前列左より 勝村氏・西崎氏・青木昭氏・蜂矢氏・大西氏・後藤・国光氏・小山氏・渡辺徹

                最前列 青木勉氏

 

             <お願い : お名前教えてください―管理者より>

 

 

 

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         第2回日本ジャンボリー饗庭野大会 KBS11 キャンプサイト

            ゲート前で インディアンファッションの大西氏(21歳)

                     1959年8月6~10日

 

 

          《永遠のスカウト》作詞作曲 中村 知

 

              ひとたび スカウトに
              誓いを立てて なりし身は
              いつもいつも スカウトだ

              

              ひとたび スカウトに
              誓いを立てて なりし身は
              いまの今も スカウトだ

              

              ひとたび スカウトに
              誓いを立てて なりし身は
              死ぬ時まで スカウトだ

              

              この世の スカウトに
              命捧げて 仕えなば
              死して後も スカウトだ

 

   先輩 大西孝雄氏は、生涯全身全霊をもってスカウティングを愛されたスカウトの中の

   スカウトであり、われわれスカウトにとって憧れのリーダーであった。

   われわれは、ボーイスカウト運動創始者 ベーテン・パウエル卿の教えに心酔された

   大西隊長から、その精神をわれわれスカウトに教えていただき、ひとり一人の個性を

   生かしながらの集団の在り方、サバイバルの仕方を学んだものである。

   

   とにかくスカウトのユニフォームがよく似合い、スマートなスカウトリーダーであった。

   訓練中の動き一つ一つに洗練されたパフォーマンスが光り、われわれスカウトにも

   スマートさが求められていたことを懐かしく思い出される。

   

   特に、スカウトの基本である挨拶や身だしなみには厳格であった。ハンカチ・ティッシュ

   爪の検査は厳しくチェックされた。

   しかし、時としてきっちり分けらえた七三の頭髪が寝ぐせで乱れていることもあり、

   スカウトもしばしなごむ時間がもてたことをこれまた懐かしく思い出される。

 

   キャンプ(隊野営)では、手鏡を取りだし、髭をそり、髪を七三に整え、スカウトに

   模範を示されていたいたこともよみがえってきた。

        米粒一つも残さず食べること、撤収時の 清掃・感謝など多くの教えが今のわれわれを

        形作っていることに先輩への感謝の念がわいてくるのである。

     

  ここで歌われている《永遠のスカウト》は、亡き先輩と、われわれスカウトの同じ釜の飯を

      食べた仲間内の絆から生まれたといってもよいスカウトソングである。

      われわれは、ボーイスカウト京都第11団という家族の一員であることに、誇りと絆と、

     営火の炎のごとく《永遠のスカウト》たらんとする同じ夢と希望を持てることに感謝したい。

 

         

     

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       現在、BS11団は故高島昭佳 前団委員長の後を引き継いだ渡辺徹団委員長を中心に

       安達満育成会長・高畑政登ビーバー隊長・戸川忠則カブ隊長・里村充俊ボーイ隊長

       により団発展に寄与されていることをお伝えしておきたい。

 

 

     永遠なるスカウトに弥栄(いやさか)を贈る


       

 

        

 

 

 

    現在、2019『星の巡礼 ボーイスカウト京都第11団歴史をたどる写真展』

           ー《故太西孝雄氏スカウト活動追悼写真展》ー

                   を開催中

        出品写真・コメント受付中です。手持ちの懐かしい写真があれば

           お寄せください。またのご来場をお待ちします

                                                  送付先: sanegoto1941@yahoo.co.jp                       

 

                 (掲載管理 責任者 後藤實久 )