shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

『星の巡礼・カンチェンジュガ山麓ゴルゲ村に中村天風師の足跡を訪ねて』①

星の巡礼・カンチェンジュガ山麓ゴルゲ村に中村天風師の足跡を訪ねて』①
 
      = 一冊の本に導かれて     中村天風  天風瞑想録「運命を拓く」 =
 
 
多発硬化症と中村天風

ゴルゲ村への道案内をする前に、
 一冊の本「運命を拓く」、いや一人の先導者・中村天風師に出会うまでのわたしの人生の一コマを簡単に書き記しておきたい。


わたしたち家族は、わたしが50歳になったらアメリカ・ニューヨークでの海外生活を終え、日本に帰る計画をた
てていた。
ニューヨークでの研究はセラミック(ポーセレン)による修復分野である。
セラミック部門でのコンぺティション全米一に輝いたこともあり、順調に得意先を獲得していた。
    
マンハッタンの中心部、57thストリートにあるカーネーギホールの正面近くに位置するビルディングの8階に
研究室 「GOTO DENT-PORCELAIN STUDIO」 を構えていた。
ユダヤ系デンティストとのポーセレインによるラウンドハウス矯正、ハリウッド俳優の歯列矯正による役作り(顔面表情)、地元大学の整形外科との「ポーセレンによる事故顔面修復」というクリエイティブでアーティスティックな仕事をしていた。


海外生活20年を終えての帰国は家族にとって一大試練でもあった。幼児期に渡米した子供たちは、女の子は高校より帰国子女として同志社国際高校に入学させ、男の子は米国のコーネル大学に進学させていた。
わたしたちにとって、ちょっとした家族離散である。


わたしは仕事や資産処分のため2年間の滞米延長、妻は先に帰国させ住居地となる土地購入、家屋新築の手配にあたらせた。
すべて順調に見えていた計画は、妻の環境変化やカルチャショックからきた過労や体調不良によりわたしの帰国前から彼女の体や神経をむしばみ始めていた。


長期海外生活という歳月は思っていたより順調に日本の生活に入り込めなかったのである。


彼女は神経内科的な症状を訴え、病床につく。最初の3年間、専門医に見せるが原因・病名が決まらない。脊髄の神経が圧迫され、下半身がタオルを絞るような縛りや耐えられない激痛に苦しんだ。


担当医は細菌性ウイルスが脊髄を侵し、神経を圧迫しているのが原因と診て、対処療法としてのステロイドでの一時的鎮痛をはかっていたようである。治療の根本的な処方はなかったらしい。


もちろんほかの専門医のセカンド・オピニオンを求めたり、診察をうけたが的確な原因・処方を聞きだすことは出来なかった。中国漢方医にも頼った。薦めにより杭州にある中医学大学病院にも入院して診てもらった。神経内科の著名な先生がおられる宇多野病院(京都)にも出かけた。乗馬による揺れ療法、蜂の針によるショック療法などありとあらゆる試みをためしてみたが効果はほとんどなかった。


患者の激痛に応じてステロイドの投与が増えるにしたがって、患者の精神状態がおかしくなる。妄想や幻覚、錯乱が生じはじめたのである。


このような状態は、発症後3年がたってようやく国による難病「多発性硬化症」(Multiple Sclerosis)指定がなされたが、これまでと対処法はあまり変わらなかった。彼女は痛みを一時的にやわらげるステロイドの大量投薬で顔は「Face Moon」(満月顔)となり、その端正な顔の形は見る影もなくなった。


多発性硬化症(MS)が難病指定により医療費がゼロになったことは精神的にも経済的にも助けられた。しかし患者は変わることなく激痛に苦しみ続けた。


多発性硬化症であってもその症状は患者により千差万別である。彼女の場合、その解決方法は天に迎えられる最後まで見つけることは出来なかった。無念である。


発症後、1年間の長きにわたり実家でのあたたかい介護をうけたことをいつも感謝していた。家族による介護のぬくもりは患者にとって最高の愛の証である。
自宅介護のおり、毎朝1時間のリハビリを兼ねた両脚のマッサージをするのだが、介護に疲労困憊して、居眠りしながらやっていると何時もお叱りの言葉が飛んできたものだ。不思議なことに彼女の場合、頭脳は明晰であり、口は達者であった。
 
長年連れ添った夫婦だからこそなのだろう、辛辣な言葉のつぶてが容赦なく飛んできたものだ。それだけ元気があるんだと最初は笑い飛ばしていたが、時間がたつにしたがって笑えなくなってきた。介護するこちらが鬱的精神病におかされはじめたんだから大変である。


自宅療養の場合、わたしは職場に行かねばならないから、毎朝三食分を調理し冷蔵庫に入れておくことになる。彼女はそれらを電子レンジにいれ温めて食べるという孤独な作業を繰り返していた。味気なく、寂しかったとおもうと可哀そうでならない。発症から7年間続いたことになる。その間、入退院を繰り返した。


それも人生で一番輝いている47歳から54歳のあいだ苦痛をあたえられ続けたということは、一体どういう意味を暗示していたのであろうか。


病気や苦痛を人生修行としてとらえなければ、神仏はなぜ人にかかる試練を与えたまうのであろうか。


かかるようなとき、介護者には精神的にも肉体的にも疲労が蓄積され、余裕のない思考や生活に落ち込んでいくものである。わたしも鬱(うつ)状態が続き、もがき苦しんだ。
夫婦二人して、ずいぶんと職場や周囲の人々に迷惑をかけたものだとお詫びを言いたい。


このような状況、環境から解放されたときに出会ったのが「一冊の本に導かれて」の中村天風著『天風瞑想録・運命を拓く』であった。わたしはこの書籍の提唱する自己暗示によってようやく救われたのである。
この素晴らしき出会いは、彼女からの勲章いや贈り物であったと思って感謝している。


不思議なものであるが、なぜもっと早く天風師に出会わなかったのであろうか。彼女を助けられなかったにせよ、人生を病床の彼女と共にもっと積極的に過ごせたと思うと残念な気持ちになる。これもまた天の采配なのであろうか。人生に与えられたその時なのであろうか。
彼女にも与えられた自分の人生に納得し、天国で笑っていてほしいと願っている。いや自分の人生に満足し、すべてに感謝してくれていると思いたい。


残されたわたしたち家族に与えられた試練にどのように向き合い、それぞれがどのように積極的な宇宙観・世界観・人生観を創造していくか、というまたとない再生の時に巡り合ったきがする。
ただ彼女が天に召されてからの「一冊の本との出会い」であり、複雑な気持ちでもあった。人生とはこういうものなのであろうか。だが、わたしもまたすべてに感謝したい。


天風師の積極的な生き方に従っているからには、カリアッパ師の指導で坐られたカンチェンジュガ山麓のゴルゲ村を訪ね、ぜひオラビンダ岩に坐して天風師の宇宙につながってみたかった。


2001年、職を辞すると同時にネパールへ飛び、ゴルゲ村を訪れた。


中村天風師は、逆境から立ちなおり真理を求めるもの、溺れているもの、疾病をかかえているもの、人間改造をもとめるものに光を与え続けている人生の達人であり、精神的アドバイザーでもある。
天風師の教えの中心的誦句を口にするとき、生きる力を噛みしめ、正しい方向に修正している自分に合掌している姿がそこにある。


 
        『修道大悟の誦句』

         中村天風

 

   そもさん、われらかりそめにも天地の因縁に恵まれて、


  万物の霊長たる人間として、この大宇宙の中に生まれし以上、


  まず第一に知らねばならぬことは、


  人生に絡まり存在する幽玄微妙なる宇宙真理なり。


  今やわれらここに豁然として無明の迷いより覚め、


  自覚更生の大道に入るの関門に立ち、


  心眼すでに開けて、行く手に栄光繚乱たる人生を望みえし以上


  わがこころひたすらに、


  いい能わざる限りなく欣(よろこび)に勇み立つ 


 


          『力の誦句』

         中村天風

   
たしは力だ、 力の結晶だ。   何ものにも打ち克つ力の結晶だ。


  だから何ものにも負けないのだ  病にも、運命にも


  否、あらゆる全てのものに打ち克つ力だ


  そうだ!強い強い、力の結晶だ。

 

 
 
■ 山を愛した彼女と共にゴルゲ村へ天風師をたずねた

アンナプルナ山麓へトレッキングにでかけ彼女の散灰をしたおり、下山のあと念願のゴルゲ村を訪問することができた。彼女は山に魅せられた女性であった。結婚前、横長のキルティングのリュックサックを担ぎ、ギザギザの金属片が靴底についた登山靴「ヒマラヤ」をはき、日本アルプス西穂高岳などによく登っていた。
わたしも彼女の遺志をついで、現在も山登りをつづけている。百名山にも、日本アルプス縦走にも、そしてアンナプルナ山麓トレッキングにも彼女の写真をポケットにしのばせて共に登山を楽しんでいる。

記憶もだんだんうすれていくので、後に続く中村天風師を仰ぐ方々の参考としてカンチェンジュガ山麓のゴルゲ村への道しるべを記しておきたいと思う。


 アンナプルナ山麓トレッキングをおえ、ポカラにある「Stay Well Guest House」に投宿した。
 

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                  「Stay Well Guest House」
 
ここは私が所属していた京都にある造形大学で映像を教えていた故相原信洋氏が常宿とし、二階の部屋よりヒマラヤの天空に輝く星空を眺めながら作品作りの構想を練っていた宿である。
相原氏よりゲストハウスのオーナー・ラジン氏を紹介されていたのでポカラでの宿泊先とした。


ラジン氏にカンチェンジュガ山麓のゴルゲ村を訪問する計画を告げると、彼はインド北西部にあるダージリンを訪問する計画があるのでぜひ一緒に行きたいという。ガイドとしての心強い仲間ができた。


出発前夜、ネパール横断夜行バスによる900Km/約16時間に備えて、両替200US$ 、アンナプルナ・トレッキ
ングの疲れをとるため栄養剤を買っておくことにした。


バスの中は、全員ネパールの人たちで満席である。日本人の乗客に好奇心が集まる。乗車率130%、手荷物でひっくりえっている車内は立錐の余地もなく人々の息でムンムン。 バスの屋根までも荷物と人を乗せている。 ローカルバスなので途中乗降車客で 大変な混雑だ。


また毛派民兵組織(ネパール人民解放軍による車中検閲に道中遭遇するかもしれないとの情報がゆきかうなか緊張感を持ち続けての旅となった。
 


■ ポカラ⇒イラム・ネパール横断バス旅行


ポカラよりイラム近郊のフィカル村にバスで行くことになった。フィカル村は訪問地ゴルケ村への入口の村である。
ポカラ・オールドバザールを午後445分、中国製の廃車寸前のバスで出発した。
ガイド役のロジンとネパール横断夜行バス(ネパール東端・Kakarbhita ・カーカリビッタ行き)に乗り、16時間後の翌朝9時に終点手前のBiltamud ・ビルタマッドで途中下車、フィカル方面行きに乗換えた。


ビスケットとミルクティーで朝食、ロジンの奥さんが差し入れてくれたマンゴもいただく。ロジンがいろいろ情報を集め、フィカル村へのバスチケットを購入してきてた。


乗換え地点ビルタマッドよりローカルバスに揺られること1時間、フィカル村に到着。ようやくゴルゲ村への入口の村に立った。


にぎやかだ、ロッジも2軒ほどある。ネパール特有のざわつきのある街の雰囲気は変わらないが、山の村らしくどこかのどかで、身構えることもなくほっとさせられた。
 

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ネパールの紅茶の産地イラム   『イラムティー』 


宿をとるためフィカル村からイラムに移動し、インドのダージリンで商用をすませたいロジンとは、再会を約しここで別れる。 Ilam・イラムはカンチェンジュガ山麓の中心地である。


ネパールの東に位置する標高1300メートルのイラム地方。ここはインドの有名な紅茶の産地ダージリンと、(インドとの国境をはさんでいるだけで)気候や地形も似ていて、おいしい紅茶がとれる。

イラムティーとして、海外に輸出もされている。しっかりとネパールの大地の香りがするおいしい紅茶を産する。
 

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ネパール   ポカラ・バスターミナルにて
 
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ネパール横断バス    インド国境(ネパール東国境)に向かう

 
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カンチェンジュガ山麓の中心・イラムの街角
 
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 イラム・ティーの茶畑で

      
 
■ <参考資料> カトマンズからフィカル村(ゴルケ村入口)への行きかた


カトマンズからだとBudha Air / ブッダ・エアーの定期便(毎日往復各4便 ・飛行1時間・片道147US$20155月現在)でビラットナガル・Biratnagarの飛行場に到着する。空港よりタクシーまたはリクシャーでバスターミナルへ移動し、イラム・Ilam行のバスに乗り、フィカル・Fikkalで途中下車する。フィカル村が目的地・ゴルゲ村への入口である。
ルートとしては次のようになる。
Kathmanduカトマンズ ⇒<Buddha Air >⇒ Biratnagar ⇒ <バス・Ilam行> ⇒ Fikkal村(途中下車)⇒ 徒歩・トレッキング ⇒ Gorkhe・ゴルケ村
 
 


ゴルゲ村へのガイド兼ポーターとしてHem ・ヘム君と出会う 


 Ilam・イラムで一泊したあと、バスに乗りフィカル村にもどった。
ゴルゲ村の地図も情報も少ないので地元のガイドを雇うことにした。


フィカル村のバス停のまわりは小さな屋台が立ち並ぶバザールである。ゴルゲ村往復と滞在中の食糧(ビスケット3・バナナ1房・か炒り豆・飴)とミネラルウオーターを購入した。


あとチョコレートをさがしていると、あれこれと世話をしてくれた青年と親しくなっていた。Hem・ヘム君という。
ゴルゲ村を知っているかと尋ねるとよく知っているという。ガイド兼ポーターとして引受けてくれるかと聞くと喜んでお役にたちたいという。それも1日300Rs.でいいという。一泊二日の契約が成立し、ゴルゲ村への二人旅を始めることとなった。


Mr.Hem Kumar Phago   (ガイド兼ポーター・2001年当時)
Fikkal-6Ilam, Mechi, Nepal

フィカル村のバザールで食糧、ミネラルウオーターを購入したあと、ヘム君のオートバイに乗り、彼の家に立寄った。 彼はリュックに食糧を詰め、家人にゴルゲ村への案内を告げたようだ。


まず自分の家に入れという、かれの母親手作りのタルバート(ランチ)とミルクティーをご馳走になる。タクシーを呼び、ゴルゲ村への入口となる三叉路(⇐ WAY TO GORKHE・標識版が目印)まで移動する。(タクシー代150Rs +チップ50Rs


ゴルゲ村への案内標識が立っている三叉路で降り、天風師もたどったであろう赤土の道を徒歩でゴルゲ村へ向かった。  亜熱帯の太陽が容赦なく照りつける。ブーゲンビリアがきれいだ。
 

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フィカレ・バザール (ゴルゲ村への入り口の村)
 
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三叉路に立つゴルゲ村への標識  <⇐ WAY TO GORKHE>
                                                                          
 
 
■ カンチェンジュガ山麓 ゴルゲ村への行き方

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             ネパール・ゴルゲ村への案内図
 
 
フィカレ村よりゴルゲ村へは、今回のトレッキング・ルートのほかに遠回りだが未舗装の自動車道が あるらしい。
ただし悪路のようでジープのような4輪駆動車による移動が望ましいという。訪問前にフィカレ村で情報を集め、 交渉願いたい。
ただゴルゲ村へは天風師訪問時のように徒歩(トレッキング)で、時間をかみしめ自然を愛でながら行かれることをおすすめしたい。
 

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                       野帳ノートから

 
カリアッパ師に伴われた中村天風師もまたこの細い赤土の道をたどってゴルゲ村へと向かったのであろう。
感無量である。
ここに訪問当時の走り書きのノートがある。このルート地図(ボーイスカウトでは野帳と呼ぶ)は20015月に作成されたものである。トレッキングしながらの手書きであり、読みづらいので修正・訂正を加え書き直してみた。参考にされたい。

注)手記に出てくる数字は2001年当時のものである。ご注意願いたい。(現在の数字には、必ず2015年現在と記した)


 
 
 
星の巡礼・カンチェンジュガ山麓ゴルゲ村に中村天風師の足跡を訪ねて』②
                     へつづく