<青春時代をサイクリングする>
<近江の国・山城の国をめぐる自転車の旅>
坂本城址で出会った歌碑「光秀(おとこ)の意地」をかみしめ、その無念にこころしているあいだに「唐崎の松」のその華麗なる雄姿が目に飛び込んできた。
■<唐崎の松> <唐崎の松⇒疎水取入れ口 6km>
近江八景「唐崎の夜雨」で知られる名勝唐崎神社で欠かすことのできない霊松「唐崎の松」は神社の北側に隣接する。
借景の比叡山にとけあう唐崎の松
歌川広重 唐崎夜雨図 に描かれている唐崎の松
「舒明天皇5年頃(633頃)、琴御館宇志丸(ことのみたちうしまる)が唐崎に居住し、
庭前に松を植え“軒端(のきば)の松”と名付けたことに始まる。
日吉大社西本宮のご鎮座伝承では、童の姿に身をやつした大神様が船に乗ったまま松の梢(こずえ)に
上がるという神業を示されたことから特に神聖視されるようになった」 とある。
《 秋霧や 松に幾多の 話あり 》 作者不詳
■ <疎水取入口⇒ 露国皇太子遭難の地 ⇒ 義仲寺 6km>
<疎水取入口と当時の日本人の知恵>
春の疎水沿いは桜のトンネルができ、多くの花見客で混雑する。
都であった京都は、明治2年に東京へ都が移り,産業も急激に衰退し,人口も急減していった。
この衰退していく京都を復興させるため,特に産業の振興を図ろうと計画されたのが疏水事業であった。
当時,我が国の重大な工事はすべて外国人技師の設計監督に委ねていた時代にあって,すべて日本人の手によって行った我が国最初の大土木事業である。
京都に近く水量の豊かな琵琶湖に着目し,疏水を開削することにより,琵琶湖と宇治川を結ぶ舟運を開き,同時に動力,かんがい,防火などに利用して,京都の産業を振興しようとした。
出て,蹴上から約36メートルの落差をインクライン(傾斜鉄道)で下って鴨川に至り,
疏水、なんと壮大な先人たちの挑戦であったことだろうか。 日本の文明開化の槌音がここびわ湖大津を発し、山科、京都蹴上、鴨川沿い疎水をとおり、宇治川三栖の閘門へと流れていた。「琵琶湖疏水」とは大津三保ヶ崎より京都蹴上までの区間をいう。
友人が近江を訪れたとき、ここ疎水の満開の桜のトンネルをぬけ、蹴上のインクラインを楽しみつつ、つづく京都の南禅寺での赤レンガアーチ状の水道橋をへて、京都左京区の哲学の道を散策し、鴨川へいたるコースを歩いたことがある。明治の人たちのロマンに浸ることのできるすばらしいハイキングコースである。 おすすめしたい。
大津市三保ヶ崎の疎水取水点
大津での国際的な重大事件として特筆されるのは「大津事件」を上げることができる。
みた。
「大津宿に興味を持っている。一つはライフワークにしている『大津事件』である。
二つには芭蕉の墓がある義仲寺である。
さて、ロシア皇太子の件だが、1891年5月11日ニコラスアンドロブィッチ一行は琵琶湖遊覧のため大津訪問中(後のロシア皇帝ニコライ二世、ロシア革命で処刑された)、遊覧のあと滋賀県庁で昼食を終え京都への帰途についた午後1時30分、警護にあたっていた津田三蔵巡査が突然抜剣して切り付けた事件(津田巡査はロシア皇太子が日本を偵察・スパイしていると思い込み切り付けた)をいう。
当時のロシアは一流超大国であり、日本は三流劣等国、だいたいお分かりであろうが、日本としては大変な事態を招いたわけだ。首相は辞任、何度もお詫びの使者をつかわす。しかしロシア側は相手にせず帰国してしまう。
すなわちロシア皇太子は大君として振る舞ったわけだ。日露戦争、ロシア赤軍革命と歴史に翻弄され処刑され、最後のロシア皇帝となった悲劇の人である。この大津事件は夜明け前の日本とロシア帝政の関係を知る上で貴重な事件であったといえる。
此附近露国皇太子遭難地」の石碑
義仲寺山門
つぎに俳句初心者として芭蕉はお師匠さんである。あの流れるような五七五、魅力的な言い回し、的確な描写、いままで誰も彼を越えられずにいる。
あの『~の~や~かな』は彼の専売特許のようなものだ。
芭蕉は余程に義仲(ぎちゅう)寺が好きだったようで、それは義仲(よしなか)の生き方に同情していたということと、当時の義仲寺は琵琶湖の湖岸に面した自然豊かな地であったことが古地図でわかる。
永年にわたる埋立により湖岸が遠退いたようだ。
義仲寺には芭蕉の墓もある。
芭蕉は近江の国によく滞在し、句友との交流も盛んであった。また義仲寺に見られるように
『行く春や 近江の人と 惜しみける 』 (志賀唐橋に船浮かべ)
『 近江蚊屋 汗やさざ波 夜の床 』 (六百番俳諧発句合)
『 辛崎の 松は花より 朧(おぼろ)にて 』 (唐崎の松にて)
『 つつじ生けて その陰に 干鱈(ひだら) 割く女 』 (東海道石部にて)
『 命二つの 中にいきたる 桜かな 』 (東海道 水口にて)
『 五月雨に 鳰の浮巣を 見にゆかん 』 (近江八幡水郷あたりか)
『 五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋 』 (瀬田にて)
『 草の葉を 落つるより飛ぶ 螢哉 』 (瀬田川にて)
『 目に残る 吉野を瀬田の 螢哉 』 (瀬田にて)
『 世の夏や 湖水に浮む 浪の上 』 (大津にて)
『 海は晴れて 比叡降り残す 五月哉 』 (大津にて))
『 昼顔に 昼寝せうもの 床の山 』 (彦根にて))
『 少将の 尼の話や 志賀の雪 』 (志賀にて)
『 これや世の 煤に染まらぬ 古合子 』 (膳所にて)
『 何にこの 師走の市に ゆく烏 』 (膳所にて)
『 かわうその 祭見て来よ 瀬田の奥 』 (瀬田にて)
石山、わたしには二つの想い出がある。
最近の想い出は、4年前、船橋市在の友人夫妻が近江を訪れてくれたときである。
夫妻とは船友(PB-53)である。 彼はタキシードの良く似合う、長身でダンディな紳士であり、笑顔の素敵な方である。
彼女はエキゾチックな容姿で踊るアルゼンチンタンゴのよく似合う淑女である。
その瞬間、わたしの目には涙があふれてきた。哀れな姿ではなく、その姿にあふれんばかりの生きる力を見たからである。
石山寺山門
近江八景の1つ「石山秋月」でも知られる。
石山の二つ目の想い出は、わたしの叔父の話しである。
母・初子の弟は高校球児であった。 夏の甲子園、滋賀県の代表をきめる大会が大津にある皇子球場であった。 試合に敗れ、疲れた体を国鉄の列車に身を任せ彦根(彦根東高校)にかえる途次、ここ石山駅でソフトクリームを買ってデッキで風にあたりながら食べていたらしい。カーブでの横揺れに線路上に転落し命をおとした。
思うに敗戦のショックをひきずり、油断があったのであろう。
叔父にとっては、青春の挫折でもあったのであろう。 幼いわたしにも叔父の無念をよく理解できる。
その弟が大好きであった母・初子が、幼いわたしたちによく叔父の話しをしてくれていたことを思いだしたのである。
■<南郷洗堰 から立木観音をへて鹿跳橋>
<南郷洗堰 ⇒ 立木観音 ⇒ 鹿跳橋 4km>
「瀬田川は、淀川の大津市を流れる川の名称をいう。びわ湖から流れ宇治川、淀川をへて大阪港に注がれる排水河川である。 湖の南端から京都府境までの約 15kmをいい,びわ湖には大小118本の川が流れ込んでいる。
瀬田川 南郷洗堰 東端部分
<南郷洗堰⇒立木観音⇒鹿跳橋⇒曽束運動公園・野営地 12km>
につづく