《志賀木戸村 ⇒ 坂本城址 18km》
このサイクリング・コースはボーイスカウトの隊長時代、いまから50年前、隊員であるスカウト達とサイクリングした忘れることのできない懐かしいコースである。
このたび、スカウトOB会世話役の呼びかけで、当時の隊幹部と隊員であったスカウトたちが半世紀ぶりに京都城陽にある「野外活動センター・友愛の丘」に集まることになった。
わたしは愛車「ワイルド・ローバー号」(自転車)に野営用具一式を積み込んで、志賀のわが家からびわ湖西岸(国道161号)を南下し、南郷洗堰より瀬田川沿いに宇治に出て集合地の京都城陽「野外活動センター・友愛の丘」に向かった。
サイクリング車「ワイド・ローバー号」は、多くの外国遠征、日本縦断や中仙道、朝鮮半島南縦断を共にした戦友である。
もちろん途中で一泊の野営をし、翌日の『友愛の丘』でのオールド・スカウトたちとの再会に向かってペダルをこぎだした。
<伏見桃山よりここ志賀の里に移って>
一郡一町というのは世界地理誌のなか、世界広しといえどもここ「滋賀郡志賀町」だけであった。
併合は、わたしの中であたためてきた郷土愛・歴史までをもかえてしまうような悲しい出来事であった。
帰国にあたり、どこに住居を構えるか家族の間でおおいに議論をした。 わたしは自然派なので訪日のたびに、京都北山を歩き回った。とくに広河原の森のなかの生活を思い描いていた。
妻の訪日のおり、ぜひ京都北山・広河原をみて来るようにすすめてみた。
一足先に帰国し、同志社国際高校に通っていた娘とふたりで京都北山・広河原へ出向いたようだ。
彼女たちの印象は「ここはお父さんにまかせて、わたしたちは別のところを探しましょう」となったという。
そして京都に近いこの湖西に目を向けたということだった。
ここ「志賀の里・木戸連歌山」に決めたいと告げられたとき、わたしはすぐ訪日し、その素晴らしい景色と立地、環境に魅せられてしまった。
びわ湖が近く、裏に比良山系がよこたわり、四季をとおしてすべてのアウトドア―に適していたからである。
春は山菜に、桜並木。 夏は遠泳にカヤック、登山にサイクリング。 秋は紅葉にハイキング、それにバーベーキュー。冬はスキーにスノーシュー、何と言っても雪景色がいい。裏の鯖街道はオートバイのツーリングには最適なルートでもある。
この決定に、もちろん母・初子が喜んだことは言うまでもない。その喜びの一つに、JR湖西線の下車駅が「志賀」であったことである。彼女が学んだ日本女子大学国文科での卒業論文のテーマが「志賀直哉の文学的世界観」であったから尚更であった。
彼女は幾度となく志賀の里を訪れ、写真を撮りまくってはご満悦であった。
沿線にはたくさんの水泳場があり、わたしも小中学校とよく泳ぎに出かけたものである。 当時、子供たちの楽しみと云えば、水泳場に連れて行ってもらうことだった。 ゲームも携帯もなかった時代である。
「江若鉄道は、その名の通り近江と若狭とを結ぶ目的で設立された鉄道会社である。
自家用車の発達に押される形で乗客は減少し、経営は苦しくなったようだ。
「京阪電車の支援を受けて営業を継続していたが、国鉄湖西線建設が決定したため、競合による経営破たんを恐れて事業を廃止し、昭和44年(1969)その鉄道用地を国鉄湖西線建設に当たる日本鉄道建設公団に売却されてその歴史を終えた」 とある。 (大津市歴史博物館)
江若鉄道は、約半世紀(48年間 1921~1969)この湖西の地の唯一つの交通機関であり、地元の足であった。鉄道マニアにとってはノスタルジーあふれる路線であり、おおくの鉄道同好会やファンが江若鉄道沿線に集まったものだ。いまでもJR湖西線は往時をしのぶ以上に写真スポットとして春夏秋冬、四季を問わずその雄姿とびわ湖のコラボという夢の写真撮影に鉄道マニアはロマンを膨らませ集いきている。
白髭神社 昭和44年 福田静二氏撮影 (軌道は現在国道161号線)
あれやこれやと思いを馳せながらのノスタルジーなサイクリングになりそうだ。
<志賀清林の墓>
奈良時代の726年に、近江国から朝廷に出仕し、相撲の技四十八手と礼法と『突く・殴る・蹴る』の三手の禁じ手を制定する事を聖武天皇に奏上した人物とされる本町木戸の出身で、また「相撲節」の立案に携わり、相撲の公認の作法を作った人で、国技相撲行司の始祖伝えられている。志賀清林死後、志賀家は行事の家として代々務め、その家名は高かったと言われている。」 (志賀清林埋骨之碑より要約)
志賀清林の墓
わたしは、かってブログ「美しき志賀の里は実りの秋である」で次のような推論を書き残している。
「在所である大津市木戸(旧滋賀郡志賀町木戸)の村名『木戸』の由来は、秀吉がこの地での相撲興行に金銭(木戸銭・. 入場料)をとらせたことからだと地元の古老から話を聞いたことがあるが、木戸に近い小野には、秀吉よりさらに歴史的に古い小野妹子の墓があることからも時代的にさかのぼらねばならないと思われる。逆に木戸銭の由来は案外ここ木戸という村名から『木戸銭』がきているのではないだろうか。 」
立寄ってみることにした。
「小野妹子(おののいもこ)は近江国滋賀郡志賀町小野村(現在の大津市)の豪族で、5世紀から6世紀半ばにかけて天皇家と姻族関係をもった和珥(わに)臣や春日臣と同族の小野氏の出である。」 <ウイキペディアより>
ここ大津市小野は比良山系を背に、琵琶湖を見下ろす静かな丘陵地である。そこで生まれ育った青年が、607年(推古15)に遣隋使節の大使を拝命し、中国大陸に渡った。 現在は京阪電鉄が開発販売している立派なニュータウン「びわ湖ローズタウン」になっている。
また小野妹子は「華道の祖」ともいわれている。
小野妹子の墓ではないかといわれる唐臼山古墳
駅 びわ湖大橋 米プラザ」にでる。
道の駅「米プラザ」より「びわ湖大橋」を望む
<びわ湖横断遠泳の思い出>
今から13年前、還暦を祝ってこの場所から守山市(東湖岸)へと「びわ湖横断遠泳」に挑戦した懐かしい思い出の地である。この辺りはびわ湖の中で一番くびれたところで、幅やく2kmの隘路である。 観光船や釣り船、ウエイクボート、ヨット、漁船が集中する船舶の要路でもあり、危険水域でもある。
水上交通事故をさけるため、赤いスイムキャップをかぶり、万一に備えて赤旗をつけたライフジャケットを着用し、首にホイッスル、ウエットポーチにファーストエイドと水や飴を忍ばせての決死の「びわ湖横断遠泳」に挑戦した。
突進してくる、行き交う船を避けながら片道やく120分を費やしたと記憶している。待ち時間の方が長かったような気がする。 体は冷えてくる、大橋の橋桁があっても大きすぎ、高すぎて手が届かずゆっくり退避できなかったと記憶している。
びわ湖大橋を渡ると、昔のワンワンランド跡地に「ピエリ守山」がある。 幾多の困難な時期をのりこえこのたびリオープンした。有名ブランドの大型店も入店し、イメージを一新させている。
わたしたちは、この道の駅に駐車し、琵琶湖大橋を徒歩やジョギングをしながら(往復やく5km)、ショッピングモール「ピエリ守山」での買い物を楽しんでいる。
『 比良三上差し渡したる 鷺の橋 』 松尾芭蕉
びわ湖大橋より比良山系を望む
<びわ湖大橋通行無料化について>
この琵琶湖大橋の通行料をめぐって住民の間に論争がまきおこっている。 びわ湖大橋建設費用の償還が終わるので通行料を無料にすることになっていたのだが、地元行政の意向で有料を継続すると滋賀県知事が発表したから大変である。
有料継続の理由のメインは、琵琶湖大橋周辺の道路維持管理補修に充てるそうである。
変な話である。 例えると、ローンの返済が終わった家でも前の道路を管理するためローン(通行料)を払えという。地元住民はびわ湖大橋の無料化のくるこの日を待ち望んでいたのに実におかしな話である。 生活道路としてただ一つの橋の通行料を払えという、行政の矛盾を感じている人は多いようである。
このような記憶を宿らせ、時勢を読み解きながら、古き良き時代の街並みを南下すると近江八景のひとつ「浮御堂」に到着する。
浮御堂に近づくにつれて石畳みの道が門前までつづく。
自然石に彫られた「浮御堂」、唐風の寺門に迎えられる。
満月寺という。
満月にうかぶお堂、それが浮御堂である。 松の緑がまたよく映える。
で名高い。堅田の浮御堂の通称でも知られている。
をながめると、毎夜、その光明の赫々(かくかく)たるを怪しみ、網でこれを掬
(すく)いとらせると、1寸8分の黄金の阿弥陀仏像であった。
よって魚類殺生供養のために阿弥陀仏像1体を造り、その体内にこれをおさめ、
祈願したのが始まりである。」 <ウイキペディアより>
『 錠あけて 月さし入れよ 浮御堂 』 松尾芭蕉
『 五月雨の 雨垂ばかり 浮御堂』 青畝
浮御堂
満月寺 浮御堂 唐風山門
このお城の特徴は、まず、城内に琵琶湖の水を引き入れた、いわゆる「水城形式」の城郭であった。
坂本城は、京都への「今道越」という交通の要所に立地しており、信長にとっては天下取りのために抑えておくべき重要な地であった。
「光秀の意地」歌碑
びわ湖の渇水時には、湖中に残る坂本城の石垣が現れ、当時の面影を時折、のぞかせるようだ。わたしが勤めていた京都造形芸術大学に水中考古学の研究に先鞭をつけた考古学者である田辺昭三氏(当時、京都市埋蔵文化財研究所調査部長・京都造形芸術大学教授)がおられ、琵琶湖の湖底に沈んでいる坂本城の調査についてのお話をよくうかがったものである。
推測だが信長と光秀は相似たるもの同士であったのではないだろうか。この辺りの事情が両者の見えざる反発心と闘争心となって本能寺の謀反につながったとわたしはみている。
「光秀(おとこ)の意地」という歌碑
坂本城址には「光秀(おとこ)の意地」という歌碑がたっていた。その心情をよく表している作詞である。 紹介しておきたい。
「光秀(おとこ)の意地」
作詞・祝部よしまる 作曲・平川竜城 唄・鳥羽一郎
(口上) これが光秀の本音にござります
一寸の虫にも 五分の魂
やらねばやられる 戦国の掟
わしは主を間違えたようじゃ
1. 美濃に生まれて 近江に賭ける 2、 さわぐ心を 愛宕の山で
坂本城が命の 男の夢を かけた願文 勝軍地蔵
心変わりの 信長様に 時は今だと 決意に燃える
義理も忠義も 情けもすてて 勝つか負けるか 運命にまかせ
俺も男の 俺も男の 意地がある 修羅の炎が 修羅の炎が 渦が巻く
3. 天下分かれ目の 戦に敗れ
無念 光秀 涙の雨に
風が無情に 袖ふきぬらす
落ちて小来栖 闇夜の薮で
武士は散れども 武士は散れども 桔梗(名)は残る
この小来栖の竹藪こそ、今回集まるボーイスカウト京都第11団のトレイニング・フイルドであり、ハイキングコースでもあった。その後、東京オリンピックに合わせ突貫工事が進められていた名神高速道路の開発で、この小来栖の竹藪周辺もすっかり変わってしまった。
につづく