shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2015『星の巡礼・瀬田川より宇治川を自転車で下る』① <志賀木戸村⇒坂本城址>

■「星の巡礼瀬田川より宇治川を自転車で下る」 ① 
 
 
《志賀木戸村 ⇒ 坂本城址 18km》
                       

このサイクリング・コースはボーイスカウトの隊長時代、いまから50年前、隊員であるスカウト達とサイクリングした忘れることのできない懐かしいコースである。

 
このたび、スカウトOB会世話役の呼びかけで、当時の隊幹部と隊員であったスカウトたちが半世紀ぶりに京都城陽にある「野外活動センター・友愛の丘」に集まることになった。
 
わたしは愛車「ワイルド・ローバー号」(自転車)に野営用具一式を積み込んで、志賀のわが家からびわ湖西岸(国道161号)を南下し、南郷洗堰より瀬田川沿いに宇治に出て集合地の京都城陽「野外活動センター・友愛の丘」に向かった。
 
サイクリング車「ワイド・ローバー号」は、多くの外国遠征、日本縦断や中仙道、朝鮮半島南縦断を共にした戦友である。
 
もちろん途中で一泊の野営をし、翌日の『友愛の丘』でのオールド・スカウトたちとの再会に向かってペダルをこぎだした。
 

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伏見桃山よりここ志賀の里に移って>


   出発地・志賀の里は大津市と併合するまでは、滋賀県滋賀郡志賀町木戸字連歌山といった。
   一郡一町というのは世界地理誌のなか、世界広しといえどもここ「滋賀郡志賀町」だけであった。


   住民はおおいなる誇りに満ちていたが、ある日大津市に併合されあっけなく「滋賀郡志賀町」は地球上から消滅した。「志賀の里木戸連歌山」という町名呼称をわたしはいまでも好んで使っている。


併合は、わたしの中であたためてきた郷土愛・歴史までをもかえてしまうような悲しい出来事であった。


 約20数年前、実家は京都伏見桃山にあったが、アメリカより帰国して住を構えたのがここ旧滋賀郡志賀町であった。


帰国にあたり、どこに住居を構えるか家族の間でおおいに議論をした。 わたしは自然派なので訪日のたびに、京都北山を歩き回った。とくに広河原の森のなかの生活を思い描いていた。


 妻の訪日のおり、ぜひ京都北山・広河原をみて来るようにすすめてみた。
 一足先に帰国し、同志社国際高校に通っていた娘とふたりで京都北山・広河原へ出向いたようだ。
 
 彼女たちの印象は「ここはお父さんにまかせて、わたしたちは別のところを探しましょう」となったという。


 
<志賀の里と母>      <志賀木戸村 ⇒ JR志賀駅志賀清林の墓  2km>


 彼女は、母・初子がかって「兄弟姉妹のうち一家族は滋賀県に住んでほしい」と願っていたことを思いだしたらしい。
滋賀県は母の生まれ故郷である彦根があるからだ。
そして京都に近いこの湖西に目を向けたということだった。


ここ「志賀の里・木戸連歌山」に決めたいと告げられたとき、わたしはすぐ訪日し、その素晴らしい景色と立地、環境に魅せられてしまった。


 びわ湖が近く、裏に比良山系がよこたわり、四季をとおしてすべてのアウトドア―に適していたからである。


春は山菜に、桜並木。 夏は遠泳にカヤック、登山にサイクリング。 秋は紅葉にハイキング、それにバーベーキュー。冬はスキーにスノーシュー、何と言っても雪景色がいい。裏の鯖街道はオートバイのツーリングには最適なルートでもある。


それに、もう一つ驚いたのは、地図上で京都伏見桃山(実家)と本籍地である彦根の直線状のほぼ中央に「志賀の里・木戸連歌山」があるということだ。


 この決定に、もちろん母・初子が喜んだことは言うまでもない。その喜びの一つに、JR湖西線の下車駅が「志賀」であったことである。彼女が学んだ日本女子大学国文科での卒業論文のテーマが「志賀直哉の文学的世界観」であったから尚更であった。


彼女は幾度となく志賀の里を訪れ、写真を撮りまくってはご満悦であった。
 

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JR湖西線木戸駅」正面


<ありし日の志賀町木戸村と江若鉄道


JR湖西線といえば、その前身「江若鉄道」について話しておかなければならない。


江若鉄道は、琵琶湖西岸の浜大津から近江今津51km)まで単線で、地上をのんびり走っていた。 現在のJR湖西線山科駅近江塩津間の74kmが全線複線高架に替えられている。


沿線にはたくさんの水泳場があり、わたしも小中学校とよく泳ぎに出かけたものである。 当時、子供たちの楽しみと云えば、水泳場に連れて行ってもらうことだった。 ゲームも携帯もなかった時代である。


とくに琵琶湖の柳ヵ先湖畔、近江舞子、北小松の各水泳場にかよったのをよく覚えている。 現在住んでいるわが家に近いJR志賀駅裏には松の浦水泳場があり、毎夏のわたしの遠泳コースでもある。


江若鉄道時代はここ「JR志賀駅」を「江若鉄道木戸駅」と言っていた。

江若鉄道は、その名の通り近江若狭とを結ぶ目的で設立された鉄道会社である。
まず1921(大正10年)に滋賀県三井寺下-叡山間の6kmで開業。10年後の1931昭和6年)に浜大津 - 近江今津間が開通された」 とある。  (ウイキペディアより)

自家用車の発達に押される形で乗客は減少し、経営は苦しくなったようだ。

京阪電車の支援を受けて営業を継続していたが、国鉄湖西線建設が決定したため、競合による経営破たんを恐れて事業を廃止し、昭和44年(1969)その鉄道用地を国鉄湖西線建設に当たる日本鉄道建設公団に売却されてその歴史を終えた」 とある。   大津市歴史博物館)

江若鉄道は、約半世紀(48年間 19211969)この湖西の地の唯一つの交通機関であり、地元の足であった。鉄道マニアにとってはノスタルジーあふれる路線であり、おおくの鉄道同好会やファンが江若鉄道沿線に集まったものだ。いまでもJR湖西線は往時をしのぶ以上に写真スポットとして春夏秋冬、四季を問わずその雄姿とびわ湖のコラボという夢の写真撮影に鉄道マニアはロマンを膨らませ集いきている。
 

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白髭神社 昭和44年 福田静二氏撮影 (軌道は現在国道161号線)
 
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懐かしの「近江舞子駅」  昭434年   背景は比良山系  (江若鉄道蔵)

あれやこれやと思いを馳せながらのノスタルジーなサイクリングになりそうだ。
志賀駅より約10分のところに現在の相撲の作法や規則を作ったとされる「志賀清林の墓」がある。


 
■<志賀木戸より小野妹子公園へ向かう>  志賀清林の墓 ⇒ 小野妹子公園 8km>


志賀清林の墓>


 「志賀清林相撲の各行司家に伝わる『相撲傳書』等に登場する。ここ志賀木戸村の出身である。 奈良時代の力士・行司、相撲行司の始祖といわれる。
奈良時代726に、近江国から朝廷に出仕し、相撲の技四十八手と礼法と『突く・殴る・蹴る』の三手の禁じ手を制定する事を聖武天皇に奏上した人物とされる本町木戸の出身で、また「相撲節」の立案に携わり、相撲の公認の作法を作った人で、国技相撲行司の始祖伝えられている。志賀清林死後、志賀家は行事の家として代々務め、その家名は高かったと言われている。」    志賀清林埋骨之碑より要約)

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わたしは、かってブログ「美しき志賀の里は実りの秋である」で次のような推論を書き残している。
「在所である大津市木戸(旧滋賀郡志賀町木戸)の村名『木戸』の由来は、秀吉がこの地での相撲興行に金銭(木戸銭・. 入場料)をとらせたことからだと地元の古老から話を聞いたことがあるが、木戸に近い小野には、秀吉よりさらに歴史的に古い小野妹子の墓があることからも時代的にさかのぼらねばならないと思われる。逆に木戸銭の由来は案外ここ木戸という村名から『木戸銭』がきているのではないだろうか。 」  

志賀町木戸村からペダルを踏んで約8kmのところ、JR湖西線小野駅近くに小野妹子公園があり、そのそばにある唐臼山古墳(からうすやまこふん)が小野妹子の墓であるかもしれないという。
立寄ってみることにした。


ちなみに、小野妹子の墓は大阪府南河内郡太子町の科長神社南側の小高い丘の上にある。


 
■<旧滋賀郡小野村と小野妹子の墓の真意>    小野妹子公園⇒びわ湖大橋  4km>


小野妹子(おののいもこ)は近江国滋賀郡志賀町小野村(現在の大津市)の豪族で、5世紀から6世紀半ばにかけて天皇家と姻族関係をもった和珥(わに)臣や春日臣と同族の小野氏の出である。」   <ウイキペディアより>


ここ大津市小野は比良山系を背に、琵琶湖を見下ろす静かな丘陵地である。そこで生まれ育った青年が、607年(推古15)に遣隋使節の大使を拝命し、中国大陸に渡った。 現在は京阪電鉄が開発販売している立派なニュータウンびわ湖ローズタウン」になっている。


わたしは中学の歴史の時間に「小野妹子」に出会って、倭人大和民族にも卑弥呼や彼女のような立派な女性が活躍したんだと感心し、誤解したことがある。もちろん「小野妹子」は男性貴族である。


志賀町木戸村に住んで以来、その小野妹子が同郷のひとであることに興味をもっていた。しかし歴史上いまだ解明できていない人物のひとりであるようだ。


また小野妹子は「華道の祖」ともいわれている。

    
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小野妹子の墓ではないかといわれる唐臼山古墳


■<琵琶湖大橋   びわ湖大橋道の駅⇒浮御堂 3km>


 小野妹子公園をあとにして近江富士(三上山)の見える東の方向へ走ると琵琶湖西岸にある「道の
 駅 びわ湖大橋 米プラザ」にでる。

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道の駅「米プラザ」より「びわ湖大橋」を望む


びわ湖横断遠泳の思い出>


 今から13年前、還暦を祝ってこの場所から守山市(東湖岸)へと「びわ湖横断遠泳」に挑戦した懐かしい思い出の地である。この辺りはびわ湖の中で一番くびれたところで、幅やく2kmの隘路である。 観光船や釣り船、ウエイクボート、ヨット、漁船が集中する船舶の要路でもあり、危険水域でもある。


 水上交通事故をさけるため、赤いスイムキャップをかぶり、万一に備えて赤旗をつけたライフジャケットを着用し、首にホイッスル、ウエットポーチにファーストエイドと水や飴を忍ばせての決死の「びわ湖横断遠泳」に挑戦した。


 突進してくる、行き交う船を避けながら片道やく120分を費やしたと記憶している。待ち時間の方が長かったような気がする。 体は冷えてくる、大橋の橋桁があっても大きすぎ、高すぎて手が届かずゆっくり退避できなかったと記憶している。


 びわ湖大橋を渡ると、昔のワンワンランド跡地に「ピエリ守山」がある。 幾多の困難な時期をのりこえこのたびリオープンした。有名ブランドの大型店も入店し、イメージを一新させている。


わたしたちは、この道の駅に駐車し、琵琶湖大橋を徒歩やジョギングをしながら(往復やく5km)、ショッピングモール「ピエリ守山」での買い物を楽しんでいる。


また琵琶湖大橋上からの比叡山系、比良山系、鈴鹿山系、北の伊吹山や霊仙山と近くの近江富士(三上山)のラウンドマウンテンに、日本庭園の池の上にいるかごとくその絶景に酔いしれるのである。


 『 比良三上差し渡したる 鷺の橋 』  松尾芭蕉

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  びわ湖大橋より比良山系を望む
 
 
びわ湖大橋通行無料化について>
 
 この琵琶湖大橋の通行料をめぐって住民の間に論争がまきおこっている。 びわ湖大橋建設費用の償還が終わるので通行料を無料にすることになっていたのだが、地元行政の意向で有料を継続すると滋賀県知事が発表したから大変である。
 
 有料継続の理由のメインは、琵琶湖大橋周辺の道路維持管理補修に充てるそうである。
 
変な話である。 例えると、ローンの返済が終わった家でも前の道路を管理するためローン(通行料)を払えという。地元住民はびわ湖大橋の無料化のくるこの日を待ち望んでいたのに実におかしな話である。 生活道路としてただ一つの橋の通行料を払えという、行政の矛盾を感じている人は多いようである。
 
 びわ湖の南に「近江大橋」がある。ここはすでに償還期限を終えて無料化されているのに、湖北の交通の要所であり、びわ湖中部東西の幹線道路を有料継続するという。行政の怠慢、安直な決定に批判する声が多い。
 
 このような記憶を宿らせ、時勢を読み解きながら、古き良き時代の街並みを南下すると近江八景のひとつ「浮御堂」に到着する。
 
 

 

■<堅田の浮御堂より坂本城址に向かう>       <浮御堂 ⇒ 坂本城  8km>
 
 浮御堂に近づくにつれて石畳みの道が門前までつづく。
自然石に彫られた「浮御堂」、唐風の寺門に迎えられる。
満月寺という。
満月にうかぶお堂、それが浮御堂である。 松の緑がまたよく映える。
 
「満月寺浮御堂(まんげつじうきみどう)は、滋賀県大津市堅田琵琶湖畔の臨済宗   大徳寺派海門満月寺にある、湖上に突き出た仏堂。近江八景堅田落雁
で名高い。堅田の浮御堂の通称でも知られている。
浮見堂の創建は、源信(恵心僧都942 - 1017年)が比叡山横川から琵琶湖
をながめると、毎夜、その光明の赫々(かくかく)たるを怪しみ、網でこれを掬  
(すく)いとらせると、18分の黄金の弥陀仏像であった。
よって魚類殺生供養のために阿弥陀仏1体を造り、その体内にこれをおさめ、
一千体の阿弥陀仏刻み「千仏閣」「千体仏堂」と称して湖上安全と衆生済度を
祈願したのが始まりである。」     <ウイキペディアより>
 
松尾芭蕉も、義仲寺に滞在し俳諧を教えていたころ、ここ浮御堂によく遊んでいる。
 
 錠あけて  月さし入れよ  浮御堂   松尾芭蕉
 
 『 五月雨の 雨垂ばかり  浮御堂』  青畝
 
 
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  浮御堂
 
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  満月寺 浮御堂 唐風山門
 
 


■<坂本城址 と 明智光秀     坂本城址 ⇒ 唐崎の松 3km>
 
 
織田信長は、元亀二年(1571)912日、三万の兵をもって比叡山全山を焼き討ちしたのち、延暦寺の監視と山麓の滋賀郡一帯の支配を命じたのが、明智光秀である。その明智光秀坂本城を築城した。
 
このお城の特徴は、まず、城内に琵琶湖の水を引き入れた、いわゆる「水城形式」の城郭であった。
 
光秀は、坂本城を拠点として信長の命により近江平定に奔走しいたが「本能寺の変」のあとこの城は「山崎の合戦」で光秀が敗れ、坂本城10年で落城した。
 
坂本城は、京都への「今道越」という交通の要所に立地しており、信長にとっては天下取りのために抑えておくべき重要な地であった。


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  坂本城祉石碑    (坂本城主は明智光秀
 
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「光秀の意地」歌碑
 


びわ湖の渇水時には、湖中に残る坂本城の石垣が現れ、当時の面影を時折、のぞかせるようだ。わたしが勤めていた京都造形芸術大学に水中考古学の研究に先鞭をつけた考古学者である田辺昭三氏(当時、京都市埋蔵文化財研究所調査部長・京都造形芸術大学教授)がおられ、琵琶湖の湖底に沈んでいる坂本城の調査についてのお話をよくうかがったものである。


 築城の名手である光秀は、1572安土城に次いで日本第二の名城と謳われた坂本城を築城した。


天下一の豪壮なる安土城におとらぬ優美な城が明智光秀の築城した坂本城であったと、宣教師ルイス・フロイスは著書「日本史」に書きのこしている。


推測だが信長と光秀は相似たるもの同士であったのではないだろうか。この辺りの事情が両者の見えざる反発心と闘争心となって本能寺の謀反につながったとわたしはみている。

 
「光秀(おとこ)の意地」という歌碑
 
坂本城址には「光秀(おとこ)の意地」という歌碑がたっていた。その心情をよく表している作詞である。 紹介しておきたい。
 
      「光秀(おとこ)の意地」         
作詞・祝部よしまる   作曲・平川竜城    唄・鳥羽一郎
 
 (口上) これが光秀の本音にござります
          
         一寸の虫にも  五分の魂
         やらねばやられる  戦国の掟
         わしは主を間違えたようじゃ
       
 
 
1. 美濃に生まれて  近江に賭ける       2、 さわぐ心を  愛宕の山で
坂本城が命の  男の夢を                  かけた願文  勝軍地蔵
心変わりの  信長様に                     時は今だと  決意に燃える
義理も忠義も  情けもすてて               勝つか負けるか  運命にまかせ
俺も男の  俺も男の  意地がある         修羅の炎が  修羅の炎が  渦が巻く
 
3. 天下分かれ目の  戦に敗れ
無念  光秀  涙の雨に
風が無情に 袖ふきぬらす
落ちて小来栖 闇夜の薮で 
武士は散れども 武士は散れども  桔梗(名)は残る
 
三日天下といわれる明智光秀は山崎の戦に敗れ、ここ坂本城に逃れるため急いでいた小来栖の竹藪で地元の百姓に打ち取られたことは有名である。
 
この小来栖の竹藪こそ、今回集まるボーイスカウト京都第11団のトレイニング・フイルドであり、ハイキングコースでもあった。その後、東京オリンピックに合わせ突貫工事が進められていた名神高速道路の開発で、この小来栖の竹藪周辺もすっかり変わってしまった。
 
 
 

 
星の巡礼瀬田川より宇治川を自転車で下る」 ②
坂本城址➡石山寺➡南郷洗堰24㎞>                   
  につづく