shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2015「星の巡礼・瀬田川より宇治川を自転車で下る」④ <曽束大橋⇒宵待橋⇒天ケ瀬ダム⇒宇治市街⇒城陽「友愛の丘」⇒観月橋 40km>

■2015「星の巡礼瀬田川より宇治川を自転車で下る」 ④ 
  <曽束大橋⇒宵待橋⇒天ケ瀬ダム⇒宇治市街⇒城陽「友愛の丘」⇒観月橋 40km> 

         <青春時代をサイクリングする>
          <近江の国・山城の国をめぐる自転車の旅>
                   < ボーイスカウト京都11団 と 母・初子の思い出>
 
 
宵待橋を渡ると、天ケ瀬ダムへは右折する
 
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宵待橋  天ケ瀬ダムは右折
 


< 天ケ瀬ダム >
 
「天ケ瀬ダム」は、曲線が美しいアーチダムだ。 形式的にはドーム型アーチ式コンクリートダムという。 
放水流は見られなかったが満足である。
 
このダムは淀川・宇治川水系ただ一つのダムとして、宇治川防災ダムとして造られた。 このダムができるまでは、あとで述べるが台風による観月橋南部の洪水地帯(干拓巨椋池エリア)をいつも湖に変えていたのである。
 
 
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美しいアーチ型の天ケ瀬ダム (瀬田側は、ここより宇治川になる) 
 
 
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  正面ダム と 左側・煉瓦造りの旧志津川発電所の建物


下流左側に蔦のからまった煉瓦造りの旧志津川発電所の建物が古色蒼然とその姿を残している。


さっそくスケッチに時間をかけた。 夢中に画いている私の肩をたたく者がいる、数秒後に爆破作業があるという。


このダム前をまたいで道路をつけており、トンネル用爆破作業が行われているようだ。 そのうち自然景観もかわるのであろうか。心配になった。


天ケ瀬ダム正面全景をみるには、府道3号線より川沿いの道(至三室堂寺方面)におりて、ダム方向にむかうとダム正面の橋にでる、 この橋からのダムの威容に圧倒される。


 


《 宿木之古蹟 》(やどりぎのこせき)


ダムをでて2kmほど下流へ向かうと、宇治の市街地へ入る手前の右手(東側)に石碑「宿木之古蹟」が宇治川を背に立っている。


宿木之古蹟は、源氏物語続編の宇治を舞台にした宇治十帖の第5帖として有名な地である。


作者である紫式部は物語の中で、薫が宇治を立ち去る前に、『宿りきと 思い出をずば 木のもとの 旅寝もいかに寂しからまし』 という歌を紅葉した蔦(つた)に添えて中君に届けている。
 


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石碑「宿木之古蹟」
 
この「宿木之古蹟」より直進すると鵜飼いを楽しめる塔の島に出る。さらに堤防沿い走ると平等院の裏に出る。
 
 

世界遺産 平等院

平等院はあまりにも有名である。 いままでに幾たび訪れたことであろうか。

今回は、宇治川堤防から眺めるだけにとどめた。木立ちの間からみる平等院鳳凰堂もまた国宝にかわりはない。
 
世界中から拝観者が押し寄せていた。
 
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木立ちの間から見る平等院
 
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平等院鳳凰堂と浄土式の庭園
 
 
風光明媚な宇治で、藤原一族の栄華を今に伝える平等院は、宇治川の西岸にあった源重信の別荘をその夫人から藤原道長が譲り受け、その子頼通が永承7年(1052年)、寺に改めたものである。
 
鳳凰を屋上に戴く鳳凰堂(国宝)には仏師・定朝作の阿弥陀如来像が安置され、52体の雲中供養菩薩像が長押の上で、雲に乗って音楽を奏している。壁扉画、日本三名鐘の一つといわれる梵鐘とともに国宝に指定されている。(京都府HPより)
 
 宇治大橋界隈も整備され、少年時代に訪れた面影はもうない。
 
桃山小学校時代は、よく学年単位で宇治へ遠足に出かけた。 また図工の時間には、宇治大橋より宇治川東岸を上り、関西電力宇治発電所の放水路が宇治川に流れ込んでいるあたりによく写生に連れて行かれた。
 
桃山中学校時代には駅伝競走があり、六地蔵、木幡、三室戸を経て宇治大橋を渡り、宇治川の西堤防の上を走って観月橋から師団街道を北上して帰校する一周コースがあった。わたしは第二走者として深草の万畳敷あたり走った記憶がある。
 
また同志社岩倉高校時代の級友に応援団員であり、絵画部で一緒だったF君がいた。 かれの両親は「生長の家宇治別格本山」と関係があったようで、宇治から通っていた。人間味あふれるすばらしい人物であった。
 
また半世紀前、わたしがボーイスカウト京都11団の少年隊の隊長をしていたおり、宇治1団が11団の兄弟隊として発団した場所でもある。
 
あれこれと若かりしころの思い出を呼び覚ましながら、宇治から寺田城陽に向かって府道256号線をのぼり、太陽が丘をこす。 コース上一番きつい坂であった。
 
奈良街道といわれている国道24号線との交差点を左折し(南方向)、国鉄長池駅」に立寄る。 隊長時代、スカウト達を連れて長池駅より、重たい野営用具をスカウトに担がせ、歩いて野営場である自衛隊長池演習場へ向かった思い出の駅である。
 
当時のテントは船舶用帆布で作られていたと記憶するが、フライをふくめて6人用テント一張で約25~30kgの重さがあった。 小学生4~5年生の平均体重と変わらない重さのテントを当時の少年は汗して運んでいたのである。時としてテントが歩いている錯覚にとらわれるほどとてつもなく大きく重たかった。
 
当時のスカウトは、力と工夫と情熱と忍耐があったような気がする。
その素晴らしいスカウト達と50年ぶりに、もうすぐあえるのである。 こころが騒いでならない。
 
 
 
 <京都ボーイスカウト第11団 OB総会>
 50年ぶりに青少年野外センター・友愛の丘に集う 

不思議なものである。 50年ぶりに再会した懐かしのあの顔この顔、あの幼い愛くるしい少年たちの顔がいまここにあるのだ。 人生をともに歩んだ白髪と皺と、そして少し背がちぢみ腹の出たその笑顔には、時間を飛び越えて、何とも言い難い親しみに満ちた再会の笑顔があり、兄弟愛、スカウト愛が満ち満ちているではないか。
 
スカウトの永遠の誓いがいきいきとよみがえった瞬間であった。
 
 
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50年ぶりの再会   ボーイスカウト京都11団 オールド・スカウト達>   於・友愛の丘
 

バーベキューを囲んでの談笑懇親は時間をこえてつづき、その情熱の炎は営火で最高潮に達した。 懐かしきスカウトソング、パフォーマンス、自己紹介。炎に照らされ紅潮した顔がお、そこには少年の輝きの目があった。
 
亡き元団委員長・高田芳二氏、前団委員長・高島昭佳氏、そして亡き仲間たちへの追悼の祈りをもって営火の炎はしずかにおちた。
 

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夜空を焦がす営火


京都ボーイスカウト11団の渡辺団委員長、戸川隊長をはじめ元カブスカウト隊のリーダーの御婦人方も参加され感無量であった。遠方からは山形、山梨、四国からも駆けつけてくれた。 京都BS11団中興の祖、大西孝雄元隊長を囲んで、みんなで記念写真におさまった。
舎営組は、友愛の丘本館二階の一室で夜のふけるのをわすれての思い出話に花を咲かせた。
翌朝、舎営組に見送られ、再会を約してサイクリング後半にむかって友愛の丘をあとにした。
 

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  出立にあたり宿泊組に見送られて  於・友愛の丘


■<城陽市『友愛の丘』より観月橋へ向かう>    
 <友愛の丘 ⇒ 国道24号線 ⇒ 観月橋  11km>
 
 
スカウト時代、隊長として城陽・寺田にいるスカウトをよく訪問したので、国道24号線(奈良街道と呼んでいた)はよく自転車で走ったものだ。 当時このあたりは田圃の中をまっすぐに奈良電車(後に近鉄奈良線)が走っておりあまり家がなかった。ただただ田園風景が広がっていた。
 
この国道24号線を北上すると宇治川に架かる観月橋に出る。
今回のサイクリングコースは、ここ観月橋を右折(東行)し六地蔵、醍醐をへて山科にでる。
その前に、しばらく生まれ故郷であり、スカウト時代の根拠地であるここ伏見桃山時代を追憶しておきたい。
 
 
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観月橋  (宇治川はここより淀川になり大阪港へ流れ込む)
 
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  伏見工兵隊第十六大隊跡石碑
 
 


観月橋伏見城  

観月橋より北へ200mのところに伏見工兵跡があってグランドになっていた。
前の道路を京都から奈良へむかう奈良街道(国道24号線=通称:師団街道)と呼んでいた。
この伏見工兵第16大隊跡には、現在は立派な桃陵団地が立ち並んでいる。
 
空き地に団地を建て増すこととなり建築申請を出して、遺跡調査をしたところ豊臣秀吉築城の『幻の伏見城の跡』ではないかとの説が浮上した。石垣とお堀の一部が発見されたのである。

 

伏見城は秀吉が天下を収めるにあったって、宇治川・木津川・高瀬川の合流地点を抑え、大阪と京都を結ぶ水運による物流と人の流れを取締るところの地の利を生かした要衝であった。
 
観月橋、なんというロマンチックなネーミングであろうか。 
月を愛でる(観ずる)橋・・・。
 
この宇治川観月橋のあたりで鵜飼いがおこなわれ夏の風物詩として有名であった。
たしか観月橋のたもとに旅館『観月楼』があったと記憶している。
 
いまはそののどかな風景は交通の要所として、立体する交通橋へと変貌し、時代の流れに身を変えてしまっている。

 

私が子どものころ台風や大雨が降り、宇治川の堤防が決壊し、水が流れ込んだ川南一帯はいつも大きな湖ができたものだ。  観月橋には、友達と一緒によく見に出かけたものである。

 

そう、ここ工兵隊跡のグランドに立ってみると、奈良方面の干拓巨椋池あたりはまるで中国湖都の杭州にある西湖のように美しく見えた。

 

もともと宇治川にかかる観月橋より南は当時、見渡す限りの水田が広がり、その干拓地の真ん中に灌漑用水を貯める広大な池「巨椋池おぐらいけ)」があった。宇治川の氾濫によりこの池が湖に変わるのだから、子供こころにその自然の驚異に驚かされたものである。

 

現在、この広大な干拓地はしっかりした治水(天ケ瀬ダムほか)のお蔭で京都でももっとも発展著しい地域のひとつとなっている。
 
 
 
<母・初子と子供時代>

 

わたしが小学校4年生の2学期に朝鮮半島より引き上げてきて、ここ京都伏見の地の実家に移り住んだ。 約60年前のことである。 いまでも記憶によみがえる。

 

明治天皇陵の近くにある乃木神社の前、『桃山小学校』にはじめて母・初子に連れられて訪れたあの暑い夏の日を忘れない。

 

家は伏見城の家老や高級武士が住んでいたであろう羽柴長吉(はしばちょうきち)という町名であった。
子どもこころながら、『羽柴長吉』という町名に魅せられていた。
なぜなら羽柴秀吉という天下人と同じ名前ではないか。なんとなく自慢でもあった。

 

伏見城の城下町であったからなのであろう、このほかに『毛利長門』や『筒井伊賀』、『長岡越中』、『水野左近』、『桃山正宗』、『福島太夫』、『毛利長門』、『松平筑前』ほか秀吉の武将の名前がほとんどそろっている町名であった。

 

母は日本女子大学国文科を卒業し、彦根や京都で営んでいた長浜縮緬問屋の関東大震災による売掛金未収により倒産した家計を助けるため外地での教師の道を選んだ。
その華奢な母が子ども5人を生み、厳格だが愛情あふれる子育てをしてくれた。
みな母が大好きである。

 

その母に連れられて、近くの御香宮さんの境内(ここに菅原道真神社があり、母が朝鮮より一時帰国した折には必ず参拝し、子供たちの健やかな成長を祈っていた)を通り、国鉄(当時)「桃山駅」の線路をわたり、明治天皇陵参道を直進すること300m、下馬柵門を右にとりスギ林の道を乃木神社へと向かうと、そこにわたしが4年生2学期から卒業まで学んだ京都市立桃山小学校がある。

 

やっと夢に見た日本での学校生活がはじまったのだ。

 

道中、行き交う人たちに母は懐かしげに「こんにちは」と声をかけていく。それがとても新鮮に思われたし、日本人の精神性からくる礼節をみた気がした。
母も日本に帰って日本人としての誇りを取り戻していたのであろう。
その顔には自信というか大和撫子としての優雅さをにじませていた。

 

朝鮮時代の小学校の想い出と言えば、朝鮮戦争の影響で爆撃を避けるためいつも樹の下に黒板を持ち出しての林間学習であった。
すべてが懐かしい。

 

 
<桃山小学校の東に明治天皇陵、乃木神社があった>
 
そのおかげで、伏見大手筋から東へ一直線に明治天皇陵参拝のための立派な道路が敷かれていた。 当時の奈良電「桃山御陵前」駅や国鉄奈良線「桃山」駅はほかの駅に比べて豪華であり、立派な建物であった。
いまでも参道の一部に玉砂利が残っている。

 

またご大典のおりの参列者や参拝者のための旅館が沢山並んでいた。 その人家が切れたあたりの角に「交番」があり、南にくだると国鉄「桃山」駅に到着するお召列車用の天皇や皇室が利用する貴賓室や特別改札口、おおきな駅前広場があった。いまはこの駅前広場にマンションが立ち並んでいるようだ。

 

ここ交番のあったあたりに明治天皇陵参道の「下馬」標があり、いまでも玉砂利が明治天皇陵まで続いている。この下馬標より、右にカーブを切ると乃木神社へとむかう。
乃木神社の西正面に、桃山小学校がある。 当時の校舎はなく、新しい洋館が建っている。
わたしが小学生であったときは、正門を入ると二宮金次郎が出迎えてくれた。 木造の校舎で、校庭の西側は断崖になっていて、らせん状のすべり台があったと記憶している。
 
 
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明治天皇陵                                                     乃木神社
 
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現在の桃山小学校
 
 
「1912年(明治45年)7月30日に明治天皇崩御伏見桃山が陵墓地に選定され、桃山駅国鉄奈良線のなかの一駅ではなくなり、大葬列車を迎えるため、急いで拡張と整備の工事がなされた。現在、踏切を挟んだ駅の北側のマンション群は、柩が下車した仮停車場と駅前広場の跡地である。マンションの工事が開始される前は、この時のプラットホームの一部が残っていた。
御陵口改札の前は玉砂利を敷き詰めた広場で、その向こう側に明治天皇や乃木将軍に関するものを扱う土産物屋が並び、日の丸も林立していた。昭和になり、日本の軍国化の動きと連動し「明治天皇桃山御陵参拝」が日本中で行われるようになり、国鉄桃山駅は整備拡大を続け、貴賓室が設けられ、桃山駅長は「指定職」という京都駅なみの地位に格上げされた。1932(昭和7年)の1月の桃山御陵参拝人数は約15万人、この年10万を超えた月は6ヶ月もあり、桃山駅1日乗降客が8万人といわれた日もあった。」とある。  <ウイキペディアによる>
 
この乃木神社への杉林の道も当時、玉砂利が敷かれ明治天皇陵の裏参道(自動車道)となっている。
明仁平成天皇と美智子妃のご成婚のおり、明治天皇にご報告のためパレードがなされたのもこの杉林の玉砂利の道(現在は舗装道)であった。わたしも歓迎旗をもってお出迎えしたことが昨日のようだ。
ことし平成天皇81歳、わたしも73歳を迎えた。感無量である。

 

わたしの好きな明治天皇の和歌がある。
明治天皇裏参道をこの和歌を詠じながらのサイクリングとなった。


あさみどり 澄みわたりたる 大空の 広きをおのが 心ともがな 明治天皇御製

 

 (浅緑に澄みわたった大空の広大無辺を、己が心と出来たらなー     明治391906..  
 
 

 

乃木神社について記しておく。
京都伏見桃山にある明治天皇陵の麓に位置する。日露戦争の日本軍総司令官として武勲のあった長州人乃木希典を祭っている。

 

乃木希典18491912)は長州藩士の家に生まれ、明治期の陸軍大将である。戊辰戦争では幕軍と戦い、西南戦争では苦戦、軍旗を奪われ、これが終生の恨事となる。また日露戦争では司令官として旅順攻略を指揮し、無謀な突撃を繰り返したくさんの死傷者をだし批判を受けた。

 

明治天皇崩御により、死に場所を求めていた乃木大将は妻静子とともに大喪の日に殉死を遂げ、ここ乃木神社にも祭られた。 わたしの好きな漢詩を次のページで紹介する。
 
 
 
 
 
2015「星の巡礼瀬田川より宇治川を自転車で下る」 ⑤
 <観月橋六地蔵⇒山科⇒浜大津⇒志賀 48km>
  へ続く