<伏見桃山の想いで>
乃木将軍が錦州城外で吟じた詩吟を高吟しながらの乃木神社参拝となった。
《 錦州城下の作》 乃木希典作
山川草木転荒涼
十里風腥新戦場
征馬不前人不語
錦州城外立斜陽
(山川草木うたた荒涼 十里風なまぐさし新戦場 征馬進まず人語らず 錦州城外斜陽に立つ)
<伏見 御香宮さん>
さきに出てきた母・初子が子供たちの健やかな成長を祈ってくれた伏見御香宮さんの歴史的背景にもふれておく。
「大政奉還後間もない明治元年(1868)に起こった鳥羽伏見の戦いでは伏見町内におけるここ御香宮が官軍(薩摩藩)の本営となった。新政府軍(薩摩・長州の軍勢)が陣所とし、眼下の伏見奉行所の旧幕府の軍勢を攻撃したのである。
の終わりから明治新政府が成り立つ過渡期の事件がここ京都伏見の地でおこった。」
<ウイキペディアより>
ここ御香宮さんで、母 初子が詠った俳句がある。
『 皐月雨 鳥居寄りそう 親子鳩 』 初子句集「山梔子の花」より
伏見桃山城の大手門を移築したといわれる表門
<最初期伏見桃山城遺構発見か- 新聞報道より>
京都市伏見区で、豊臣秀吉が16世紀末に築城したとされる最初期の伏見城の遺構が見つかったと、発掘調査会社「京都平安文化財」が18日発表した。堀や石垣の跡から金箔(きんぱく)が貼られた瓦などが多数出土しており、近くに本丸があった可能性があるという。
遺構は同区桃山町泰長老のマンション建設予定地で見つかった。堀は南北に約36メートルが確認された。石垣は堀に沿って3段以上あったとみられ、下部の1~2段分、高さ0.5~1メートルが残っていた。
伏見城は3度築城されており、今回見つかったのは「指月城」と呼ばれる最初期の城とみられる。1594年に秀吉が築城したとされ、江戸時代の文献などに記録が残っていたが、場所は特定されていなかった。
<奈良電鉄貨物線「堀内」駅の思い出>
戦前戦中の奈良電車(奈良電気鉄道・現近畿日本鉄道)は多くの明治天皇陵参拝客を輸送する関係上、直通路線と独立した「桃山御陵前」駅を持っていた。
桃山の実家は、京阪と奈良電(当時は合同駅舎「丹波橋」)の踏切近くにあり、ポイントを交差する電車の音と遮断機の信号音が一日中鳴り止まない位置にあった。
もちろん踏切は開かずの踏切で、子供時代には遮断機をかいくぐって横断したり、電車の線路に釘をのせて、電車に轢かせて小型ナイフを作ったり餓鬼大将ぶりを発揮していた。いまでは考えられないのんびりした時代であった。
この実家の前の板橋通りを、東へ上って行くと府立桃山高等学校をへて現在の伏見桃山城にでる。 また西へ下ると伏見警察署がある。この界隈はびわ湖からの疎水が流れ、柳が風にゆれ、伏見の酒蔵が立ち並ぶ風情豊かな景色が展開する。
同志社高校時代、弟のボーイスカウト入団ハイキングに付き添ったおかげで京都11団に所属し、同志社大学に進むことにより同志社大学ローバースカウト隊を仲間と立ち上げ、その後のわたしの人生の主流をスカウト的アドベンチャ―に向かわせた。
スカウトとの出会いは、現在ニューヨーク在住の兄が朝鮮半島より引き揚げる前に、朝鮮動乱により避難してきていた釜山でスカウトの制服 (いやネカチーフと米軍の略帽だけだったかもしれない) をきて交通整理をしていた姿に憧れたのがスカウトに興味を持ち出した原点である。
あの時の長兄の姿はそれは恰好よかった。 米軍MP(憲兵)といっしょに交通整理なんてすごいと子供心に思った。
スカウト入隊のきっかけは、弟の入隊勧誘ハイキング (大岩山だったと記憶するが) への付き添いだったのだから、人生における出会いというものは面白いものである。自分からの強い意志と決意からではなかったのであるから不思議なものだ。 その弟は中学卒業と同時にスカウトをさっさと卒業した。
わたしだけがスカウトにのめりこんでいった。
これまた母・初子の思いが強く働いていたのではないかと想像する。 人生には天風師がいうように、まとわり存在する幽玄微妙なる宇宙真理があることを実感する。
<伏見桃山の家 と 母・初子>
わたしは、この伏見桃山に生を受け、通算12年ほど母・初子と屋根を共にした。
母も世を去り、ここ羽柴長吉の実家も築120年の寿命をまっとうし、4年前に処分した。
後藤家の栄光盛衰をながめ、後藤家の人々に安らぎのひと時を与え続けてくれた住処であった。
この家は、築120年ほどの古民家である。 米松でつくられ処分した2011年当時、すでにシロアリに食い荒らされ補強材でなんとかその姿をたもっていた。
わたしたちが昭和28(1953)年朝鮮より引揚げて帰ってきたのがここ伏見桃山の実家である。
帰国当時の周囲の家々はほとんど建て替わり、我が家は古色蒼然として景観に花を添えていた。
わたしたちにとって誇るべき家であった。
後藤家が関東大震災で家業の長浜ちりめん問屋の売掛金を回収できず倒産したあと、家業を縮小し本店のあった彦根より住居を移したのがここ伏見桃山の地にあるこの家であった関東大震災は1923(大正12)年9月11日に発生したのだから、その2年後あたりだから1925年に引っ越してきたんだと推測する。
処分した2011年までとすると、88年間住んだことになる。
それまでの32年間は、軍人家族の持家であり、転属で空き家になっていた家を借りていた。 家主は秋山大佐家族と母より聞いている。
この家を母が引揚げたあと買い取ったのである。 その売買取引のおり、わが家を訪問された秋山元大佐にお会いした記憶が片すみに残っている。
わたしたち家族や、後藤家のみんなの思い出がたくさんつまった古きよき家であった。
2011年当時の伏見桃山の実家
東側より (ひだり二階建ては離れ)
それに母・初子はボーイスカウトが大好きであった。 おおくのスカウト達を愛してやまなかった。
おおくのスカウト達が母・初子に会いに来ていた。 母・初子はいつも笑顔で迎え、励ましていた。
わたしにとって誇るべき母であり、人生の先生であった。
深い感謝のなかに、いつも母・初子の顔がこころに浮かぶ。 それもまるで隣にいるようにである。
今回、「青春をサイクリングする」をテーマに生家のあった伏見桃山の地に立寄り、巡ってみた。
すこしより道をし過ぎたようだ。 思い出が風となって向かってくる。 爽やかだ。
母・初子は2000(平成12)年3月18日午前11時ごろ、子供達や孫たちそして病院スタッフに見守られながら、ここ「大島病院」で94歳の天寿をまっとうし、天なる主のもとに帰って行った。
これからの帰路はわが裏庭のようによく知ったサイクリング・コースだ。
府道35号線追分分に立つ道標
<逢坂関-おうさかのせき>
昔もおなじく交通の要路であった。
逢坂関は歌枕としても有名であり、百人一首でも二つの歌で詠まれている。」
<ウイキペディアより>
《これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 》 蝉丸(第10番)
《夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ 》 清少納言(第62番)
逢坂山関址の石碑
<月心寺>
月心寺は、京都より国道1号線を大津にむかう逢坂の関の手前300Mのところにひっそりとした構えをみせる。 苔むした石垣や風雨に耐えた寺門というか勝手口のような入口が好きだ。一歩足を踏み入れると一坪の庭にほっとさせられる。 そこには月心寺の世界が曼荼羅のようにひろがる。
「月心寺は、大津市大谷にある臨済宗系の寺院。 このまま朽ちるのを惜しんだ日本画家の橋本関雪が1914年(大正3年)に自らの別邸 として購入し、後に天龍寺慈済院より村上獨譚老師を迎え今のような寺院となる。歌川広重(うたがわひろしげ)が描いた東海道五十三次にある大津の錦絵には、溢れ 出る走井(はしりい)の水のそばの茶店で旅人が休息している姿が見られるが、この茶店が現在の月心寺といわれている。日本の名水として広く知られた。」 とウイキペディアに書かれている。
ここは精進料理や庭園、走井の名水、走り井餅で有名である。
月心寺の格子戸の入り口
逢坂関を越えて浜大津に下ると、往路の国道161号線と合流する。 これより北上し、志賀の里に無事帰着した。 まずは事故もなく元気にサイクリングを完走できたことに感謝したい。
そして多くの追憶にひたることができた。
びわ湖 と 比良・蓬莱山に迎えられての帰宅となった
わたしの星の巡礼もまだまだ続きそうだ。
完