shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2017『星の巡礼・奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』 13

 2017 星の巡礼奥の細道2400kmをたどり、恐れながらわたしも一句』 8

1.日光⇒黒羽⇒芦野⇒白河 <奥の細道紀行1>
   ③ 黒羽(くろばね)-3  

 
■⑦黒羽・明王寺境内右手  地図5


 芭蕉  今日も又 朝日を拝む 石の上」  (けふもまた あさひをおがむ いしのうえ)   


    余瀬で催された歌仙の中の句で、「石の上に立って今日も朝日を拝む行者の姿」を詠んだもの


    <解説版より>
     「芭蕉は元禄2(1689)43日より黒羽を訪れ14日間滞在、その間に河川の興行があった。
      秣(まぐさ)おふ 人を枝折の 夏野哉   芭蕉
      を発句とした36句の中から、明王寺の境内に最も相応しい句として、


 今日も又 朝日を拝む 石の上   芭蕉
     を選び石に刻んだ。  昭和63年2月14日 蓮実 記す。」 


    實久「白き花 おのれ隠さじ 山法師」    (しろきはな おのれをかくさじ やまぼうし)
 

  
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明王寺境内にある芭蕉句碑「今日も又」のスタンプ  と    芭蕉句碑「今日も又」

 
     わたしも一句「白き花 おのれ隠さじ 山法師」、境内を散策しながらの句作もこころ弾むひと時である。
この白き花は、わたしを出迎えてくれた明王寺境内に咲く白い山法師たちの歓び溢れた笑顔を詠ん
だものである。


 明王寺をでて常念寺にもどり、西に延びるのどかな田園風景を愛でながら1kmほど走ると、右手の
路傍に「修験光明寺跡」をしめす一本の柱(標識)が立つ。
道にある標識から土手をのぼると、木陰に隠れた竹林にひっそりと芭蕉句碑「夏山に」がたたずん
いる。

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    路傍に一本の標識「修験光明寺跡」がある、見落としに注意


 
■⑧黒羽・修験光明寺  地図2


    芭蕉  夏山に 足駄を拝む 首途哉」 (なつやまに あしだをおがむ かどでかな)  


     光明寺には役(えん)の行者のものと伝えられる下駄が安置されている。その下駄を拝むことで遥かな
     奥州への旅の無事をも祈っている。ここ那須野を過ぎればいよいよみちのくに入る


 奥の細道修験光明寺と云有。そこにまねかれて、行者堂を拝す。


          <現代語訳>  修験光明寺という寺がある。そこに招待されたので、行者堂を拝観してきた。


 
    實久 「峰々の 行者行き交ふ 夏の役」   (みねみねの ぎょうじゃゆきかふ なつのえん)  


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修験光明寺跡にある芭蕉句碑「夏山に」 と スタンプと


         芭蕉句碑「夏山に」が建つ、修験光明寺跡に
        「芭蕉の里・解説板」があるので一部抜粋しておく


            松尾芭蕉は、元禄2年4月9日(陽暦5月27日・1689年)に光明寺に招かれ、昼より夜5つ過ぎ
      (午後9時過)迄で浄法寺図書宅へ帰った。
       奥の細道』に「修験光明寺と云有、そこにまねかれて、行者堂を拝す。
      <夏山に 足駄を拝む 首途哉> とある。
       これは光明寺の行者堂に安置されていた役の行者小角の像を拝し、芭蕉がこれからの長途の安全
       を祈り、その健脚にあやかろうとして詠んだものであろう。」


   
    「時」の流れに、儚(はかなさ)を感じる。
    芭蕉曽良が、これからも続く奥の細道の無事を祈ってここ修験光明寺に、縁の行者が修験に
    つかった草履(足駄)を拝みに立寄ってから328年後のいま、そこには芭蕉の句碑だけがひっそりと
    わたしを迎えてくれている。
    しかし、頭の中には当時の修験にはげむ役行者の行き交う姿が浮かんでは消えていくではないか。
       「峰々の行者行き交ふ 夏の役」 と詠んでみた。 
         
         芭蕉もまた、役行者の足駄姿を思い描いたに違いない。
         夏山に 足駄を拝む 首途哉」


 
        さらに自転車を先に走らせ、最初の交差点を右にとり500mほど先の左手に野寺の趣のある「西教寺
    がある。
        山門もない境内のひろがりから、曽良句碑「かさねとは」が目に飛び込んでくる。


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西教寺境内を望む、曽良句碑は本堂手前左のある大岩の後にある  


■⑨  西教寺境内  地図3


 曽良  かさねとは 八重撫子の 名なるべし」  (かさねとは やえなでしこの ななるべし)  


      子供たちが、二人の乗る馬を追ってきた。ひとりは女の子で「かさね」という、かわいい名前なので
      心に止めおきたい


奥の細道那須の黒ばね*と云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といへども、さすがに情しらぬには非ず。「いかヾすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとヾまる所にて馬を返し給へ」とかし侍ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名を「かさね」と云。聞なれぬ名のやさしかりければ、かさねとは八重撫子の名成べし 曾良  頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て馬を返しぬ。


<現代語訳> 那須の黒羽というところに知人がいるので、ここから「道多きなすの御狩の矢さけびにのがれぬ鹿のこゑぞ聞ゆる」の歌で知られた那須野を横切って、近道を行こうとした。遥か前方の一村を目ざして行くに、雨が降ってきて、日も暮れてきた。農夫の家に一晩泊めてもらい、朝になってまた野中を行く。そこに馬が一頭草を食んでいた。草刈の農夫に事情を話すと、田舎者だが情け知らずではない。「どうすっぺぇか? この野原は道があっちこっちに分かれてて、他所者には迷うだんべ。わしも心配だから、この馬に乗ってって、この馬が止まるとこでこれを返してくんなんしょ」と言って馬を貸してくれた。
    子供たちが二人、馬の後を追ってきた。一人は少女で、その名を「かさね」という。聞きなれない
    ものの、かわいい名前なので、かさねとは八重撫子の名成べし  曾良   まもなく人里に着いたので、
    謝礼を鞍壺に結わえて馬を返した。


     實久 「風に乗り 雛菊もまた 旅仕度」         (かぜにのり ひなぎくもまた たびじたく) 


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 黒羽・西教寺にある曽良句碑「かさねとは」  と スタンプ

西教寺より翠桃邸を経て、野道を風に押されて自転車は玉藻稲荷神社に向かう。
西教寺から玉藻稲荷まで15kmほどある。サドルにまたがり1時間ほどのんびりと田植風景に遊んだ。
駐車場に自転車をとめ、玉藻稲荷神社の立派な参道を本殿にむかう。


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    芭蕉も立ち寄った玉藻稲荷神社 と 芭蕉句碑「秣負ふ」
 
 


■⑩  (玉藻稲荷神社)  地図4


    芭蕉  秣負ふ 人を枝折の 夏野かな」   (まぐさおふ ひとをしおりの なつのかな)


    この広い那須野では道が分からない。あの秣(まぐさ・馬草)を背負って歩いている男を道標に
    して歩いていけば大丈夫


(背景) 1689(元禄2)年44日。 『奥の細道』において、那須の黒羽に門人翠桃を尋ねた芭蕉
曾良は翠桃をはじめ、中途から桃雪ほか土地の俳人らを交えてひらかれた歌仙の発句


 


 實久 「山桜 風吹き去るも 物見かな」          (やまざくら かぜふきさるも ものみかな) 


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玉藻稲荷神社にある芭蕉句碑「まぐさおふ」と スタンプ 


 
玉藻稲荷神社は、昔、狐の化身でありながらその姿の美しさから帝に寵愛された「玉藻の前」という
美女がいた。
   しかし帝の病気の折の祈祷でその正体を現した9尾の狐は、この地に逃げ込み、蝉に身を変え桜の
  木の陰に隠れていたが、池「鏡が池」に映った本当の姿を見付けられ討たれてしまった、という悲しい
  伝説の地である。
 
  芭蕉曽良もまた、案内役の桃雪から美女「玉藻の前」の悲しき物語を聞いたであろう。
  ここ玉藻稲荷神社にある芭蕉句碑を最後に、那須神社のある黒羽ベースキャンプ「道の駅那須与一
   の郷」への帰路につく。


那須神社は、ボーイスカウト時代に彫ったトーテムポール「那須与一扇の的」の伝説の社でもある。
また那須は、日本ボーイスカウトのメッカの一つでもある。青春の跡をたどってみたい。


 






                                 日光⇒黒羽⇒芦野⇒白河 <奥の細道紀行1>
                                         ③ 黒羽(くろばね)-4  につづく