奥の細道最終地・大垣へ向かう
福井より敦賀へは、国道8号線、国道365号線と別れ、国道476号線がはじまる木の芽峠トンネルをぬけて南下する。
車で約65km/3Hほどのドライブである。 敦賀には14:15に到着した。
現在でも「木の芽峠」を境として、北側を「北陸文化圏」、南側を「近畿文化圏」と分類している。
出雲屋に二泊している。
よく晴れ月が出ていたので出雲屋の主人のすすめで、気比神宮に夜詣りし、月を詠んでいる。
「名月や 北国日和 定めなき」 芭蕉
「なみだしくや 遊行のもてる 砂の露」 芭蕉
なお、石造りの大鳥居は、当時のもので重要文化財である。
8月15日の中秋の名月は雨で見られず、翌日16日廻船問屋の天屋五郎右衛門の計らいで、舟で「種の浜」(いろのはま・色の浜)へ繰り出している。
「汐そむる ますほの小貝 ひろふとて 色の浜とや いふにやあるらむ」 西行法師
「小萩ちれ ますほの小貝 小盃」 芭蕉
<漸白根が嶽かくれて、比那が嵩あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。鶯の関を過て、湯尾峠を越れば、燧が城。かへるやまに初雁を聞て、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。
その夜、月殊晴たり。「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御 廟也。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂霜を敷るがごとし。往昔、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ、泥渟をかはかせて、参詣往来の煩なし。古例今にたえず、神前に真砂を荷ひ給ふ。これを「遊行の砂持と申侍る」と、亭主のかたりける。
月清し遊行のもてる砂の上
十五日、亭主の詞にたがはず雨降 。
名月や北国日和定なき >
<現代語訳>
<ようやく白山の峰は見えなくなって、代わりに越前富士日野山が見えてきた。「朝むづの橋はしのびてわたれどもとどろとどろとなるぞわびしき」と詠われたあさむずの橋を渡り、「夏かりの玉江の蘆をふみしだきむれ居る鳥のたつ空ぞなき」と詠まれた玉江の芦にはもうすっかり穂が出ていた。「鶯の啼つる声にしきられて行もやられぬ関の原哉」の鶯の関を過ぎて、湯尾峠を越えれば、燧が城、「たちわたる霞へだてゝ帰る山来てもとまらぬ春のかりがね」と詠われたかえる山に初雁の渡る声を聞きながら、十四日の夕暮れ、敦賀の港に宿を求めた。
その夜、月は殊の外晴れ渡った。「これなら明日はよい月見の晩になるのでは」と言えば、この家の主人「ほやけど、北陸路のことやさけん、まさに十五夜の天気ははかり難しやでのぉ」という。主のすすめるままにお酒をいただき、その後で気比明神に夜参りした。
気比神社は仲哀天皇の御廟。社頭は神さびて、松の木の間越しに月がこぼれ入る。社頭の前の白砂はまるで霜を置いたように白い。その昔、遊行二世上人、大願を発起して、自ら草を刈り、土石を運び、ぬかるみを乾燥させて、参詣者の往来の便を図った。この古い言伝えは今も守られていて、その後、代々の遊行上人も神前に真砂を運び入れているという。「これを遊行の砂持と言うんやでぇ」とは亭主の説明だ。
月清し遊行のもてる砂の上
十五日、亭主の言ったとおり雨になった。
名月や北国日和定なき >
出来るだけ多くの芭蕉ゆかりの地に立ちたいと自転車を走らせた。
◎気比神宮
台座には次の句が刻まれている。
「月清し 遊行のもてる 砂の上 」
「なみだしくや 遊行のもてる 砂の露」
「國々の八景更に氣比の月」
「月清し遊行のもてる砂の上」
「ふるき名の角鹿や恋し秋の月」
「月いつこ鐘八沈る海の底」
「名月や北國日和定なき」
「中山や越路も月ハまた命」
「月のみか雨に相撲もなかりけり」
「衣着て小貝拾ハんいろの月」
◎金前神社(こんぜんじ)
延元2年(1337)の金ヶ崎の戦いにおいて、南朝方の新田義貞が後醍醐天皇の皇子を奉じて金ヶ崎城で、北朝方の斯波高経の軍と戦った。金ケ崎城立てこもった新田義貞は足利尊氏の軍に攻めたてられ陣鐘を海に沈めて敗走した。その後、戦国時代に金ヶ崎は再び戦乱の舞台となり、織田信長による越前攻めで朝倉氏の築いた金ヶ崎城は落城し、金前寺も兵火により灰燼に帰した。
「月いづこ 鏡は沈める 海の底」
後方の山が「金ケ崎城跡」である。
金前神社本堂 と金ケ崎城跡(後方小山) 芭蕉翁鐘塚「月いづこ」
◎市民センター
市民センターの前は気比の海に面した敦賀港である。
センター前に芭蕉翁月塚がある。
「国々の 八景更に 気比の月」
市民センター前の芭蕉翁月塚「気比の月」
◎「芭蕉翁逗留 出雲屋跡」
目印は、ヨーロッパ軒、レストランうめだであり、福井銀行支店前に石標柱が建つ。
芭蕉翁逗留 出雲屋跡
◎常宮神社
「月清し 遊行のもてる 砂の上 」
常宮神社 芭蕉句碑「月きよし」(未確認)
◎開山堂・本隆寺 <色が浜>
現在の色ケ浜は、釣り船の基地である。
バス停「色ケ浜」より海に向かって急な坂を下ったところに開山堂・本隆寺がある。
西行法師の和歌「汐そむる ますほの小貝ひろふとて 色の浜とや いふにやあるらむ」に
魅せられて、芭蕉も句を詠んでいる。
御堂向かって左側に芭蕉翁寂塚があり、
「寂しさや 須磨に勝たる 濱の秋」
色が浜で詠んだ句は、ほかに・・・
「小萩ちれますほの小貝 小盃」
「浪の間や 小貝にまでる 萩の塵」
色ケ浜を散策しながら、「ますほの子貝」をさがす西日射す自分の影が長く伸びていた。
「影踏みて 貝いづこよと 夏の浜」 實久
寂塚のある開山堂 芭蕉翁寂塚「影踏みて」
夕暮れの色が浜の静寂に、釣り船の帰港の風景がよく似合う。
気比神社の駐車場目指して、久しぶりに色が浜の道をおもいっきりペダルを踏んで風を切った。
敦賀・色ケ浜を自転車で巡る―②につづく