shiganosato-gotoの日記

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2022『星の巡礼 スカウト移民小史 序章』

                                     『星の巡礼 スカウト移民小史 序章』

                                      <Scout Immigrant History>

                                        <Imigração Escoteira>

 

 

ボーイスカウト移民小史 序章》    後藤實久

 

1957年わたしが高校、シニアスカウト時代、当時の関東にある大学ローバースカウトの中から、理想郷を目指してブラジルのバウー訓練所へ移住するローバー(青年)スカウト達がいた。

仲間と同志社大学ローバースカウト隊を1961年に立ち上げ、卒業後、親を安心させるため早川電気工業(現シャープ)に就職し、その後、親を説得、1965年8月30日神戸港出航の「ぶらじる丸」(10800トン)で、23歳の時、先輩たちの後を追った。

 

だが、着伯した1965年当時、バウー訓練所には1960年初頭以来一人のスカウト移民もおらず、管理者以外みな解散、標高1900mにあったバウー訓練所から下山していた。

1956年当時の<細江静男ドクターによるスカウト移民10ケ年計画案>で見る限り、1965年は計画案の最終年で、私は文字通り<最後のスカウト移民>の一人であった。

 

しかし、送り出したボーイスカウト日本連盟からも、受け入れ先の細江静男医師や、バウー訓練所の管理者小池潔氏からも一切の解散の説明を受けることなく、バウー訓練所に着任した。

 

バウー訓練所での任務を終えたあと、下山後、サンパウロでの下宿でご一緒し、結婚式へも出席、その後の幾度かの渡伯でもご家族ともども親しくしていただいた第1次スカウト移民である先輩 内田克明氏からも、一切の解散事情を聞くことはなかった。

 

バウー訓練所を提供し、スカウト移民を受け入れた細江静男医師や、バウー訓練所の現場指導者であった小畑博昭氏にも、それぞれの立場があってのことか、バウー訓練所のスカウト移民が解散した経緯について、あえて語られなかった、いや語れなかった事情があったと思われる。

その間の事情を、一介の新米スカウト移民には知る由もなく、沈黙のなかに与えられた時間を過ごすこととなった。

 

これから述べるブラジルのスカウト移民に関する項目は、渡伯前に調べたスカウト関係誌に掲載されたスカウト移民に関する記事や、ブラジルで刊行された細江静男医師追悼集、ブラジル日系新聞の連載記事から転載し、収集したたものである。

加えて、バウー訓練所で過ごした半年間の活動内容を紹介し、<スカウト移民小史 序章>(参考資料)としてまとめたものである。

 

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2010年、同志社ローバー創立50周年記念事業<中山道てくてくラリー>の途上、中津川宿において休息をとったおり、この地がスカウト移民提唱の細江静男医師の郷里に近いことと、郷の人である島崎藤村の著書「夜明け前」に、青年時代のスカウト移住を重ね、滞在中に「スカウト移民小史」作成の資料として取りまとめたものである。

 

ブラジルにおける<スカウト移民の父>である細江静男医師の没後20年(岐阜下呂町和佐出 1975/8/28没・享年74歳)の節目の1995年、刊行委員会より「細江静男先生とその遺業」が発行された。

日系ブラジル社会で、強烈な個性のもと、偉大な功績を遺した細江静男医師に対する業績評価は、20年の歳月を待たないと論評しえなかったという事情が、日系社会にはあったと言えよう。 沈黙の20年というのは、ちょうど新旧世代の代替わりであり、功罪を知る世代の大多数の先達が鬼籍に入った歳月であったともいえる。

 

とくに、刊行書における<スカウト移民>に関する先輩たちの記述を、理想とする計画と現実との乖離からくる問題提起としてとらえ、呼寄せ人細江静男医師の心情や、スカウト移民解散の実情などの記述を、ありのままに転載させていただいた。

ここに「細江静男先生とその遺業」(1995刊行)から、スカウト移民に関する記述を、日本ボーイスカウト運動における<スカウト移民小史>の一断章として取り上げ、<スカウト移民>を歴史的事実として残すものである。 

                                                                                    同志社大学ローバースカウト隊OB)

 

 

 

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ボーイスカウト移民》    サンパウロ  内田克明

               (スカウト移民1期生・ 1956年渡伯・ 東京出身)

 

■ ボーイスカウト移民のはじまり

最初に1951年当時、日本ボーイスカウト連盟総長であった三島通陽氏の文書を引用させて頂きます。

(注=三島通陽著 1958年12月発行 「音なき交響楽 青少年のために」より抜粋)

 

                         ◇

 

『日本のボーイスカウトは、戦前は世界連盟にずっと加盟していたが、戦前、時の政府の命令によって解散させられて以来、世界の同志仲間とは、ずっと音信不通になっていた。 ところが終戦となると各国のボーイスカウトから、おおいなる声援を得、とくにアメリカのスカウトには大いなる援助を受け、イギリスにある国際事務局よりは、大きな導きを得て、日本の子供達のために、この運動の再建が出来ました。 そして国際復帰も他の国際団体より、いち早く認められたのであります。

 

 それで復帰後のはじめての国際的集まりに、何とか出席して、世界の兄弟に礼を述べねばならぬ立場でありました。 また国際的の新しい空気にも接しないと日本は遅れてしまうことにもなるわけですが、しかし当時に日本は貧乏国でもあり、それとまだ各方面に理解がなくなかなか困難しましたが皆さんのお陰と、それにブラジルの在留邦人の援助でやっと国際大会に参加することが出来た次第です。

(注=1951年、オーストリアで第7回世界ジャンボリー開催。 また当時、日本では海外旅行の航空券購入に関し、海外居住者からの援助が必要であった)

 

 この国際大会の帰りにアメリカによって本部を訪ね、日系二世ボーイスカウトの実に優秀なことを知り、私がブラジルへ行った理由の一つともなります。

 ブラジルには35・6万の日本人がいます。 その多くは農業移民として成功していた。これらの人々には当然、子供らがいることで、これをボーイスカウトにすれば、日伯親善が子供の時より出来るわけです。 なぜならスカウトは世界団体でブラジル・スカウトになることは、同時に日本のスカウトとも兄弟になることになるし、スカウトに関する限り日本のスカウトは世界中で相当の敬意を表されているし、アメリカにおけるが如く、ブラジルにおいても二世がスカウトになれば、きっと優秀な成績を得ることは明白であります。』

 

                   ◇

 

それで先ず、三島通陽氏の国際大会参加を可能にしてくれたブラジル邦人間へのお礼と日系コロニアの間に真のスカウト運動を知ってもらう目的で来伯されたのが、ブラジルで初めての日系ボーイスカウト・カラムルー隊の1953年創立並びに1956年の初の日本ボーイスカウト移民に繋がるのである。

 

当時、コロニア有識者の間では、子供の躾で何か良い方法は無いものかと模索していたようである。

誰もが子供の時から日伯親善が出来て、同時に日本の子供たちとも兄弟になれ、このスカウト運動に入って心身の訓練を受けさせることは大賛成で、これから日本からも指導者に来てもらい、ブラジルのスカウト運動を発展させていこうと考え実行されたのが細江静男ドクターであった。

 

そこで、まず第一番の協力者として、細江ドクターに面識を得て意気投合して参加したのが小畑博昭氏(現日伯援協事務局長)であった。

彼は、1954年ごろ、農業移民として来泊しサンパウロ・サンミゲールの阿部種鶏場に勤務していたが、当時、付近に居住していたスカウト指導者のアデルギ・ピストン氏(後のサンパウロ州スカウト連盟主事)の紹介で細江静男医師を知ったそうだ。

小畑博昭氏の参加により細江静男医師の目標が一歩近づいたことになり、(ボーイスカウト移民)実現に向けて加速することになり、細江医師所有のバウー農場(カンポス・ド・ジョルダン市)を第1訓練所として1956年からのボーイスカウト移住者に提供されることになった。

バウー農場は、サンパウロ市中心から約200㎞、起伏の多い山岳地帯で、細江医師の故郷である岐阜県を想い描いて、白系ロシア人の老夫婦より購入したと聞かされている。

 

 

■ 細江静男医師 《バウー訓練所計画案》

           (注=1956年3月に記した計画案、原文のまま記載する)

 

自立目標: バウー訓練所を中心としたスカウト運動の今後について、大体目鼻のつくのは自立で3ケ年、世間に認められるのに7ケ年とにらんでいる。

訓練所モットー:  すべての人間は友であり、すべてのスカウトは国境・社会的地位・宗教・財産

           の有無にかかわらず兄弟である。 ②独立自尊持し、相倚り、相働く

事業目標:      センターキャンプ場の完成に大体1956~57の2か年をかける

             ➀本年度(1956)の第一になすべきことは、貨物自動車の購入、ポンプの据え付け、

            センターキャンプ場の地ならし、

          ② 細江静男・小畑博昭・内田克明・オサム・大和田誠一郎5人名義のCaverna/Gruta    

          (カベルナ・グルタ 居住小屋)を造ること

                  ➂来年度(1957)は、センターキャンプ場の完成

           カベルナの増築、山頂までの自動車道路の完成

                自立自営のために、果樹・野菜栽培、家畜飼育の開始

 

日本スカウト呼寄(計画) : 7カ年間に150名を呼寄せ、スカウト運動の中枢に据える

         1年目(1956)   6名

         2年目(1957)    10名

         3年目(1958)  17名

         4年目(1959)  20名

         5年目(1960)  23名

         6年目(1961)  34名

         7年目(1962)  40名  合計150名

 

もし事業が順調に進行すれば5年に短縮することが出来る。 また、思うようにいかなければ10年計画に変更するものとする。

本年度(1956)到着のスカウトを除き、あとのスカウトは2年間、小畑博昭君の下で、ブラジル語の修得(会話)、ブラジルの風俗・習慣・気候に慣れ、日系一世の心理を理解し、各々の希望により、或いは奥地へ、或いは市街地への活動の天地を求め巣立ちするものとする。

而して、彼らはその誓いに従って、社会人としての生活と、スカウトとしての生活を併有した生涯を持つことになる。

丁度、カソリック教のパードレ(司教)の如く、スカウティズムを実生活に取入れていく理論と実行の教師であると共に、バウー訓練場を中心とした共同経済生活の一員でもある。

自分のポストについて自活できるまで共同体、即ち我々が応援する。 彼ら(スカウト達)が自活し、余裕がある様になれば共同体に貢献するというシステムで、良きも悪しきも兄弟として共存共栄していくことになる。

150名が調和一致して歯車に狂いなく働くようになれば、もう政府の貸付金などを当てにせず我々の手の中でやっていけるのである。

 数字的に、これを見た時、土地代、センターキャンプ、カベルナ(グルタ・居住棟)の建設費、貨物自動車購入費、ポンプ据付を含む1956年度の全費用、1957年度の部分的、即ち自立自営できるまでの維持費は、細江の責任とする。

1958年度は、一切の支出を細江・小畑ほか16名で、1959年度は35名で、1960年度は55名で、1961年度は78名の同志で、1962年度は112名で、1963年度後は152名で支えていくことになる。

 

第3年度(1958)以降に到着したスカウト達への経済的協力もぼつぼつ出来るようになり、キャンプ場も使用でき、その方面からの収入も見込めるであろうし、さらに果樹・野菜・家畜からも収入が予想される。

第8年目(1963)より来る呼寄せスカウトは、本(バウー)訓練所で自弁していくものとする。

(注=当時ブラジル移民は、神戸―サントス間の船賃を日本海外協会連合会より渡航費賃貸付契約により6年据え置きの年利5分5厘で借りていた。102,000円であり、当時の為替レート1ドル360円とすると、わずか284ドルの貸付金であった)

 

かくして、1965年(第10年目)以降は、バウー訓練場を本山としたスカウト達の地盤がサンパウロ州を中心に、どっしりと尻を据えるわけで、本年(1956)到着の6名のスカウトと我々二人(細江・小畑)は開山の主となるわけである。

第2年目(1957)には、アルジャーの農園もスカウトに提供することにする。

 

          バウー訓練所<CAMPO ”PEDRA DO BAU”>建設計画図

 

                                                                     

■ 日本ボーイスカウト移民 及び バウー訓練所 所属同志の総数

  1956年 2月 2名   ボーイスカウト移民第一陣 内田克己       (東京 21歳)

                         大和田誠一郎(東京 18歳)

          5月 3名                愛媛・鹿児島・熊本・東京

          7月 1名         計6名   (内1名死亡)

  1957年                       計5名   東京・山梨・熊本

  1958年                       計7名   東京・岡山・鹿児島(内2名帰国)   

  1959年                       計4名   東京・愛媛

  1960年 2月 3名             

          5月 4名       計7名   東京・宮城・徳島 (最後のスカウト計画移民)

日本ボーイスカウト移民     総数29名

 

1956~1960 A. 日本スカウト移民                               29名

        B. 現地同志として参加                      6名

1961~            C.細江Dr.直接呼寄スカウト                        7名

バウー訓練場に所属したスカウト及び同志        総数42名

 

 

■ なぜバウー訓練所は完成できなかったか

 

第一訓練所が所在したカンポス・ド・ジョルドンのバウーの風光明媚な山岳地帯で、傾斜・石の多い土地

  で、農作物を作る場所も限られており、朝晩、霧が多く、農作物の病虫害が多く発生した。 病気に強い

  と言われる紫キャベツ、リオデジャネイロ向けに良いという蕪(カブ)も植え付けたが販路がなく苦労

  したのを思い出す。

 

② 全員(スカウト移民)、農業の素人であったが、当時、山を越えて、一番近くに住んでおられた日本人

  (旧移住者)の方に、ニンジン・ジャガイモの作り方を教わり始めたが、本当に収穫があったと記憶し

  ているのは2年目のみであった。

 

カンポス・ド・ジョルドンは他所と違って、特殊な気候(高原地帯)だったので、ニンジン・ジャガイモ

  は、他の生産者とは異なった時期に出荷でき、サンパウロ市場での販売価格もよく、少ない出荷量でも採

  算が合っていた。

  しかし、その内、三角ミナス方面から、カンポスと同じ時期に出荷されるようになり、少ない出荷量の上

  に、厳しい値段の競争となった。 わずかの牛・馬も飼育していたが、到底、収入源までには至らなかっ

  た。

 

④ よって、ボーイスカウトが自活目標を達成しながら、訓練所を建設していくという計画は、まず自分たち

       が食べていくためだけでも困難になってきた。

 

⑤ 細江静男医師の医業活動による収入の一部をボーイスカウトの生活費に充てることが多くなり、その期間

  も長く続いたと思われる。 これが原因で、最後には細江家の財政面まで相当圧迫したと思われる。

  要は、ブラジル国並びに日本ボーイスカウト連盟の支援もなく、個人の力のみで、夢を実現していこう

  としたところに無理があったのかも知れない。

 

当時、ボーイスカウトの現地における指導者として従事した小畑博昭氏は、情熱家で有能であったが、

      近代的経営管理並びに若者の心理を理解できず、常に発生した運営上の疑問と質問に対し、信用の諾否を

      問うやり方で片づけてきたので、相当の反発があったし、若者(ボーイスカウト移民)のバウー訓練所離

      れの一因ともなった。

 

⑦ 1960年頃より、日本経済は池田内閣による所得倍増計画を打ち出し、高度経済成長期へと突入していく。

      日米新安全保障条約も調印され、日本の復興と共にボーイスカウト移民の希望者は激減していった。

 

■ 後記

ボーイスカウト運動は、社会教育運動であり、かつ青少年の彼ら自身の国際平和運動である。「そなえよ常に」の標語を持ち、3ケ条の「ちかい」を心の源泉―生活信条―として、12ケ条の「おきて」を日常の物差し<生活規範>としている。

「おきて」の3条に「人は人の力になる」という項目があり、スカウトは何時でも人を援ける用意がある。また同じく4条には「スカウトは友誼にあつい」、スカウトはすべての人を友達と思い、すべてのスカウトを兄弟として、正しい明るい社会をつくる。

細江静男医師は、54歳頃にボーイスカウト日本連盟総長であった三島通陽氏を通じてはじめてスカウト運動を知り、日系2世カラムルー隊(サンパウロ創立者の一人となるだけでなく、更にスカウティング(前進)して「おきて」通り、人のためになる理想郷を実現させようと自分を投げ打って努力し、犠牲を払われました。 

多くの人が、50歳を過ぎると、若い頃の情熱も気力も醒め、自分の殻の中に閉じこもる人たちが多い中で、細江静男医師の行動力は、真に貴重で尊敬の念をいだくものです。

細江先生が、夢見たバウー訓練所はボーイスカウトのセンターキャンプ場として完成できませんでしたが、現在もバウー財団として残っており、夏・冬休みには、若い人たちが利用しております。

また40年前、細江先生とのご縁でブラジルに来ることが出来た42名のうち、残念ながら1人死亡しましたが、あの頃の若者も、みなすでに60歳前後になりました。先生の薫陶を受けた残りの者は、ブラジル或いは日本にて、それぞれ活躍しております。

                                                               (内田克明記1995年刊「細江静男先生とその遺業」 301頁より)

 

 

                               

                               

 

 

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 新聞連載から見る 《細江静男医師 と スカウト移民》

 

 ボーイスカウト日本連盟と細江静男医師の提携事業として発足したバウー訓練所への日本ローバースカウトの派遣と受入れの歴史を見ておきたい。

細江静男医師は、1953年サンパウロにカラムルー・ボーイスカウト隊を設立し、ブラジル最大の隊組織に育て上げていた。

日本のローバースカウト受入れに奔走した経緯と、細江静男ドクターについて、また<日系ボーイスカウトとスカウト移民>を取り上げたニッケイ新聞(ブラジル)の連載記事の一部を抜粋しておく。

 

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1.スカウト移民受け入れ以前の細江静男医師と青年スカウト移民

  <細江静男医師とブラジルとの出会い>

                         (ニッケイ新聞2020年7月29日配信記事 抜粋―)

 

バストス移住地での防疫対策を担った同仁会の細江静男医師は、1901年に岐阜県下呂町和佐で生まれ、慶応大学医学部で学んだエリートだった。

細江医師の慶応大学同期には、のちに日本医師会会長になった竹見太郎がいた。首相クラスの要人の主治医として知られる人物だ。  

大学時代の恩師が、第8回で紹介した宮嶋幹之助(みきのすけ)教授だった。ブラジル移民組合の要請により、1918年から7カ月間、北里研究所の寄生虫学の権威・宮嶋幹之助として、日系社会を調査・衛生指導したあの人物だ。  

現地で日本人が南米特有の感染症で苦しんでいることを熟知していた宮嶋は、若き医学生だった細江氏に「ブラジルの日本人入植地は、医師のいない世界最大の集落だ。君、行ってみないか」と声をかけ、それに乗って、1930年に外務省研修医として3年間の任期で赴任した。  

そのときの気持ちを本人は手記の中で、《ブラジル行きは自分一人の意志で決定したので、親父は当然許さず静子(妻)も寝耳に水で唖然としていた。話し合いの結果、二人の子供は置いてゆく、という条件で許してくれた。子供を置いてゆけば必ず3年で帰って来るだろうと思ったらしい。私もこの時は一生いるつもりはなかったのだが…》  日本人集団地を良く知っていたからこそ、細江のような逸材を送り込んでくれたのだろう。

野口英世は有名人だけに何かと取り上げられることは多いが、日系医療への貢献という意味では宮嶋の方がはるかに繋がりは強い。 細江は当時から、まさに「同仁」(わけへだてせずに、多くの者を平等に愛すること)の精神にあふれた若者だった。  学齢期になった娘2人を義母の元に残しての辛いブラジル赴任だった。もともとは3年の契約だったが、バストス移住地赴任中に永住を決意し、ブラジルの医師免許をとりなおすためにサンパウロ州立大学医学部に入学して苦学し、30年を過ごした。  

『遺業』によれば1944年8月頃、細江医師はすでに医師免許を取って正規診療をしていたにも関わらず、一時警察に拘束されたこともあった。《当時の日本語を話したと言う理由で引っぱられた人々と大差なく、多分、日本人の出入りが診療所に多かったことが影響したものと思われました》(PDF版279ページ)。だが1カ月ほどで釈放された。日本に残した長女は大戦中に亡くなり、二度と会えなかった。  (深沢正雪記者)

 

 

2. ボーイスカウト移民と日系ボーイスカウト

 <戦後、日系二世たちの方向づけ=勝ち負け抗争がきっかけ>

       (ニッケイ新聞2003年2月11日 越境する日本文化 ボーイスカウト(1)連載記事より)

 

ーあめりか丸からー  ボーイスカウト第一号として着伯した内田克明、大和田誠一郎の両君と出迎えの細江静男氏―。(1956年2月21日のパウリスタ新聞・写真―写真未確認)

 

内田克明(21)、和田誠一郎(18)両氏を筆頭に1956年から1960年までに『ボーイスカウト移民』として来伯した青年は29人。

これらの青年の呼び寄せ人となったのは援護協会、サンタクルス病院の礎を作った人たちの一人、道庵先生こと細江静男である。

細江といえば、カラムルー隊(ブラジル・ボーイスカウト連盟サンパウロ第26団)の創始者として有名である。
この日系ボーイスカウト隊はサンパウロ市アクリマソンに本部を置き、隊員数約350人を数えるブラジル最大のボーイスカウト隊である。

なぜ、アマゾンのシュバイツァーと呼ばれた細江が世界最大の青少年教育運動に携わることになったのかは、戦後の日系社会に目を向けねばならない。

戦後、祖国の勝敗を巡って日系社会を混乱させた勝ち負けの問題は日系社会に大きな禍根を残し、それまでの心の支えであった日本の敗北は二世にも大きな動揺を与えた。ブラジルも日本も祖国と思えない二世の懊悩に細江もまた苦しんでいた。

当時のコロニアの有識者を中心に結成されていた大和会(1946年発足、認識派団体と呼ばれていた)の会合で会員たちは日系社会の行く末を案じ、二世たちの将来を憂えていた。
そんな時、当時のサンパウロ新聞社社主水本光任が当時の日本ボーイスカウト連盟総長三島通陽をサンパウロに招いた。

三島はオーストリアで開かれた第七回世界ジャンボリー(語源は米語の俗語でどんちゃん騒ぎの意。キャンプを通し、野外技能や友情などを培うボーイスカウトの催しで四年に一度、世界大会が開かれる)に参加し、水本の誘いでサンパウロに立ち寄った。

その折、三島はボーイスカウト運動について各地で講演を行っている。細江はこの講演を傍聴し、痛く感銘を受けた。早速、大和会にも招き、詳しくその理念や活動内容についての説明を求めたのは想像に難くない。
「これからの二世、三世たちのため、日系社会のためにこの運動を普及するべきだ」。 
細江は日系子弟に方向を示唆できる一つの光と出会った。それは当時世界中に数百万のメンバーを擁したボーイスカウト運動だった。―敬称略―

ボーイスカウト運動は1907年に英国のロード・ベーデン・パウエル卿によって始められた青少年運動。 『そなえよ常に』をモットーに野外活動と奉仕活動などを通し、役立つ社会人を育成することを目的とする。
日本では1922年に少年団日本連盟が発足したものの、戦時中は解散。戦後はGHQ関係者にボーイスカウト出身者がいたことなども手伝って占領下にあった1950年には国際事務局に登録し、国際復帰を果たしている。  
(堀江剛史記者)

 

 

3. 日系スカウト・カラムルー隊発足から、バウー訓練所開設まで

  <カラムルー隊発足=バウー訓練所設立へ>

       (ニッケイ新聞2003年2月12日 越境する日本文化 ボーイスカウト(2)連載記事より)

 

ボーイスカウト運動に取りつかれた細江静男は医師の仕事のかたわら、関連書物を読み漁り、ブラジル連盟の研修会にも参加し、この運動への理解のため勉強を重ねた。

その意志に同調する形で集まったのは大和会のメンバーでもあった小副川ルイス良三、大竹潮、伝田英二、阿部弥門、上野正二、花城ジョルジ、同仁会所属の医師たちである。

ブラジル初の日系ボーイスカウト隊は1953年3月5日に歯科医を営む小副川の診療所があったビル(メルクリオ街五六四番)で発隊式を行った。名称はカラムルー隊。サンパウロで26番目に発足した隊である。発足メンバーは24名であった。

隊員は邦字新聞などでの広報活動や紹介ですぐに集まり、翌年には事務局をグリセリオ街251番に移転している。
カラムルー隊は1981年にアクリマソン区のジョゼー・ド・パトロシニオ街550番(現在の本部)に落ち着くまでに6回の移転を行っている。
隊員は増える一方であったが、細江にはある危惧があった。子供たちを指導する指導者たちの絶対的不足である。
元来、日本の青年をブラジルにーという思いのあった細江はすでに知り合っていた小畑博昭(元援護協会事務局長)の発案で日本から、ボーイスカウト経験者を呼び寄せるという方法を取った。

ボーイスカウト移民の募集はボーイスカウト日本連盟が出版する機関紙に掲載された。
細江にはもう一つの考えがあった。それはボーイスカウトの主な活動場所となるキャンプ活動も可能な場所の確保である。
細江は所有していたカンポス・ド・ジョルドンにボーイスカウト訓練所を建設することを計画し、日本からブラジルに夢をもってやってきた新来青年(スカウト)たちは訓練所設営の役を与えられたのである。

<ブラジルのボーイスカウト運動の歴史>

ブラジルのボーイスカウト運動の起こりは訪英した二人のブラジル人に起因する。
1909年にイギリスに発注されたブラジル軍艦の建造監督に当たった海軍士官オリンピオ・デ・アルメイダとサンパウロの医師マリオ・カルジンである。英国滞在中にボーイスカウト運動に触れ、その理念に感銘を受けた二人は帰国後ボーイスカウトの設立に奔走した。
1941年11月29日にサンパウロのレプブリカ広場でブラジル・ボーイスカウト協会の創立式が挙行された。
現在のブラジルのスカウト人口は約6万人である。 (堀江剛史記者)

 

 

4. バウー訓練所は自然解散となっていた

  <細江静男氏の理想 理解されず>

       (ニッケイ新聞2003年2月13日越境する日本文化 ボーイスカウト(3) 連載記事より)

 

1956年から始まったバウー訓練所、そして数年後のアルジャー訓練所の創設にはボーイスカウト移民を始め、すでに来伯していた青年、別の理由で細江に呼び寄せられた青年たちも加わった約50人が携わっている。

初期のバウー(訓練所)では制服を着て、野外技能を取り入れたハイキングを行ったり、スカウティング・フォア・ボーイズ(1909年にベーデン・パウエルによって著された。スカウト理念や野外生活法が平易に書かれており、当時の子供たちの心をつかみベストセラーとなったボーイスカウトのバイブル。日本の武士道や道徳などにも触れているところが興味深い)の読書会を開いたりというスカウト活動を行っている。

しかし時が経つにつれて青年たちは養鶏やニンジン作りなどに追われ、月に数回フェイラ(市場)に売りに行き、帰りに日用品や種子を買って帰るという生活を送るようになる。正に開拓生活であった。
戦後の農業経験もない青年たちがその状況に満足していたか。答えは否である。
精神不安定な状態に陥った青年たちの間には自問自答が常にあった。

「何故こんなことをしているのか」「こんな筈ではなかった」「自分たちはこれからどうなるのか」。
鬱々とした空気が蔓延し、血気盛んな二十代の若者のこと、いざこざも多かったという。 
第一回ボーイスカウト移民としてやって来た内田克明は「訓練所創設計画が完遂できなかった理由」として『細江静男先生とその偉業』の中で経済的な理由を挙げている。 

「細江先生の医業(原文ママ)活動による収入の一部をボーイスカウトの生活費に充てることが多くなりー(略)―最後には、細江先生ご家族の財政面まで相当に圧迫したと思われる」 

そして最も注目すべきことは1カ月に一度訓練所を訪れる程度の細江と青年たちとの意志疎通が極度に少なかったことも挙げられるだろう。ボーイスカウト移民としてやってきた青年たちは一様に「細江自身から説明やその理念を聞いたことはなかった」と証言する。

青年のだれも細江の描いているヴィジョンを理解していなかったー。 
当時すでに大所帯になっていたカラムルー隊との関わりも年に数回同地で行われるキャンプでしかなかった。
創立当時からカラムルー隊のスカウトであった阿部カズオは「日本から来た青年たちが訓練所を作っているということは知っていたが、彼たちに関する記憶はあまりない」と当時を振り返り、「やはり言葉の問題が大きかったのでは」と指摘する。

何故、細江はサンパウロで活動していたカラムルー隊と青年たちを積極的に交流させなかったのかー。
当時アルジャーの隊長だった小畑博昭は「細江先生は猪突猛進タイプで自分の考えていることを人に話すような人ではなかった。しかし、日本の若き青年にまず移民たちの辿ってきた生活を体験させ、全てはブラジルに慣れてからという思いがあったのでは」と推測する。

そのころには援護協会、巡回診療などで多忙になっていた細江自身も訓練所建設への情熱を失っていたのだろう、青年たちに職業の斡旋を行ったりもしている。
バウーはアルジャーに吸収され、1963年頃には訓練所計画は頓挫し、あるものはアマゾンへ、またあるものはサンパウロへと訓練所を後にし、自然に解散となっていたのであった。

ボーイスカウト移民とカラムルー隊という同人物・細江静男によって始まった二つの流れは互いに合流することなく、一方は隆盛を極め、もう一方はブラジルの大地に溶け込んでいったのであった。 

アルジャー訓練所にも約一年滞在し、細江の巡回診療に助手として参加、臨終にも立ち会った岩中徹は記者に語った。
「細江先生にとっては期待をかけた青年たちへの失望、訓練所(バウー実修場)の設営が完遂できなかった悔恨もあったろうが、それを最後まで口にした事はなかった」。 (堀江剛史記者)

 

   

 

             ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

《スカウト移民》  (日本ボーイスカウト連盟事務局 関係資料より)

 

1.『ブラジル移民スカウト募集要項』  日本ボーイスカウト連盟事務局 

            (1959・S34 1月号スカウティング誌より抜粋)

  

ブラジル渡航のスカウトは年を追って増加しているが、現地受け入れ態勢の整備とともに更に優秀なるスカウト多数の移住が期待されている。

今秋も近く、渡航のための審査を行うから、移住希望のスカウトは必要書類を整えて至急、日連事務局に申し込まれたい。 

なお昭和34年1月号スカウティング誌上掲載のブラジル移住スカウト募集に関する記事は大変参考になるので、ぜひ参照していただきたい。

 

1) 資格 : 年齢18~25歳までの独身者で登録を完了した1級スカウト以上の

         スカウト・スカウター

2) 提出      戸籍謄本  2通

          写真              2枚 (5x7cm) バックなし 上半身脱帽

          履歴書 

          スカウト歴

          本人決意書

          父兄承諾書

        隊長或いは団委員長 及び 県連盟の推薦書

        身体検査書

3) 期限 : 特に期限を設けないが、近く審査を行うから、本年移住希望者は至急提出

       されたい。

4) 審査 : 日時を定めて、日連事務局で面接を行う。 日時は本人に通知する。

 

 

2.『南米移住スカウトの募集について』 (日連事務局 後藤正紀) 

                          (スカウティング 1959・1 №73より)

 

 ブラジルへ移住するスカウトの募集を1956年に始めて、既に満三か年を経過した。 

その間、日本から彼の地へ渡ったスカウトは、東京13名・岡山1名・愛媛1名・熊本2名・鹿児島2名の計19名に達している。

彼らは何れも大いなる決意のもとに遠く故国を離れてブラジルの社会へ入り、各々の立場に立って素晴らしい業績を上げつつあるが、先回のスカウティングNo.46 に記載した移住スカウトの募集についての一文を見て決心したものの中には、やや誤解して彼の地に渡ったため、意外な苦労をしたスカウトもいたので、更に言い足りなかった面を補足し、又その後の情勢の変わったところも書いて、引き続き元気溌剌たるスカウト諸君が応募してこられるための参考として供したい。

 

 ➀ 日本のスカウトから南米移住者を募集することとなった経緯

 そもそも在留邦人の間にスカウト運動が始まったのは、1952年6月、三島総長がブラジルに立ち寄ってスカウト運動の必要性を説かれたことが、カトリックの信仰深い生活を送り(ブラジル人口の90%は信者)世界の恒久平和に貢献しょうと考えていた人々の共感を得て、さっそくこの実践活動が始められたことによる。

この人々の驚くべき情熱は当初25名をもって組織された日系カラコルム隊を、1,2年間にブラジルの最優秀隊たらしめたのである。 その代表者はサンパウロ在住の医師細江静男氏であるが、氏は実践活動を通じて、ブラジルにおける青少年の健全な育成はスカウト訓育によるのが最上であるとの信念を固く持ち、私財を投じてカンポス・ド・ジョルドンのバウー山麓に広大な土地を購入し、ここをセンターキャンプ場として、この地を世界ボーイスカウト運動のメッカ足らしめんとの意気込みで訓練所の建設に着手した。

これをバウー訓練所と名付けたが、たまたま来伯していた日本ボーイスカウト東京第87団RS隊副隊長小畑博昭氏の人格を見込んで、この管理の一切を託され、日本から優秀なスカウトを呼び寄せてこの仕事に協力して欲しいとの希望が伝えられて来た。

細江静男ドクター、小畑博昭氏ともに識見高く、信頼するに足るスカウターであるので、これは南米移住熱の高まりある昨今、スカウトに対するこの上ない福音であるし、またスカウト運動発展にも誠に喜ばしい計画であるとして、相談を受けた日本連盟ではただちにこれを取り上げ、全国からブラジルへ移住を希望するスカウトを募集することになったのである。

 

バウー訓練所とは、どんな所か

 サンパウロ市からリオデジャネイロに通じる国道を70KMリオに向かった所から北へ折れて高原の道を80KM入った所にあるカンポスの町は海抜1500~2000mで別荘やサナトリウムのある日本でいえば軽井沢のように気候も風景も絶景の地である。ここから更に20KMの地点にある約40町歩の未開拓の農場がバウー訓練所である。

場所といい気候といい、ブラジルでは最もいい所で、この農場では梨・桃・パラナ松の果樹1000本あまり、他に人参・ジャガイモ等野菜を栽培し、乳牛・蜜蜂の飼育も行っている。

日課スカウターとして自然・神聖な教育道場に起居していることを自覚する意味からスカウティングを取り入れて規則正しい、意義のあるものになっている。

ここを乳と蜜の流れる理想的な立体農園足らしめるべくスカウト一同は開拓作業に協力して驚異

的な事業成績をあげている。

ここでスカウト精神をいよいよ強固なものにし、同志的結合を深くし、その間にブラジルの気候風土に慣れ、言葉も覚えて将来ブラジル社会へ巣立っていく基礎を培うのである。

一年前、ここよりサンパウロに近いところに第2農場として数十町歩の土地を購入をし、ここでは乳牛・鶏・豚・魚の飼育を主とすることとし、アルジャーの第2修練場と呼ばれているが、そこにおける生活様式とその趣旨は全くバウー訓練所と同様である。

 

 ➂『渡伯するスカウトの心構えはどうあったらよいか』  

                  (バウー訓練所 小畑博昭氏の手紙より)

 決心と理想が直ちに地について、着伯後ただ専らに自分の生き方を追求し、実践して働いてくれることを念じてやみません。日本で私と共に生活していたころのような楽しいことは、ここに来ればまあないだろうと思います。

修練所の環境はブラジル一の好適地ですが全くの辺境の地で、世界一の修練所の可能性は持っていてもまったく何もないところです。もし私たちに生活の本当の楽しさがあるとするなら無一物の地に建設を進める創造の喜び以外は何もないでしょう。

確かに、私たちの故郷を生涯の憩いの地を築く楽しみと喜びに浸らなければ、強固なバックボーンを一本通した教養ある世界的視野に立った大人物を目指しての修練は出来ないし、それはまず百姓仕事から始めることを銘記しておいてください。

私が指導するのではなくて、自分自身で理想実現のための修練をするのがここの目的です。

みんな青年(ローバー)スカウトであり、スカウターなのです。修練所の建設、開拓を通して自己の

人生をも開拓する方法と精神を学ぶのです。

 

<アドバイス

以前にはバウー修練所で2年間の修練をつんだあと、自分の希望の道へ進むことができると書い

たが、その後ブラジルの移民事情が変わって、最低4か年のここでの修練をしなければならなくな

っている。それにしても、とにかく4か年ここでどうにか過ごせばよいのだという腰掛け的な気分

は絶対禁物であり、口で言えば4か年と一口であるが、その間大変な開拓の苦労をするのであり、

その後ブラジル社会で自分の好きな方向に向かうとは言っても彼の地での仕事はすべてバウーにお

ける生活中に体得した開拓精神というか、それは取りも直さずスカウト精神の真骨頂であるが、そ

の精神を以て、すなわちここの4か年の生活の延長での覚悟で臨まなければならないものである。

いままでの渡伯スカウトの中にはその点をすこぶる安易に考えて、バウーに行けば山中や那須

営場のような設備があり、そこでキャンプ生活をしながら旗を担いでハイクに出る。お膳立ての出来ているスカウティングをするのだということを想像して渡伯した者が1、2名あったのでそれらのスカウトは相当な苦労もしたし、幻滅を感じたようである。

昨年、カラムルー隊の後援者の一人であり細江静男ドクターの親友である大竹氏は仕事で半年あ

まり東京、大阪で生活された。氏は20年ぶりに祖国での生活を送られたのであるが、日本の国情

の変化にすこぶる驚かれ、人々の考え方が植民地的であるのに落胆された。特に東京はまるで昔

の上海の街のようで享楽に満ちている。

このような生活をした青年はブラジルでの生活には耐えられないのではないか、と非常に心配を

して帰られた。食物一つをとっても日本ほどの美味しい食物はブラジルでは到底口にできないそ

うで、渡伯するスカウトは余程な決心がなければならないことを考えるべきである。

 

 

          (関係資料 : 小畑博昭氏 享年80歳 2010年5月18日没 

                            ニッケイ新聞 2010年5月21日付け記事より―

            <事務局長の交代と銃撃事件>  

                1966年9月6日、平井格次事務局長が交通事故で脊髄上部を強打して身体障害を被り、引退を

                与儀なくされた。小畑博昭事務次長が後を引き継ぎ、二代目事務局長に就任した。

                この交代から1年後の67年9月27日、援協本部事務室において事務局長銃撃事件が発生した。

                この事件はノイローゼ患者の青年が国援法申請を執拗に迫り、最終的に小畑事務局長に向かって

                発砲して起きた。

                幸い弾道は急所を外れ、命に別状がなかったため、小畑は弾丸が摘出されないまま翌日から

                平常通りに勤務を続けたが、長期間にわたって世話をした青年であっただけに、

                この一件は援協職員一同に大きなショックを与えた。

 

 ④渡伯スカウト応募手続き・準備等について

 希望者は次頁の書類を日本連盟事務局長宛に送る。書類で一応審査のうえ、面接審査日の連絡があるから面接を受けてのち、資格の有無が決定される。大変面倒なようであるが希望者にとっては何しろ一生の方向を決める大事な事柄であるし、連盟としても外国はスカウトを出すことについては連盟の名誉のためにこれだけの処置をとって万全を期したいのである。

その後、その中から直接必要書類を先方へ送って手続きが開始されるが、渡伯の時期はそれから4,5か月後になると思っておれば間違いない。

渡伯の旅費は呼寄せ移住者として政府から貸付けられるから心配はいらない。向こうでその手続きがすむと、こちらで渡伯のための手続きをすすめるようにとの書類が県の海外協会連合会から本人宛にくるから私と密接な連絡を取りながらこちらでの手続きを進めることとなる。この際の費用が全部で約1万円かかる。これは本人負担である。ほか身の回りの準備品、スカウト用品・作業衣・雨具その他・大工道具一式などが必要である。細かい注意は、面接で渡伯資格決定後に与えられる。

 

 ⑤志あるスカウター諸君の多数の応募を期待する    

 スカウター諸君は自分の人生の目標について既に考えられたと思う。また考えたことのない人は是非とも真剣に考えねばならない。人生の目標は決して名誉をえ、富を得るところにはないはずだ。スカウティングはその目標への人生航路の一里塚だと考えたい。このスカウティングは大自然を訓練としているが、バウー訓練所のごとき恵まれた環境は日本では見いだしえないのみならず、全世界でもなかなかこれに比すべきところはないのではなかろうか。

第一に、そこは余りにも立派な指導者に恵まれている。細江静男氏はじめカラムルー隊々委員の人々は何れも少壮、渡伯して以来、不屈の魂をもって、現在のブラジル社会での有力者としての地位を築き上げてきた。

人格、識見ともに優秀な人たちであり、みなウッドバッジコースをおえられた方ばかりである。小福川氏、大竹氏、ジュルセイプク・アキアール氏、細江ルイザ氏、阿部エリミヤ氏、小畑博昭氏らみな然りである。

第二に、ブラジルの自然は広大の一語に尽きる、かつ未開拓の宝庫である。

第三に、ブラジル社会は民主主義の身についた国で他人のことに干渉せぬことは原野にただ一人立っている如くである。 しかも民族に関する偏見がまったくないことも世界一である。

 

これだけの優れた条件がそろっていて、さらにこの修練所の4か年の修練を終えたのちは後援者たる有力な人々が各人の才能、素質に応じて各々の分野に進むことに援助を惜しまないのである。 この世に生を受けて生きがいある人生を送ろうとするスカウターにとってはこれ以上に魅力ある話はないだろう。

外務省によせられた細江静男氏の事業説明の冒頭に書かれた目的の項には「スカウティングの上に立って役立つ国際的市民を養成し、ブラジルの秩序と発展に貢献し、彼らをして世界恒久平和使徒たらしめんとする」と書かれているが、この目的達成のために日本の優秀なるスカウター諸君の多数の協力を願ってやまないものである。

                      

 ➅バウー訓練所建設5カ年計画              (細江静男記)

 スカウトの移民はすでにご承知のように、到着次第ただちに生産組合の組織員となり、自立自営の生活に入るのでありまして、この点他の青年移民と異なるのであります。到着すると間もなく「自分の事情が他の人と異なるから自由行動をとりたい」などと言い出さないよう、そんなうまい話があろうと(実際はないのですが)スカウトとして小畑君の指導の下に4か年間は共同生活を過ごし、何をするにしてもそれから先であることを特にはっきりさせてブラジルへ送ってください。

小畑君の下で鋤鍬を握って4か年過ごすことが、日本人のためにはバックボーンを作ることでありまして、これ以外に在伯生活の自信をつける道はないのであります。

われわれの団体のみが搾取もなければ、搾取されることもなく、サントスに到着した日から、じぶんが働けばそのまま自分のものであり、自分がその生活において経済的に節約するならば、それだけ自分の得になるわけです。 青年開発隊に行っても、コチヤ移民に行っても自分のために自分が働くのでなく、他人の使用人となるのでありまして4か年たっても自分は無一文なのであります。この点が他の青年移民と異なるのですから、はっきり認識させて寄越してください。

予定のように毎年7月に一回、日連と貴方の推薦によって渡伯したローバースカウト全員が、バウー訓練所に集まって大集会を開くのであります。本年(1959)は7月8日に実施しました。小畑君も通知してきたでありましょうが理想的に行きました。

9日から12日まで4日間にわたり、キャンピング、営火等、思うままの活動を行い、11日の午後はキャンプ場の定礎式、12日は閉会式でした。

貴方のもとを発つ時の決心、小生の所へ着いた時の決心、小畑君のもとで修練生活に専心する日々の決心、この決心が何時も直線でなくてはならないと思います。

バウー生産組合の誕生を期して、いよいよわれわれ待望の的であったバウー訓練所の建設に着手することになりました。

1959年-60年6月までに、センターキャンプ場を造り、なお水道の完成、運動場の建設をしたいと思います。

1960年7月-1961年6月が第二年目の計画で、スカウトの集会所および宿泊所を2軒立てます。

教会は第一年度より着手、5カ年計画で素晴らしいものを建てるつもりです。スカウトの家族および幹部の宿泊所は第4-5年度の計画です。

以上の計画を実現するのに大体1万コントス(245万円)を必要とします。我々が逆立ちしても、これだけの余剰金を稼ぎ出せません。そこで5カ年間にこれを分け、2000コントスづつ毎年寄付金で集めたいと思います。

そこで何よりも仕事に着手しなければなりませんので、日伯人の学童を集めて60年の正月から夏期教養学校(林間学校)をスカウトのテクニックによって開設します。

したがってセンターキャンプ場は何をおいても造らねばならないのです。

これは将来、日本内地の方々の協力も必要とします。このことは将来のことでありまして、小畑君はじめ隊員一同感激、おおいにやる決心を固めました。

 

 

 

  細江静男生誕120年記念ポスター      カラムルー隊の指導者と共に 細江静男医師(左端)

(バウー訓練所に立つカラムルー隊創設者)     右端・小畑博昭氏(バウー訓練所指導者)

  バウー山(標高2000m)を背景に 

       1901~2021                  1955

 

         

         ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

《ブラジル・サンパウロ日系新聞抜粋》

 

 ■ バウ修練所・建設計画第一報    (パウリスタ新聞 1960年の記事より転載)            

 

スカウティズムを通じて青少年の訓育を・・・と細江静男ドクターらを中心にボーイスカウト・カラムルー隊(日系)が生まれたのが6年前(1953)。 サンパウロから200Km、ブラジルのスイスと言われるカンポス・ド・ジョルドン高原から24Kmのバウーにボーイスカウト基地がつくられたが、ここをさらに拡張して広くブラジルの青少年に開放し、だれでも参加できる林間学校を開き、健康な楽しい共同生活を体験させようとバウー訓練所5カ年計画(1959~)がたてられた。その第一段階として礼拝堂の建設定礎式が11日に行われた。

当日はブラジル側からブラジル・エスコテイロ(ボーイスカウト)連盟総裁であるジョゼー・フィーリョ・デ・アウラージョ提督(海軍中将)、同連盟オレスト・ビーノ訓練隊長、同委員長のドトール・エンジネ・ワルテルらの幹部が茶色のボーイスカウトの制服で姿を見せ、強い関心を寄せ、関係者に強い感銘を与えた。

サンパウロからは農拓協の熊氏、同小山パラナ訓練所長、ブラ拓の阿部、芳賀、川添の諸氏など、ボーイスカウト・カラムルー隊の協力者、地元からは教会のパードレー(神父)やドトール・シューツ市長、荒垣市議(市会代表)ら総勢150名余りが参加した。

予定より遅れて午後2時から礼拝堂の定礎式とミサが行われた。午後4時からは彼らの手で用意された野外シュラスコに参加者一同頬をほほ張り、標高1800mと言われる澄んだ高原の空気に浸りながらこの完成について花を咲かせ、努力することを誓い合った。

夜はキャンプファイヤーを囲んでの隊員たちの余興に腹を抱え、ふけゆく高原の夜を惜しんだ。11日の最低気温2度5分、最高気温22度という好条件に恵まれた自然に囲まれたこの訓練所に青少年の夏期学校を開くということは、次代を背負うものの訓練所としての生活環境は完璧である。子弟の教育に関心を寄せる者だけではなく、今やブラジル政府からも大きな関心を寄せられ、同地をブラジル・ボーイスクト・センターにするという熱の入れ方だ。

  

 ■ 『目指すは“よき市民”を』      (パウリスタ新聞 1960年の記事より転載)

 

日系サナトリウムのあることで日系コロニアでも知られている高原の町カンポス・ド・ジョルドンに昨年(1959)11月3日に「カーザ・プログレッソ」という看板のささやかなセッコス・イ・モリヤードスの店が開業した。

いまここには三人のいきのいい日系青年が働いている。ところで店にはパトロンガいる様子もなく、またこの三人の青年もエンプレガード(従業員)でもないようだ。町の人ははじめ不思議に思った。しかしエスコテイロ(ボーイスカウト)達だと聞かされて、バウーの連中かと、はじめて合点がいったらしい。

そうわかれば、パトロンがいなくても、またエンプレガードでなくても、少しも変でない。カンポス・ド・ジョルドンから24Km離れたバウーの山麓に日系ボーイスカウト達のキャンプ基地が作られたのは4年前(1956年)のことだ。ブラジル日系ボーイスカウト育ての親は道庵先生こと細江静男ドクターだ。

青少年をよき市民として育て上げてゆくのにはスカウティズムに限ると考え、日本から渡伯希望のボーイスカウトを呼び寄せ、彼らを中心に現地の2世、幼少年を加えてカラムルー隊が作られた。細江道庵先生にとっては寝ても覚めてもボーイスカウトで頭がいっぱいだ。専門の医者の仕事もボーイスカウトの資金つくりのために働いているといって良いほどだ。こんど発刊した「薬名辞典」という本の売り上げもすべてをボーイスカウト運動につぎ込むためだというから、その熱意のほどがわかろう。

バウーの基地の21アルケール(アール)、ラジアードの6アルケール、アルジャーのシャーカラ28アルケールすべてボーイスカウトのために提供している。

細江先生はスカウティズムについてこう説明している。スカウティズムによる青少年、幼年の訓練は彼らの発育に順応し、ことに知育の発育状態をよく観測していくつかの組に分類し、一番環境の影響を受けやすい幼少年時代を利用して、一番難しい共同生活の練習を行い、協力ということが習慣となるまでに徹底せしめるのである。思春期から独立可能な年齢、つまり18,9歳から25歳までに成熟してきた心身の能力を利用し、それぞれの個性を生かし、教養も知能も体力も立派な市民になれる能力を添えるのであって、引っ張っていく教育ではなく道を誤らないように指示と力を添えてやる指導なのである。

 

                パウリスタ新聞(ニッケイ新聞の前身)

 

 

 

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《バウー訓練所滞在記》     後藤實久記   (1965年渡伯)

第1期移民スカウト内田克明氏が示された細江静男医師の<スカウト移民・バウー訓練所計画案1956>は、最初期のスカウト移民以外には示されていなかったようである。 

その後、1959年に細江静男医師によって作成され、スカウティング誌に発表された<バウー修練所建設5カ年計画1959~1964>こそが、わたしをブラジルへかりたてた決定的動機であった。

だが、渡伯した1965年当時、すでに述べたように1960年初頭、スカウト移民の理想郷であったバウー訓練所は解散していたという事実である。

その後、歳月は流れ、1996年、事業に従事していたアメリカ・ニューヨークへ、ブラジル・サンパウロ在住の大学の先輩・清水尚久氏から送られてきた「細江静男先生とその遺業」に記された先輩諸氏の寄稿により31年目にして初めて<スカウト移民>の全容を知ることとなった。

 後年、2007年、私はライフワークである<星の巡礼>の一環として南米を訪れ、サンパウロで第1期スカウト移民である内田克明氏家族と共に、共通の恩人で会った故清水尚久氏の墓所に参ったことがあった。 この際、ご家族との楽しい時間を過ごすことはできても、バウー訓練所や移住スカウトの消息や活躍については一切口にされなかったし、こちらも先輩の心情を察し、一切の話題を封印したものである。

スカウト移民と言う一つの人生の転機も、それぞれの人生において占めるウエイトによってさまざまな人生劇場を織りなしているのだと思うと、その後の人生でスカウト移民から脱した者としては、これ以上の詮索を取りやめることにし、当事者たちの証言と、新聞連載の記事、そして1965~1966年の間、滞在したバウー訓練所での活動実態だけを記すことにしたい。

 

ただ、日本ボーイスカウト運動史上、短期間であったが、<スカウト移民>が存在したことだけは、取り上げておきたかったのである。 わずか数年間(1956~1961)の公式なスカウト移民受入れであったが、<スカウト移民>を日伯両国のスカウト運動史の片隅にレガシ(遺産)ではなく、活動実体があった(プログラム)として残されることを願うものである。

 

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同志社大学ローバースカウト隊発団60周年記念事業<2011中山道てくてくラリー>踏破の途上、夜明け前のここ中津川の郷は、三日月が風に揺れて泣き笑いしている。

この木曽谷に出る月に問いかけて島崎藤村『夜明け前』を書いたのであろう。 

思うにわたしも藤村の影響を受けた一人であったのである。

藤村は、木曽路と言う狭い土地柄(世界)を描写しつつ自由、解放を叫んでいた。

呼寄せ人であった細江静男医師もまた、ここ中津川宿からそう遠くない同じ飛騨の下呂町和佐の出である。

わたしも少年時代から、朝鮮半島の地に赴任した両親に連れられ海外生活を経験し、日本という狭い世界から海外へと旅立つことを夢見ていた一人であった。

 

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同志社大学ローバースカウト隊のユニフォームを着て1965年8月30日、神戸港より最後の移民船<ぶらじる丸>で家族や仲間、スカウト関係者に見送られ出港したのが若き23才の時だったことを、藤村の生誕地、馬籠で懐かしく思い出した。

 

1965年、最後のスカウト移民の一人として、カンポス・ド・ジョルダンにあるバウー訓練所に入所した。

 

               ぶらじる丸1965年8月30日神戸埠頭出航

 

             ブラジル丸南米移民乗船者渡航記念写真 (45名)

                     神戸移民センター

 

1955年当時、ボーイスカウト日本連盟には、大学や地域のローバースカウト(青年隊員)が多く参加していた。ブラジルのサンパウロにある日伯援護協会設立者であり、ブラジル・ボーイスカウト連盟、サンパウロ・カラムル隊創立者である細江静男ドクターの要請によりブラジル日系スカウトの指導者として日本のローバースカウトを呼び寄せたい旨を日本連盟に提案、青年のエネルギー(情熱と夢)を大陸で花開かす機会ととらえた日本連盟の当時の三島通陽総長(第4代総長)、久留島秀三郎理事長(第5代総長)、小林運美事務局長らは、ブラジル側とのローバー交流協定を結び、<スカウト移民>が実現した。

 

         第4代総長 三島通陽            カラムルー隊創設 細江静男

        日本ボーイスカウト連盟              スカウト移民提唱者

 

         <スカウト移民>推進当時のボーイスカウト日本連盟指導者

     左より三島通陽総長・小林運美事務局長・皇太子夫妻・久留島秀三郎理事長

            1962年8月 第三回日本ジャンボリ―御殿場にて


しかし、1956年から、5年間続いたスカウト移民は、1960年初頭には全員バウー訓練所を去り、財団法人に移管されたことはすでに述べた。 

また、バウー訓練所解散の事情や経緯も、すでに先輩の証言として取り上げた。

 

わたしは、解散後のバウー訓練所へ入所したのである。 

最後のスカウト移民というよりも、理想実現を手助けしてやろうという細江静男医師の個人的呼寄せと言う善意の形で、解散後のバウー訓練所に着任したということになる。

この間(1956年第1回派遣より1960年初頭)に、正式に29名のローバー・スカウトが<スカウト移民>として渡伯していた。

彼らは、サンパウロ市とリオデジャネイロの中間にある避暑地カンポス・ド・ジョルドンで軽井沢のような地にあった細江静男医師所有のバウー山塊の麓(標高1900m)を切り開き、ボーイスカウトの理想郷建設を目指し、スカウト用キャンプ場の建設にあたる一方、農業や牧場、果樹園に従事し、自活生活を目指していた。

 

 

              バウー訓練所ゲート と ウエルカム・シンボル

 

          バウー訓練所を取り巻く懐かしのパラナ松ピーニョ< Pinho>

 

    細江静男夫妻(左3・4人目)と 第1次スカウト移住者たち(バウー訓練所でバウー山を背景に)

                       1956/12

 

 

しかし、先輩諸氏の証言によると、バウー訓練所の自営独立は、気候を含めた諸条件や指導者の問題、運営資金不足など複合的な条件の重なりであったようで、結局は細江静男医師の資金援助なくして成り立たなかったようである。

そして計画によると、スカウト移民は、バウー訓練所でブラジル社会へ溶け込む時間を過ごした後、独立・就職への道へ進むことになっていたが、当初の理念と目的が現実と大きく隔たっていったと証言されている。

 

1965年当時のバウー訓練所は、財団法人に引継がれ、細江静男医師と同県人の小池潔夫妻(岐阜出身)とその実弟の三人で管理されていた。 そして、使用人としてカボクロ(原住民)ホセ夫婦が手伝っていた。

 

                       

                   バウー訓練所シンボルマーク

                     <PEDRA DO BAU>

 

            バウー訓練所<CAMPO ”PEDRA DO BAU”>建設計画図

          1  本館(食堂兼集会場)   5 室内体操場    9 貯水池

          2  礼拝堂(チャペル)       6 野営場             10 事務所(管理棟)

          3  宿泊所                             7 営火場             11 ホテル

          4  道場         8 運動場     12/13 運動場・野外集会場

 

               

                                 バウー訓練所 案内概略図

 

                                                               

                                バウー訓練所のスタンプ

                    CAMPO PEDRA DO BAU

                   -CAMPOS DO JORDAO-

 

                             

            バウー訓練所(ブラジル・サンパウロ州)所在地図

 

わたしは1960年初頭のバウー訓練所の解散から4年間中止に追い込まれていた訓練所の各種施設の継続建設と増設に管理人小池潔氏を助け、ひとり汗することとなった。 その内容は、管理者小池潔氏の指導のもと、建設中の教会堂の完成、集会所の水洗トイレの浄化槽設置、薪ストーブによる温水シャワーの配管、谷水の圧縮ポンプによる揚水装置の完成、キャンプサイトの森林開拓などであった。

 

       

                 バウー訓練所管理人 小池潔夫妻と              

                   カンポス・ド・ジョルドン 1965

 

   

                 バウー訓練所のチャペル(教会堂)

               右端にバウー山の頂(標高2000m)が見える

 

 

     本館(中央棟)建築作業中             キャンプサイト開拓中

 

                本館(中央棟)ー 屋内集会所兼食堂

 

                    管理棟(事務所)

 

夜間は、ランプのもと、依頼されていた養鱒技術をバウー訓練所の管理人小池潔氏に伝えた。

 

生活は、乗馬訓練、射撃訓練、果樹園の手入れ、乳搾り(チーズ作り)、施設建設、森林開拓など現地ブラジルでの自立を目指すための基礎的な技術と知識を学んだ。

 

夜はランプ生活、ドラム缶風呂からみる南十字星の幻想的な美しさかがいまでも忘れられない。

牛泥棒との対決、馬に跨がり買物のため麓に下山、帰りが真夜中になり馬上で居眠りしていると乗り手を枝に宙吊りにして馬はさっさと行ってしまった時の慌てようと言ったら滑稽である。

馬は実に賢い、一度通った道は暗闇でもわかるのである。

 

      

      裸馬にまたがり買物に下山したカンピスタ村- Vila Campista-と 村の子供達

     

 

                  バウー山ボランティア登山ガイドとして           バウー山(標高2000m)

       サンパウロ・南米教会の青年会みなさんと山小屋前で

 

危険なこともあった、小池潔氏の実弟から自衛のためのピストルの使い方を教わっていたとき、弾丸は抜いていたはずだが、冗談にもわたしの顔を狙って引き金を引いたものだから大変なことになってしまった。

念のため銃口に左手をあてていたので弾丸は螺旋状に急速回転しながら掌を貫きわたしの顔をそれ、後ろの壁にめり込んだ。 弾丸が一発残っていたのだ。

人はいつも死と隣り合わせであることを学んだ。

 

スカウト移民としてバウー訓練所で過ごした先輩たちが書き残した資料によると、解散までの移民スカウトであったローバー達の訓練所生活は、スカウト訓練というよりも、各自の生活維持に重きが置かれ、梨の出荷や、採乳などで生活費を稼ぐことで精一杯であったという。

スカウト移民たちも、バウー訓練所の理想郷の崩壊に、バウーを後にして1960年初頭のブラジル社会へと溶け込んでいかざるをえなかったとある。

 

スカウト移民提唱者であり、後半生のメインテーマとしてスカウト移民に尽くされた細江静男医師の壮大な計画とスカウト移民の夢実現は、いまなお後世に引き継がれていることと確信している。

それは関係した少なくないスカウト移民のこころに、その偉大な計画に賛同したという現実と、夢実現のため行動を起したという己の動機を信じるからである。

 

鱒の話だが、当時南米ではアルゼンチンだけに生息していた鱒の稚魚を取り寄せ失敗を繰り返したが、現在、バウー訓練所の管理人を辞し、カンポス・ド・ジョルドンで養鱒業を営でおられる小池潔氏は、レストランに卸せるほどの養鱒場を経営されていると風の便りに聞いている。

ちなみにわたしに養鱒の技術を教えていただいたのは、京都八瀬・高瀬川・観音寺橋から入った<鱒の坊>の先代である。養鱒の知識や技術を同じ小屋に泊まり込んで教えていただいたものである。 とくに鱒同士が共食いする獰猛な習性を知った時の驚きが思い出される。

 

バウー訓練所での任務を終えて、サンパウロに移り、多くの方々にお世話になった。

同志社の先輩 清水尚久氏(愛媛県西宇和市出身1998年11月30日没 享年87歳)の紹介で、スカウト移民先輩の内田克明氏と同じ下宿先を、また就職先<書店 太陽堂>をご紹介いただき、夜間はポルトゲス(ブラジル語)の学校に通った。 

休日は<南米教会青年部>に所属し、日系二・三世からブラジル事情を学び、教会員であった同郷人(彦根)で移民一世の北村省三・智夫妻(故人)や、同志社先輩 大橋氏からは、移民としての心構え(精神)を学んだ。

また、勤務先<太陽堂>専務 山田健寿郎氏(愛知県人・2017年10月17日没)からはブラジル経済の見通しや、ブラジルでの商売の仕組みや、取引の仕方を学んだ。

お世話になったみなさんとは生涯のお付合いをさせていただき、互いに行き来が終生続いた。こころからお一人お一人に感謝申し上げる次第である。また、すでに鬼籍に入られた諸先輩に哀悼の念を捧げるものである。

スカウト移民に対しても、多くの日系先輩の温かい支援があった事を申し添えておきたい。

 

 

  同志社先輩 清水尚久氏ご夫妻と 1989     太陽堂 山田健寿郎・オルガご夫妻と 1989

             サンパウロご自宅前で             サンパウロご自宅前で

 

 

       同郷先輩(彦根) 北村省三・智ご夫妻と 1989             内田克明・美恵(よしえ)ご夫妻と 2007

     カンポス・ド・ジョルドンご自宅で           故清水尚久氏墓前にて

 

かかるブラジル社会への準備にとりかかっているさなか、京都にある学校法人の短大開設計画に参加することになり、1966年帰国を決意。 その後、短大開設の準備を終え、1972年、永住地アメリカ・ニューヨークに渡った。

 

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2011年5月9日 同志社ローバースカウト結成50周年記念事業である<中山道てくてくラリー>で休息日として滞在している中津川のユースホステルで、時間を見つけて<スカウト移民小史>の備忘録作りとあいなった。

わたしもようやく老境にさしかかっているのだろう。 今日は昨日と同じく28度の真夏日になりそうだ。 ここ中津川にある<木曽路ふるさとユースホステルで疲れをとるため連泊している。

 

<スカウト移民>という壮大な計画が、志半ばで挫折した無念さを胸にしまい込み、生存中のスカウト移民諸先輩のコメントがあとに続くことを期待しながら<スカウト移民小史 序章>としたい。

 

明日5月10日からは三ケ日続けて雨らしい。

飛騨の木曽路、恵那山の麓に広がる棚田に山水がひかれ、蛙の大合唱だ。

<スカウト移民の父>である細江静男医師も、ここ飛騨の下呂町和佐に里帰りされ、木曽谷の山水を愛でておられることであろう。 ご冥福を祈るものである。

 

    (2011年5月9日 同志社ローバー創立50周年記念 中山道てくてくラリー途上 中津川宿にて)

 

         

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<スカウト移民小史 序章>を書き上げて10年の歳月がたち、老齢に達したいま<スカウト移民小史 序章>を公にしておくべきだと判断、ブログ掲載に踏み切った次第である。

なお、<スカウト移民>に関する情報・コメント・資料・写真等をお持ちの場合、下記へご連絡又は添付願えたら幸いである。

 弥栄

 

<Scout Immigrant History / Imigração Escoteira>

Já se passaram 10 anos desde que escrevi o prólogo de <Scout Immigrant History>, e agora que cheguei à velhice, decidi que <Scout Immigrant Short History> deveria ser tornado público e decidi publicá-lo.

Além disso, se você tiver informações, comentários, materiais, fotos, etc. sobre <imigração escoteira>, agradeceríamos se você pudesse entrar em contato conosco ou enviá-los para o seguinte.

Iyasaka

Sep.17,  2022 at Biwa Lake, in Japan

Sanehisa Goto    e-mail address: sanegoto1941@yahoo.co.jp

 

 

 

2022(令和4)年9月吉日 

同志社ローバー創立60周年記念日を前に 

後藤實久(同志社ローバーOGOB会 60年度生)

連絡・資料・写真送付先  :  sanegoto1941@yahoo.co.jp

 

 

 

           ボーイスカウト移民小史  序章》