shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2004『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』②<西安⇒ウルムチ/烏魯木齊 >

星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』②前編 
       星の巡礼者 後藤實久

  シルクロード踏破 西安ウルムチ/烏魯木齊>

 

 

《 8月6日 快晴  列車移動 K119 西安8/5 22:32発 ⇒ 蘭州8/6 07:06着 》

 

< 蘭州 Lan Zhou >
蘭州の街は、太陽が美しい。 緑すくなく、黄河の水は黄濁で野生の表情を見せている。
蘭州は、甘粛省省都、人口約300万人、工業都市であり大気汚染による都市公害の問題を抱えている。西安より西へ約600㎞の地点にあり、海抜1510mの黄土高原にある都市でもある。
また、中国のヘソといわれるように、ちょうど中国の中心に位置する。


< ▲「蘭山賓館」 蘭州駅前 火車駅東路北側 二人部屋 26元 >

列車は、蘭州に朝7時過ぎに到着した。
硬臥(寝台車)での同室者のスイス人バックパッカー・ジェフ君と共に、駅前の「蘭山賓館」に泊まることにした。二人部屋で@26元に、キーデポジット20元が必要であるという。
ジェフ君は、7か月の中国滞在の後、わたしと同じくシルクロードをたどり帰国するとのこと。 旅先の情報を交換することが出来た。
部屋は清潔で、鍵をかけられるのがいい。駅前だから盗難に神経質にならざるを得ない。
部屋に荷物を置いて、各自それぞれのスケジュールに従うことになった。

 

世界遺産 炳霊寺石窟 入場料30元>(へいれいじせっくつ)

「炳霊寺石窟」に行くことにしていたので、まず近くの「甘粛省中国国際旅行社」で40元の「甘粛省バス旅行保険」を購入し、蘭州西バースターミナルに向かい、路線バスで2時間かけ「刘家峡水庫」に向かい。30元を支払って、黄河の快速艇に乗り換えて、炳霊寺石窟に向かった。

その時の情景を日記に次のように書き留めている。
<いまわれ黄河を快速艇(定員9名)で遡上、水緑にして澄み、両岸の山並み低く、山肌むきだして丸み帯び、樹木の影すら見当たらない千仏、万仏の存する霊魂あらたなる聖地なり。 50㎞先に向かう快速艇、飛魚のごとくにて、これまた楽しけり。
なぜかかる人里離れし千古の崖に千仏を彫りしか。 古人の知恵なりしか。
この風いずこより来たりて、風われをいずこへ導きしや。>

どのような理由で、この地で仏教が迫害されたとはいえ、 このような辺境といえる奥地で仏像を岸壁に彫り、また洞窟を堀ってそこに仏を彫るということは、余程の篤い信仰心がなければできないことである。
信仰心、それは自分の命を捧げるほどの何物をも突き動かすエネルギーである。
トルコのカッパドキアの地下都市、インドのアジャンダーやエローラの洞窟でも見てきたように、信仰はその信念を貫き通さずにはおかないのであろう。
「炳霊寺石窟」の諸仏に圧倒されるとともに、畏敬の念に心がふるえた。

帰路は、バス待ちの2人と共に三輪オートタクシー(リークシャー@12元)を貸切り、歌を高らかに合唱しながら和気あいあいと蘭州に帰った。
ここでは東南アジアのようにホーンでブーブー鳴らさず、軽業的運転で優位を保とうとするものだから命が縮む思いである。

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            劉家峡ダムから黄河を船で柄霊寺石窟へ向かう

 

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                     柄霊寺石窟の大仏前で

世界遺産・炳霊寺石窟は、蘭州(らんしゅう)黄河北岸、積石山にある約2kmの石窟群である。
険しい岩壁にあったためイスラムによる破壊や外国への持ち出しからまぬがれた貴重な仏像が190あまりの石窟に、大小700体近くの仏像が残されている。

 

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                      柄霊寺石窟室前で

 

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              柄霊寺石窟のスケッチ Sketched by Sanehisa Goto

 

 

《 蘭州散策 8月7日 快晴 》

 

朝だというのにこの耐えられない暑さ、体感で42度か、目まいとともに汗が噴き出るのである。

宿泊先「蘭山賓館」をチェックアウトし、 列車の発車である20:40まで蘭州駅にバックパックを預け、駅の裏に連なる商店街を散策。 商店の軒先を借りてスケッチをする。
スケッチの間に、今回のシルクロードのスケッチに押印する印鑑を作ることにした。

 

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            軽業的な彫師にかかると印章も芸術的である

 

スケッチをしていると、珍しいのであろうか、街ゆく婦人が扇子で煽ってくれたり、軒先を借りた主人は椅子をすすめ、茶を出してくれた。このような時間には国境はなく、民族の違いもなく、社会体制の違いもない。 世界は一つなのである。

朝食の蘭州ラーメンはあっさり味だ。 しかしどこで食べても同じ味というのはいただけない。 日本のラーメンが懐かしい。
ラーメンを食べていると、地元の高校の歴史の先生が、紙と鉛筆をもって筆談にやってきた。 中国の共産党政権をどう思うかという内容である。 当地の政権を語ることはタブーであるので、日本の政権について語って鉾をおさめた。 写真を撮り、スケッチをするわたしを好ましく思っていないかもしれないのだ。 これも海外旅行する上での危機回避・打開の一つの知恵である。
特にスケッチやカメラによる撮影には注意を要する。駅や港、地下鉄、路線などは明確な軍事拠点と指定されているので避けるのであるが、風景を撮っているつもりでもその風景に軍事拠点が隠されたりしているからである。
私服警官や警務が寄ってきて、フイルムのチェックをするが、それは露光して消してしまうことを意味する。
撮影時は十分気を付けることである。スパイとして裁判にかけられたり強制送還されることもあるので心したい。

「公共厠所」(WC/トイレ)は、街の至る所にあり、ほとんどが自営有料である。 一片のトイレットペーパーをもらい厠に入るが水洗で意外と清潔である。都市部を離れた地方での囲いの中に穴を掘り、二本の板を渡した肥壺型とは違ってよく使ったものだ。
時として大便所に扉がなく、小便の方を見ることになり落ち着いて用を足せないこともある。青空の下であれば解放感もあるというものだが、人の目のあるところでの用足しになれていない者にとっては、苦痛である。

 

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            蘭州 五保山自由市場  Sketched by Sanehisa Goto

 

<蘭州8/7 -20:40発 ⇒ 嘉峪関 8/8 -23:08着  硬臥N-908 7号‐17C上段>

 


《 嘉峪関散策 8月8日 快晴 》

05:45 硬臥N-908 7号‐17C上段で目覚める。
陽がまさに東に昇らんとする頃、列車は祁連山脈を南に、北にゴビ砂漠を見ながら河西回路の横を西に向けて駆け抜けていく。

 

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             河西回路の田園風景 Sketched by Sanehisa Goto

 


                 < 緑の島オアシス 嘉峪関 >
                     詩 後藤實久

             走る列車 東の陽を浴びゴビの大地を滑りゆき
             霞み立つ遠景に 白き百姓の家 光りてまぶし
             祁連の峰々 雪をいだきて 白雲と解け合いて
             水無き乾燥の地に 緑の島 嘉峪関我を迎えし

 

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          万年雪を冠する祁連山脈の峰々 Sketched by Sanehisa Goto


河西回路は、チベット高原北西端に接する細長い形の地域・交通路で、黄河の西側にある。
東西の文物交流の道・シルクロードの一部としての河西回路は、内陸の天山山脈崑崙山脈山麓のオアシスルートに連なる重要な回路(道路)であった。

 

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  祁連山脈に沿って走るシルクロード「河西回路・国道312号線と鉄路」 Sketched by Sanehisa Goto

明の初期14世紀にモンゴル族の侵入を防ぐため万里の長城が築かれた。
嘉峪関は、この万里の長城の西の端に位置する。18世紀半ば、清がモンゴルを支配して以来、万里の長城は捨て置かれていたが、嘉峪関は、西の防衛の要であったと同時に、東西のシルクロードの要衝であった。
嘉峪関は砂漠が極端に狭くなり、南、北ともに険しい山岳が迫ってきてかつ河は深く自然の要塞であった。

 

<オートリクシャーで嘉峪関を巡る>
街を流していたオートリクシャー(三輪タクシー)と青年寶館を起点に世界遺産嘉峪関、懸壁長城、万里長城第一の三ヶ所周遊チャーターで筆談交渉、45元で成立した。
風に吹かれながら、ゴビ砂漠の砂を浴びるという長年の夢がかなって、約30kmのリークシャーによるガタピシ冒険旅行に歓喜の声をあげた。
砂漠に開けた嘉峪関は新興の街であり、道幅が広く、まるでアフリカのケニアの村にいるような錯覚に陥った。
懸壁長城では歩きまわらず、スケッチに没頭。 あまりの暑さに木陰に入って、マッカウリを半分に切って、ドライバー君とシェアーし、露店で冷えた「西涼啤酒」と木綿豆腐をいただき、昼食とする。
少し酔いが回ると、ゴビの土の匂いが格別にうまい。
ゴビ砂漠の空気を奥深くに吸い込んでみた。

 

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          オートリクシャーで世界遺産嘉峪関・万里長城第一墩を巡る

 

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           世界遺産嘉峪関 万里長城第一墩 Sketched by Sanehisa Goto

 

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            世界遺産嘉峪関の遺跡群 Sketched by Sanehisa Goto

 

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            マッカウリの美味かったこと 生ぬるい西涼啤酒に驚き

 

美味しいマッカウリを食べながら思い出したが、蘭州で夕食をとった時、とてもサービスが良く、美味しかったのでチップ2元をテーブルにおいて店を出たら、店主が追いかけてきてチップを返すという。
こちらは感謝の気持であったが、店主としてはプライドからかどうしても受け取らないという。笑顔をかわし、握手して、お礼を言って別れたことを思い出していた。
ニューヨークに住んでいた時、友人の接待でマンハッタンのステーキハウスで食事をしたあと、清算して店を出て歩き出したとき、ウエイトレスが大声で飛び出してきてチップを置いていけという。お互いの行き違いからのトラブルであったが、米中のサービスの在り方や評価の仕方、感謝の表現方法の違いに驚かされるのである。
サービス一つにしても、国・人種・宗教・体制などによって異なることを知っておくべきである。

リークシャー(三輪タクシー)による熱砂の冒険旅行を終え、西部開拓の街を思わせる嘉峪関の街に戻り、▲「青年寶館」(ユースホステル)のドーム(三人部屋)に30元で泊まることにした。 この一夜、またどのような出会いが訪れるのかと胸が高鳴る。

祁連山脈の万年雪の溶けた水でのシャワー、真夏とはいえども声をあげるほど冷たかった。
しかし、お昼に飲んだ「西涼啤酒」のあのぬるさは何だったのだろうか。この日の中国のビールによって、ビールは生暖かいものであることに気づかされることになった。
このように素晴らしい天然の雪解け水があるのに、ビールを冷やさないなんて・・・

「青年寶館」では、結局待ち人(同室者)来たらず一人で3人部屋を独占することになり、新聞を取り上げサッカーアジアカップの日本VS中国の結果を調べてみたが、新聞は1か月前のもので役立たずである。
眠るにも北京との3時間の差があるのかなかなか日が暮れない。
ベッドにシルクロードの資料を広げ、次なる訪問地「敦煌」に夢を馳せた。


< クーニャン(姑娘)との淡い友情 >
嘉峪関「青年寶館」(ユースホステル)を出て左へすぐのところに定食屋さんがある。
そこに、歳は幾つぐらいだろうかボーイッシュスタイルで、丸顔、はにかみ屋さんで、しっかり者の看板娘がいる。
しっかり者であるが、わたしのところに注文を取りに来た時など口数少なく伏目がちである。
こちらも素敵な娘さんだなという第一印象を持ったと同時に、彼女のボーイフレンドを想い描いていた。
昼に続き、夕食のため立ち寄った時、「你来自哪里? “あなたはどこからこられたのですか”」という一片の紙を渡された。
「我来自日本、我要去罗马 “日本から来ました。これからローマへ行きます”」 と筆談である。
目を大きく見開き驚く様子で、夢おおき乙女のうらやましい眼差しを向けてきた。

いつの旅行にも、このように素敵な女の子との淡い友情の交歓を持つのである。至福の時間である。
幸せは自分で見つけ、自分で気づかなければ心の中に留まってはくれない、と思うだけで旅は楽しいものになるのである。
帰りのオートリ―クシャの吹き抜けの助手席ではしゃぐ顔の頬に、ゴビ砂漠の乾燥した砂交じりの風が打ち付けてきた。

 

ゴビ砂漠での体調>

ゴビ砂漠は標高が高く、大陸性気候による快晴が続くので、埃っぽさで目や、鼻が乾燥し、喉の痛みを覚える。また、目に潤いが無くなるので、目薬・点鼻用スプレーやのど飴、リップスティックを準備しておくのもよい。
腹の具合は、便秘気味になるので、寝る前に軟便剤を服用することにしていた。緊急用として、浣腸を携行した。
虫刺されは、蚊にではなく小さな蚋(ブヨ)によく刺され、掻き後の傷口にステロイド入りオイントメントを塗ってしのいだ。

夜になると虫たちも姿を消し、敦煌ゴビ砂漠の地平線上には下弦の月が顔を出すとともに、夜空の星座が星たちを従えて賑やかである。星たちの何万年前の瞬きが、ここシルクロードにいるわたしの目に届く一瞬である。

 

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      敦煌の夜空から賑やかな星たちの歌声が聴こえてくる Sketched by Sanehisa Goto

 

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             ゴビ砂漠は、オアシス都市 敦煌の景色でもある

 

アジアカップサッカーにみる共産国愛国心
日本が中国に3:1で勝ち、優勝したとテレビのニュースで伝えていた。
中国の悔しさはが伝わるように、勝敗に関するニュースは朝の一回限りの放映であった。昨夕の試合会場は、「中国必勝」の赤ハチマキで埋まり、赤色軍団の凄まじい応援に興奮は最高潮に達していた。
共産国としては人心をまとめる最高の好機であったといえようが、今朝は打って変わって国中がそのような試合はなかったのごとく扱いである。中国の選手たちは肩身の狭い思いでいるのではないだろうか。


<8月9日 敦煌 ― 雨 嘉峪関 ⇒ 敦煌09:00着  列車#107 座席02 46元>

敦煌の近郊では、シルクロードの集大成である中国三大石窟の一つ砂漠の大画廊といわれる「莫高窟」(ばっこうくつ)や、鳴砂山、月牙泉があり、今回はこの三ヶ所を探索してみたい。 

 


《 8月9・10日  敦煌2泊 》

 

敦煌 『飛天賓館』 ユースホステル Room215 @30元
飛天賓館の斜め左手に敦煌バスターミナルがあり、長距離バス予約に便利である。
鳴砂山行のミニバス(1元)は、その先の交差点(環城南路角)より出ている。
また、民族博物館も同じ鳴山路にあり、徒歩で行ける。


ゴビ砂漠の雨>
今朝は、めずらしく雨である。
北からの異邦人の侵入を防ぐために2000年ほど前、ここ嘉峪関に万里の長城西端に<第一墩>が築かれた。
いま幾多の敵をふせいだ万里の長城が小雨に煙り、その歴史物語を思い出すだけでロマンを感じるとともに心震えるのである。小雨濡れるシルクロード旅情といえようか。
日本でもゴビからの偏西風は黄砂を運んでくることはよく知られているが、そのゴビの雨は黄色っぽい。
敦煌の街角には、黄砂による車体の汚れを洗車する多くのにわか業者が、信号待ちの車に殺到する姿は壮観である。

 

バックパッカーの行動原則 >
バックパッカーにとって最も頼りになるのは、足であり、コンパスであり、スケジュール表と時計そして水であろう。
① 第一歩を踏み出す<勇気>
② どちらに向かって踏み出すか<目標の設定>
③ 最低限の栄養補給
④ 己を正しく導くための指針<コンパス>
⑤ 水の確保
「時の流れに身を任す」とは、以上のことが満たされて初めていえるといえる。


<バス予約 8月11日敦煌(とんこう) 20:10発⇒吐鲁番(トルファン) 夜間バス 上段  116元>

 

ゴビ砂漠を河西回廊沿いに横断したことになる。
ぺんぺん草と石ころが延々と続くなか、バスは砂煙をあげて、まるで別世界に突っ込んでいくようでる。

敦煌拉麺は甘く、敦煌餃子は絶品であり、麦酒「西安花雨」がよく合う。

 

敦煌 鳴砂山に上る  50元>
敦煌は、広大な砂漠に囲まれ、沙州とも呼ばれた。
また敦煌甘粛省の西端に位置するオアシス都市であり、支配者が変わろうと東西交流の交流点であった。東西の行き交う人たちがもたらす文化が花開きシルクロードの中継点として栄えた。

 

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              敦煌 鳴沙山  Sketched by Sanehisa Goto

 

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                     鳴沙山ラクダツアー

 

砂深く、登る足が半歩づつ滑り落ちて、遅々として上ることが出来ない。
風に舞う砂がわたしと戯れ楽しげに鳴き叫ぶ。
これすべて砂であり、この砂丘の風景は自然が創り出す美の極致ともいえよう。
自然美の究極の姿が、この原始の砂の中に総合美として存在し、感動を与えてくれるのである。
また、砂丘が創り出す風紋・文様美には、空の青さ、星の輝き、水の流れ、樹木の立ち姿などその表現のすべてを映し出しているのだから創造主に感謝せずにはおられない。
人間ですら、創造主の作品であると思えば、それぞれの人間もまた究極の自然美に輝いているのである。
ただ、人間はみずから汚し、汚れた存在に陥れているに過ぎない。
しかし、人間は内なる輝きを増すことによって、自然の中でも群を抜いてその美しさを表現できる存在であることを忘れてはならない。 そうだお互いこころを磨こう。 美しくあるために・・・さらなる美しさを求めて。

砂丘の美しさに見とれ、風と話しながら鳴砂山に上りきった。
鳴沙山の上から眺める月牙泉の風景は、まるで物語にある月の砂漠である。

 

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   砂漠に浮かぶオアシス「月牙泉」            鳴沙山にて月牙泉を背景に     

 

<ツアーや単独観光に出かける前にー公衆便所事情>

敦煌で2泊している 『飛天賓館』 (ユースホステル Room215 @30元)の同室の西君(茨木)とミニバスで莫高窟に向かうことにし、まず朝食として<野菜焼マン 0.5元>を屋台で食べておく。
出発前に必ず実行しておく用足しも、二人して公厠(WC)に飛び込んで、人目にさらされながらアンモニア臭と羞恥心と戦いながらの爆弾投下、習慣の違いを克服するにはなかなか勇気がいるものである。
なぜ便所に人目を遮る戸をつけないのであろう。皆平気でしゃがんでいる姿は異様であり、慣れないものはその気になかなかモードを切り替えられないものである。

ただ、公厠(WC)のほかに3厘(約5円)で利用できる私厠(ビジネスWC)が街中至る所にあるので助かる。
ここでは門番の老婆からトイレットペーパー1回分を渡され、戸のついた便所と手洗いの水が備えられているから助かる。

ここ『飛天賓館』には日本人の宿泊客が多いのか、すぐ北隣にはオムライス・親子丼をだすレストランを兼ねた日本人バックパッカー向けのツアー会社がある。ここから今回参加した莫高窟ツアーが出ている。この日は私たち2人でタクシー(14元)に乗って現地へ、莫高窟で各旅行代理店からの参加者と合流して、ガイドに誘導され莫高窟をめぐる仕組みになっている。
莫高窟では、入場料とガイド料として@120元支払う。


敦煌莫高窟を観賞する  120元>
莫高窟の1日ツアーに参加するため、ミニバス(タクシー)に乗り莫高窟の集合場所に向かった。莫高窟の中で一番大きく目立ち、迎えてくれるのが96窟の有名な「北大仏殿」である。

 

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            莫高窟北大仏殿 96窟   Sketched by Sanehisa Goto

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莫高窟では、入場前に手荷物(デジカメ・ビデオ・バッグやバックパック)は預けることになるので要注意。

莫高窟は、別名「敦煌千仏洞」ともいう。
莫高窟は、敦煌市内から南東約25kmにあり、鳴沙山の東端の断崖を開削した石窟である。 366年ごろ、ひとりの僧によって造営が始まり、その後も絶えることなく造営が引き継がれた。
現在確認されている莫高窟の石窟は492窟を数えるという。

ガイドさんの案内でその中でも解放された窟の40か所の内、いくつかの石窟を紹介されたが、その説明も中国語(英語可)のため、案内版を読み、写真撮影が禁止であるため、急ぎ簡単なスケッチを描きつけて、ヘッドライトを頼りに小走りで後追いするという超多忙な見学観賞となってしまった。
では、案内された幾つかの石窟について若干の説明をつけておく。

 

●16窟・17窟 (晩唐
ガイドはまず北大門近くの修復なった一般公開の16窟から始まった。莫高窟は19世紀後半まで一部の西欧研究者以外には知られていなかったが、20世紀初頭英国のオーレル・スタインらの16窟通路の北側の17窟(蔵経洞)発掘によって調査・写真撮影・経巻類の発見が紹介されたことで全世界に知られるようになったという。

 

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      莫高窟北石窟 16窟(17窟は16窟通路北側にある) sketched by Sanehisa Goto

 

莫高窟427窟 (隋代970年代・宋代重修)
ガイドによると427窟は、隋代970年ごろに造られ、主室には曹元忠と夫人の像が描かれている。
その前に過去・現在・未来の仏である隋代最高傑作といわれる「三世仏」を置かれ、宋代重修に施された素晴らしい採色を見ることが出来る。 スケッチ無し、絵葉書より写真参照。

 

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                 莫高窟427窟 「三世仏」

莫高窟428窟 (北周557年代 五大重修)
約1400年前に造られ、天井は切妻模様で飾られ、狸・鹿・蓮・孔雀・小鳥など動物絵が、また壁は釈迦の前世の絵物語で飾られ、すべてを布施してしまう<無限の慈悲・スダーナ太子>が説法をしているように配されている。このスダーナ太子が前世の釈迦であったという。
また、東壁門口左側には日本で知られているサッタ太子の本生譚が描かれている。
日本では、法隆寺の玉虫厨子の捨身飼虎図はよく知られているが、お釈迦様は前世で薩埵王子(サッタ太子)だったとき、飢えた虎とその7匹の子のためにその身を投げ与えて虎の命を救ったという話がある。
ダーナ太子やサッタ太子の絵と法隆寺の「捨身飼虎図」の絵の黒を基調とした色彩が似ているのもシルクロードの延長線上の類似性を示唆しており興味が尽きない。

                   (絵葉書より写真参考)

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              莫高窟428窟 説法するスダーナ太子(前世の釈迦)

 

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                   捨身飼虎図(法隆寺

 

莫高窟257窟(北魏 1500年前 宋代重修)
257窟は、九色の鹿の物語が描かれている。
戒めを守って自らの命を絶った沙弥の悲しい物語などが説法図として描かれている。
この窟の壁画は、緑を基調とした珍しい構成もあり興味をひいた。
写真がとれないので、耳はガイドに、手は30秒スケッチと駆け足である。

その他、ガイドによって紹介された窟は次のとおりである。
弥勒菩薩と天井の狩場の249窟、1300年前の初唐に君臨した則天武后弥勒菩薩のある96窟、
破天荒な莫高窟の規模の大きさに、ガイドも次々と各窟を足早に駆け抜けていくので、ただでさえスケッチで遅れ追いつくのに大変である。
独りゆっくりと一日かけて各窟を回りたいのだが、必ずツアーに参加し、ガイドの案内に従わなければ莫高窟そのものにも入場できないのだから、世界遺産観光というのは窮屈というものである。
致し方ないので、ガイドの聞きかじりを書き残したノート・メモを数枚添えておく。
また、日替わりやガイドによって訪問窟が異なるようである。

この日、走り書きしたスケッチも載せてみたい。

 

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                莫高窟での走り書きしたスケッチメモ

 

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428窟 スダーナ太子   249窟 弥勒菩薩    275窟 交脚弥勒      96窟 弥勒菩薩

 

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   272窟 飛天図      148窟 巨大涅槃像        57窟 美菩薩

 

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   16-17窟 月下美人

 

タクラマカン砂漠の砂嵐 >
敦煌は、タクラマカン砂漠の東端にあり、風が吹くと息ができないほどの砂漠特有の強風が吹き抜け、
風と共に砂漠の砂が地上をなめていく。足跡は瞬間にして消え失せ、この世から消し去ってしまう。細かな砂が顔に吹き付けて痛さを感じる。
そして砂で辺りは徐々に暗さを増していき、風紋はその風の強さごとにその形を変えていく。足は砂にとられ一歩がなかなか前へ進められないのである。
サハラ砂漠で彷徨したおりに経験した砂嵐対策を思い出していた。。
シーツを巻き付けるのは砂嵐だけではない、特に太陽の直射日光から体を守るためにも砂漠では大きな役目を果たすものである。

 

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          2001年サハラ砂漠横断に向かった時の熱砂・砂嵐対策スタイル

 

 

莫高窟の不思議な出会い>
このシルクロード踏破の旅初めてのガイドツアーに参加した。
莫高窟に集まった20人が、現地ガイドの徐君の案内で石窟15窟を回るのである。特別料金(750元)を支払うことにより、あと3窟の特別石窟を回れる仕組みになっている。
わたしは750元も出して自分から特別石窟を見学するようなことはしない。なぜなら、今までの旅行で何回も現地案内人に騙されたことがあるからである。
今回、私の気づかないうちにこの特別石窟組に入れられてしまっていた。どうもガイド君の配慮からであったようである。
前半の石窟見学でのわたしの熱心な質問やメモ、スケッチにガイド君は私に寄り添い、詳細な解説を付け加えてくれたことを想い出した。それもスケッチをしていると対象物にライト(懐中電灯)を当ててくれたり、質問する(メモる)順番である時代名、何年前、AC/BC、何年続いたかなどを丁寧に答えてくれていたのである。
このようなわたしの熱心な観賞の仕方が、ガイド君のプロ根性やプライドに火をつけたのであろうかは分らないが、特別石窟コース参加の意志を示していないわたしを特別コースに誘ったのである。
わたしは750元もだして特別石窟を見るような観光をしていないので、彼の誘ってくれた熱意にこたえて特別1窟目には付合い、特別2窟目から離脱する旨、ガイドに伝えた。
すると彼はわたしの袖を引っ張って、どうしても次の特別石窟を見せようとする。その真剣なまなざしについわたしは魅かれてしまい750元支払いの腹をくくって最後まで付き合うことにした。

彼は特別石窟のガイドをし終えたあと、別れるとき特別代金を支払おうとしたわたしの手を押し返し、ににっこりと笑い、ただ目礼して去っていくではないか。
その時、わたしは自分の彼に対する誤った認識に恥じ入ってしまったのである。人はおのれのプロ意識を認めてくれた相手に対して感情では言い表せない誇りにひたれたのであろう。このとき彼は人生最大のプレゼントをしてくれたひとに出会っていたのである。
彼は今日一日言いしれない幸せを、喜びをかみしめたであろうことを想像して、遅まきながらおのれもまたその幸せを分かち合えた。
ひとは人に何気ない行為や言葉で、知らないうちに悲しめたり、喜ばせたり、失望させたり、幸せにしたり、自信をあたえたり、勇気を与えるものであることに気づかされたのである。
莫高窟での不思議な出会い、人に与えるエネルギー、人からもらうエネルギー、そして気づきに感謝したものである。


<フロア嬢に天使の笑顔ありーナマステの交感>
わたしの質素な旅にはいつも心温まる愛が満ちている。
ひとつの笑みが、これほど人の心を温め、結び付けるものであろうか。ここ私たちの「飛天賓館」215号室を担当する17歳くらいのフロア嬢は、すこし英会話ができ、お互いすれ違うときナマステ(手をあわせてーコンニチハという日常の挨拶とともに、あなたを愛しているという挨拶)を交わす。
ナマステを交わすだけで精神的、同志的結びつきを感じるのだから不思議である。わたしはこのナマステの精神と挨拶で旅を豊かにし、多くの現地の友に出会い、言葉を交わし、生活を共にしてきた。
ナマステの相手とこころの結び付きを越えて、心の豊かさを高めあうことが出来るのである。ナマステの精神は人に愛を伝え、人の愛を受け取ることが出来る奇跡のコミュニケーションと思っている。
「ナマステ」、これは人の世が続く限り価値ある挨拶のひとつとであると断言したい。

 

<生きるとは、夢を求めることなり>
連泊の『飛天賓館』の215室には、もう一人の同室者である31歳の西君がおり、声をかけてくれた。彼はここ敦煌よりタクラマカン砂漠をバスで南下して、チベットの首都ラサに向かっている自称・放浪青年と紹介してくれた。このあと働き、貯金をためて南北米大陸を縦断したいとの壮大な計画を熱く語る。
世界を旅する多くの青年たちには、夢に溢れ、心豊かな人々が多い。

 

 

敦煌2日目  8月11日(水曜日) 快晴 》 (シルクロード踏破12日目)

 

<予約 8月11日敦煌(とんこう)20:10発⇒8/12吐鲁番(トルファン) 夜間バス上段  116元>

いよいよ今晩、未知の世界である新疆ウイグル自治区吐鲁番(トルファン)に入る。今夜、夜間バスでここ敦煌よりトルファン(吐鲁番)へ向かうが、時間があるので敦煌の街を散策したり、体を休めておくことにした。

屋台で朝食の<稗ひえ・粟あわのお粥>とニラのマントウを食べる。塩ではなく砂糖を振りかけて食べるのには驚きである。

 

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                       屋台の風景

 

自治区という中国の領土―ウイグル自治区
いよいよ、これより未知の世界である新疆(ウイグル自治区)に入る。ここは、1949年中国人民解放軍が侵攻し掌握、その後、中国共産党政権の中国がイスラムの国を自治区として領有し、施政下に置いている。 それは主権を侵されているチベットと同じ政治状況に置かれ、自主独立を願っているエリアである。

ウイグルチベットの人々にとっては大変迷惑な話であるが、現中国共産党政権は両地域(国)を中国(漢族)化によって近代化していると強弁して民族浄化を図っていることである。日本帝国主義満州を支配し、日本の生命線の最前線として開拓を推し進めた方式にどこか似ている。しかし中国(漢族)化は、それ以上に過酷な統治方法で、漢族の大量移住を進め住民を圧迫し、強制的な洗脳抹殺が続いている過酷な様子が発信されている。多くの識者の間で共通認識である民族浄化という言葉がそのまま当てはまるエリアなのである。

先に訪れたチベットの中国(漢族)化は徹底していた。中国共産軍の軍服姿でラサの街を満たし、住民を威圧し委縮させていた様子は異様な雰囲気であり、不穏な環境を醸成していたことが記憶に残っている。

その不幸な両地域の平和の火は、1945年日本の敗戦後、中共軍が両地域になだれ込んで1948-1949年に消えた。この平和な世界に、今なお他国の圧力のもと自由を奪われ、不幸な施政下にある人々が存在していることに心すべきである。


敦煌バスターミナル、夜行バスでトルファンへ向かう>
『飛天賓館』近くにある敦煌バスターミナルは、すでにウイグルイスラムの風情が漂っている。帰省するのであろうか多くのウイグル人の姿が駅に見受けられる。服装の色、形、靴のすべてにおいて黒や灰色系が多く、顔も漢人と違い彫のあるタタール人系(トルコ系民族)に近く、彫が深く、日焼けしている顔が多い。
これより、いよいよ砂漠のシルクロードに入って行く。

シルクロード、それはただの夢の道ではなく、過酷な砂漠の道なのである。
水なき道であり、死と対峙する道である。
そこは荒涼たる風景と、輝き襲い掛かる灼熱の太陽と、こころふさぐ同じ光景の尽きない連続である。
何を想い、何を求め、何を得るために人々は過酷なシルクロードを旅したのであろうか。
マルコポーロは、玄奘は、そして多くの商人は何を求めてシルクロードを歩いたのであろうか。
そして、わたしは何を求めてシルクロードを東から西へ向かっているのだろうか。
冒険の果てに、宝物や、夢や、ロマン、満足が待ち受けていると信じたい。

トルファン(吐鲁番)に向かっている夜行バスの後ろの席のウイグルの少年が「いま、柳樹泉を通過してるよ」
と小声で教えてくれた。暗闇のなか就寝用車内灯を頼りに地図で確認すると、<柳樹泉>はハミにつづく大きな町で、敦煌から150㎞ほどのところに位置し、トルファン盆地の入口あたりである。
彼はわたしが日本人であることに安心、安堵したのか小声でしゃべりかけ、漢字による筆談に応じてくれた。それによると14歳中学生で、ウイグル名は<BaktinNr=Bafutino>といい、中国名を<巴合提>と書いてくれた。
夜行バスは、二段ベットになっており、座席はない。狭い通路があり蟹のように横ばいになりながら乗降車する。日本では見られないが、広大な中国を移動するのに適した長距離夜行バスといえる。

 

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             砂漠を行く寝台バス、トルファンだへ向かう

    

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            途中のオアシス・朝市に並ぶマッカウリ

 

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               寝台バスの昼間走行時の車内の様子

 

 

《 トルファン/吐鲁番 8月12日 ー快晴 》

 

翌朝になってこの夜行バスに、イングランド青年のクリス君(建築技師)とジョン君(中国中学英語教師)・日本青年の後藤君(東京三菱銀行就職)・韓国女性の金さん(中国留学中28歳)・フランス人アロン氏(中国高校教師を終え帰国中53歳)それにわたしの6人の外国人が乗っていたのには驚いた。
この6人が意気投合し、トルファンにあるユースホステル『吐鲁番賓館』30元に投宿することになった。
この多彩な顔触れがトルファン滞在中、行動を共にすることになった。

中国の賓館(ホテル)には、地下に旅する青年に提供する格安のドーム(木賃宿風)のユースホステルが併設されている場合が多い。
格安だけに、吐鲁番賓館に付属するユースホステルのトイレにはドアーがついていたが、男女共同便所であり、シャワーが1つしかなく閉口したものである。

さて、トルファンシルクロードの天山南路と天山北路の交差する土地で、古代から栄えたところである。トルファン近郊には多くの古代遺跡群があり、ゆっくりと見て回りたい。

 

トルファン一日古代遺跡観光ツアー>20元   09:50発
アスターナ古墳群(高昌国と唐代の住民の墓地・壁画やミイラが残っている)
② 高昌古城跡(インドに向かう三蔵法師が立寄っている。乾燥した土塁に囲まれ城跡を馬車で移動)
③ 千仏洞(ベゼクリク:イスラム時代の破壊から残った仏教壁画を観賞)
④ 火焔山(西遊記の舞台で有名・スケッチする)
⑤ 葡萄園(昼食)
⑥ 交河古城(遺跡に土壁の住居跡が残り、釜戸や井戸を見学)

 

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    ① アスターナ古墳群の入口            ①アスターナ古墳群地下のミイラ

 

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    ② <高昌古城跡>入口標識             ②高昌古城跡は馬車で回る

 

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 ⓷破壊をまぬかれた千仏洞請願図           ③千仏洞(ベゼクリク)全景

 

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                   ⓸火焔山

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             火焔山  Sketched by Sanehisa Goto

 

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      ⑤トルファンの葡萄園で               ⑤葡萄園での昼食

 

世界遺産 古塔広場で子供たちに水彩スケッチとダンスを教える>
テーマはスイカ、画用紙に鉛筆でスケッチし、彩色する。
子供たちは初めての挑戦という。目を輝かせ、あるがままのスイカを書き上げていく。それぞれに個性あるスイカは生き生きと蘇っていく。沢山の集まってきた大人たちが子供たちの力作にやんやの喝さいである。
子供達との心の交流には、言葉はいらない。国際交流、それは愛の出会いであり、実践こそ学びである。

スケッチをしていると、沢山の子供たちも集まってきた。スケッチするためには材料が足らないので、急遽臨時幼稚園を開き、園長になってインディアン・ダンスとスカウトソング<ヤヤヨーヨーユピユピヤー>を一緒に歌い、世界遺産の高昌古城跡のお土産広場に響かせた。
この麗しき7歳くらいの少女たちは、みな天使のように溌剌と踊り、その美声を天に捧げている。その姿は平和の使いのようである。
みなウイグルの衣装を着て、頭に花を飾り、まるで少女舞踊団のようである。
もちろん顔は漢人ではない、そこにある顔はイスラムウイグルの曇のない天真爛漫な少女たちである。
ここが中国であることを忘れさせ、ウイグル自治区いやテュルク系遊牧民族を祖とする独立国家であった<東トルキスタン共和国>ではないかと錯覚させられた。
ここが、中共による民族浄化がひそかにささやかれているウイグル民族の地であるとは到底信じられないのである。民族自決、その道の厳しさを見る思いである。

ひとはなぜ人を従属させたいのであろうか。人はなぜ認め合うことが出来ないのだろうか・・・

インディアンダンス<One Little Two Little Three little India・・・>を踊りながら、アメリカ大陸における原住民インディアンの悲しい歴史を、ここウイグル族の悲しみに重ねていた。

 

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                 ウイグル族の少女の天使の舞い

 

ウイグル青年たちとディスコで青春を踊る >
トルファンでのYH(ユースホステル)仲間は、年齢を越えてみな愉快な奴である。意気投合して、夜YH近くのディスコに繰り出すことになった。ウイグルや中国の青年男女に混じって汗して踊りに踊った。
当初、共産国の体制側には退廃的と思われるディスコなどないと思っていた私には意外な出会いであり、政治制度に関係なく若者共通の世界があることを知って世界平和にも希望を見出す思いであった。
この時代に自由がおさえられ、監視された全体主義の国の中で、それも少数民族が制圧され従属させられている地域で、平和と自由のシンボルであるロックが流され、若者が汗を流し、抑圧をはねのけて踊り狂う姿は、あの鉄のカーテンを多くの熱狂した人々が自由を求めて崩していくエネルギーにつながっているように感じた。
平和のもと自由であることの大切さを、この国の若者も感じていることに歴史の転換点も近いように思えた。
しかしよく考えてみると、シルクロードは解放された自由街道であったからこそ、東西に人的交流、文明の往来、物流交易が成り立っていたのである。シルクロードこそ人類平和のシンボルとして繁栄してきた道であるのだ。

 

トルファン仲間とのお別れ>
お別れの日、トルファンの中央広場にある青空食堂街で食事をしながらこれからの各自の旅の幸運を祈って別れた。

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         吐鲁番賓館ユースホステルの同室の仲間たちとお別れ会 (上・アロン氏)

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<青空屋台での乱闘寸前―トラブルのおさめ方>
お別れ会をして、ディスコに繰り出すまでの待ち時間に青空屋台でビールを飲むこととなった。最初の注文ビールを飲み終え、勘定を清算した後、まだディスコ開店まで時間があるということでビールを追加した。
その追加6本分を精算勘定するときに起こった。
旅ではよくあるトラブルなので取り上げておく。
勘定書には、先に払い終えたと思っていたビール6本分を含めた12本分の請求金額が書かれていた。
すでに支払ったと思っている6本分を除いて追加6本分を払おうとしたときに、店側は12本と主張、こちらは正当性を訴え、両者後に引かず、自己主張の応酬となり険悪な状況が生まれたのである。
もちろん領収証などない。店側は折れそうもない。群衆が集まって取り囲み始めた。旅を続けるにはトラブルは避けることが鉄則である。
今までわたしも何度もトラブルに巻き込まれている。スパイに間違われ拘留されたり、置き引きやスリにあい警察の厄介になったり、空港での入国に際してのトラブルなど、数え切らないほどのトラブルに巻き込まれている。
今回のような場合は、店側がPOLICEを呼ぶ前に決着させるのが正解である。一度警官にわたると袖の下の要求、数日間の取り調べなき拘留と旅のスケジュールに支障をきたすからである。もちろん正義はある、素晴らしい警官であればその場で解決してくれることも多々あることも申し添えておく。
埒のあかない状況を見た一番若い卒業旅行中で、銀行内定の後藤君が請求分のお金30元を机の上に置いて、みなに退去を促したのである。
そう、トラブルよりもその場をおさめる方が先決であることを彼は知っていたのである。

しかし、このトラブルには支払システム上の行き違いがあったことに起因していたことが後で判明した。これは国やその地方ごとに支払システムが異なっていることがあるということである。今回、トルファンの青空屋台では料理を出す屋台とビールを提供する業者が同一のオーナーでなかったことである。われわれは屋台のおやじの示した請求合計は、ビールを含んでいるものと思い、疑わずに請求額を支払い、ビール代を含んでいるものと思っていたのである。
ビール代は支払っていなかったのである。われわれの勘違いであり、非はこちらにあったのである。
会話の通じない海外ではよくある両者の誤解をともなうトラブルである。心したいものである。

 


トルファン 『吐鲁番賓館』連泊  8月13日 バスのチケットとれずもう一泊 》

 

<カレーズ見学>
今朝一番のバスでウルムチに向かうつもりでバスターミナルに向かったが、バスの故障のため明日朝08:30発になるという。
日本のように代車など都合をつけて時間通りに出発するということはないのが世界の通例である。
僻地を一人で動く旅行者は、いかなるシチュエーション(状況)でも対応する身軽さ(能力)とスケジュール変更の柔軟性が必要である。
せっかく与えられた1日を大切に過ごしたい。トルファンに長期滞在しているアロンとトルファンダウンタウンを訪れることにした。
トルファンは当時、大規模な再開発中で、わずかに残っているダウンタウンに向かった。住人の笑顔に迎えられ、実生活で現在なお使われているカレーズを案内してもらった。トルファンを囲む山脈に残る雪が溶けて砂漠の街の地下を流れる集水溝をカレーズといい、夏でも冷たい。またこの水を使って葡萄を栽培し、有名な<トルファン・ワイン>を世に送り出している。

 

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                                 地表に出たカレーズ (集水溝)                     地下のカレーズ

 

<葡萄の街 トルファン
トルファンは葡萄の街である。
乾燥した地に、豊かな雪解け水がカレーズとなって街の地下を流れている。美味しい葡萄を栽培するのに適した自然条件を備えているのである。

トルファンダウンタウンから帰り、午後からカシュガルに向かうクリス、ジョン、キムとアロンも加わり最後の昼食をとる。その後、吐鲁番賓館(ホテル)のプールで、葡萄園のスケッチに採色し、仕上げる。ブドウ一粒一粒の色塗りは、親しくなったオーナーの孫たちが手伝ってくれた。幼さの中にもほほえましい日中共同の合作の絵が出来上がった。

 

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        トルファンの葡萄園スケッチ (子供達との日中共同合作スケッチ) Sketched by Sanehisa Goto

 

雪解け水のシャワーなのであろうか、冷たさに火照った体が心地よい。洗濯も終わった。
ひと眠りしてアロンと屋台に夕食に出かけるつもりである。
なんと日常的な時間を過ごしていることだろうか・・・
旅に出ていると絶えずスケジュールに押され、緊張からか神経を休めることが出来ず疲れが溜まるものである。

 

ウイグル民族舞踊>
夕食のあと、夜9時からはプールで知り合った舞踊団の一人からウイグル族の民族舞踊観賞に招待され、アロンと一緒に出掛けてきた。
ウイグル舞踊<アトシュ>は、男性の弾く楽器(三味線に似ている)に合わせて女性が踊るが、ペルシャ舞踊やベリーダンスの要素が入っているような気がする。顔だけを横に動かす踊りは、ハーレムなどでみられる舞踊によくみられる振り付けのようである。
ウイグル民族舞踊の特徴は、顎、胸、腰を上げる姿勢、ひざを震わせ、頭から目,首、肩、手、脚、指先までそれぞれ動きがあり、特に目元をよく使って感情を表す舞踊である。

しかし、情熱の民族舞踊の中に、どこか哀愁を感じるのはわたしだけであろうか。

ここが中国の一部、自治区であることに違和感を感じる。そこにはウイグルの歴史があり、生活があり文化があるからである。しかし現実には他民族によって支配され、少数民族の悲哀を味わっているのである。

世界はなぜ他民族を尊重し、共存できないのであろうか。世界平和はただの夢なのであろうか

 

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                                                     どこか哀愁の漂う ウイグル民族舞踊

 

 

<尊敬する友、アロン氏の素顔>
世界を旅していると、いろいろな人生を歩む人たちに出会って、心の交流を楽しむことが出来る。
シルクロードの途上、ここトルファンで一人のフランス人アロン氏に出会ったこともわたしのメモに書き加えられることになった。
彼は53歳、最初に出会ったとき日本人と知って、自分の息子が慶応大学の夏期講座で学んでいるという。彼は、5年間北京の高校で校長を務めあげ、次の赴任地ハンガリーへの間、中国を旅行している。
前任地はアルジェリアで、海外赴任には自分の夢、世界に羽ばたいて色々な人種と交流したいという夢を実現させたいためであったと熱く語ってくれた。
仕事の内容は、高校でフランス語、会計簿記、介護を教えていたと話す。
青年時代は、ホンダの1240㏄にまたがり、世界一周した猛者でもある。
物静かな哲学者タイプで、個性を大切にする紳士である。
退職後は、中国にセクレタリー(秘書)の学校を全国展開したいという抱負と計画があることを熱く語ってくれた。
語る時の笑顔がいい、彼独特のひとを惹きつける雰囲気がいい。
自分なりのファッション観にも、オートバイ派・ミリタリールック派としての野性味があり、それに加えてヒッピー、一匹狼、放浪者としての雰囲気をそのファッションにのぞかせているのが自然でいい。
わたしにとって好ましい人物像である。
このような素敵な出会いがあるから旅は楽しい。

 

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                                      友アロン氏と共にカシュガルダウンタウン

 

明日、8月14日朝7時にユースホステルを出て、ウルムチ行の長距離バスに乗るスケジュールであり、出発前にデポジット(保証金)の精算することを忘れないことをメモって就寝した。

 

 

《 8月14日 トルファン出発日 快晴 39℃ 》

 

アロンとハグして別れを惜しみ、彼の赴任地ハンガリーで再会することを約束する。
朝食にと、道で立ち売りしている特産のハミウリ(哈密瓜)を切ってもらったが、大きすぎて食べきれないので、先ほどからじっと見つめているウイグル人の爺さんと分けあって食べた。
ミウリは、爽やか味でうまい、評判通りである。

 

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           トルファン出発の朝、立ち売りのハミウリをいただく

 

トルファン ⇒ ウルムチ・烏魯木齊    長距離バス#1051 ゲート#1  座席#2>

 

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                トルファン ⇒ ウルムチ長距離バス

 


《 8月14~15日 ウルムチ・烏魯木齊 》

 

ウルムチは、新疆ウイグル自治区の首府であり、大都会である。
ウルムチ・烏魯木齊では、8月14と15日の二泊を『新疆飯店』(長江路107号 3人部屋 @12元)で連泊。
このシルクロード踏破の旅行では、目的地に着いたらまず宿泊先を決め、荷物を置いて次の目的地への交通機関(バスや汽車)の予約を取ることを何よりも先に済ませることにしている。

<汽車予約 8月16日 ウルムチ⇒コルラ・庫尓勒 20:00発 #7076 硬臥下段>

無事、汽車の予約が取れたので、市内バスで<新疆維吾爾自治区博物館>に向かい、楽しみにしていたミイラの<楼蘭美女>と出会って、スケッチすることにした。

 

新疆維吾爾自治区博物館> (西北路132号) バス#7・51・906「博物館下車」

スケッチを仕上げるのに半日かかった。その間、博物館の館長が<楼蘭美女>を紹介(解説)したり、何度も温かいお茶をもってこられたのには恐縮したものである。スケッチを仕上げて館長に見てもらったとき、「楼蘭美女のミイラに命吹きこむため全身全霊を傾けて描き上げた」と説明すると、感動した館長はスケッチに自ら証人として署名するという。
楼蘭美女>は、写真よりも美しく、茶髪の2m近い長身大柄な西欧系美女に見える。館長によると、日中合同調査隊によって発見されたという。

 

       ☟ 新疆維吾爾自治区博物館 館長署名

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          3800年前のミイラ<楼蘭美女> Sketched by Sanehisa Goto (補色加筆)

 

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              楼蘭シンボルマーク  Sketched by Sanehisa Goto

 


楼蘭美女のつぶやき>
『われ3800年間タクラマカン砂漠に埋もれ来て、君に出会える日を待ち焦がれていた。いまわれは君にまみえて再生復活の命を与えられたことに感謝する。3800年はわれにとって一瞬の時の流れ、これで君の魂に生きて、これからの歴史の中に生きることが出来ることを喜ぶものである。霊魂は、ひとの命のみにあらずして、神のみこころの中にあるを知るに、共に悠久なる神の命に生きられることを嬉しく思う。』と、スケッチしているわたしにミイラは語りかけてきたのである。


<天池1日ツアー参加  125元 ランチ付き>
8月15日、今日はウルムチ近郊の<天池>に出向きスケッチの予定。
今日も一日神のもと、こころも天気も晴れ渡り、感謝の一日である。
新疆(ウイグル)賓館近くの<正宗杭州小籠包>で馴染みのお粥と包(バオ・肉まん)で朝食をとる。
清掃のおばちゃんたちが竹箒で道路を掃き清め、その横をメイドインジャパンの中古車がわがもの顔で走っている。あちこちの屋台で料理するトントンと包丁さばきの音が聞こえてくる。肉まんを蒸す蒸気が顔にあたる。
ここはウルムチ、地球のヘソにいる。
ウルムチの日常の朝の風景の中に溶け込んでいるのであるから不思議なものである。
ゆっくりとジョギングの男が走り去っていく。
2004年の中國、いまこの国は江沢民時代から胡錦涛時代へ舵を取切った政治・経済の変革期の中にある。
そして中国は、超大国として再興する勢いを見せ始めている。

天池1日ツアーはガイド付きだが、中国語オンリーなのが残念。
ただツアーに参加しなくても、直通ミニバスで独りでも行けるが、かえって高くつくのでツアーに参加することにした。 (ミニバス代35元、別途高速料金15元、入場料60元、パス代35元、ランチ15元の合計160元)

ゲル(パオ)が緑の平原に白い花を咲かせる少数民族ウイグルの領地に<天地>がある。
のんびりと一匹の子羊があくびをしている横で、小さな男の子が大きなギターを抱えて奏でている。
遠くにボコダ山(5445m)が天に屹立し、少年のギターに合わせて歌をうたってる・・・・
<ハレルヤ、ハレルヤ ここはウルムチ、天池の里 ランランラーラン ランララン>
桃源郷とはこういうところを言うのであろうか、ステップを踏みたくなる気持ちを押さえて、夢中にスケッチに励んだ。

<天の池> 誰が命名したのであろうか。いにしえの人々はなんとロマンに満ち溢れていたのであろう。池に降り注ぐ無数の星をみて、夢をふくらませたのであろうか。われわれは降る星のごとくこの天池に降りたったのだと。
なんとロマンあふれる物語ではないか。

 

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      雪をたたえたボコダ山(5445m)が映る<天池> Sketched by Sanehisa Goto

 

            

            <ああわれいま天池におりて>
                 詩 後藤實久

 

              神 われに天池与うるに 
              われ天池になりて 
              悠久の宇宙を讃えるなり

              ああわれいま天池になりて
              一体にして一心なるを
              誇りて君に抱かるるなり 

 

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              ボゴダ山脈の雪解け水を湛えた天池に抱かれて

 

天池の中央にそびえるボゴダ山(博格達山・5445m)は、ウルムチの東に位置する。天山山脈の一部を構成している山である。天池はボゴダ山の麓の北東にあり、その雄姿を雪解け水に美しく映し出している。
シルクロードからその雄姿を望みながら西へ東へと旅人はその歩みを進めていたのである。

 

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    ボゴダ山脈を背に、ウルムチ近郊に広がるゲル<パオの花>  Sketched by Sanehisa Goto

 

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                ゲル(パオ)の内部<ワンルーム

 


天山山脈の万年雪解け水でシャワー>
天池の桃源郷に心奪われて宿・新疆飯店に帰り、天山山脈からの万年雪解け水でシャワーを浴びる。
この冷たい水は、あの天池と同じボゴダ山(天山山脈)の万年雪が解けた水であるのだ。
凛とした水霊の冷たさを感じた。

 

<籠の中の歌姫たち―紅山公園>
その後、中心街のフリーマーケットに出向き、半ズボンを購入。
紅山公園では、子飼いの小鳥を持ち寄って鳴声の交歓会というか、小鳥同士の交流会をやっていた。
これは中国の路地裏などでよく見かける鳥籠の小鳥たちである。
鳴声を楽しむ会は、北京伝統の趣味であり、習慣の一つである<画眉鳥 ・がびちょう>からきているという。
小鳥たちは、みな仲間たちに会えて嬉しいのであろうか、それはそれは楽しい声で呼び合っている。
この中には、恋をしている小鳥たちもいるであろう、この日を待ちに待ったのであろうか切なく悲しくも聞こえてくる。

 

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                  紅山公園入口で

 

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           画眉鳥の鳴き声観賞会での<籠の中の歌姫たち>

 

東方見聞録を書いたマルコポーロもまた天山山脈の雪解け水でシャワーを浴びながら画眉鳥(がびちょう)の鳴き声を聞き、故郷のイタリア・ベネチアを思い出していたに違いない。
鳴声観賞会の皆さんに迎えられ筆談での日中交流である。友多きこと世界平和の礎である。

 

<紅山公園のひととき>
今日は時間にとらわれず、中国の悠久の時の流れに身を沈め、ここ<紅山公園>の頂上にあるパーラーで生ぬるいビールを流し込み、中国の仙人・酔人の粋な心地よさを味わっている。
遠くで中国歌曲が流れ、人々はゆるやかな曲に体を預け、その緩慢な手足の動きの中に埋没して静なる
動体である太極拳を楽しんでいる。
わたしもビール<乌苏啤酒・ウイグルビール・5元>をかたむけながら読書し、沈思し、詩をうたい、時の流れに身を任せている。

この後、ウルムチからコルラ・クチャに汽車で移動し、バスでタクラマカン砂漠を縦断し、ホータン(和田)に立寄り、カシュガルに向かう。地図を広げて行程を確かめた。
しかし、後日現地で分かるのだが、タクラマカン砂漠縦断のバスは現在運休していることが判明する。幻のスケジュールとなったが、地図は残しておきたい。

 

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          当初予定のタクラマカン砂漠縦断ルート (砂漠公路交通手段無く変更) 

 

<ここウルムチの新疆飯店で出会った二人の青年>
新疆飯店にあるドミトリー(相部屋の格安宿泊施設)に相違う二人の同室青年がいる。
昼間はベットで寝ており、どうもバックパッカーではないらしい。一人は30歳前後のパキシタン青年、もう一人は台湾の28歳ぐらいの青年である。

パキスタン青年Aは、とても外交的で人懐っこく、会話も自然でハートを感じさせる青年である。
宗教や命、異性についての己の考えを語ってくれ、これから向かうパキスタン国内での問題発生時の連絡先を紹介してくれるなど、親切心を見せてくれる。
台湾の青年Bは、中国で英語の教師を1年前までやっていたという。かれの英会話は正確であり、キングイングリッシュを話す。精悍な面構えで、めったに笑顔を見せないクールガイで、凄味すら感じる。
じっと人を観察し、無言で人を見計らっているさまは、無情でハートを感じさせない冷徹な青年のように見える。

どうも観察していると、二人ともこの格安施設に半年ほど住みついているようである。今日もそれぞれの人生の1日を薄汚いこのドミトリーで過ごし、何を考え、何を待っているのであろうか。
青年が、時の流れに身を任せている姿に久しぶりに出会った。世界を旅していると、それぞれの人生を背負って、己を見つめながら旅を続けている多くの青年に出会うのである。
旅の間に、次なる目的を見つけたり、己の弱点を見つめなおしたり、やり直し人生のスタートにしたり、生涯の友や伴侶を見つけたり、また自然の中を彷徨し、神に出会ったりとそれぞれの生きがいを見つめなおしたり、発見するものである。
今日は、この二人の青年の生きている世界に迷い込んで、あれこれとわが青春時代を思い返してみた。

ー旅行者に現在の中国はどう見えるのであろうかー


ウルムチの新疆賓館をあとにして、予約してある<ウルムチ⇒コルラ・庫尓勒 20:00発 #7076 硬臥下段>の列車に乗るため烏魯木齊火車駅へ向かう。

 

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              烏魯木齊火車駅(ウルムチ駅)

 

夜行列車は、帰省するウイグル族の人たちであふれかえっている。
下段に横たわり、新疆賓館で同室者であったインド人アリ君の言葉を思い出していた。
<チャイニーズは、一般的にハートがない。たえずお金で動く人種だ>と。
しかし、わたしは若干意見を異にしていた。
この広大なほとんど荒れ地に縦横にハイウエーを走らせ、近代都市を造り続ける中国は侮れない国に成長する気がする。
もちろん貧富の差は歴然と残るであろうが、インフラは中国全人民の生活向上と、自信を持たせるに違いないと。
以上のような考えをアリに話し、中国の将来に期待する一人であると伝えたことを思い出していた。

 

                                  


       

                      
     『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』③前編

            シルクロード中国 
       シルクロード踏破 ウルムチ/烏魯木齊⇒ カシュガル/喀什>

               に続く

 

 

 

 

 

 

2004『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』①<大阪⇒西安>

星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』①前編 

       星の巡礼者 後藤實久

    <シルクロード踏破 大阪⇒西安

 

<はじめに>

2020年4月15日現在、中国武漢で発生したコロナウイルスが全世界に伝播し、感染者190万人・死者12万人を越えたとWHOは伝えている。
日本でも7つの都府県市に緊急事態宣言が発せられ、感染者7700人・死者110人であると厚生省が発表した。

最近、中国の一帯一路による覇権主義や、ウイグルチベット少数民族弾圧などに関するニュースを目にすることが多い。
その中での今回の中国武漢におけるコロナウイルスの発生である。
コロナウイルス防御の決め手は、手洗い励行、マスク着用、自宅待機により三密<密閉・密集・密接>
という古典的な方法であるという。
行動原則 <ひとからもらわない  ひとにうつさない> を徹底しょう。 

日々拡大するコロナウイルスの感染者に寄り添い、命を顧みず献身的に治療にあたっておられる医療従事者のみなさんに感謝の気持ちを伝え、声を大にしてエールを叫ぼう。
<頑張れニッポン! 頑張ろうニッポン!>

わたしも後期高齢者、みなさんに迷惑をかけないように自宅にこもり、隣接する森の再生のため枝打ち、間引き、蔦の除去に汗を流している。
また、自宅待機要請に、2004『星の巡礼 シルクロード16000㎞踏破日記』の写真やスケッチ、記録ノートを整理することにした。

なかでもシルクロード中国最西端国境の村クシュクルカンで姿を消した「消えたスケッチブック」が現地当局と村民の熱意と好意によって1年後に発見され、ここ志賀の里に里帰りしたエピソードをお伝えし、<シルクロード踏破16000㎞日記 前編> を書き終えることにする。

当時のシルクロード中国を、現在の中国の経済や政治状況を鑑みながらお読みいただければ幸いである。
日中両国の人民による相互理解の上に立って、息の長い友好関係が続くことを祈るものである。

 

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      西の万里長城入口「天下第一雄関」は、シルクロードの要所・嘉峪関にある

 

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            2004『星の巡礼 シルクロード16000km踏破日記』 行程表
                     2004年7月30日~11月13日

 

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        シルクロード16000km踏破ルート地図  (NHK発行地図参照)

 

 

《 7月30~8月1日  船舶・蘇州号 大阪港12:00出航 ⇒ 上海港11:00入港》

 

<蘇州号で上海に渡る>

2004年夏7月30日、少年時代に読んだマルコポーロの冒険と夢に満ちた「東方見聞録」の跡をたどって大阪から蘇州号に09:30am乗船、12:00出航の汽笛を聞きながら、ローマ目指して16800㎞のシルクロード西進をスタートさせた。

 

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               大阪を出航し、上海に向かう<蘇州号>

 

蘇州号は、夏季休暇を日本で過ごした旅行客や中国の修学旅行生でにぎわっていた。
こちらは、昔蚕棚といわれた三等寝室で、中国からの留学生に囲まれ、遣唐使気分である。
船には、日本での勤務を終え、中国経由で帰国するスコットランドのジョンやオランダのポールとの
親交を深め、情報を交換した。

 

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       中国からの修学旅行生との日中交流

 

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             上海港にてジョン&ポールと

 

遣唐使は、荒波の海を帆船で命を懸けて何週間もかかって中国大陸に向かって渡海したのに比べたら、わずか2日半の船旅である。台風接近という悪天候のもと、タグボートに押されて、回転運動を行い、船首を上海に向けた。

 

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       復元遣唐使船               現代の遣唐使船 蘇州号

 

<蘇州号船内生活>

ランチ、700円の中華定食(四川風麻婆豆腐・チンゲン菜・五目スープ・米飯・烏龍茶)を堪能した後、約束していた英国青年キパー君とディナーを共にすることになった。
彼は英国の教師協会に属し、協会から派遣されて岐阜県立大垣北高校で英語の教師を三年間勤め終え、母国英国への帰路にある。
上海から、北京を経由し、ウランバードル(モンゴル)よりイルクーツク(ロシア)に入り、シベリア横断鉄道にてモスクワへ、その後リトアニアポーランドハンガリー・フランスを経て帰宅するので、青年時代の夢が実現するという。
英国の青年は、かかる派遣制度を利用して、いまなお全世界へはばたき、当地の歴史・生活習慣・人的交流などをとおして己を磨く修行をするようである。それは幾世紀にも及ぶ、長きにわたる英国の海外統治の歴史によっているのであろう。
「わたしは日本がだいすきです。」 この一言に彼の東洋的神秘性を見ることが出来る。

 

夜、メインホールに哀愁に満ちた中国の歌曲が聞こえてくると、中国の若者たちが曲に合わせて歌い出す。
若者の熱気、天を衝く歌声、歌には国境はなく、自由と平等を謳いあげている。

色とりどりの女子学生の下着が、通路の手すりに花のように咲きほこっている。
おおらかである。共産主義の国の青年たちも、自由主義の国の青年も、主義主張を論ずることもなく若者独自の世界を演出しているのである。

 

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                 上海入港の蘇州号にて 

 

シャワー室で、下着を手洗いし、汗を流す。
21時45分消灯。中国青年4人と相部屋。 そのうちの一人は、立命館大学衣笠校舎で国際経済を学ぶ留学3年生。広東に夏休み帰省するという。


現在、共産中国は鄧小平のもと改革解放経済を推し進め、2004年現在、名目GDPは16.8%(2819億US$)であり、イタリアを抜いて世界第6位の経済規模になっている。
更なる飛躍を目指して、欧米日の経済政策や科学技術を学ばせるため多くの留学生を派遣している。国を代表している中国の若者たちは、すべての行動や会話の中に明確な計画と信念を見て取ることが出来る。
富国強兵を国家目標に掲げた日本の明治初期の青年たちの気概に似ている。


中国には青年たちの夢が詰まっている。将来どのような国になっているのだろうか。

 


《 上海 - 8月1日 晴れ 》

5時45分蘇州号船内起床。
上海港に近づきつつあるのだろうか、海水に黄河の砂が混じり泥色に変色している。
船の甲板では、中国式ラジオ体操 太極拳が始まった。
上海の摩天楼を眼前に眺めながら港に入って行く。
入管を済ませ、港近くにある浦江飯店に宿をとった。

▲浦江飯店 : 上海市黄浦路15号 TEL21-63246388 ドーム100元(1600円)

        アスター・ハウス・ホテル(Astor House Hotel)

浦江飯店(Pujian Hotel)は、外国人にはAstor House Hotelとして有名であり、
典恵的クラッシック英国調内装で、重厚な雰囲気に満ちた品格あるゲストハウスである。
このホテルは、バックパッカー用として5人部屋を提供、今晩の宿泊者は、私以外全員英国青年であった。
過去にバートランド・ラッセル卿(1931)、映画王チャップリン(1936)、グラント大統領(876)、アインシュタイン博士(1926)が宿泊した時の写真が飾られた上海でも老舗ホテルである。
隣の青年は、同じ蘇州号でやってきた英国ヨークシャ出身で、明日は香港に向かって出立とのこと。

 

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上海・浦江飯店(Astor House Hotel)のドームに宿泊

 

宿のドームに荷物を置くと、ネオンに輝く上海の夜の街に出かけた。
南京西路の歩行者天国は、人があふれ、そぞろ歩きを楽しむ人々に向かって、香濃い夜の蝶たちが
声をかけてくる。ここは上海の租界があったところである。ニューヨークのマンハッタンにも劣らないハイライズビルディングに目を見張った。特に、街の夜景がファンタスティックである。

地下鉄に乗って「上海站售票処」へ、北京行切符の予約購入に出向いた。
電車の乗車口に殺到する風景、降りるに下車できない人の垣根、人間のるつぼである中国にやってきたという実感がわいてきた。無秩序の中に一定の暗黙のルールがあり、その定石を知れば案外スムーズに時の流れに乗ることが出来るのである。
わたしのような放浪人間には、案外と居心地が良い環境である。

 


上海市内観光― 8月2日 晴れ 》

 

シルクロード横断旅行のユーラシア大陸東の入口が上海なら、シルクロード西の出口はイタリアのローマである。いよいよ16800㎞という途方もない陸路を電車やバス、船を乗り継いで向かうのであるから興奮を抑えきれないでいる。

 

上海租界であるBUND(バンド)>
早朝、かっての上海租界であるBUND(バンド)に向かう。
中国や東南アジア、世界各地に散らばる華僑たちの朝の日課、公園や空き地に集まっての太極拳や刀舞踊、瞑想などがグループ別に熱心に行われている。
中でも、太極拳は宇宙と一体となる流れの中で、呼吸法による命を無にし、想いを無くし、静かにゆっくりと宇宙に溶け込んでいくさまが好きである。

丁度、朝日を浴びたBUND(バンド)の摩天楼や、欧米の進出による100年の歴史を刻んでいるであろう円柱やロマネスク朝の建物が光り輝いているさまはなんと優雅に見えることか。ここは本当に中国なのだろうかと疑ってしまう。
欧米各国は、未開であったこの地に競って文明の花を咲かせたのである。

天高く宙に舞うカイト(凧)が朝日を浴びて自由に大空を飛翔するさまは、中国という覇権に生きたこの国のこれからの姿を現しているようにも見える。

日本は、過去に中国との間に悲しい一時期を持った。上海事変勃発の折、わたしの叔父は陸戦隊として上海出兵にあたって支那兵(当時公称)から投げられた手榴弾によって、片足を無くしている。

平和な時期に中国におられる幸せを、決して中国や中国人を悪く言わなかった叔父に報告した。

朝の散歩、BUNDから帰り、朝食をとる。 お粥に餃子と万頭、実に懐かしく、美味しい。 世界中を駆け巡って、どんな田舎にもある中華料理店に助けられたものである。安くて、美味しく、ボリュームがあって、食べ残しは持ち帰れる中華料理はアドベンチャートラベラーにとって最高のパートナーである。

 

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        上海租界であるBUND(バンド)  Sketched by Sanehisa Goto

 

< 上海博物館 観賞 >  (入館料20元)
西安への予約切符について確認の電話をすると、明日の寝台列車の切符が取れたとのことで、上海滞在を1日早く切り上げることになった。

出発前に、ぜひ「上海博物館」を観賞しておきたく出かけた。

博物館で出会った漢詩『雨水酔草』、なんと素晴らしい情緒たっぷりな四字漢字であろうか。雨しぶきに濡れ、ほろ酔いの体を草に伏して、この世の夢を楽しんでいる情景を詠んだのだろうか。
青年時代に味わった泥酔にかまけて彼女の柔肌のぬくもりが伝わる膝枕に伏したあのときのときめきを思い出した。
博物館では、やはりシルクロード関係の絵画や彫刻、陶器、彫塑、玉に観賞時間を費やした。

 

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 ラクダにまたがるペルシャ商人        玉(ギョク/ヒスイ)による「神人」

 

シルクロード西方からやってきたラクダにまたがるペルシャ商人や、友人のつくるトンボ玉(京瑠璃玉)の
源流といわれる7000年の歴史を持つホータン玉や博物館のイメージシンボルになっている中国玉器である「神人」に見入った

菩薩像の微笑みに魅せられて筆を走らせた。

 

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           「菩薩」上海博物館  Sketched by Sanehisa Goto

 

<列車で西安に向かう> ―上海より西安行車窓記―

上海博物館より、浦江飯店にもどりリュックを担ぐと、西安に向かう夜行列車に乗るため、地下鉄で西安駅に向かった。
上海駅 第7待合室で、T138次16:19発 西安行を待つ。
さっそく、盗難防止にとリュックを待合室の長椅子に鎖で結び付けていると、家族連れの中年男性がこちらを見てにっこりと笑っている。 列車T132 で中国東北部遼寧省大連(旧満州)行きに乗るという。
戦前の日本からの満州開拓民の家族のイメージが重なって、なぜかこの家族に対して親しみがこみ上げてきた。
相手も、日本からの初老のバックパッカーに興味を持ったのか、いろいろと中国国内の情報を伝え、楽しい時間を共に待合室で過ごした。

東南アジア諸国や、インド・ネパール・ブータンに見られる水田の風景に比べ、中国の田園地帯に見られる水田は、整然と田植えがなされ、日本国内でみられる田圃と見まがうばかりに手が入っている。
先進国への仲間入りを目指している共産中国は、政経を分離し西欧の資本と技術導入を国を挙げて積極的である。
世界の工場として、その低賃金の労働力を提供し、今後世界中から多くの製造工場を誘致することであろう。徐々に、経済発展の自信を持ちつつある中国は、より高い目標をたてている。その発展のシンボルである中国全土に張めぐされているインフラ、鉄道と高速道路の整備があげられる。
中国は現在、ITをはじめより高い目標を達成する意欲に燃えているようである。
近い将来、経済レベルはアメリカに迫るであろうと予想されている。

車窓より移りゆく農村風景、そこには支那といわれた貧しい農家が消え去りつつある。それは、今乗っている寝台列車(硬座臥―三等寝台)でさえ、日本のものよりも快適に思える。それは日本の狭軌と中国鉄道の広軌の差によるのかもしれない。とにかく住空間が広く、清潔なのである。数年前まで座席に痰壺があった時代は過ぎ去ったようである。乗車している乗客もみな豊かな表情である。
車掌や警乗員の帽子に光るいかつい中国共産党の徽章をのぞいて、ここが共産主義の国であることを忘れさせてくれる。

駅弁を買ってみた。 二段式弁当で、ご飯はパラパラの日本でいう外米、水っぽくおこげ交じりの飯に、野菜の煮物、卵焼き、厚揚豆腐料理である。15元(約290円)

スケッチ「上海租界であるBUND(バンド)」を仕上げていると、彩色をじっと見つめる向かいの席の5歳くらいの女の子に気づいた。目を合わせると、にっこり笑いをかえす可愛い少女である。
ひと塗りひと塗りに目を輝かせ、自分の考えを伝えてくる。
ここに赤、ここに緑と・・・絵はその一言に応えるように仕上がっていく。
少女の歓びは、頂点に達した。スケッチと少女が溶け合った瞬間であり、少女が画に魂を吹き込んでくれた瞬間である。
愛とは語り掛けであり、愛とは興味であり、愛は次なる魂の世界を作り上げてくれる。


少女から大切な深い愛を教えられた。

 

 


《 8月3日 上海⇒西安行  列車T138 寝台硬臥中段#19  5:00起床 晴 》

 

<天人一人有>
寝台車の厠(かわや・便所・トイレ)に貼られた標示「天人一人有」、意味は理解できなかったが、自分なりに解釈してみた。
なんと素晴らしい厠(WC)の使用表示ではないか。 トイレに天と人を結びつける豊かさは、中国古来の思想からきているのであろう。
人類は、地球星の至る所で、その環境に合わせて自分たちの智慧を表現し、お互いの愛の形を姿に現してきた。 悩みや、権力や、喜びをも何らかの形や言葉にして、その影を残してきたのである。
漢字の意味を考えてみるのも面白い。
いつか「天人一人有」とトイレの関係の本当の意味を知りたいと思っている。
多分、使用中、中に人がいますという表示だろうが・・・


西安駅に着いて、次なる目的地である「蘭州」行の切符を予約する。
<8月5日 列車T52/3 西安12:52発 ⇒ 蘭州20:23着 硬座 270元>


< トンボ玉とシルクロード
わが朋友に、琥衆を号するトンボ玉(京瑠璃玉)作家がいる。
彼の依頼もあり、シルクロードにおけるトンボ玉のルーツをたどる使命もおびている。
エジプトや、ペルシャ・サザン朝を発して、カジュアル・ホータン・西安と渡り、日本に渡来したトンボ玉技法は、奈良正倉院平等院の台座に散見される。
トンボ玉のルーツをさかのぼり、トンボ玉の根源に触れ、永遠の光と命を友に持ち帰ることもシルクロード踏破の一つの使命である。

 

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      琥衆作とんぼ玉(京瑠璃玉)          サザン朝とんぼ玉 5~6世紀 中東地域 


< 砂漠とシルクロード

シルクロードは、遊牧民が住する果てしない砂漠の道であった。
平山郁夫画伯の日本画に見るように、夕日に照らされた隊商がラクダとともに月明を引く幻想の世界である。
今回、一度は訪れてみたかったタクラマカン砂漠

サハラやゴビ、ナムビア砂漠の地で天の川を見上げた時の感動がいまだ忘れることが出来ない。

中国唐の詩人 白楽天白居易―はくきょいーの号)も「花を香ぐ」と謳いあげている。

 

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       月明の砂漠 平山郁夫

 

シルクロード、それは果てしない砂漠の道である。
夕陽に照らされ隊商がラクダと共に影をひく。

 

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      タクラマカン砂漠の隊商  クチャ(輪台)近辺   Sketched by Sanehisa Goto

 

西安(Xi an - 長安 )とシルクロード

シルクロードは、長安に始まり長安に終わると古人は言う。今日の西安である。
日本では、遣唐使や仏教僧の往来により、大唐の都 長安をモデルに平城京平安京が造られた。
長安は、2000年の間、秦の始皇帝前漢武帝武則天、唐の玄宗楊貴妃など、歴史上のヒロインを輩出し、多くの物語を今に伝えている都であった。
この長安西安)が、シルクロード東の起点であり、天竺まで仏教の経典を求めて旅に出た三蔵法師である玄奘が出立した地でもある。
また、西安と日本との交流も古く、遣隋使や遣唐使が派遣され、日本の国づくりに多大の影響を与えた。

その西安は、陝西省省都で、関中平原の真ん中にあり、人口約700万人の大都会である。
南に横たわる秦嶺山脈からの風が吹き込み、空気は乾燥している。

 

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        長安城南門 (西安) シルクロード東の拠点 Sketched by Sanehisa Goto

 

シルクロード東の起点であり、入口である西安には、上海より列車に乗り、北京経由で到着した。
西安での8月3日~6日間の3泊の滞在先は、西安国際ユースホステルである。

 

    △ 8月3~6日  西安滞在先 「西安国際ユースホステル」5連泊 
 西安邦院国際青年旅舎」Xi’an International Youth Hostel

  西安市南大街里西順城巷甲2号   地下五人部屋ドーム @20元X2泊=40元

 

西安国際ユースホステルは、古典中国の宮殿風「大海鮮飯店」の一部で、ドミトリーとしてバックパッカーに開放している。

同室のムスレムのモハメッド君と意気投合、立派なムスレムである。彼の意見「将来、ユダヤ教イスラム教・キリスト教は必ず平和と自由と愛のもと、平等な暮らしができることを信じている」と。 わたしも同感であることを伝え、互いに平和と平等に向かって努力をすることを誓い合った。
現在、彼は西安大学のドクターコースに在籍し、歴史学と考古学を研究中とのことである。
宗教を認めない共産中国での勉学の困難さを克服しているその姿勢に確信に満ちた強い意志を感じた。
彼は、授業料に回すため、生活費節約のためここユースホステルを仮の住居としているという。

西安国際ユースホステルの地下1階110号室、入って奥の二段ベットの上段が、西安での居住空間である。頭上30㎝の天井扇がうなる中、決死の昇降を繰り返すこととなった。
隣にあるリビング・ルームではテレビが置かれ、「サッカーアジアカップ準決勝」二試合が行われ、多国籍宿泊者の応援合戦が繰り広げられていた。
<日本vsサウジアラビア>、<中国vsイラン>の両試合とも延長戦となり、PK戦での決着という壮絶な戦いとなった。中でも<中国vsイラン>のシルクロード国同士の戦いは、激しい肉弾戦であり、消耗戦を繰り広げ、両国応援団の熱き絶叫が夜遅くまで響き渡った。
アジアで覇権を争う中国とイラン、それも今夜はサッカーによる代理戦だけに両国応援団も一歩も引かない。その異常な雰囲気を、フランス・ソルボンヌ大学院・中国考古学専攻のヌボール君と一緒に固唾をのみながら見守った

 

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                  西安国際ユースホステル

 

西安国際ユースホステル近くの鐘楼より西へ1筋目を下ると屋台が延々と並び、シシカバブを焼く香ばしい匂いが流れるなか、たくさんの市民がそぞろ歩きを楽しんでいる。中国では人の群れる様に出会うたびにその生きる力、熱気、エネルギーを感じたものである。その人の流れは、大河のうねりとして迫ってくる。

小物屋が集まる、一本の細長く人の肩が触れ合う路地を歩くのも中国の宇宙観にひたれる瞬間である。


裸電球の光は、路地の隅々までは届かず、片隅に吊るされた竹籠の住人である鉄仮面のコオロギが、差し込まれた一本のキュウリを不愛想にかぶりついている。食べ疲れては、チロリンチロリンとチェロを弾いては、流れゆく人の群れを引き付ける様は、まるで山水画に描かれた仙人のようである。

さらに横の狭い路地に足を踏み入れると、そこには貧民窟のようなすえた匂いの中に、人懐っこい笑顔、声高な笑い、小さな幸せ、干された洗濯物、かじられた大根の切れ端、穴の開いたぼろ靴下が捨てられている。そして路地を抜けると高級マンションの世界が広がり、ベンツが走り、高級品で身にまとった夫人が闊歩している。

ここにも清潔な街路の陰に、苦悩と貧困、喘ぎ、悪臭、いざり、物乞いが見え隠れする中国の現在の影がある。

 


《 8月4~5日 西安 快晴 本日のスケジュール:兵馬俑

 

<ミニバスで兵馬俑に向かう>

西安駅広場東側より、路線バス#306・#307 <兵馬俑>行が出ている。
路線バスに乗るつもりだったが、ミニバスに声を掛けられ5元で兵馬俑へ行くという。
安さに負けて、飛び乗ったがなんとすでに定員の倍のすし詰め、外人と見て取ったのか、運転手席の半分に座らせてくれた。
今度は、高速道路に入ったらおんぼろのミニバスは、時速100kmの猛スピードで突っ走るのである。
それも、急停車したと思ったら乗客の半分を降ろすのである。何が起こったのか一瞬わからなかったが、
どうもその先で警察の検問があるようで、定員オーバーをごまかして通過、移動してきた乗客を再び乗せて発射オーライである。


それは西遊記に登場する孫悟空の活躍である軽業を見る思いであった。
これこそ中国ビジネスの真骨頂といえようか。庶民の生きるための知恵なのであろう。

秦の始皇帝は、中国4000年の歴史にあって、紀元前221年この地に初めて統一国家「秦王政」を作り上げた。
西安の近郊で、秦の始皇帝を守る地下軍団の杭である兵馬俑が1979年に発掘されたときの新聞発表は世界中に衝撃を与えたものである。


その時に受けた興奮を今も覚えている。
ニューヨークタイムズが、その第一報を伝えた時、わたしはマンハッタンのオフィスで人類史上、大きな遺産の発見となった兵馬俑の発掘を祝ったものである。
その25年後、シルクロード西進時、現場の地下に立ってその兵馬俑のパノラマの壮大さに度肝を抜かれた。

秦の始皇帝は在位15年で没したが、地下の兵馬は紀元前221年より、現代の2004年の約2225年間始皇帝を守り続けているのだから、その権威の継続に驚かされ、権力の絶大というかその権力への執念がうかがい知れる。

古代中国の宇宙観である「天は丸く、土は四角」を、銅車馬が物語っているのだから壮大である。また、始皇帝は永遠の魂を信じていたように、わたしもまた、人間は星の王子さま・星の王女さまとして地球での勤めを終えれば、魂となって自分の星に帰っていくと信じている一人である。

 

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          2225年間、兵馬俑始皇帝を守達り続けている兵士達

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                 <秦始皇兵馬俑参観留会>スタンプ

 

<激辛ラーメン 1.5元 と 漢詩

兵馬俑の観賞を終え、博物館の建物を出て、バス通りを右へ100mほど行ったところで、しきりに笑みを浮かべ、手招きしているラーメン屋の女将さんと目が合った。
まだ朝食をとっていなかったお腹は、しきりと激辛ラーメンを所望、お陰で中国本場のラーメンを、汗をふきふき香辛料の効いた激辛のハッカ味を楽しむこととなった。
シルクロードの東の入口でラーメンを食べたというだけで、孫悟空になった気持ちだから不思議なものである。すでに絹之道を一歩踏み出しているのだ。


興奮冷めやらないなか、朝の激辛ラーメンを食べ、兵馬俑の近郊を散策し、秦の始皇帝の墓陵を訪ねたおり、石榴の実を愛でながら、絹之道<シルクロード>へ発つよろこびを漢詩金玉佝編「王維渭城」に託して吟じ、シルクロード出立にあたりスケッチに漢詩を書いてみた。

 

「王維渭城」漢詩金玉佝編       

渭城朝雨 浥軽塵客    渭城に、朝降った雨が 客の塵を軽く濡らし
舎熟石榴 色新功書   屋敷の石榴も熟し、功書色新たなり
更盡酔酒 西出陽芖   酒に酔うままに 芖の陽のもと西へ立たんとする
無故人我 長安音惜   人われなきゆえに 長安の音を惜しみながら
歩訪霊魂 発絹之道   霊魂を訪ね歩くため いま絹之道を出発する

 

 <歩訪霊魂 発絹之道>

  改詩 後藤實久

古城の跡に 小雨煙る朝が訪れ
人は自然に親しみ 心軽やかなり

舎殿の跡 周りには石榴実り
青色から黄、橙と色新しくある

昨夜飲みし酒の酔いいまだ残り
陽の昇る様を西に映る陽光で知る

今はなき昔人の心 我を包み込み
長安の昔 懐かしき都を思い出している

これからの霊魂を求めての歩みを
この西安から絹之道に入らんとする

 

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        「王維 渭城」 改詩 <歩訪霊魂 発絹之道> By Sanehisa Goto 


兵馬俑の付近には熟した実をつけた石榴の果樹園が目を引く。
始皇帝が自分の墓と定めた農村の小道の両側に石榴がたわわと実をつけているさまは、詩を詠み、絵をかき、書を遺す雰囲気を醸し出している。

《 精華池に 熟し楊貴妃 石榴かな 》  實久
―せいかちに じゅくしようきひ ざくろかなー

 


<16年後、中国政府「デジタルシルクロード」を提唱>

この「シルクロード踏破16800㎞」を仕上げていた2020年1月のNHKの日曜スペシャル番組で、中国はファーウエイの5G を中心とした新たな「デジタルシルクロード」を提唱し、関係各国とスマートシティ構想の提携を進めているという内容の特集を組んでいた。
現在、中国共産党の指導のもとにある中国は、中華思想(世界の中心)の再確立と覇権を目指しており、近年の世界の工場として蓄積した潤沢な外貨でAIや電気自動車、5G、ロボット、ドローンなどを育成し、世界市場いや世界制覇に着手していることがうかがえ知れる。

マルコポーロ時代の、シルク(絹)による世界市場獲得に変わって、現代シルクロードの「一帯一路」による 、スマートシティというインフラ整備の投資もまた、シルクロード的発想によるのだから、中国から世界への挑戦の姿勢はいまだ続いているといえる。

シルクロード<絹の道>は、繭から吐き出す糸で織った絹を胡の国(えびす・西方民族)に運び、天馬<天駈ける馬>が欲しかった中国皇帝との交換から始まった交易の道である。
その交易の道シルクロードは、絹からデジタルに受け継がれているのだから、その交易の内容が変わっても、シルクロードの役割は変わっていないようである。

ちなみに、現在の<天架ける馬>天馬はイランのペルシャの遺跡ペルセポリスでお目にかかれるし、<天架ける馬>と思われたダチョウはアフガニスタンパキスタン東北部パミール高原を源流に、シルクロードを経由して長安に届けられた。

 

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                  天馬<天架ける馬>二頭の馬浮彫
         (イラン ペルセポリス アケメネス朝ペルシア 前522-前465年)

 

西安  食品市場での光景>
兵馬俑の帰り、食品市場に立寄った。
ダッグ(鴨)の頭、スッポンの甲羅と手足、鯰(なまず)、鶏の脚、蛇(へび)、ハクビシン、イタチ、田螺(たにし)、蛙、カタツムリ、泥鰌(どじょう)、ネズミ、アナグマ、コウモリが所狭しと重なり合っている。
また水槽には生きた彼らが頭をもたげ、必死に「わたしたちを助けてー」と叫んでいるように見える。
目と目が合って、親しみを感じるが、かれらは胃袋におさまるのを待っている哀れな生贄なのである。
蛙の大きいこと、良くもここまで大きく育てたものである。コオロギの巨大さにも驚かされた。

ウサギ、ガチョウ、しゃも、鳩、鴨、ハクシビンや蝙蝠(コウモリ)たちも狭いゲージに押し込められ、動きもままならずこちらに向かって助けを求めている。中には元気なのがいて檻から脱出しようとチャレンジし続けている。
その空しい動きに反して、人間の生存への貪欲さを見る思いであった。


かれらの生きている匂いがいつまでも消え去ることはなかった。
かれらは中国14億人の胃袋を満たすのである。

しかし、現在2020年4月、彼らは人間にコロナウイルスという細菌で復讐しているように見えるのである。

 

SARSと野生動物>
中国では古来、野生動物を珍味として食する習慣がある。
SARSが流行った2003年、わたしは青島から北京、西安重慶武漢黄山、桂林に旅した時、桂林の屋台で食べた肉炒めによって痰の絡む咳、高熱、吐き気と悪寒に襲われ、現地の病院に入院することなく、急遽香港経由日本に帰国した。
その足で自宅近くの総合病院にて受診、重度急性肺炎と診断され、即入院した。CT検査に映し出された両肺は右肺が100%真っ白の影、左肺が90%白い影であった。医者によると完治する見込みのない症状であったという。
わたしは死を覚悟し、頭を丸めて入院療養に入ったが、医師団の懸命な治療により奇跡的に命を取り留め、退院にこぎつけたのである。
その後、屋台で食べた肉炒めが、SARSの病原因といわれたハクビシンではないかと疑っている。

2020年4月現在、全世界に蔓延しているコロナウイルスの病原体が、野生動物であるコウモリともいわれているが、それであればSARSと同じく、すでに抗体があるはずだが、SARSと異なり対処法がないといわれ、新型コロナウイルスとして医療崩壊を起こしている。
一説には、バイオテロに使われる細菌が漏れ出たとの報道もある。
一日も早い終息を祈るものである。

あの市場で出会った哀れな動物たちの視線がいまなお脳裏に焼き付いている。


食品市場の帰り、西安城南門にある「西安中國書海芸術博物館」に立寄った後、西安駅で8月7日の<蘭州⇒張液>間の硬臥(三等寝台)の切符予約をした。

 

 

 

      星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』②前編 

            西安 ⇒  ウルムチ/烏魯木齊 >

                に続く

         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020『星の巡礼 蓬莱山雪中キャンプの春嵐』

2020『星の巡礼 蓬莱山雪中キャンプの春嵐』
    ー比良山系・春嵐<比良八荒>からの脱出―

       ―蓬莱山登山<金比羅峠ルート>の現況―

 

どんな山も登山者を拒まない。
そこにある山はいつも優しく誰でも迎えてくれる。
山々はいつもそこにどっしりと腰を落ち着かせ、哲学者のように自分を見つめ、己を深め、己の運命を甘んじて受け入れている。


その不動にして寡黙なる姿に、人々は神の存在を感じるのである。
この愛する山々も自然の猛威に耐え、己の存在に時を刻み込んでいる姿はいつの時代にあっても人々に感動を与えるものである。
山への畏敬の念をもって接する心が人々に芽生える瞬間でもある。


山の姿はその自然の移ろいによって変化しつつ、静かに登山者を見守ってくれるのだからうれしい。
今日も又、愛する山に抱かれ、優しい春の風に包まれている喜びを体いっぱいに感じた。
しかし、夜半に吹き荒れた春嵐である春一番<比良八荒>はまた、季節の変わり目の山の厳しさ、死を招く強い風の恐ろしさを登山者に教えてくれた。

 

《 八荒や 琵琶に吹き落つ 比良の神 》  實久
        ―はっこうや びわにふきおつ ひらのかみー

(比良八荒とは、比良山系からここ志賀の里―志賀より近江舞子にかけてーを駆け抜けて琵琶湖に向かって吹く、冬衣を捨て、春を知らせる強風のことである。)

 

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木蓮が咲くころ、雪中キャンプを楽しみに蓬莱山に登っている。今年は極端に積雪少なく、びわ湖バレーのゲレンデもコロナウイルスの影響もあってか人影もまばらであったが、大自然の美しい夕暮れや夜空に輝く星座に魅了された。寝袋に潜り込んでからの深夜の強風(体感風圧30)にテントごと吹き飛ばされる直前、急遽避難、ヘッドランプを頼りに深夜の撤退下山というハップニングに見舞われた。長年の登山の中での貴重な体験に少し興奮したものである。

 

《 咆哮の 怯え縮みし 春嵐 》 實久
 ―ほうこうの おびえちぢみし はるあらしー

テントを揺さぶる春嵐の咆哮に、身を縮め怯えた一夜であった。

 

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               びわ湖バレー打見山ゲレンデをバックに 

 

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                  びわ湖を見下ろす蓬莱山での露営

 

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残雪少ない蓬莱山(ゲレンデ)を眺める        打見山を見下ろすテントで夕食の準備

 

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                   蓬莱山の夕日に映える鱗雲

 

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                   蓬莱山頂より夕陽観賞

 

先日、NHKBSで田中陽希氏によるグレートトラバス3 日本三百名山全山人力踏破として55座目の蓬莱山が紹介されていた。その蓬莱山に何度登ったことだろうか。

 

             1174m蓬莱山☟        ☟打見山1108m

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        NHK BS グレートトラバース3で、 三百名山 蓬莱山1174mが紹介された

 

今回も残雪の比良山系に連なる蓬莱山の春を迎える懐に抱かれて眠るため、十分な準備をして蓬莱山に登ってきた。
春の陽気は、テントに敷かれた山の土の柔らかい温もりとなって、寝袋をとおして優しく体を包み、冬の厳しさを乗りきった日々を聞かせてくれるのである。
蓬莱山の寝物語を聞きながら、眼前の暗闇に広がるびわ湖に映る湖畔の灯火に哀愁のメロディーを聞き取るとき、神に抱かれている喜びにひたるのである。
ふちどられた湖畔に比良の山々の雪解け水が黒く浮き立っているのが見える。
なんと素晴らし影絵であろうか。


優しい春風がテントに溢れた。

 

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             テントから眺めるびわ湖(堅田)のファンタスティックな夜景

 

闇夜をとおして対岸の近江富士と呼ばれる三上山のシルエットがほんのりと東に腰をおろし眠りにつこうとしている。

当初の計画では、天気予報に合わせて18~19日の二日間の野営を決めていた。それは16日夜半に積雪があり、17日の母の命日に彦根へ墓参した折、雪をかぶった比良山系の銀峰の美しさが目に飛び込んできたからである。
墓参より帰宅し、この時を逃してはならないと急ぎパッキングに取り掛かった。
18日朝、いざ蓬莱山への雪中キャンプに出掛ける段になって、前日までの墓参・登山準備に疲れたのであろうか、倦怠感のままでの登山をあきらめ、一日延期させたのである。
想いは強くても体がついていかない年齢に達しているのだ。

19日朝の天気は、快晴であり、気温も18度と登山日和に気をよくして、一日延期の天気予報を確認しないまま登山に出発した。
帰宅して天気予報や天気図を確認したところ19日夜から20日の明け方にかけて、日本列島は東西に低気圧が居座り、強風を伴った北風が吹き荒れることを示していた。
そう、天気図は湖西地方に吹く春一番<比良八荒>を描いていたのである。

老ゆるのもいい。 
枯れゆくとは、素晴らしい人生の黄昏である。
山に登るにも一歩一歩味わいながら、己を見つめながら時間をかけるようになってきた。
老ゆるとは、歳と共に己の若さを削って老いの楽しさを加えていくことなのであろう。

老が始まってから、若さに任せた無謀というか無茶な登山が出来なくなってきた。
百名山を踏破していた頃のように山頂に立つこと、征服することの満足感や達成感は過去のものとなった。
老いてからはそれなりに山と語らい、その山の持つ魅力を味わいながら登らせていただくという姿勢に変わってきたのである。

今回も、冬季の厳しい雪山ではなく雪残る春爛漫の低山での雪中キャンプンを楽しみに出かけた。
残雪の上にテントを張り、雪をバーナーで溶かし熱いコーヒーをすすりながら、ヒーリング・クラッシックを聞き、びわ湖を囲む峰々の眺望を楽しみ、夜景の美しさに心奪われ、夜空に輝く星座に見とれたこれもまた老いの楽しみの一つである。

打見山を経由し、蓬莱山に着いた頃は、晴天のもと照り付ける太陽をさんさんと浴び、春を迎える優しい山の風を胸いっぱいに吸い込んでいた。

久々の山登りである。心も晴ればれ、汗も山の風に清々しい。


山の上で、雪に囲まれ独りいることの豊かさ、何にもまして贅沢である。

 

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                                         春うららの山に臥すー独り寝の楽しみよ~

 

年一回の雪中キャンプ、今年は積雪少なく、いつもの設営地である金比羅峠ルート上には雪は消えていた。二日前対岸の湖東からみた雪帽子をかぶった比良山はどこにも見当たらない。18度を越える気温に雪は溶けてしまっていた。

 

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              1174m蓬莱山☝        ☝打見山1108m

 

ただ、びわ湖バレーのゲレンデには今なお雪が残り、太陽に輝くなか軽装のスキーヤースノボーを楽しむ人たちが散見された。

 

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                  びわ湖バレー<蓬莱ゲレンデ>

 

蓬莱山東尾根からはじまり、JR蓬莱駅びわ湖バレー山麓駅へ下る<金毘羅峠ルート>下山口には、立入禁止の標識がいまだ立つ。この金比羅峠ルートのうち、峠からのびわ湖バレー山麓駅コースは一昨年の台風による倒木で立入禁止になっているからである。


この標識より約100m入ったルート上が恒例の露営地である。
この露営地からの雄大な景色であるびわ湖とそれを取り巻く鈴鹿山脈の絵画的な風景が好きである。
夜は灯火に囲まれたびわ湖が漆黒の水がめとして浮かび上がり、その神秘性にも心揺さぶられる。

また、テントから眺める夜空一杯の星座の美しさは格別である。
何といっても狭いテントで独り闇夜と向きあい、山の鼓動に耳を傾け、神と語る喜びにひたれること、
これこそがここ蓬莱山で露営する魅力である。

夜7時半、赤ワインを流し込み、NHKの深夜番組に耳を傾ける。ジャパニーズポップスの軽快なメロディーを流している。


幻想的な霧がかかりはじめたと思うや、その二時間後には灰色の重たい雲の中にテントは孤立していた。
荒ぶる気流にテントは徐々に鳴き声を上げ、悲鳴をあげだしたのである。
灰色の雲が時速30~40k/h(推測)で黒雲に襲い掛かり、漆黒の天空は一瞬にして戦場と化した。
テントはただただ身をひそめ時を過ごすつもりだが、強風は容赦なく襲い来る。

そうだ、この暴風は比良特有の春一番<比良八荒>であるのではないのだろうか。
この時期、昔からびわ湖での漁に襲い掛かる強風があり、多くの犠牲者を出していたこと、荒ぶる死を招く恐ろしい強風<比良八荒>を鎮めるための祈りがささげられたことを聞き知っていた。

顔を出して様子を見るに、意外にも天空の隙間、雲間に星空がひろがり、星たちが駆けっこをしているように見える。そう、星たちは悠久にその位置を変えはしないが、近くの雲たちの駆けっこが星を動かし、走らせれているように見えることに気づいて、恐怖の中の一瞬、こころが和んだ。

まだこの時点では強風も、露営で味わえるエンターテイメントに思われていたが、深夜に近づくにつれて、咆哮は暴風に変わり、テントは春一番<比良の八荒>に耐え切れずに悲鳴をあげだしたのである。


緊張が走り、停滞か退避かを考え始めた。

 

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金比羅峠ルート<蓬莱山下山口>          露営地よりの打見山眺望

 

 

<強風に大荒れの蓬莱山より退避・下山する>

 ―蓬莱山登山<金比羅峠ルート>の現況―

 

比良山系の春一番<比良八荒ーひらはっこう>の洗礼

 昼間の快晴、優しい風、高い気温では考えられない天候の急変は、夜半の強風に見舞われるまで心することはなかった。

ただ、設営にあたって、ラジオが伝える今夜の気象状況で、気になる<風が吹き小雨があるかもしれない>という点を頭に入れながらテントを張ることにしていた。

特に強風は要注意である。ここ比良山系には比良八荒という強風が季節の変わり目にあるということを山麓住民として経験上その強風の威力を知っていた。強風に耐えるロープの張り方・ペグ打ちにこだわった。
このこだわりが夜半に襲いかかる強風<比良八荒>から身を守ってくれたのである。

特に比良八荒という強風に煽られないために、二本のロープを枯れた大木に結んだ。そして反対側の二本のロープを、根っこを束ねた枯れ笹にくくりつけた。また強風でテントが移動しないように四隅にペグを打ち込んだ。
しかし強風の絶え間ない来襲で、テントは凧のように風を受け、くノ字に曲がり今にも谷底に向かって吹き飛ばされそうである。 必死で風圧に対して立ち向かうが、体そのものを吹き飛ばすような圧がかかりテントともに体をも動かし始めたのである。

そう、強風に立ち向かう雨傘をすぼめて風圧を和らげようとする行動によく似ている。しかし一瞬にして強風は傘を破壊して吹き飛ばしてしまう様に似ているのである。


その危険な一瞬を思い描きながら、必死になってテントを自分の体重で抑えようと頑張ったが、風圧に抗しきれず少しずつテントの移動と共に己も体重移動し始めた。


このままだと危険であり、死へとつながる。

 

谷間に落下していくのは時間の問題であるように思われた。
それからの脱出行為は脱兎のごとく果敢に行動した。全体重でテントを押さえながらまず登山靴を履き、リュックに寝袋はじめ携行品を押し込め、思い切って強風の中へ飛び出したのである。それは立っていることすら困難な強風であった。

リュックを飛ばされないように枯れ木に結び付けているあいだ、テントは風にはためき今にも千切れんばかりの勢いである。大凧が今にも糸を切り大空へ飛び出す勢いである。
そう、テントを離れたと同時に四隅のペグは抜けてしまっていたのである。

当初、テントを放棄し、リュックだけをかかえて避難するつもりであったが、長年連れ添った愛着のあるテントを見捨てるにしのびず、危険をかえりみずテント救出に取り掛かった。
今から考えると無茶な行為であったと反省しきりだが、自分の分身を失い、悔いをのこすことよりも、最善を尽くしてみることの方に無意識に体が動いていたのである。

それは、昨年の鯖街道縦走での<根来坂峠>での倒木回避中に起こったリュック滑落紛失での喪失感にある。

まず、枯れ大木にくくりつけたメインロープ二本を解き、テントを懐に巻き込みながら、残りの枯れ笹の根っこにくくりつけていた二本のロープを解きにかかった。しかし、なかなか解くことが出来ないのである。
風によるテントの吹き上げによって、結び目がより強固になり解けない。枯れ笹の根っこも大地に張り付き抜くこともできないではないか。

更なる強風の加圧にこれ以上時間を無駄にすることは身の危険にさらすことになる。
枯れ笹に申し訳ないが、ナイフで二本のロープを切り離すことにした。
いまにも強風に体をさらわれそうになりながら、リュックを担ぎ、テントを胸に抱きしめ<金比羅峠ルート>上の150m先の窪地に転がり込んだ。

 

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蓬莱山・金比羅峠ルート上の窪地に退避

 

暗闇の天空は強風の轟音と、音に合わせて強風が舞い、蓬莱山頂を覆っている白雲や黒雲がぶち当たっては千切れ、激しくその形を変え、北から南に向かって咆哮を残して走り去っていく。
まるで悪夢であり、戦場である。

しばらく息を凝らして窪地でテントを体に巻き付けて低体温をふせぎながら、激しい雨雲の乱舞を見ていたが、疲れのためかうとうとしたようである。
目を覚ますと深夜3時過ぎであった。

強風がおさまりかけていたこの時とばかりに窪地を抜け出て、下山することにした。
暗闇の下山は滑落や転倒の危険性はあったが、それよりも強風による低体温の危険が迫っていたからである。
手足の指の感覚がなくなりつつあった。

 

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            昼間の快晴から深夜の強風への急激な天候の変化に驚く

 

帰宅して過去2日間の天気図を調べてみると急激な天候の変化がみられ、特に
19日深夜から20日早朝にかけての日本列島は、気圧の谷に入り、猛烈な北風<春一番>が吹き荒れたことがわかった。
山は急激な天候の変化を伴うという原則を知りながら、春の陽気に誘われて入山したことへの反省しきりである。

 

<比良・金比羅峠ルート>倒木・崖崩れによる危険地帯情報

(2020年3月20日現在)

 

深夜の暗闇、ヘッドランプを頼りに下山するとき、緊張感が走り、浮石や岩に足を取られ、倒木を避け、ロープを頼る腕にも力がはいる。

永年の登山をしている間に幾度も命を落としかねない数多くの場面に出会ってきた。
最近では、昨夏踏破した鯖街道の峠<根来坂峠―ねごろさかとうげ 833m>を越したあと、倒木に出会い、突破しているときにリュックを谷間に滑落させた苦い記憶がよみがえった。一歩間違えリュックの代わりにわが身の滑落であったならば命を落としたであろうことを思い出していた。

(参照:ブログ「東の鯖街道<針畑越えルート> 縦走日記②」)
https://shiganosato-goto.hatenablog.com/entry/2019/11/27/150923

蓬莱山からの下山路<金比羅峠ルート>は、金比羅峠までに二か所の<危険立入禁止>や<遭難多発危険>の標識のもとルート変更を余儀なくされ、指示された下山方向へ向かった。
各危険・立入禁止個所にはロープが張られ前進を阻んでいるので従ったからである。
特に、金比羅峠手前の<立入禁止>標識には倒木による危険性、遭難多発、婦女子は絶対避けるべきであるとの警告書が貼られていた。

迂回路として熊笹の繁る急斜面に左右2本のロープが張られ誘導しているので、暗闇のなかロープに身を託し、足を笹に滑らせながら金比羅峠にたどりついた。
通常、金比羅峠より左に入ると<びわ湖バレー・ロープウエー山麓駅>ルートに下っていくのであるが、ルート途中の一昨年の台風被害による倒木地帯が横たわり、登山道が失われ遭難の危険性があるとのことで完全通行禁止となっている。
ただ、金比羅峠を左に<JR蓬莱駅>へ向かうルートは異状なく、安全な登山道が確保されていた。

 

 

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金比羅峠手前(下山時)の危険個所には次のような警告書が貼られ、ロープが三重に張られている。

 

<この先、事故多発!! 倒木が進路をふさいでいます
 昨年の体位21号のえいきょうにより、この先の「金ピラ峠コース」は、写真のように大量の倒木が登山道を塞ぎ進路を阻んでおり、下山できないなどの救助事故が多発し、負傷者も発生しています。
可能な限り、このルートへの入山は避けてください。
特に情勢やお子様連れのパーティは入らないことをお勧めします。>

 

暗闇の中での下山中だったため、詳細をお伝え出来ないのは残念だが、金比羅峠を通過して蓬莱山へ向かうときには、峠先の登山路を右へ行かずに、迂回路に入ってロープの力を借りて上りきって登山路に出ることを記憶に留めておいていただきたい。この迂回区間の登山道はがけ崩れのため死者も出ているという。

 

  ☟蓬莱山1174m

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   比良山系・蓬莱山登山道<金比羅峠ルート>付近地図               JR蓬莱駅☝ 

 

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           2020年3月20日現在 比良<金比羅峠ルート>現況

 

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金比羅峠に立つ標識<至びわ湖バレー山麓駅/至JR蓬莱駅>   <山麓駅ルート下山路・立入禁止>   

 

金比羅峠分岐では、左へ下り<JR蓬莱山>へのルートをとることになる。
峠より先は問題なく、林道のある登山口(下山口)に到着する。

 

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林道に立つ登山口標識「金比羅峠経由 至蓬莱山」  

 

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               JR蓬莱駅への林道にて穏やかな朝を迎えた

 

その先の登山届ポストの前にも警告板が立てられ注意を促していた。

 

                    f:id:shiganosato-goto:20200328121416j:plain

 

<注意  この先の金比羅峠から山麓駅ルートは
現在通行止めです。又峠の直後の蓬莱山ルートは崖崩れで危険ルートです。
滑落死亡事故個所です。十分注意して通行してください。>

 

金比羅神社あたりで朝日に迎えられ、一夜の強風の洗礼から脱出、安堵から歩をゆるめた。下山と共に、低体温からの手足の指のしびれも感覚が戻っていた。
南東の空にうかぶ上限の月が優しく無事の下山を喜んでくれていた。

無事生還したという気持ちになったとともに、貴重な体験をさせてもらったことに感謝した。
比良山系の春一番<比良八荒>を身をもって体験をさせてもらった一人となった。

これから<比良・金比羅峠ルート>の登山計画を立てられる方への参考になれば幸いである。

 

 

         2020『星の巡礼 蓬莱山雪中キャンプの春嵐』
          -比良山系・春嵐<比良八荒>からの脱出―

 

                完

 

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          比良・蓬莱山頂の鱗雲に夕陽が輝く瞬間を楽しむ

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            比良・蓬莱山頂より京都・西山方面に沈む夕日

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             春一番<比良八荒>に備えて設営したが・・・

 

2020『星の巡礼 淡路島一周サイクリング老人の旅』③

2020『星の巡礼 淡路島一周サイクリング老人の旅』③
   《第三日目 明神の浜 ⇒ 岩屋<道の駅あわじ>》

 

■ 3日目 <2月20日> 快晴 
 <山田漁港 明神浜―郡家―室津―斗ノ内―富島―野島江崎灯台

  道の駅あわじ(岩屋ゴール)>

  走行距離 31KM    :   走行休憩時間 6H
  △3日目最終ゴール    :          岩屋<道の駅あわじ>

 

昨夕、サンセットラインの夕陽に魅せられて、露営地である山田漁港につづくここ明神浜に着いたときはすでに日は沈み、ヘッドライトを頼りに暗闇での設営となった。

とっては返す小波の打ち寄せる音と、襲い来る心地よい疲れからくる睡魔に誘われて、寝袋に潜り込んだ。

実は、このときまだここが山田漁港の先に連なる明神の砂浜であることに気づいていなかったのである。

今朝は、GPSを頼りに近くの漁村を歩き、露営地がどこかを確認することにした。

 

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   最終露営地出発前に 明神の砂浜にて       砂浜設営は高波の危険があるので要注意


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   明神浜から山田漁村・漁港を望む

 

<日本の海岸線をゴミから守ろう!>

日本の海岸線の多くはゴミの漂着で汚れているが、ここ明神の浜は瀬戸内海の海流の関係であろうかプラごみやペットボトルの集積地のような観を呈している。

片づけても後からあとから押し寄せるゴミの山に対し、地元の住民や漁港関係者によって清掃活動が続けられていることに頭が下がる思いである。

出発前に、一夜のご縁に感謝して漂着ゴミ拾いに汗した。

人間の文化的利便性のもと使われているポリエステルやプラスチック製品の不使用、またそれに代わる地球に優しい製品開発が待たれる。それも急務である。

これらのゴミは地球温暖化を推し進め、いつかは恐竜のごとく人類もまた近未来に化石化して地球上より消滅する日が近いことを肝に銘じるべきである。

今に生きる一人一人の自覚に待ちたい。
われわれの素晴らしいこの地球星を汚染から守ろう!

 

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 ゴミのない美しい砂浜にもどることを祈りつつ       砂浜より集められたプラ・ポリのゴミの山 

 

<砂浜でのテント設営上の注意>

砂浜での露営は、水平線と同じ目線に沈み、打ち寄せる波の音に心癒され、天空の星空と語り、柔らかい砂ベットに臥せ、水際の散策、住民の皆さんとの交流という楽しみをあげることが出来るが、注意しなければいけないことは潮の満ち引きである。

波の浸入に慌てたり、荒波に身を危険にさらしたりと事故に遭うことである。
まずは、テントを張りたい浜と波の情報を集めておくことである。

浜に面するお宅を訪問し、聞き取りをするとともに、浜での一夜を過ごすことを伝えておくことが大切である。

意外と住民の皆さんとの交流を深めることができ、万が一のときの理解者となり、助っ人となることである。

テントを張ると、目立つものである。近隣住民の皆さんにいらない心配と、危惧を与えないようにするのがキャンパーとしての務めである。

撤収するときには、一夜の宿泊(露営)に感謝し、浜の清掃に汗することを心掛けたい。そして、浜を離れる(出発)時には、必ずお声掛けしたお宅に、出発の旨とお礼を伝えたいものである。

 

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<山田漁港・明神浜はどこに?>

前夜遅くに設営した明神の浜が、地図上でどこにあるかを確認せずに眠りについてしまったので、出発にあったって山田漁港・漁村をGPSを使って探索してみた。

 県道31(バイパス)と県道468の交差点に標識<智善寺1㎞>が出ている。
この交差点を左折すると漁村の細い旧道がつづき明神の街並みへと入って行く。

その先に山田漁港があり、その漁港を明神崎の鳥居が見下ろしている。 そしてその先で、昨夜通過したバイパス・県道31に出る。

昨晩設営した砂浜は、先の標識「智善寺」のある交差点を左折するとすぐに橋があり、橋を渡らずに右折し浜に出ると、露営に適した砂浜に出る。

 

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    標識<智善寺1㎞>を海側に左折      明神にある山田漁港(右手奥に江井崎が見える)

 

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       漁村の街並みー明神               明神浜より江井崎を望む

 

<江井を経て郡家にあるー伊弉諾神宮―に立寄る>

露営地である明神の浜をでて、前方に突き出ている江井崎を目指してペダルをこぐ。

早朝のサンセットライン(県道31)は、明石に向かうトラックが<明石淡路鳴門自動車道>に入るため速度を速めている。

そのトラックの風圧に、路肩に沿って走る自転車は横ぶれを起こし、一瞬ひやりとすることがある。

江井漁港をバイパスし、しばらく自転車を走らせると<郡家>の街に入る。

郡家の信号をサンセットラインから県道88に右折してしばらく行くと、左側に神話国産みの<伊弉諾神宮・イザナギじんぐう>がある。

 

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            サンセットラインの路肩の状況(大型車の風圧に注意)

 

伊弉諾神宮・イザナギじんぐう>

伊弉諾神宮は、古事記日本書紀に記載がある日本最古の神社であり、それも<はじまりの国 淡路国一宮>にある古来より人々に崇敬されてきた神社である。

 

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            淡路市一宮郡家にある日本最古の神社<伊弉諾神宮>

                                                      (写真・淡路観光協会提供)

 

<サンセットラインは最終地・岩屋へ向かう>

サンセットライン(県道31)にもどり、街にあるコンビニ<ローソン>で熱いコーヒーを流し込みランを続け、尾崎浜公園にある公衆トイレを拝借後、白い砂浜で休憩、さらに自転車を走らせると高速道路のインターチェンジ室津>の入口を通過する。

尾崎浜公園の先では、地点標識<岩屋から135㎞>を通過する。

ほとんどの大型車はここから高速道路を利用することになるので、室津から最終ゴールの<道の駅 あわじ>までは車の数が減り、走りやすいサイクルロードとなる。

 

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    尾崎浜公園にはきれいなWCがある      公園の先で地点標識<岩屋から135㎞>通過する

 

弥生時代の鉄器製造集落―五斗長垣内遺跡・ごっさかいといせき>

室津から東にむかうと、五斗長の集落がある。その先の黒谷に弥生時代後期(1~ 2世紀ごろ)に鉄器づくりをしていた村の跡(五斗長垣内―ごっさかいと遺跡)がある。

今から1900年前の弥生時代に、すでに日本では珍しい鉄鉱石を朝鮮半島などから輸入し、鉄器を作っていたという。
鉄矢じりを主とした鍛冶技術がすでにこの地にあったという先進性が淡路島には見られるから驚きである。

立寄って見るのもよい。

  

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     五斗長垣内遺跡の復元・鍛冶小屋

    (写真・淡路観光協会提供)

 

室津を出て育波漁港で休憩、海風にさらされた精悍な船姿に心をかき立てられる。
お土産の特産淡路島玉ねぎを購入し、アワイチ・淡路島一周の最後のランを楽しむ。

 

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          育波漁港             お土産の淡路玉葱を購入


育波漁港を出て、斗ノ内、モダンな新しい街・富島を抜けると最後の<淡路サンセットライン>に入る。

続く野島の浜には<サンビーチ>があり、テントを張ってみたい浜である。

サンセットラインには、自転車専用路が所々に見受けられ、ゆっくりと写真が撮れるのがありがたい。

しばらく走ると瀬戸内海を挟んで対岸に明石の街が見えだす。

<ステーキ&カレー Ocean Terace>(野島蟇浦)あたりから、のんびりゆっくりしたシーサイド・サイクリングを楽しめる。

堤防も低く、車も少なく、空気もきれいな<野島シーサイド・サイクルロード>がここ蟇浦から江崎灯台までの7㎞ほど続く。

しばらく陽光を楽しみながら潮風に押されて淡路島一周最後のサイクリングを楽しんだ。

 

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      野島の浜<サンビーチ>        堤防に造られた自転車専用路も一部に見られる

 

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      対岸の明石の街が見えてきた       野島平林では象さん親子が出迎えてくれる

 

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    野島シーサイドのサイクルレーン         江崎先海面での潮流の衝突がみられる

 

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    ゆっくりのんびりサイクルレーン          ようやく明石海峡大橋が見えてきた

 

<野島 江崎灯台

明石海峡大橋を見ながら走ると、右手に灯台のレプリカが見えてくる。
ここから180ある石段を上ると、明石海峡を見下ろせる丘の上に、明治4年から瀬戸内海を往来する船舶を見続けてきた日本で8番目の白亜の江崎灯台が建っている。

現在の灯台阪神淡路大震災で崩壊し、再建された2代目である。
ただ立入禁止なので海峡の絶景を眺望することは残念ながらかなえられなかった。

 

f:id:shiganosato-goto:20200220143434j:plain f:id:shiganosato-goto:20200220114404j:plain 明石海峡をコントロールする<野島江崎灯台>入口   明治4年に建った日本で8番目の江崎灯台

 

江崎灯台からは緑の歩行者・自転車道ラインに迎えられ、明石海峡大橋の下をくぐって、アワイチ・サイクルロードの発着地点である<道の駅あわじ>にゴールする。 

アワイチ標準総距離150㎞に対し、サイクルメーターの総距離は169㎞をさしていた。
アワイチを10~15時間で走りきるのがサイクリストの挑戦であり夢であるようである。 

しかし老サイクリストとしてはアワイチの風と語り、水平線と並行して走り、岬を目指して自転車を走らせる喜びを味わいながらのペダルこぎであった。

2泊3日のサイクリングは、この老人にとってゆとりある走りであった。

 

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   緑の歩行者自転車ラインに迎えられる

 

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             明石海峡大橋の下をくぐり<道の駅あわじ>に着き

            明石海峡大橋でアワイチ完走を祝う

 

神話の島である淡路島を巡り、神々にあたたかく迎えられ、神々と語りあいながら神々の息吹に触れることが出来た。

この島を作られた神々の声を聞きながら、豊かな恵み、さんさんと照る太陽に包まれ、神話の世界に遊ぶことが出来たことを喜んである。

今回も又安全走行を第一にして、時速約6㎞/h(走行総距離169㎞/走行総時間30h)という超低速であった。

亡き友と共に走った、思い出に残る自転車旅をなしえたことに感謝するものである。

 

          《 同衾の 猛る海峡 春嵐 》            

               -どうきんの たけるかいきょう はるあらしー

 

         《 羽振りて 潮呼び込みし 啼き海鵜 》   

            -はねふりて しおよびこみし なきうみうー

 

          《   淡路なる 神話の島や 春焦がる 》     

             -あわじなる しんわのしまや はるこがるー

 

          《 国生みの たどりし淡路 爺の春 》     

            ―くにうみの たどりしあわじ じじのはるー

 

            <俳句  ー淡路島ー 後藤實久>

 

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             夕日に照らされた優雅な明石海峡大橋

 

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  今日も岩屋へ向かうジェノバライン          明石海峡大橋の精悍な立ち姿

 

 

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        『星の巡礼 淡路島一周サイクリング老人の旅』

 

                    





 


 




 


 

 

 

 

2020『星の巡礼 淡路島一周サイクリング老人の旅』②

2020『星の巡礼 淡路島一周サイクリング老人の旅』②
  《第二日目 由良生石⇒明神の浜》

 

 

■ 2日目  <2月19日> 快晴


<由良生石(おいし)―相川―畑田―土生―阿万―福良―大鳴門橋―阿那賀―
   津井―松帆―五色―都志―明神の浜>

 

<由良生石(県道76/淡路水仙ライン)-阿万(県道25)-福良(県道25)-
   道の駅うずしお(県道25)―松帆(県道31)-都志―明神の砂浜>

 

   走行距離 87KM : 走行休憩時間 13H
   △2日目露営地   :      山田漁港先 明神の砂浜

 

 

凍でつく寒さのなか5時起床、さっそくガスコンロに火をつけ、体を温めるためにインスタントラーメンを作り流し込む。残り湯でコーヒーを沸かして一服。

テント内の湿気を乾かすために張りおいて、紀伊水道の防人である<生石鼻灯台>へ散策に出かける。

生石公園の紅白の梅の花が咲き誇り、梅香るなかで紀伊水道に浮かぶ友ケ島を遠望。

散策より戻り、撤収作業、感謝の祈りを捧げて一気にかけ下り、淡路水仙ラインである県道76の分岐に向かった。

途中、生石公園第一駐車場にあるWCに立寄り、用を足し、洗顔し、水を補給した。(雨水なので煮沸使用)

 

 

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     紀淡海峡から朝日が昇る          出発準備のためのパッキング

 

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  紀伊水道の防人<生石鼻灯台>             <生石鼻灯台>遊歩道

 

瀬戸内海国立公園 紀淡海峡

紀淡海峡に浮かぶ友ケ島は、神島・虎島地ノ島の総称である。

友ケ島は江戸幕府のころから大阪湾に出入りする船舶を監視する上で重要な位置であることから、紀州藩が加太に友ケ島奉行を置き藩士を常住させていたほか、明治21年には陸軍の軍用地として友ケ島一帯は由良要塞となり、第2次大戦が終わるまで一般人は近づくことも禁止されていた。

 

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  紀淡海峡に浮かぶ要塞・友ケ島を望む            紀淡海峡解説版

 

<南淡路水仙ラインー県道76を走る>

岩屋よりスタートしたアワイチ(淡路島一周サイクルロード)は、ここ由良生石(標高2.6m)より第一の峠(標高138m)への急登から始まる<南淡路水仙ライン>に入って行く。

県道76号線の一部である<南淡路水仙ライン>は、ここ由良生石より阿万(県道25との分岐)までの約20㎞の区間を呼ぶことにする。

 

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<南淡路水仙ライン>の起点<生石公園>分岐     県道76の分岐に戻り、急登を駆け上がる

 

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 水仙ラインは1.6㎞に渡り急勾配8%の表示     サイクルロード標識(岩屋より45㎞地点)

 

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    峠にある<立川水仙郷>

 

<南淡路水仙ライン> (県道76号線)

第一難関の峠(標高166m)を越えると、沼島を浮かべている大海原が目に飛び込んでくる。

峠を下ると素晴らしい海岸沿いの弾丸サイクルライン<南淡路水仙ライン>である。

<南淡路水仙ライン>は、峠に始まり峠に終わるが、その間の海岸弾丸道路はサイクリストの桃源郷である。


多くのサイクルグループがスピードを競って、弾丸のように一列になって風を切って走り去る姿は、つむじ風のようである。

 

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            <南淡路水仙ライン>の快走路 (背後の島は沼島)


 アワイチの醍醐味は、多くのサイクリストを魅了する条件の一つであるタイム・チャレンジができることであろう。タイムレースに挑戦できることである。


ここ<南淡路水仙ライン>は、サイクル条件である車の量、大型車からの風圧やアップ&ダウンそして難路が少なく、タイムアップできる数少ない平坦地のつづく区間であるといえる。

10・8・6時間切りを目標にするタイムレース中のサイクリストにとって、ここは時間短縮をはかれるサイクル区間であるといって言い。

そのタイムレースの中に紛れ込んで、古風なサイクリングを楽しんでいる2泊3日の老サイクリストもいるのである。

タイムレースもいいが、風に遊び、雲に導かれ、海と語り、テントから天の川に紛れ込み、俳句を作り、詩吟を吟じる。そして火をおこし、熱いコーヒーを流し込む。

なんとロマンチックなサイクルの旅ではないか。

 風に吹かれてさまようサイクリングも又いい。

 

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             <南淡路水仙ラインを沼島目指して快走>

 

南淡路水仙ラインでは、<立川水仙郷>・<淡路島モンキーセンター>・<灘黒岩水仙郷>に立寄ることが出来る。

 

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   お猿さんが潮塩をなめる姿に出会う     海鵜たちもサイクリストに声援を送ってくれる

 

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            サイクリストのパラダイス<水仙ライン>

 

<神話の沼島 と 沼島水軍>

ここ土生(はぶ)港より、神話の島<沼島>への連絡船が出ている。自転車は土生港に駐輪。
先にも述べたが、沼島は古事記にでてくる神話<国生み>の島の一つである。

島には、港の右手丘にある自凝神社(オノコロじんじゃ)、港より島を横断し約20分で行ける東岸に突き立つ「上神立岩」や、 港の観光案内所の近くにある神宮寺に梶原景時の墓がある。

自凝神社(オノコロじんじゃ)は、国生みの神話に出てくるイザナギイザナミの二神が祀られ、結ばれて生まれたのがここ沼島といわれる。

上神立岩は、高さ30mで、国生み神話の「天の御柱」といわれ、竜宮城伝説の表門ともいわれている。

ここ淡路島土生と沼島の間には、沼島汽船が運航している。 天候により出航決定は、定時の20分までに船長によってなされる。 

便数は6時より18時までの、10・12・16時を除いた10便である。 所要時間は10分。

運賃は480円である。 出航の確認は、沼島汽船土生営業所:0799-56-9644にて確認のこと。

鎌倉時代武家の棟梁源頼朝の側近であった梶原景時は、頼朝の死(1199‐建久10年)と同時に頼朝の妻・政子の実家である北条氏をはじめ有力な御家人たちにより鎌倉から追放され、静岡あたりで首を討ちとられる。

逃げのびた一族は、源平の合戦以来、配下にあった沼島水軍の本拠地であった沼島に居を構え、梶原景時の霊を祭ったという。

 

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 沼島汽船<しまちどり 土生⇔沼島>              沼島港マップ

 

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自凝神社(オノコロじんじゃ)     <沼島>      上神立岩

 

<淡路島と承久の乱

源氏が滅んだあと(1218―建保6年)、朝廷(京都)が政権奪取のため挙兵した「承久の乱」(1221)において、淡路国の守護と武士たちは朝廷に味方した。しかし北条氏の率いる大軍の前に敗北し、領地を没収され追放されるという運命をたどる。

 

<福良へ向かう> 阿万で県道25に入る

灘・土生(はぶ)港先より県道76は、第二の峠(標高93m)を越え、地点標識「岩屋から65㎞」を見ながら阿万(南あわじ市)に入って行く。水仙ラインは、阿万で県道76と別れ県道25に入って、福良へ下っていく。

 

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地点標識「岩屋から65㎞」通過(南あわじ市阿万)  峠への途中、初めて出会ったソロサイクリスト

 

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 淡路島特産の見渡す限りの玉ねぎ畑(東阿万)            淡路玉葱

 

<特産 淡路島産玉ねぎ>

阿万を走っていると玉ねぎ畑が延々と続く風景に出会う。
瀬戸内海特有の温暖な気候と風土で育つ淡路島産玉ねぎは、雑味のない美味しさと深い甘みをもち、「甘い・やわらかい・みずみずしい」と全国的にその名が知られている。    
鳴門海峡を吹き抜ける自然の風や、淡路島の日照時間が長いことが、また標高50mの台地が甘味たっぷりの玉ねぎを作り上げている。


阿万の玉ねぎ畑に見送られながら峠(標高53m)を越えると、さわやかな風を受け、鳴門の海を見ながら福良の港に向かって急な坂を転がり下っていく。 スピードに注意!

 

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阿万より福良への峠越えにサービスポイントがある    福良港を眺めながら坂を走り下る

 

<福良>

福良は陽光がさんさんと降り注ぎ、南国の風吹く、解放感に溢れた港町である。
福良湾には「煙島」、その背後に建つ白亜の「休暇村南淡路」が目に飛び込んでくる。
港には鳴門海峡うず潮観賞のクルーズ船<咸臨丸>がその雄姿を停泊させていた。

 

<福良港と太平記

鳴門海峡を望む福良港は、平家の都落ち(1185-文治元年)の際に敗走経路となったようで、「太平記」には越水の合戦(西宮)の合戦で敗れた将兵が、阿波へ逃れるために当地にやってきて、潮の状況を見て鳴門海峡を渡った、と記されている。また、古くから福良港は、明石の瀬戸に始まり阿波にいたる阿波路の要所として知られ、阿波への渡り口として「福良の渡」と呼ばれた。


<阿波への交通の要衝―福良>

福良港は、袋(ふくろ)の形状をなした福良湾の奥部にあり、平家秘話伝説を持つ煙島や洲崎の2つの小島などによって外海からの風浪が防がれ、波の穏やかな天然の良港となった。そして、港外は、天下の難剣と呼ばれる鳴門海峡に面しているため、難を避ける船舶の避難港(風待ち・潮待ち)港として古くから利用された。


<淡路島と天皇南あわじ市賀集>
淳仁天皇陵は、ここ福良から国道28号線を東へ向かった賀集(南あわじ市)にある。
淳仁天皇な、758年に第47代天皇に即位したが、仲麻呂の乱が起こり皇位を奪われ淡路島に幽閉された。
僧の道鏡藤原仲麻呂恵美押勝)らの権力争いに巻き込まれ、わずか5年で天皇の位を奪われて、母親とともにここ淡路島に流されている。

 

鳴門海峡渦潮観光基地 福良>

<道の駅 福良>に 鳴門渦巻観光船乗船場がある。
うずしおクルーズ船<咸臨丸>の乗船地である。

咸臨丸は、渦潮観賞時間に合わせて出航する。満潮と干潮により日々スケジュールが変わるので前もって問い合わせるか、出航スケジュール表を手に入れておいた方がよい。

約60分コースで、料金は大人2000円である。
間近で見るうずしおは、想像をはるかにこえる大迫力である。

 

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<道の駅 福良> 鳴門渦潮観光船乗船場                             鳴門渦潮 乗船券自販機

 

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 渦潮クルーズ船<咸臨丸>        咸臨丸より観賞する鳴門渦潮

 

源平合戦ゆかりの地 福良>

鳴門大橋を後にして、県道25に入る手前の坂道をのぼり、平安時代の終わりに繰り広げられた源平の合戦の語りが残っている福良鶴島城跡<国民休暇村南淡路>に立寄った。 そして平の敦盛の首塚があるといわれる福良湾に浮かぶ煙島を探してみた。

 

《 月よ出よ むかし平家の落ちびとの 浪まくらあと 福良の湾に 》 中村憲吉

 

福良の港に竹島という周囲四町ばかりの小島<煙島>があり、 寿永の春 平家一門が<一ノ谷>より落ちてしばらく身を寄せた。
煙島には安徳幼帝の行在所跡や、平の敦盛の首塚などがあるという。

 

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  国民休暇村への坂より眼前に煙島を望む    中村憲吉歌碑「平家の落ちびとの」

 

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  福良鶴島城跡にある国民休暇村<南淡路>

 

大鳴門橋 と 「道の駅 うずしお」>

福良へ戻り、県道25を走って「道の駅 うずしお」へ向かった。
県道25をそれて左折すると、鳴門海峡を見下ろす立派な道路が「道の駅 うずしお」へ向かって下っていく。

 

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       鳴門海峡、讃岐の峰々を眺めながら「道の駅 うずしお」へ下っていく

 

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「道の駅 うずしお」にある巨大玉ねぎ    大鳴門橋>                 演歌<鳴門海峡>歌碑

 

          <鳴門海峡> 作詞 吉岡 治  作曲 水森英雄

      髪が乱れる 裳裾が濡れる      潮が渦巻く 心が痩せる
      風に鴎が ちぎれ飛ぶ        頬の涙が 人を恋う
      辛すぎる 辛すぎる   恋だから 紅の 紅の 寒椿
      夢の中でも 泣く汽笛         夢の中でも 散りいそぐ
      鳴門海峡 船が逝く          鳴門海峡 海が鳴る

 

 

<南淡西淡線―県道25-のどかなサイクルロードを走る>
「道の駅 うずしお」を後にすると、南淡西淡線である県道25に入り、阿那賀の海岸線ののどかなサイクルロードを走る。
丸山港近くには活魚料理を食べられる「うずしお温泉」があるという。
立寄りたいが、老人には長すぎる今日のラン(RUN)、走行距離87㎞を考えて、できるだけ今夜の露営地に近いところで温泉に入ることにする。

 

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阿那賀の海岸から大鳴門橋が小さく見える      丸山漁港近くには<うずしお温泉>がある    

 

<漁港の走り方>

淡路島の西海岸には沢山の大小の漁港があり、その地域の生活の中心的存在として立地している。
ゆっくりと淡路島一周サイクリングを楽しむ仲間には、どうかバイパスを走行して漁港をスルーするのではなく、各漁港の古き良き村の魚の匂いや、時間を忘れさせてくれる街並みに触れてみてほしい。
そこには長閑な漁村の営みに触れ、人情に出会うことが出来る。

 

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  丸山漁港先に延びる海岸道路ー県道25 <サンセットライン> 地点標識「岩屋から95㎞」

 

国民宿舎 慶野松原荘の日帰り湯に立寄る> 
南あわじ市松帆古津路970-67 入浴料500円

阿那賀西路の海岸道路(県道25)を通り抜け、津井の漁港経由で湊の街に入る。

湊を流れる三原川の御原橋を渡ると信号があり、洲本へ向かう県道125とアワイチの県道31との分岐に出る。

自転車を県道31<サンセットライン>に走らせると慶野松原海岸にある「国民宿舎 慶野松原荘」の看板が目に入る。

立寄って日帰り湯をお願いしたら大丈夫だという、一日の潮風と汗を洗い流すため温泉につかることにした。

ただ一人の貸切湯である。

松風の舞う露天風呂がいい、炭酸を含んだ弱アルカリ性の温泉がぬるぬると体に絡みつき心地よい。

 

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    三原川の御原橋を渡り湊(松帆)の街に入る   <アワイチ・サンセットライン>は橋を渡り直進

                       (ここは県道25ー31ー26の重要分岐点である)

 

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              国民宿舎 慶野松原荘>

 

温泉につかり火照った体を松林に吹き来る海風にさらしながら、浜に建つ句碑 柿本人麻呂の和歌を口ずさんで旅の情緒を味わった。

 

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              柿本人麻呂の歌碑(慶野松原浜)

 

《 飼飯の海乃 庭好くあらし 刈薦の 乱れ出ず見ゆ 海人のつり舟 》柿本人麻呂万葉集

―けひのうみの にはよくあらし かりこもの みだれいずみゆ あまのつりぶねー

 

<飼飯の海の海上も穏やからしい、刈り取った薦のようにあちらこちらから海人たちの釣り船が出て来るのが見えるよ>と詠っている。

他界との境をさまようような不安な舟旅から無事明石の海峡へ戻って来た人麿たちであったが、陸地近くへ戻って来た安堵感が遠くに見える海人たちの釣り船を詠うことによって表現されているという。

 

<淡路島と高麗陣討死衆供養碑>

ここ南あわじ市の松帆江尻の江善寺に「高麗陣討死衆供養碑」がある。

豊臣秀吉朝鮮出兵(1592文禄の役)をおこなったとき、淡路島の秀吉の部下である脇坂安治加藤嘉明たちも多くの水軍を率いて従軍した。

しかし秀吉の水軍は李舜臣(りしゅんし)の率いる朝鮮水軍と戦った際、多くの戦死者を出したといわれる。

その供養碑がここ江善寺にあり、英霊が祀られている。

 

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       江善寺にある「高麗陣討死衆供養碑」

 

細川氏の養宜館跡>

湊にある三原川にかかる御原橋の信号を県道126に入り、東へ向かうと国道28との分岐信号「養宜上」近くに淡路国守護の居館であった細川氏の養宜館がある。

1333 (元弘3) 年、鎌倉幕府が滅び、南北朝の争いが始まる。

ここ淡路島の武士の多くは、後醍醐天皇南朝側に組みする。一方の足利尊氏は、 有力な武将である細川氏を淡路島へ攻め込ませる。 細川氏は、ここ南あわじ市八木の「養宜館」を本拠にして淡路全島を支配した。

現在、北側の一部の土塁以外、城内は水田化してその跡を見ることはできず、石柱<養宜館跡>のみが迎えてくれる。

 

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      細川氏の淡路支配の拠点<養宜館跡>

 

<淡路サンセットラインの夕日観賞>

入湯のあと播磨灘の涼しい風に吹かれ、サンセットラインに沈む夕日を観賞しながら今夜の露営地である山田漁港先の<明神の浜>に急いだ。

 

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  夕日にそまるサンセットライン(県道31)        播磨灘に沈みゆく太陽

 

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  サンセットラインが一段と赤く染まりだす      夕日に自転車のシルエットが浮かぶ

 

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           天地創造―サンセットラインの日没

 

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           天地創造―サンセットラインの夕焼け

 

 

▲ 2日目露営地―山田漁港先 明神の砂浜

サンセットラインの夕陽に魅せられて、今夜の露営地である山田漁港につづく明神浜に着いたときはすでに日は沈み、ヘッドライトを頼りに暗闇での設営となった。

とっては返す小波の打ち寄せる音と、襲い来る心地よい疲れからくる睡魔に誘われて、寝袋に潜り込んだ。

実は、このときまだここが山田漁港の先に連なる明神の砂浜であることに気づいていなかったのである。

 

 

 

 

        『星の巡礼 淡路島一周サイクリング老人の旅』③
       《第三日目 明神の浜 ⇒ 岩屋ゴール「道の駅あわじ」》

                  につづく

            

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 


 
              

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020『星の巡礼 淡路島一周サイクリング老人の旅』①

2020『星の巡礼 淡路島一周サイクリング老人の旅』①

  《第一日目 岩屋⇒由良生石》

 

2019年3月、びわ湖一周サイクリング時、次なる目標に<淡路島>をあげていた。
1年かけて、サイクルロードの情報の収集・携行品・淡路島の歴史ほか楽しい準備期間を過ごしてきた。
その間に、病床にあった友が、息子さんの誘いで淡路島一周の車の旅に出かけ、その自然の美しさと父子のこころの結びつきを熱く語ってくれたことが決定的な後押しとなった。
また、神話の島としての神秘性にもこころ魅かれていた。
老体に一抹の不安があったが、この世を去った友にもう一度淡路島の潮風にふれ、天地創造なる夕陽を見てもらおうと意を決して出かけてきた。

すべては、<淡路島サイクリングマップ>の取り寄せから始まった。

 

<淡路島サイクリングマップの取り寄せ>

 

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                   淡路島サイクリングマップ

 

下記リンク先のPDFより取りだすことが出来る。
https://web.pref.hyogo.lg.jp/awk12/map.html 
兵庫県 淡路県民局サイト)

 


<世界一の吊橋 明石海峡大橋

淡路島一周のサイクリングを始めるには、世界一の吊橋である明石海峡大橋(全長1991m)を渡るか、高速フェリーによる淡路ジェノバライン明石港岩屋港 13分)を利用することになる。

今回は老体を考え、輪行袋での淡路島一周スタート地点である岩屋への公共交通機関(フェリー・バス)での移動をあきらめ、車での移動となった。

垂水インターより始まるトンネルを抜けると、突然青空に吸い込まれる世界一の<天空の吊橋>が目に飛び込んでくる。アーチ状の吊橋を上りきると、その先に神話の国<淡路>を見下ろせるのである。

 

<初めての淡路島は原付オートバイで縦走>

明石海峡大橋には懐かしい思い出がある。 若かりし頃、ホンダ・マグナ50㏄で日本一周ツーリング途上、この原付オートバイで垂水インターより大橋に闖入。 当時はのんびりしていたのだろう、インター入口でのお咎めはなく、マグナ50㏄が250㏄に見間違われての進入となってしまった。

大橋を渡り始めてまもなく、パトカーの呼びかけに停車させられ原付オートバイは通行禁止であることを告げられる。わたしは大橋開通以来、初めての原付自転車での乗り入れと大橋を通行した記録をつくることになってしまった。
それも、大橋は一方通行で、折り返し方法がなく、赤色灯とサイレンを鳴らされながら、これまた大橋初めての原付自転車の最高速度30㎞/hという超低速でのろのろと淡路島岩屋インターへ誘導されたのである。

本当は日本縦断時に<しまなみ海道>をサイクルしたように、瀬戸内海の明石海峡を自転車で渡りたいという夢はあったが、この明石海峡大橋は自動車専用橋でその夢をかなえることはできなかった。
ただ偶然にもあの日、原動機付自転車で渡れたのだから良としたい。

 

<亡き友と共に淡路島一周>

昨年10月末、自宅療養を続けていたわが友・竹内正照君は、息子さんの運転で淡路島を一周したと、月例友の会の昼食会で目を輝かせ、うれしく語ってくれたものである。
輝かせた目に生きる炎を燃え立たせ、無口は雄弁に変わり、息子さんとのドライブがこの上ない喜びであったことを表現していた。
長距離ドライブの苦痛よりも、父子の無言なる情愛の心地よい交歓に酔いしれていたことを物語っていた。
その友は、この世でのなすべきことをなし終えて昨11月14日召天、帰らぬ人となった。
その彼が体験したであろう淡路島の心温まるサンセット・夕陽の情景をもう一度見せてやろうと遺影(写真)を懐に忍ばせてのサイクリング行となった。

 

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       亡き友も仰ぎ見たであろう天地創造―淡路島サンセットラインの夕陽

 

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      《無の風に 戯れ遊ぶ 雲遮月 悲しみ深き 君の旅たち》 

 

      《時来たり 旅立ちし君 スカウトや こころ清めて 弥栄贈る》

 

      《安かれと 祈りし我に 微笑みて 清けき風に 戯る君や》

 

      《友往きて 残せし香り 白菊の 想いて哀し 君の残像》

 

 

<神話の島 淡路島>

淡路島は、古事記・日本書記に出てくる神話<国生み>の島であり、イザナギ伊弉諾)とイザナミ伊弉冉)が結ばれて生まれた島といわれる。
その源である淡路島の二か所、ここ岩屋にある<絵島>と、淡路島南西に浮かぶ<沼島>と、西岸郡家にある伊弉諾神宮を訪れてみたい。楽しみである。

 

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          世界一の吊橋の雄姿<明石海峡大橋> 全長1994m


明石海峡大橋 と ボスポラス海峡大橋 と びわこ大橋>

夕陽を浴びてピンク色に染まる明石海峡大橋を眺めて、その美しさに見惚れた。
美しく、どこが優雅である。

バックパックを背負い世界一周の途上、ユーラシア大陸をまたぐボスポラス海峡大橋(トルコ・イスタンブール)を思い出した。橋は、人類をつなぎ、歴史をつなぎ、愛をつなぐ。橋にはいつも夢がかかっているのである。
話は変わるが、びわ湖にも松尾芭蕉が詠んだわたしの大好きな一句が残っている。

《 比良三上  雪さしわたせ  鷺の橋 》 (俳諧翁艸)

この夢の鷺の橋が、芭蕉が詠んでから174年後に<びわ湖大橋>として完成している。

 

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     夕陽に映える明石海峡大橋(手前淡路島岩屋と対岸明石をつなぐ夢の大橋)

 

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      懐かしのボスポラス海峡大橋        芭蕉が鷺の橋と詠んだ夢の橋<びわ湖大橋>

 (手前ヨーロッパと対岸アジアをつなぐ夢の大橋)

 

<岩屋―淡路島一周サイクリング起点に到着>

神戸淡路鳴門自動車道明石海峡大橋を渡り、淡路インターでおりて、サイクリング起点と決めている<道の駅 あわじ>に到着した。
岩屋で一泊し、水の補給、緊急用食料の調達、サイクル地図や情報を収集。
出発前日、体を休めるため、道の駅近くの丘の上にある日帰り湯<美湯 松帆の郷>につかり、照明に浮かぶ魅惑の明石海峡大橋を楽しんだ。 淡路島一周を成し遂げた折も、同じ湯につかり、老いの体を癒したものである。

 

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 淡路島一周サイクリング起点<道の駅 あわじ>    出発前日、体を休めた<美湯 松帆の郷>

 

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     明石須磨方面の夜景をバックに着飾った明石海峡大橋  <美湯 松帆の郷>より

 

 

■ 1日目 <2月18日> 快晴

 

<岩屋―東浦―淡路市―洲本―由良―生石(おいし) >
岩屋(国道28)-洲本(県道76)-生石分岐より生石鼻(由良要塞跡)に向かう
走行距離 51KM : 走行休憩時間 11H
△1日目露営地     :     生石山頂「本土防衛由良要塞跡」

 

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                    06:30 明石海峡大橋をスタートする

 

<淡路島サイクリストロード 起点>

淡路島サイクリストロード 起点標示は、高速船のりばであるポートビルより南約200m先にある。 一周サイクルロードには岩屋を起点とした同じ地点(距離)標識がたっているので現在地を確認するのに役立つ。 ただし、サイクルロードの時計回りルートにだけ表示されている。 路面にもサイクルサインが描かれているがごく一部に限られている。

 

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 <淡路島サイクリストロード 岩屋起点標識>        路面のサイクルサイン

              起点 スタート      0km 地点
           ゴール      150km 地点

 

<高速船 淡路ジェノバライン 明石 ⇔ 岩屋>

明石から岩屋への交通機関は、所要時間13分の<淡路ジェノバライン>高速船がある。
5時~23時の間に1~3本の便が出ている。
片道運賃は、大人530円と自転車240円、計770円である。
自転車は輪行袋に関係なく運賃をチャージされる。

 

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岩屋漁港を回り込むと明石行き高速船のり場<ポートターミナル>があり、右手にバス乗り場がある

 

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本四海峡バスのバス停<岩屋ポートターミナル>

 

淡路市は子午線の通る町であるー中央標準時 東経135°>

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淡路市ー子午線の通る町<中央標準時 東経135°>

 

《アワイチのサイクルルートを走りながら淡路国の歴史を訪ねたい》

 

<絵島―国生み神話に伝わる「オノコロ島」・淡路島>

絵島は、国生み神話に伝わる「オノコロ島」伝承の地だとされる場所の一つである。ほかに、明日通過する淡路本島の南西にある沼島もまた「オノコロ島」といわれている。
古事記に出てくるイザナギノミコト・イザナミノミコトによる<国生み神話>で知られ、神々がつくり出した最初の島がここ淡路島といわれている。

 

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  絵島「神話オノコロ島」と西行法師の歌碑      神話オノロコ島のもう一つの「沼島」

 

《千鳥なく 絵島の浦に すむ月を 波にうつして 見るこよいかな 》 西行山家集


  千鳥の鳴いている絵島の浦の澄んだ月を、波に移してみている。今夜の絵島は

  何と美しいことか。  ―平家物語の「月見」よりー


奈良時代には淡路島にすでに「淡路国」が置かれ、畿内(都周辺)から阿波(徳島)に通じる「南海道」(現在の国道28号線の一部)という重要なルート<由良港―洲本―三原―賀集―福良港>があった。

淡路島の東岸は、大阪湾・紀淡海峡に面しアップ&ダウンの少ないサイクルロードである。この日も美しい白雲の間からさんさんと南国のような陽光が白浜に差し込んでいた。 快適な広々としたサイクルルートに沿って棕櫚、蘇鉄、ヤシの並木がつづき、アロエの赤い花たちも情熱的に歓迎してくれる。
日本縦断の時に走った宮崎の日南海岸を思い出していた。

 

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         <淡路島東岸の典型的なサイクルルートの風景>

 

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           <明石海峡公園沿いのサイクルロードを南下する>

 

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          <淡路夢舞台>あたりの広々としたアワイチサイクルロード

 

<似てるね、淡路島は琵琶湖の双生児か―比較してみよう>

ダイダラボッチ伝説を学生時代に聞いたことがある。確か柳田邦夫著「ダイダラ坊の足跡」 に出ていたが、ダイダラボッチとは<大太郎法師>で、その巨人の馬力で土地移しをやったという話(伝説)だったと思う。そこでは近江の土地(びわ湖)を掘った土で富士山を作ったという伝説であった。

しかし今回、淡路島一周サイクリングをするにあたって島の地図を眺めることが多く、その都度前回走ったびわ湖の形と類似することが気になっていた。
形を逆さにしたり、周囲の距離、面積(大きさ)を比較してみても類似点が多いのだから驚きである。

淡路島がびわ湖の姿に似ているのは、ダイダラボッチ(巨人)が作った島であり、湖であるという伝説を作りあげても面白そうである。夢を語り伝えるのは愉快である。

面積で比較すると、琵琶湖 669㎢・淡路島 593㎢であり、周りの距離ではびわ湖189km・淡路島150㎞で淡路島の方がわずか小さいが、ほぼ同じである。

また地図を見ると、淡路島の南に浮かぶ神話の島である<沼島>が、びわ湖の北にある<余呉湖>に不思議なほど同じ位置にあることに気づかされるのである。

 

                      ☟余呉        ☟沼島

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       淡路島            びわ湖            逆さ淡路島

 

<道の駅 東浦ターミナルパーク>

「アワイチ」である国道28号線を南下、あたたかい陽光を浴びながらペダルを踏んでいると東浦漁港につづき「道の駅 東浦ターミナルパーク」に着く。しばしの休憩、WCを済ませ、水・飴・チョコを補給。 ここにはレンタサイクル<Bicycle Hub Awaji>がある。
 

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      出迎えのロンドン紳士と                 東浦漁港

 

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    標識「道の駅 東浦ターミナルパーク」で左折 「道の駅 東浦ターミナルパーク」

 

<宿泊温泉情報―「東浦サンパーク」>

国道28を道の駅より南へ進むと、久留麻の信号の手前にあるコメリの横を入って行くと「東浦サンパーク」に出る。宿泊3200円より、日帰り湯730円。

 

<西日本最大の縄文集落佃遺跡>

ここ東浦には、西日本最大の縄文集落佃遺跡(つくだいせき)があり、淡路島にはすでに今から約2500年前人の営みがあった。

遺跡からは、竪穴住居跡や丸木舟の一部が発見されているという。
淡路島には佃遺跡をはじめ、縄文集落が20ほど残っているから遺跡発掘に興味のある研究者には夢の島である。

さらに弥生時代には淡路島の至る所に水田跡があったことが分かっている。 そして、豊作を神に祈ってお祭りをする際に使われたと思われる銅鐸がたくさん出土している。

もし時間が許し、体力があれば立寄って見てはいかがだろうか。
日本の原風景に出会えるかもしれない夢の島でもある。

 

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             兵庫県教育委員会編より

 

道の駅・東浦ターミナルパークをでて、巨大な白亜の観音様の激励を受け、海風に押されながら淡路市を目指す。

 

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            巨大な観音様の出迎えを受ける

 

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       <由良方面を望見しながら、東浦の街を駆け抜け淡路市に向かう>

 

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   淡路と洲本の中ほど、安乎に「シーアイガ海月」がある(情報:宿泊4100~・日帰り湯600円)

 

明日走る由良からの<水仙ライン>には、コンビニや食料調達の店がないので洲本のイオンに立寄り、食料を購入する。
南国の太陽はまぶしいので、ダイソーではサングラスを手に入れることにした。

 

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      洲本のイオンで食料購入      大浜海浜公園の美しい松林と砂浜(洲本) WCあり

 

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洲本から由良に向かって断崖道路(県道76)となる     大浜公園先より洲本城址に立寄る

 

<淡路島の代表的な城 洲本城>

洲本の大浜公園をでて、県道76を南へ少し走ると、右山手へ入ると、洲本城への急な坂道がある。

洲本城址の石垣は見事である。
洲本城は標高135mの三熊山頂に建っている。淡路水軍として活躍した安宅(あたぎ)氏によって築城された。洲本港を見下ろし、遠くは友が島水道を挟んで紀伊の山々が霞んで見える。

大阪湾を見渡すことのできる洲本城は、由良城・炬口(たけのくち)城とならんで、淡路水軍の根拠地であった。 

その後、天下統一を目指す秀吉は安宅氏を滅ぼし、洲本城をして淡路島全島を支配させた。
また1615年には、大阪の陣で功績のあった徳島藩主蜂須賀氏に加増され、洲本城を政治的に利用した。

 

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洲本城(復元)             立派な洲本城の城壁               


<淡路島と信長の天下統一への道>

天下統一に立ちあがった織田信長は、 中国地方の毛利氏との決戦に備えて、秀吉を大将に 進撃を開始させる。この時、秀吉は瀬戸内海の制海権を持つ毛利水軍を撃破するため、 淡路島への攻撃を始める。

1581 年、秀吉は、敵対する淡路島の武士をすべて攻め滅ぼしてしまうのである。

この洲本城は、安宅(あたぎ)氏の主城で、ほかに淡路島には岩屋城、安乎城、炬口城、由良城、猪鼻城、白巣城、湊城の全部で8つの城があった。

洲本城でも見られるような立派な土塁や城壁がいまでもいくつかの城跡でみられる。

<案内板より抜粋>

 

 


県道76にもどり、由良に向かうが、歩道はなく車道との共用道路を走ることになるので車には十分な注意を要する。

ヘルメット、後方点滅灯、サイドミラーを確認し、路肩走行を心がける。

友ケ島水道にうかぶ白雲に春の訪れを感じながら南下を続ける。

 

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 洲本城址より紀淡海峡先の和歌山の峰々を遠望    県道76(海岸道路)を由良に向かう     

 


▲ 1日目露営地―生石公園・由良要塞(標高118m)

 

県道76の由良生石(ゆらおいし)分岐で、真っすぐ進む<アワイチ>(淡路島一周サイクルロード)と、左折して今夜の露営地に向かう生石公園道路に分かれる。
分岐を左に進むと、急登し山頂の要塞跡<1日目露営地>にでる。

 

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分岐<由良生石>を左折、今夜の露営地に向かう  生石公園第二駐車場展望台に設置されているスタンプ

 

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露営地(生石山標高118m)への急登を手押しで上る     設営前に要塞跡を下見散策する

 

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     ☝生石山第一砲台(第二駐車場)  <由良要塞全容図> 

    

1日目露営地は地図左の<生石山第一砲台>付近でテントを張る。

 

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             <生石山第一砲台跡>

 

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      設営完了       <生石山頂・由良要塞跡にて>      夕食準備

 

<ペリー来航 と 松帆台場(砲台)の備え>

ペリー来航を機に幕府は、開国し、貿易を強いられる激動の幕末が始まっていた。

幕府や諸藩は、外国艦船に対する海防の強化に迫られ、幕府は、江戸品川に「お台場」を築造する。

徳島藩支配下にあった淡路島では、淡路の由良・洲本・岩屋に「台場」を築造し、武士だけではなく、島内の百姓の若者を訓練して警備につかせたといわれている。

 

<大阪湾・京阪神を守る由良要塞―生石山>

明治政府は、日清戦争を機に和歌山県加太から由良にかけて要塞(砲台)を建設した。京阪神を 防衛する大きな使命をにない、陸軍要塞としては、 東京湾要塞に次ぐ重要な地点と位置づけられた。

ここ由良には、要塞司令部が置かれ、生石山砲台や関連施設が建設された。

敗戦後、アメリカ軍の命令により、由良要塞の施設は爆破されたが、砲台跡は今も見ることができる。

 

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      諭鶴羽山439m方面に沈む夕日 <生石山頂より> 夕焼けに染まる紀淡海峡

 

すでに太陽も沈み、強風が吹き始めた。
深夜は厳しい寒さになりそうである。 ラジオ・ヘッドライト、水、ホイッスル・スティック(獣撃退用)・小用袋とカイロを準備し、眠りについた。

 

          《ああわれいま淡路島 由良要塞に臥して》

              

               ああわれいま由良要塞におり
               亡き将兵と共に臥して
               ワインを献じ 霊を慰める

              

                 強風 われを明治に誘いて
                心躍らし 敵艦隊遅しと
               遥かなる友ケ島と交信す

                 

                  灯火信号ありて
               「われら意気軒昂なり」と
                漆黒の紀淡海峡 黙して眠らず

 

               ああわれいま由良要塞に臥し
                   英霊と同じ風を味わい
                  国防の要塞で心躍らすなり

 

 

 

         2020『星の巡礼 淡路島一周サイクリング老人の旅』②
              《第2日目 由良生石⇒明神の浜》

                     につづく

 

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             淡路島観光協会<淡路島おもしろマップ>

 



 





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 


               

 

 



 

 

 

2020ブログ『星の巡礼 蔓陀羅山―大塚山散策』

2020『星の巡礼 蔓陀羅山―大塚山散策』
   ―金比羅宮と大塚山古墳を巡る―

 

金比羅宮は、びわ湖西岸真野に広がる丘陵地帯―現ローズタウン―を東西に二分割するように南北に横たわるひょうたん型の小高い山並みの南側の標高184mの曼陀羅山にある。
そして、大塚山古墳は、曼陀羅山より尾根伝いに北へ250mほど先の北側にある標高193mの大塚山にある。

 

           

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                                                             「史跡 大塚山古墳」石碑と

 

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           標高184mの蔓陀羅山 と 193mの大塚山 ルート地図

              (JR湖西線 小野駅付近ー地理院地図より)

 


最初、堅田にあるショッピングモール平和堂の三階のフードコートより眺めた北西に横たわる瓢箪型の山並みにくぎ付けになった。

というのは住宅街の中にひょっこりと2つのコブ(瘤)が突き出ていたからである。

なぜローズタウンという住宅街に、緑樹に覆われた双子の低山が横たわっているのか、俄然興味を抱いたと同時に、その奇妙な瓢箪型の低山に上ってみたいという願望に変わったのである。

 

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                      冠雪の比良山系の前に見える双子の丘陵(左・蔓陀羅山  / 右・大塚山)

            平和堂 堅田店三階より望む (前の広場は、JR湖西線堅田駅前)

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車を走らせると、なんといつも湖西高速道路の真野堅田インターチェンジへの道筋にあったのであるから驚きである。というのは今まで瓢箪型の小高い山並みが目に入っていなかったからである。

ローズタウン入口にあるJR湖西線小野駅の南側幹線道路を西北に進むと、右手にひょうたん型のコブの南側の山である曼荼羅山(標高184m)への階段が見えてくる。


その麓には駐車スペースがあり、階段登り口に石碑「金比羅宮」が建ち、立派な石鳥居が出迎えてくれる。

 

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              階段登り口に立つ石碑「金比羅宮」

 

階段状の参道は、丸太を土止めにする素朴な階段がつづき山頂の金比羅宮へと導いてくれる。階段参道の両側には桜が立ち並び、春爛漫の桜トンネルが待たれる。


なだらかな上り階段と思っていたが、上るにつれて老体に心地よい汗と疲れを感じさせてくれる。

香川県の琴平にある「さぬきのこんぴらさん」で有名な金刀比羅宮の階段を思い出す。

老人が登山靴を履き健康登山をされている姿が、この参道である山道の階段の風景によく溶け込んでいる。


ときどき休みながら後ろを振り返ると、びわ湖の恩恵を受けている湖西の街並みとその背後にそびえる比叡の山並みが、また途中峠からの比良山系の霊仙山から権現山への美しい稜線を眺めることが出来る。

この美しい眺望は、古より保たれていたであろうし、この地の頂にお墓をもうけて先祖を祀りたいと思う人もいたであろうと考えながら、階段を踏みしめて蔓陀羅山の頂にある金比羅宮に立った。

 

この急な階段参道を上ることは、金比羅宮への道として御利益があるのであろう。

蔓陀羅山頂に「金比羅宮」の社殿があり、ご利益のある護符を授ける社務所もある。
古来より海の神様(この地では湖の航海をつかさどる神様であろう)、五穀豊穣、大漁祈願、商売繁盛など広範な神様として、善男善女の信仰を集めて、ご利益を求め多くの庶民が訪れる人気の神社(宮)であり、パワースポットであったらしい。
なかでも金運と縁結びはもちろんだが、縁切りのご利益があるというのだから面白い。
その他、豊作の神、医薬の神、技芸といった音楽芸術の神でもあるという。そのご利益は万能であるのだから、庶民にとってまたとない祈願の地であったに違いない。

 

しかし、豪恕(ごうしょ)上人による「金比羅宮」勧進の主たる目的は、地域の水利の改善による繁栄にあったことは碑文解説に見られるとおりである。  

 

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                 蔓陀羅山頂にある 「金比羅宮」全景

 

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    金比羅宮                     社務所

 

ここは蔓陀羅山という。 山の名がいい。

 

しかし、なぜ天台宗の高僧である豪恕(ごうしょ)上人がこの山を開山し、蔓陀羅山と命名したのだろうか。
金毘羅宮の左横に、ここ蔓陀羅山を開いた天台宗の高僧の法名「探題前大僧正豪恕」と彫られた石碑が建っている。
探題(たんだい)とは、探題職のことをいい、座主が万一の場合、この探題職の順位で次席の者が上任することになっている。
座主の次の位にあった大僧正がこの山を開いたと思うだけでも、いかにこの蔓陀羅山が生活に密着した重要な地であったかが推測できる。


日本史から見て、飛鳥時代の667年、ここ近江の地には飛鳥から移ってきた天智天皇が営んだ「近江大津宮」があり、一時短期間だが日本の中心であった。
ここ蔓陀羅山近くには多くの古墳が散在している。

 

とくに有名なのは、ここ小野の里には同時代607年 聖徳太子の命により、遣隋使として活躍した小野妹子の墓があることである。 小野妹子神社の後ろには、妹子と関係があるといわれる唐臼山古墳(大和朝廷の官人だけが造営を許されたという)もある。是非立寄ってみたい。 (所在地:滋賀県大津市水明1丁目)


わたしは現在、日本書記に出てくる天智天皇の都「近江京」のあった近江国滋賀郡(現大津市・旧志賀町)に居住しているのだから興味が尽きないのである。
この地、大津京のあと平城京平安京へと移り、日本の歴史は連綿と続き、現在に至るのである。
実に、歴史は面白い。
その歴史の中に生きており、そしてそのいにしえの中心に立っているのだから愉快である。

 

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 墓碑「探題前大僧正豪恕」            豪恕上人に関する解説版    

 

 

ここ蔓陀羅山から南西の彼方に天台宗総本山である延暦寺がある比叡山の雄姿を見ることが出来る。
また眼下に堅田の街やびわ湖にかかる「びわ湖大橋」を一望できる。

石碑の横にある案内板には次のように解説されている。


「碑文について
 豪恕(ごうしょ)上人 = この山(蔓陀羅山)に金比羅宮を開基した人,
 上人は愛知郡泰荘町の出身
 比叡山延暦寺で修行し寛政七年(1179年)大僧正
 となられました。 碑文に「探題」とあるのは延暦寺
 の座主に次ぐ高い位のことです。
 上人は、水脈や水利に造詣が深く字に秀れ、上人の書
 を家に貼っておくと火災除けになると評判でした。
 昔から(ここ真野)普門村は水利が悪く経済的にも苦しいので
 上人に依頼し溜池を含め色々と世話になったと
 いわれます。 また将来も水に恵まれ水利の向上が図ら
 るよう見晴らしがよく由緒ある蔓陀羅山山頂に
 「金比羅宮」を勧進し社を建て、地域の繁栄を祈願
 したと伝えられています。  文責 中野清明」 (一部抜粋)

 

 

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蔓陀羅山山頂より びわ湖大橋方面を眺める                          

 

 

金比羅宮」のある蔓陀羅山は、南北にある双子の山の南側にある。
金比羅宮を右へ回り込んで下っていくと、北側にある大塚山へ向かう尾根に出る。
尾根に出る前に、ローズタウンに下りる作業道路があり、その手前に電波塔が樹立する。
この尾根からは東西にローズタウンの街並みが見渡せる。 

 

その尾根の鞍部に、豪恕(ごうしょ)上人が
地域繁栄を願って手掛けた水利事業の遺産として現代に受け継がれ、上人の偉業を形にした巨大な2基の貯水タンクが設置され、地域の水利の便に供されている。
また、地理院地図をみると双子の山の周辺に9個の溜池が確認できる。
いかにこの周辺が大昔から水利の便が悪かったかが分かるのである。

 

しばらく痩せ尾根に咲くツツジの花を愛でながら進むと、双子の北側の山、史跡・大塚山古墳のある大塚山に出る。

 

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     電波塔群        双子の山をつなぐ尾根道    お山はすでに春、ツツジが咲いていた

 

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        水利対策の真野配水場の巨大貯水タンク (双子の山の鞍部)

 

 

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           大塚山に向かう尾根より西側の夕日に沈むローズタウンを望む

 

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                     南側の堅田の街並みを望む

 

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                東側の小野・ローズタウン・びわ湖を望む

 

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              大塚山の「和邇大塚山古墳」より蔓陀羅山を望む

 

古代のロマンの詰まった古墳に興奮を抑えられない。
この大塚山に古墳という花が咲いていたのである。古墳の根が1500年近くもこの地に張っていたのだからワクワクするのも当然である。
エジプトの砂漠の地でピラミットをスフィンクス越しに見上げた時のワクワク感が蘇ってきた。
古墳物語が頭をよぎり、ページを忙しくめくりだした。
まず歴史の事実を見ておきたい。

 

和邇大塚山古墳」(わにおおつかやまこふん)

双子の山の北にある大塚山は、南にある蔓陀羅山より9m高い193mの標高である。
この大塚山に約1500年前に造られた古墳がある。

 

和邇大塚山古墳」は、滋賀県大津市小野朝日2丁目、丘陵地の大塚山頂にある。
紀元後500年ごろの造営で、墳丘は鍵穴型の前方後円墳であるという。


古墳の規模は、二段構築の後円部が50m径X8m高、前方部が30m幅X5m高であり、全長約72mという。
1988年の発掘調査で、石室は、竪穴式石室といわれ、すでに発掘・破壊されていたといわれている。
また、出土品として、中国製青蓋盤竜鏡・硬玉製丁字頭・碧玉製管玉・鉄剣・太刀・斧・甲冑類・土師器などが出土したことが伝えられている。
現在、志賀町は合併し大津市となっている。

 

志賀町教委員会によれば、

 

「(和邇)大塚山古墳は、志賀町の最南端、大津市との境界線上に南北に横たわる蔓陀羅山の最高所(標高191m)に所在する全長約72mを測る前方後円墳である。
前方部を南東に向け、その側面を小野集落およびその沖合の湖上からよくとらえることが出来る。
封土は二段構成で、前方部の先端は、バチ形に開く。 墳庇斜面の各段には、表面を人頭大の礫を敷き詰めて土止めしている。
だが、埴輪は設置されなかったようである。
古墳の埋設施設は後円部中央にあるが、すでに明治40年に地元の人により発掘され破壊されている。
礫床の上に作られた粘土棺であったようである。
4世紀後半から5世紀初頭頃に造営されたものと推定される。 

平成2年3月 志賀町教育委員会

 

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石碑「史跡 大塚山古墳」           「史跡 大塚山古墳」解説版            

 

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石碑横にたたずむ無縁墓     大塚山山頂にある一級基準点・三級水準点に出会ってほっとする

 

金比羅宮のある蔓陀羅山から大塚古墳のある大塚山に向かう尾根の枯草の上に仰向けになって暮れゆく冬空を眺めると、ハミングを口ずさみながらゆっくりと東に向かう風に出会った。


風は時間の流れに逆らわず、比叡の峰から琵琶の湖(うみ)に向かってスローモーションを見るようにその翼を上下させている。わたしのこころに手を振りながら風は、歴史の彼方へといざなってくれている。

空を見上げると、雲隠れしている太陽も仲間に入れてくれといっているようだ。

 

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わたしは、この一瞬を切り取った風景が好きである。
風に揺れた一枚の枯葉が、落ちてわたしの頬に触れた。
人生での出会いにぬくもりを感じる瞬間である。


生きるとはなんと神秘的で、神々しいことだろうか。

心地よい散策を終えて帰路に着いた。