shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2005『星の巡礼 台湾一周スケッチ紀行 ブログ展』

 2005『星の巡礼 台湾一周スケッチ紀行 ブログ展』

 

日本よりも日本らしい風景が残り、丁寧な日本語が飛び交い、懐かしい童謡を歌い聞かせてくれる台湾の老人たち・・・

ここ台湾は、約半世紀にもわたり善悪はともかく日本の統治下にあり、西欧列強による過酷な植民地搾取政策を反省し、統治者としての善政を心がけたところでもある。

いかなる時代でも支配者と被支配者のかかわる植民地は、差別と悲哀と増悪に充ちた場所であることに変わりはない。

霧社事件」は、支配者に対しての従順の中にも、愛する郷土を踏みにじられ、自由を制限されている民にとって、所詮支配者は侵略者に過ぎないということを証明する事件であった。

信頼醸成が出来上がっていたと信じていた相手が、牙をむき自由回復に立ちあがった姿に、植民地支配の悲しさが見て取れるのである。

近代史は、かかる植民地政策のもと、世界は支配する側の国や民と、抑圧される側の国や民に、二分された不平等のなかにあったと云える。

 

第二次世界大戦後、中国共産党政権に対峙して一国二制度を模索する台湾、大国に翻弄されながらも独自のIT産業に活路をみいだし、自主路線のなかに生存権を守っている台湾の少し平和な時代(2005年)を旅し、温泉につかりながらスケッチをしてきた。

 

過去に同族・同胞として遇してきた台湾のその後の生き方に、日本の未来の在り方を含めて、少しでも目を向けていただければ幸いである。

 

台北に遺る大日本帝国の遺産や台湾の歴史に触れ、人々のこころのよりどころであるお寺やお宮に詣でたあと、台湾一周のスケッチ&温泉巡りに出かけてきた。

                     

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            2021年6月30日 志賀の里 弧庵にて

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              台湾一周スケッチ紀行ルート図

             (訂正お詫び: 阿里山への入口・台中は、嘉義です)

 

 

龍山寺  台北・台湾  

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                 <龍山寺>   台北 台湾

             Sketched by Sanehisa Goto

 

龍山寺に観る台湾の原点> 

龍山寺は神々を祀るために建てられた寺院で、仏教や道教など、さまざまな宗教が習合されている。

道教儒教の影響を強く受けているが、基本的には仏教寺院で、本尊には観音菩薩を祀っている。

 

中国大陸の福建省から人々がここ艋舺に移住してきた当時、生活環境が悪く疫病が流行したため、神のご加護と平安を祈る為に1738年に初代の龍山寺が建てられたという。

龍山寺は伝統的な中国の 四合院宮殿式を採用し、北を背に前殿、本殿、後殿、左右の鐘樓、鼓樓と回廊で構成された重厚な寺院である。

 

一歩境内に入ると、線香と焼香の煙との強烈な匂いに混じって、多くの老若男女の祈りの熱気に包まれた。

早朝の龍山寺を訪れ、台湾の人々の日常に触れた。

朝の祈りを捧げる大集団が、読経により、方角を変えて祈りの声をはり上げるのである。 こちらは祈りの熱気に押されながら一人黙々とスケッチの筆を動かしているから不思議な静・動のコラボである。

 

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                     龍山寺

 

イリヤフォルモサ/台湾の成立ち>(美麗島

台湾は、大航海時代の1544年にポルトガル人によって発見され、<美しい婦人・麗しの島>Ilia Formosaと命名された。

スペインやオランダによって通商上の要地として要塞が造られ、支配された一時代(1624~1661)があった。

その後、1661年に「反清復明」を掲げた鄭成功が大陸を追われ、オランダ支配の台湾を占拠し、三代にわたって台湾の開拓経営に力を注いだ。

このように、17世紀初頭、明朝から清朝への移行期に、鄭成功のもと広東客家(ハッカ)の台湾渡航者が多くみられた。

日本との関係としては、1593年豊臣秀吉が、台湾に入貢を促したことがある。

1683年清朝は、明朝の遺臣である鄭氏一族を台湾から放逐し、大陸による台湾に対する最初の文民支配を開始させた。

渡来した漢民族は、未開地を開拓し、台湾原住民の女性と結婚し、土着化・台湾化していく。

そして、日清戦争の敗戦により、下関条約のもと台湾は割譲地として日本の統治をうけることになる。

 

<口にしたい台湾の一品➀>

龍山寺を訪れたら、台湾屋台の味 胡椒餅(フージャオビン 1個45元)を楽しむのもいい。

店<福州元祖胡椒餅>は、MRT龍山寺駅1番出口より徒歩約2分の路地にある。

 

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                おすすめの胡椒餅(フージャオビン) 

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                   路地にある福州元祖胡椒餅

 

 

■旧大日本帝国台湾総督府   台北 台湾

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              <旧大日本帝国台湾総督府>  台北 台湾

               Sketched by Sanehisa Goto

 

 

<旧大日本帝国の台湾統治時代>

日清戦争の結果、台湾が下関条約で当時の中国・清朝から日本に割譲された1895(明治28)年から、第2次大戦終結により中華民国に返還された1945(昭和20)年までの50年間、ちょうど半世紀の間、日本による台湾統治が行われた。

その間の台湾の日本による統治の中心は、ここ大日本帝国台湾総督府であった。

 

日本統治の初期の段階では、割譲地台湾を日本に同化さすという強硬派の施政に大きな抵抗もあり、暫時同化に向けていくという英国植民地政策を後藤新平が採用し、大きな成果を上げている。

なかでも、中国大陸の清朝を襲っていた英国によるアヘン戦争の影響を受け、流行っていた台湾におけるアヘンの駆逐に成功を収めたことは特筆すべきことであろう。

 

台湾統治中期になると、第1次大戦の結果、民族主義が台頭し、民衆と自由思想による民族自決が叫ばれるようになる一方、レーニンによる赤化革命である植民地革命論が台頭し、国際情勢は一気に変わり、日本の台湾への統治政策も変わっていく。

 

抗日運動に対しては、「匪徒刑罰令」を公布し、武力弾圧を徹底したが、一方、社会的に顕著なものに対する者への勲章を授与して称えることもした。

なかでも、最大規模の原住民部族による武力闘争は、「霧社事件」と呼び、日本に帰順し、開化が進んでいた「理蕃政策」(台湾原住民に対する統治政策)の模範とされた高砂族約300名が、1930年10月27日未明、日本の圧政に抗して、武力蜂起し、連合運動会に襲いかかり、邦人134名が犠牲となった。 蜂起の原因は、性急な同化政策への反発、圧制・搾取に対する民族抵抗の戦いであったといわれる。

 

これにより、台湾総督府は内地法を採用し、同化政策を一挙に進めていくことになる。 日台共学による日本語学習の推進など、台湾人への差別を減少させていくとともに、鉄道や水利事業など積極的に拡大していく。

 

台湾統治後期、1037(昭和12)年、日中戦争支那事変>が勃発すると、台湾は戦争遂行資源供給基地として重要性を増していく。 台湾における国民意識の向上が課題となり、四大皇民化政策である<国語運動、改姓名、志願兵制度、宗教・社会風俗改革>を台湾総督府は強力に推し進めていく。

日中戦争から太平洋戦争への転換により、台湾は武官総督を再配置し、南方作戦基地として軍事色を強めて行った。

このことは、太平洋戦争に突入してからは、徴兵制など内地と同じ制度を導入し、台湾の多くの青年を戦地に投入することになる。 軍属を含め約21万人が徴兵され、約3万人の台湾人(当時は日本人)が死亡した。 痛ましい日台の関係が残念ながら日本の敗戦まで続いたのである。

 

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 晩年、日本ボーイスカウト総長に         霧煙る大日本帝国台湾総督府前で 

     推戴された後藤新平

 

 

 

■国父記念館  台北 台湾

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               <国父記念館>  台北 台湾

               Sketched by Sanehisa Goto

 

<日本敗戦後の台湾  祖国復帰―光復— ①>

国父記念館<National Dr.Sun-Yat-sen Memorial Hall>は、中国近代化革命の父とされる孫文の生誕100周年を顕彰して建てられた国立の建物である。

孫文(1866~1925)とは、辛亥革命(しんがいかくめい)を起こして清王朝を倒し、中華民国を建国した人物であり、その生涯を革命に捧げ、国父と呼ばれた。

中国の広東省で生まれた孫文、ハワイ在住の華僑の兄のもと、西洋の教育を受け、西洋の民主主義を体得した。

三民主義>は、孫文が革命のスローガンとして提唱した「民族主義」「民権主義」「民生主義」の三原則を指している。

辛亥革命以降は、<三民主義>は、中華民国の政治理念となり、長年続いた封建体制や、列強による半植民地支配から脱して、新しい中国を建設するために使用された。

清王朝に追われ、海外で捕まった孫文は、ロンドンの清国公使館から釈放されたあと、日本を訪問、熊本の思想家・宮崎滔天の支援を受けている。 この亡命時に結成した<中国同盟会>が中心となって辛亥革命へのスタートを切っている。 また、この時からペンネームに日本名<中山>を付け、<孫中山>と名乗っている。

 

さらに、孫文の生涯の伴侶となった宋慶齡との結婚式も亡命先の日本の東京で行われている。

政治家・革命家・親日家として知られている。

ただ、孫文の思想は、蒋介石率いる国府軍共産党軍との内戦に敗れ、進駐した時に遺影とともに政治理念として台湾に持ち込まれたのである。

現在でさえ、台湾国民党はもちろん、中国本土を支配する中国共産党もまた「孫文の正当な継承者」を名乗っており、孫文は中国統一のスローガンにもなっているといえる。

 

亡き孫文もまた、三民主義のもと中国が統一された民主国家を熱望していることであろう。

 

 

中正公園    台北 台北

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                 <中正公園> 台北 台湾

               Sketched by Sanehisa Goto

 

く祖国復帰 ー光復—② >

1945年8月15日、日本の敗戦により台湾が中国に返還され、台湾はようやく中国へ祖国復帰<光復>を果たす。

当時、本土からやって来て台湾統治をした国府軍(当時共産党軍と内戦状態にあった)に対して、その士気の低さと驕りのため台湾人は失望する。

1947年2月28日、闇煙草摘発をきっかけに台湾人(内省人―台湾人)による国民党(中国からの外省人―中国人)に対する反乱がおこるが、徹底弾圧・鎮圧される。

この時点で、台湾人は、中国大陸との精神的依存状態からほぼ脱却したといわれる。

 

その後、朝鮮戦争勃発を契機に、共産主義と対峙するアメリカからの巨額の援助をえて経済的自立の道を進み、現在のIT先進国としての地位を確立していく。

この間、中国本土進攻の機会を狙っていた蒋介石総統も死去し、政治の民主化も進んで多党化時代に入り、民主国家としての姿や体制と地位を確立していった。

 

ただ、独立国としての地位は困難であり、一国二制度としての自治を望んでいるようだが、中国共産党は香港の芽を潰すことにより、台湾の夢を葬り去ったともいえる。

中国共産党政権による台湾の武力統一というシナリオは迫りつつあると言っていい。

 

いま台湾は、国際情勢の中で、専制独裁に対する自由民主の防波堤として注目され、地政学的に世界中の眼が注がれている。

 

台湾で、国府軍の国旗「晴天白日満地紅旗」が紅衛兵により掲揚されているのを見ていると、今から100年程前には同じくここ台湾で、日の丸の旗がひるがえっていた時代を連想し、台湾の歴史の悲哀が今も続いていることに心を痛めた。

 

中正公園をスケッチした帰り、屋台で久しぶりのお粥(30元)に対面、葱・縮緬雑魚・鮭粉・三つ葉をトッピングしてもらい、その美味しさを楽しんだ。

 

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     中正公園での中華民国旗の掲揚式           中正公園前で                     

 

 

宣蘭照應宮    宣蘭市 台湾北東

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              <宣蘭照應宮> 宜蘭市 台湾北東

               Sketched by Sanehisa Goto
      

 

<台湾の民衆信仰・媽祖を祭っている宣蘭照應宮>

宣蘭駅(イーラン/ぎらん・台湾北東)から徒歩10分のところにある宣蘭照應宮は、中山路と新民路の角にあって、<媽祖・まそ>を祭り、宜蘭民衆の信仰と交流の場として一日中賑わっている。

中国本土から台湾に土着した民衆信仰<媽祖>は、航海・漁業という海の守護神であり、日本でいう金毘羅山宮に似ているようである。 航海安全、商売繁盛、家内安全の守り神として信仰されている。 媽祖が誕生した中国福建省では今日ほとんどその姿を消しつつあるというが、台湾では民衆の間に根付き、立派に生き続けているから外来宗教の現地化といっていいだろう。

 

台湾東海岸沿いの列車の便は極端に少なく、移動には不便である。 路線バス<國光客運>を上手に利用することをお勧めする。

こちらはのんびり旅だから贅沢に時間を使ったが、蘇澳―宣蘭をへて基隆に出るにも列車の本数は少ない。

 

宣蘭照應宮に一歩踏み入れて、参拝者の混雑と、お香の燃え立つすさまじい煙に迎えられた。 人々の媽祖への信心深き熱気は、東京の浅草寺の祭り騒ぎに似ている。

 

<口にしたい台湾の一品②>

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        葱たっぷりで、あっさりした美味しい小籠包の店<正好鮮肉小籠湯包>

 

正好鮮肉小籠湯包(北横公路・泰山路民族二巷角/宣蘭駅から約13分/小籠包10個で80元)

 

故宮博物館  台北 台湾

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               <故宮博物館> 台北 台湾

                    Sketched by Sanehisa Goto

 

故宮博物館—世界四大博物館>

世界四大博物館の一つである有名な国立故宮博物院に出かけた。

目指す玉器彫刻<翠玉白菜>や<肉形石>は、3階の明清代彫刻コーナーに展示されている。

はたして石彫でここまでリアルに、みずみずしく、臭いまで感じさせる作品が彫れるものだろうか。

作品の前に長時間立ち尽くし、息をのみ込んだことを覚えている。

もちろんスケッチどころではない。 そのリアリティにただただ見入ったのである。

これらの中国4000年の芸術品がなぜ北京の故宮ではなく、ここ台湾の台北にあるのかと一瞬懐疑的になった。

もちろん国府軍が台湾に撤退進駐したき、蒋介石の指揮で大陸から移されたものである。

 

 <台湾で絶対に見たかった一品>   (写真 故宮博物院提供)

 

翠玉白菜 すいぎょくはくさい』

世界で一番有名な白菜、「翠玉白菜」は、みずみずしい白菜が玉石本来の色を生かして彫刻で表現されているのであるから驚きである。 

この白菜の葉にはキリギリスとイナゴが彫り込まれており、生の白菜を美味しく喰いちぎる様により、よりリアルティを与えている。 

また、白菜の白い部分に斑点をつけ、葉っぱの縁や葉脈が巻いている箇所にも亀裂を入れることにより、よりみずみずしさを表現させている。

かかる玉石の自然な形や色あいを巧みに利用して彫刻する技法を「巧彫」といい、古来から中国にはあった。

 

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            翠玉白菜 すいぎょくはくさい』(写真 故宮博物院提供)

 

『肉形石 にくがたいし』

肉に味をしみ込ませたような彫刻を見たことがあるだろうか。

故宮の「肉形石」は、よく煮込まれた「豚の角煮」そのものである。 角煮の匂いまでにおってくる(ような)のだからたまらない。 角煮そっくりにしようと表面に小さな窪みを作り、豚の毛穴そっくりにしたうえに、醤油がしみ込んだ皮に見えるものだから、まさに、豚の角煮の匂いが漂ってくるのである。

台北の夜市の屋台で見る角煮と何ら変わらないのだから、その技法に驚かされ、ただただ唾を飲み込んだ。

 

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               『肉形石 にくがたいし』(写真 故宮博物院提供)

 

 

■旧台北州庁舎   台北 台湾

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               <旧台北州庁舎> 台北 台湾

                 Skeched by Sanehisa Goto

 

<日本統治時代の遺作品>

先に述べた大日本帝国台湾総督府などを設計した森山松之助による本格的なフランス式バロック建築で、重厚さの中に貴婦人のような美しさを漂わせている姿に目を見張させられる。 

ここは台北であり、パリではない。 その優雅さは、ここが台湾であることを忘れさすほどである。

植民地者としての権威主義が見え隠れするが、当時の日本の貧しさからして精一杯の威厳を見せているようにもみてとれる。

現在は、監察院として使用されているようである。

台北駅から10分ほど東へ向かうと、忠孝東路と中山北路の交差点の角に建っている。 訪台の際は是非立寄って、日本統治時代の遺作品というか、統治の意気ごみを感じてみるのもよい。

 

<台湾で食べてみたいフルーツ一品>

フルーツ王国台湾は、トロピカル・フルーツの王国でもあり、熱帯性果物で溢れている。

マンゴ・ライチ・レンブ・パイナップル・スターフルーツ・ドラゴンフルーツ・バナナ・グアバ・パパイヤほか、その種類の多さに驚かされる。

台湾で食べたいフルーツの一品に、強い甘みと、柔らかい食感に惹かれる日本人好みのトロピカル・フルーツであるマンゴを挙げたい。

美味しいマンゴの選び方をあげておくので是非現地台湾でマンゴを食べてみて欲しい。

果皮にしわなどがなくハリがあること、そして傷や黒い斑点が無いものを選ぶこと。 また手に持ってみて、ずっしりと重みがあり、少しベタつきがあるものがおいしいマンゴであるといわれている。

 

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      屋台に盛られたマンゴ              トロピカル・フルーツ

 

 

■陽明山温泉   台湾北部

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               <陽明山温泉>  台湾北部

               Skeched by Sanehisa Goto

 

火山国 台湾には沢山の温泉地があり、日本にいるような雰囲気にひたることが出来、 多種多様な泉質と、温泉から冷泉までを楽しむことが出来る。

陽明山温泉は、緑に囲まれたまさに大自然の中にひっそりとたたずむ温泉地であり、 泉質は酸性硫黄泉で日本人になじみ易い。

台北市内からMRTで新北投駅へ行き、駅前から陽明山行き路線バス#230に乗車、約1時間以内で行ける。

陽明山バスターミナルに向かう途中、湯気が立ち上る源泉「龍鳳谷硫黄谷」を見ることができる。

 

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             渓谷美を楽しめる自然豊かな陽明山温泉

 

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             台湾の温泉地(台湾温泉ガイドより)

 

 

日月潭  台中 台湾

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                  <日月潭>  台中 台湾

                Skeched by Sanehisa Goto

 

日月潭

日月潭は、台湾3大観光地の1つで、標高749mにある最大の淡水湖である。

湖畔に建つ文武廟から眺める 日月潭の西に浮かぶ光華島を境にして、東側が<太陽>、西側が<月>のような形に見えることから日月潭と呼ばれるようになったという。

なお、光華島は、日月潭周辺に住む台湾の原住民「サオ族」の旧居住地であり、サオ族の『先祖の霊が眠る神聖な土地』でもある。

文武廟は、日月潭の北側の湖畔に建ち、「文」の神様である孔子と、「武」の神様である関羽岳飛が両方祀られている。

日本統治時代にこの日月潭を利用しての発電計画が持ち上がり、湖面が現在の位置まで上昇したため現在地に移築されたといわれている。

また、 日月潭の近くには蒋介石が母親への感謝の意を表すために建立した慈恩塔や、ロープウエーで向かったところに台湾の原住民たちの暮らしをテーマパークにした九族文化村がある。

 

日月潭をロープウエーから眺めると、まるでユーラシア大陸とアフリカ大陸のような形をしている湖である。 その風景は、中国大陸の桂林でみられる枯山水水墨画の情景よりも、日本の松島に似ているといえる。

 

日月潭への行き方は、台湾鉄道 台中駅の出口5・6から1階にあるバス乗り場に向かい、南投客運バス乗り場(3番窓口)から日月潭行きに乗車するとよい。

 

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    日月潭の北側の湖畔に建つ文武廟(交通部観光局提供)ロープウエーからの眺望 日月潭

 

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                 日月潭遊覧船乗場で

 

 

        

         ■盧山温泉   霧社 台湾中部

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           <盧山温泉入口の吊橋> 霧社 台湾中部

              Skeched by Sanehisa Goto

 

盧山温泉>

台湾鉄道の台中駅から路線バスで所要30分の終点<埔里>に行き、南投客運の廬山温泉行バスに乗り換える。

廬山温泉に着いたのがお昼ごろ、調べておいた<碧樺大飯店>の地下にある露天風呂と野外プールにスイムパンツをはいて飛び込んだ。 湯の花が浮かんでいる湯をなめてみた。 甘みのある塩分含みの温泉である。

泉質は、炭酸水素塩泉という。 入湯料150元。

台湾でもっとも標高の高い山間部渓流沿いにある温泉地で、石畳の道の先にある吊り橋、温泉ホテルやレストラン、土産屋が立ち並び温泉地風情たっぷりの場所であり、散策していると日本の温泉地にいるような錯覚に落ちる。 日本統治時代から非常に人気の高い風光明媚な温泉だったといわれている。

コンビニで購入した弁当を突っつき、渓流の音を耳にしながら、温泉風情に溶け込んでいる<廬山吊橋>のスケッチを楽しんだ。 

その後、2009年以来つづく集中豪雨による土石流で、渓流が被害を受け、温泉地そのものが移転することになったとのニュースを知り驚いている。

また温泉街を散策中、同じ京都の大学の後輩に出会い、ここ盧山温泉の入口で<Café & Pup-Mahebo Auberge>とゲストハウスを経営しているということで投宿し、タタミ部屋で大学時代の想い出を語り合ったものである。 後輩であるご主人も日本への留学以来の同窓生に出会ったと大変な歓待をしてくれたのである。

 

廬山温泉 ゲストハウス『馬赫坂森林』 (Mahabun Senrin)

<Café & Pup-Mahebo Auberge>

Mr. Wallace Liao (廖繼雄・ワルサ アウイ・同志社大学商学部・太田進ゼミ・1994年卒・長老系クリスチャン)

< aaheho@hotmail.com>

埔里と廬山温泉の間に、霧社という町がある。 先述したが、ここは日本統治時代に、日本の強圧的な統治と搾取に抵抗した少数民族が蜂起し、多くの死者をだした霧社事件が起きた場所である。

ゲストハウス『馬赫坂森林』のネーミングは、霧社事件後、強制疎開により消滅してしまった村名を忘れないためにつけたと、霧社事件にかかわった原住民の子孫であるオーナーから聞かされ、恩讐を越えた日台の友情に感謝したものである。

 

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           廬山温泉 ゲストハウス『馬赫坂森林』 (2017年Facebookより)

 

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   <盧山温泉>炭酸水素塩泉の風呂              霧社事件記念碑 <霧社>

 

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                   盧山温泉入口 吊橋前で

 

< 霧社事件の背景>

爽やかな朝、澄んだ空気のもと小鳥たちがさえずる霧社の街に立寄った。

近くでは鶏たちが声高らかに朝を告げている。

そう、今から75年前の10月27日、霧社セデック族の若者たちは、息をひそめてこの朝を迎えたのである。

謀議の結果、準備を経て300人の決起者が夜明けとともに、まず、霧社管内の警察詰所を幾グループに分かれて襲撃した。 自分たちの誇りを守るため、種族の全滅を覚悟で立ち上がった朝である。

 

詩 《 ああわれいま霧社におりて》 實久

 

  廬山をいでて 霧社の山道を歩く

  千尋の谷より激流の音木霊して

  東方の峰々に紫雲棚引きし

 

  鶏声一番 霧社の青年立上りて

  勇士の鬨の声 渓谷に響き渡り

  霧社の正義 霊と交わりしや

 

  支配するもの、支配されるもの

  互いに憎しみあう空しさよ

  吹き来る風となって交われと

 

  可憐なる白き花々咲きて弔い

  静かなる時を刻みて君たちを想う

  ああわれいま霧社で瞑目するなり

 

 

 

阿里山森林鉄道   嘉義 台湾中部

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             阿里山森林鉄道> 嘉義 台湾中部

               Skeched by Sanehisa Goto

 

阿里山森林鉄道は、日本統治時代に阿里山のタイワンベニヒノキなどの豊富な森林資源輸送を目的に敷設された。

現在は、台湾鉄道 嘉義駅で阿里山森林鉄路に乗り換え、玉山阿里山観光に活躍している。 

なかでもスパイラルループは、鉄道フアンにとってたまらない魅力を提供している。

阿里山は、台湾で一番高い玉山(標高3952m 旧日本名・新高山)の西に位置する。

ちなみに、玉山は富士山(標高3776m)よりも高く、日本統治時代に「新しい日本の最高峰」として<新高山/ニイタカヤマ>と命名された。

1941年12月2日に発令された日米開戦の日時を伝える、大日本帝国海軍の暗号電文『ニイタカヤマノボレ一二〇八』に使われた<ニイタカヤマ>(新高山)で有名である。

標高差2172m、全長約72㎞、所要時間3時間30分で走る観光登山列車として活躍している。

ディーゼル機関車1台で、5両連結の車両を引っ張る。 思ったよりそのスピードは速い。 

スイスやペルー、インドのダージリン線など多くの登山電車に乗ったが、ここ阿里山は本格的な山岳路線であるといっていい。

約3時間かけて、2100m近くの高度差を1回のスイッチバックで上りきるのだから、トンネルも多い。 お陰でトンネルを抜けるたびに、山麓側と山頂側が交互に代わり、そのどちらの景色を十分に堪能できる。

また、路線脇の棕櫚林と竹林がつづき日本では味わえない異国情緒を愉しむことが出来る。

 

登りきった「沼平駅」で下車して、<1時間トレッキング・コース>を歩くもよし、また<祝山>登山にでかけ<玉山/旧新高山>を眺めてくるのもいい。

 

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  スパイラルループを上る特急列車阿里山号        阿里山森林鉄道の蒸気機関車の前で           

 

阿里山は、入山料として150元を支払う。

 

阿里山には、屋久島の縄文杉のような古木は少なく、切り株と植林された杉(人工林)が並んでいるのには少し落胆したものである。 ただ、桜の種類は多く、それぞれが競い合って満開であった事には感動させられた。

 

 

■関仔嶺温泉  台湾中西部

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              <関仔嶺温泉> 台湾中西部

              Skeched by Sanehisa Goto

 

台湾四大温泉の一つ関仔嶺温泉は、台湾中西部 嘉義市内から南へ約25kmのところにある。

台湾鉄道の嘉義駅から関仔嶺行のバス(所要1時間)に乗り、終点で下りる。

日本統治時代から一番泉質がよいといわれる<関仔嶺警光飯店>で、さっそく泥温泉(100元)につかった。

関仔嶺温泉は、台湾では珍しい「泥温泉」であり、泉質はアルカリ性炭酸泉、硫黄成分を多く含み、灰色に濁っている。

泥温泉と言えば、いまはなくなったが、よく通ったお気に入りの泥温泉が家の近くの大津堅田にあった。

堅田の泥温泉に比べれば、関仔嶺の方が泥の粒子が大きく、比重も高く、良質である。

 

裸で温泉に入る日本式とは異なり、台湾のほとんどの温泉が、露天・混浴・プールで水着着用が義務付けられている。 ただし男女別浴場では水着不要である。

韓国でもそうだが、台湾でも男女別大浴場では、タオルを一切使わず、前を隠すこともしない。 この日もタオルを持ち歩いたのは私だけであった。

 

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     泥に濁る熱めの関仔嶺温泉                関仔嶺温泉で 

 

 列車でご一緒した汶さん夫妻(大正3と昭和5生・王子製紙の代理店をしたあと隠居)によれば、台湾でも靖国神社参拝の問題があるという。 大陸からやって来た国民党の呼びかけで、靖国神社の戦犯合祀に反対しているが、一般の台湾人は関わってはおらず、多くの台湾人(旧日本人)の遺族が毎年参拝のため訪日しているとのことである。

台湾経済が安定し、外貨準備高世界4位にまでになったのも、その基礎は台湾の農業の安定にあるとおっしゃる。 それは日本統治時代の農業政策、日本人八田與一氏による造営<鳥山頭水庫>(ダム)による灌漑のお陰だと感謝されていた。 車窓からみる一面の水田、野菜畑、果物畑をみているとその成果がうかがい知れる。

 

また、汶さんは将来の台湾について、多分大陸による台湾併合があるといわれていた。 そのためにも子供たちをロスアンゼルスシンガポールに住まわせ、危険を分散していると語っておられた。

自由こそ、人に与えられたかけがえのない特権であると真剣な顔をされて言われた。

 

―台湾の果物は美味しいですよ。是非たくさん食べて帰ってください―

―台南はまるで京都のようです。 台北は中国の都市であり、台南や高雄は台湾そのもの  の街です。ゆっくりと台湾のよさを見て帰ってください―

と流ちょうな日本語でおっしゃった。

 

 

■四重渓温泉 台湾南端      

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               <四重渓温泉> 台湾南端

                Skeched by Sanehisa Goto

                                  

台湾四大温泉の一つである四重渓温泉は、台湾最南端の手前にある泉質良好、豊富な湯量をもつ弱アルカリ性炭酸泉である。

台湾鉄道 枋寮駅から中南客運のバスに乗り継ぎ、約50分の所にある。

この辺りは、北回帰線より南で熱帯気候に属し、冬でも平均気温20度もあるという。

5つもの温度差のある温泉槽と温泉プールで成立ち、トイレ、更衣室が完備し、親子連れで大賑わいである。温泉から見る田園風景がいい、スケッチにも見られるように、まるで畑の真ん中に露天風呂があるかのようなところなのである。

 

<湯の出 ― 温泉源頭>

日本語案内によると・・・

「静寂が包む森の中の四重渓温泉の泉質は、無色・無味・透明な炭酸水素監泉で可欽可沾です。 泉温は50℃~80℃の間で、血液循環と増進する他に、筋肉を柔らかくする効果もあります。 皮膚病・胃酸過多症・関節痛・神経痛にも効きます。  清泉」

 

ゆったりした温泉につかる地元台湾の皆さんの穏やかな顔を見ていると、平和そのものである。 果たしてこの国は10~20年先どうなっているのだろうか。不確実性の中にあるのが実情である。 

国民党の中華民国台湾が、ある日一転して共産党政権の支配する中華人民共和国になり、生活はじめ経済、政治体制などすべてにおいて管理独裁、すなわち共産党一党独裁の党則に従っているかもしれないのである。

しかし、人々の顔にはその恐怖や憶測を顔に出している人は一人もいない。誰よりも彼らが歴史の繰り返しの中で翻弄し続けているのに、である。

 

台湾の人々は、歴史の教訓から危機への対処の仕方、心の持ち方を知っているのかもしれない。

現在まで築きあげてきた自由と平和を持ち続けて欲しいと心から願った。

 

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                  四重渓温泉の露天風呂<炭酸泉>

 

 

<台湾地理考>

アリュ―シャン列島から日本列島を経て、沖縄列島の行きつくところが石垣島の先にある台湾である。

このことから海底の地溝は北から南へと一連の地続きである。

風景や作物、火山や山並み、地形などおおくの共通する事象が列島共和国的域内を示していると云える。

かえって中国大陸とは、気候や、地形的相似性の希薄さがうかがえるといってもいい。

日本人にとって台湾が身近に感じられる所以であろう。

 

墾丁国家公園

フイリッピンとの間にあるバシー海峡を眺められる台湾最南端に<墾丁国家公園>がある。 四重渓温泉からバスで、ミカン畑や養殖池がつづく海岸を南下すると<墾丁海水浴場>に着く。

台湾最南端の海に潜って、熱帯魚と戯れ、シュノーケリングを楽しみながら、砂浜に横たわって<蔡焜燦著「日本精神」>を読んだ。

「日本統治の50年間で培った日本精神は、善としていまなおここ台湾の高齢者に引き継がれ、現代日本人の学ばねばならないことが何と多いことか」ーと述べている。

 

墾丁国家公園からバスと列車を乗り換えて台東にでて、台東駅から<森林遊楽区>行バスに乗換、知本温泉で下車した。

 

 

■知本温泉     台東

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             <知本温泉 公共浴室忠義堂> 台東

              Skeched by Sanehisa Goto

                            

台湾最大の温泉地である知本温泉は、台湾東部一の美観をもつ観光地であり、台東市内のバスターミナルから路線バスで向かう。

泉質は、渓谷の川床から湧き出るアルカリ性炭酸泉で無職・無味・無臭であり、水温は90~100℃以上で最上級である。

炭酸泉は、八ヶ岳下山中に立寄った唐沢温泉で、炭酸ガスの気泡が肌にまつわりつく感覚を味わって以来である。

 

忠義堂のお寺さんが提供している、無人の公共浴場である<忠義営公共浴室>に20元のドネーションで入場して、炭酸泉の湯につかった。

全部で20の個室浴槽があり、一人または家族で入るので、ここだけはノーパン・フリーである。 実に爽快な入浴であり、熱帯の太陽を浴びながら、裸で<知本温泉・忠義堂のスケッチ>を描き上げた。

 

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       知本温泉露天風呂・プール            知本温泉 公共浴室忠義堂前で                    

 

 ここ最近、旅館で見る海外のテレビニュース、とくにCNNによると、中国全域特に北京での反日抗議デモを盛んに報じている。 学生たちが中心の抗議プラカードや連呼によれば・・・

➀学校教科書で正しい歴史認識を教えていない

安保理非常任理事国への立候補反対

靖国神社への首相参拝反対

を掲げ、日本製品へのボイコットを呼びかけている。 在北京駐在日本大使館への投石など抗議がエスカレートしているようである。

とくに目立っている日常生活への日本の小売業、飲食業、コンビニ産業の浸透に快く思っていないようである。 牛丼の<吉野家>、セブンイレブンなどのコンビニ、電気製品や自動車産業へとボイコットや、抗議の輪が拡大しているようである。

 

 

■台湾苗栗古文明丁面客神秘太陽紀 

 ―台湾古文明のお面展 台東旧駅アトリエにてスケッチー

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          <台湾苗栗古文明丁面客神秘太陽紀> 

              台湾古文明お面展 於・旧台東駅

              Skeched by Sanehisa Goto

 

台東駅は、大正11年(1922)日本統治時代に建てられた古い駅である。

路線の北側への移設により、その地位を新台東駅に譲っている。

新旧交代のイベントとして、原住民のお面展や写真展が開かれ、昔の台東駅の情景を紹介している。

今から83年前の台東駅は、野原に駅舎が立っているだけの無人に近い未開拓の田舎であることが分かる。

もともと原住民の土地であったが、鉄道が敷設されて以来、日本人の入植がはじまった。 いまなお日本の地名がそのまま残されているという。

 数多くある台湾原住民族の部族は、季節によって祭事が行われた際、宇宙神を恐れたり、豊作神に感謝を捧げたり、戦いの前の祈りの踊りに、雨乞いをするとき、体に装飾を施し、お面を付けていたという。

 たとえば、アミ族の集落では伝統的な祭事である<豊年祭>が、7~8月ごろ盛大に行われたと伝わっている。

 サアロア族の<貝神祭>や、タイヤル族の顔タトゥーを彫る風習、サイシャット族の<霊迎祭>、ブヌン族の<祈禱小米豐收祭>・ツォウ族の「mayasvi」という狩猟祭や成人儀式・プユマ族の<大狩祭>・サオ族の<祖霊かご祭>・カヴァラン族の<首狩儀式>・カナカナブ族の<米貢祭>等でお面<マスク>が使われていたようである。

 

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                                                                台東駅構内

 

<原住民部落を訪ねて>

このあと訪れた太魯閣渓谷では、プロテスタント派長老教会の<天祥キリスト教会>の教会堂の一隅で数日お世話になった。

原住民出身でもある戴牧師の案内で、原住民部落を案内していただいた。

牧師が結婚した当時購入した家屋(当時、学校の関係で息子さん二人が居住)を訪問し、バイキング料理をご馳走になる。

山岳地帯の原住民部落と言われるここですら、台湾の平均的で、文明的な都市生活となんら変わることはない。

自由があり、平和な山村である。

戴牧師は、日本人の私に歴史の苦難を越えて台湾の民主的平等が根付いていることを見せたかったのであろう。

台湾の民主主義は、第二次世界大戦後の世界でも模範的な成長を遂げていることを物語っている。

戴牧師の柔和なお顔の表情には、神の名のもとに成し遂げた台湾の民族融和と平和なる郷土に対する誇りさえ感じられた。

 

瑞穂温泉

途中、台湾の有馬温泉として親しまれている<瑞穂温泉>に立寄った。

静かな温泉で、ここも広い露天風呂を一人で借りきった浴槽で、100%のかけ流しの湯を楽しんだ。

夜7時にもなると、この瑞穂の村を行き交う車もなく静寂に包まれる。

日本語の上手なご主人とお喋りしたあと、花蓮行きの列車に飛び乗った。

70歳ぐらいのご主人によると、有馬温泉と同じ泉質で、日本のお客さんに喜んでもらっているという。

老舗なのであろう、レトロで、少し古い感じがするが温泉の情緒豊かな田舎の湯である。

一人用の湯槽が10 ,二人又は家族用が7つあり、鉱泉を愉しむことが出来る.

 

この近くにこれまた日本人愛好の<紅葉温泉>があるという。

次回に楽しみを残すことにして瑞穂温泉より、花蓮に向かった。

 

臺彎鐵路局/台湾鉄路局の莒晃6車27号の座席に座って太魯閣渓谷で有名な花蓮駅に着いた。

 

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        今回のスケッチ・温泉紀行は、台湾鉄道による列車の旅でもある 

 

この夜は、<五州大旅荘/花蓮市>(朝食付600元)に泊る。

 

翌朝、<花蓮客運総站バスターミナル>より太魯閣へ向かう。

「天祥・落鞀・梨山」行バスに乗り、「天祥」で下車(2H 140元)

 

 

■太魯閣/タロコ 白楊瀑布  天祥 台湾東

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            <太魯閣 白楊瀑布>白楊遊歩道より望む

              Skeched by Sanehisa Goto

 

 

 台湾鉄道 花蓮駅より路線バスに乗り<天祥>で下車し、白楊遊歩道を歩いて秘境<水簾洞>に向かう。

幻想的な水のカーテンで有名な太魯閣白楊瀑布近くにある水簾洞に立寄った。

洞窟の奥に光に浮き立つ滝があり、それは幻想的な水のカーテンのようである。

雨具必携。

そのルートそのものが太魯閣の渓谷に沿ってあり、白楊瀑布の絶景に足を止めてスケッチした。

 

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       太魯閣 白楊瀑布           水簾洞の水のカーテン(台湾観光協会提供)

 

 

 

太魯閣渓谷 と 天祥キリスト教 台湾東

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          太魯閣渓谷                天祥キリスト教会(太魯閣)

 

太魯閣渓谷では、プロテスタント派長老教会の<天祥キリスト教会>の教会堂の一隅で一宿をお願いした。 台湾の教会の多くは、青少年の野外活動や旅行を支援するためゲストハウスやユースホステルのように解放している。 

<天祥天主堂>も、ドミトリーとシングルルームを備えている。 バス停「天祥」下車、バスのきた方向にもどって、左側の坂を上り徒歩5~8分の所に建つ石造りの教会である。

 

<太魯閣渓谷トレッキング・ルート図>

太魯閣渓谷は、トレッカーにとって魅力的なトレッキング・コースを幾つか提供しているので紹介しておきたい。

 

白楊遊歩道<天祥―小九田―白楊吊橋>

天翔~白楊吊橋間の約4km、所要1時間の<白楊遊歩道/次基里渓コース>は、

白楊瀑布や水濂洞の<水のカーテン>がみられる人気コースであり、

白楊遊歩道からの渓谷美は息をのむような絶景である。

幾つもの曲がりトンネルを通り抜けるのでヘッドライトがあれば心強い。

 

②緑水トレッキング・コース<天祥―緑水>(1.9km/約1時間)

  緑水トレックの圧巻は<緑水テラス>であろう。 ぜひ歩いてみて欲しい。

  この山道(コース)は日本統治時代にできたトンネルの前に、原住山岳民族が使っていた生活道(旧道)であったと思われる。 それにしても断崖絶壁、獣も通れない千尋の谷に面している。

  一方、新道は天祥から歩いて下り、3っのトンネルを抜けると約25分で緑水に到着する。

 

③豁然亭トレッキング・コース<天祥―豁然亭 約2km/約2時間半>

「天祥青年活動中心」の正面玄関の手前左側にある<豁然亭遊歩道>サインに従って、豁然亭に向かう。

稜線を歩くことになり、高度差も1320mあり、かなりハードなコースである。

標高で見ると、出発地点<天祥 580m>をスタートし、分水嶺1113mを通過し、ゴールの豁然亭1900mに立つのだから登山と考えるべきである。

   

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                                                 太魯閣渓谷トレッキング・ルート図

 

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                                                  天祥キリスト教会戴牧師夫妻と共に教会堂前で

 

<文山温泉―太魯閣渓谷/大沙渓>

太魯閣渓谷の大沙渓にある文山温泉にも立寄ってみた。

ここは渓谷露天温泉として有名で、道路から渓谷にある露天風呂までの高低差が180mもある。

それも吊橋を渡った対岸にある。

しかし、残念ながら落石が激しく閉鎖中であり、露天風呂からの渓谷美を味わうことは叶わなかった。

またの機会に譲ることにしてゲストハウスの<天祥キリスト教会招待所>に戻った。

 

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                太魯閣・大沙渓・文山温泉探索へ向かう 

 

<台湾におけるキリスト教宣教>

1624年オランダ東インド会社は、現在の台南・安平を拠点として台湾支配を開始した。 

主に原住民対策としてプロテスタント宣教師の協力を得た。 

オランダ統治下でキリスト教は、統治と教化の両面で利用されたのである。

 

一方、台湾北部を占拠したスペインは、カトリックを統治と教化に利用したが、1644年オランダによって駆逐され、オランダも又、明朝復興を願って台湾に反撃根拠地を作った鄭成功の攻撃を受けて台湾から追放された。

オランダの台湾からの追放によってキリスト教の宣教は、一時中断されることになった。

 1858年、アロー戦争の結果結ばれた天津条約により、開港された台湾の現在の淡水・台南・高雄を中心に、清朝によってキリスト教布教の容認のもと、カトリックによる布教が開始されたが、成果は芳しくなかった。

その後の台湾でのキリスト教布教の主流は、プロテスタントの中でも長老教会であった。

1865年、英国長老教会派のマクスウエルが台湾布教活動を本格的に開始したと《臺灣基督長老教會百年史》に書かれていると<天祥キリスト教会>の戴牧師が語ってくれた。

旅の最期に訪れた淡水にある<真理大学>もまたプロテスタント派のキリスト教長老教会によって創設されている。

 

<太魯閣渓谷 天祥に別れを告げる>

今朝の太魯閣の山々にかかる朝焼け雲が天女の衣のように美しい。

教会の番犬たちも別れを感じているのだろうか寄添って離れない。 生きしもの別れまた寂しや、である。

朝8時45分のバスで天祥を下り、花蓮に向かうが、その前にスケッチを仕上げ、戴牧師に贈呈。

教会堂にあるドミトリーを清掃し、感謝の祈りをささげて、天祥キリスト教会を後にした。

 昨日は、戴牧師の運転する車で、高砂族の部落を案内してもらった。 都会と何ら変わらない村の生活であるが、古びた家並みに貧富の差を見て取れる。 繰り返された支配者下の歴史の繰り返しであったが、のどかな平和のなかに村は包まれていた。

はたして山岳民族である住民が、都市文明の生活に組み込まれたことが幸せであったかどうか、それぞれによってとらえ方が異なることであろう。

 

<蘇澳冷泉に立寄る> (蘇澳/スーマウ)

花蓮➔蘇澳 58次 2車03号 莒光/普快車 145元

 1895年台湾割譲時、仙台丸輸送指揮官 竹井信景は蘇澳上陸時の兵士の飲料水として飲ませて好評を得たという。 この水はサイダー・ラムネとして1916年の日本全国博覧会で銀賞を獲得するほどの好評を得ている。

 広々とした鉱泉浴槽にただ一人体を沈め、赤茶色の鉄さびのような、肌に咲く炭酸の粒々を払い落としては、水面に舞い上がる水疱を眺めては、楽しんだ。

 

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                                     炭酸カルシウム泉の蘇澳冷泉

 

<礁渓温泉>  炭酸水素ナトリウム泉

宣蘭から淡水に向かう前に、礁渓温泉にも立寄ってみた。

列車を下りると、すぐ目前が温泉街である。 台湾で一番古びた温泉ではないだろうか。 

温泉と言えば渓谷や森に囲まれ、自然豊かな温泉地がほとんどであるが、ここ礁渓温泉は街の中にある。

どうも自然を楽しむ温泉ではなく、生活に密着したものであるようである。

 入浴した公共温泉浴場は、川床に造られており、男子のみでみな裸で入浴する。 もちろん温泉地である限り女子の浴場もあるのだろうけれど確認はしていない。 裸で入浴できるところは、ここと「関仔嶺温泉」の二か所ではなかっただろうか。

 しかし、ここ礁渓温泉は、温泉の常識を超えた変わったところである。

タオルを露天風呂につけるは、靴を洗ったみずや、体を洗った水が流れ込んでいるのだから常識では考えられない温泉である。 

もちろん、顔や頭を湯に付けず、恐るおそる湯船に体を沈めたものである。

話は変わるが、台湾に来て以来、髭を生やしている人に出会った記憶がない。 郷に入ればとここ礁渓温泉でも髭だけはきれいに剃り上げた。

 

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                                                         礁渓温泉 川床に設けられた足湯

 

 

<基隆をへて台北に帰り着く>

基隆では、金ぴかの<仏国山極楽寺>に詣で、門前の屋台で懐かしいどら焼きを買い食い、基隆港を散策した。

日清戦争の結果、下関条約によって台湾が清朝(当時の中国)から1895年(明治28 年)5月、日本に割譲されたことはすでに触れた。

台湾に進駐すると、 総督府は基隆港、高雄港の築港を行い、大型船の利用と鉄道連絡が 出来るように整備し、台湾の海運業の改善と、日本の南方進出のための中継港湾基地とした。

 

基隆港を後にして、今回の台湾一周スケッチ旅行のベースキャンプである台北駅近くにあるゲストハウス<Happy Family>に計画より3日程はやく戻ってきた。

これから3日間、台北近辺にある訪問地を日帰りで回ることにしている。

 

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                                         日本統治時代の基隆港(鈴木商店写真館より)

 

<陽明山温泉> スケッチ先掲)

朝食にお粥(25元)をかけこみ、台北駅北側にあるバス停から260番<陽明山温泉>行に乗り、終点で下車。

きれいに手入れされた中山公園・前山公園を横切り池のほとりに立ち、少し濁り湯である公共浴場に向かった。

ここも台湾で多く見られる男性オンリー(限定)の円形浴場である。

円形の浴場を囲むように洗い場・脱衣場・冷水槽・WCと交互に配置されている。

 

<国父記念館> スケッチ先掲)

陽明山温泉を楽しんだ後、<国父記念館>まで往復4時間のウオーキングである。

途中、公園で行われている朝一番の中国式体操に参加して体をほぐす。

 

途中で出会った台湾式ゴミ収集に見とれてしまった。 日本の標準的ゴミ収集は、ごみの種類によってゴミ出しの日が決まっていて、毎日それらをもってゴミ出しをするという無駄が多く、ゴミ収集側に便利にできている。

それに対して台湾式は、種類別の三台のゴミ収集車が同時にやって来て、ベルを鳴らして知らせ、各種のゴミを同時に収集している。

 

孔子廟保安宮

帰国前三日目の台北散策は、中山北路を北上し、多くの参詣者が回りながら一仏一神に祈りを捧げる<孔子廟保安宮>に向かった。

 

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                  孔子廟保安宮

 

この後、淡水にも足を運び、真理大学にあるレンガ造りの<理学堂大書院>をスケッチをして過ごした。

 

 

■真理大学  淡水 台湾 

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                           基督長老教会創建<真理大学理学堂大書院> 淡水 台湾

                                                Skeched by Sanehisa Goto

 

台湾一周を終え、台北に戻り、息子が卒業した米国コーネル大学の同窓で大先輩の李登輝元総統が関係した真理大学を訪れた。

真理大学は、1865年宣教を開始した台湾最大のプロテスタントキリスト教派である基督長老教会が創建した大学である。

淡水の英国領事館の裏側の抜け道を行くと真理大学にでる。

礼拝堂から聞こえてくるパイプオルガンの音色は、青空に吸い取られるように響き渡っていた。

荘厳な雰囲気に包まれたここ礼拝堂では、2020年9月19日李登輝元総統の告別礼拝が行なわれている。

 

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                   真理大学理学堂大書院   <基督長老教会創建>   真理大学礼拝堂

 

 

■鳥来/ウーライ温泉  台北

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                                                           <鳥来温泉>  台北

                                                     Skeched by Sanehisa Goto

 

帰国前に台北にある渓谷温泉である大自然に囲まれた<鳥来温泉>でゆっくりと体を休めた。

台北市の南東約30㎞先に位置する烏来温泉は、海抜500mにある避暑地としても有名である。

鳥来温泉は、原住民族タイヤル族によって約300年前に温泉(タイヤル語でウーライ)は発見された。

台北MRTの新店駅から路線バスで、40分ほどでアクセスするできる便利なところにある。

青空のもと、川の流れを眺めながら露天風呂(無料)につかっていると日本にいる気分になった。

 

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烏来渓谷に造られた人気の野渓温泉<烏来熱力温泉>        帰国前日 鳥来温泉で

 

 

■鳥来滝とタイヤル族のファッション  鳥来温泉 台北

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          <鳥来滝とタイヤル族のファッション> 鳥来温泉 台北

               Skeched by Sanehisa Goto

                  

鳥来温泉の渓谷露天で体を休めたあと、散策がてら片道1.5km 約20分のところにある鳥来滝までの散策を楽しんだ。 台湾の原住民族については、スケッチ<台湾苗栗古文明垃丁面客神秘太陽紀> 台湾古文明のお面展で述べているので参照願いたい。

 

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                  鳥来滝とタイヤル族戦士像

 

 

<陽明書屋  陽明山国家公園>

帰りに、台湾統治者であった故蒋介石の邸宅<陽明書屋>(旧中興賓館/現在は資料館)にも立寄って見た。 陽明書屋は、台湾ボーイスカウト総本山としてのキャンプサイトを備えた陽明山国家公園のなかにある。

 

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                  陽明書屋

 

 

                 

 

 

文化学園公園   台北

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          <文化学園公園の池に浮かぶ無花蓮>   台北

             Skeched by Sanehisa Goto

 

 

台湾を一周し台北に戻ってきて、三日目 帰国前日である。

あす、エバー航空で帰国する。 パッキング(帰国準備)も済ませ、近くの文化学園公園を散策しながら『星の巡礼 台湾一周スケッチ旅行』を振り返ってみた。

 

池にある蓮の葉をスケッチしながら、台湾の人々の温かいもてなしに出会ったこと、 また、どこか台湾に同族のような親しみを感じている自分がいることに気づかされた。

 

台湾の人々の<自分に生きる>姿に出会えたことに感謝したい。

自分を認め、自分たちの政治的環境を理解し、いかに生きるべきかを神に問い、神と共に歩むその姿には、平安と自信と、喜びに満ちていた。

神の教えに従い、神に従う僕(しもべ)こそが、未来を見つめる台湾の人々の選択でもあるかのように思えた。

 

現在、中国共産党政権が行っているウイグルチベット内モンゴル各民族の漢民族同化政策推進もまた、旧大日本帝国の台湾・満州・朝鮮に対する植民地政策と変わりはないと云える。

 

人類は進歩を停め、同化という美名に隠れて差別化・隷属化を進めているように思えてならない。

 

ご来場有難うございました。

谢谢你的拜访

 

          

       

       2005『星の巡礼 台湾一周スケッチ紀行 ブログ展』

    

                 

 

 

 

 

 





                       

  

2021『星の巡礼 南奥駈け6泊7日老人奮闘記』②

2021『星の巡礼 南奥駈け6泊7日老人奮闘記』②

   <玉置辻~熊野本宮>

 

 南奥駈道6日目朝、玉置神社を出発し、玉置辻に下りてきた。

玉置辻の鳥居をくぐると、舗装された道路上にちょっとした広場があり、左手に数張のテントが張れる空間がある。

また、舗装道の反対側にこれから向かう大森山の入口(奥駈道)があり、<熊野三山入口>の標柱と、<新宮山彦ぐるーぷ>の標識が目に入る。

玉置辻で一服し、大森山を経由し、今夜の露営地である<六道の辻/金剛多和>に向かった。

 

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舗装道をはさんでテント地の反対側に大森山への   この奥駈道は林道と合流し、しばらく林道を歩く

入口がある    

標識<熊野三山入口>と<新宮山彦ぐるーぷ>が立つ

 

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林道を進むと右手から大森山への山道に入って行く  左大森山・右水吞金剛<第9靡>の分岐を左へ 07:45

 

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             大森山への尾根から篠尾の村の田畑を見下ろす

           

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                                                                大森山 標高1045m 09:40登頂

 

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            大森山より急下りで篠尾辻にでる 11:00 通過                                  岸の宿<第8靡ーなびき>

 

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   切畑宿で昼食(めはり/きつね寿司)11:15/11:40           五大尊岳<第7靡>825m   12:20/12:40休憩

  (玉置神社駐車場食堂<栄山めはり寿司>)

 

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                                                 六道の辻への下り尾根で熊野川を見下ろす 13:55

 

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                                          6日目露営地 六道の辻/金剛多和<第6靡> 14:45到着 

                                               まずはリュックを置き、水場を確認に出かける

 

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   <水場標識>六道に辻より2分・奥駈け道を右折3分         豊富な沢水あり

 

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            六道の辻に張られ、南奥駈け最後の夜を迎えるツエルト

 

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                   南奥駈け最後の晩餐の準備

 

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           南奥駈け最後の暗黒の森を楽しむ(深夜鹿たちの来訪あり)

 

 

 

■《 南奥駈け最終日 第7日目 六道の辻/金剛多和より熊野本宮神社にむかう 

   老人7時間コース 》  

   6月1日 南奥駈け 7日目

 

<いよいよ最終日を迎え、ゴール熊野本宮に向かう>

『今日もよろしくお願いします』と、熊野の峰々に深く頭を垂れた。 

計画の行動日数を2日も延長し、己の戦いから神仏へのお願いと変わっていく様を感じ出していた。

これは己の健康、成し遂げたいという願望を今少し見守ってくださいという切なる祈りであり、生への原動力を与え給えという究極の願いでもある。

この歳で限界を超えてくると、自他ともにわが生は総力戦を強いられるのである。

当初、この高齢で南奥駈けに踏み出した時は、道中での遭難や滑落を気にし、疲労が加わり不安に見舞われるとたえずエスケープの妄想にさいなまされた。 

しかし、ここまでくると自分を誉め、目標達成という欲望が湧いてくるから人生は不思議であり、愉快である。

すべてが軽く感じ出し、歩速も滑らかになって来るのである。

そして、あの一歩の重さも吹き飛び、歳をも忘れ、青年のように「いざ進め」と高らかに叫び、己の背中を押し進めるのである。 

目標とゴールが一致しだした瞬間の歓びこそ人生最大の歓喜の瞬間であるような気がする。 幸せと安堵が体中に広がり、青空の素晴らしさに目を見張ったものである。 

自信とは、人生の基(もとい)である。

すべてに助けられ成し遂げられたという幸せと、満足感と、充足感にみち、感謝というほのかな温もりがこころの中に広がった。 

ここは玉置神社と熊野本宮の中間地点である<六道の辻・金剛多和>(第6靡―なびき)の広場に張らせていただいたツエルト(簡易テント)の中で、寝袋に体を横たえて日記を付けている。

もう少し若ければ、この時間にはすでに熊野本宮に到着し、南奥駈け無事踏破を報告し、祝福を受けている頃である。 しかし、歳からくる疲れのため、ここ六道の辻に臥すとき、熊野杉の樹間に沈みゆく太陽の光が、老体を祝福するように幾筋もの黄昏の夕陽が差し込んでくる風景に出会うのもまたいいものである。。 

なんと静かな、幸せな瞬間であろうか。 

いま一幅の大自然という絵画の中に老いたおのれの姿を認める幸せこそ、生かされている喜びそのものであるように思えてならない。

仰向けになって熊野杉の先に広がる天池のような天空を見上げる時、栄光の輪が広がり、天国の入口のように光り輝き、われを招いてくれているように見える。 

その情景は、天地創造が聖書にでてくる瞬間でもある。

光は闇を求め、闇は光を求める。

自然の法則に、存在するすべてのものが従っている姿を目にして、己の小ささを痛感するツエルト生活がここに在る。 

大自然の中で露営する楽しさを味わう瞬間でもある。 

奥掛けの孤独な露営もまた然(しかり)である。

 

熊野川が目に入った>

いよいよ南奥駈け最後の日がやって来た。 

 老体を考え、自信をもって仕上げた行程(計画)が、スタートして3日目に無残に打ち砕かれた南奥駈け、恐るべきことであるというべきか、無謀であったというべきか。 後日、判断ミスがどこにあったか反省の材料にしたい。

しかし、2日遅れのゴールもまた良しである。

単独の4泊5日の行程が、6泊7日に延びたこと自体、通常考えれば継続は不可能である。 数グラムでさえこだわった携行の品々、切り捨ててきた限界ぎりぎりの携行品、飲み水でさえ生命線ギリギリに抑えたはずの行程を、2日もオーバーしたことは、二日間の遭難にひとしい体験をしたことになる。 

ただ、計算された2日間の延長であったところに、遭難そのものの切実さがなかったというだけである。 

心して反省しなくてはならないとも思っている。

2日も生き延びて、ゴールできるのであるから、その矛盾からくる成功にこそ、老人成功の秘訣が隠されている気がしてならない。 

それは一体何が2日も延ばしてゴールせしめたのだろうか。 

体力の温存であり、食料の再配分であり、なんといっても先達との約束を果たすという覚悟と信念、それに神仏の導きと大自然の尽きない声援を受けたことによるものだと確信している。

ここに、おのれでは計算できない、こころの中にある導きによって南奥駈けが無事になされたと思っている。

 

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         最終7日目 六道の辻露営地を発ちゴール熊野本宮を目指す 05:00出発  

           今朝も天気と健康に恵まれ、峰々に抱かれることに感謝である

 

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           大黒岳<第5靡> 大黒天神岳573m 05:40/05:50 休憩

 

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              雲海に消える高圧送電線をくぐる 06:20      

 

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               雲海の中、山在峠(林道)を目指して下る

 

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     山在峠にある<宝篋印塔> 06:55/0710休憩    山在峠  標高1035m 林道を渡り奥駈道に入る

 

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         吹越山<第4靡>標高325m 07:40通過     再度、林道を渡り標識に従って奥駈道に入る 07:50

 

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                                                                         吹越峠670m 08:45通過

 

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                                              展望台 大斎原の大鳥居・熊野本宮を一望 09:10

 

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     七越の峰公園(WC)09:20通過 広場直進         七越の峰 登山口 09:30

 

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              七越の峰を下り、 舗装道路に出て歩く         案内板より舗装道と別れ、右手より奥駈道に入る 

                                                                                                                       09:45/10:00休憩

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                                                          南奥駈道最後の上りが始まる

 

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                            南奥駈道最後の急下りから見る熊野川

 

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   ここが大峰奥駈道<順峯>の起点であり、南奥駈道<大峯奥駈道逆峯>の終着である 10:45到着 

 

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堤防から熊野川へ降りる階段がある  渡川は不可能ではないが、万一の事故を避けるため備崎橋を渡る

 

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     堤防を歩いて備崎橋に向かう      熊野本宮神社 旧社地 大斎原の大鳥居にも踏破報告

 

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         熊野本宮神社にて、奥駈道踏破報告と共に、感謝の祈りを捧げた 11:40 

 

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                                                  大好物のトンカツ定食で奥駈道踏破を祝った

 

これから、バスで湯の峰温泉に向かい、7日間の疲れをとるためゲストハウス<ジェイホッパーズ熊野湯峯>に投宿し、露天風呂につかる。 楽しみである。

また、帰宅時の交通機関乗車のマナーとして、これまた7日間着たきり雀の下着はじめすべての衣類を洗濯機で洗い、乾燥機にかけて汚れと悪臭を消し去るつもりである。

 

かかることが出来るのも、奥駈道踏破後も元気であること、いや生きて帰ってきたということである。 80年の集大成である挑戦を手助けしていただいた神仏に、そして大自然の一木一草にいたるまでの見守りと声援とに感謝である。

 

 

《  駈けし峯 振り返りてや 白き雲 曲りし腰に 老いを背負いし 》 實久

    ーかけしみね ふりかえりてや しろきくも

                     まがりしこしに おいをせおいしー

 

 

   

                   感謝合掌

 

     第1期2002<吉野~太古の辻~前鬼口> 第2期2021<前鬼口~太古の辻~熊野本宮>

          ここに大峯奥駈道逆峯完全踏破を終える

              2021年6月1日11時40分

              熊野本宮神社に到着し、報告する

 

 

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<カミーノ・デ・サンチャゴ巡礼路 と 大峰奥駈け道>

二つが姉妹巡礼路であり、世界遺産であることは世界的に知られ、近年海外からの巡礼者が熊野古道、特に中辺路で多く見受けられた。 今回は残念ながらコロナ禍の環境にあり、吉野・玉置・熊野本宮でさえ外国からの巡礼者との出会いは皆無であった。

 

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   世界遺産熊野古道シンボルマーク    世界遺産・カミーノ・デ・サンチャゴのシンボルマーク

 

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                                                                      姉妹都市シンボルマーク

 

わたしも自転車で踏破した老若男女で溢れかえるカミーノ・デ・サンチャゴ870kmの巡礼路は、フランスからスペインにまたがるピレーネー山脈をつらぬく山岳地帯を縫って牧草地や村の中を歩く、景観豊かな魂の巡礼路である。 

そこには歩き巡礼路としての宿泊施設「アルベルゲ」が迎えてくれ、歩き巡礼者の交流の場となっている。

これに対し、熊野参詣道の中辺路が、カミーノ・デ・サンチャゴの巡礼路に似た雰囲気を醸していると云える。 海外からの巡礼者も好まれる巡礼路のひとつである。

 古代から中世にかけて熊野三山の信仰が高まり、上皇から一般民衆にいたるまで、多くの人々が熊野を参詣した。
当時、「蟻の熊野詣」といわれるほど、紀伊路伊勢路大辺路・中辺路・小辺路は多くの人々で溢れ、切れ目なく熊野に参詣したと伝えられている。

 今回の大峰奥駈道は、初心者でも手軽に歩ける<魂の巡礼路や参詣道>とは異なり、現在でも山伏という修験者の山岳修行の場でもある。 その心づもりと覚悟で入峯することが問われることはもちろんである。

大峯奥駈道が、日本・海外からの多くの青年男女で溢れ、精神修養(自己研鑽)の巡礼路としてさらに脚光を浴びる日が来ることを祈るものである。

 

<南奥駈道におけるエスケープ考>

老体を引っさげて修行の険しい峰々<南奥駈道>を歩くことを計画して以来、たえずエスケープルートの情報収集にエネルギーを使ったものである。

それは単独行を生涯貫き通したいという山行ポリシーにある。

単独行、それはたえず死と隣り合わせであり、一瞬にして起こる遭難は多くの関係者に迷惑をかけることを知っているからである。

自己責任、それは生還への絶対的自己防衛であると思っている。

死んでは、自己責任が果たされなかったことになるからである。

「いかにして生きて帰るか」、エスケープルートの情報収集・研究は登山にあったって老人としての最重要な必須条件である。

若い時は、入山したら何とかなるという絶対的自信に、死を恐れることなどみじんもなかったから、その自信がどこからきていたのであろうか。

老化よりくる円熟味は、登山考はもちろん人生考までも慎重になるから面白い。

今回、計画したいくつかのエスケープルートが、現場ではただの希望的なルートであったことに気づかされ愕然とした。 これでは自分を納得させるためだけの幻のエスケープルートに過ぎないからである。

その中で、南奥駈道の生きたエスケープルートをいくつか上げておきたい。

 

「持経小屋エスケープルート」白堂林道から国道425に出て下北山温泉に抜けるルート

               <新宮山彦ぐるーぷ>作成の「持経宿周辺案内図」参照

 

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②「行仙宿山小屋エスケープルート」    

         行仙小屋のある<佐田の辻>より浦向道を下り、四ノ川林道を左折

              国道425に出て、浦向または十津川温泉方面に向かうルート

         <新宮山彦ぐるーぷ>作成の「行仙宿周辺図(広域)」参照

 

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③「葛川トンネル経由エスケープルート」   

            稚児の森にある<岩の口>より下山し、国道425にあるバス停より

            十津川温泉行バス 一日三便のバス07:38/09:30/15:02を利用できる

 

④「玉置山神社エスケープルート」       

            駐車場へ予約(条件付き)によりバスの迎えがあるとの情報(十津川温泉行のみ) 

            又は 緊急時のヒッチハイクも可能

 

 

<ゲストハウス・ジェイホッパーズ熊野湯峯 と 湯の峰温泉

最終日、熊野本宮神社での奥駈道踏破感謝報告の後、バスで湯の峰温泉に移動、温泉で疲れをとり、洗濯をして身だしなみを整えた。 滞在した<ゲストハウス・ジェイホッパーズ熊野湯峯>もシーズン中は、海外の巡礼者で溢れるそうだが、コロナ禍のもと、この日はただ独りの滞在者であり、寂しい限りであると担当者が嘆いておられた。

汗と泥で汚れ切った奥駈け踏破者にとって、露天温泉と洗濯施設(洗濯機と乾燥機)があるホステル<ゲストハウス・ジェイホッパーズ熊野湯峯>の存在は、有難い。 温かく迎えていただき感謝している。

  

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               <ゲストハウス・ジェイホッパーズ熊野湯峯>

 

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  ゲストハウス・ジェイホッパーズの露天風呂       湯の峰温泉街で信楽の狸に出会って 

 

当初予定していた湯の峰温泉公衆浴場に飛び込む予定は、現在建て替え中で、懐かしい温泉場が消えてなくなっていた。 つぼ湯は営業中、健在である。

湯の峰温泉は、古くから熊野古道を歩き終え、熊野本宮に参詣する前に身を清め、衣を整える所として栄えた。 現在でも中辺路へとつながる<大日越・赤城越>が湯の峰温泉を起点として残っている。

 

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    湯の峰温泉公衆浴場は建て替え中             つぼ湯は営業中

 

 

 

   2021『星の巡礼 南奥駈け6泊7日老人奮闘記』      

 

 

                   

 

 

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■<老人用携行品研究ーロングトレイル用> 後期高齢者/4泊5日/単独)

 

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■<大峰奥駈道行程地図>

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■<大峯南奥駈け高低差之図> 

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■<大峰南奥駈道 行程表 ‐ 後期高齢者仕様>

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      2021『星の巡礼 大峰奥南駈け6泊7日老人奮闘記』完/末尾




 

 

 



 

 

 

  

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 

 

 

 

 

 

 

 



                          
   
             



 

2021『星の巡礼 南奥駈け6泊7日老人奮闘記』①

2021『星の巡礼 南奥駈け6泊7日老人奮闘記』①

   <前鬼口~太古の辻~玉置辻>

 

いまから20年程前、隣人の大峰奥駈け山伏修行経験のあるご老人(先達)の是非との勧めで逆峯(ぎゃくぶ)に挑戦し、吉野より入峯、前鬼口に下山したことがある。

今回、わたしもご老人(先達)の年齢に達し、いまだ約束が果たされていない前鬼口より熊野本宮大社への南奥駈けへ出かけてきた。

 

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        熊野本宮に到着し、大峰奥駈け道踏破を報告する

                              (写真同行のアオハル会メンバーと共に)

 

 ■《 南奥駈け 第1日目 前鬼口から深仙小屋に向かう― 老人11時間コース 》

         5月24日 移動日

           5月25日 南奥駈け第1日目

      

 

第一日目は、前日の近鉄<大和上七駅>から1日1本の奈良交通のバスで夕方6時近くに<前鬼口>バス停に移動し、バス停近くの屋根付きの休憩用の長ベンチで露営。 

ここが、第1日目の南奥駈けスタート地点である。

バス停前の廃業された<かどや>の黄色く塗られた建物が、往時の奥駈け道の賑やかさを偲ぶようにその姿をのこしていた。

わたしも前回の大峰奥駈け<吉野~太古の辻~前鬼口>以来、20年ぶりの再訪である。

 

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   20年ぶりの再訪、前鬼口バス停前にある<かどや>と道路標示<大峯奥駈道>前鬼登山口

 

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           前鬼口バス停前にある長ベンチで露営 05:00スタート

 

朝まで降っていた強い雨も止み、近くのダム湖(前鬼川)も緑を映してスタートを祝ってくれているようである。

今日は、前鬼の小仲坊で昼食をとり、沢から引かれた水を給水したあと、一気に南奥駈けの入口である<太古の辻>に向かって急登する。 そのあと、大日岳をトラバース(山腹を巻く)して、深仙小屋で泊まることにした。

最大重量の15kgを背負っての前鬼口より小仲坊を経由し、太古の辻に至る急登は、今回の南奥駈けの中で一番の高度差(1116m)があり、 縦走初日に老人の体力を奪う難関の一つである。

 

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 朝方までの雨で水量が豊富である       前鬼川(ダム湖)沿いに咲く山ツツジが美しい

 

鬼口バス停から林道車止めを経て、前鬼小仲坊まではなだらかな舗装道が続くが、登山靴では少し歩きづらい。

途中、ダム湖を右手にみながらいくつかのトンネルを抜け、七重滝を過ぎると、登山届ボックスのある林道車止め広場に着く。

 

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              前鬼七重滝を右手にみながら進む 

 

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     林道車止め(ゲート)に登山届ボックスがある 07:50通過   <登山届投函>

 

なお、林道を進むと、立派な小仲坊の宿坊が見えてくる。 宿泊予約は、土日に限られているようである。

この日は、火曜日であり、管理人はおられず無人の前鬼小仲坊である。 

静かなたたずまいだが、古い歴史の中、長年奥駈け修験道を守っておられるのである。

頭がさがる思いである。

 

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     前鬼<第29靡ーなびき> 小仲坊の宿坊とその前にある公衆電話 08:45通過

 

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          給水する ― 沢水を引くホースと貯水タンク(水場)

 

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           水洗便所を利用したら志納箱へ使用代を忘れずに

 

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         登山標識に従って宿泊所前の登山道(階段)を上がっていく

 

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         五鬼熊行者坊住居跡の標識を左に進む(右の階段を上がらずに)

          (道迷い注意)奥駈道標識がないので注意

 

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       自然と涸沢の複雑な登山道に入って行く(必ず標識をチェックすること)

 

真っ白い岩が立ちはだかる涸れ沢歩きと、延々と続く階段はこのルートの疲労度を高めているようである。それに意外と標識を見つけにくいので、道迷いに注意である。

 

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         涸沢の白い岩を越えていく、意外と荒れているので歩きにくい

 

 

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                            標識<登山道・釈迦岳・弥山⇔前鬼>を確認し、従う

 

 

<道迷い注意>

ただ太古の辻直前の涸沢で、修験・第34靡(なびき)<千手岳>へ導く、目立つリボン標識(白リボンの上に赤リボンを二重に巻いた3個の標識)に惑わされないこと。

もし間違って千手岳ルートに入っても、足跡やリボン標識が消えた時点で、元の涸沢に引き返すことである。 反対側にあるクサリの付いた登山路に入り、最期の階段を登りきると太古の辻に出る。

 

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<道迷い注意>写真右の目立つリボン標識は、修験者の往来する<千手岳 第34靡>への入口を示し

                         ている 10;25通過 (写真右下に 千手岳への標識が見て取れる)

 

階段を登りきり、二つ岩を経て、笹漕ぎをすると南奥駈道の入口<太古の辻>に出る。

 

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                                             最期の階段を登りきる

 

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                                                  二つ岩<第33靡>に迎えられる 12:30通過

 

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                                   階段を上り切り、笹を漕ぐと南奥駈道入口<太古の辻>に出る

 

 

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      <太古の辻>尾根道にある南奥駈道入口と前鬼下山口 14:00/14:30 休憩

                             前鬼小仲坊からの急登は老体にこたえた

 

<強風に咆哮する深仙避難小屋 ― 深仙の宿>

最初の夜は、深仙避難小屋泊である。

太古の辻より、大日岳を巻き(トラバース)し、少し北に向かったところの鞍部にある。

20年前、前鬼口に下りる前に最期の水を補給した懐かしい水場である。

当時、600mlペットボトルを一杯にするのに、45分程かかったことを鮮明に覚えている。 貴重な一滴水であり天名水であった。

大日岳を巻くと、鞍部にある深仙の宿には、手前(南側)に非難小屋があり、奥に潅頂堂(指導者の位を授ける儀式が行われるお堂)が目に飛び込んでくる。 その背後には巨大な四天石が屏風絵山水画のようにそそり立っている。

そしてその背後に釈迦岳が、遠くには大台ケ原山を中心として台高山脈が貴婦人のように横たわって、柔らかい峰々の豊かな曲線を現わしている。

 

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     大日岳<第35靡>の山腹を巻き今夜の山小屋/深仙の宿(避難小屋)に向かう

 

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            大日岳の巻道を下ってくると眼下に深仙避難小屋と

               潅頂堂が迎えてくれる 16:00到着

           (背後に四天石、さらに釈迦岳1799mがそびえる)

 

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     童話の世界を演出するキュートな深仙非難小屋とフォークの木が迎えてくれた

 

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          深仙非難小屋の中には味のある囲炉裏が待っていてくれた

 

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              深仙の宿から眺める神々が住む大台ケ原の峰々

 

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 深仙宿 <第38靡―なびき> 潅頂堂前に美しいシルエットを見せるテントと背後の四天石

 

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              潅頂堂前の広場から200m先にある貴重な水場

             四天石の巌から染み出す香精水

   香精水(天命水とも呼びたい)は、修験者や奥駈け者の命を潤してくれる命の水である

 

深仙の宿に着いてみると、午後4時ごろであったがすでに2張のテントが潅頂堂前に美しいシルエットを見せていた。 ティピー型テントの青年は、あと二日かけて熊野本宮を目指すとのこと、健脚である。 バーナーで夕食を作りながらその意気込みを語ってくれた。 もう一つの橙色のモンベルの一人用テントは、吉野を目指す中年の男性である。

 

こちらも前鬼口からの長い登りを上がってきただけに、老体が疲労で溶け入りそうである。 力を振り絞り、避難小屋の一角にわがテリトリーを設け、就寝の準備にとりかかった。

懐かしい水場も訪ね、20年ぶりの再会を喜び、巌から染み出る香精水と言われる天名水をわけてもらった。 ここも<新宮山彦ぐるーぷ>による心優しい水汲み場が出来ており、大きな受け鍋は満水状態で迎えてくれた。

 

鞍部にある深仙の宿からみる夕暮れの山並みは絶景である。 

 

夕暮れのひと時を楽しんでいると、釈迦岳方面から真赤なヤッケに身を包んだご婦人が単独で小屋に向かって下りてこられた。

老人がひとりすでに小屋泊を決めていることを知って、テント泊から小屋泊に決めたと、笑いながら屈託なくおっしゃる。 「これで安心だわ」と、もし小屋が無人ならば危険回避のためテントを張るつもりだったようである。 

栃木から来られた中年のご婦人で、単独山行それもロングトレイルの奥駈けを楽しんでおられるようである。 山小屋のルールも熟知され、固形アルコール・バーナーで湯を沸かしレトルト食品での夕食を手際よくかき込み、明日は前鬼口へ下山するとのことで、寝袋直行である。 

爽やかな山女である。

 

ただこの夜は、深仙の宿が風の通り道の鞍部にあって、一晩中強風が吹き荒れ、すさまじいまでの咆哮に浅い眠りになってしまった。 

このことが、先々の睡眠不足による歩行中の居眠りにつながってしまい、午後2時ごろにはリュックを降ろし、ツエルト(簡易テント)を張って、早々と寝袋に潜り込む習慣になってしまった。

 しかし、この習慣ががかえって老人による南奥駈け踏破成功の要因になったのだから、人生は何が良くて何が悪いか分からないものである。

 

 

■《南奥駈け 2日目 深仙避難小屋より持経小屋へ向かう  老人8時間コース》

  5月26日 南奥駈け2日目

 

玉置神社に向かう青年が、早朝3時半、強風の中テントを撤収し、ヘッドランプをたよりに南奥駈けに向けて出発する姿が非難小屋の窓から確認できた。

こちらも水場で香精水(天名水)を給水し、大台ケ原の峰々に上がる天地創造の朝陽を拝し、今日一日の無事を祈って、念願の南奥駈けへと向けて出発した。

 

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            大台ケ原の峰々に上がる天地創造の日ノ出

 

    《 静寂なる 聴き耳たてし こころ内 奥駈け厳し 熊野の峰や 》 實久

       ―しじまなる  ききみみたてし こころうち 

                     おくかけきびし くまののみねやー

 

太古の辻に戻った。

この先、南奥駈道は私にとって未知の世界である。

一歩踏み出して、白ヤシロの純白のたわわなに咲き誇る花に迎えられた。

先を急ぐと今度は真赤な石楠花のプロムナードが続き、天空の園に迷い込んだよう

である。

 

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                 大日岳を巻いて太古の辻に向かう

 

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    <太古の辻> 未知の世界であり、恐れ多い南奥駈道にこれより分け入る 06:00スタート

 

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            一面の<白ヤシロ>の花は緊張感をほぐしてくれる

 

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  蘇獏岳ーそばくさたけー<第32靡>標高1521mより大日岳越しに釈迦岳を眺める 06:30通過

 

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                                           石楠花岳前後は、花盛りの石楠花のプロムナードが続く

 

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                     石楠花岳1472mの山頂 07:00通過

 

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               これから向かう熊野の峰々が神秘的に霞む

 

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    <天狗山1536m> 南奥駈けの安心安全のシンボルである<新宮山彦グループ>設置の標識

                    天狗山  08:20通過

 

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                  嫁越峠1351m 09:40通過

 

「嫁越峠は、昔大峰山全山が女人禁制のころ、十津川村から北山村へ嫁ぐ花嫁のために、人の通る幅3尺だけ女性の通行が許された場所と言われている」(新宮山彦ぐるーぷ記)

地図に出ている嫁越峠から前鬼へ下るルートをエスケープルートとして挙げていたので、下山口を探してみたが見当たらなかったことを記録しておきたい。

 

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                                              奥守岳<第27靡―なびき>1476m 09:00通過

 

 

 天狗の稽古場という背の低い笹が一面に生える高原というか草原にでた。 倒木が格好の休憩場所を提供してくれている。 歩いてきた天狗岳方面を眺めながら一服である。 

行動食であるチョコ・干しブドウ・ビスケット・マヨネーズを放り込み、水を含んだ。

幸せな時が流れる。 

風に戯れ、雲間から漏れ出る陽光をさんさんと受けている。 

小鳥たちも老人の周りに集まりおしゃべりに忙しい。

この辺りは電波が届くと云ことである。 さっそく、休憩を利用して明日は大雨の予報なので持経小屋に停滞・連泊することをラインで送信する。

 

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                                天狗の稽古場 1443m 10:10/10:30 休憩 

 

 

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                                               地蔵岳/子守岳<第26靡>1464m  11:10  通過

 

老体を引きずって修験の道を歩きだしたということは、今回をもって長年のロングトレイや登山という山の学校を卒業するときがきたことを示している。 この南奥駈けでは、安らぎある時を持ち、神仏と共にゆっくりと大地を踏みしめながら歩きたく思っている。 命あるすべてのものに感謝しながら・・・

この世に生を受けて80年、物心ついてボーイスカウト運動に出会い、自然や野山とかかわる生活が始まり、神秘のベールに包まれた山に限りなく魅了され続けてきた。

 

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                     般若岳<第25靡>1328mより 涅槃岳の前方に広がる熊野の峰々を眺める

 

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                                                         <滝川の辻> 標高1317m 11:35通過

 

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                乾光門<第23靡> 標高1317m 

 

 

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              涅槃岳<第24靡>標高1376m 13:30通過

 

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           奥駈道も時として優しい顔を見せーなだらかな尾根伝いを進む

 

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                   阿須迦利岳1251m 15:35通過

 

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         ロープに掴りながらエッジを歩き         鎖場を下りて持経小屋に向かう

  

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                                    下っていくと鞍部に<持経小屋>の屋根が見えてくる

 

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持経宿<第22靡>小屋 2連泊お世話になる16:00到着       持経小屋は水場に向かう林道に接する

 

<持経小屋に体を休める ― 連泊>

長期天気予報により、5月27日が大雨による大荒れな天気になることを知っていたので、計画通り<新宮山彦ぐるーぷ>の皆さんのお力添えにより運営管理されている素晴らしい山小屋<持経小屋>に連泊させてもらうことにした。

 

大好きな囲炉裏で火を焚き、煙に咽びながら人里離れ、ただ一人残り火を眺める幸せを味わった。

翌朝11時、大雨のなか、吉野に向かう順峯でも、熊野に向かう逆峯でも早い人ではそろそろここ持経小屋に到着又は通過する頃である。 囲炉裏に薪を足し、冷えた体を温めてもらいたいと部屋を暖めて待つことにした。 

大雨に体を冷やし、一心不乱に次の目的地に向かう人もあろうし、雨を避け同宿する人もいるかも知れない。また雨に濡れた体を温めたいと暖を求める人がいるかもしれない。

まずは、客人を迎える準備を始めた。

絨毯に散乱している枯葉の屑を掃き集め、囲炉裏の周囲に座布団を敷き、火を起こし、朝から集めておいた雨水を入れた薬缶を沸騰させ、手折った一枝を瓶に差しいれて心静かに客人の来訪を待った。

誰一人立寄ってもらえなくても、心地よいひと時をと、維持管理に努めてこられた<新宮山彦ぐるーぷ>の皆さんの気持ちが伝わるようにと一日主(あるじ)のこの老人は考えたのである。

しかし湿った薪からでる煙は容赦なく涙を誘い、涙目をこすりながらお接待の準備をしているということが、この奥駈けでの一番の教えではないのだろうかとふと考えさせられた。

と同時に、かかる素晴らしい魂を癒す小屋を多くの人々に提供し続けられている<新宮山彦ぐるーぷ>のお一人お一人の心意気が伝わってきて、ただただ感謝の気持ちで一杯にさせられた。

 

雨垂れの響くなか、一句詠んでみた・・・

 

《 霞み立つ雨 矢の如く落ち来たり 弧庵の屋根を 叩きて止まぬ 》 實久

  -かすみたつあめ 矢のごとく 落ちきたり

                         こあんのやねを たたきてやまぬ― 

 

《 囲炉裏火に 心躍りし なみだ目や 幽玄知りし 奥駈けの宿 》  實久

  -いろりびに こころおどりし なみだめや

                         ゆうげんしりし おくかけのやど―

 

《 静寂なる 聴き耳たてし こころ内  奥駈け厳し 熊野の峰や 》   實久

  ―しじまなる ききみみたてし こころうち 

                                                               おくかけきびし くまののみねやー

 

 

 

<持経小屋にて 雨を楽しむ> 

長期予報通りに豪雨である。 窓から眺める緑の樹々がシャワーを浴び生きいきと背伸びをしている。

一幅の写実的な窓画が、壁一面に埋め込まれ、躍動し、深呼吸をしている。

今回の南奥駈けのスタート地点、前鬼口からの林道トレッキング、前鬼・小仲坊からの急なる涸沢と階段の連続に体はすでに疲れ切っている。

雨降る樹林の窓画は、疲れた老人のこころを癒してくれた。

 今日一日、雨宿りをしながら体力を回復させ、まだまだ続く南奥駈け縦走のための体力づくりにとここ持経小屋に連泊することにしている。 

老体の雨天行動時の疲労は、意外と厳しい。 

雨の中を縦走することは想定内であるが、休養をとっても食料等を勘案して、十分熊野本宮まで行きつけると判断した。

 

この時点では、まだゆとりある判断をしていたが、行仙小屋以降、老体からくる一日の行動に制約がくわえられるとは考えもしていなかったのである。

1日の行動は、朝3時に起床し、パッキング後、夜の明けかける5時に露営地を出発するのだが、老体の体内時計は午後2時ごろになると睡魔が襲い来るうえに、足が前に進まないことが分かった。

行仙小屋からは基本的なコース・タイムの半分しか消化できないことに気づかされたのである。

 老体には、日毎に想像を超えた疲労が蓄積されていくことになる。

 食料や行動食、それに非常食の再配分を考え、行動日の2日延長を決めることにした。

4泊5日を6泊7日にと最終的に2日延長することになる。 不思議なことに老体は、疲労度に合わせて体の方が適量の食事を受け付けなくなることである。 

多分、疲労からくる少食は、精神力の衰えや、縦走踏破という重圧からも起因しているのではないかと考えられる。

 

<ただ独りの贅沢な山小屋滞在>

鬼口より深仙小屋を経て、この持経小屋にいたる2日間、深仙小屋での同宿者以外、南奥駈けでは対向者にも追抜者にも出会うことがなかった。 わたしはいまただ独り南奥駈道を独り占めにしているのである。 それも持経小屋を一棟丸ごと借り上げているのである。

なんと贅沢なことか。

太古の山に息づくナラやブナの大樹から落ち来る大粒の雨垂れが、山小屋のハット(屋根)を叩いて響く雨滴音となって、囲炉裏に燃える薪の炎を踊らせているさまは、まさに幽玄の世界である。

 

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         持経小屋にかかる幽玄なる窓画<雨煙る森の妖精たち>

 

まるで仙人となって雨に煙る山に溶けいるおのれの老体を見ているようである。

森林劇場での独り芝居、一人観客に酔って、過ぎゆく時間を囲炉裏の残り火を楽しみながら、じっくりと味わった。

 

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               囲炉裏の火踊りに合わせ心も揺れる

 

ここ持経小屋には、一枚の額が掛かっている・・・

 

《心静如太古》心静かなること太古の如し

 

五言律詩『醉眠』

唐庚(とうこう・北宋1070~1120)

 

山静似太古 (やましずかなること たいこににたり)

日長如小年 (ひはながくして しょうねんのごとし)

餘花猶可酔 (よか なおようべし)

好鳥不妨眠 (こうちょうも みんをさまたげず)

世味門常掩 (よみには もんつねにおおい)

時光簟已便 (じこう てんすでにべんなり)

夢中頻得句 (むちゅう しきりにくをえたり)

拈筆又忘筌 (ふでをとれば またうけをわする)

 

山は静まりかえって、大昔のようだ

一日は、一年に感じられるほどに長い

散り残った花は、なお酒の相手によく

鳥のよい鳴き声も、眠りを妨げることもない

門を閉ざし、世事とは関わらず

竹のむしろが心地よい季節である

夢の中で、頻りに詩句が浮かんだが

筆を執ってみると、すっかり忘れている

 

山中に閑居して悠々自適に過ごす情景であり、一切のこだわりを捨て、世俗を離れ、悟りを開いたことすらも忘れ去ったと詠っている。 わたしの今の心境を詠ってもいる、心地よい響きである。

 まさに今ここに在る情景を静かなる心境で謳いあげている。

何度も口ずさみ、詩吟としてこの静寂の中で高らかに吟じてみた。

 

 朝食もまたいい。 残った菓子パン<ミニスナック・ゴールド>をコッフェルに千切って投げ入れ、干しブドウとチーズ、チョコレート、マヨネーズと水を加え、煮込むと風味豊かな栄養満点のフランス風朝食が出来上がった。

仙人らしからない朝食だが、険しい南奥駈けの行場のような鎖場をこなすには必要な食事である。

燃え木の芳香、いや煙に咽びながら食するのもまた野生的であり、原始的である。

 

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持参した薪でも使えるチタン火起し台            フランス風残り物朝食

 

強い雨は、大自然の音をひときわ際立たせる。 

雨脚の強弱に加え、音間隔にもリズムがあり、寝袋にくるまって大自然による交響楽演奏の旋律を味わっている。

樹間に見える薄暗い光でさえ、神の監督する一瞬の照明である。

命ある一つのこころが、この刹那の至福を口ずさむとき、わたしも又、自然という大劇場に配置された小道具にしか見えないものである。

なんと素晴らしい大宇宙の演出なのであろうか。

いまここに、すべてが大自然の営みの中に埋没し、一つに溶け合って姿を消すとき、その存在は現世を離れ、異次元を彷徨するのである。

わたしも又、異次元を浮遊し、彷徨ている気持ちにさせられた。

 

 大雨で、持経小屋近くの水場のある林道の崖からは数か所より鉄砲水が噴き出しており、水汲みは危険である。

新宮山彦グループの皆さんが汲み置いてくれている5月3日付(3週間前)の10Lポリタンクが残されていた。使わせていただくことにして、薬缶に移して湯沸かしをした。 

注意書きにもあったが古い日付の取り置き水は煮沸することが肝要である。

 昨夜から降り続いている雨は、正午近くになってもさらに激しく降り続いており、雨雲の真っただ中にあるようだ。

気圧計をみると898HP(ヘクトパスカル)を示し、グラフは降下から水平、すなわちこれより気圧(天候)の回復が見込まれることを示している。たぶん夕方までには雨雲から抜け出すことを物語っているようだ。

 持経小屋はまだまだ南奥駈けの入口に過ぎず、ゴールの熊野本宮神宮はまだまだ先である。まずは食糧計画の修正にとりかかり、今の食料でもゴールまで持たせることは可能であると出たことは先ほども述べた。

あとはここから玉置神社までの水(3~4L)を背負わなければならない。 こちらの方が、体力的に困難さを感じさせた。

 囲炉裏の煙に咽び、雨上がりの後の強風の雄叫びに怯えながらペンを走らせたている。

この大自然の中でただ独り囲炉裏の残り火をながめる幸せを、想っても叶えられない多くの山男たちに代わって享受したい。

 

一歩でも、無心になってゴールの熊野本宮に近づきたい。 

今はただそれだけが願いである。

 

 この大自然たる大峰奥駈道に入峯し、その険しさに接し、おのれの小ささと無力さに気づかされるとともに、自然の中に住することは、偉大な力によって守られ、導かれていることであることを知らされる。

たとえ気づきが無くても、この大峰奥駈道を歩くすべての者の命に対し、平等に守りの力が働いているということを実感するのである。

 

<ストック修理と修繕>

昨日、証誠無漏岳にかけらえた鎖場を下る時、危険を回避するため、ストック2本を先に着地付近に落としたが、1本がヘッドの方から岩に激突し、グリップが吹き飛んで破損したのである。 ヘッドから延びるグリップ紐も失われストックとしての体をなさなくなった。 

老体を支える絶対的必需品であるストックの破損は、ロングトレイルでは致命傷になりかねない。

今日は、雨宿りの山小屋で失われたヘッドと紐を復元修理することにした。

マット用ゴムバンドをガムテープでグリップに固定して紐とし、ヘッドはガムテープ巻き付けて復元、当面の四輪駆動歩行に支障をきたすことのないようにした。

結果は、ゴールである熊野本宮まで持ちこたえ、そろって無事帰宅できたことを喜んでいる。

またこの事故による教訓として、かかる鎖場では、今後必ずストックはリュックに収納し、身から離さないことにした。

 

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                                               囲炉裏の横でストックの修理・復元作業

 

 

<なにかお役に立ちたい>

持経小屋に連泊することになり、自身の山行で初めての連泊を経験することになった。

このゆとりある機会にできる範囲のボランティアに励んでみることにした。

囲炉裏とその周辺の清掃と整理整頓

床の掃き掃除と敷布のゴミ拾い

古い汲み置き水の煮沸 (煮沸後、日時を書きおく)

手洗い水の追加(雨水)

水場からの給補水(2Lペットボトル)

その他、新宮山彦ぐるーぷの皆さんの管理が行き届いており、お手伝いすることはほとんどないと言ってよかったが、少しでもお手伝いできたらと実行することにした。

 

<持経小屋の水場紹介>

5月27日 4:00pm 雨が小降りになって、強風が吹き始めた。 

『天地自然の目や耳を相手に真実に生きようとする心構えは大切といえる』

一日中降った大雨の後、強風が吹き、樹木の雨滴を振るい落としている。 樹木の枝や葉は、その都度その按配に身を任せ、風と一体となり何事もなかったように、爽やかな笑顔だけを覗かせている。

雨を恨み停滞を良しとしない己の小ささ、自然の中にいながら自然になりきれない己の煩悩に気恥ずかしさを感じさせられる。

それ雨や、それ風やと処しないと前に進めない己の弱さ、自然に溶け込めない高齢たる己の修行の足りなさを痛感させられるのである。

一方、大地に足を付け、根を張ってただただ直立している樹々の方が、科学文明に犯された動く人間よりも精神的にも打ち克っていることに気づかされる。

 

夕方になって、丸一日降り続いた雨が止んだ。

持経小屋横の林道を約400m下っていくと、左手に二つの滝が交わる水場に出る。雨後の水量の豊富さと、その勢いに圧倒された。 この水場が、南奥駈道における水補給の重要な拠点である。

これまた、<新宮山彦ぐるーぷ>の皆さんにより給水施設がもうけられ、危険を冒さなくても済むように配慮されている。 その心遣いに感謝した。

 

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          小屋前にある水場へ400mの標示           水場の滝と給水施設

 

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             持経宿周辺案内図 (新宮山彦ぐるーぷ作成)

 

<持経小屋を去るにあたって>

無人小屋の戸締り確認 ― 戸や窓などからの風雨の浸入を防ぐ

・囲炉裏残り火の完全消火の確認 ― 灰の中の残り火は意外と寿命が長いので注意

・後片付け・清掃 ― 来た時よりもきれいに!

・感謝 ― 備付けノートに記帳・小屋利用に対する志納(2000円以上)・

      電灯/チャージ代金の納入

・次なる滞在者への配慮 ― 薬缶に白湯を作りおく(囲炉裏使用時/伝言板

      日時記入)・出来る範囲の水汲み

      (今回は2Lボトル1本分/伝言板に日時記入)

 

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               メルヘンの世界を演出してくれた囲炉裏

 

 

 

<南奥駈けを歩くにあたって ー 老人の体力づくり>

南奥駈け約60㎞を踏破するには、老人にとって体力と筋力が求められる。

ロングトレイル踏破経験を多く積んできたつもりだが、南奥駈けにおける道中での食料や水のデポ(残置補給)が不可能である。

すべてをリュックに詰めて背負って歩くことになる。

通常のロングトレイルでのリュック総重量9~10kgに対し、南奥駈けでは平均総重量が13~15㎏となる。

特に食料と水の占める割合が大きい。 老人の肩、腰、膝、脚にかかる重量は、奥駈け成功のカギを握ることになる。

奥駈け踏破計画は、80歳記念として決めていたので、体力づくりには力を入れてきた。

特にアップダウンの繰り返しの多い南奥駈けトレーニングとして、脚を鍛えるためスクワットとつま先立ち、階段や坂道の上り下りに力を入れ、日課に入れて繰り返した。

更に体感を安定させ、重いリュックを背負えるように、スカウト仲間より贈られたパーソナル・ジムで筋力づくりに励んだ。 さらにリュックを担ぎあげる瞬発力向上のため腕立て伏せによる筋力アップに努めた。

 しかし、南奥駈け中、老化による膝の痛みや、筋力低下による筋の断裂、マメが潰れての歩行困難という心配事がつきまとったものである。 更に、水を含めた最大重量である15kgのリュックを担いで、この老体が全行程(当初の5日)を歩き切れるかという不安がたえず襲ってきたものである。

 奥掛け実行の日が近づくにしたがって、階段の上り下り、雨の日などの室内の10000万歩きでは、階段が壊れ床が落ちるからやめて欲しいと苦情を言われるほど徘徊して回り、体力づくりに邁進した。

 結果、体力がつき、食事が進み、体重も70kg近くになってしまい、リュックを担ぐと85kg近くの総重量が肩腰足にかかることになり、あわてて減量に苦心したものである。

 出発の1か月前から、15㎏のリュックを担いで裏山である比良山麓でアップ&ダウンを繰り返し、重さに体を慣らす訓練も実施した。

だが、その重さを実感すればするほど、この歳で行くべきでないとの内なる声が聴こえてくるのである。

万一の場合、命を落とし人様に多大の迷惑をかけるからやめろとの声も加わるのである。

 もう一方の私は、老体にあった歩き方に徹し、日程を決めずにあるがままに歩き、疲れる前にツエルト(簡易テント)に潜り込めば奥掛け踏破を成し遂げることが出来る、と確信していた。

最後まで迷いに迷ったが、気合と共に飛び出した。 

そしてすべての準備に自信があったことと、行程表の時間に縛られることなくリラックスしたチャレンジが、かえって楽しい奥駈けとなって、ゴールの熊野本宮に到達できるという確信に満ちていた。

 鍛えた体が、この南奥駈けでアルファー米、チキンラーメン、ビスケットなどの超軽量食料だけで15kgの重量リュックを担いで歩いたのだから驚きであり、感謝である。

 

 

<パイプフレームの威力>

実際に歩いてみて、リュックの構造が体に与えるダメージを軽減することを知った。

今回のロングトレイル・奥駈けにはUSA1989年製<CAMP & TRAILS>社のパイプフレーム・バックパック40~60Lを使用した。

パイプフレームは重心を上げ、ヒマラヤの荷揚げシェルパ―が使用し、体力消耗を防ぎ、より重量物を担げるように設計されている。

パイプフレームは、肩・腰・額の三点分散によりさらに重力を開放できる利点がある。 額を使う方法はネパールの多くのシェルパ―が利用しており、参考に取り入れてみた。

 

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                      パイプフレームの背中側            額による重力軽減の訓練

 

 

■ <南奥駈け 第3日目 持経小屋より行仙宿小屋へ向かう 老人8Hコース>

        5月28日  豪雨荒天 停滞待機 持経小屋連泊

         5月29日  南奥掛け 3日目

  

 

雨で停滞・連泊した日は、行程消化日として数えないことにした。

南奥駈けを実際に歩いた日だけを行程日数として数えることにする。

 

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          2晩お世話になった持経小屋を後にする 05:00 3日目スタート

 

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           三叉路右折してすぐ左手より林道を離れ南奥駈道に入る  

 

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           三叉路を右折すると、すぐ左手より南奥駈道に入る

 

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    伝法輪岳(左)と倶利伽羅岳(右)間に、本日の目的地である行仙岳1226mが見える

 

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            楢ノ巨木に歓迎されて(平治の宿手前の森)

 

3日目に入ったら、老体は疲労気味なのか歩行速度が鈍り、上りごとに休憩が増えてきた。

 

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          中又尾根分岐1186m 06:15通過        平治宿<第21靡> 06:40/07:05 休憩

                      <新宮山彦ぐるーぷ>管理

 

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               整理整頓されている平治小屋内部       平治小屋の向かいの沢側(西)に水場有(5分)

 

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           轉法輪岳1281m 08:00/08:15 休憩        倶利伽羅岳 1252m 09:15/09:45 休憩

 

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    原始の森の雰囲気を醸す南奥駈道        怒田宿<第20靡> 11:40/12:00 休憩

                            直下に白谷トンネルが通る(R425)

 

<下痢について>

行仙岳山頂を目指し、急登していたとき、無意識のうちに何かが漏れた。

前兆として腹に痛みが一瞬走ったが、気にせず急登に挑戦し続けていたのである。

しかし、漏れはコントロールされることなくすでに下着を汚していた。

それ以上の悲惨さから抜け出すために、斜面に踏ん張りながら下半身を太陽にさらし、大自然の協力を得て処分・処置にとりかかり、下痢状態から抜け出すことに成功した。

 

実は、生水による細菌性下痢症状は、海外で豊富な経験を積んでいたのである。

メキシコのユカタン半島メリダでは、コカ・コーラに入っていた氷から最悪の下痢症状、その後の旅行継続が不能に陥ったほどであった。 

また、ネパールでのゴレパニ・トレッキング中にも歯磨きに使った数滴の水から細菌性下痢に見舞われている。 

最近ではマダガスカル島でのバス移動中にゲリラ的下痢に襲われ、バスをストップさせ民家のトイレに飛び込んでいる。 乗客の皆さんは、みな笑顔に、あきらめ顔で待ってくれていたものである。

世界中至る所で下痢旅行やトレッキングを続けてきたのであるから、突発性下痢には絶対的自信があるから心強かった。

このような時は、間髪入れずに携帯している薬を口に放り込むことである。 海外での場合は主治医に処方してもらった抗生物質を使用するが、国内では市販薬<ストッパー>と<正露丸>を救急用品袋の中に入れ、必ず携行している。

 

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                                          薬袋には持病薬・栄養剤・下痢止めなどを入れ歩いている

 

特に、南奥駈けの給水は、水場の少なさから携行日数が長くなること、各小屋の置き水や雨水を利用させてもらう機会が多いことがあげられる。 各小屋の置き水にはかならず集水日が記入されているので、3日以上たった置き水や雨水を利用させてもらう場合は、念のため煮沸して使用すべきである。 

水に難儀する奥駈け縦走中の者にとっては、置き水の有難さは、まるで救い主に出会った心境ではある。 しかし、置き水利用の場合は、自己責任であることを各小屋にも表示されていることを肝に銘じるべきである。

 

わたしも置き水を利用させてもらっている一人であり、煮沸をしたつもりだが十分な殺菌には至っていなかったのであろう。 この後も、玉置神社の社務所前の沢水や、最終露営地である<六道の辻/金剛多和>近くの沢水は、煮沸することなく美味しい生水をいただいた。 

日本の軟水は世界一美味しいのである、特に地下水である<深仙宿の香精水>などは、天命水と呼びミネラルウオーターとして有難く飲ませていただいている。

とにかく日本の水、特に沢水は美味しいのである。

日本の水に勝る水は世界中探してもないのである。

われわれひとり一人には、日本という美しい自然の環境を守る使命がある。

 

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       持経小屋の水場(2日目)            玉置神社社務所前の水場(5日目)

   

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     金剛多和近くの水場(6日目)                        とにかく日本の新鮮な沢水は美味しいのである

 

では、続けて行仙宿山小屋に向かうことにする。

 

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                            行仙岳に向かう途中下北山村方面の美しい谷と峰々を望む

 

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                      行仙岳<第19靡>標高1227m 細菌性下痢に苦しみながら到達した 12:20登頂

 

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          三叉路分岐 (⇑行仙岳 ⇓行仙小屋 ⇑国道425)12:45

          国道425への大事なエスケープルートの下山口でもある 

 

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            三叉路を下っていくと行仙宿山小屋が見えてきた

 

<3日目の山小屋泊は、行仙宿山小屋である>

行仙宿山小屋は、南奥駈道と浦向道の合流する分岐<佐田の辻>にある。

また行仙宿山小屋には、<新宮山彦ぐるーぷ>の管理棟があり、現地本部的な役割を果たしている。もちろん水場も、南側の谷を10分下ったところにある。

 

エスケープを考えた時もあった>

ここ行仙小屋で、老人は途中棄権と下山誘惑にかられた。 

それもこれ以上進むと2日間水無しのコースであり、エスケープするルートが無いという極限のところである。

随分とこころが揺れた。

行仙小屋の整備と物資や置き水・薪補充に来られていた管理者である「新宮山彦ぐるーぷ」の皆さん4人と出会ったときである。

リーダーの方から、老人としてこの先の奥駈けで注意しなければならない箇所、鎖場やガレ場、水場などをうかがっている時である。

リーダーの最後の言葉、『80歳とお聞きしましたがご無理なされない方がいいですよ。もしよければ林道に車を止めていますから、ご一緒に下山し、お送りしますよ』と言っていただいた。

 わたしが逆の立場であっても同じ言葉を相手に発したことであろう。

老体を引きずって奥駈けを歩くということは、それなりの理由と覚悟があってのことであることは彼にもわかっていただけに、理解者としての愛情あふれる言葉をかけていただいたのである。

 考えた末に伝えた言葉は、『お誘いのお言葉に深く感謝します。やはりこれから先二度とこれないと思うと、今を大切にして先へ一歩を進めたいと思います』 と。

ご高齢でもあるリーダーは、『では、まず鎖場のある地蔵岳を越えておかねばなりませんね。 重たい荷物はロープで先に降ろすこともできますよ。 垂直の鎖場は確実に足場を見つけて下りれば危険は回避できます』と。

ほかの会員の皆さんからもいろいろとアドバイスをいただいた。 

会員のご婦人にいたわりと感謝の言葉をお伝えしたところ 『楽しんでやっておりますのよ』 と小屋の周りの清掃や整備に汗しておられた。

そして、『ここに汲み置いた水がありますから、どうぞご自由にお使いください』 と水と戦う老人に優しい一言をかけていただいた。 感謝であった。

奥掛けを歩いた人は、一滴の水の大切さを身に染みて知っているからである。

 別れの時、リーダーの方が『われわれは、新宮山彦ぐるーぷの実働部隊の主力で、8人ほどでやっているのです』と、そして、最後に『若い人が少ないこのグループもわれわれの代で終わるかもしれません』 と寂しげに言われたことが印象に残った。

この素晴らしい<新宮山彦ぐるーぷ>の活動存続のため何かお手伝いすることはないかを考えていきたいと思う。

 

 行仙小屋には、すでに近隣の山岳老人会男女7人がおられ、リュックを置いて行仙岳登山に出かけておられた。

下山され、ストーブを囲んで焼肉パーティがあり、親睦を図られるとのことであった。

お話によると、年に数回1台の車に乗って、目的の山の近くまで行き、山に登ったあと、山小屋で一夜のパーティをして親睦を図っているとのお話であった。

 

こちらは、翌朝早く出立するので、焼肉をすこしよばれ、山の話をしてその場を離れることにした。

軒下で露営し、皆さんの親睦を邪魔しないように心掛けた。 山小屋での過ごし方にもいろいろあるものである。

修験の道である奥駈けで行を積み、疲れた体を休める小屋でもあることを思うといささか場違いなところに居合わせたようである。

それとも、すでにこの山岳老人会は予約をとっておられたのかもしれない。 予約なしの私こそ無礼であったかもしれないと反省している。

 

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   行仙宿山小屋 標高1110m 14:00到着                  行仙宿山小屋の ストーブ・囲炉裏エリア 

            

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<佐田の辻>南奥駈道と浦向道の分岐に建つ行仙行者堂      水場は南側谷を下りて10分

 

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                    行仙宿山小屋周辺広域図 <新宮山彦ぐるーぷ>製作

 

 

<南奥駈け 第4日目 行仙宿山小屋より香精山に向かう 老人9.5Hコース>

  5月29日 南奥駈け 4日目 

 

南奥駈けの4日目からゴールの熊野本宮までの間、ツエルト(簡易テント)による3日間の露営が始まる。

最後の二日間は、ツエルト泊に加えて、全量の水を背負うことになる。

もちろんここ行仙小屋から玉置神社までの二日間もまた同じく全量の水を背負うことに変わりはない。

いよいよ老人にとっての南奥駈け最難関の行場にとりかかるのである。

今まで以上に忘れていた若き血潮がたぎり、魂の昂揚を感じるのであるが、さて老体が精神についていけるかどうか怪しいものである。

成功かどうかは、南奥駈けの後半にあり、と言い聞かせて己に喝をいれた。

 

行仙小屋から、玉置神社まで通常なら1日行程である。

途中で一泊する南奥駈け者は、今までに一人もいないことは調べて分かっている。

かえって行仙小屋と玉置神社間でのツエルト泊を紹介しておきたいと思う。

 

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     東の空に光明が射し始めた、4日目04:45出発    4日目の最初の難関・笠捨山の急登が始まった

 

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            笠捨山巻道<電源巡視道>は無視して直進 05:10                    

 

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                 笠捨山 への途中、振り返った美しい峰々

 

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                             茶臼山1181m(中央)と笠捨山1353m(右端)眺めながら笠捨山頂に向かう

 

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               笠捨山<第18靡ーなびき>標高1353m                             笠捨山頂1353m  08:15登頂

 

<笠捨山の由来>

この山には、太古からの原始林があったそうで、あまりにも寂しい山越えに西行法師がを捨てて逃げたとか、修験者が越えてきた峰々に感激してを脱ぎ捨てたとか山名の由来には多々あるようである。

 

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                                   笠捨山標高1353m より、老人を待つ玉置山1077mを望む

 

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                                      地蔵岳手前の高圧電線下で行仙岳を振り返る 09:30/09:45 休憩

 

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         休憩で口にする行動食(ビスケ・チョコ・氷砂糖)の美味しいこと

 

 

<難所 槍ケ岳-地蔵岳 修験者の行場であるクサリ場を越える>

心して挑み、そして安寧-無事でこころ安らかな状態ーをえたい。

いよいよ地蔵岳の行場<クサリ場>に足入れである。

山に向かって一礼して入山した。

 

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                  槍ケ岳直前のクサリ場(上り)①        槍ケ岳<第17靡>1168m 10:15通過

 

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      地蔵岳への鎖場②(上り)                       地蔵岳への鎖場③(上り)  

 

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                           <迷い道>地蔵岳上りの途中迷い込むしっかりしたエッジ小径

               しっかりリボンや標識を確認すること

           確認できないときは最後のリボンまで引き返すこと

 

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  クサリ取付に貢献された方を偲んで           地蔵岳山頂までなお難所が続く

 

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  地蔵岳山頂 標高1250m 10:52登頂 ー  山頂前後の過酷なクサリ場での安全を見守る地蔵尊   

 

 

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                    地蔵岳下りクサリ場➀

             

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                   地蔵岳下りクサリ場②

 

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                    地蔵岳下りクサリ場③

        

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             地蔵岳下りクサリ場④ 11:15クサリ場終了

 

地蔵岳のクサリ場での緊張感から解放され、今夜の露営地<香精山>に向かう。

振り向いて、クサリ場を危険なく安全に越えさせてもらったことに感謝し、

山の神に一礼した。

 

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              石柱<地蔵岳参道>と左端に<水場 15分>の標識有

 

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                  尾根を進み香精山の露営地に向かう

 

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    菊ケ池<第15靡> 12:10通過          拝返し<第14靡> 12:13通過

 

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 修行中の山伏(修験者)一行を見送る 法螺貝が峰々に響き渡る様は荘厳であり、覚悟を誓っているようだ

 

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      檜之宿跡 12:30通過          香精山に建つ高圧鉄塔をくぐると山頂である

 

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              香精山<第13靡>標高1121m 12:40登頂 (三角点有)

 

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      ツエルト設営と同時に昼夕食準備                                    熊から食料を守る樹上保管法      

 

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 ツエルト(簡易テント/重量360g)で体を休める             汗したTシャツ/手袋/下着/靴下などの日干し

 

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            香精山露営地 南奥駈けに設営した今夜の仮の宿

 

 

<南奥駈け4日目露営地 香精山頂付近にて>

 いま、わたしは行仙小屋と玉置神社の中間点である香精山頂近くの露営地ツエルト(簡易テント)の中の寝袋に潜り込んで書いている。

老人にとっては、一日の行程とされる行仙―玉置間を歩き切れずに、中間点で露営することにあいなった。

この間、もちろん水場は無く、3.5Lの水を背負って玉置神社までの2日間を歩かなければならない。

しかしこの日、水に関して致命的な間違いを犯してしまった。

二日間水場なしの歩きであるため、水使用の食事は避け、行動食だけで乗り切る予定を立てていたのである。

ここ香精山露営地に着き、ツエルトを設営し終えた時、無意識の内にアルファー米をコッフェルに入れ、水を注ぎ、固形アルコールストーブの上に乗せてしまっていた。

この一瞬の行為で、大切な水約300mlを一気に昼夕食用に使ってしまったから大変である。

 

翌日、玉置神社に着いた時には600mlペットボトルに2口分の水しか残っていなかった。

縦走者としては完全な失敗を犯したのである。 緊急・遭難時の水の備えがなかったからである。

ただ救いであったことは、気付け般若湯<命の水>として持参していた300mlボトルに半分の液体が残されていたことである。

般若湯<命の水>の作り方 : ウイスキー3:高麗人参酒3:氷砂糖2:蜂蜜2 

 

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    玉置神宮までの中間点 香精山露営地で、水袋約1Lとボトル600ml ー1本が残っている

 

<奥駈けは、老人にとって水との二人三脚>

行仙小屋の手入れや置き水、薪補充をされた後、<新宮山彦ぐるーぷ>の皆さんが下山されるとき、リーダーの方からお声がかかった。

念を入れて「玉置神社までは水場がないので水袋やボトルを満タンにして持参してください」と言われた。

この区間は、鎖場や、急登り、急下りが多くある南奥駈けの中でも最難関区間である。 重量リュックからくる疲労を回避し、危険をできるだけ避けるため、リーダーが勧めてくれた4L以上の水携帯を守らず、最低の3.2Lに減らしたのである。

そのことをすっかり忘れていたのであるから、やはりボケ老人の欠陥、致命的なミスが出てしまったのである。

 途中、水場標識がいくつかあった事を思えば、体力のある年齢層には水不足は解決できるはずである。

老体に蓄積された疲労は、水場へ降りてまた登ってくる気力を失せさせていることである。

南奥駈けは、老人にとって体力と気力、いや精神力との戦いの連続と言ってもいい。

 その精神力との戦いをものともせず修行を続けられている若き山伏の一行とすれ違った。

法螺貝を吹き、息を乱さず、各靡(なびき)で修験する姿には、純なるものがある。

手を合わせ見送る己も又修験者の一人と思えば、水に悩んでいる己の軽率さが分かるというものである。

でも、水は大切である、こころしたい。

 

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                 持経小屋の水場で給水

 

この老人にとって、奥駈けは水との二人三脚と言って過言ではない。

リュックの重さは、水の量と正比例するからである。

言い換えると命の重さもまた水の重さと正比例すると云える。

「人生は旅であり、修行である」と古人はいう。

「重荷を背負う」ことから人生も、旅も、山登りも始まるのである。

 

 

大峰山75靡―なびきー自身の根源に還り修行する立寄り地をいう>

吉野・熊野間の大峯山中に祀られ、神仏が宿るとされた道沿いの拝所・行場を靡(なびき)と呼ばれる。

古くは宿と呼ばれ、120宿あったといわれているが、近世以降には、75の靡(なびき/宿)に減少したといわれる。

大峰奥駈修行は神変大菩薩の足跡を踏みしめながら自身の根源に還り修行するといわれ、その道中にある75靡(なびき) と呼ばれる霊場を巡り、碑伝(ひで)というお札を納め勤行祈念するという。

 大峰奥駈けの修行の一部である<前鬼~熊野本宮>間の29靡(なびき)の行場は、出来る限り写真で紹介している。

 

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             奥駈け修験道では、靡(なびき) と呼ばれる霊場を巡り、

                碑伝(ひで)というお札を納め勤行祈念する

 

 

<日程が遅れていることを連絡>

大雨による行程の遅延、老人性歩行の限界等による日程延長を自宅にいるパートナー知らせておく必要がある。

特に老体が無事であること、健康状態良好であること、日程延長に対しての食料は十分であることなどを伝えることにした。

これまた<新宮山彦ぐるーぷ>が作成されているイラストマップの電波情況に従って、スマホの電源をONにして、メールを打ち込み、電波のキャッチと共に自動的に送信できるようにセットした。

この南奥掛けにおけるスマホのバッテリチャージもまた<新宮山彦ぐるーぷ>のご厚意による各小屋に設置されたソーラーパネルによる充電設備により解決された。

感謝してもしきれないほどの感謝である。

 

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     各小屋に設置されている太陽光による電灯・充電システム <写真ー深仙宿>

                (設置者・新宮山彦ぐるーぷ)

 

 

■<南奥駈け 第5日目 香精山露営地より玉置神社に向かう 老人8時間コース>

  5月30日 南奥駈け 5日目

 

深夜、寝袋に潜り込み日記を書き綴っていると、急に暗闇の笹をかき分けて近づく音がある。

とっさに、樹上においたリュックの中の食料が狙われているのではないかと疑った。 まず防禦用として寝袋横に置いてあるストックを引き寄せた。 万一の時は戦い、追い払わなければならない。

獣の臭覚は鋭い。 味付きアルファー米やチキンラーメンの匂いは、風に乗って拡散され動物たちにその位置を知らしめるのである。 ツエルトやテント宿泊時には、寝所から少なくても100mは離れた樹の高い所に置くことにしている。 

しばらくすると、あの暗闇を引き裂くようなピーという鹿の鳴き声がした。 仲間に知らせ、呼び寄せる鳴き声であることが分かり、少しは気をゆるめた。 こちらもお世話になっていることを伝えるため、緊急非常用のスカウト・ホイッスルをピーと鳴らしてみた。

そのやり取りを繰り返すと、鹿と人間のコミュニケーションが成立したのか鹿たちも敵でないことが分かって闇に消えていった。

熊でなかったことに胸をなでおろし、熊野の奥駈けの闇の中におのれを沈め、朝を待った。

 今朝も、すべての出発の準備を終え、闇が光に溶け込んだあと玉置神社に向けて行動を開始した。

 

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       熊野の杉林に光がさす            玉置神社に向けての出発は万全である

 

大峯奥駈道/熊野修験 と 三井寺

南奥駈道を歩いていると<大峯奥駈道 三井寺>の標識を多く目にする。

滋賀県大津市長等にある天台宗総本山<三井寺>(長等山園城寺)の法印権大僧都増誉が寛治四年(1090)白河上皇の熊野御幸において先逹を務め、初代熊野三山検校職に補任され、白河に聖護院を創建して以来、三井寺は大峰奥駈修行を取り入れてきているという。

 

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                 <大峰奥駈道 三井寺>の標識

 

<南奥駈け と 新宮山彦ぐるーぷ>

現在の南奥駈道でその存在を確立しているのが、奥駈道をボランティアで維持管理され、標識設置等により奥駈けを踏破するトレッカーに安全安心を提供されている<新宮山彦ぐるーぷ>であろう。

この南奥駈け踏破の計画を立てる以前から<新宮山彦ぐるーぷ>の名前は聞いていた。

 

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          安全安心の基本情報を提供してくれる<新宮山彦ぐるーぷ>の標識

 

それは今から20年程前、隣人の大先達の話を聞き、発憤して大峰奥駈けを歩いたことがある。 当時はほとんどの逆峯奥駈けは、吉野から入り太古の辻から前鬼へ下っていた。 その先に続く南奥駈道は、情報が少なく計画の立てようがなかったという記憶がある。 

当時の南奥駈けは 山伏と言われる修験者が入るだけで、一般の者にとっては非常な勇気がいったのである。

大峯奥駈け道は、女人禁制で、険しい山中で修行する山伏(修験者)の世界と思われていた。

隣人の行者であった大先達も、12歳の少年航空兵として鹿児島の鹿屋で特攻訓練をうけ、終戦直前の先輩兵の連日の特攻出撃を見送ったお一人である。

特攻で散って行かれた諸先輩の御霊を安んじるために、同じ志賀の里に居を構えられ、比良山系の蓬莱山(西方浄土)に向かって祈りを捧げておられた。 また若いころから大峰に山伏として籠り修行を重ね、特攻で知った少年時代の人間の儚さや煩悩と向き合ってこられたのである。

このように山伏や修験者のための南奥駈けとして一般的にとらえられていたのである。

 その吉野・熊野を結ぶ修験修行、その道である大峰奥駈道のうち、忘れ去られていた南奥駈け<太古の辻~熊野本宮約45㎞>の整備・保全・開拓という地道な活動と、南奥駈道の復活・再興を目指して活動を続けてこられたのが<新宮山彦ぐるーぷ>である。 

 地道な活動の中でも、<刈峯行>は特筆すべき活動として称えられるべきである。 それは登山者であれば分かることだが、人の往来が無く、手入れをされない登山道は草が生え、自然と消滅していくものである。

南奥駈けの荒廃・消滅を防ぐために会員と賛同者有志だけで、数年もの長時間をかけて草刈りをし、南奥駈道を守ってこられたのである。

そのほか、小屋の再建・管理・運営はもちろん、水場の整備、鎖の設置や南奥駈道の保全に尽くされてきたことは、<新宮山彦ぐるーぷ>のホームページでその栄光と苦難の歴史を知ることが出来る。

法灯も、道が立たれれば消え去るのと同じく、この南奥駈けを守られるみなさんの心意気を考えると法灯も又燃え続けるのである。

そのご苦労にたいし、南奥駈けを歩かせていただいた者として、こころから御礼と謝意を述べさせていただく次第である。

 

現在、南奥駈けの現地生情報は<新宮山彦ぐるーぷ>のFACEBOOKでなされている。 出かける前には是非立寄って見て欲しい。

水場情報、小屋情報、危険情報など必要な情報に新たな登山計画と工夫が見つかるものと思っている。 

同時に情報を正しく理解し、安全安心の奥駈道踏破にこころしたい。

修験道の厳しい行場であることを肝に銘じ、山を汚さず、感謝の念をもって真摯に己に向き合い、歩きとおしたい。

 

一歩を進めて、玉置神社に向いたい。

 

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                          貝吹之野  06:05通過                   塔の谷峠 06:15通過

 

古屋の辻<21世紀の森下山口>で、南奥駈け日程延長に伴う、病院の予約延長等の連絡を取るため、スマホを取りだし留守宅にメールを送った。 健康状態を示す写真付きにしたのはもちろんである。

 

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   古屋の辻<21世紀の森下山口>06:55/07:15休憩          古屋宿<第12靡> 07:25通過

 

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            蜘蛛の口                    稚児の森

 

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          県道と合流  08:15                        奥駈けトレイルラン中の愛知の谷川さんとエール交歓

 

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                                                                    水吞金剛

 

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                       花折塚 10:00通過

 

<花折塚>

村の説明によると、「片岡八郎は、大和葛下郡片岡ー今の奈良県王寺町ーの人で、後醍醐天皇の元弘元年ー1331ー、大塔の宮が賎をさけて山伏姿となり十津川に来られた時のお供9人の一人である。 宮の玉置通過の際、玉置庄司の兵が道をふさいだが、八郎は矢田彦七と共に宮の出迎えが聞き入られず反抗したので八郎戦死し、彦七はこの事を宮に申し上げた。 八郎の屍はここに葬り、墓前を通る人々が花を供えたので世にこれを花折塚と呼ばれた。」                 

 

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              展望台 11:00/11:15 休憩 (水・自販機なし/WC・東屋あり)

 

f:id:shiganosato-goto:20210615081259j:plain                                 世界遺産碑> 11:18通過   (南奥駈道は、碑右側より山道に入る)

 

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                   餓(かつえ)坂を上って行く

 

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                                                       玉置山<第10靡> 標高1075m 12;00登頂

 

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       玉置山頂にある鐘の音は、ゴールの熊野本宮を目指している私の玉置山到着を知らせてくれる

 

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   世界遺産 玉置神社案内図 (引き沢水ー水場は、社務所前、手洗い左手、池に面している)

 

<玉置神社参詣・境内散策・給水>

玉置神社は、熊野三山奥の院である。

熊野杉の巨木がそびえる中、静かなたたずまいを見せる玉置神社に参詣し、ここまでの無事に感謝、熊野本宮までの二日間の安全を願った。

社務所前の沢水をいただいたあと、夫婦杉・神代杉からパワーをもらい駐車場に向かった。

       

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   玉置山頂から玉置神社に向かう参道下山口     玉置神社社務所前の水汲み場に出てくる

 

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                  玉置神社本殿

 

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       夫婦杉・玉置神社           神代杉(推定樹齢3000年)・玉置神社

 

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  明朝、玉置辻への奥駈道下山口を確認       玉置神社の裏鳥居をくぐり駐車所に向かう

 

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 参道に立ち並ぶ熊野三山奥宮・玉置神社の幟旗     参詣者を迎える玉置神社大鳥居(駐車場)

    

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  日曜で満車の玉置神社駐車場に到着 12:30      駐車場入り口にある食堂売店<栄山>

                           日曜営業

    

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    食堂・売店<栄山>のご自慢ー牛丼         <栄山>のご主人 栄山さん

     温かな白飯の牛丼、幸せを味わう      ”皆さんのお立ち寄りをお待ちします”との伝言

 

この日は日曜日である。 玉置神社周辺は、コロナ禍から逃れ新鮮な山の空気を求め、また熊野三山奥の院の御利益を願って多くの参詣者で賑わっていた。 

奥駈道でも、十津川や下葛川から国道425を利用し、葛川トンネル付近に駐車し、ハイキングを楽しむ人にも多く出会った。 

奥駈者であるわたしも久しぶりの現世の牛丼やビールという般若湯を口にして、幸せを味わった。

また<めはる寿司>も購入し、行程延期の食料に追加させてもらうことにした。

 

<玉置神社第二駐車場の草地が今夜の露営地である>

駐車場に着いて昼食を食堂売店<栄山>でとり、今晩の露営地を探した。

しかし、森の中は藪蚊であきらめ、第二駐車場に緑の草地を見つけてツエルトを張ることにした。

玉置神社第二駐車場は、第一の西側へ下りたところにあり、静かで草地があるのがいい。

そして、人目をはばからず濡れタオルで汗に汚れ、臭いを発している体を拭けるのがいい。

行仙小屋で補充した水はほとんどなくなっていたが、玉置神社の社務所前にある水汲み場で沢水を調達できたので5日ぶりに体を拭くことにした。

 

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  玉置神社第二駐車場の草地にツエルトを張る      5日ぶりに濡れタオルで体を拭く老人

 

<奥掛け老人デイリー・スケジュール 『歩き8時間ルール』>

この旅の奥駈道挑戦も、己が生きているという証を立てるためである。 

80歳になっても、まだまだ生きていることに満足できずに出かけてしまった。

出かけるには出かけるで、家族はもちろん周囲の皆さんに迷惑をかけてはいけない事を肝に銘じている。

老体である限り、無茶は禁物である。

この奥駈けでは、マイペースを守った。 朝3時という早起きに合わせて老人独自のスケジュールを組んだのである。

 

03:00  目覚め・日記・瞑想・テント内での柔軟体操

03:30  パッキング(行動用衣服への着替え・防寒用ダウン・空気枕・寝袋・

             寝袋カバーの収納/マット・グランドシート・テントの収納)

04:30    リュックへの詰込み・行動装備の点検・サイト復元清掃・ラジオ体操・

             自我流太極拳・感謝の祈り・本日の行程表(距離&所要時間)のチエック・

             気温&気圧P/H&高度の記帳

05:00    露営地スタート(ヘッドランプ不要の明るさまで待機)

          1時間毎に5~10分の小休憩の厳守(急登中は随時立休憩・給水)

07:00    1回目大休憩・1/2朝食(ビスケット4枚・チョコ・干しブドウ・

     マヨネーズ・水)

10:00     2回目大休憩

11:40   昼食準備(チキンラーメンに水を加えてリュックのサイドポケットに

              放り込み水調理/約15~20分)

12:00      昼食 

13:30   この時間より歩きながら露営地探し開始

14:00     一日の行動を打ち切ってツエルト(簡易テント)設営

16:00  温夕食(固形アルコールバーナーによる味付アルファー米+

              1/2チキンラーメンの調理)

      老人として十分な夕食の量であり、時には夜食や朝食に回すこともあった。

       翌日の行程表の研究(鎖場・急登・急降下・崖/ガレ場等危険地帯・距離・

               所要時間)・記録記帳

18:00  就寝(寝袋に入る)

00:00     疲れた体は真夜中に必ず目を覚ました。この機に日記・記録を記帳。

 

この一日の老人スケジュールでもわかるように、奥掛歩きの平均時間は、1日約8時間である。

この 『歩き8時間ルール』 を守ったおかげで、当初の4泊5日を延長し、6泊7日という長丁場をこなす体力を温存できたと思う。

膝故障や怪我をはじめ豆一つ作らずに踏破できたのである。

青春時代、登山と言えば1日12~15時間歩きは平気であったことを懐かしく思い出していた。

今回の南奥掛にしても、もし若ければ、2泊3日と約半分以下の日程で歩き終えていたことは確かである。

 

帰宅した時、確認した残食料は、アルファー米/チキンラーメン各1食分・氷砂糖5個・干しブドウ少々・ビスケット8枚と遭難時の非常食3日分に相当する栄養価が残されていた。

ただ、老人であっても当初の計画を変更することは無謀であることを知っておいて欲しい。

今回の変更も、以下のすべての条件をクリアできたところから決断したことであることを申し添えておきたい。

 

➀ 南奥駈けの数か所でスマホによる家族との連絡が取れ、安否確認と許可をとった事

② 食料が充分であったこと(疲労した体の食欲減退にもよるが)、

③ 天気に恵まれ露営に支障がなかったこと、

④ コースタイムにとらわれずマイペースで歩きとおしたこと、

⑤ 健康に恵まれ身体的不都合がなかったこと、

➅ この機会を逃しては二度と奥駈け挑戦はないという覚悟と、

⑦ 先達との奥駈け完全踏破の約束を果たすという強い意志等

によるものである。

 

 

 ■<南奥駈け第6日目 玉置神社から六道の辻/金剛多和に向かう 老人8時間コース>

  5月31日 南奥駈け 6日目

 

最後まで迷った<玉置神社~熊野本宮>の行程である。

調べた情報のすべてが玉置/熊野間は1日行程である。

たとえ後期高齢者(ブログで知った最高齢76歳男性)でも、玉置神社から熊野川を渡って熊野本宮に、その日の内にゴールしているのである。 

しかし、今まで歩いてきた5日間の南奥駈けの経験からして、この老人の玉置/熊野間の1日行程は不可能であることは分かっているが、どうしても常識である<1日行程>にとらわれ、こだわり続けていたのである。

 

昨日、玉置神社より行仙小屋に向かっておられた同年代と思われるご老人に出会ったときに交わした会話を思い出していた。

わたしが「高齢のため鎖場の多い地蔵岳を慎重に越えたものだから、昨晩は香精山でツエルトを張ったんです。行仙小屋から玉置神社まで2日もかかっているんですよ」

と話すと・・・

ご老人も、「お互い高齢ですから無理をせず、安全を第一にゆっくりと歩きながら奥駈けを楽しみましょう。 わたしも熊野本宮からここ玉置神社まで二日かけて歩いているんです。」と・・・

 

この言葉を思い出したことにより、老人に重くのしかかっていた迷いを一気に吹き消してくれたのである。

今朝、玉置神社の第二駐車場の露営地を出発するときには、玉置神社/熊野本宮間を2分割し、その中間、<六道の辻にある金剛多和 第6靡>で露営することを決めていた。

 

重石が取れたように今朝は晴れやかである。 

第1駐車場からみる高野山からの小辺路の峰々も朝日を受けながら清々しい姿を見せてくれていた。

3年前、2019年5月に小辺路を歩いた時、 伯母子岳より望遠した大峰熊野の峰々の神々しさを懐かしく思い出していた。

 

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  高野山(右端)から続く小辺路の山並み、中央に伯母子岳がそびえる (玉置神社駐車場からの展望)

 

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     熊野古道小辺路・伯母子岳から遥かなる大峰熊野の峰々を眺めたことを懐かしく思い出した 2019/5/29

 

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             5日目露営地である玉置神社駐車場をスタート 05:30

 

玉置神社社務所前の水汲み場で2日分の水を補給して、玉置辻に向かって下りだした。 熊野本宮までの行程を2日間かけて歩くという決断をしたことにより若干重荷が軽く感じるのである。足取りも軽やかである。

 

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 昨日確認しておいた下山口より玉置辻へ向かう         玉置辻への奥駈道を下る

 

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鳥居の立つ舗装道<玉置辻>に出る 07:35  

鳥居をでて左側にわずかなテント地(サイト)があり、左側に大森山への奥駈道入口がある

 

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       玉置辻の鳥居をくぐってすぐ道路右端の奥駈道に入って、大森山に向かう

        標識<熊野三山入口>と<新宮山彦ぐるーぷ>を確認の事

 

 

        2021『星の巡礼 南奥駈け6泊7日老人奮闘記』②

           <玉置辻~熊野本宮>につづく

     https://shiganosato-goto.hatenablog.com/entry/2021/06/15/230303

 

 

 

 

 


















 

        


         

 

 

 

 



 

 

 

 



 

 

 


             

 

 




 
          

 


   

               

 

 


  




          

        
             


 
       


      

 

 

 

 

 

 

 

 

2021星の巡礼『バングラデシュの旅 2010』Ⅰ

2021星の巡礼バングラデシュの旅 2010』Ⅰ

   <ダッガ ➡ 路線バス乗継の旅 ➡ ラジャヒ>

 

 

バングラデシュを旅する>

バングラデシュを旅する計画を立てたが、その情報量の少なさに驚いたものである。旅行者の少なさからか、国の成立ちに至るまでの凄惨な内戦や自然災害のイメージからか、私自身<星の巡礼>と呼んでいる旅シリーズのなか、バングラデシュ訪問を最後まで伸ばし続けたものである。

スリランカ(旧セイロン)をはじめ、インド、パキスタン、ネパールやチベットブータンを旅して、ベンガル地方の情報を集めていたので、2010年10月、ようやく腰を上げバングラデシュの旅に出かけてきた。

10月後半と言えば、日本は秋を迎え、旅に最適な季節であるが、バングラデシュは乾季の始まりで、昼間32℃~35℃、夜間でも24℃と暑い日が続いていた。服装は夏服それも半ズボンで充分であるが、イスラムの国であり、多くの寺院訪問を考え長ズボンとした。

バックパッカーとしての宿は、ユースホステルやゲストハウス又は格安ホテルと決めている。バングラデシュにおけるユースホステルは、各地にないので、どこででも見つけられる格安のゲストハウス(名前はHOTELと付けているが)とした。またこの旅では、声をかけられた素敵なファミリーに招待されて、民泊も経験した。

 

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       バングラデッシュでは、観光客が少いのか、いたる所で群衆に囲まれ歓迎された

 

 

             《 悠久に 流るガンジス バングラに 匂いし土の 咲きし笑顔や 》

     ―ゆうきゅうに ながるガンジス ばんぐらに においしつちの さきしえがおやー

 

 

<地図・歴史から見るバングラデシュ

バングラデシュは、西部及び北部をインドの西ベンガル州、北から西にかけてインドのアッサム・メガラ・ミゾラム各州に囲まれ、南東の一部をミヤンマーと接している。

 

まずは、バングラデシュの成立ちを見ておきたい。

バングラデシュは、ビルマ(現ミヤンマー)・パキスタン・インドを含む「イギリス領インド帝国」の一部であった。まず1931年にビルマが独立、第二次大戦後の1947年イギリスによるインド支配が終わり、インドを挟んで東西に存在したイスラム地域は西パキスタン(現パキスタン)と東パキスタン(現バングラデシュ)とし、それをもって一つのパキスタンとして独立した。

しかし、1952年、東西パキスタンの距離的分離は、豊かさの違い、言語の違いや、西の東への政治的支配を嫌ってパキスタン中央政府に対する東パキスタンの抗議運動が始まり、バングラデシュ独立運動の機運が高まった。

1971年インドからの支持を得た東パキスタンは、4月10日「バングラデシュ人民共和国」を宣言、大虐殺という悲劇を経験したあと、数度の印パ戦争のあと、ようやく独立を果たした。

 

わたしが旅した2010年のバングラデシュは、独立後の暗殺、軍人によるクーデターの繰り返しも終わり、民主的なアワミ連盟による安定期に入っていた。

当時、地球の歩き方バングラデシュ編は発行されていなかったか入手不可能だったと記憶しているが、みずから情報を集め廻った懐かしい記憶が残っている。

 

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               1893英領インド帝国全図 (Wikipedia)

 

     

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               バングラデッシの位置 (Kariya Nichigeki提供)

 

バングラデシュという国の形>

バングラデシュの面積は約14.4万平方kmで、日本(37.8㎞)の方が2.6倍大きい。日本の本州より少し小さな面積に人口1億6000万人が住み、人口密度1252人/㎢も世界最高である。

旅は、人をかき分け、人にもまれ、人のぬくもりの中を旅することになる。

今回のバングラデシュの旅も、インドやパキスタンと同じく、人の汗の匂いを感じ、人と群れて移動する旅となった。

国土は、川の国といわれるようにポッダ川(ガンジス川)・ジョムナ川・メグナ川による三角州の上に成り立った豊かな穀倉地帯である。

この旅でも、ロケット・スチーマという客船に乗り、ポッダ川(ガンジス川)支流を下りながらその豊かな緑地帯を実感することが出来た。

森林地帯は約30%と極度に狭く、平地の平均標高が7m以下で将来地球温暖化により国土の最大約40%が沈下するといわれている。同じ温暖化でも、ヒマラヤの氷河が溶けて、多くの土を川がベンガル湾に運び、新しい島々が生まれているというから皮肉である。

 

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       ガンジス川・プラフマトラ川 デルタ(バングラデシュ)の衛星写真  (wikipedia

 

 

 バングラデシュの国旗>

親日国で知られるバングラデシュの国旗は、日本の日の丸とよく似ている。日本の国旗は白地に赤丸だが、バングラデシュの国旗は豊かな農地をあらわす緑地(イスラムの教え)に赤丸(昇りゆく太陽)である。赤丸が全体の少し左(竿)寄りであるのが日の丸との相違点である。

 

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        バングラデシュ国旗                 日本国旗

 

旅全体の様子を知るために<ルート地図>と<スケジュール/ルート表>とを先にあげておく。

 

バングラデシュの旅 ルート地図>

 

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              バングラデシュの旅 ルート地図

 

バングラデシュの旅 スケジュール/ルート表>

 

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■10月11~12日 大阪-バンコックーダッカ

 

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      ダッカ国際空港/HAZRAT SHAHJALAL INTERNATIONAL AIRPORT ADHAKA

 

ダッカ空港を一歩外に出ると、豊かな時間の中に英国植民時代の風情が残る世界に迷い込んでいる自分を見つけることになった。

バングラデシュの国旗の色である緑と赤のツートンの二階建てバスが人とリキシャをかき分けて進む中、イスラムの白いキャップを頭にのせ、白いシャツに巻きスカートの男がスリッパ姿で歩いている。

ヒジャブにヒンズーのサリーを身にまとい、赤子を腕に抱いて急いでいるご婦人がいる。

大阪の関西国際空港を出てわずか15時間で、イスラムの世界に入り込んでいるのだから、これまた横時間のタイムスリップと言ってもいいのだろう。

 

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               ダッカ国際空港前の光景

 

これからの約15日間、世界で一番人のよいといわれるイスラムの国バングラデシュに迷い込んでみたいと思う。

格安バックパッカーとしてのわたしの旅スタイルは、その国の空港に着いたら、その地、例えばダッガをまず観光して回るのではなく、その旅で一番遠方の観光地にまず向かい、スケジュールを調整しながら出国地であるダッガにもどるというスタイルを続けている。

その理由は、外国の地では先進国を除いて、クーデターや、災害、事故、逮捕、尋問、スパイ容疑、バス・船・飛行機等の遅延・出発取り消し等、何が起こるかわからないのが実情であるからである。そのためにも旅の最終地すなわちスタート地点で日程調整するのが一番安心安全だからである。

今回のバングラデッシュの旅でも、ダッカ観光は最終日程に回し、まずはこの旅で一番遠方である世界遺産<カントノゴル/KANTANAGAR>のあるディナジプール/DINAJIPURに向かうことにした。

 

ダッカ空港に到着した日に、次なる目的地ディナジプールへの切符を予約するため列車空港駅からダッカ中央駅へ向かうため、空港を出て警官に道を尋ねながら、歩道橋を渡って空港駅である<ピーマンボンドール駅>に行ってみた。

駅舎はもちろん駅周辺は人々で埋め尽くされ、身動きがとれない状態である。駅舎の窓口には延々と人が並び、何時になったら切符が買えるのかわからない状態でもある。

構内の列車を見ると、英国植民地時代の廃車同然の汚れ切った車体に人々がぶら下がり、屋根も荷物と人で鈴なり、その人々をかき分けて陣取りする気力が失せてしまい、列車での移動を断念することにした。

 

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                混雑する列車の旅

 

駅の写真だけでもとカメラを取りだしたら、駅舎の方から警戒中の武装した軍人がこちらをにらんでいる。アーリア系現住民の中にいる異質で典型的なモンゴリアンに注意が集まり、警戒されているからである。こそっと写真をとり、急ぎその場を離れた。

空港に戻り、三輪オート・リキシャで、バスチケットを予約購入するためモハカリ・バスステーションへ向かうことにした。

ここでもまた、異国の地での第一歩でよくあるトラブルが待ち受けていた。オート・リキシャに乗る前の値段交渉で提示した25TKでOKしておきながら、到着地では250TKというのだから大いにもめたのである。周囲には野次馬が集まり、ケチな東洋人に怒りをぶつけているようである。

運ちゃんも困り果てて、50TK割り引くという。

こちらも200TKが、ここ大都市ダッカでの妥当な物価水準であり、25TKは情報収集時の正確な物価でないことに納得したわけである。

群衆はよっぽどケチな東洋人であると憤っていたのであろうか、ポリスを呼べと言い出したほどである。こちらも運ちゃんと手打ちして早々と現場から脱出することにした。

出発前の情報と、現地の物価の相違、それも大変なインフレに見舞われていることを肌で感じたものである。

すべての物価は、調査資料より5~6倍高騰しているようである。

バックパッカーとしては、大変な予算の変更を余儀なくさせられそうである。

 

天然ガスによる三輪オートリキシャ>

リキシャは、バングラデシュを代表する庶民の乗り物である。この旅でも、ことあるごとにリキシャを利用してバングラデシュの生活に密着した。

バングラデシュには、人力・電気・ガソリンそれにダッカで多く走っている天然ガスの4種類ものリキシャがある。電気供給の不足するダッカでは停電の恐れと、二酸化炭素を抑えるため、自国産出の天然ガスによるリキシャが奨励されているようである。

何といっても日本の懐かしい人力車(ジンリキシャ)というノスタルジー、哀愁に満ちた呼び方がバングラデシュに残っているのがいい。

 

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           バングラデシュでお世話になる三輪オート・リキシャ

 

 

<機中で知り合ったバングラデッシュの青年>

ダッカに向かっている飛行機の隣席にシンガポールでの出稼ぎを終えて帰国するバングラデシュの青年がいた。名をクシュナであると自己紹介した。

港湾での沖仲仕の出稼ぎはとても過酷な仕事であるが、家族への仕送りが出来て満足しているといい、体を壊したので帰国するのだという。

出来たら日本での仕事をしてみたいので何かサジェスションを欲しいとのこと。バングラではなかなか仕事に着くのがむつかしいと訴えていた。

将来、日本が海外の生産拠点としてバングラデシュを考慮する日も近いと思われることを伝えておいた。

 

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         モハデカ・バスステーションに待つ天然ガス三輪オートリキシャ

 

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          防犯用鉄柵で囲まれた三輪オート・リキシャの運転席

 

<現地通貨と物価を知るための最初のトラブル>

はじめてその国に入って、物価を知ることは大切なことである。時には事前に調べてきた為替レートや物価水準が異なる場合がある。

バングラデシュ入国にあたって、関空での両替が困難だったため、米ドルと日本円を携行したが、可能な限りクレジットカードによるATMでの現地通貨TK(タカ)の引き出しに頼ることにしていた。

ダッカ国際空港の出国ロビーにある両替窓口で当面の小口現金として200US$ X@67で現地通貨13400TK(タカ)に両替した。

次にATMで、クレジットカードによる現金化ができるかをも試みてみた。現地通貨15000TK引出しも問題ないことを確認した。

バングラデシュの旅は、現地通貨28400TK、約424US$=約36920円(1US$=89円 / 1TK=約1.3円 2010年10月現在)でスタートすることになった。

出国時の再両替(現地通貨TK➡日本円又は米ドル)には、両替所発行の両替精算書(レシート)が必要になるので保管しておく必要がある。また、ATMで引出した現地通貨TKは原則として再両替は出来ないので注意する必要がある。ただ闇両替商により30%の手数料で両替することができたのでお伝えしておく。

 

<両替>

両替は、ATMで現地通貨を引き出すのが一般的であり、確実である。もちろん銀行の窓口や両替商でトラベラーズ・チェックやUS$/日本円での両替も一つの方法である。

わたしは、<DUTCH-BANGLA BANK>のATMをよく使わせてもらった。ATMでは、Cash Cardはもちろん、VISA/MASTERCARDが利用できた。

 

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              DUTCH-Bangla Bank Ltd. ATM BOOTH

 

空港からダッカ中心部に行くには、電車の空港駅<ピーマンボンドウール駅>から乗車してダッカ中央駅<コムラプール駅>で下車するのが一番便利である。

しかし、先にも述べた常時大混雑するバングラデシュの列車旅行は諦めて、バス旅行に切り替えることにした。

バスの予約チケットを購入するためバングラデッシュで最も便利な乗り物である三輪オート・リキシャに乗ってバスステーションに向かった。

 

🚐 長距離バス予約 ダッガ/Dhaka➡ディナジプール/Dinajpur 300TK>

 

 最初の夜は、疲れをとるためエアコン付きの、ダッカダウンタウンにあるホテル・デ・メリディアン/HOTEL DE MRIDIANに宿をとることにした。

鉄格子の物々しい構えに反して、部屋はこざっぱりした清潔な部屋で安心したものである。しかし、その安心感もつかの間、パチッと鈍い音とともに電気が消えた。

バングラデシュでは日常的なものなのであろうか、どこの部屋からも慌てる様子もなくただただ静寂が流れる。

こちらもアフリカや南米の田舎で鍛えられた身、落ち着いてヘッドランプを取りだし、就寝の準備にとりかかる。

その就寝前にやることがある。まず鍵が正常に機能するか、もしもの時の避難路としての窓の位置と、その高さや、隣からの浸入は大丈夫かである。

つぎに、万一の侵入者に対してどのように対処し、貴重品はどこに隠しておくべきか。また侵入者に対してどう立ち向かうか。

まずは、部屋全体の見取り図を頭に叩き込み、持参している登山用スティック(兼防護用)を身近に置き、就寝の準備が整うのである。

この部屋は清潔で問題はないが、たいていの格安ホテルは、名ばかりで部屋の汚さは目を覆うところがほとんどである。

まずは、ノミや虱(しらみ)、ダニの浸入を防ぐ化繊系の滑らかな封筒型シートを敷いて、その中に潜り込むのである。蚊がいる所では上半身用のカヤ又はメッシュ帽を被って寝ることになる。そのほか蚊取り線香を焚くこともある。

格安バックパッカーにとっては睡眠こそが、健康維持の第一条件だからである。

ただ、もし旅行会社催行のツアーであれば、問題にもならない懸案であるから心にとめないでいただきたい。

バングラデッシにも立派な高級ホテルや部屋が沢山あるからである。

 

しかし、電気が点いてもクーラー、TV,  シャワーの回復はなく、汗臭い体は湿らせたタオルで拭き、体をベットに横たえることにした。どうも出力の低い自家発電機による電気回復であるらしい。

デジカメのバッテリ充電は、可能なようで助かる。

関西国際空港からバンコックを経由し、ここダッカへは約15時間のフライト、体は疲れ切っていたのであろうか、ベットに深く沈みこんで朝まで熟睡したものである。

 

<格安ホテルに泊まる心得>

ユースホステルやYMCA,  ゲストハウス、格安ホテル、民宿に泊まるのは、旅の予算内で可能な限りその地に長く滞在し、その地の自然や歴史、現地の生活、人に触れたいと思うからである。

そのためには、その心づもりと、情報収集と、いかなる困難な情況・場所でも生活し、眠ることが出来る体力と技能を身に付けておかなくてはならないと思っている。

長年続けてきた山登り、サイクリングでの野宿や、ツエルトによる野外での寝泊まりの経験が旅にも活かされることになる。

いかにシンプルな旅をするかは、贅沢を切り捨て、現地の生活に溶け込めるかで決まると思っている。

 

バックパッカーのサバイバル術>

文明文化から遠く離れた地域、いやより人間的に生活している地域を旅するときに守っている幾つかのサバイバル術がある。今回ももちろん携行した。

 

・車や古いエアコンや扇風機の騒音に対する耳栓の携行

・停電に対しヘッドランプ等、明かりの確保

・タオル・石鹸・シャンプー・歯磨きセット等の持参

・蚊取線香やダニ・虫刺され軟膏、防虫ネットの準備

・大樹から落下する毛虫対策(腫れ・痒み止め軟膏)

バングラデッシュの旅では、ゴキブリに出会わなかった

イスラムやヒンズーの国での食事は指食が多いので、マイ箸・フォークの持参

・防菌・消毒ティッシュ、殺菌軟膏の必携

・砂埃対策としてマスクかバンダナの準備

・現地では、可能な限りミネラルウオーターを購入して、飲むこと

・下痢止め薬(錠剤ストッパー)、常備薬、栄養剤の持参

・パスポート・現金盗難対策としてパスポートのコピーや写真を持参、貴重品の分散

・盗難防止・室内浸入防止チエーン錠又は南京錠の持参

・磁石、地図を含む現地情報(宿泊・病院・大使館ほか緊急)ノート、筆記用具

・防護用ステッキ(登山用ストック)による夜間防衛・自主的防禦

・見せ金(20又は50US$紙幣)を脅迫・強盗遭遇・強要に備えてポッケットに別途用意

・カメラ紛失・盗難に備え予備(超軽量カメラ)の持参、予備SDカードへのコピー習慣

・暑さ対策として扇子・サングラス・日除けとしてつば広帽も役立つ

・国籍を曖昧にすることも重要(日本人は金持ちというイメージから狙われやすい)

・緊急修繕用小物(銅線・ガムテープ・裁縫セット)

・ほか

 

バングラデシュの格安ホテル事情>

学生時代、ユースホステル・クラブを立ち上げた関係上、世界各地に散らばるユースホステルを愛用してきた。ユースホステルの無い地域では、YMCA,  ゲストハウス、格安ホテルの順に宿泊先を決めている。もちろん未開の土地では、一軒家に一夜の宿泊をお願いしたり、軒下や納屋を借りることもあった。荒野や砂漠、川下りではもちろん野宿するしかなかった。

今回は、ユースホステルの無い地域であり、格安ホテル・YMCA・民泊となった。

 

  • <HOTEL MERIDIAN > Dhaka, Abdullahpur バスセンター前  1100TK

       House No.11, Road No.12, Sector No.6, Uttara, Dhakka

 

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                 HOTEL DE MERIDIAN  ダッガ 

 

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      < HOTEL DE MERIDIAN>Receipt        <HOTEL DE MERIDIAN> Single Room

 

 

■10月13日  2日目 <ダッカ> 

 

6時30分起床。シャワー・洗顔・歯磨きにあたっては生水が、口や鼻・目に入らないように注意する。

タオルを生水で濡らした時は、雑菌の付着を防ぐために必ず乾かすことに心がけた。また果物も皮をむき食べられるもの<リンゴ・バナナ・オレンジなど皮付きのもの>に限定した。 海外では急性の細菌性胃腸炎を防止し、細菌やウイルスの体内浸入を防ぐことが旅成功の秘訣であるからである。

生水で洗った野菜サラダは胃腸の大敵である。しかし、野菜不足は便秘のもとになりやすい。便秘も又下痢と同じく健康管理上旅先では注意が必要である。生野菜の代わりに干しブドウや乾燥野菜又は皮付き果物を食したい。

 

ダッカの暑さや、騒音のため寝不足である。

旅行前に読んだ体験談のように、イライラする街であることは確かである。しかし、ことごとく人間の根源的な生きる力がみなぎっているようで新鮮なエネルギーを感じる。

食事は街角の中華風屋台と決めていたが、スモッグ(排ガスとホコリ)やゴミの山をみて、中華料理店に飛び込むことにした。

コーンスープ・野菜あんかけ・フライドチキン・焼き飯を見た時、ここがバングラデッシュであることを忘れたほどである。世界中、どのような田舎でも出会える中華料理店は、旅において健康を保証し、困難に打ち勝つ勇気と希望を与えてくれるものである。

 

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 長距離バス用の果物とミネラルウオ-ターを買込む   The Daily Starで天気やニュースをチェック

 

<格安ホテルの部屋は蒸し風呂>

バングラデッシュの電気事情は決して良いとは言えない。覚悟してはいたが、バングラデシュ滞在中、毎晩と言っていいほど3~4時間の停電に見舞われることとなった。

窓一つない部屋には、湿った下水の匂いが上がってきて息苦しい。

その間、エアコン・天井扇などすべての電気が止まるのであり、部屋はサウナ・蒸し風呂そのものになる。大汗をかき、寝るどころではない。

その対策として、濡れタオルを用意し、扇子であおぎ、ひらけた戸からの蚊の浸入を防ぐため蚊取線香を焚くことになる。

ホテルの電気スイッチにも気を付ける必要がある。スイッチそのものが古く、英国植民地時代の前時代的なものを今も使っており、スイッチの止めネジに電気が流れていて感電することもあるので注意が必要である。

ベッドには、南京虫の潜んでいそうな毛布が1枚である。さっそく、持参したポリエステル系の封筒型シーツに潜り込むのだがこれまた暑い。結局半裸になり、シーツの上に体を横たえるが、翌朝南京虫やダニに噛まれていてびっくりすることになる。

 

部屋に供えられていたミネラルウオータ2本も調べてみたが、やはり2本とも蓋を開けた跡があり、そのうちの1本は水が減っていた。もちろん手は付けず、買い込んだ1.5Lボトル(20TK)を開けて使った。コップも持参したステンレス・カップを使用した。

細菌性下痢になったら旅は悲劇である。いつも細菌浸入防止には細心の注意を払うべきである。

ただこのホテルではゴキブリを見かけることはなかった。

 また防犯上、玄関扉には鉄格子がはめられ、外部からの浸入を防いでおり、出入りもガードマンがカギを開け閉めしている。それだけ治安は良くないということであろう。

 

この旅、バングラデシュでは、自分で自分を守る必要がありそうである。

バックパッカーとしては興味ある国だが、難度の高い国として、すべてに注意を払いながら行動したい。

 

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                                                    歩行者陸橋よりみるダッカの通勤通学前の交差点 

 

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             リキシャが行き交うダッガの朝風景

 

<食事は粗食だが、痩せない理由>

バングラデッシュは湿度が加わる蒸し暑い国である。少しでも歩いたら汗が噴き出てくる。どうしても歩くのが億劫になり、1KMなら5TK、約3円と、街中に溢れるリキシャに飛び乗ることになる。

結果として歩くことが少なくなり、粗食でもカロリーオーバーとなり、太り気味になってしまうのである。

一方、食べ物を買って帰る際、子供たちや老人たちの手が伸びて、恵んでくれと買い物袋に手が伸びてくることが多い。貧しい人々が、ここダッガには沢山いるのである。

賞味期限が過ぎたら投廃棄される大量の食べ物がでる国<無駄の多い国・日本>からやって来たと思うだけで自責の念に駆られる。

バングラデシュ貧困率は、年々改善しているということだが5人に一人はいまなお貧困状態の中にあるという。

 

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                    歩道は露店で賑わう

 

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            東南アジアでよく見られる複雑な電気電話の混在線

 

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     鶏も路上で売られている               バス待ちの人達

 

バングラデシュの人々は親切であり、人懐っこい>

街を歩いたり、駅やバス停にいるとよく現地の人に話しかけられることがある。

英語で話しかけてくる人は、たいてい教養のある人たちで、こころからこの国で困ったことはないかと身を案じて話しかけて来る人たちである。

東洋系に興味があり、英語や現地語で話しかけてくる人たちは、これまた親切心があり、何かを尋ねたら応じてくれる人たちである。この中には、周囲に自分の英語力を誇る人もいるし、家族や知人に紹介したいタイプの人も含まれる。

全く英語が出来なくても、異国の旅人に憧れる青少年や若者たちもおおい。

彼らとは、ただ目が合っただけで、すでにコミュニケーションが成立ち、言葉を交わさなくても友人としての心が通いあうものである。

 

最後に、初めから利害を求めて接してくる人たちがいる。商売として、カモとして、騙すために近づく世界で一番世俗的な笑顔と甘い言葉でフレンドリーを装う人たちである。

この部類では押し付けガイドが含まれる。断れば、最期まで付き纏ってくるから質が悪い。

これよりしつっこいのは、一応親切に付き合っておきながら、最後にこれだけ親切にしたのだからヘルプしてくれと、例えば自分を日本に呼んでくれとか、日本の企業に紹介してくれとか、叶わないなら当面の生活をヘルプして欲しいとか、金銭を要求する輩も少なくはない。

 

現地のごくわずかな人々ではあるが、日本ははるかに豊かな国なのだから自分たちを助けてくれてもいいではないか、という甘えの人達も見られる。今後、日本の製造業が労働力を求めて現地生産のためバングラデッシュに進出することになる日が近いと思われるが、現地の労働事情や労働者の質を日本の各企業は、研究しておく必要があろう。

 

バングラデッシュの旅では、貧困の中の親切という心の物差しで見てみる方法もありそうである。

以上で見たように、どこまで対価を求めた要求なのか、親切なのかを見分ける必要があるが、事件に巻込まれないためにも、現地事情が分からない間は深入りしないことであろう。

相手から申し出があった場合は、一応断ることである。同情や安易な深入りから申し出を断るためには、大変な努力が伴うことを覚悟しておきたい。

 

以上は、現地の生活に密接にかかわりながら旅を続けるバックパッカーとしての姿勢で見てきたが、今後、普及するであろうツアー旅行では、かかる心配はないと言っていい。

以下も、格安冒険旅行で必要な視点でものを見ていくことになる。この旅は、現地溶け込みの密着旅行であることをご理解いただきながら、バングラデシュの旅を楽しんでいただきたい。

 

<バスに正しく確実に乗る方法>

リキシャに乗り、バスターミナルを指示するとともに、行き先のバスに乗ることを伝えておくと、ほとんどのリキシャは、その行き先バスのチケット・カウンター又はバス停まで連れて行ってくれる。

バスターミナルといっても、大きい所ではターミナルの外側にあり、行き先によってバス会社は自分の駐車スペースを持っているので注意が必要である。

ターミナルによっては、内と外の二か所ある場合が多く、外の場合は予約チケットで座席が指定され、動き出したら満員になるまで誰でも乗せる場合がおおい。発車間もなくは大混雑となる。

さらに、バスは先を急ぎ、渋滞のなか、クラクションを鳴らし続けるから、大変な騒音である。

さらに夜、停電ともなると、街中の自家発電機が一斉にうなりを上げ、喧騒は一段と高鳴り、バスの中でも耳栓の出番となる。

 

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 今回のバングラデシュの旅は中古HINOバスで      ラッシュ時のバスの屋根に乗る人々

 

<街角の屋台での食事と、注意すべき事>

バングラデシュでお腹がすいたら、街角にある軽食屋台に飛び込めばよい。ミルクティーと揚げ物で充分腹を満たすことが出来る。スナックやバナナなどの果物も手に入るとともに、食事として付けカレーにライス又はナンといった軽食を頼むことも出来る。

ただ、備え付けの生水は避け、ミネラルウオーターか7Upなどソフトドリンクにすることをおすすめする。また、生野菜のサラダや剥いた果物は避け、バナナやリンゴ・ミカンなど皮付きのものに限ることを心することである。

細菌性急性胃腸炎を避けるためであるが、食事前の除菌用ティッシュでの手指の消毒はもちろんだが、もし携帯しているなら自前の箸やスプーンを使うことである。胃腸に異変を感じたら即、細菌性下痢止め<ストッパー>などを服用することが旅成功の秘訣である。

旅行中の渋り腹は苦痛と共に、トイレ探しが大変である。ましてや長距離バスで、大揺れでの走行しているときの腹痛は想像を絶するものである。

 

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               備え付けの生水には絶対手を出さないこと

 

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 揚げ物、焼き物は雑菌を殺してくれるのでお勧め       標準的朝食35TK<ナン2枚/オムレツ/ミルクティー

 

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                                                                               ダッカの露天商風景

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                                                                     ダッカの露天商風景

 

 

<バス旅行>

バスに揺られていると、人口に対する食料事情の緩和のため養殖池や溜池が多く目につく。車窓から、日本の水田風景を見ているようで懐かしい。そこでは食用のエビや淡水魚が養殖される一方、住民の沐浴の場として利用され、アヒルやガチョウがのんびりとあくびをしている。

また、この溜池は灌漑用水にも利用され、大雨の際には排水・貯水池として重宝されているようである。

バングラデッシュの旅では、どこに行ってもこの緑色に濁った溜池が風物詩として見られる。

 

長距離や路線バスに乗ってわかったが、大抵外国人旅行客は私だけである。多分、外国からの旅行客のほとんどは、旅行会社催行のツアーで専用バスか、飛行機で移動しているのであろう。

バックパッカーさえも見当たらない。多分、バックパッカーにもいまだ未開拓の国と言っていいのではないだろうか。いや、立派なエアコン付きのリクライニングシート付の高級直行バスが走っているということを耳にしているので、多くのバックパッカーも利用しているのかもしれない。

ほとんどすべての標示・標識がベンガル語で書かれており、英語表記が少なく途方に暮れることが多いことは確かである。しかし、どのような場面でも、イギリスの植民地であっただけに英語を話せるインテリがいることも確かであり、助けられることが多かった。

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                                    溜池・養殖池が全国的にみられる

 

バングラデシュの観光事情と旅行者>

バングラデッシュは、まだまだ未知の国なのであろう。

今回、バングラデッシュを旅していて世界遺産やそのほかの観光地でさえ、不思議なほど多くの観光客やバックパッカーに出会わないことである。たまたま私が出会っていないのであろうか。

バスに乗っていても、物売りや押し売りが少なく、インド・ネパール・パキスタンビルマなどで味わった停車ごとの物売り攻勢には出会わなかったからこれまた不思議である。

まだまだ観光地として整備されていないのが実情かもしれない。観光地や世界遺産も赤色レンガが積まれた遺跡やモスク、聖者廟がおおく、観光資源への改良や工夫が必要なのかもしれない。

それ以上に観光客に理解されるムスリムの世界を演出する必要がありそうである。

特に、白人観光客にバングラデッシュを知ってもらい、誘致するためにはまだまだ時間がかかりそうである。国そのものが観光事業に手を染めるだけの豊かさがまだないのかもしれない。

バックパッカーにしては、未開の夢の国であるはずだが、そのバックパッカーですら出会わないのであるから、バングラデッシュはこれからの国と言っていい。

このような静かな隠れた国があったのには驚かされた。

政情不安、テロといった不安定要素がまだ残っているのであろうか。しかし人々の温和さからくる笑顔や、親しみからくる純粋さの残る人々に出会えるだけでも幸せである。

しかし、街角にザルと鍬(クワ)をおき、日雇い労働の仕事を待つ人々は、その朝の声掛けに神妙である。

 

かかる未開の国をいち早く紹介してきたのが、バックパッカーのバイブルとして親しまれている<地球の歩き方>シリーズである。

しかし私が旅行した2010年時点では、<地球の歩き方 バングラデッシュ版>は、いまだ発行出版されておらず、バングラデッシュの事情は、先輩バックパッカーのブログによるところが多かった。

 

帰国してから<地球の歩き方2010年版バングラデッシュ>が発刊されたと聞く。

それだけ未開の国であり、情報の少ない国であり、バックパッカーにとって憧れの国でもあったと云える。

 

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    街角で待つ日雇い人夫の鍬とザル         1回15TKの体重測りは子供の仕事

 

 

<食事時の注意すべき左右の手・指の使い方>

ムスリムの国では、用を足した後、左手の指で後始末をするのでこの手指は不浄とされている。

口にするもの、食事はフォーク・ナイフ・スプーンを使わず、右手の指で食事する。

郷に入ったら郷に従えと、左手を使わず、右手だけでナンをちぎってみたことがある。それに右手指だけで食事をしてみたとき、その難しさに最初はねを上げたものである。

ムスリムバングラデッシュに来るまでに、随分とムスリムのマナーを学んできたつもりだが、現地の人たちとの会食以外では、いまだナイフ・フォーク又は持参の箸を使っている始末である。

その最大の理由は、わが弱点である細菌性胃腸炎を予防するためである。

 

<格安バックパッカーの定番食 チャパティ

インドカレーにはナンがついてくるが、バングラデシュでは<チャパティ>がついてくる。

街角の風物詩である丸い鉄板には、ランニングシャツのお兄さんによっていつもチャパティが焼かれている。

円錐形の鉄板に油をひき、メリケン粉をこねて丸めてのせ、ヘラで押さえて丸く伸ばして、天然ガスの火力で焼き上げるのでる。

バングラデシュ滞在中、よく食べた<チャパティとオムレツ>を紹介しておく。

オムレツは、卵1個にカラシ・玉ねぎ・エンドウ豆を投げ込み、かき混ぜてチャパティを焼いた後の丸鍋に放り込んで、強火でさっとかき混ぜて仕上げる。

チャパティ2枚に砂糖入りミルクティーを付けてセットメニュー、35~45TK(約60円)である。

オムレツは、少し油っぽいが、塩を少々ふるとさらにおいしく食べられる。

 

屋台の前の溝を清掃する少年が、笑顔を見せてくれた。ゴミ箱をひっくり返したように汚れた道路の、水たまりに溜まった汚物を処分している様である。鼻につくヘドロのような匂いは、屋台の客に不愉快な気分を与えるようで、店主が少年を雇って掃除をさせているようである。

店主の心遣いが嬉しい。

掃除に使命感を持った少年も、少額のチップをもらって美しい笑顔を返してくれる。

 

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          軽食屋の厨房               軽食屋内外の清掃ボーイ                   

 

<街角の有料トイレ>

日本や先進国ではほとんど見られないが、世界の貧しい多くの町や村では、個人営業の有料トイレが街角や個人宅に設けられている。日本でいう一種の公衆トイレと考えていい。いざという場合には便利であり、よく利用させてもらった。

案外、きれいに清掃管理され、ほとんどが水洗である。受付の少年たちの笑顔が素晴らしく、気持ちよく利用できた。ただ手洗いの水は、細菌感染に注意である。多くのところでは、ティッシュまたはトイレットペーパーを用意していないので注意が必要である。 大小で値段が違うようで、5~10TK+チップ5TK。

 

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                                                       街角にある有料トイレ(5~15TK)

 

 

<ダッガ 朝の散策>

時間と共に街には生活の匂いが鼻につきだす。

気温の上昇と共に、魚や肉、残飯の腐った匂いが満ちてくる。どうもバングラデシュの人々の食生活に、匂いの元があるのかもしれない。街角で見られる魚をさばいたあとの内臓を放置、蝿が真っ黒にたかっていたりする。

流れの止まった下水や溝にも、油が黒く光る液体が動くことなく停滞し、臭いの元を作っているようである。

インフラの遅れにもよるが、生活の排水が後を絶たず流れ出し、臭いの根源になっているというのが実情である。

しかし、風が吹き臭いを一掃すると、柑橘類の爽やかな匂いがときどき混じって流れてくる。そう、散策の歩きの中にも、新鮮な空気に触れることがある。人の住む街を少し離れると、川から吹き付ける湿った新鮮な空気に触れることが出来るのである。

売られるガチョウが悲痛な叫びをあげ、バスに群がる人たちの叫び、鳴りやまないクラクション。ダッガの匂いも、騒音も生きる力の強さをあらわしているといえる。

国の成長過程で見られる生活の風景に触れ、バングラデシュの若さを見たような気がする。

空にはスモッグもなく、清く澄み渡っている。太陽はいつものように万物に恵みの光を与えている。

素晴らしい世界の片隅、ここバングラデシュダッカでも、イスラムの神を称えるコーランが今朝も響き渡っている。

バングラデシュの人々は、今日も変わることのない営みを始めたようである。

 

今朝もすでに気温が30度以上のようで、汗が背中を流れだした。 この暑さに騒音と人の群れが動き出したから大変である。木陰から一歩を踏み出せず、ただただ人の営みを眺めることになった。

 

日本という清潔なところから、人口密度の濃いバングラデシュ、その中でも人が密集しているダッカに来て、人間本来の汚れや、本能に生きる土地に立ってみて、人間の潜在的な根源、生きる強さに触れたような気持ちになった。

本能に生きるとは、秩序があってはならないし、清潔であってはならないし、押さえて生きてはならないのだ。ただただ無秩序に生きてみることである。

しかし、おのれを抑える生活則からなかなか逃げ出せずに、バングラデシュという生活習慣に溶け込んでみることにした。

 

<列車旅行をあきらめ、バス旅行に切り替える>

現地の駅に行ってみて、列車の行き先・時刻表・値段の標示がすべて難解なベンガル表記で、理解するのに時間がかかることと、間違いを防ぐためにバス旅行に切り替えることにした。

バスも又、ローマ字表記がないので大変だが、アラビックの行き先地名とバスナンバーである数字を覚えるだけで済むという便利さもある。チケット購入にあたっては、印刷した購入メモ<行先・乗車日時・人数・片道/往復>を準備した。

 

US$(米ドル)にも、ほかの中東の国での反応の高さに比べたら関心が低い。今後はUS$を現地貨幣TKに両替しておく必要がある。

一方、ATMで使えるCASH CARD INTERNATIONALや VISA CARDが便利なのは、その日の為替レートで現地通貨が出てくることである。

 

🚐 長距離バス移動  ダッカ/DHAKA ➡ ディナジプール/DIHAJPUR>

     2010/10/13 Ticket Fee 300TK 10:30AM Dept. 

乗車時間 約7時間 (約350KM)

 

空港より北3㎞ほど行ったNATTAという街の道路沿い、進行方向にむかって左側にバスチケット・カウンターが並んでいる。ここでディナジプール行バスチケットを購入し、乗車する。

始発のここ<アブデュラプール/ABDULLAHPUR バスチケット・カウンター>の前から、ディナジプール行の午前・午後2本の便が出ている。

 

始発のダッカからの乗客は12名であったが、市内を通り抜ける間に座席は埋まり満席となった。隣席は同じディナジプールに帰る家族4名、老夫婦に嫁とその1歳の男の子である。

やっとバスは郊外に出た。川の国は風が涼しく、爽やかである。

外国人、いやモンゴル系はわたし一人。ほとんどの人が冷たく観察する中で、柔和な笑いを浮かべた一人の老紳士が英語でどちらへ行くかと聞いてきた。この一言に知らずに身構えていたこころの不安がスーと消えていった。

 

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          ハニフ/HANIF エンタープライズ社の長距離バス と 車内

 

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 ハニフ/HANIF・シンボル・マーク  <ダッカ/DHAKA ➡ ディナジプール/DIHAJPUR>予約チケット

 

<バス車窓からバングラデシュの情景を眺める>

人が溢れ、騒音を生み、汚れゆく街角には人間の図太い営みが満ちている。

ダッガ、この街の止まらない喧騒の中にいると一種の興奮をさえ覚える。

土ボコリで街路樹も家屋も、人までもが変色しているように見える。すべてが埃をかぶって土色のなかに埋没しているのである。

バスの中でさえ、窓からの土埃には耐えきれずバンダナを顔に巻き付けることになった。

 

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              バングラデシュ街角の風物詩 リキシャ

 

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                庶民足 リキシャ

 

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               街や村にはどこでも人が溢れている

 

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            土埃対策 バスでは土ぼこりを防ぐためバンダナを巻く

 

ご婦人の色鮮やかなヒマール(イスラム婦人の衣装)やサリーは、蓮の花のように混とんとした池の中に咲く天女の服のように鮮やかに映える。

自転車とリキシャと三輪オートリキシャは、この国の庶民の足である。時にはサイケティックな、オールドファッションな、芸術性を持ったリキシャが、その魅力を競っている姿に魅せられることがある。

 

                   f:id:shiganosato-goto:20210414193412j:plain f:id:shiganosato-goto:20210414193339j:plain

                               東南アジア一帯で走っている三輪オートタクシー<デンプー>

 

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              スケッチ <サイケティックなリキシャ>

 

 この時期(10月)のバス旅行(アドベンチャー)は、暑さとの戦いである。

出発から2時間程たったが、いまなお群衆とリキシャを避けながらノロノロと走り続けているバスは、ダッカ近郊からいまだ脱出出来ていない。

この大変な交通事情では、経済もマヒしてしまうと考えてしまうが、人々はいたってのんびりとその日暮らしを楽しんでいるようである。

バングラデシュには、この国独自の時間と秩序がガンジス川の流れのように、滔々と流れているようにも見える。

人びとの顔にもまた、この悠久の流れを人生の旅路の伴侶として受け入れ、幸せを享受しているように見受けられる。

 

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    熱い国バングラデッシュではサトウキビの爽やかな汁 や パイナップルの切身が喜ばれる

 

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               街中は人で溢れけりバスの通過は大変である

            

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     河の国バングラデシュには湿地帯やドブ溜りが多く不潔の元となっている

 

恐らく観光業者は、このような場所は避けて早朝・夜間に世界遺産の方へ観光客を案内するのであろう。バックパックカーでない限り、この国の素顔に接することは中々ないといっていい。

現実に接し、この国の抱える問題点に向き合ったうえで、将来、多くの日本の企業がこの国の繁栄のために、またバングラデッシュの人々の幸せのために貢献、寄与してもらえればと願うものである。

 

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              一杯飯を売ることで生計を立てるご婦人も多い

 

ダッカを出て約3時間でジョムナ川に出て、川に架かるジョムナ橋を渡ってディナジプールに向かう。

ジョムナ川もガンジス川の支流であり、水上交通のメインルートのひとつとしてバングラデシュの経済を支えている。

ジョムナ川には小舟や、くい打ち小屋に住み、川の恵みを受ける水上生活者が多くみられる。

この地は、ガンジス川の織り成す豊かな三角州であり、海抜ゼロ地帯である。

これより田園風景がひらけ、国境にも近いのであろうか、かって、出会ったインドの風景が続く。それもそのはず、歴史的・地政学的にみて、今から75年程前まで現在のパキスタン・インド・バングラデシュ・セイロン・ビルマを含めた地は、<英国領インド帝国>という一大植民地であった。

 

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          ダッガより約3時間走り、ジョムナ川に架かるジョムナ橋を渡る

 

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                 ジョムナ川流域に見られる耕作地

 

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                ジョムナ川は大河である

 

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          スケッチ  < Rice Fields>    Dhaka➡Dinajpur  10/13  03:20pm

 

意外と知られていないが、バングラデシュのコメの消費量は、世界でも有数である。日本米と異なり長粒米であるインディガ種である。バングラデシュ滞在中に、カレーとパラパラのライスを幾度も食べることとなった。手指でも食べてみたが、以外とパラパラ米だからこそ手指になじむのだということが分かった。

 

途中、モーターインに立寄り、バニラアイスクリーム(30TK)を買い食い。火照った体に心地よく溶け込んでいく。ランチには、ケーキとマンゴジュース、バナナとリンゴをかじって済ませた。

 

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  インディカ種の長粒米である耕作地も見られる        夕刻、ディナジプールのモーターインに立寄る

 

ディナジプールに近づくにしたがって、バナナの収穫期なのだろうか、村総出で取り入れに忙しい。トラックにも未熟のバナナが山と積まれ出荷を待っている。ユーカリで囲んだ田圃には稲穂が静かに揺れ、夕暮れを待っている。

隣の席のご主人が、葉っぱを半部に切り、4等分に折って口に入れた。多分、コカの葉であろうと推測する。

 

陽が落ちて、すこし涼しくなったディナジプールの街に、約350kmを、2時間ほど遅れて9時間の旅を終えて、長距離バスは午後7時45分ごろ無事滑り込んだ。

さすがにバングラデシュ縦断バスの旅は疲れたが、それにもまして必死に国土建設に汗を流すバングラデシュの人々の姿に見入ってしまうバスの旅でもあった。

飛行機だとダッカ・ディナジプール間は、わずか50分だという。

大抵の観光客は、ガイドに引率され飛行機でディナジプール入りするのであろう。

 

<▲ ディナジプールYMCA 宿泊 >   ダブル@500TK X 2日(連泊)

Dinajpur Young Men’s Christian Association

Station Road, Tel: 65552 (Office)

 

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     ディナジプールYMCA入口              ディナジプールYMCA

 

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        ディナジプールYMCAのダブルルーム           シャワールーム

 

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               ディナジプール駅・YMCA 付近略図メモ

 

 

 

■10月14日 3日目 ディナジプール➡カントノゴル寺院 (北方30㎞)

 

今日は、YMCA主事の牧師さんの友人が運転する三輪オート・リキシャを借切り(600TK+チップ400TK)、バングラデシュで最も美しいヒンドゥー寺院といわれる<カントノゴル寺院/KANTANAGAR>を観光することにした。

 

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  借切りの三輪電気オート・リキシャで出発       YMCAの近くにあるDINAJPUR列車駅

 

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             ディナジプール駅で1日数本の列車を待つご婦人

 

 

バスで行く場合は、ディナジプールのバスターミナルからタクルガオ方面ポンチョゴール行のバスに乗る。

降車バス停ドシュマリよりカントノゴル寺院入口まで徒歩で約15分であるという。

 

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            タクルガオ方面ポンチョゴール行のバス

 

<カントノゴル寺院への道中の田舎風景   電気オート・リキシャから>

 YMCAの主事であるJibon牧師の紹介で、友人のDipu氏の運転する三輪電気オート・リキシャを借切ってYMCAを08:00amに出発した。

途中、キリスト教村やヒンズー村を案内され、貧しさの中にも生きる命のみちた日常の生活を垣間見ることが出来た。

収穫期のバナナの積み出しや、稲穂刈りに忙しい村民の表情、村の広場一杯に籾殻を干す子供達に出会った。

めずらしい手作りの計量計を使っている廃品金属回収業の現場や、薪を量り売りする風景にも出会った。

風通しのよい高床式住居の庭に飼われたニワトリが声高に泣き叫ぶ、典型的なバングラデシュの農家を見ることが出来た。

 

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     金属回収業の手作り秤(重量計)          薪売りの手作り秤(重量計)

 

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         高床式の住居               家庭の炊事場にあるカマド

 

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                いまも現役・井戸水汲み上げの手動ポンプ

 

井戸水が日常生活の主役として活躍している情景や、駄菓子屋のテレビに群がる子供たちを見ていると60年程前の少年時代の自分を見ているようなノスタルジーにひたった。

力道山の空手チョップに相手が失神するプロレスリングに拍手喝采した日が懐かしい。

 

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          バナナの収穫               インディー米の田圃

 

世界遺産・カントノゴル寺院/KANTANAGAR  入場料10TK>

世界遺産・カントノゴル寺院は、ディナジプールの北約30㎞のところにある。

一片が15mの正方形で、三層からなるレンガ色のテラコッタで囲まれた寺院で、18世紀中ごろに建立されたとある。

その壁一面には、ヒンドゥー神話である古代インドの大長編叙事詩ラーマーヤナをモチーフにした精密なテラコッタの彫刻で埋め尽くされたベンガルヒンドゥー寺院であり、壮観である。

叙事詩で活躍する人物は全てクシャトリヤであるから、壁面の彫刻テラコッタクシャトリヤの行列を描いていると言っていい。

 

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    カントノゴル寺院への行き方(略図)      カントノゴル寺院/KANTANAGAR見取り図

 

このような田舎の人里離れたデバ川沿いに、圧巻の緻密なテラコッタ芸術をほどこしたヒンズー寺院を建てたものだと驚きをもって観賞した。

観光客はわたし一人である。ほかには、地元の親子が参拝に来ていた。

静寂の中にあたかも砦のような建物が300年程前に建てられ、現在にその姿を残していることに驚くとともに、取り巻くテラコッタも鮮明で欠損せずに残っていることにも目を見張った。

また建物そのものが、東洋様式にネオ・ルネッサンスという西洋様式を取り入れていることを知って、またまた好奇心をかりたてられた。

 

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      ネオ・ルネッサンス建築様式がうかがえるカントノゴル寺院/KANTANAGARの正面

 

<精密なテラコッタの細部>

建物の外側基底部分にテラコッタによる彫刻が集中している。

そのテラコッタのメインなる部分を拡大しておきたい。

それは見事なテラコッタだ。インドで見られるリアルな性描写もなく、王様の成し遂げた業績や、敵との戦いの物語を彫っている。

それもレンガ大の大きさに、精密な人物の表情を刻み込んでいる。

 

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             カントノゴル寺院の基底部分のテラコッタ 四景

        大長編叙事詩ラーマーヤナをモチーフにした精密なテラコッタの彫刻

 

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  カントノゴル寺院/KANTANAGARの二方面     カントノゴル寺院/KANTANAGAR解説板

 

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                 スケッチ <Kantanagar Hindu Temple>

 

カントノゴル寺院で働いているという8歳の少年が、ガイド役を買って出てくれた。それも英語で寺を案内し、写真を撮ってくれ、トイレに連れて行ったりと世話をやいてくれたのである。トイレに行ったときは、ここは自分の仕事上のテリトリーで、使ったあとは4TKを金銭箱に入れてくれというではないか。あどけない少年の顔は、立派なビジネスマンに見えた。

少年にお礼のチップを手渡し、興奮冷めやらない体を待たせていた電気オート・リキシャに乗せて、一路投宿先のYMCAに戻った。

 

<ディナジプールの街を散策>

次なる目的地である世界遺産バハルプール/PAHARPURの仏教僧院に向かうバスの乗場を下見するためにディナジプールの街に出てみた。

街角の果物屋の主人にバス・ターミナルの場所を聞くが、なかなか通じない。困っていると客の一人である中年の紳士が流暢な英語で語りかけてくれた。何か困っていることはないかというので、バス・ターミナルの場所を尋ねてみた。答えたあと、自分は先週、筑波から帰国したばかりで、久しぶりの郷里を娘と散策しているという。

この国では、時々かかる教養を身に付け、英語を話し、世界を知る人に出会うことがある。観光客にとっては救いの出会いでもあり、感謝したものである。

この国の観光産業はいまだ未開拓であり、民需に待つのではなく、国策としての長期計画のもと政府主導で開拓・誘致を推進する必要があろう。まずはインフラの充実であり、交通網の整理であり、宿泊施設への投資を促す必要がある。まずは点である観光地開拓と、線であるインフラ、交通網の整備が急がれる。

 

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           街を散策中立寄ったヒンズー・テンプルで少女たちと

 

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               街角で出会った未来の紳士たち

 

バングラデシュブータンの観光事情>

この旅に出る前に、ブータンを旅したことがある。

同じく農業に生きる民であり、人々の素朴さに惹かれる所も同じである。水の国と山の国、それに宗教的にイスラムと仏教の違いがある。

ブータンは人口70万人の小さなヒマラヤに位置する小国である。しかし、この小国には明確なポリシーがあるような気がした。未開放の国であったにもかかわらず、伝統を生かし、その歴史と郷土の美しさを遺そうとする姿勢を感じた。幸せの国を目指し、人に愛と幸福を伝える国としての存在意義を見つけていたように思う。

山に住む人々も、国の示すポリシーをよく理解し、伝統衣裳を身に付け、家を開放して観光客を受け入れ、郷土料理を提供し、風呂につかって天空の星空を鑑賞させるなど官民が一体となって観光国家をめざしていたことをバングラデシュの旅をつづけながら想い出していた。

 

一方、ここバングラデシュという国はどうであろうか。

1憶6000万の人口をかかえ、イスラム教のもと貧困からの脱出を模索する発展途上の国といえる。その人口の多さからか、雑然としたなかに国民を一つにまとめるポリシーを見つけられずにいるようである。国の方針と夢を待つ国民のエネルギーが、諦めの中に消えつつありそうで残念でならない。

いつの日にか、多くの観光客が押し寄せる国となり、この国の魅力に陶酔させられる日が来ることを待ち望む一人である。

 

この多くの人口を生かせる目標の一つに、IT教育と技術立国としての国おこしと、海外の工場を呼び込むインフラ整備を目標に掲げるのも一つの方法であろう。また医療や福祉の国造りにより、多くの医療者や福祉支援者を世界中に派遣するプログラムも役に立ちそうである。

未開拓の観光産業については、先にも後にも私見を述べている。

バングラデシュはまず、国民の民度を上げ、一人当たりの経済力を高める方策から始めることになろう。

まだまだ大変な努力が必要であろうが、安価な労働力に魅力を感じる国々もあるという現実もまたこの国の成長にプラスになると言っていい。

 

<ダニや南京虫に対する一考察>

ここバングラデシュでダニや南京虫に噛まれたらとても痒い。その姿や噛み跡も確認できないのに痒みだけは激しい。ムヒを塗ると一時的に痒みがゆるむが、そのうち眠れないほどに痒みがぶり返すから困ったものである。

インドシナ半島南京虫は、丸々と太るまで血を吸うので見つけやすい。潰して飛び散る血を見ることによって、痒みも引いていくような錯覚におちいったが、バングラデシュの虫どもはその姿を隠すのが上手で、噛まれてもその痕跡を残さないから知恵ものである。姿が見えないからさらに痒みが増すような気になるものである。

かれらも今夜の宿泊客を待ち構えていて、必死に血を吸い、子孫を残す努力をしているのだから、われわれ人間も我慢して噛まれてやるぐらいの度量を持ちたいものである。

がんばれ虫どもと声援を送りつつも、やはり痒みは辛い。

 

静寂の中、朝の散歩に出かけ、農家の庭をのぞいてみた。

 

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       農家の軒先で牛達たちがのんびりする姿にバングラデッシュの平和を感じる

 

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      庭先に干された麦穂             朝まだ冷めやらない静かな村道

 

 

■10月15日 路線バスで、ヒリ/Hilli経由 世界遺産バハルプール/PAHARPURに向かう

 

ディナジプール・路線バス・ヒリ行          08:09am発(60TK)➡    10:45am着 

ヒリ・バス乗継 (リクシャで移動 30TK) 

ヒリ・路線バス ・ ジョイプルハット行       10:52am発(40TK)➡ 11:45am着

ジョイプルハット・路線バス バハルプール行          12:00am発(20TK)➡ 12:45am着

 

 

<バス乗継地 ヒリ/Hilli  10:45am着/10:52am発 >

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        ヒリの長屋風景                ヒリのリキシャ

 

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      バスチケット売り場               三輪運搬車が行き交う

 

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         ヒリの街角                   駄菓子屋さん

 

<地方都市でのバス乗継の注意>

ここでは、ディナジプールより目的地バハルプールに向かうにあたって、途中ヒリの街でバスを乗り継ぐ際の注意点を見ておきたい。

地方都市のバスターミナルは、行先によってそれぞれ異なった場所にあることがあるので注意したい。良くある間違いは、到着したバスターミナルから乗継のバスも出発するものと思い込んでしまうことがあり、乗り遅れることがあるということである。

最初に乗ったバスの運転手に、自分の最終行き先をメモに書いて渡しておくと、乗継のバスターミナルで彼はリキシャの男に行き先のバス乗り場に連れて行くように指示してくれる。

もちろん、乗継のバスターミナルでは運転手の横に寄り添って、その指示に従うことはもちろんである。

リキシャの男は了解し、次なる行き先のバス乗り場に連れて行ってくれる。

乗継都市ヒリ/Hilliの場合、バハルプール/PAHARPUR行バス乗り場は約1㎞離れた<Joypulhat Bus Terminal>にあった。 これでは初めての旅人にとって、乗継バス停の所在確認は不可能に近い。

この場合も、親切なバス運転手と、リキシャ(14TK) 連携で、出発間際のバハルプール行のバスに間に合ったのである。

 

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                                ジョイプルハット路線バス バハルプール行 (HINO中古バス)

 

ジョイプルハットで乗り継いだバハルプール行バスは、快調に田舎道路を飛ばしていたところ途中でパンク、乗客全員がおろされ、半額の払い戻しを受けたあと、幾台かの三輪オート・リキシャに分乗してバハルプールに向かうというハプニングが起きた。これまたバックパッカーにとってはアドベンチャーな出来事であり、歓迎される事態である。

 

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                                                  農具修繕屋さんの作業場

 

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                この時期おいしい果物 デシュ売り

 

世界遺産バハルプール/PAHARPUR   入場料 外国人100TK>

バハルプールは、1985年世界遺産に登録されたインド亜大陸最大の仏教僧院跡である。

8~9世紀にかけて在位したパーラ朝第2代の王ダルマパーラによって建立され、パーラ朝仏教美術を代表する僧院遺跡の一つである。

遺跡は、レンガ造りの基壇と土台の石、周壁が残っているだけだが、広々としたイングリッシュガーデン風の芝生に囲まれ、静寂の中で昔日を偲ぶことが出来る。

この地ではじめて、ネパールよりバングラデシュに入ったという日本人青年バックパッカー君に出会った。この旅では日本人には出会うことはないと思っていただけに驚いた。

なんと暑いことか。バングラデシュの人々が黒く日焼けしている原因は、直射日光によることであることが納得できるのである。

しかし静かだ。世界遺産といわれる観光地で、ほとんど人に出会うことのないのには驚きである。外国人は皆無である。

夕涼みを兼ねて、広大な芝生に点在する木陰で地元の人々が家族団欒を楽しんでいる情景は、観光地らしからない風景である。世界遺産が、市民の庭園として住民に親しまれていることになにか安堵の気持ちにもさせられたが。

わたしも記録ノートにスケッチをしながら、ゆったりと流れゆく時を楽しんだ。

遺跡の上部へは、ガイド無しで上ることはできない。

テラコッタカービング(彫刻)の素晴らしさに惹かれて、ガイドに付き添ってもらい遺跡を巡った。

8~9世紀の宗教は、ヒンズー教も、イスラム教も、仏教もまたテラコッタという表現方法で後世にその偉大さを遺していることを知ることが出来る。

 

世界遺産パハルプール遺跡には、ミュージアムが併設されている。

ここにはパキスタンガンダーラ仏像とは、対照的に東洋的な仏像が飾られている。同じく伝わったであろう仏教が、異なる仏像を創りあげていることに興味をいだいた。

展示室は撮影禁止なので比較写真をお見せできないのが残念である。

 

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世界遺産バハルプール/PAHARPUR 仏教僧院 標識       バハルプール仏教僧院   外国人100TKチケット

 

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               世界遺産バハルプール仏教僧院跡 全景

 

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          世界遺産バハルプール<基壇の仏教的テラコッタレリーフ

 

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   バハルプールの広大な仏教僧院跡          世界遺産バハルプールの背後

 

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               スケッチ <世界遺産・バハルプール仏教僧院>

 

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                  バハルプール博物館

 

<▲ ホームステイ  お礼500TK >

今夜は、世界遺産バハルプールの正面入り口に近いお宅でホームステイすることになった。

この家の高校生の息子さんであるマスーズ君と遺跡で出会い、バハルプールの歴史的説明を受けたことによる。彼は日本に興味を持ち続けており、憧れの日本人であったようである。さっそく、自宅に案内され、両親に紹介され、今夜一夜のベットを用意するとの申し出を受けたのである。

寝室は、彼の勉強部屋で、急遽ベットが準備された。まず、井戸で汗を流し、食事、それも家庭料理を味わうことになった。家族そろって大歓迎である。将来は観光客を迎え入れるペンションを開業したいという夢のある計画を熱っぽく語ってくれた。

 

あれから随分年月がたったが、彼らはペンションをオープンさせているかもしれない。もし、世界遺産バハルプール観光に行かれた際には、遺跡前のお店兼ゲストハウス(ペンション)に声をかけてみていただきたい。

 

MR. MASUD RANA (マスーズ・ラナ) 

Paharpur, Badalgahhi, Naogaon, Bangladesh

 

バングラデシュでのホームステイでは、停電に対処してヘッドランプは必携である。

また蚊取線香があると安眠できる。シャワーは無いので、スイムパンツで井戸水を汲みかぶることになった。

 

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  世界遺産をガイドしてくれたマスーズ君      マスーズ君の勉強部屋に造られた簡易ベット      

 

ホームステイしたマスーズ君の家は、バハルプール遺跡の入口から100mほどに店を構えている。店ではミネラルウオーター・アイスクリームや軽食を提供している。彼の部屋は店の裏にあり、泊ることになって急遽、彼の部屋に寝床を作ってくれた。

マスーズ君は、地元の高校に通う15歳のサイエンスを学ぶ聡明な若者である。滞在中、付き添って世話をやいてくれた。

このホームステイで、バングラデシュの平均的な家庭の日常生活に触れることが出来る貴重な体験をすることが出来た。水道施設はなく、井戸(手動ポンプ)で料理・洗濯はもちろん洗顔・柄杓での体洗いをおこなう。トイレは、和式と同じだが、事後はムスレム方式でトイレットペーパーを使わず左手指で後始末を行う。トイレ横にある水桶の水で流して終わる。

家族構成は、50代の両親と長男家族4人と本人の7人で、バングラデシュの平均的家族構成という。

 

■10月16日   5日目  モアスタン仏教遺跡都市へ向かう

 

昨夜マスーズ君は、バハルプール博物館の館員を紹介してくれた。考古学の立場から仏像の発掘状況や、ユネスコ世界遺産に指定された背景などのレクチャーを受けた。

また、バングラデシュの世界における立ち位置や、将来展望について熱く語りってくれた。

 

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      マスーズ君の家の中庭              ホームステイ先の井戸で水浴び

 

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   粗末な紙で作られた教科書とノート            朝食の揚げパン と ゆで卵

 

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          出発にあたってマスーズ君(中央左)家族全員に見送られる

 

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 次の目的地モハンスタンに向かうバスに乗車       バハルプールのメインストリート

 

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    運搬用リキシャで通学する子供たち          よく見かけるサトウキビ畑

 

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                   バングラデシュの農家

 

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   MAHANSTHANへの途中で昼食をとる          揚げ餃子のような昼食

 

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       典型的なトイレ

 

 

世界遺産 モハンスタン仏教都市遺跡/MAHANSTHAN>

 世界遺産 モハンスタンは、4~6世紀のバーラ・セーナ朝の仏教都市遺跡である。

モハンスタンは、Pundoranagara(Old City)という昔の街であり、19世紀後半に発掘された。

このような地方の田舎に、都市計画にも似た整然とした仏教都市があったことに驚かされる。また遺跡と言えば、後者が前者の遺跡を破壊するか、その遺跡の上に新しい建物を建てるのが通常だが、ここモハンスタンではヒンズー教イスラム教・仏教がそれぞれを尊重し、前者の遺跡を遺していることに興味を持った。

遺跡は、田園都市として散在しているのでリキシャでゆっくり回ることをお勧めする。

この日は猛烈な暑さであったので、村の畦道をチビガイドさんに案内されのんびりと散策した。遺跡と遺跡の間は、村の人々の日常生活が営まれている。珍しい観光客であるわたしの周りにはいつも多くの村民が取り囲み、一緒に写真を撮るなかで交流を図った。

 

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世界遺産 モハンスタン仏教都市遺跡 と 砦の城壁跡>   少年ガイド・ムハンマド君の案内で回る

 

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 約10㎞平方の広さに40程の遺跡が点在している     遺跡では多くの人々に写真をせがまれた

 

世界遺産に多い自称ガイド>

この日の世界遺産モハンスタンは土曜日とあって、平日の静かさに比べ家族連れや、団体さんが多いようである。相変わらず外国人観光客は見当たらないから、この東洋顔は目立つらしい。

歩き出した時から中年男が、何かと聞き取れない英語で、説明しながら離れずについてくる。横道にそれてみても埒があがらない。世界どこを歩いても、同じく自薦ガイドの売り込みに余念がない。こちらも慣れているのだが、その都度に行われる激しい売り込みに閉口するものである。

自称ガイドの中年男のうしろに、パンツ一枚の愛くるしい少年が同じように付いてきているのに気づいた。

この少年ムハンマド君が、中年男に代わって、ここ世界遺産モハンスタンでの専属ガイドになってもらった。

彼は寡黙であるが、写真を撮ってくれたり、家に立寄って家族に紹介したりとよく世話をしてくれた。

 

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           モハンスタン仏教都市遺跡の間に広がる畑を耕す農民

 

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                 少年ガイド・ムハンマド君の家族と  

 

 

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          母と息子たち              写真に納まるお二人さん



<ボグラ散策>

モハンスタンから、ここボグラ/BOGURAまでは約10㎞と近い。この間の交通と言えば三輪オート・タクシー<デンプー>が頻繁に行き交い、狭い車内にすし詰にして目的地に向かうから、乗客も必死に車体にしがみついていた。

恐怖の10㎞には凸凹あり、カーブありと老人にはいささか荒っぽいコースだが、楽しいアドベンチャー・ライディングである。

いささか度の過ぎた荒っぽい運転で、ボグラに着いた時には、深い息をついたほど緊張の連続であった。

下車するときに支払った運賃は、たったの10TK、あまりの安さに倍額のチップを手渡したほどである。

 

この後、ボグラで1泊し、バスを乗り換えて、プティアの<ゴビンダ・ヒンズー寺院>に向かうことにしている。

 

バングラデシュのほとんどの都市がそうであるように、ボグラの街はリキシャの群れ、三輪バイク、オートバイに混じって自転車がひしめき合っている。まるで毎日がお祭り、縁日の人出のようである。

インドのバラナシや、パキスタンのラーワルピンディーの街角やオールド・ダッカの混雑と同じく、街路が人の波で埋め尽くされるている情景である。

 

この辺りの豊かなガンジス川の草原が、放牧に適していることから、酸味がなく甘味十分な<ドイ>というヨーグルトが有名である。また米作りに代わって最近はバナナやグアバといった果物栽培も多くみられ、街道沿いに出荷される果物が山積された風景が見られる。

 

また、時代によってヒンズー教や、仏教、イスラム教が入り混じったり、破壊したりと各宗教の栄枯盛衰を偲ばせる遺跡が多く残っている歴史的な街でもある。

 

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              ボグラのメインストリートの混雑

 

<▲ ボグラ/BOGURA の AKBORIA GRAND HOTELに投宿>

    エアコン付きのダブル・ルームの格安ホテル 750TK

 

アクボリア・グランド・ホテルは、ニューマーケット近くのポリス・ステーション(タナオフィス)横の細い道路を入った奥にある。シングルルームは満室であったので、体を休めるためにと、エアコン付きのダブルの部屋をとる。

 

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                 AKBORIA GRAND HOTEL領収証

 

<生水に注意>

水あたりであろうか下痢症状で、渋り腹である。どうも細菌性で急を要するということで、早めにホテルに飛び込んで、持参した正露丸を4錠流し込んだ。この先、更なる場合は、急性下痢止めにとってある<錠剤ストッパー>を服用するつもりである。

海外を旅すると必ずと言っていいほど細菌性下痢に悩まされるので、十分な対処をしていたはずだが、気のゆるみからか手と口を介して細菌が侵入したようである。

殺菌性ウエット・ティッシュ、アルコール・スプレーで手の消毒を心がけていたがガードが甘かったようである。

食事前の生水での手洗いは、逆に細菌をもらうことになるので、手を乾燥させてからと心がけていたが残念である。生水には細心の注意が必要である。

 

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               AKBORIA GRAND HOTELの正面 と フロント

 

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    AKBORIA GRAND HOTELの部屋

 

<夕方7時 街にコーランが流れる>

この雑踏の街ボグラ全体に対して、スピーカから全開のボリュームでコーランの読み上げが鳴り響く。

コーランアッラーが語った言葉であるといわれる。この神の言葉であるコーランには、神と人間の関係や人間社会における生き方の規範や奨励、崇拝行為の規定など様々なことが含まれていて、ムスリムの信仰の源泉となる神聖なものである。

ムスリム(女性・ムスリマ/イスラム教徒)は、唯一神アッラー>の教えに従って生きている人々のことをいい、信仰の告白、礼拝、喜捨、断食、聖地メッカへの巡礼からなる5つの基本行為を守る人たちである。

 

イスラムの人々は、コーランに生きているから心の平安があるのだ」と、バハルバール遺跡博物館長の語ってくれた言葉を思い出した。

 

バングラデシュの夜店>

下痢も出してしまえば、症状は軽くなるからいい。さっそく、ボグラの街を散策した。土曜日の夕方であるからか、夕涼みを兼ねたそぞろ歩きの人と、リキシャで溢れ返り、昼間の街よりもさらに大混雑である。

まず、スーパーに出かけ品数と種類や値段を見て回り、そのあと夜市に出かけお土産の民族衣裳一式(サロワ・カミューズという伝統服)を購入した。 伝統婦人服サロワ・カミューズは、上(カミューズ)、下(サロワ)とストール(オロナ)の3点で構成されている。

どこの国でも夜市での買い物は楽しいものである。買い手は、出来るだけ安くと値切り、売り手は高く吹っ掛けて、だんだんと値を下げて買い手を満足させるという阿吽の呼吸で売買が成立する。

しかし、大半の交渉は、買い手であるこちらの負けの場合が多い。でも、心地よくだまされた品々が楽しい思い出として我家の一等席を飾っているから実に愉快である。

 

また夜市は、野次馬が買い手側と、売り手側に分かれ、値段が下がるにつけて両者の応援団が声を張り上げて真剣さがヒートアップしていく。興奮は、売買が成立した時に一気に盛り上がり一芝居が終わるのである。

興奮冷めやらない観客である応援団に向かって手に入れたサロワ・カミューズ(民族衣装)を高くかざすと、大きな拍手に包まれた。バングラデシュの人々のぬくもりを感じる一瞬でもある。いまから60年前まで日本の各地の神社の境内の夜店にも同じ光景があったことを懐かしく想い出した。

 

結局、1000TKの売値に、こちらは半値の500TKでオファー、売り手は900TKと100TK単位で値を下げ、こちらも100TK単位で上げていく、あまり面白みのない最終値750TKで落ち着いたが、応援団はそれぞれの掛値を大声で振り上げ、楽しんだようである。

ちなみに、品質・縫製は分からないが、先に立寄って見ておいたスーパーでの値段は、3850TK程であったことを付け加えておきたい。

いま、日本では見ることのできない光景になってしまい、寂しい限りである。人のふれあいにこそ、平和な生活があるというものである。

 

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        バングラデシュの民族衣装<サロワ・カミューズ>    (シャプラニールの会提供)

 

 

■10月17日  6日目 プティア/PUTHIA ➡ ラジャヒ/RAJSHAHI

     <ゴビンダ/GOVINDA・ヒンズー寺院>

      曇一時にわか雨  気温35℃

 

<ボグラ/BOGURA> 路線バス 06:30am発 ➡  08:50am着<プティア/PHUTIA>乗継 10:05発 ➡

 ➡ 10:48着 <ラジャヒ/RAJSHAHI>  (バス運賃 80TK)

 

 

喧騒の街 ボグラを後にしてプティアへ向かって路線バスで出立した。

途中、子供たちに「ハーイ、ジャッキーチェン」とエールを送られる。どうも東洋人はみなジャキー・チエーンに見えるらしい。こちらもジャッキーチェンのポーズをとって応えるのだから変な老人である。

 

バングラデシュの10月の気候>

バングラデシュは、雨季( 4月~9月) と 乾季(10月~3月)に分かれる。 今回の旅は10月からの乾季に入ったようで、1~2回の短いとおり雨に見舞われたに過ぎない。1日の平均気温は26℃~32℃なのだが、湿度が60%ほどあり、蒸し暑さと不快を感じる。

日本の夏の暑さと違って、頭がガンガン、キリキリと干しあがるような感じである。汗は、吹き出すという表現が当てはまる。帽子と水が無ければ日射病にかかりそうである。暑いので、半ズボンになりたいが、イスラムの国では勇気がいる。汗で湿ったジーンズをはいたままの行動は気持ち悪いものである。

もちろん観光産業の未開拓といった理由もあるが、各遺跡では、暑さのため観光客が絶えるほどである。

 

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                  昼、乾季に入った街は土埃に咽ぶが、早朝は清々しい (ボグラ)

 

ボグラから路線バスに乗り、2時間少しでプティア/PUTHIA に着いた。

バングラデシュの旅では、人間の垢でまみれ、人間に汚された大地を歩くことになる。それほど人間が溢れているのである。ここプティアにあるゴビンダ・ヒンズー寺院でも、観光客とみれば多くの自称ガイドが客を獲得するために集まってくる。いや、言葉は悪いが群がると言った方が正確である。彼らにとっては家族を養うための正当な競争であるが、どこか貴重な労働エネルギーが空回りしているようでむなしさを感じる。

しかし彼らには他に就労の道はないのである。

この余剰労働力を、国の発展のために役立てる基幹産業を生み出す指導者が現れることを期待したい。

 

素晴らしい世界遺産を数多く持ちながら、外国からの観光客を迎え入れる方策を持ち合わせていないことは、貧困からの脱却という問題を難しくしているように思われる。まずは何度も繰り返すが、観光客を呼べるだけのインフラ整備に投資することであろう。道路・交通・電気水道・病院・ホテル等宿泊施設・乗り物・標識・レストランはもちろん、観光客を受け入れるためのソフト面の教育である衛生・通訳・ガイド・サービス・エンタテイメント・マナーなど計画し、実施すべきことは多岐に渡ると思われる。

観光だけでもこれだけの準備と投資が必要なのであるから、外国の投資を呼び入れる外交的努力も必要であろう。

もうそろそろ国の形を明確にする時期にバングラデッシュという若い国はあるような気がする。

 

観光客であるわたしでさえ、世界遺産の遺跡において外国からの観光客にほとんど出会っていない、いや一人もいなかったことに驚いているのである。

それはなぜかと問われたら、旅行会社がバングラデッシュでの一人旅を勧めないうえ、旅行会社が完璧なプランを立て観光客と現地人の接触を遮断し、バングラデッシュの日常生活を観光客に触れささないような観光方法をとっているところにあるのではないだろうか。

旅行会社が、事故や事件に巻き込まれることに神経質であるからだともいえる。

その一端を紹介したいが、バングラデッシュの未開を指摘しているようで心苦しい。わたしにとっては興味ある国であり、一日も早く世界中の人たちがこの国に関心を持ち、訪問してくれることを望んでいるからあえて指摘しておきたいのである。

われわれバックパッカーにとっては最高の冒険旅行を提供してくれているが、一般の観光客にとっては汚い・貧しい・危険というマイナスの印象を与えてしまっているといえる。

まずは、観光地本体の未整備はともかく、観光地へのアクセスをまず改善する必要があろう。

生活路線を走る中古バスでの乗り継ぎ移動をさせるのもそれはそれでいいのだが、大都市や空港・鉄道駅からの遺跡や観光地への直行バスの運行を一日も早く整備することだろう。

輝きと自信に満ちた、この国、バングラデシュを再訪する日が近年中に来ることを願っている。

 

 

<プティア/PUTHIA>

プティには、林や池に囲まれた<ゴビンダ寺院>はじめ大小のヒンズー寺院や古い王の館などが点在している。特に寺院を飾るテラコッタは見事なものである。

池に映る寺院の姿が美しく、落ちつきの中にありゆっくりと過ごせる遺跡であり村民の生活の場でもある。

昼食は屋台で、チャパティ2枚・肉まん・コーク(85TK)をいただく。

遺跡巡りの携帯食としてバナナ4・リンゴ3・オレンジ2・ミネラルウオーター2(計132TK)を購入した。

 

このあと、プティアにあるゴビンダ・ヒンズー寺院を見学した後、隣の街ラジシャイ/Rajshahiに移動し、  「HOTEL SKY」に投宿する予定である。

 

<シバ寺院>

プティアのバスターミナルより、リキシャで約10分のところにシバ寺院(1823年建立)がある。

ほかのヒンズー寺院遺跡のようなテラコッタによる装飾はなく、白を基調とした塗り壁になっている。ベランダから見る周りの池の風景がいい。

 

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                                          シバ寺院    (プティア)

 

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                                           アニク寺院方面から中央池に映るシバ寺院を望む

 

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               シバ寺院の西隣に建つ<ロッド寺院>         中央池西側に建つ<ラズバリの館>

 

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         ラズバリから広場をはさんで正面にドルモンチョと左にシバ寺院を望む

 

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                 スケッチ <優美なドルモンチョ>

 

<大ゴビンダ・ヒンズー寺院>

約150年前にプティア王(1823~1895)によって建てられたヒンズー寺院である。ゴビンダとは、ヒンズー教クリシュナ神の別名である。

壁面を精密なレリーフで施された5つの尖塔<パンチャ・ラトナ型屋根>を持ったヒンズー寺院として有名である。

テラコッタレリーフにはヒンズー神話や村民の生活が細密に描かれている。

 

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          テーマパークのシンボルのような<大ゴビンダ・ヒンズー寺院>

 

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  テラコッタで飾られた大ゴビンダ寺院の入口       大ゴビンダ寺院を側面から見る

 

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          細密彫刻でヒンズー神話が描かれた見事なテラコッタレリーフ

 

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スケッチ<大ゴビンダ寺院/Gobinda Temple> イメージ配色スケッチ<テラコッタ-大ゴビンダ寺院>

 

 

<アニク寺院と小ゴビンダ寺院>

大ゴビンダ寺院の奥(西側)にも小さな同じ名前の小さな寺院がある。

ゴビンダ寺院(大)から、中央池に出て左に池を回り込んでいくと、右にとんがり屋根の小ゴビンダ寺院、左に3個の丸屋根を持ったアニク寺院が見えてくる。

どちらもお伽話に出てくるような小さな建物だが、素敵なテラコッタで飾られ、愛らしいプロポーションに目を見張る。

独特な寺院の屋根には型名があるらしく、アニク寺院の中央の屋根を<エク・バングラ型>、両側の屋根を<チャール・チャラ型>といい、また小ゴビンダ寺院の屋根も<チャール・チャラ型>であると地元の老人が教えてくれた。

 

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      3個の丸屋根を持つアニク寺院(左) と とんがり帽屋根の小ゴビンダ寺院(右)

 

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                     プティアの遺跡配置図

 

<プティアの他のヒンズー遺跡 と 村民の生活>

プティアの遺跡は、1キロ平方ほどの小さなエリアにある。

この小さなエリアに、池や林に囲まれた大小のヒンズー寺院が立ち、多くの遺跡とともに村民が生活を営んでいる。

 

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                プティアの遺跡と混在する村民の生活

 

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                村民の生活に混在する遺跡

 

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  プティアの遺跡は6個の池が、中央池を囲み、   中央池の周りに各寺院遺跡が立ち並んでいる

 

プティアは、無数の小さい池が中央池を取り囲みその間に各ヒンズー寺院と遺跡、村民の家が点在する

 

心ゆくまで、ゆったりとした緑あふれるプティアを散策しながらヒンズーの世界に埋没したあと、路線バスで今夜の宿<HOTEL SKY>のあるラジシャイに向かった。

 

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       バスセンターがあるプティアの中心街をあとにしてラジシャイに向かう

 

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 プティアからの路線バスはラジシャイのバス・ターミナルに到着 / 定番夕食の揚げパン2枚と付けカレー

 

 

<▲ 「HOTEL SKY」   ラジシャイ/Rajshahi  投宿>  

               250TK (TV・トイレ。シャワー蚊帳付)

    Malopara, Raishahi, Side of Bhubon Mohan Park(プモンモホン公園側)

 

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      ホテル・スカイ入口                              低電圧なのか暗い、ホテル・スカイの蚊帳付部屋

 

日が暮れたあと、停電に見舞われたのでサウナ風呂化する部屋から逃げ出し、散策がてら街の様子を見に出かけた。停電になると、1~2時間は復旧しないことを知っている各店は、道路側に設置しているディーゼル・エンジン式発電機を一斉に動かし始めたから大変な騒音である。排気ガスで充満し、ついバンダナで口をふさいでしまったほどである。

そこへリキシャの流れが行き交い、散策どころではない。どの街角も同じに見え、目印としたものも見失い出したので、迷子になる前に散策を早々と切り上げた。

 

 

■ 10月18日 ラジシャイ/Rajshahi

 

クルナからの船旅前に、プティアから1時間強のところにマンゴ生産地として有名なノバブコンジの街に<チョト・ショナ・モスジット>があり、17世紀にシャハ・シュジャによって建てられた<トハカナ・パレス>を訪れておくことにした。

 

ラジシャイ/RAJSHAHI (路線バス) 07:28am ➡ チョト・ショナ・モシジット/Chot-Shona-Mosjit
80TK  約1時間45分

 

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                 ラジャヒのバスターミナルより路線バスで<チョト・ショナ・モシジット>に向かう

 

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                     路線バス <ラジャヒチョト・ショナ・モシジット行> (バスチケット 80TK)

 

 

<路線バスで出会ったDr.Kshuna/クシュナ―医師>

今日の行動食としてバナナとリンゴを買って、チョト・ショナ・モシジット行の路線バスに乗ると、隣の席のバングラデッシュの男性に声をかけられた。彼は、東京の医科大学に留学したあと、帰国して医者になったと自己紹介をした。

これから手術のためチョト・ショナ・モシジットに出張するところだという。

この国では定期的に外科医としての技能維持試験があるとのことで、揺れるバスの中でも勉強に余念がない。

まだ若い医者である。30半ばだろうか、これからのバングラデッシュを背負って立つ青年医師の眼差しと情熱を感じながら世界情勢を話しつつも、勉強に余念のない青年に見入ってしまった。

大志を抱き、一生を民衆に奉仕する青年の姿に出会い、この国の将来に明るい希望を見る思いであった。

 

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       バナナ・リンゴは、バックパッカーの空腹を満たし、栄養補給源である

 

<チョト・ショナ・モスジット / Chot-Shona-Mosjit>

 このモスクは、ムガール時代の平面な屋根に幾つものドームを持っている典型的なモスクである。現在は風雪に汚れ切っているが、美しいシンメトリーな白亜のモスクであったことが想像できる。インドのタージマハールのようなシンプルなシルエットではなく、装飾豊かな威厳を示すムガール建築独特な重厚さを残したモスクである。

小さな黄金のモスクというネーミングにふさわしく、可愛いこじんまりしたモスクに親しみを感じた。

緑に包まれた広大な遺跡に、観光客は見当たらず、地元の人が犬とのんびり散策を楽しんでいた。悠久の時が滔々と流れ、約500年前のベンガルの田舎に埋没したような時間を過ごした。

 

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               チョト・ショナ・モスジットの正面と側景
 

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               チョト・ショナ・モスジット付近の遺跡群

 

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  チョト・ショナ・モスジットの歴史解説版          モスジットをスケッチ中

 

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        スケッチ  <チョト・ショナ・モスジット> 2010/10/18 10:29am

 

チョト・ショナ・モスジットでも、ただ一人の観光客やバックパッカーに出会うことがなかったことはすでに述べた。チョト・ショナ・モスジットという観光地を訪問するために丸一日かかるというこの国の交通網の脆弱さの改善が望まれる。

それだけ観光化されていない自然のままの遺跡が、この国にはまだ残されているとも言える。

バックパッカーとしては未開の遺跡や、温和な国民性、未発達の交通網、宗教性の残っている生活などに触れられるエル・ド・ラド(桃源郷)と言っていいだろう。

 

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                遺跡で出会った村の少年たちと交流 

 

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              民族衣装を着飾った婦人たち (村の市場で)

 

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    ベンガル数字のナンバープレート        この日も慣れ親しんだ定番焼き飯

 

今日は、汚れていないこの国のそのままの自然に飛び込み、現地の子供たちと遊び、市場で人々の日常の買い物に接したり、地元の人たちが日常食べている焼き飯を食べ、イスラム式のトイレから庭を自由に飛び跳ねているニワトリを眺め、廃棄寸前のオートバイに載せてもらったりと楽しい時間を過ごせた。何よりの休暇であり、現地生活の体験であった。

 

<▲ 「HOTEL SKY」   ラジャヒ/Rajshahi  連泊>

 

ホテルに帰ってからは、川船旅の出航地であるルクナに向かう準備をした。

 

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     出発前のドアー防犯用鍵・各種充電器・ライト・痒み止めのリュックへの収納チェック

 

 

   ここラジャヒを出たあと、このバングラデシュの旅のハイライトである

     <ロケット・スチーマによる船旅>の乗船地・ルクナに向かう。

 

 

             《 悠久に 流るガンジス バングラに 匂いし土の 咲きし笑顔や 》

     ―ゆうきゅうに ながるガンジス ばんぐらに においしつちの さきしえがおやー

      

 

 

   2021星の巡礼『バグラデシュの旅 2010』Ⅱ

       <ラジャヒ ➡ ルクナ ➡ <ロケト・スチーマによる船旅> ➡ ダッガ>

                     につづく はてなブックマーク - 2021星の巡礼『バングラデシュの旅 2010』Ⅱ 

 shiganosato-goto.hatenablog.com

 

       

2021星の巡礼『バングラデシュの旅 2010』Ⅱ

2021星の巡礼『バグラデシュの旅 2010』 Ⅱ

<ラジャヒ ➡ ルクナ ➡ <ロケト・スチーマによる船旅> ➡ ダッガ>

 

 

■10月19日  8日目 ラジャヒ/RAJSHAHI➡クルナ/ KHULNA  路線バス移動 

         (途中、クシュティア/Kushtiaで乗継)

 

🚐バス情報  ラジャヒ➡(3.5H 90TK)➡クシュティア/Kushtia(乗継) ➡ ルクナ> 

 

ラジャヒからルクナ行きのバスは、バスターミナルではなく、リキシャで5~6分先にある<ローカル・バスターミナル>から出る。バスはオンボロなので、エンジンがかからないこともあった。乗客は、みなバスから降ろされて、男性客はバスを押してエンジンをかけるのである、楽しいバングラデッシュでの思い出となった。

 

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                                        ラジャヒ➡クシュティア行路線バスBRTC バスチケット

 

暑い日である。バスの中は無風、天井扇は沈黙を守り、汗は無数の筋をなして背中を流れ落ちる。ようやくランチのためのブレイクタイム、トイレ(5TK)に直行、チョロチョロ出る水をタオルに染ませ、体を拭いて生き還る。

ここは、クルナとの中間クシュティアという村、空腹を満たすためピロシキと揚げパン(35TK)を腹におさめる。

蒸し里芋が売られていた。バングラデッシュの人たちも里芋を食べていると思うだけで、親しみがわいた。カレーに入れて料理することもあるという。

 

この日<10月19日>の気温と湿度の表が新聞に出ていたので参考までにコピーしておいた。

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ここラジャヒRAJSHAHIの最高気温30.5℃/最低気温24.2℃・湿度81%とある。蒸し暑い日である。

 

この国では小銭が沢山いる。トイレをはじめ、物乞いやちょっとした喜捨銭(バクシン)、リキシャによく乗るからである。とにかく小銭が重宝される国である。

 

長距離バスは、とにかくブレイクタイム(休憩)が多い、なかでも野外でのトイレ・タイムは独特な儀式の観を呈する。パキスタンでも経験したが、男性がしゃがんで小用を足す姿が強烈に印象として残った。立ちションに慣れた輩には異様に感じるものである。イスラムの男性には、立ちションそのものが恥ずかしい行為なのであろうか、立ちション文化はない。もしどうしてもというときは、われわれもしゃがんで小用を足すことに、こころしなければならない。

ラジャヒからルクナへの長距離バスは約10時間もかかるので、途中1~2度はしゃがんでの小用を経験することになる。バングラデッシュを知るためにも、率先して経験されることをおすすめする。オンボロバスの座席のスプリングの悪さからの振動にまして、猛スピードで無謀な運転とくると小用を耐えるのは至難の業であるからである。

 

それにしても、なぜこのようなオンボロで、かかるも勇敢に無謀な運転ができるのであろうか。それも次々に前の車やリキシャや人々を縫って走り抜けるのである。こちらも緊張に疲れが出たのであろうか、ルクナに到着する前には1時間ほどうとうとと1時間ほど寝てしまったようである。

この長距離バス旅行にも、ちょっとしたハプニングがあった。休憩時、バングラデッシュの毛虫にかぶれ、肌が赤く膨れ上がり痒いこと、毒素が回りだしたのか痒みが体中に広がりだした。親切な乗客も髪の毛でこすったら治るとかいろいろ教えてくれるが、こちらには通じない。しかし言葉の障壁を越えて見知らない東洋人を助けようとするバングラデッシュの人々の善意を感じるものである。ルクナに到着する頃には痒みも落ちついた。

 

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         ラジャヒの早朝風景           各地方都市にある便利なATM

 

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 ラジャヒ・ローカルバスターミナルのチケット売り場    <ラジャヒ➡クルナ>路線バスBRTC

 

ローカル・バスターミナルには、各方面への路線バスが沢山並んでいるので、乗車バスを特定するには注意を要する。特に行き先の表示文字と数字番号はベンガル語での標記であり、迷うこと必定である。時には探しているうちにバスに乗り遅れることもままあるので注意したい。

できればメモ用紙に行き先名と出発時間や車番号<例・KHULNA・Bus#8 Departure

07:30am>を書いておき、周囲の人たちの協力を得ることをお勧めする。またできれば行き先のKHULNAのベンガル語を教えてもらっておくと更に助かることがある。

また、路線バスの途中でのトイレ休憩では、自分の乗車バスの特徴やプレートナンバーや運転手の顔を覚えておくとよい。時として同じバス会社の逆方向のバスの同じ席に座っていることもあるから要注意である。

更に、自分の席の前後左右の乗客と、親しくしておくことも重要である。もし乗り遅れて、バスが出発しても、彼らが運転手に知らせ、待ってくれることがあるからである。

わたしは、世界旅行で何度も、乗り遅れてほっておかれたことがある。ペルーからボリビアに入ったチチカカ湖手前の国境で、時差を忘れ戻ってきたらバスはすでに出発し、バス停にわたしのリュックが放り投げてあったこともある。この時も乗客の運転手への連絡で、荷物は置いていってくれたから助かったものである。ほかにも失敗は幾多とある。みな懐かしい体験としてわが人生に花を添えてくれているが・・・。

 

だからこそまたバックパッカーはツアーと違い、自己責任での完結であり、冒険であり、人生そのものであり、喜怒哀楽の物語でもある。

バックパッカーの人生は、風に吹かれ、人の慈愛に触れ、土の温みにいだかれ、神の愛に包まれた浮き草の世界を生きてきたようなものであると云える。

人生は、冒険であり、未知への挑戦であり、夢を追い、心躍る体験の連続であったと云える。

流れゆく白雲を見るだけで、その代わりゆく変化に、おのれを重ねて心躍らせるものである。

 

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                                                     生きる力みなぎる市場風景 

 

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     バイク・プレート<RAJSHAHI>      バス内でのランチ/揚げパンとオレンジジュース

 

ラジャヒからのバスは、ここクシュティアまでだということで、乗り換えてクルナまで行くことになる。

同じバス会社であり、同じ中古のバスであるが、多くの乗客もクルナ行だから、みなと同じ行動をとれば問題はない。

クルナでは、ロケット・スチーマ乗船にあたっての買い出しがしやすい街の中のホテルに落ち着いた。

 

 

<▲クルナ宿泊先―HOTEL PARK>   連泊計 1250TK

      K.D. GHOSH ROAD, KHULNA  Phone 20990, 25677  Room#15

 

屋台で夕食(35TK)として、オムレツ・付けカレー・ナン2枚で済ませたあと、バングラデシュで一番雑然とし、混とんとしたクルナの街を散策した。リクシャが無秩序に縦横に走り抜け、埃っぽく、汚物の匂いが漂うが、生きる力がみなぎった街である。暑さのなか、砂埃と汗にまみれた体で、ポッタ川(ガンジス川)の支流にある<ロケット・スチーマ―>の乗船場と、チケット売り場まで行ってみた。

 

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                           クルナのメインストリートにある<HOTEL PARK> 2階の中央の部屋に投宿

 

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    クルナでの投宿先<HOTEL PARK>                           <Hotel Park – Khulna> Receipt

 

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                                夕食(35TK)は屋台で、バナナと水(60TK)も購入

 

<ロケット・スチーマ―乗船にあたって>

バングラデシュは、ガンジス川の支流が網の目のように張り廻らされている川の国、デルタの国、ゼロ地帯である平野の国である。

その網の目の水路や運河は、バングラデシュの運輸を水上でしっかり支えている。

世界でただ一つの外輪船<ロケット・スチーマー>による船旅が出来るということで、さっそく乗船を決め、予約チケットを手に入れた。

1935年建造当時のロケット・スチーマ―は、蒸気による外輪駆動であったようだが、1990年代にディーゼルによる動力にとって代わられているという。

 

一等船室(エアコン付きの相部屋キャビン・食堂・展望デッキ・@1150TK)

二等船室(相部屋・天井扇・食堂・展望デッキ使用可能・@720TK)

三等船室は、デッキでの雑魚寝でプライバシ―がないのでお勧めはしない。

 

ロケット・スチーマ―運行会社BIWTCのオフィスで乗船説明を受けた。

➀チケットの予約は、市内の旅行会社で行い、乗船前に船着き場のオフィスで支払い、乗船券を受け取る。

②クルナ発ロケット・スチーマ―は、毎週月曜日と金曜日の二回出航予定である。

③今回乗船するロケット・スチーマ―は金曜日(土曜日早朝)出航の

 <オストリッチ号>である。

④金曜日午後10時ごろ着岸・乗船開始し、土曜日(10月23日)午前2時45分出航予定。

⑤ただし、エンジントラブルや、遅延等で運行を取りやめることもある。

➅船上での盗難・紛失等一切の責任を負わない。

⑦乗船の前日までに、桟橋オフィスでチケット購入の事。

⑧運賃は、1等キャビン@1190TK ・ 2等キャビン@720TKである。

⑨キャビン一室を借り切ることが出来る

 (1等@1190X2=2380TK・2等@720X2=1400TK)

⑩1・2等キャビンは、3等エリアと壁やドアーで隔離されている。

⑪食事は食堂でとることが出来る。

 

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                  クルナ・ラマラシャバ通りにあるBIWTCオフィス<ロケット・スチーマ―>乗船券売場

 

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    ロケット・スチーマ―運営会社BIWTCオフィス  と  壁にかかる初代ロケト・スチーマの油絵

      (左・オフィスにかかるバングラデシュ初代首相ラーマン氏の肖像画

 

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         ロケット・スチーマ―乗船場(クルナ・ポッダ支流バイラブ川河畔)

 

<われらの星を愛すること>

すべての人間がもつ根源的な感情である驕り・汚れ・醜さ・無智・破壊性を複雑にからめ合わせている光景が、ここクルナにはあるような気がする。この混とんとした環境の中に、おのれの根源を重ねる時、無常なる安心感を覚えるから不思議である。

こころの風景というか、懐かしい生前のよどみの中にいるような落ち着きを感じる。まるで泥の中に咲く蓮の花のような純粋な仏の慈しみあふれる笑みに包まれているような気持ちにさせられるのである。

 

人間は、すべてを支配し、知らずのうちに、生きる命題という御旗のもとに、あらゆる存在を喰いつくし、消滅させているという行為を、無意識のうちに遂行しているにことに気づいていないような気がする。いや気づいたとしても破壊をとめることが出来ないのが人間の性なのかもしれない。

人類がこの星を喰いつくす、いや破壊しつくすのにそれほど時間はかからないのかもしれない。

この星の美しさを、不毛の惑星に変え、貪欲な営みが尽きるのも時間の問題ではないだろうか。

 

いまこそ生きる者にとって、自然のすべてに愛を感じ、愛を惜しみなく注ぎ、愛を実行する時である。

 

 

■10月20日  9日目 クルナ滞在 <バゲルハット・ヒンズー寺院訪問>

 

朝8時半、クルナでの滞在先・パークホテルをでて、昨日散策したラマラシャバ通り/Ramarshapa Roadにある、ロケット・スチーマ―を運営するBIWTCの事務所に立寄り、予約チケットを購入した。

残念ながら一等船室はすでに満室であり、二等船室となった。

体を休めるために、一室分(2名x@720=1440TK)を支払って個室として使用することにした。

 

クルナより乗船し、ダッカまでの約26時間・総航行距離約500㎞におよぶ船旅である。

 

街角の屋台での定番朝食<ナンと付けカレーと7up/45TK>を済ませ、乗船待ち時間を使って<バゲルハット・ヒンズー寺院>に出かけた。

 

今朝は、ゆっくりと体を休めるためにバックパッカーにしては破格の部屋代を奮発したが、南京虫やダニに襲われ体中が痒みに音を上げている。これもまた未開の冒険旅行の代償と思えば、立派な勲章に見えるのである。

 

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                 南京虫やダニからもらった勲章痕

 

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            ランニングシャツの良く似合う揚げパンを焼く男性            

 

 

 

<バゲルハット/Bagerhatのヒンズー寺院群・

  世界遺産 シャイト・ゴンブス・モスジット>

 

ロケット・スチーマ―に乗船する前に、クルナの南にある世界遺産・バゲルハット・ヒンズー寺院群を訪問することにした。

 

クルナ北西にあるバスターミナルより、バスで30㎞先にあるバス停<シャイト・ゴンブス>で下車(1H/35TK)し、リキシャ(100TK)で20分ほど走り、世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット/Shait Gonbs Mosjit> を訪問した。

帰りは、バスでプルシャ・バスターミナルに向かい、ここからプルシャ川を渡し船でわたり、クルナに戻った。

 

<Khulna ➡(🚐 1H/35TK)➡ Bogerhat  ➡(リクシャ 0.3H/100TK) ➡ Shait Gonbs Mosjit>

(往路)クルナ北西バスターミナル    ➡ バゲルハット  ➡  世界遺産シャイト・ゴンブス・モスジット

(復路)世界遺産シャイト・ゴンブス・モスジット➡バゲルハット➡プルシャ・バスターミナル➡

               渡し船(プルシャ川)➡クルナ

 

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バゲルハット/Bagerhatのヒンズー寺院群の一つである世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット>は、1459年建立、聖者ガン・ジャハンという王が造営したヒンズー寺院である。遺跡ではなく、現在でも村人の信仰の対象となり、人々の祈る姿が見られる生きた世界遺産である。

ムガール朝以前のモスジット(ヒンズー寺院)としては、バングラデシュ最大のものであり、幅48m・奥行32.5m・高さ9m、四角形の建物に12mのミナレット(尖塔)が建ち、60個のドームを持つ。

 

モスジットの庭で、バングラデシュの高校生男女6人と知り合い、憧れの日本について教えてくれといろいろと質問を受けた。そして、彼らはパキスタンから分離独立して間もない若いバングラデシュの置かれた不安と将来の夢とを聞かせてくれた。

バングラデシュの独立には、過去の歴史を精算せずには語れない多くの苦難の道があったことを語ってくれた。

この狭い国土に約1億5千万の人口をかかえ、世界一の人口密度で、大河ガンジス川の豊饒な三角州にその9割近くのヒンズー教徒がひしめく若い国である。

この多くの人口を生かすため、世界の生産基地としての夢を秘め、日本ほかの企業誘致が待たれる国でもある。

その若き国を支え、将来を嘱望される高校生の質問は真剣であった。

先程出会った池に浮かぶ蓮の花芽のように、明日のバングラデシュを背負って立つ熱き想いをひとり一人が夢をもって語ってくれたものである。

 

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            世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット>の入口

 

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       世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット>  庭園に囲まれたモスジット

 

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         世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット>のチケット(100TK)

 

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            世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット>の尖塔

 

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          世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット>寺院の回廊

 

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         世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット>のスケッチ (バゲルハット)

 

世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット>は、モスジットのレンガと緑の芝生がよく映える空間である。モスジットは平屋で、四隅の尖塔と屋上に丸いドームが幾何学的に並び、修道院的雰囲気を醸し出している。

現役のモスジットとして、信者が訪れ、厳粛な礼拝が行われていた。

回廊より裏庭に出たら、大きな四角池があり、蓮の葉に混じって新しい芽が首を出していた。

帰りにモスジットのトイレを借りたが、やはりここでも立って小用を足す習慣はなさそうで、みなかがんで用を足しているのでこちらも郷に従った。食事の右手の指使用と同じく、ムスリムの習慣に少しは慣れてきたようである。

 

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        世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット>で出会った高校生と

 

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           世界遺産<シャイト・ゴンブス・モスジット>の蓮池

 

 

<プルシャ川渡船の風景>

クルナへの復路は、プルシャ川側にあるバスターミナルに向かい、渡し船でクルナに戻ることにした。

 

(復路)世界遺産シャイト・ゴンブス・モスジット➡バゲルハット➡プルシャ・バスターミナル➡

    渡し船(プルシャ川)➡クルナ

 

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                プルシャ川対岸の渡し場 と 渡し船

 

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          危険な立ち乗りの渡し船 (ガンジス川支流プルシャ川)

 

 

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             プルシャ川を渡りクルナ側に戻ってきた 

 

 

 

■10月21日 10日目 ロケット・スティーマ―乗船待ち(クルナ・晴・35℃)

 

<クルナ 朝の散策>

クルナの朝も暑い。

日中や夕方の雑踏はどこに消え失せたかというほどにクルナの朝は、新鮮な静かな朝を迎えている。道路の清掃に励むご婦人たち、走り回るニワトリ、土埃の中を客待ちのリキシャがゆっくりと曳かれていく。学校に向かう制服姿の女子学生たち、世界のどの街角でも出会う風景に、ここがバングラデシュであることを忘れてしまいそうである。

尖塔で風にはためく国旗が飾られているのは役所であろうか、日本の国旗と構図が似ており親近感を覚える。

大草原のなかに今まさに真赤な太陽が上がらんとする国旗に、この国の物語が詰まっているように見える。

赤い円は昇りゆく太陽を表し、独立のために流された血と自由の新しい太陽の象徴を表しているという。

地の緑色は、若者の意気とイスラムの教えとガンジス川の三角州という豊かな大地を示している。

 

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               役所や街角で見られるバングラデシュ国旗

 

 

<川の国バングラデシュのバイラブ川/Vairab Riverの情景-クルナ>

クルナの街を抜けるとガンジス川支流であるバイラブ川に出る。

バングラデシュでは、川が水運の一大拠点であり、ここにも港を中心に多くの問屋の建物が立ち並び、白砂・レンガ・鉄鋼・果物・サトウキビなどを取り扱っている。

さらに港には、交通の要所でもあり大型フェリーや、商船、タンカーが往来するかたわら、小さな渡し船には多くの通勤客や学生たちが立ち乗りの姿で、対岸に向かっている。

立ち乗りの渡し船が、転覆したらはたしてどのような悲惨な結果になるのだろうかと心配しながら、行き交う小舟を眺めた。

 

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        物資運搬・通勤・通学用フェリー と バイラブ川の渡し船ガンジス川支流)

 

川の流れは結構速く、大型船も渡し船も一度下流に流されてから船首を戻し、行き先に向かっている。

この川もガンジス河の支流であるが、粘土質でヘドロのようなセメント状の川岸が続く。川面には浮き草が漂いながら勢いよく流れている。

 

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             物流としてのサトウキビ と 川沿いに立ち並ぶ問屋倉庫

 

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               バイラブ川岸で洗いものをする老人

 

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          生活の場であるバイラブ川で食器を洗うご婦人とカラスたち

 

ヤシの木陰が意外と涼しい。やはり南国である。

ミルクティーの匂いに誘われ屋台に立寄り、3TKの紅茶を口にしながら港の人の流れに見入った。

 

<読書三昧>

今日は、体を休めるための休養日である。

パーク・ホテルに戻り、定番の朝食であるナンと付けカレーをいただいたあと、休養日の読書に耽った。

なんとこの部屋には宿泊者が残していった本を並べた小さな本棚があり、そのなかに2冊の日本語の小説を見つけた。なんとこの南京虫の出る部屋には、以前日本人が泊っていたのである。

それも日本の安全保障に関する憲法9条の問題点と、人類はどこからきてどこへ向かおうとしているかという根源的問題提起の本であるから、読み手も真剣にならざるを得ない。

体を休めながらと言いながら、二冊の本を読み終えた時には、足腰が立たないほどであった。

 

 ◎麻生 幾著「宣戦布告」上下巻 講談社

日本の安全保障体制の実態を鋭く描いた名著である。ストーリーは福井県敦賀にある原子力発電所付近の海岸に北朝鮮の小型潜水艦が乗り上げ、特殊部隊が上陸し、付近の山林に潜んでいるところから始まる。

憲法第9条の呪縛と自衛隊を巡る神学論争の虜となっている政府は自衛隊の出動に及び腰のまま。予想通り機動隊は北朝鮮人により皆殺しにされる。自衛隊指揮官は敵を撃つにもいちいち永田町の首相官邸に使用許可を仰がねばいけないのだ。日本の安全保障体制の一体何が問題なのかを提起する小説である。

 

 中江克己著 「神々の足跡」 PHP文庫

人類はどこからきて、どこへ行こうとしているのか。

 超古代文明の謎とロマンを語っている本であるが、次の二つの意見に集約されるとしている。

宇宙人が超高速宇宙船に乗って地球を訪れ、高度な文明を伝えたとする説と、過去の地殻大変動により人類の歴史が大きく変わったとする説である。

この遠き地で、日本防衛という根源的問題と、人類の起源・歴史についての書物を読むとは思いもよらないことであった。まず日本の文字・漢字に接したという驚きと安堵に包まれた。

 

読後、あらためて英国植民地時代の遺産を引き継いでいる古いホテルの部屋をゆっくり観察したり、この国の紙幣を取りだして眺めてみた。ここがインドとミヤンマー(旧ビルマ)に挟まれたバングラデシュの地であることを認識させられたものである。

天井扇のスイッチ以外、インド・ビルマ(ミヤンマー)・パキスタンでも見られた英国植民地時代の古いスイッチがそのまま使われており、昔懐かしいノスタルジーにひたった。

バングラデシュもまた、歴史に翻弄されて今があることを思い、国の成立ちや民衆の苦悩を想い描いてみた。

 

バングラデシュのお金は、紙幣と硬貨があるが、手元にある紙幣の種類を紹介しておくことにする。

写真の左上から、1000TK・500TK・100TK, 右上から、10TK・5TK・2TK各紙幣とつづく。

 

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         英国植民地時代の古いスイッチ類(丸黒)                  これでも安全でない格安ホテルの二重錠前 

 

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                                                  バングラデシュの紙幣(1000~2TK)

 

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船中携帯食購入(バナナ・オニオンリング・ゆで卵)  今夜の夕食(カレーライス・煮豆サラダ・7up)

 

 

 

■10月22日  11日目 クルーズ<クルナ➡ダッカ>乗船待機  

 

<ロケット・スチーマー 《オストリッチ号 PS/OSTRICH》 乗船 - クルナ>

川の国バングラデッシュの象徴的な遺産が、風雨に耐え老朽化した<ロケット・スチーマー>であると云える。約26時間に渡る約500kmの外輪船での船旅。ロマンあふれる静かな時間にひたり、過ぎゆく大地を眺め、太陽と月が支配するこの地球に生きている喜びにひたって見てることにした。

川の船旅は、川に生きる人々の生活の場を垣間見ることになる。水上交通で結ばれた村々の間には、荷物である穀物や家畜の水上運搬はもちろん、小荷物や郵便物など生活に欠かせないものを運んでいる。また河畔は洗濯の場であり、漁の場であり、子供達の遊び場である。

見ているだけで楽しい船旅になること間違しである。

いままでも、アマゾン川ナイル川揚子江ガンジス川ミシシッピ河や淀川、ユーコン川など多くの川で、船旅を楽しんできた。そのほとんどの川旅が、生活水路を往来する川船であったり、テントを積んでのカヌーやカヤックの旅であった。

今日は昼から大雨が降り、ホテルから船着き場に至る道は、車のホコリも露天商の呼びかけも、リクシャの転鈴もなく静かである。

 

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                  雨降りあとのクルナの静かな露天街

 

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      ガンジス川支流バイラブ川も大河であり、中型の貨物船や観光船が行き来している

 

19:00pm ロケット・スチーマ―乗船手続きが始まる。出航は、深夜10月23日午前2時45分である。

今夜は満月、ロマンティックな出航となりそうだ。すでに、満月は川面に映り、乗船客一人一人に笑いかけている。

今夜の船便は、運航している数隻のロケットスチーマ―の内の一隻で《オストリッチ号 PS/OSTRICHという。

 

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              ロケット・スティーマ―乗船券表紙

 

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ロケット・スティーマ―・チケット KHULNA➡DHAKA 2等船室(2名)1室貸切 @720x2=1440TK)

 

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         スケッチ <ロケット・スチーマー:オストリッチ号 PS/OSTRICH

 

この旅では、クルナ発、ダッガ着のロケット・スチーマーの逆コース航路(寄港地ルート)を紹介しておく。

通常の観光コースは、ダッカで乗船し、クルナへの約26時間の船旅となる。

また、通常の航路はベンガル湾経由とのことだが、この便はベンガル湾を経由せず、内陸部水路(川)を経由し、ダッカの発着所であるジョドル・ガットに向かう。

乗船券購入時、航路(ルート)を確認することをおすすめする。

 

➀クルナ/Khulna              10/23深夜  02:45出航 ➡

②モングラ/Mongla                  04:45寄港 ➡ 

③モレルガンズ/Morrelganz               08:20寄港 ➡

④チャークハリ/Charkhali ➡

⑤ ジャロカティ/Jhalakati                     16:48寄港 ➡

➅ ボリシャリ/Barisal                                          10/24深夜 02:40寄港 ➡

⑦チャントプール/Chandpur ➡

⑧ダッガ/Dhaka                              10/24 早朝 05:00到着

ダッカ市内、オールドダッカ南のブリゴンガ川にあるジョドル・ガットへ到着する)

 

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  ロケット・スチーマ―航路図  オストリッチ号 PS/OSTRICH土曜便・KHULNA➡DHAKA)

 

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                         ノスタルジーを誘う外輪船ロケット・スチーマーの勇姿(LINEトラベルJP提供)

 

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                      ロケット・スチーマーの船尾                               ロケット・スチーマーの外輪

 

 

■10月23日  12日目 <ロケット・スチーム:オストリッチ号の船旅>

 

アメリカのミシシッピー川で乗船した蒸気外輪船を思い出させるような歴史の風化をまとったロケット・スチーマ―<オストリッチ号>は、今夜満月の晩にここクルナを後にして、ダッカのショドル・ガッドに向かって出航する。

歴史を刻み、風格を漂わせた老朽外輪船。哀愁と共に歴史のロマンを咲かせた蒸気船である。

現在の動力は、蒸気タービンよりディーゼル・エンジンに変わっているが、その外輪の重たい回転から伝わってくる振動が、キャビンにも心地よく伝わってくる。

 

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                                                                満月を愛でながら出航を待つ 

 

満月の夜、外輪の川面をかく心地よいリズムが大気を揺さぶり、ノスタルジーを十分に満たしてくれる。

英国植民地時代に、英国の紳士淑女がくつろいだであろう船室を紹介しておこう。

 

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               ロケットスティーム・オストリッチ号二等船室のキャビン と トイレ

 

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               2等船客は食堂で食事をとる            今回の旅の携行品のすべて

 

バングラデシュ16日間の旅 携行品>

ペンライト・笛・ティッシュペーパー・ハンカチ・ウエットティッシュ・痒み止め(ムヒ)・細菌性下痢止め(ストッパー)・蚊取線香(マッチ)・虫よけネット・バッテリー用プラグ・洗面用具一式・持病薬/栄養剤・デジカメ(予備SDカード/バッテリー/充電器)・時計・鍵(チエーン含)・補修用具(銅線/ガムテープ/裁縫)・カップ・扇子・箸・サングラス・パスポート(コピー・写真各2枚含)・国際旅行保険・健康保険証・運転免許証(国際)・往復航空券・現金($&¥)VISA CARD・国際cash card・筆記用具・使い捨てレインコート・サブザック・封筒型シーツ・緊急食(チョコバー/リンゴ/煮卵)・見せ金(緊急用50$紙幣)・貴重品入(3か所分散用財布/胴巻/首巾着)・GPS付き携帯・ミネラルウオーター・情報ノート・地図・磁石・縫付緊急連絡先(ザック・ポーチ・ズボン)・現地領事館&邦人関係病院の連絡先

 

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                   オストリッチ号の操舵室

 

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                   三等船室(大部屋)の風景

 

三等船室は、大きく開かれた外壁から直接外気が吹き込む甲板であり、持参したムシロや、敷布を引いて地下寝・雑魚寝である。思い出したが、アマゾン川ベレンからマナオスへの約1週間の三等船室の船旅では、ハンモックに潜り込んだものである。

 

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               オストリッチ号のエンジンルーム  

 

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   三等には食堂はなく、にわか売店が出来る          現地の乗客と交流

 

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              水上生活者たちの川舟 二景

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             ガンジス川に昇る悠久の太陽

 

       <詩 ああわれいま ガンジスにおりて>

 

         川面染まりゆきて 時ゆるやかに流れ

         浮き草漂いて わが人生の伴侶のごとし

         ああわれこの星にありて われを忘るる

 

        綿雲動かずにして 川下りしわれを追い

        われまた流れゆくわれを追いて 沈思す

        ああわれいま ガンジスにおりて幸せ也

 

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               ガンジス川支流の静寂を楽しむ

 

オーストリッチ号は、ガンジス川支流バイブラ川のクルナ港を金曜の夜出航(02:45発)後、南西に向かって航行、川を下って次の寄港地モングラ(04:45着予定)に向かっている。

間もなく東、ダッカ方面から暗闇が切り裂かれ、夜が明けてくる。川面がパッとかわり、化粧したように紅色に染まりだした。

静寂の一瞬をデッキに出て、船旅の旅情に溶け込み、人生の今を楽しんだ。

水上生活の川舟が、静かに朝餉の準備を始めたようだ。

 

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                水上生活者の川舟

 

両岸の堤にはサトウキビを運ぶ荷車がのんびりと走り、その後に山羊の一家が続いている。

堤を挟んで無数の養殖池がつづき、オニテナガエビが養殖され、バングラデシュの食糧事情の改善に寄与しているという。

 

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                ガンジス川支流―のどかな堤の風景二点

 

ポッダ川(ガンジス川支流)を船で下っていると、アマゾンやスエズ、ナイルや揚子江と同じく、広々した川幅の両岸に平原がひらけ緑の草を食む牛達がいる風景がよく似合っており、人間の生活の営みを感じる川である。

 

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        ガンジス川の堤に草を食む水牛たち と 川沿いに広がる養殖池

 

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            ガンジス川支流バイラブ川/VAIRAB RIVERで漁をする川舟

 

船上のランチというだけで、心豊かな食事である。流れゆく混沌の時代から逃れて、文明発祥のガンジス川に迷い込んでいるだけでも贅沢であるのだから、幸せを感じずにはおられない。

 

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  バイラブ川を裂き、モングラを目指すロケット・スチーマ―<オストリッチ号> (右・外輪)

 

 

<ロケット・スチーマ―/オストリッチ号の寄港地風景>

オストリッチ号は、ルクナを出航したあと、モングラ・モラルガンズ・チャクルリ・ジャロカティー・ボリシャル・チャンントプールに寄港し、ダッガの近郊オールドダッガにあるジョドル・ガット(港)に到着する。

しばらく寄港風景を追いたい。




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        最初の寄港地モングラの埠頭 と 乗降船する客たち

 

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              < バイラブ川早朝風景スケッチ> モングラ村  

 

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             船に掲げられたバングラデシュの全国地図

 

地図でもわかるようにバングラデシュは、ガンジス川とその支流による三角州にできた国であることが分かる。

拡大して、ロケット・スチーマの航路を見ておきたい。

拡大図(下)中央やや左に、出航地クルナ/KHULNAがあり、寄港地★印を経て拡大図上中央右のダッカ/DHAKAに向かっている。

 

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             ロケット・スチーマの航路図(拡大図) ★寄港地(便によって異なる)

 

寄港地 <モレルガンズ/MORELL GANZ>10月23日 08:20am 食堂で朝食をとる。

メニューは、トースト2枚・ポテトフライ・フィッシュフライ・オムレツ・水

          

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                   二等船室の食堂で朝食

 

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                  寄港地 <モレルガンズ/MORELL GANZ>        10月23日 08:20am                     

 

 

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                                                 寄港地<チャクハリ/CHARKHALI>    11:30am     

 

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                                           寄港地<ジャロカティー/JHALAKATI>  16:48pm

ゆったりと流れ去るガンジスの時の流れを楽しみながら、昼食をとった。指定された食堂にはすでに料理が並んでいた。メニューは、チキンスープ・チキンカレー・レモン付きライス・野菜の煮物・ミルクティーで、勘定は125TK(162円)であり、リーズナブルである。

 

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                                                           ロケット・スチーマのランチ

 

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             ガンジス川の支流バイラブ川に沈む夕日

 

 

 

■10月24日  13日目 ダッカ

 

Rocket Stream “OSTRICH”号は、バイラブ川を静かに下り、日付が変って10月24日早朝4時45分モングラに寄港、5時20分に出港し、ダッカに向かう。外の暗闇は、静寂を破り時間と共に明るさが増していく。白鷺の飛翔する姿を彩る朝日が、バングラデッシュのデルタを優しく包み込んでいく。

船内も生活の匂いと喧騒が戻ってきた。

二等船客の朝食(150TK)は、揚げた川魚に煮ジャガイモ、オムレツ、パン、ジャムにミルクティーと英国風のブレックファーストである。この船は、英国植民地時代から就航している船で、統治者であった英国人が使用していたであろう個室は、その歴史を刻んでいるように塗装が剥げ、古い壁掛けの時計が時を刻むのを忘れて鎮座している。古い天井扇は時代を回顧するように、きしみながら首を回している。

まるで、70年前の英国商人になった気分で朝食を終え、英字新聞theinderに目を通した。

三等の大部屋は、鉄板むき出しの床にそれぞれの敷物を敷き、家族肩を寄せ合って坐っている。植民地時代の身分制、被支配者との格差を見せつけられているようである。

そこでは、持ち込まれたカレーにナンを付けて朝食がとられている。

わたしはいまバングラデッシュ独立前の英国植民地時代の古い外輪船に乗り、歴史の中にいる錯覚にとらわれた。

 

当初の航路予定であれば、川を下って一度ベンガル港に出て、本流をさかのぼってダッカに向かうはずが、今回はベンガル湾に出ず、内陸部の支流をショートカットするという。楽しみにしていたベンガル湾はまたの機会に回すこととなった。

 

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    船室に配られたモーニング・ニュース<theinder>                 静寂の朝 すれ違う客船

 

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        水上交通路であるガンジス川(ポッタ川)を遡上し、ダッカに向かう貨物船

 

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     ダッカ到着・下船を待つ乗客        ロケット・スチーマで友達なった子供達

 

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             ダッガ郊外ショナルガオのモスクを通過

 

ダッカ郊外にあるジョドル・ガッドーショナルガオ/SONARGAONの風景>

朝4時頃より、乗船客は下船の準備を始めたのであろうか、階下の3等船室の方が急に騒々しくなってきた。

サンデッキに出てみると、川はもちろん街一面が朝日を浴びてピンク色に輝き、燃え立っている。港には多くの大型船が停泊し、海と見まがうような光景である。

またガンジス川(ポッタ川)の支流ブリゴンガ川には、職場や学校に急ぐ人たちを乗せた渡し船が行き交い、スイカや野菜を乗せた小舟が走り回り、まるでアメンボー(水すまし)のように見える、

 

ロケット・スチーマの発着港であるショナルガオは、17世紀初頭ダッガに首都が移転するまで、インド大陸の東の貿易都市として繁栄した。ジョムナ川とメグナ川、ポッダ(ガンジス)川の合流する地点にあり、水運の活発な港である。

 

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      ガンジス川支流ブリゴンガ川にあるショナルガオ(オールドガッカ)の朝風景

 

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           大型貨物船に混じって仕事に向かうブリゴンガ川の小舟たち

 

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                  ブリゴンガ川の渡し船も忙しい

 

<船旅おえたロケット・スチーマ・オストリッチ号はオールド・ダッカに帰港>

クルナを出航し、われわれを乗せたロケット・スチーマ<オストリッチ号>は、約26時間をかけて総距離 約500㎞の船旅を終え、ここブリゴンガ川に面したオールド・ダッガのジョドル・ガッドーショナルガオ/SONARGAONに早朝5時帰港した。

 

ここオールド・ダッガにあるジョドル・ガッド(港)ーショナルガオ/SONARGAONより北西方面にあるダッカ中心街へは25㎞程である。

ここからダッカ行きのバスは、1時間に2~3便ある<ショナガオ・エクスプレス>で45分程である。

 

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    下船客と出迎えの人達で大混雑のジョドル・ガッドーショナルガオ/SONARGAONの埠頭

 

 

<ジョドル・ガッドーショナルガオ/SONARGAON散策> オールドダッカ

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  ジョドル・ガッド入口に待機する三輪リキシャ    オールドダッガ・SONARGAONの街並み

 

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                 英国植民地時代の郵便ポスト

 

▲10/24~25  宿泊先<Imperial Hotel International> room #705

33-34 Bangabandhu Avenue, Dhaka 1000

宿泊代       @800TK X 2=1600TK

設備     AC/TV/SHAWER/TOILET

デポジット  500TK

エアコン・TV・温水シャワールーム付き

 

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                 <Imperial Hotel International>

 

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         オールド・ダッガから眺めたベンガル湾へ沈みゆく夕陽



 

■10月24~25日  ぶらりぶらり ダッガ散策

f:id:shiganosato-goto:20210415210127j:plain ダッカ中心街

f:id:shiganosato-goto:20210415210236j:plain ダッカ朝の風景

f:id:shiganosato-goto:20210415210337j:plain ダッカ露店市

f:id:shiganosato-goto:20210415210453j:plain ダッカ・リキシャ修理風景

f:id:shiganosato-goto:20210415210550j:plain ダッカ・救急車

f:id:shiganosato-goto:20210415210635j:plain ダッカ・軽食屋台

f:id:shiganosato-goto:20210415210718j:plain ダッカ・ガソリンスタンド

f:id:shiganosato-goto:20210415210806j:plain ダッカ・路上魚売り

 

 

              <ダッカ散策マップ>

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                ダッカ散策ルート図

 

 

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     ダッカ・路上親子シャワー             芸術性豊かなリキシャ

f:id:shiganosato-goto:20210415210952j:plain ダッカ・肉屋

f:id:shiganosato-goto:20210415205956j:plain ダッカ・映画館

f:id:shiganosato-goto:20210415211153j:plain ダッカ・バスターミナル

f:id:shiganosato-goto:20210415211250j:plain ダッカ・リキシャ・スタンド

 

 

■10月26 日  15日目 ダッカ国際空港より帰国の途に就く

いよいよこの混沌の国バングラデシュを離れる日である。

朝、喧騒の街はまだ眠りの中にある。ホテルの南にあるダッガ・グリスタン・バス・ターミナルには、すでに多くの人々で溢れかえっていた。空港までのチケットを20TKで購入し、乗客となる。

 

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                               ダッカ➡空港行バスチケット (20TK)

f:id:shiganosato-goto:20210415211501j:plain ダッカ・空港行バスターミナル

f:id:shiganosato-goto:20210415211609j:plain 空港行バスと並行する回送列車

 

f:id:shiganosato-goto:20210415211708j:plain           ダッカ国際空港/HAZRAT SHAHJALAL INTERNATIONAL AIRPORT ADHAKA 

15日ぶりにダッカ国際空港に戻ってきた。

ダッカ国際空港よりの出国を待つ。

 

f:id:shiganosato-goto:20210415211754j:plain バンコック経由関空行タイ航空

 

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                                                        帰国便のタイ航空より台湾上空で拝した朝日

 

しばしの間、この国の事を想った。

仏教の一大中心として栄えたここベンガルの地は、チベット仏教やミヤンマーのバガンの寺院、インドネシア・ジャワ島の寺院などに多大の影響を与えたという。

また、今回の旅で回ったバングラデシュの仏教遺跡は、パキスタンガンダーラに劣らない規模だともいわれる。しかし、仏教遺跡が世界遺産であることを多くのバングラデシュの人々にはあまり知られていないように思われた。 仏教遺跡がイスラムの地にあることに驚きを隠せないが、遺跡は現地の人々の生活の場でもあるのである。

特にここバングラデシュイスラム人口が90%以上であることを想えば、自分たちの生活の場が、世界遺産として存在することにかえって驚いているのではないだろうか。

 

バングラデシュの各地を足早に巡ったが、まだまだ未開の、未知の国である。この国が観光客に対し解放される日は今少しかかりそうだとの印象を持った。

一方、今だからこそバングラデッシュは、バックパッカーの新天地であり、様々な提言により、この国の観光資源を開拓する使命があるといえる。

あとにつづくバックパッカー旅行記を楽しみにしたい。

 

 

             《 悠久に 流るガンジス バングラに 匂いし土の 咲きし笑顔や 》

     ―ゆうきゅうに ながるガンジス ばんぐらに においしつちの さきしえがおやー

 

 

            2021星の巡礼『バグラデシュの旅 2010』

 

                          

 

shiganosato-goto.hatenablog.com

 

 

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■参考資料

 

バックパッカーとして旅する場合の研究―バングラデシュ

<不慮の事故(拉致・人身・盗難・病気)に備えること>

  ・パスポート紛失盗難:複数パスポート用写真・コピーを分散所持

  ・緊急連絡先のメモ・在日本大使館の住所・TEL

  ・海外旅行保険会社の連絡先の確認・現地医療センターの利用の仕方

  ・旅行代理店の現地連絡先の確認(エアーチケット購入の場合)

  ・健康保険証と持病薬の持参(薬名・効能の英訳)

  ・貴重品の分散収納:3分割(例:首掛け・腹巻方式・着衣ポケット)

<現地通貨・日本円・US$・クレジットカード・トラベルチェック・国際免許証等>

  ・見せ金・ワイロ(約20US―紙幣)の準備(強盗・役人・国境越え等の対策)

    ・盗難・強奪・置引き・スリ等にあった時は、必ず現地警察に被害届を出し、

   被害証明書をもらっておく事

  ・緊急用食料(チョコレート・飴・ビスケット・乾燥バナナ等インスタント品)

   や 水の携行

  ・救急用品(下痢止め・下剤・塩・止血剤ほか)

  ・修理用具(銅線・ガムテープ・針糸ほか)

 

<再両替時の注意>

  • ATMより引き出した現地通貨は銀行等で再両替出来ないので注意
  • 銀行・両替商でUSドルを現地通貨に両替した場合は、レシートを必ず保管のこと。
  • 再両替時に提出・提示を求められる。
  • 現地通貨の残額は、闇両替商に手数料名目約20%引きで再両替も可能である。

 

バングラデシュの風物詩‐現地情報>

・この国は、まだまだ若い国である。近い将来、道路からゴミの山は消え、

    バイクが歩 道を我が物顔に走ることもなくなることであろうが、過渡期の今は

    大目に見て欲しい。

 ・一度赤信号になると、10分ほど待たなければならないことや、走り出したらお互い

     神風運転を競い合う様には慣れてきたが、そこから派生する排気ガスの充満した

      空間にも慣れてしまった。しかし、クラクションの競演には活気すら覚える。

 ・ガソリンは、3時以降は販売禁止であるから、1時頃からガソリンスタンド周辺は

     車の縦列で大混雑である。

 ・新車よりポンコツ車が走り回って、ノスタルジーさえ感じたものである。

 ・最初、電線の垂れ下がりや、古い電線のむき出しに驚いたが、日を追って旅の風景

     の中に溶け込んでいった。

・歩行者が道路を横断するには一大決心がいる。歩行者が合い寄ってかばいあい、

    自衛しながら渡らなければならないから命がけである。とくに、全世界に広がる

    英国植民地であった国々の都市計画は、アフリカの奥地であろうと立派に計画され、

    道路の大きさは立派なものであり、横断するのに4~6車線ほどの幅があるから渡り

    終えるのに大変である。それも自動車で埋め尽くされた道路をである。

 ・バングラデッシュは、三角州にできた網の目のような川の流れが交差している。

    その川面に浮かぶ<布袋の青い草>が旅情を添えてくれるのがいい。

バングラデッシュの男女が、汗拭きを首から垂らしているのを目にすることが多い。

    オロナ(婦人用)・ガムチャ(紳士用)という。

 ・男性や老人に赤茶けた髪の毛をしていることがある。ヘナの木をすり潰した樹液で

     染める<ヘナ染め>という。

 ・車は、新車に混じって目立つのが日本製中古車(特にTOYOTA)が多く目立つ。

     日本と同じく右ハンドル・左側通行>が適しているようである。

 ・バングラデッシュの旅で多用するバスも、中古というより廃車同然の車

   (特にHINO)が多い。

 ・バングラデッシュのカラスは、インド・カルカッタで見たと同じくタキシードを

     着た貴公子である。日本のカラスのあのふてぶてしい姿とは似ても似つかわない姿

     である。

 ・信号待ちの長いこと、無秩序な交通ルール、道路を渡るにはみな手をつないで

     覚悟して、

 ・日本の男は立ちション、バングラデッシュの男は坐りション

 ・三輪オート・リクシャは貸切じゃなく、みな飛び乗ってくるから要注意

 ・バングラデッシュを旅して感じたこと:

  とても暑い国に、低所得者層の人が溢れ、

  インフラの整備が遅れ、独立国として未熟さが残り、

  貧しさの中にも純粋な笑顔が健康的であり、

  埃とゴミに埋もれながらも切磋琢磨して生きる力がみなぎり、

  未開拓のなかに労働力が溢れ、日本などの製造業進出の余地があり、

  世話好きで、人懐っこさが残る国民である。

 

 

バングラデシュ バックパッカ-旅費研究 資料>    2010/10現在の物価

 

            2010 バングラディッシュの旅 経費ノート  
       
10月12日 Dhaka Airport 現地通貨引出し(ATM)=10000TK(両替明細書保管の事)  
  ダッカ/Dhaka 空港ーモカハタ・バスターミナル/バス代 200TK
    モカハタBSーAdullahpur/バス代 300TK
    チップ(運転手) 100TK
    Dhakaーディナジプール/バス予約代 300TK
    ▲ホテル代 1100TK
    夕食(中華/水/チップ) 200TK
    バス持込携帯食(果物/パン/水) 160TK
10月13日 ディナジプール 朝食(チャパティ/オムレツ/紅茶) 30TK
    トイレ 10TK
    間食(アイス/マンゴジュース) 60TK
    リークシャ(バス停ーYMCA) 90TK
    ▲YMCA 1000TK
    夕食(チキンヌードル・野菜サラダ・焼き飯) 250TK
10月14日 ディナジプール 両替(100US$X@72TK=7200TK  
    YMCAーカンタナガル往復/リークシャ代+チップ 1000TK
    ●カンタナガル(入場料/ガイド料) 1160TK
    水/トイレ 34TK
    日用品(ティッシュ/水/蚊取線香) 50TK
    昼食ーライス/野菜炒/アイス/水 100TK
    携帯食ーリンゴ6/オレンジ2/アイス/水 195TK
    夕食(中華/水/チップ) 150TK
    ▲YMCA 1000TK
10月15日 ディナジプール ●カンタナガル2日目(ジボン入場料/ガイド料) 1000TK
    リークシャ(YMCAーバスターミナル) 30TK
    バス代(ディナジプールーヒルズHills) 60TK
    バスターミナル移動(リークシャ/チップ) 40TK
    バス代(Hills-ジョイプルハット) 40TK
    バス代(Hills-パハルプール) 30TK
  ジョイプルハット 世界遺産パハルプール入場料 100TK
    ▲ゲストハウス・マシュ-ズ(食事つき)+チップ 500TK
10月16日 ジョイプルハット リークシャ(GH⇔パハルプール往復)@30TK+チップ50TK 110TK
    バス代(ジョイプルハットーモハスタン) 50TK
    昼食(揚げパン2/7UP) 60TK
    ●モハスタン遺跡ガイド代 45TK
    リークシャ(モハスタン遺跡ーボグラーゲストハウス) 50TK
  ボグラ ▲Akboria Grand Hotel 750TK
    お土産(民族衣装) 700TK
    間食(アイス/クッキー) 100TK
10月17日   バス代(ボグラ-プティア) 80TK
  ラジャヒRajshahi バス代(プティア-ラジャヒ) 30TK
    リークシャ(バス停―ホテル) 50TK
    ▲スカイ ホテルSky Hotel(TV/シャワー/天井扇) 200TK
    昼食(チャパティ/肉まん/コーク) 85TK
    果物(バナナ4/りんご3/オレンジ/水/アイス) 133TK
    ボーイチップ 50KT
    夕食(ナン/鶏1/2/コーク) 267TK
10月18日 ラジャヒRajshahi バス代(Rajshahi-Chot Shona Mosjit) 80TK
    リークシャ(ホテルーバスターミナル) 70TK
    両替CashCard=10000K  
    昼食(焼きめし/チキン/水) 140TK
    携帯食(コーク/バナナ7/アイス/ビスケット2) 100TK
    ▲スカイ ホテルSky Hotel(TV/シャワー/天井扇) 200TK
10月19日 ラジャヒRajshahi バス代(ラジャヒールクナ) 280TK
    リークシャ(ホテル―バスターミナル) 31TK
    昼食(ピロシキ2/揚げパン/マンゴJ) 40TK
    携帯食(水3L/バナナ15) 60TK
  クルナKhulna 夕食(ナン2/オムレツ/カレー/デザート) 35TK
    ▲PARK HOTEL(TV/クーラ付デラックス) 1250TK
10月20日 クルナKhulna 朝食(ナン2/カレー/7UP) 45TK
    バス代(クルナーバゲルハットBagerhat) 130TK
    世界遺産シャイトコンブス・モスジット入場券 100TK
    乗船・入港税 3TK
    三輪オート(港ーホテル) 100TK
    リークシャによる街散策 85TK
    ▲PARK HOTEL(TV/クーラ付デラックス) 1250TK
10月21日 クルナKhulna 朝食(オムレツ/ナン/カレー/7UP) 40TK
  <休息日> 昼食・夕食(ホテルレストラン/チップ) 241TK
    ▲PARK HOTEL(TV/クーラ付デラックス) 1250TK
10月22日 クルナKhulna 果物(オレンジ4/リンゴ4) 160TK
    船乗船代(Khulna➡Dhaka)ガンジス川クルーズ船 1500TK
    <Rocket Stream号>乗船/ダッカに向かう  
    夕飯(ピロシキ4/7UP) 50TK
  クルナ出航 ▲船中泊 船代込
10月23日 クルージング ルームボーイ/チップ 80TK
    船上昼食/水2L /紅茶/新聞           200TK
10月24日   船上朝食(オムレツ大/トースト/ジャム/フィッシュポテト) 150TK
    昼食(ナン2/カレー/7UP) 65TK
    ▲インペリアル・ホテル 800TK
  ダッカDhaka 昼食(揚げパン6/コーク) 110TK
    お土産 485TK
    ▲インペリアル・ホテル 800TK
10月25日 ダッカ散策 朝食(ドーナツ2/紅茶/アイスクリーム) 60TK
    昼食(スパゲッテイ/7UP) 60TK
    夕食(野菜サンド/コーク) 60TK
    ▲インペリアル・ホテル 800TK
10月26日 ダッカDhaka バス代(ホテルー空港) 20TK
    朝食 105TK
    空港にて現地通貨再両替(現地通貨残7000TK/@1.25TK)  
       
     経費小計:1円=@1.3TK=   26618円           20925TK
15日間 バングラデシュの旅     航空運賃                  114750円  
        旅行総経費                         141368円  
                           (2010年当時の物価)

                            By Sanehisa Goto



       

 

 



 

 

 



 























 

 












 

 

         

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 



 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021星の巡礼『南極大陸』ブログ・スケッチ展

南極大陸ブログ・スケッチ展

 

『南極に立つ』 少年時代にドキュメンタリー「白瀬中尉の南極大陸」を観て以来、

夢のなかで温めてきました。

2007年2月、南米大陸一周の旅に出かけ、ウシュアイア(アルゼンチン)に

滞在したおり、この地が南極大陸クルーズ船の母港であることを知り、

足で歩くバックパッカー(放浪者)であることを忘れ、高額のツアー代を

き集めて夢を実現させました。

 

2007年2月20~3月2日 Quark Expeditions社催行の

<南極クルーズ11日間・ANTARCTICA EXPEDITION CRUISES>

(乗船客130名・乗組員87名)に参加し、

ORLOVA号(4376トン/探検砕氷船/ロシア船籍)に乗船して南極大陸を周遊した際の

水彩スケッチ集です。

 

コロナ禍、南極大陸のスケッチ集をお楽しみいただければ幸いです。

なお、作品をクリックしていただければ、拡大し、見やすくなります。

 

コロナ禍の志賀の里

弧庵にて

2021年春

星の巡礼者 後藤實久

 

 

 

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    南極大陸  ウエッデルアザラシ牝<Elephant Seal> (デタイエ島) と 南極観測基地

 

 

 

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                南極大陸クルーズ 

                   QUARK社シンボルマーク

 

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    南極大陸ツアー砕氷船ORLOVA号         南極出発前のウシュアイアにて

 

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                砕氷船ORLOVA号南極大陸ツアー航路図

                 ➀~⑮寄港地順を示す

 

 

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            詩『ああ君ありて われあり』 南極に坐して

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                        ウシュアイアを出航、ドレーク海峡を渡り南極に向かう

 

 

 

➀ 南極入口 ディエゴ・ラミレス島/Diego Ramirez Island <S56°29’-W68°44’>

       ドレーク海峡/Drake Passage

 

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         南極大陸入口  ディエゴ・ラミレス島 (ドレーク海峡-大西洋)

            スケッチをクリックすると拡大されます

 

ウシュアイア現地での南極ツアー申込・乗船は不可能に近い。何年も前からの予約制で、キャンセル待ちも幸運でなければ回ってこないのである。今回は、あるツアー会社の乗船者の中、ツアー代金の振込が出航日前日までなく、幸運にももぐりこめたわけである。乗船できるかどうか1週間待っての朗報であった。

130名の夢を乗せた砕氷船ORLOVA号は、翌日ドレーク海峡の荒波を乗り切って南極半島最先端にあるディエゴ・ラミレス島を左舷に観ながらペンギン島に向かった。

ディエゴ・ラミレス島 は、南米大陸最南端ホーン岬の南西約100キロメートル、ドレーク海峡に南北8キロメートルにわたって存在する島々である。南極大陸への半島入口にあり、雪も氷河も見当たらない中にアルゼンチンの南極基地がある。

 

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             南極半島入口にあるディエゴ・ラミレス島

 

 

 

② ペンギン島/Penguin Island   <S62°06′-W57°54′>

 

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           南極大陸 王様ペンギン <King Penguin>    (ペンギン島)

 

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        南極大陸 マカロニ・ペンギン雄 <Macaroni Penguin>  (ペンギン島)

 

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      南極大陸 アデリ・ペンギン家族 <Atelier Penguins Family> (ペンギン島)

 

サウスシェトランド諸島内、キング・ジョージ島の東側に位置するペンギン島は直径約1.7kmのほぼ円形をした小さな火山の島である。1820年に英ブランズフィールド探検隊が海辺を覆う多くのペンギンを見た事からその名前がつけられた。

頂上の大クレーター外側のなだらかな斜面には、この時期(2月頃)、海辺近くでゼンツーペンギン、ウェッデルアザラシやナンキョクオットセイが見られる。

ペンギン営巣地から流れ出る栄養豊かな雪融けと長い日照時間で活発に行われた光合成により増殖した緑色の青海苔状のナンキョクカワノリもみられる。

 

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        ウェッデルアザラシ             ナンキョクオットセイ

 

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       ナンキョクカワノリ(中央緑)            ゼンツーペンギンたち

 

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           ゼンツーペンギンたちのお出迎え  (ペンギン島)


東側にある小クレーター火口に水が溜り、内側斜面にはヒゲペンギンの営巣地が、外側の淵辺りではオオフルマカモメを見かけた。

 

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            オオフルマカモメ              マカロニペンギン

 

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         ヒゲペンギン                ゼンツーペンギン

 

 

 

③ ハーフムーン島/Half Moon Island  <S62°36′-W59°55′>

 

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南極大陸 ハーフムーン島 <Harf Moon Island>  サウス・シェトランド諸島

     アルゼンチン・カマラ南極基地がある   (スケッチをクリックすれば拡大できます)

 

南極半島の沖合に連なるサウスシェトランド諸島の中で二番目に大きな島リビングストン島にある広いムーン・ベイの入り口近くに三日月型をした全長2kmのハーフムーン島がある。

1820年2月にアメリカ人オットセイ猟師ナタニエル・パーマーが毛皮を求めてここに初めて上陸している。

いまでも毛皮を塩漬けにした当時の樽用たがや竿の切れ端やボート・小屋の残骸が残されている。

 

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             アルゼンチン カマラ南極基地を訪問

 

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          ゾディアック・ボートでハーフムーン島に上陸

 

 

 

 フィッシュ群島/Fish Islands  <S66°02’-W65°25’>

 

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      南極大陸の夜明け フィッシュ・アイランド <Fish Islands near Prospect Point> 

 

フィッシュアイランドは、南極のグラハムランドの西海岸のホルテダール湾の入り口の北部に位置する小さな島々である。

フイッシュアイランドは、南のクリスタルサウンドと北のグランディディア海峡の間にあり、ルノー島の東にある。小島であるフィッシュアイランドには、推定4,000匹のアデリーペンギンが生息している。

 

         

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                      南極の朝陽

 

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            美しいクリスタル氷塊のオブジェとペンギン

 

 

 

 

⑤ 南極大陸 デタイエ島/ De’taille’ Island  <S66°52’-W66°8’>

 

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          南極半島 氷河や氷塊の輝くクリスタルの世界が美しいデタイエ島

             スケッチをクリックすると拡大します

 

南極圏内クリスタル・サウンドからラレマン・フィヨルドへの入り口近くにある小さな島で、シャルコー(フランス)による第二次南極探検の際に発見された。

ここには1956年から国際地球観測年(1957~58年)を中心に使われていたイギリスW基地があったが、1959年の補給船が海氷のため近づけず、隊員達は基地を閉鎖した。必要最小限度の身の回り品と観測記録だけを持って海氷上を船までの47kmを犬ぞりで脱出したといわれている。

当時の観測生活そのままを窺がう事が出来る貴重な南極史跡である。

 

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           英国 旧W南極基地 (南極史跡として解放)

 

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                 W基地より停泊中のORLOVA号を望む 

 

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      閉鎖されたW南極基地の越冬用缶詰類           観測・通信用無線機

 

島への上陸は一度に50名まで、旧基地建物内には12名定員で10分以内となっている。周辺の岩島で営巣するアデリーペンギンやキバナウ、そしてアルバトロス(阿呆鳥)も見られる。

 

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        南極大陸  ウエッデルアザラシ牝<Elephant Seal> (デタイエ島)

              廃墟となった英国南極科学基地<BASE W> 

 

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           南極大陸  アザラシ牝<Weddell Seal > (デタイエ島)

 

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         南極大陸  阿呆鳥/アルバトロス <Albatross>  (デタイエ島)

 

 


    
      

➅ ニコ・ハーバー/Neko Harbor  <S64°50’-W62°33′>

 

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    南極大陸 温暖化による氷河の崩落を目にする ニコ・ハーバー(湾) <Nico Harbour>

              スケッチをクリックすると拡大します

 

ニコ・ハーバーは、南極半島で良く知られたパラダイス湾のすぐ北隣に位置するアンドヴォード湾内にある。ノルウエ―の捕鯨母船ニコ号の母港であったところから命名された。

パラダイス湾と並んで南極大陸上陸を果たす場所でもある。水際には緑やピンク色をした大きな花崗岩の岩肌が広がり、背後の大氷河の白と青い海の色がそれに調和して素晴らしい眺めである。

背後の氷河の丘に登ると、クジラがよく見られるアンドヴォード湾一帯の大パノラマを一望できる。

ニコ・ハーバーに流れ込んでいる氷河は頻繁に崩落するので知られており、この日も、大音響とともに氷河が崩れ落ちていた。

地球温暖化による未来を危惧する光景でもある。

 

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    氷河で囲まれたニコ・ハーバー            氷河とゼンツ―ペンギン

 

 

 

 ダンコ島/Danco Island  <S64°44‘-W62°37’>

 

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      南極大陸 ダンコ島付近の氷山・流氷の絶景 <Danco Island>  Errera Channel

              スケッチをクリックすると拡大します

 

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                                                       Danco Island 案内表示板

 

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         南極大陸 ダンコ島Ⅱ  <Danco Island>  Errera Channel

            上陸したデンコ島より砕氷船ORLOVA号を眺める

 

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               南極大陸 ダンコ島Ⅲ   <Denco Island> 

             ゾディアックボートより砕氷船ORLOVA号を眺める

 

ダンコ島は,南極半島西海岸沖のエレーラ海峡の南部に位置する島である。ダンコ島は、ベルギーの南極探検隊のメンバーであるエミール・タンゴを顕著し、英国南極地名委員会よって命名されたとある。

 

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   ダンコ島周辺の氷河と氷塊の絶景            赤く見える雪藻(中央付近)

 

雪藻は通常は緑色であるが、南極の多くの光(紫外線)から身を守るために生成する赤いカロテノイド(写真中央付近の赤色)の量によって緑色または赤に見えるといわれる。

 

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           南極大陸 遊泳するゼンツペンギン    (ダンコ島海域にて)

 

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               ダンコ島のゼンツペンギン

 

 

 

 

 

⑧ パラダイス湾/Paradise Harbor <S64°51′ W62°54′>

 

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    南極大陸 氷山に囲まれ、クリスタル氷塊が浮かぶ絶景のパラダイス湾 <Paladise Bay>

          島には、上陸訪問したアルゼンチンのブラウン南極基地がある

            スケッチをクリックすると拡大します

 

南極半島で最も美しいパラダイス湾に砕氷船ORLOVA号を停め、ゾディアックボートに乗換えアルゼンチンのブラウン基地に上陸した。周囲の山から幾筋もの氷河が流れ込み、氷の輝きは幽玄の世界に誘ってくれる。

湾の中にはルメール島(写真左)とブライド島(右)が浮かび、ゲーラーシェ海峡を挟んで雄大フランス山(写真左端 標高2,825m)が見える。島には、チリのビデラ基地とアルゼンチンのブラウン基地があり、われわれはブラウン基地にゾディアックボートで上陸し、訪問した。

その後、基地背後の急斜面を登り、上からのパラダイス湾全体の見事な氷の世界を堪能した。またその裏のパラダイスハーバーに流れ込む氷河近くまでのゾディアック・クルージングでは南極のアイシング・ブルーという幻想的な色彩を楽しんだ。

 

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     アルゼンチン南極観測ブラウン基地に上陸し、背後の丘陵に立ちパラダイス湾を鑑賞 

 

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    パラダイス湾を囲む絶景の氷河               氷河をバックに

 

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      上陸・クルージング用ゾディアックボート       南極大陸上陸前の靴底洗浄の徹底

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   ゾディアックボートでクルージング中          ゾディアックボートで上陸中

 

 

 

 

パラダイスハーバーのクリスタル氷塊スケッチ

 パラダイス湾の美しい氷河(グレイシア)と氷塊(アイスキューブ)のスケッチを楽しんだ。

 

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     南極大陸 クリスタッル・アイスキューブ(氷塊)Ⅰ (パラダイスハーバーを囲む山々)

             スケッチをクリックすると拡大します

 

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      ゾディアック・ボートよりパラダイスハーバーに停泊中のORLOVA号を写す

 

 

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       南極大陸 クリスタル・アイスキューブ(氷塊)Ⅱ  (パラダイスハーバー)

             スケッチをクリックすると拡大します

 

 

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  氷河から流れ出た氷塊のアイシングブルー        パラダイスベイに流れ込む氷河と氷塊



  

 

ポート・ロックロイ/ Port Rockrey  <S64°49‘-W63°29’>

   (ゴウディール/Goudier Island)

 

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南極大陸 ポート・ロックロイ博物館(旧英国観測基地) と

            ポート・ロックロイ/Port Rockrey (ゴウディール島 Goudier Island)

    スケッチをクリックすると拡大します

 

ポート・ロックロイは、捕鯨時代(19~20世紀)から自然の良港として多くの捕鯨船や毛皮ハンターの船が停泊し、広く利用されてきた。

母船式捕鯨が始まるまでは、ノルウェー、チリ、アメリカなどからの捕鯨船の避難場所として重宝され、今でも鯨の骨やとも綱の鎖などが見かけられる。
ここポート・ロックロイ湾にある小さなゴーティエ島には、第二次大戦中ナチスドイツの進出に備えて英国が設置した監視基地があった。

戦後、気象観測基地となり、電離層観測のために1962年まで使用されていた。
その後放置されていたが、南極条約による史跡に指定され、修復後1996年1月より史跡博物館として一般公開されている。

旧観測所(博物館)には、売店があり、ここで購入した絵葉書を南極記念切手を貼り、ポストに投函すると南極の消印で日本に郵送され、人気がある。

 

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    南極史跡博物館(旧英国観測基地)       通信室(ポート・ロックロイ史跡博物館)

 

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       史跡博物館内の売店         現役の南極ポスト

 

 


⑪ プレノー島 /Pleneau Island  <S65°06′- W64°03′> 

   (ルーメア海峡/ Lemaire Channel

 

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         南極大陸  象アザラシ雄 <Elephant Seal ♂> (プレノー島)

 

ルーメア海峡を南に抜けた右手前方に横たわるホフガード島のすぐ西隣に小さいプレノー島がある。

この島の水辺近くのくぼ地にゾウアザラシが換毛期を過ごす。

 

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プレノー島/ルーメア海峡 ゾディアッククルージング           象アザラシ

 

 

 

プレノー湾/ Pleneau Bay <S65°06′- W64°03′> 

   (ルーメア海峡/ Lemaire Channel)

 

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       南極大陸 プレノー湾の絶景氷河/グレイシア― <Pleneau Bay – Glacier>

             スケッチをクリックすると拡大します

 

プレノー湾は、青と白の水彩絵具で彩った風景画の中を航海しているような心豊かな、ファンタジーな気持ちにさせられる。プレノー湾でのゾディアック・クルージングは、南極の自然環境、特にアイスキューブや氷塊のオブジェに触れられる素晴らしいポイントでもある。

プレノー湾とその周辺で見られ、アイスバーグ墓地と呼ばれる氷山の大きさと美しさには息をのむばかりである。その険しい姿には、手付かずの野生の光景と神々しさが伝わってくる。

 

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               アイスブルーに輝く巨大な氷塊ブジェの絶景

 

 

 

 

ピータマン島/Petermann Island   <S65°10′- W64°07′>

 

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             南極大陸 ピータマン島/Petermann Island   

             スケッチをクリックすると拡大します

 

ルーメア海峡を南に抜けたところに見えるのがピーターマン島である。今回の南極ツアーの最南端(南極点に一番近い)に位置する。ここは最近までゼンツーペンギンの南限営巣地と言われていたが、温暖化の影響で数年前からさらに南の島でも営巣が見られる。また、ナンキョクオキアミを中心に捕食するアデリーペンギンの数が激減しているという。地球温暖化は、ここ南極の生態系をも急激に変えつつある。

ここピーターマン島には南極避難小屋(フランス)がある。

 

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               ゼンツ―ペンギンもフラダンスで歓迎

 

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      船上より南極大陸の氷河鑑賞      ピータマン島上陸(砕氷船ORLOVA号をバックに)

 

 



 デセプション島/Deception Island <S62°57′-W60°38′>

 

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南極大陸 デセプション島 <Deception Island> ペンダラム入江           👆ここ砂浜温泉

                旧捕鯨基地にある南極砂浜温泉とアザラシ達

              スケッチをクリックすると拡大します

 

われわれを乗せた砕氷船ORLOVA号は、サウスシェトランド諸島の南端、南極では珍しい活火山の島デセプション島に立寄り、ウシュアイアに向かう。

1万年程前、火山の頂上部分が陥没し、そこに海水が流れ込んでできた馬蹄形の島である。1800年代中頃、オットセイの皮を求めていた船が嵐に遭い島に逃げ込んだが、出る隘路を見つけられずデセプション(欺き)の名を付けたと言われている。

最近では、1970年の噴火による火口が2つ残っている。その際、チリ―と英国の基地が火山灰によって埋もれてしまったという。今でも内海の数箇所で、地熱に海水が温められて波打ち際に水蒸気が立つのが見られ、われわれ乗船客も南極温泉につかることになった。もちろん希望者のみで、高齢者の代表として参加、『デセプション南極温泉体験者之証』なる認定証をいただいた。

 

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     アザラシ達の出迎えを受ける           Welcome to Deception Island7

 

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    南極温泉から上がって極寒に耐える           南極の雪上にわが足跡を残す

 

 

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     南極大陸  マッコウクジラ夫婦 <Sperm Whale – Couple> (デセプション島付近)

 

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            デセプション島近海でクジラの遊泳が見られる

 

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      南極の氷河は地球温暖化による溶解・崩落でその姿を急激に縮小しつつある

              心配そうに見守るペンギン達と人間

 

 

 

 

ウシュアイア(アルゼンチン)帰港 <S54°48’-W68°18‘>

 デセプション島を後にした砕氷船ORLOVA号は、130名の乗客の夢を見果たし、波高いドレーク海峡を無事渡りきってウシュアイアに帰ってきた。

 

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      ウシュアイア(南極大陸クルージング母港)   2013年世界一周南半球船旅時スケッチ

                          スケッチをクリックすると拡大します

 

ここに、QUARK EXPEDITION社催行の<ANTARCTICA CLASSIC VOYAGE>2007年2月20日から3月2日、11日間の南極ツアーを終えた。

夢冷めやらない南極での多くの出会い、氷河や氷塊のクリスタルな幻想的な世界、人間を恐れず語りかけてくる愛くるしいペンギンやアザラシ達、船にいついつまでも寄り添う阿呆鳥/アルバトロスの飛翔、南極という夢物語の世界そのものの不思議な魅力、南極点の地下に宇宙人の基地があるというまことしやかな伝説、捕鯨や皮猟に夢を託した男野郎の冒険、南極のブリザードと戦い越冬した隊員たちの過酷な体験、そして放置され廃墟となった人間のぬくもりが消えた基地、地球温暖化により崩落が急激に進む氷河の悲しい姿・・・

南極は何時の時代にも人類に神秘な姿を見せ、魅了してきた。

しかし今、南極は地球温暖化により、その姿を変えつつあるという悲しい現実もある。

そのすべてを見せてくれた南極に立った自分を見つめた時、いついつまでもウシュアイアを去りがたいものにした。

 

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             わたしの撮った傑作写真<南極大陸伝説の宇宙人か>

         2007年3月1日 現地13時25分 南極半島パラダイス湾で撮影

               撮影者 後藤實久 < sanegoto1941@yahoo.co.jp >

 

 

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南極より戻り、ホステルの食堂の窓より思い出の地ウシュアイアの風景を脳裏に刻んだ。

ホステル「AONIKENK」は、南極ツアー参加にあたってウシュアイアでの前後3週間の基地となった。

 

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           南極大陸南極半島(クルーズ寄港地)概念図

 

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              Sketched by Sanehisa Goto in ANTARCTICA

 

 

 

f:id:shiganosato-goto:20210312193055j:plain        南極大陸スケッチ展にお出でいただき有難うございました。

 

                          南極大陸ブログ・スケッチ展                                              

 

                       

 

 

 

             

 

2021星の巡礼『 いざ天王山! 山崎合戦跡を歩く 』

2021星の巡礼『 いざ天王山! 山崎合戦跡を歩く 』

 

<本能寺後の明智光秀 と 三日天下>

先に、明智光秀の最期の敗走ルートを歩いてみたが、その孤独な最期は京都山科小栗栖の「明智藪」で終わっている。 いま明智光秀の敗走の地となった山崎合戦場跡をながめる天王山(山崎城跡)に立って、その原因となった<本能寺の変>後の光秀の足跡を見ておきたい。

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         天下の分け目 天王山(山崎城址)(標高280m)山頂にて

 

ここでも、明智光秀を中心に天王山「山崎合戦」を眺めたい。

 

まず、本能寺の変や、山崎合戦の短時間での勝敗に驚かされるのである。

本能寺の変は、6月2日の早朝4時からの4時間で信長を自刃させ、本能寺を制圧。

山崎合戦は、6月13日の夕方4時半から秀吉軍との戦闘開始、秀吉軍の淀川沿いからの後方攪乱により光秀軍総崩れとなり、夕方7時には勝竜寺城への敗退となり、約2時間半の戦闘での秀吉軍の勝利で終わっている。

 

本能寺の変で、光秀と重臣達は「信長を討伐、天下の主となるべき調儀」を練ったあと、たてまえは上洛中の家康訪問ということで老ノ坂を越え、京都沓掛の備中高松城と京への分岐にいたる。

ここ沓掛の分岐ではじめて全軍に向かって「敵は本能寺にあり」と宣言。その後、約4時間の戦闘で、信長を自刃に追い込み、本能寺を灰燼に帰し、首級を上げられないまま制圧を終える。

また別動隊は、二条城にいた信長嫡男である信忠をも討ち取っている。

 

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               楊斎延一作 <本能寺の変>    (東建コーポレーション提供

 

本能寺の変後、光秀は主君を討った謀反人というレッテルを貼られ、盟友たちに天下取りへ誘うが、ほとんど断られている。その間に主君の仇討と勢いづく秀吉の「中国大返し」の尼崎通過を、本能寺変後の近江平定に力を裂いていた光秀が聴くのは「山崎合戦」の3日前の6月10日である。

ここでもたった3日間で光秀直属軍16000は、十分な兵力や装備など追加の戦闘準備を整える間もなく秀吉軍40000との山崎合戦を迎える。

 

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                歌川貞秀作 「山崎大合戦之図」    (東建コーポレーション提供)

 

戦闘開始から約3時間後の19時に勝竜寺城に撤退、そのまた数時間後には近臣数名と夜陰にまぎれて明智家本拠であり、家族のいる坂本城に向かって敗走し、またその数時間後の 6月14日未明に京都山科小栗栖の竹藪(光秀最期の地「明智藪」)で、地元百姓の武者狩りの槍に刺され傷つき、自刃の後、家来に首を斬らせている。

 

光秀最期の11日間の何と短いことか。歴史の節目の大切な時間を、光秀は己を見失ったように駆け抜けていることに驚くのである。

 

山崎合戦の戦場跡に立っても、その戦略なき戦術に光秀の狼狽ぶりを見るとともに、孤独な武将の想い通りにはいかない焦りを感じるのである。

 

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               小国碇 作「小栗栖之露」    (大山崎町歴史資料館提供)

 

光秀の無策や盟友の離反からか、すべての作戦にあたって短時間での決着を見ており、特に決起から自刃までの短期間をもって「三日天下」といわれている。

 

<天王山からの眺め>

天王山への登山路は<秀吉の道>ハイキングコースになっている。 秀吉軍のシンボルである千成瓢箪を掲げて見方を鼓舞したといわれる<旗立て松>から、山崎合戦跡の隘路を形成している大山崎の地形を見下ろしながら、光秀と秀吉のそれぞれの想いに馳せてみた。

 

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       天王山ハイキングコースにある<旗立て松>より<山崎合戦場>を眺める

        

       写真解説 : 左から右へ走る京都縦貫自動車道(手前)と交わる名神高速道路の

              大山崎インターチェンジ辺りが<山崎古戦場跡>である。

              京都縦貫に沿って流れる<小泉川>を挟んで両軍は対峙した。

              小泉川より奥(北東)に光秀軍、手前(南西)に秀吉軍が布陣した

              写真右端に三川合流点があり、大山崎が突き出て、隘路を形成している。

              ここ天王山から写真左端に伏見桃山城が望遠でき、

              その背後に光秀 最期の地・山科小栗栖<明智藪>がある。

 

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               天王山中腹にある「旗立ての松」 

 

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        古戦場を一望できる旗立松展望台に建つ<山崎合戦之地>石碑

 

 

振り返ってみて、光秀はなぜ死に急いだのか。

実直であり、慎重な光秀を「本能寺の変」、それに続く「山崎合戦」を決意させ、戦略なき作戦とみられる事変を実行させたのか。

本能寺の変」に先立って、愛宕山に参詣、必勝祈願をし、直前まで決められなかった謀反・主君殺しに対する迷いを払しょくするためにおみくじを三度もやり直し、大吉が出るまで引いたとも言い伝えられている。

 

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            大岩山(小栗栖-光秀最期の地)より愛宕山(中央)を望む

 

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          大岩山(小栗栖)より見る伏見桃山城(中央)の背後に天王山があり、

          ここ大岩山を背後に下った小栗栖に、光秀最期の地<明智藪>がある。

 

 

誰が見ても勝ち戦は見込めない一連の流れや、光秀本人が一番理解していた謀反に対する自己嫌悪があったにもかかわらず、なぜ最後の手段に訴えたのであろうか。

諸説が言い伝えられているように、そのすべてに悩み苦しんでいた光秀だとしても、光秀が己を少しでも見失っていなければ、己を押さえることのできる聡明な考えに従っていたと思うからである。

そこで考えられるのは幻覚と妄想というこころの病に侵されていたのではないかとの説を考えてみたい。

 

<レビー小体認知症説>

まず考えられるのは55歳という初老の光秀は、すでに幻覚と妄想を引き起こし、臭覚のマヒに侵されるレビー小体認知症にかかっていたのではなかったか、という説である。

光秀は、すでに幻覚の中で天下取りの自分に出会って、その気になっていたのではなかろうか。妄想はさらに、天下人となった自分を信長の立場に置き換えて、己の描く世を強く願っていたかもしれない。

また、レビー小体認知症にも見られるように、幻覚と妄想から覚めた自分との乖離に心身ともに疲労困憊していたとも思われる。

さらに追い打ちをかけるように、安土城での家康接待役での、腐った魚を出して信長に打擲・罵倒される仕打ちにあったことへの怨恨へと続いていったのではないだろうか。

さらに、光秀のレビー小体認知症の症状を悪化させるように、信長の丹波および近江坂本の領地を召し上げ、まだ敵国であった出雲・岩見への領地替えや、備前高松城攻めの総大将秀吉の配下としての下知など、光秀の自尊心や、服従心に疑問を投げかける命令が続いていた。

光秀はそれら信長からの不信感に耐えられなかったとみる。

本能寺の変前に、光秀はおのれの限界を押さえられなくなって暴走したといえる。

そこで考えられるのは幻覚と妄想というこころの病に侵されていたのではないかとの説を考えてみた。

 

<光秀の盟友たちの離反>

このような光秀の症状や苦悩を、光秀に近かった細川藤孝筒井順慶らは気づいていたのであろう。さらに彼らは、光秀の性格からして、天下人にはなりえないことを誰よりもよく認識していたといえる。現実に、彼らは光秀の期待に応えることなく、それぞれ理由をつけて光秀に与することはなかった。

本能寺の変後、すでに光秀から人心が離れ、光秀は裸の王様になっていたといえる。

 

細川藤孝は、光秀が長年にわたって親交を温め、互いに助け合ってきた盟友であり、娘たま(細川ガラシャ)を嫡男忠興に嫁がせるほどの仲であり、両家の結びつきは深かった。

婚姻関係は、互いの同盟関係であったはずである。光秀は間違いなく細川親子は自分の味方だと信じていたといえる。

しかし、細川藤孝・忠興親子が、光秀の本能寺の変後、髷を落してみずから蟄居したことを知って、光秀は三ケ条の覚書を送り、自分には今回の行動に私利私欲はなく、天下を狙ったものではないとのニュアンスを伝え、今後とも友情を深め、味方になって欲しいとの書状を送っている。

また領地に希望があれば申し出て欲しいとのことや、近国を固めたあとは隠居するつもりだとの内容を添えている。

盟友・細川藤孝のこころは、すでに本能寺の変の前に光秀から離れていたといっていい。

 

一方、同じく盟友であった筒井順慶の「洞ケ峠の日和見」は有名である。洞ケ峠は、京都八幡にある男山の南に続く峠である。

天王山「山崎合戦」前、男山に本陣を構える計画であった光秀は、その足で-みずから順慶軍が集結して、日和見を決め込んでいた洞ケ峠に出向き、半日かけて順慶を説得している。しかし順慶は、信長によって規定されていた大和の与力衆の意見に従って秀吉に与し、洞ヶ峠より兵を引いたのである。

振り返ってみると、光秀が最初に陣を張ろうとした八幡男山の後方にある洞ヶ峠に筒井順慶軍もまたすでに駈けつけていたのである。その後、光秀は秀吉軍の規模の大きさに対処するため、順慶の説得を諦め、男山の陣から山崎の平野部に本陣を移動させてしまっている。この時、筒井順慶の光秀離反は決定的になったのではないだろうか。

また順慶は、洞ヶ峠より見下ろした両軍の陣の優劣や、兵力の配置状況や、攻防の推移をも想像できたと思われる。

百歩譲っても筒井順慶は、光秀の恩に報いて、ただ一人でも光秀軍に参加してもよかったはずである。だが、順慶が光秀に与しなかったのは、先に述べた主君殺し・謀反という世間の光秀観に恐れをなしたともいえる。

 

しかし見事な盟友たちの離反である。賢明な光秀がいかに滑稽な役を演じたのか、最大のライバルである秀吉のその後の天下人への実績をみれば納得できる。

また、光秀を三日天下に終わらせてしまった秀吉の凄さがうかがえる。

当時、山崎合戦場を見下ろせたであろう天王山の山頂、山崎城跡に立って光秀の盟友たちにしばし想いをはせた。

 

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      天王山中腹より三川合流点越えに見える光秀本陣候補地であった男山(八幡)

     男山右手に下ったところに「洞ケ峠の日和見」といわれる筒井順慶終結地がある

 

 

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       明智光秀          細川藤孝            筒井順慶

 

<地の不利>

山崎の合戦跡に、戦いの始まった午後4時半ごろに天王山(標高280m)に登ってみた。西陽を背にしてみる山崎の平野部の目標物すべてがくっきり浮かび上がり、動きを正確に把握観察できる高さにある。

逃げ込める勝竜寺城を背に、陣をひいた光秀軍は、初戦から敗走の陣をひき、弱小軍のイメージを植え付けている。なぜ、奇襲奇策を練らず正面からの戦いを挑んだのであろうか。

光秀軍は、40000に近い秀吉の大軍を迎撃する戦略陣形ではないということである。

 

先述したが、光秀は当初、淀川対岸にある八幡、男山に陣を置こうとしたようである。

敵の天王山に対し、光秀は八幡の男山になぜ陣を残さなかったのであろうか。 秀吉側の大軍に抗しきれないと判断し、急遽山崎の平野部に本陣を移したというが、戦術的に敵の背後をつくと見せかける奇襲攻撃のための遊軍を男山に残さなかったのは光秀らしくない。

 

一方、秀吉の本陣や陣形は、天王山や太陽を背に、隘路付近を押さえ、万全の布陣であることが、天王山に立つとその地形的優勢がわかる。

文献によると、合戦の日は曇天で、前夜に降った雨で平野部にあった大きな沼付近の湿地帯はさらにぬかるんで足をとられたようである。

秀吉軍は、沼と淀川のわずかな地続きを突破し、光秀軍の側面、背後をついた時点で、光秀軍は浮足たち始めたと陶板絵図は語っている。秀吉軍の攻撃に、絵図の左側の光秀軍は後方にある勝竜寺めがけて敗走を始めているように描かれている。

 

地の利からしても、秀吉軍の有利が一目瞭然で、光秀軍は不利であることが判然としている。

 

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North         天下分かれ目の山崎合戦絵図  <天王山>          South                       (絵図は西から東を向いて描かれている。絵図をクリックすると拡大絵図になる。)

     

       絵図解説天正10(1582)年6月13日午後4時半ごろ、天王山と淀川の

            わずか200mの隘路から出てくるは秀吉軍を各個撃破する

            光秀軍の作戦が開始された。

            合戦が始まって1時間後に、秀吉は本陣を宝積寺より天王山の

            東(右端上)に移している。

            光秀の本陣は絵図左手に構え、後方の小畑川と前方の小泉川に

            挟まれている。

            また永荒沼の周りの湿地帯を戦場に選んでいるところに光秀軍の

            戦術をうかがい知ることが出来る。大軍を沼地に引き入れ討つ

            戦法と言えようか。

                 秀吉軍は、大山崎の村からと、淀川沿いに駆け抜けて光秀軍の

                 側面と背後に廻って攻勢をかけている絵図となっている。

                 合戦開始から1時間後のこの絵図でもわかるように光秀軍の一部

                 は、すでに勝竜寺城方面に向かって敗走を始めている。

                 山崎合戦は、午後7時ごろ秀吉軍の勝利で終了している。

                 約2時間半という短時間決着となった。

 

 

反対に、光秀側の各本陣にも立ってみた。天王山方面は、曇っていたにせよ西陽の明るさにより山をはじめ敵側が灰色に染まり眺望が一段と暗さを増していた。

 

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        山崎合戦場跡から天王山を望む          石柱碑<天下分け目の天王山 

                                                                                                                                         山崎合戦場跡>

 

 

午後5時頃の夕暮れの迫った合戦場(写真左)、光秀側より秀吉側を見た時の眺望、敵の動きが見えにくいことが分かる。写真中央に天王山を背景に石柱碑<天下分け目の天王山 山崎合戦場跡>が建っている。 (天王山夢ほたる公園にて)

 

山崎合戦や明智光秀本陣跡、光秀が坂本城へ敗走する途中に立寄った勝竜寺城について、大山崎教委員会と長岡京市の解説案内文を参考に載せておきたい。

特に、光秀本陣跡の地理的位置は特定されておらないので、大山崎町の「明智光秀本陣跡-境野1号墳」と、長岡京市の「明智光秀本陣跡―恵解山古墳」の2説を載せておく。

 

               <天下分け目の天王山 山崎合戦>

     「織田信長の天下統一は目前に迫っていた。天正10(1582)年6月2日、毛利攻めの

                  総仕上げに向かうため京・本能寺にあった信長を亀山城主で家臣の明智光秀が急襲した

     のである。

     手勢僅かの信長は紅蓮の炎の中で亡くなってしまう。世に言う「本能寺の変」の勃発である。                          この変によって光秀はポスト信長の最右翼に躍進した。

     3日「信長死す」の知らせは備中高松城で毛利の先鋒清水宗治軍と対峙していた羽柴秀吉

     元にも届く。秀吉は黒田官兵衛の進言により戦いを納めるため毛利との講和を急いだ。

     城主の切腹、開城を条件に講和を固めることが出来た。

     毛利の主力が引き上げるのを確認すると、世にいう「中国大返し」の始まりである。

     1日に50キロ以上を移動し京へ向けて突き進んだ。

     一方光秀は、京周辺の武将に同心,合力を求め書状を送るも応じる武将は少なく、

     娘が嫁いだ丹後の細川藤孝、忠興父子にも見放されてしまった。

     12日羽柴軍は摂津富田に進行。 光秀は京から桂川を渡り、長岡・勝竜寺城付近に主力を展開

     した。

     13日午後4時頃、大山崎荘の町場外れを流れる円明寺川(現小泉川)を挟んで羽柴軍36000,

          光秀軍15000の軍勢が対峙した。

                 そして午後4時30分頃合戦の火ぶたが切って落とされる。高山右近中川清秀池田恒興等摂津

                 に いる主要な武将を味方につけた秀吉軍は一方的に攻め、わずか1時間余りで勝利を収めた。

                 大山崎の住人は合戦に巻き込まれることなく住んだことに安堵したことであろう。

                勝利した秀吉は天王山頂から山麓に山崎城を築城し、大山崎から天下統一を目指すことになる。」                                                                                                                                         大山崎町教育委員会

 

    明智光秀本陣跡-境野1号墳>

     「境野1号墳は天正10(1582)年6月13日夕刻に起こった天下分け目の天王山<山崎合戦>

     の時、明智光秀の本陣が置かれた場所ではないかと考えられている。

     <太閤記>の記述に御坊塚に光秀本陣が置かれ、兵力は五千有余とあり、当時周辺の地形を考慮

     すると、当古墳上が本陣に利用されたものと考えられている。

     古墳のある場所は標高25.2mを測り、周辺に比べるとひと際高く、天王山や西国街道方向に

     視界がひらける。羽柴秀吉の軍勢と対峙し、味方の軍勢を把握して指揮するのにうってつけの

     場所が、本古墳であったと云える。

     合戦は圧倒的な兵力を誇る秀吉軍の勝利に終わる。光秀はわずかばかりの手勢を伴い勝竜寺城

     から近江坂本城に向かう途上、山科小栗栖で落ち武者狩りの村人の手にかかり、無念の最期を

     遂げたといわれる。」                        大山崎町境域委員会)

 

    

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                光秀本陣跡(推定)<境野1号墳> 

    

    

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           <境野1号墳>隣接の墓地から天王山を望む

 

    <明智光秀本陣跡―恵解山古墳>(いげのやまこふん)

     織田信長明智光秀に倒された本能寺の変の直後、羽柴(豊臣)秀吉と光秀が激突した

      山崎合戦 は、あまりにも有名であるが、恵解山古墳も、この戦いの舞台ともなった

      可能性がある。

      発掘調査で、当時の土器片とともに火縄銃の鉛弾が出土している。また、後円部にある

      現在の墓地が棚田状に3段になっていることや、前方部に大きな掘り込みがあることも、

      光秀方が恵解山古墳に陣をおいた際の造作である可能性がある。」 

                                  長岡京市教育委員会

     

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                光秀本陣跡(恵解山古墳)

 

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             光秀本陣跡(恵解山古墳から天王山を望む              

 

     

<秀吉軍本陣跡>

秀吉軍本陣はそれぞれの役割に従って3か所あったと推測される。

中国大返しの時に秀吉が入った兵站総合指令所としての本陣<高槻・上宮八幡宮>と、

合戦総合指令所としての本陣・天王山麓にある<宝積寺>、

そして前線本陣として<大山崎瓦窯跡>付近に設けられたと推察される。

 

     

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左: 高槻・上宮八幡宮境内にある<山崎合戦秀吉本陣跡>石柱

                右: 天王山麓にある<宝積寺>に秀吉本陣があったともいわれている

 

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           秀吉軍合戦場最前線本陣跡と推測される<大山崎瓦窯跡>

          (当初予定された光秀軍本陣 男山(八幡)が正面に見える)

 

 

<戦闘開始時間の疑問>

なぜ、朝早くの戦闘開始ではなく、夕方近くの戦闘になったのであろうか。ここにも光秀の誤算があったような気がする。多分秀吉側の理由に、光秀側が巻き込められて夕方からの戦闘開始になったのではなかろうか。光秀軍は、兵力の大差、主君殺しの天下取りという謀反軍という心理が働き、すでに戦いへの意欲が薄れていたように思える。

 

次に、山側の陣地と、平野部の陣地では戦の仕方、難易が違ってくるのも当然である。

光秀側の事情は、本能寺の変後の味方してくれるはずの武将が動かなかったことにより、秀吉軍の約40000の兵に正攻法での対峙が出来なかったといえる。。

故に、高地の男山をあきらめ、<大山崎>の地の利である隘路から進出攻撃してくる敵を各個撃破する作戦に切りかえ、山崎の平野部にある隘路出口で待ち伏せする作戦をとったようである。

しかし、当日の天気にもよるが、湿地帯の泥濘に足をとられたにせよ、相手の勢いに押された光秀軍は勝龍寺城への敗走が続き、その日の夕刻7時頃には勝負がついたとある。

 

  <山崎合戦 と 勝龍寺城

   「元亀2年(1571)には、織田信長の意向を受け、細川藤孝によって大きく改造された。

    藤孝在城時の勝龍寺城は、小畑川・犬川に挟まれ神足と勝龍寺の集落を含む、いわゆる

    惣構の城郭として評価されている。

    天正10年(1582)6月2日、本能寺で織田信長を討った明智光秀は、同6月13日に、

    山崎合戦で羽柴秀吉と戦う。主戦場は山崎から勝龍寺城の間一帯で、天王山を奪い

    合う戦いではなかった。

    一部の軍記物語には、光秀は「おんぼう(御坊)塚」に本陣を置いたとあり、

    これについては恵解山古墳(長岡京市)と境野1号墳(大山崎町)の2説がある。

    戦いに敗れた光秀は、いったん勝龍寺城へ逃げ込み、夜中に城を脱出して居城の

    坂本城大津市)を目指した。しかし、途中の山科・上醍醐付近で落ち武者狩りに

    遭い命を落としたという。

    寛文5年(1665)の絵図には、小泉川を挟んで対峙する両軍の陣が描かれている。」

                         長岡京市の案内板より一部抜粋)

 

   

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                      山崎合戦布陣図       (長岡京市教育委員会提供)

 

では、次に光秀をとりまく不利とされる所説を見ておきたい。

 

<民の不利>

地の利でみたように、天王山と三川合流点(桂川宇治川・木津川が合流し、ここ大山崎から淀川となって大阪湾に注ぐ)の間の200mほどの隘路の大山崎(大きい山が突き出ている先)には、当時すでに現在と同じく商家や旅籠、人足や馬屋などが密集した河川陸上の交わる宿場があり、ロジスティックの中心であった。

信長も大山崎の地の利を最大限に生かし、商売繁盛に力を貸していたのである。大山崎の商売は信長という天下布武をまっしぐらに突き進んでいた武将によって守られていたといっていい。

その証として、信長は大山崎の町衆にお墨付きとして<禁制>(きんぜい・戦火より町を守るという一種の誓約書)を発行していたのである。

天王山の山崎の合戦でも、町衆は信長発行の<禁制>の実行を光秀にせまり、光秀からも山崎の合戦から町を守るという一種の誓約書をとっていたようである。結局、この隘路(大山崎の街の密集地帯)においての秀吉軍の各個撃破も曖昧となり、秀吉軍に容易に隘路突破を許したようである。

秀吉軍は、主君の発行した<禁制>をうまく利用したのと、町衆の信長寄りの姿勢に助けられ、光秀軍の隘路作戦を打ち砕き、早い段階で勝敗は決していたといえる。

 

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           織田信長禁制(東寺国境)が大山崎の油座にも発行されていた

 

信長の天下布武の捺印が押された同じ「禁制」が大山崎村の油座にも発行されおり、光秀は大山崎を戦いに巻き込むが出来なかった。反対に、主君信長の仇討を掲げる秀吉は大山崎の村をなんなく駆け抜け、光秀軍の側面と背後を突いている。

 

<時の不利>

なぜ光秀は、備中高松城攻略の加勢のため京都滞在中の信長を、この時期に討ったのであろうか。信長の天下布武邁進の絶頂期にである。

商売(楽市楽座)繁盛政策をも推し進めていた時期、信長の天下統一が見えていたにもかかわらずにである。

不思議であり、理解しがたい所がある。

もちろん、8歳ほども年下であり、それも55歳にもなった己を足蹴にし、折檻するなど、どうにも我慢が出来なかったのであろうが、いや、光秀にはそれに耐えられる教養と己を律する修養を長年積んできたはずである。

光秀は教養人であり、朱子学儒教思想論語を学び、主君への絶対的服従や道徳や倫理という価値観を誰よりも身に付けていたはずである。

その光秀が、本能寺の変で信長を自刃に追い込み、<主君殺し・謀反人>というレッテルを背負ってまで、何に対して忠誠を誓ったのであろうか。

戦国時代の主君殺しは、それ自体下剋上だとしても、正当化しない世論が形成されていたともいえる。

山崎の天下分かれ目の戦いでも、<主君殺し>により、味方であるはずの武将が離れ、庶民の味方をも敵に回してしまった光秀は、この山崎の合戦を聖戦と考えていたであろうか。

そこには光秀の戸惑いと、自責の念と不安が渦巻いていたように思えてならない。

 

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             織田信長が加納に掲げた制札 (円徳寺所蔵文書より)

          (札中ほどに、<一、楽市楽座之上、諸商売すべき事、>とある)

 

 

<噂の不利>

そこまで追い込んだものは一体何だったのだろうか。

多くの説が取り上げられているが、実母に対する信長の仕打ちや安土城での接待への信長の不機嫌に対する<怨恨説>、天皇や公卿による朝廷側の<そそのかし説>、ノイローゼ説、認知症説、二重人格説、天下取りの<野望説>や将軍義昭による<陰謀説>、秀吉が天下取りのために仕組んだ<黒幕説>のほか諸説がある。

最近では、安土城での家康接待にあたって、腐ったものを宴席に出したと怒って信長が光秀を打擲したのを受けて、光秀はレビー小体型認知症であるうつ症状や匂いに対する認知機能が低下していたのではないかという説まで出てきた。

かかる多くの説の言い伝えにより、光秀のミステリアスな行動に注目が集まるのであろう。

 

 

<策の不利>

本能寺の奇襲成功に対し、天下分け目の山崎の合戦では、平凡な戦をし敗れている。

少数をもって多数の群を打ち破るには光秀は奇襲を策すべきであったでろう。

天王山を先に秀吉軍側に抑えられたことも腑に落ちないが、もしそうだったにしても天王山の背後から奇襲攻撃をかけてみる必要があったと思われる。

負ける戦と知ってか、平地に本陣を構える結果となり、相手を打ち負かすという気概が最初からなかったのではないかと見て取れる。最前線の<境野1号墳跡明智光秀本陣>(または<恵解山古墳跡明智光秀本陣>)、そして最終的に逃げ込んだ<勝竜寺城>をも捨て、坂本城への逃避と、半日の間に目まぐるしく敗退移動を繰り返している。 

これらの撤退敗走に、友軍はどのように見ていたのだろうか。天下取りの合戦とみて参加した将兵の無残な姿が目に浮かぶようである。

 

 

<天下分け目の天王山-山崎合戦>

また秀吉が戦っていた毛利側が、秀吉の背後をついてくれることに期待をかけたがその気配もなく、光秀の望みは絶たれ、わずか16000名で合戦に臨むことになった。

光秀のもう一つの誤算は、淀川等三川を背にした陣(難攻不落の陣)を敷けなかったことにあるといえる。

先にも述べたが、一説によると〈禁制・きんぜい〉を守って三川を背に立ち並んでいた町家を避けて、本陣を平野部に移動させたところによる布陣の失敗である。信長が町衆と「禁制」を交わしていた約束を光秀も守ったためだといわれている。

斉藤利三ら参謀による坂本城亀岡城に籠城して軍勢を整えてからの合戦を光秀に進言した。しかし光秀は、山崎での決戦を命じている。また、戦略上重要な三川合流点と天王山の間に横たわる<永荒沼>さえ秀吉側に突破されてその地理上の防禦地点を確保できなかったことにもよる。

 

信頼厚い武将 齋藤利三の戦略・献策にも関わらず、光秀の性格である情深さや、領民や家族のことを大切にしてきた己の生き方に従うとともに、信長のような血なまぐさい無慈悲な戦を避けたかったのであろう。地元の坂本や、亀岡を避け、ここ山崎の地での合戦を決したとも思われる。

あとは時間の問題、その日の夕刻7時、陽は沈み勝敗は決してしまっている。

 

さらに、天王山を秀吉側に先に制されたことにより、平野部に陣をひいたことであろう。もし天王山の張り出し(大山崎)と三川を背後にした布陣であれば、隘路を抜ける秀吉軍を許さず、もう少し持ちこたえられたかもしれない。

やはり近習の武将を味方につけ、大山崎の地形を熟知していた秀吉側の勝利はすでに決していたといえる。

合戦布陣図からもわかるように、両陣営の対面する小泉川(円明寺川)は平野部から沼地に入り込んで湿地帯を形成していたことが分かる。光秀軍の劣勢は、合戦前すでに光秀もまたその軍団も認識していたように思える。

見てきたように、天下分け目の合戦は<天王山>ではなく、東側に広がる淀川沿いの湿地帯で行われた。 そして約2時間半の戦闘で、光秀は秀吉軍に敗れ、背後の勝龍寺城に逃れ、山崎合戦は終る。

 

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            山崎合戦の両軍布陣を現在の交通網からみる

            (現在、永荒沼は干拓され住宅地である)

 

 

その後、退却の勝龍寺城より夜が更けてから近臣数名と共に居城である近江坂本城に向かって敗走する。途中、山科小栗栖に差し掛かった時、地元の百姓による落ち武者狩りにあって、重傷を負い、自刃して果てる。

 

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      勝龍寺城 (光秀三女玉輿入れの城・山崎合戦後敗退した城・坂本城への敗走の城)

 

ここに「山崎合戦」は終結し、勝者である秀吉は天下取りに邁進し、政治的にも、経済的にもまた、文化的にも覇者となっていく。

 

勝龍寺脱出以降の光秀敗走については、ブログ『明智光秀最期の地を歩く』を参照願いたい。

 

 

shiganosato-goto.hatenablog.com

 

 

 

                                      『いざ天王山! - 山崎合戦跡を歩く』