shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2001『星の巡礼 イスラエル縦断の旅 1000km』Ⅰ

          

  

 

          

     《イスラエル縦断 1000kmの旅》Ⅰ

             ―イスラエル / パレスチナ 旧約聖書の世界を巡る― 

        <ギリシャ/アテネイスラエル縦断⇒シナイ半島周回⇒エジプト/カイロ>

 

                   前編

 

                 紀行文・スケッチ

                  後藤實久

 

 

先のシベリア横断編を終えるにあたって、突如、パレスチナハマスによるイスラエル

越境襲撃事件が起こり、これから始まるヨーロッパ周遊を後に回し、2001年当時のイス

ラエル/パレスチナの地を歩き、紛争の地における両者の共存の姿を見ておきたいと思

うのである。

 

2023年10月7日早朝、中東パレスチナの地で、パレスチナガザ地区を実効支配する武

装勢力<ハマス>による、イスラエル越境、奇襲襲撃における大量虐殺のあと、人質

200名以上を拉致し、ガザの地下要塞に立てこもった事件(イスラエル側発表)が起きた。

その反撃としてイスラエル軍による、ガザ地区での人質奪還・ハマス地下壕破壊作戦が

行われ、多数の市民が巻き込まれる悲惨な作戦が行われ、今なおガザ南部地域への作戦

を拡大し、掃討侵攻中である。

 

この 《ヨーロッパ周遊の旅  12000km》 では、最終章で<2001年当時のイスラ

レル・パレスチナ世界>を取り上げることにしていたが、急遽、パレスチナの地、いや

旧約聖書に出てくれパレスチナのカナンの地を覗いておくことにしたのである。

なぜならば、歴史的には、二国間イスラエルパレスチナの融和を求めながら、世界情

勢に翻弄されて、現在の敵視政策による両者の消耗戦に至っているからである。

 

旧約聖書に出てくる神、主による約束の地が、今から20数年前(2001)に、どのよ

うな状況におかれていたかを紹介し、パレスチナイスラエルの二国制度の下での和平

が実現していない状況を見ておきたかったからである。

パレスチナの地に、一日も早い平和が訪れますように・・・

 

 

       ――――――――――――――――――――――――――

 

イスラエル縦断にあたって>

 

ここでは、<ヨーロッパ周遊の旅>を後に回し、先に<イスラエル縦断の旅>を取り上

げて、パレスチナ・イスラレル両者が混在する地の日常を観察しながら、旧約聖書で予

言されたカナンの地の様子を見ておくことにする。

なお、時間的問題もあり、すでに発表している<2001『星の巡礼 イスラエル縦断の

旅』>に加筆、一部改定し、お届けするものであることをご了承願いたい。

 

 

創世記に始まり、アダムとイブをエデンの園より追放し、この世と人類を創ったとされ

る神が指定された旧約の地が、ここ中東にある砂漠の国 イスラエル/パレスチナであ

る。

同じ神を信奉するユダヤ教キリスト教イスラム教の聖地として人類愛を試される地

もまた、ここユダヤ人とアラブ人が入り混じるエルサレムにある。

神は聖霊の地として、不毛と言っていい赤土の砂漠を選ばれ、信仰の持つ厳しさを試さ

れたといっていい。

現在のイスラエルパレスチナは、旧約聖書の民たちの苦難の歴史をいまに引き継ぎな

がら、お互いを認めあわず神の理想とする国を達成できてはいない。

 

 

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      モーセ率いるイスラエルの民がエジプト脱出後、40年間放浪した砂漠で 

              (イスラエル縦断中ネゲブ砂漠で休憩中)

 

そこは、ユダヤ人とアラブ人の反目とジハードと憎しみが渦巻き、神の意に反して、力

による闘争を繰り広げている悲しみと嘆きの地でもある。

両者間に、赦しと和解と和平が訪れんことを祈りながら、今回は占領地である北はゴラ

ン高原から、南は占領地であったシナイ半島までを縦断踏破し、モーセがイスラレルの

民を率いて脱出した道を逆にたどり、エジプトのカイロに至る。

世界幾多の国と地域から流入したシオニズム運動参加のユダヤ人たちの建国の息吹を感

じる一方、領土を追われ国家を失い、狭い土地であるガザとヨルダン河西岸に押し込め

られたパレスチナの人々の苦しみと抵抗と聖戦<ジハード>を肌に感じつつ、歴史をの

ぞきながら聖書の地イスラエルパレスチナを歩いた。

 

イスラエルの中には、パレスチナ人の自治がなされる地域や飛地があり、その地を訪問

するにはそれぞれの検問があるとともに、緩衝としての無人地帯が取り囲み、現在のユ

ダヤ人とアラブ人の不信感を否応なしに見せつけられ、切ない思いにさせられた。

 


■    10月24日 <イタリアを立ちイスラエルに向かう>    機内泊

 

この《星の巡礼 イスラエル縦断の旅》は、ロシア・ウラジオストックよりシベリア横

断鉄道でモスクワに至り、北欧・西欧・東欧よりイタリア・ローマに入り、中東・アフ

リカを縦断して南アフリカ喜望峰までの旅の途次にある。

ただ、<ヨーロッパ周遊11000㎞の旅>を書き始めた時に、ガザを武力統治するハマス

によるイスラエル奇襲作戦が行われ、対してイスラエルの虐殺に対する報復と人質奪還

のガザ侵攻作戦が開始されたのである。

一時、<ヨーロッパ周遊11000kmの旅>を後に回し、 <イスラエル縦断1000kmの

旅>を先に書き上げることにした。

シベリア横断の途中、全世界が9・11同時多発テロ事件の悲惨さに巻き込まれる中、ヨ

ーロッパ各地での幾多の厳重な検問を通過する過酷な旅となったが、ようやく中間点で

あるイスラエルに無事たどり着きそうである。

イタリアでは、第二の故郷であるアシジに立寄りゆっくりと長旅の体を休め、バチカン

に立寄ってローマの空港を後にした。
 

 

    

          イタリアでは必ず立ち寄るわが心の故郷アシジの朝靄

                 イスラエル訪問前にアシジに立寄る

 

 

イタリア・アシジにて聖フランシスコに再会し、      バチカン訪問後イスラエルに向った


 
<ローマを発ち、ロッド・ベングリオン国際空港に飛ぶ>

オリンピック・エアーライン フライト#240 ボーイング737は、夕暮れ直後のヨー

ロッパ周遊最後の地・ローマの空港を30分遅れで離陸し、アテネギリシャ)を経由し

イスラレル・テルアビブに向けて、乗客29名を乗せて飛立った。

 

 

 

 

           ベングリオン空港(テルアビブ・ロッド)着陸直前

 


<9・11 アメリカ同時多発テロ事件の影響>

ローマの空港でのパスポート・コントロールや、荷物検査が厳しくなかったことに一抹の不安を覚えた。

9・11テロ事件(2001年)のニュースは、ここローマに向かっていたシベリア横断鉄道

の列車の中で知った。 その後の通過地での厳重なボディチェックや荷物検査になれてい

ただけにローマでの出国検査には、その無頓着さに驚かされたのである。

ましてや搭乗率が20%に満たないことに、ローマよりアテネ経由でイスラエル・ベング

リオン国際空港までの所要時間1時間40分、なおさら不安な気持ちにさせられた。

 

アテネ空港での乗り継ぎの時間に、ギリシャ民族舞踊団一行が、バイオリンの伴奏で練

習を始めた。男女10人が横一列になってスキップを踏むダンスは、ギリシャの村祭りの

のどかさを表現しており、みな笑顔で楽しんでいる様子である。

一方、真夜中のアテネ空港(ギリシャ)乗継検査場でのセキュリティー・コントロール

は、一変して徹底した厳しい検査に変わった。

乗客1人に対して6人の検査官が、帽子から靴先まで金属探知機で念入りな検査、スケッ

チ用水入れボトルの中身はもちろん、ダイビング用水中カメラはじめバネ式三脚が武器

に改造されないかと念入りな検査である。

特に靴底、腹に巻いていた貴重品入れは徹底的に調べられた。

1時間20分の検査時間は、これまでにない最長である。 これから世界で一番厳しい臨戦

態勢の国イスラエルに向かっていることにある。

乗継空港であるアテネ空港のイスラエル行検査場はすでにイスラエルのテリトリーであ

るといって過言ではない。

夜中02:00アテネ発ロッド・ベングリオン国際空港行に乗り込む乗客は、ほとんどがイ

スラエル人であり、ユダヤ人であろうか。 ユダヤ人男子がかぶるキッパ(宗教帽子)

や、ハシディック(黒ユダヤ人帽子)・フェドラ(コ―シャラビ帽子)をつけた乗客が

ほとんどである。

もちろん東洋人はわたし一人であるから異様である。 緊張感が走るなかにも、ニュー

ヨークでの仕事仲間のほとんどがユダヤアメリカ人であり、居住区でのニュージャー

ジではユダヤ人に囲まれて生活していた関係であろうか、なにか安心と温かさを感じた

ものである。

仲間意識と、さらに彼らユダヤ人の夢の国であるイスラエルに向かうのであるから当然

みな陽気である。

最終チェックは、空港バスで飛行機に向かい、タラップの前に並べられた膨大な乗客の

預けた旅行鞄やスーツケースが整然と並んでおり、各人が自分の荷物を取りだし、最終

セキュリティ・チェックがなされる仕組みになっている。

二個の荷物が暗闇に光るライトに照らされ不気味に取り残されていた。 待機していた爆

弾処理車に積み込まれ闇に消えていったときは、背筋に冷たいものが走った。

だが、約30年前、日本人であるアラブ赤軍数人によって、このような安堵に包まれたユ

ダヤ人を乗せた飛行機がロッド・ベングリオン国際空港に滑り込んだとき、銃乱射とい

う悲惨な殺戮の現場に巻き込まれたのである。

 

■    10月25日  <ベングリオン国際空港(テルアビブ・ロッド) >

 

ここは、1972年(昭和47)5月30夜(現地時間)、元日本赤軍(当時は自称アラブ赤

軍)3人は当時のロッド国際空港で銃を乱射、24人を殺害、86人に重軽傷を負わせた事

件の現場である。3人のうち2人は銃撃戦で死亡、残った一人が岡本公三である。 大学

紛争に敗れた日本赤軍過激派は、PFLPパレスチナ解放人民戦線)と連携を強め、国際

義勇兵としてPFLPの報復依頼を受けて作戦を実行した。約30年前の事件であるが、以

降の日本人に対する入国審査は厳しさを増しているようである


ベングリオン国際空港での入国審査の簡素化に反して、その後のセキュリティ・チエッ

クの厳しさには驚かされた。

入国の目的から始まり、職業、何日間どこに誰のところに滞在するのか、どこから入っ

てどこからどこへ出国するのか、今回の旅行の全日程と、その間の訪問国での滞在の目

的、イスラエルでの滞在先の一覧表(予約の有無・連絡先)、知人の有無、お土産・依

頼品の有無、パスポート全ページの詳細チェック、なぜその国に滞在したのか・・・

等々厳しい尋問が続いた。


全外国人ではなさそうで、無作為に抽出された者と、全日本人に対してであるらしい。

この飛行機に関しては、外国人はわたし一人であり、その上、日本人であったことから

尋問に全力が注がれているような雰囲気であった。


第一回目の尋問の質問項目と、別室での第二回目の尋問が全く同様で、どうも応答の内

容をチェックし、その相違を比較しているようであった。

 

パスポートチェックでは、特に敵対国であるイスラム各国への出入国を問題視している

ようで、イラン・レバノン・ヨルダン・サウジアラビア・エジプト・リビアへの立寄り

は、まず入国を拒否されるようであった。 今回は事前に分かっていたので、新しいパス

ポートに更新していたが、ロシアはじめヨーロッパの多くの国に立寄っていたことが問

題になったようだが、旅自体の行程表の提示で少しは緩和されたようである。

 

その間も、待合所ではトーラー(ユダヤ教聖典)を声高に朗読するユダヤ教徒がいた

り、警察犬を先頭に空港施設の隅々を点検しまわる機関銃を構えた兵士の姿が目に付き

騒然としていた。


また、やたらと青年男女が軍服に身を包み、機関銃を手に持っている姿が目に付き、臨

戦態勢の国であることを痛感させられた。


また、空港をでたら地対空ミサイルの地下壕が目に付き、平和な空港のイメージが吹っ

飛んでしまった。 ここは戦闘の最前線なのである。


厳しいパレスチナ問題を抱えての皆兵的な防衛意識というより、2000年近く離散してい

ユダヤ民族が国家をようやく手に入れ、新国家建設の意欲とその防衛がその情熱とな

って溢れているようにも感じられた


 
街は掘り返され、赤土がむき出しになっており、アラブ風の古い家が壊され、天高くビ

ルディングがあちこちに建設中である。 その赤土の埃をまき上げ走るバスの乗客の3分

の2は、ここでも戦闘服を着て、銃を手にした青年男女である。 たぶん高校生か大学生

であろうか、彼らは軍服姿で授業を受けたり、遊びに行ったり、仕事をしたりと国土防

衛に24時間体制で対処しているようである。


みなはちぎれんばかりの若さと熱気を戦闘服にみなぎらせ、与えられた任務に忠実たら

んとする姿と決意を見せているのである。 国を守るという、常に備えている姿に感動と

感銘をさえ受けるとともに、自由と平和の重みをかみしめているイスラエルの若者にふ

と不憫を感じた。

紫の花を咲かせているブーゲンビリアが、若者たちの気概に応えるように乾燥した赤い

珪砂の土に耐えてその美しさを見せている。 その根元には一本のチューブが引かれ水滴

を落し草木の命を繋いでいる姿は、人間を信じ、おのれを信じるという、純粋なる思い

が伝わってくる。


水一滴が絶えることがないことを信じて蜜柑の樹や、ポプラの木が生きているように、

イスラエルの青年たちもまた血の一滴を信じ祖国を守っているように映った。

 

イスラエル縦断の旅>

 

このイスラエル縦断の旅は、イスラエル全土を、4つのエリアに分け、北部はティベリ

ア、中部はエルサレム死海エリアはエン・ゲティ、南部はエイラット、エジプトに返

還されたシナイ半島エリアではダハブを宿泊拠点として、それぞれの旧約の世界と、新

約のイエスの足跡をたどることにしている。

 

北部ティベリアからは、ゴラン高原ガリラヤ湖・カペナウムの山上の垂訓の地を巡り

中部エルサレムでは、ベツレヘムヘブロンを訪ね、

死海エリア・エン・ゲディでは、浮遊体験やクムラン渓谷のトレッキングにチャレンジ

旧約聖書の世界に迷い込み、

南部エリア拠点エイラットでは、エジプト入国ビザ取得・紅海遊泳・ヨルダン越境・ネ

ゲブ砂漠でのラクダツアーを行いながら、モーセに引率されたイスラエル人のエジプト

脱出、シナイ山での十戒の約束、シナイ半島の40年にわたる放浪、そして神によって与

えられたとするカナンの地到達までを反時計回り(モーセのエジプト脱出行とは逆)を

たどりエジプト・カイロに抜けることにしている。

シナイ半島エリア拠点ダハブでは、紅海に潜り、聖カトリーナ教会を訪ね、モーセ

十戒」を授かったシナイ山に登って創世記の朝日と対面する。

 

 

<ティベリアを目指す> ーイスラエル縦断の旅スタートの街―


テルアビブ郊外のロッド・ベングリオン空港より、イスラエルの北方の街であり、この

イスラエル縦断の旅の出発点であるティベリアの街へバスで向かった。途中、イエス

育ったナザレに立寄り、聖母マリアがイエス誕生を告げられる<受胎告知教会>を訪ね

た。


 

 

<ナザレ散策>


受胎告知教会の地下に洞穴(礼拝堂)があり、天使ガブリエルがこの場所でマリアに現

れ、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」と告知

されたと、新約聖書ルカによる福音書1:26~31に登場する。


ここイスラエルのナザレの地にもイタリア・アシジと同じ糸杉が迎えてくれた。

昨日、アシジで聖フランシスコに再会し、今日は受胎告知のあった、イエスの育ったナ

ザレを歩いているのである。 なんと心躍る<聖地巡礼>の二日間なのであろうか。
 
歴史的にナザレもまた、7世紀にはムスリムイスラム教信者)に占領されたあと、11

世紀には十字軍の侵攻により崩壊と再建を繰り返された。 その後オスマントルコの支

配下に置かれながら、フランシスコの修道士のナザレ居住を許され多くの教会が建てら

れた。 現在はユダヤ教徒イスラエル人)とムスリムパレスチナ人)が、半々住む

静かな街である。
 
ナザレは古き良き静かな歴史の街である。 それに反してイスラエルという国は若い国

である。

アラブに囲まれたイスラエルは、たえず緊張感に満ち、生き抜く力を蓄えているようで

ある。

そのような新しい国造りに励む若いイスラエルを、受胎告知教会の庭に立つマリア像は

静かに見守っているように見えた。

 

 

                           ナザレの受胎告知教会とマリア像


 
幼いイエスが伝道を始められるまでの約30年間、両親と過ごし、育ったナザレの敬虔な

雰囲気あふれる街を散策したあと、乗合バスで50分ほどにある今回の旅のイスラエル

部拠点ティベリアに向かった。
イスラエルの乗り物は、路線バスのほかにシェルートというミニバスがあり、行先は番

号で表示され、例えばティベリア行はプレートに800とナンバーだけが書かれている。

注意して乗車したい。
 
ナザレからティベリアへの路線バス#431、待つこと2時間超。 隣のアラブ君(パレ

スチナ少年)がじっと待つ忍耐には驚いたものである。 誰も文句も言わずただただ待

っている。 誰一人立ったり座ったりしないなか、 短気な日本人はイライラが嵩じ

て、 ミニバスのシェルートに乗り換えたほどである。


イスラエルの時間は大河のようにゆったり流れている。 4000年の間ただただ耐えたユ

ダヤ人は時間という大河に逆らわない<なるようにしかならない>という楽観的な民族

と言っていいのだろうか。


ナザレの街には信号が一つもない。 車社会でなぜこのような非合理がまかり通るので

あろうか。 車は、お互いに譲らないので止まった状態、交差点は特にひどい。 

不思議なことに怒鳴りあうこともなく、警笛も鳴らされることはない。 ここイスラエル

では、日本では出くわさない情景に多々出くわすことになる。


排ガスだけがもうもうと立ち上がる様にもみな無頓着であるから呆れてしまった。
 

<ティベリア滞在>


ティベリアに着いたら、公園の広場で子供たちがフェスティバル開催中、 日本の運動

会のように賑やかな声が行き交っていた。 300人はいるのであろうか、踊ったり、歌

ったり、風船を飛ばしたりと賑やかである。 異常なのは、テロから子供たちを守るよ

うに多くの兵士が配置され、機関銃がにらみをきかしている風景である。


やはりティベリアもまた戦時体制下にあることを気づかされる。
 
ティベリアは北部の拠点都市、大変な人出、騒音、汚物で埋まり、まるでゴミ箱に放り

込まれたように感じた。

やはり、聖フランシスコは豊かな緑の地アシジにあるがゆえに聖人としてあがめられ、

エスはこの騒然の中で神の子となられたことが理解できるような気がした。 例えれ

ば、泥の中の蓮の花がイエスであれば、清流の中に咲く清貧なバイカモは聖フランシス

コといえるのではないかと、思いをはせた。

             

                    ティベリアの中心街                 


                          

                ガラリア湖に浮かぶ<サンタ・マリア号>
 

<▼ ティベリア  MeyouhasYH  ユースホステル連泊  18US$ VISA払い>
 
 
■    10月26日  <ティベリア2日目>  快晴 28℃
 
星に導かれて、とうとうガリラヤ湖にやって来た。

北斗七星の7番目の星はガリラヤ湖に発し、ガリラヤ湖北極星と私を結んでいるでは

ないか。


エスは今から約1970年前、このガリラヤ湖で人々に教えを説き、人々を苦しみから救

われた。イスラエルの一部の人々は、イエスを神の子として受け入れ、付き従った。

その宣教は、新約聖書のマルコの福音書第1章に詳しく書かれている。

第1章17節に「わたしについて来なさい。 人間を取る漁師にしよう。 二人はすぐに網を

捨てて従った」という有名なイエスの言葉がでてくる。
 
エスの教えに聴き入った群衆と共にここガリラヤ湖にいることに覚醒し、早朝、水と

食料と懐中電灯を入れたリュックを担いで、宿泊先のユースホステルを抜け出し、瞑想

するためガリラヤ湖畔に向かおうとしたが、各出入り口の戸はテロ警戒のためか、頑丈

なロックチエーンで閉められ断念せざるを得なかった。

いたし方なくユースホステルのバルコニーから眼下のガリラヤ湖と、天空の星座を見な

がらこの日記を書き、瞑想にふけることにした。

当時の群衆の一人のように、イエスの教えに聴き入り、お魚のおすそ分けにでもあずか

るという気分にさせられている自分に満足した。

 
 
早朝のガリラヤ湖は、神の恵みを受けてまぶしいほど朝日を照り返している。

おじいさんが静かな湖に釣り糸を垂らし、一匹の猫が魚のおすそ分けを待っている。

その魚はセント・ピーターズ・フィッシュ(聖ペトロの魚)という。 

名の由来は、十二使徒の一人ピーター(ペテロ)がガリラヤ湖で釣りをしていると、口

に銀貨をくわえた魚が釣れた事から来ているという。

おじいさんは、1匹を腹をすかした猫に、1匹を私に、残りのすべての魚をガリラヤ湖

レリースして、にっこり笑って帰って行った。 餌は食パンを丸めたものであった。

スケッチし終えたセント・ピーターズ・フィッシュを、わたしもガリラヤ湖に返してや

った。

セント・ピーターズ・フィッシュは、「ありがとう」と湖面を跳ねたあと、ガリラヤ湖

奥深くの我が家へ帰って行った。 今頃、今日の出来事を家族に聞かせていると思うと

温かい気持ちにさせられた。
 
                
               

     

         ティベリア定番魚料理<セント・ピーターズ・フィッシュの唐揚げ>
 
                           

                 セント・ピーターズ・フィッシュ
                 Sketched by Sanehisa Goto
          
                     

               セントピーターズフィッシュ料理の看板の前で
 
 
<セント・ピーターズ・フィッシュ>(聖ペテロの魚)


セント・ピーターズ・フィッシュは、ガリラヤ湖で獲れる白身魚である。

焼くか揚げて塩とレモンをかけて食べる。

聖書(新約マタイ伝17:24)の中で、神殿に納める税についてイエスは次のように述べ

ている。

ある日、神殿の集金人が弟子のペテロのところに納入金の集金にやって来たとき、イエ

スは弟子ペテロに「この世の為政者は税金を誰からとるのか。自分の子からか、それと

も他の人たちからか」と尋ねた。 ペテロ曰く「ほかの人たちからです」と。 

「それでは子は納めなくてよいわけだ」とイエスは言った。

すなわち、神の子イエスは神殿に納める税など支払う必要がないと言っている。

しかし、イエスは集金人の顔を立てるため、先程述べたようにペテロに魚を釣らせたと

ころ、口に金貨をくわえた魚が釣れたので、問題を起こすことなく税金を納めたという

話である。 金貨をくわえた魚が、セント・ピーターズ・フィッシュ(聖ペテロの魚)

といわれる。
 
<カペナウムを歩く>

イエス・キリストガリラヤ伝道の本拠地として有名なカペナウムの街は、ガリレヤ湖

北西にあったが、歴史のある期間、廃墟となっていた。

その廃墟になったと言われるカペナウムに是非行ってみたかったので、ティベリアから

船で向かうため船着き場に行ってみると、朝8時出航の船は、乗船者が少ないので欠航

するという。

いたし方なく徒歩とバスで向かうことにした。 この日は金曜日(安息日前日)なの

で、ここイスラエルでは聖書の教えに従い、午後2時から一切の交通機関が止ってしま

うので、早く戻らねばならない。

ティベリアから09:30発カペナウム行きのバスに乗るが、帰りが心配である。

カペナウム発の帰りの最終は12:30という。
 
 カペナウムからの帰り、セント・ピーターズ・フィッシュ(びわ湖のブラックバスとそ

っくりな淡水魚)を積んだトラックがあったので写真を撮っていたら、運転手が帰って

きて「これは俺の魚だから俺の撮影許可をとっていない」と言い出したので、魚に写真

を撮ってもいいかと尋ねたら「いいよ」と言ってくれたから撮っていたのだと言い返し

たら、大笑い。

ダヤ人はおっかないほど大声でまくしたてるが、相手が分かれば、急に親しくなり、

楽しくなるのである。
 
                          

       

            今朝ガリラヤ湖で獲れたセント・ピーターズ・フィッシュ


 
 <カペナウム遺跡散策>

カペナウムは、イエスガリラヤ宣教の本拠地であったことで有名であるが、その後7

世紀からながい間廃墟となっていた。 19世紀になってフランシスコ修道会の発掘によ

って現在の街になった。 カペナウムの背後の丘の上に「山上の垂訓」を述べられた場

所があり、<山上の垂訓教会>が建っている。
 
 
           

       

                     カペナウム遺跡

 


ガリラヤ湖 - イエス・キリスト宣教の地 - 山上の垂訓協会>

ここガリラヤ湖は、イエス・キリストがいろいろな奇跡を起こされながら神の教え(宣

教)を宣べ伝えられた地である。

イエス・キリストガリラヤ湖の一望できる山上で説教された<山上の垂訓>がマタイ

伝5~7章に書かれている。

この間イエス・キリストは、ガリラヤ湖北西のカペナウムに起居し、船(サンタ・マリ

ア号)を湖に浮かべ、「悔い改めよ。天国は近づいた」(マタイの福音書4-17)と湖岸

の聴衆に教えを説いている。

また、ここガリラヤ湖の宣教で、イエスガリラヤ湖の漁師であったペテロとアンデレ

の兄弟と、ヤコブヨハネの兄弟の4人をはじめ生涯の弟子(12人の弟子)を決められ

ている。

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイの福音書4-18~22)

と誘われている。
 
山上の垂訓は、わたしたちへの教訓でもあるのでいくつか書きだして心に留め置きたい。 山上の垂訓は、八角の<山上の垂訓教会>の壁にラテン語で書き記されている。
 
<山上の垂訓 - 新約聖書マタイの福音書5章~7章>

 「心の貧しい人は、幸いである。天国はその人たちのものである。」

 「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。」

 「腹を立ててはならない。」

 「姦淫してはならない。」

 「復讐してはならない。」

 「敵を愛しなさい。」

 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」
 「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」

 「天に富を積みなさい。」
 「明日のことで思い悩むな。」

 「人を裁くな。」

 「求めよ、さらば与えられん。」


 
<山上の垂訓の丘を歩く>

山上の垂訓の丘を歩きながら、喜太郎の<古事記>、エンヤのアルバムを聴き、瞑想に

ふけった。

今朝、カペナウムを訪ねるため、ティベリアからカペナウム行きのバスに乗ったが、運

転手のうっかりミスでカペナウムを通過してしまい、随分走ってから告げられた。

こちらの確認でようやく気付いたのであろう、随分とのんびりしていたのには驚いたも

のである。パレスチナとの闘争でピリピリした都市部とは違い、地方は案外平穏であり日常の生活をうかがい知ることが出来た。

カペナウムに戻り、山上の垂訓教会に立つには、瓦礫の赤土の丘陵地を歩いてのトレッ

キングとなった。 しかし幸運にもこのガリラヤ湖を眼下に歩く道は、イエスの歩かれ

た野道と一緒であることに気づき、<同行二人>にわたしの内なる興奮は否応なしにも

高まった。

わたしは今ただ一人、イエスと共に山上の垂訓の丘を歩いているのである。

ゴラン高原からの清い風が、ガリラヤ湖にさわやかに流れているではないか。

バスの運転手に感謝である。 

「イエスが歩かれた丘を歩いてごらんなさい」と私を連れて行ってくれたに違いない。

清々しく、幸せであった。
 
 
               

                 ガリラヤ湖の闇夜を照らす光明の月 
 
 
           

            カペナウムの小高い丘に建つ<山上の垂訓教会>で
 
        
         

       

         山上の垂訓教会からガリラヤ湖・カペナウム/タプハの街を見下ろす


 
<タプハ ― パンと魚の奇蹟教会>

山上の垂訓教会のあるカペナウムから5分ほどのタプハ村に、イエスがこの地ガリラヤ

湖で起こした奇跡に基づいて建てられた<パンと魚の奇跡の教会>が建つ。 イエス

宣教を伝えている福音書は、イエスが5つのパンと2匹の魚で5000人を満腹させた

と書かれている。(新約聖書 マタイの福音書14章14~21節)
 
カペナウムの小高い丘に建つ<山上の垂訓教会>から<パンと魚の奇蹟教会>に足を延

ばし、五千人のパンの奇蹟が行われた場所(この一帯をタプハと呼ぶ)を、聖書物語を

思い出しながら歩いてみた。(ヨハネによる福音書6章4-13)
 
           

 

   <パンと魚の奇蹟教会>(タプハ)          教会内の<パンと魚のモザイク>
 


ゴラン高原に立つ>

カペナウムの山上の垂訓の丘を訪ねたあと、ゴラン高原に足を延ばした。

ゴラン高原は、従来、ガリラヤ湖の北東に広がるシリアの領土であり、レバノン・ヨル

ダン・イスラエル及びシリアの国境が接する。

イスラエル第三次中東戦争(1967)で、北方の領土に対する脅威であったゴラン高原

のシリアの砲台を占領し、実効支配をつづけ、その後(1981)併合して現在に至ってい

る。

イスラエルにとって、ゴラン高原は、戦略的にはもちろん、ガリラヤ湖に流れ込む水源

地としての大きな価値を有する生存権確保の地でもある。

ゴラン高原では、多くのキブツ(共有財産方式集落)やモシャブ(個人資本色の強い集

落)が建設され、現在も併合が進められている。
                   

 

               世界の火薬庫の一つと言われるゴラン高原に立つ
 
   
      

         

                   ガリラヤ湖周辺トレッキング          

 

         

               ゴラン高原の地図 (Asahi Student News)

 


ヨルダン川

ゴラン高原ヘルモン山を源流とするヨルダン川は、ガリラヤ湖にそそぎ込み、ヨルダ

ンとの国境を流れ、死海に注ぎ込む全長約425kmの河川である。 その流域は豊かな

緑に恵まれているが、取り巻く丘陵や山岳地帯は乾燥した砂地や岩石のころがる不毛地

帯である。
 
                           

       

                  ゴラン高原に発するヨルダン川
 
 

ゴラン高原に思う「平和の願い」>

この荒涼とした赤き砂地のゴラン高原にも2月から3月にかけて緑の中に野花が咲くとい

う。

国境のない紺碧の天空に吸い込まれて飛翔する自分を想い描いていると、地球に存在す

る自分が小さく見えてくるから不思議である。人類は戦いをやめず、平和を犯しあって

己のテリトリーを広げようとする。 そこには不安と、神をも恐れない人間欲が渦巻く

汚い地球があるに過ぎない。
 
ご存じだろうか、ここゴラン高原には、聖書の時代5000年のルーツをもつ人類に平和の

象徴であるワインを提供し続けてきた世界最古の産地の一つがある。 ゴランのワイン生

産の起源は、世界に散らばるユダヤ教徒向けの聖酒としての<コーシャ・ワイン>であ

る。 

現在ではゴラン・ハイツ・ワイナリー産の<ヤルデン ピノ・ノワール>が有名である。
 
           
             

            

               ゴラン高原産赤ワイン<YARDEN Pinot Noir
 
 
イスラエル支援ボランティアーエズラ作戦>

ゴラン高原より戻り、ティベリアの街では、世界各地から集まった老若男女の<イスラ

エル支援ボランティア>のグループに出会った。

これらボランティア達は、イスラエルに献身するボランティアを支援する団体<エズラ

作戦>等によって運営されている。

街角でボランティアを終え、帰国前のアメリカ人・リタイアグループ3人から、ボラン

ティアの動機について聞いてみた。

彼らはイスラエル人ではなく、アメリカ人だという。 リタイア(引退)後、イスラエ

ル建国の役に立ちたく<イスラエル支援ボランティア>に参加して6年目、コロラド

ニュージャージ・サウスカロライナ各州から参加しているという。

支援プロジェクトは色々あって、自分たちは医者だったので、医療現場での支援にあた

ったとのこと。 衣食住の支援があり、ボランティア後イスラエル各地を旅行して帰国

するのが楽しみだという。

福音教会派(イスラエル建国を支援する世界的一大組織)のクリスチャンであり、聖書

に出てくるイエス・キリストの宣教の道をたどるのが至福の時間だという。

<I SERVED IN ISRAEL>ロゴの入ったTシャツを見せて、写真に撮ってくれという。

好々爺の嬉しそうな、ボランティアを終え、幸せそうな顔が印象的であった。

エズラ作戦>(イスラエル支援)は、里親・キッズ・フードバンク・ホロコースト

存者・新移民ウエルカム・大工・テロ被害者・救出・医療・ボランティア・希望の糧・

災害ほか多くの支援プロジェクトを用意している。

ほかにボランティアやプロジェクトを支援する献金も受け付けている。

特定非営利活動法人
B.F.P.Japan (ブリッジス・フォー・ピース)
Tel 03-5969-9656(平日10時~17時)
Fax 03-5969-9657
 
   

        イスラエル支援ボランティア参加のアメリカの老戦士たちと (ティベリア)
                                      

       

                イスラエル支援ボランティアのTシャツ 
 

 

 <十分の一税・献金> 

ユダヤ教徒や福音系キリスト教徒等が宗教組織や祖国イスラエルを支援するため支払

う、ある物の十分の一の部分のことをいう。

アメリカに在住していた時、多くのユダヤアメリカ人と接したが、そのほとんどの友

人がユダヤの国イスラエルに対して毎年<十分の一献金>を送金していたことを知って

いる。

これらの世界中からのユダヤ人による献金は、イスラエル防衛・移民促進・国家財政・

共同体支援・教育医療等に回され、イスラエル国の発展維持に使われている。


 
ディアスポラ(民族離散)>

紀元前1世紀ごろ、ここパレスチナの地に形成していたユダヤ人国家は、ローマ帝国

よって征服され、世界中に民族離散(ディアスポラ)した。

ディアスポラは、「バビロン捕囚後にユダヤ人がパレスチナ以外の土地へ離散している

状態」を意味する。 

ユダヤ人は、2000年近く統一した民族集団を持たず、ヨーロッパを中心に世界

中に移住し、離散した。

彼らは、ユダヤ教信者又はユダヤ人の親を持つユダヤ人として、ディアスポラ以降世界

各地で共同体を形成し、タルムードを中心にユダヤ教の信条と秘儀を厳守してきた。

その後、彼らは各家庭を中心に、ユダヤ人コミュニティーを作り、信仰を守り、迫害に

耐え続けていたが、19世紀からシオニズムイスラエルの地パレスチナに故郷を再建す

る)運動がおこり、パレスチナの地にユダヤ人の帰還が始まった。

結果として、20世紀に入りパレスチナへのユダヤ人の流入が止まらず、パレスチナのア

ラブ人とユダヤ人の対立は収拾がつかなくなった。

1947年、国際連合パレスチナ分割決議がなされ、翌年ユダヤ人国家「イスラエル」の

独立宣言がなされた。
 
その誕生間もない新国家形成を援助するため、世界中のユダヤ人の多くが、先述した<

十分の一献金>運動に参加し、その献金額は莫大な額となり、中堅国の国家予算に匹敵

するとも言われている。

世界の各国に定住するユダヤ人の職業である医者・弁護士・学者・貴金属ブローカー・

世界有数のIT起業家はじめ、ノーベル受賞者が多いことからもわかるようにその献金

能力の高さがうかがい知れる。

イスラエル建国に反対したアラブ諸国との数次にわたる戦争にあたっても、小国である

はずのイスラエルが勝ち続けているのも世界中の仲間からの浄財による圧倒的な最新兵

器の保有と、敵地に囲まれた兵士の祖国防衛の意識の高さにあるといえる。

このイスラエル縦断旅行でも、各地でイスラエルの決死の防衛姿勢を度々目撃すること

となった。

そこには<選ばれた民族の存亡>を自覚した全国民、いや全ユダヤ民族の決意がみなぎ

っているからだとみた。

現在も、休むことなくパレスチナの砂漠を緑にかえる運動が、祖国防衛のかたわら続け

られている。

その情熱と理想郷の建設と祖国防衛にユダヤ人の心髄と覚悟を見た思いである。

ひるがえって、祖国を追われたパレスチナ人は、ヨルダン河西岸とガザ地区に押し込め

られ、自治政府のもと、イスラレルとの和平交渉に務めているが、パレスチナとイスラ

エルとの2国家間交渉は暗礁に乗り上げた形で、現在に至っている。

イスラエルによるヨルダン河西岸への入植地拡大などに対する、2国家間の軋轢、憎し

みの連鎖は、いつ爆発し、衝突をしてもおかしくない状態が続いている。
 
(2023年10月28日勃発の、パレスチナイスラエル間の紛争も、それぞれの思惑のもとに衝突したものであり、二国間の心情を理解できる国は少ないと言わざるを得ない。 そこには互いの存在を抹殺し去る宗教間の根深い対立の上に、どちらにも民族離散<ディアスポラ>という生存権がかかっているからである。)

 


■    10月27日  <ユダヤ教安息日>   ティベリア2日目 快晴 
 
ティベリアでの滞在先である<メヨウハス・ユースホステル/ Meyouhas Youth Hostel

>は、ほぼ街の真ん中にあり、どこへ出かけるのにも便利である。 お世話になるドミト

リーは二段ベットが3台、6人部屋である。(ドミトリー朝食付1泊@18US$ VISA使

用)

バス停にも近く、正面にはスーパーもあって便利である。

ユースホステルの朝食は、ハム&エッグ、チーズ、コーヒー、ミルク、イチゴジャム、

ロールパン2、ヨーグルト、野菜サラダ(トマト・キューり・ピーマン)であった。

この朝食で、イスラエルに来てはじめて沢山の小さい蝿に襲われたというより、刺され

た。多分、老バックパッカーが発する長旅の匂いに対して食いついてきたのであろう。

今日はどうしても温泉につかり体をきれいにしたいものである。
 
今日は、ユダヤ教安息日<シャバット>(ユダヤ教の存続の源泉)である。 ユダヤ

の商店はみな閉まり、あの騒然とした街中は静まり返り、シナゴーク(ユダヤ人の教会的

存在・ユダヤ人コミュニティーの中心的存在)ヘ急ぐ正装の数組のユダヤ人家族と、観光

客のみが目に付く静かな土曜日の朝である。

ユダヤ教が6000年近く保たれてきたのは、この安息日・シャバットを中心にユダヤ教

典トーラやタルムードの戒律を守り、学んできたことにあるといっていい。
 
朝食のあと、ガリラヤ湖の遊覧船<サンタ・マリア号>に乗って、湖上よりイエスの奇

跡をたどった。

まず驚いたのは、乗船場の周りには鉄条網をはりめぐらせた高い塀が立ちはだかり、ス

ッフ全員がラフな格好にむき出しのピストルを太い皮ベルトに、無造作に突っ込み、

乗船客を出迎え、案内してくれたことである。 パレスチナとの緊張関係がひしひし伝

わる場面である。

日本のような安全と平和は、ここイスラエルにはないことが分かる。自衛こそビジネス

成立の最大の要件であるといっていい。 08:00出航というが、いつになることかのん

びりしたものである。

昨晩、深夜まで隣のドミトリーに泊っていた高校生たちが大声で激論というか、推測だ

がタルムードを輪読しながら、各自が意見を述べ戦わせていた。

お陰で寝不足である、サンタ・マリア号の出航までこちらは居眠りである。
 
 
            

          ガリラヤ湖上体験乗船―イエスが湖上より宣教したサンタ・マリア号         
 
 
ガリラヤ湖に学ぶ>


ガリラヤ湖には多くの高校生が聖書やタルムード研究を兼ね、修学旅行に来ていた。 

もちろん世界各地にあるユダヤ人学校の生徒たちである。 彼らは大切そうにタルムー

ト(ユダヤ教徒の生活・信条がおさめられている聖典)を手に、このヘブライ語で書か

れた貴重な教科書を開きながら、引率のラビ(ユダヤ教聖職者)の解説を真剣に聞き、

生きた勉強に励んでいた。

<God’s always with us>とラビはしめくくり、サンタ・マリア号は帆先をティベリアの

港に向けた。

船を下りる直前には、一列になって全員手をつなぎガリラヤ湖に向かって祈りをささげ

る姿こそ、次世代のユダヤ人を育てる教育の原点であるように思えた。

この祈りの隊列越しにカペナウムの街を望見していたら、背後に鋭い視線を感じた。 

生徒を守るために乗船していた若い兵士の銃口がこちらに向けられていた。 彼は唯一

人のアジア人に警戒心を怠っていなかったのである。 一瞬緊張が走ったが、若き同胞

である生徒を守ろうとする兵士の心情を理解することが出来たので畏敬の念を持つとと

もに、静かに心を落ち着かせることにした。
 
 
                           

             ガリラヤ湖に降り注ぐ天使の梯子(はしご)に迎えられる


                 

ガリラヤ湖で泳ぐ>


サンタ・マリア号を下りたあと、計画していたガリラヤ湖で泳いだ。 あのイエスの弟

子たちが恐れた暴風のガリラヤ湖で泳いだのである。

ユダヤの住民や観光客が体力づくりのためか、イエスの教えを肌で感じるためか、また

瞑想をしているのか多くの人がガリラヤ湖の水中歩行を楽しんでいた。

少し濁ったガリラヤ湖に起こる波の音を聴きながら、紺碧の青空に溶け込んで、背泳ぎ

を楽しんだ。

対岸のはげ山であるゴラン高原の山々は、紫の夕陽に照らされて、静寂の中で同じく瞑

想をしているように見える。

ガリラヤ湖畔で白い半月が残るガリラヤ湖ゴラン高原をスケッチしながら、イエス

宣教された約2000年前の歴史の天子の梯子(日差し)を楽しんだ。

 

 

 

      ガリラヤ湖畔より紫染まるゴラン高原を遠望    ガリラヤ湖畔で2000年前の歴史の日差しを浴びる

 

しかし、聖なるガリラヤ湖もまた、多くの観光地と同じく湖岸のゴミの山には目を覆い

たくなるほどであり、痛ましい限りである。

いつものようにささやかな湖岸のボランティア清掃、少しはおのれの心の掃除が出来た

ようで、こころ軽やかになった。

                                 ガリラヤ湖畔より対岸のゴラン高原をスケッチ

 

       

              ガリラヤ湖に立つ十字架

 

ガリラヤ湖の温泉>


ティベリアの街より20分ほど南に行ったガリラヤ湖畔にある温泉に出かけ、泳ぎによっ

て冷えた体を温め、長期の旅行での疲れた体を癒した。

今日は金曜日で午後4時までの営業であるという。(入浴料57FINとロッカー代’7FIN、

計64FIN)

ユダヤ教安息日前日で、あすの土曜日(安息日)に備えているようである。

ここティベリアの温泉は、多くのヨーロッパの温泉と同じくプール型で水着着用であ

る。
 
屋内・屋外温泉プールとサウナで構成され、古風なレンガ造りの建物の中の各施設は清

潔であり、明るい。

温泉は地元の交流の場でもあり、プールサイドでファッションショーが行われていた。 

飛び入りの肥満のおばさん達にみな手をたたいて爆笑、若い娘さんたちも美しい姿態を

輝かせてのオンパレード、天真爛漫な民族性に大喝采である。

イスラエル全土の戒厳令的な生活の中で、人々はこの国の建国に自信と夢を託し、ひと

り一人が役割を自覚しているようであり、笑いとユーモアが満ちていた。

 

 

               <Hamei Tveria Hotspring>  ハミ・ティベリア温泉の施設・温水プール


 
ガリラヤ湖は、海抜マイナス213mにある淡水湖であり、わたしの住むびわ湖によく似

ていて懐かしい。 湖面の波紋は、平常は穏やかであるが、荒天時の波高は最高で1.5

mを越えるらしく、比良八講降しのびわ湖によく似ている。

またびわ湖(674㎡)も<びわのうみ>というように、かなり小さいここガリラヤ湖

(166㎡)も聖書では<ガリラヤ海―Sea of Galilee>と呼んでいるのも、その歴史の深

さを感じる。

更にガリラヤ湖に棲むセント・ピータ―ズ・フィッシュは、びわ湖に棲む外来魚ブラッ

クバスにそっくりであり、これまた親しみ深いものがある。

2000年ほど前、イエスはここガリラヤの地を宣教の地として選ばれ、山上の垂訓を述べ

られた。

弟子たちが小さな船に乗りガリラヤ湖を渡り、カペナウムに向かっていた時、強風に煽

られ船が沈むほどであった。 そのような時イエスは湖上を歩かれて近づき、

「恐れることはない。わたしだ。」<ヨハネ福音書6章16~21>

 といわれ、恐れる彼らを勇気づけて、無事カペナウムに導かれたとある聖書の一説を思

い出していた。
 
ここティベリア温泉を中心とした避暑地は、昼間の32℃から夜間の3℃と、特に夜は涼

しい。 ゴラン高原に展開する国連平和維持軍の将兵が休暇を楽しむ姿が多く見かけら

れた。
 
夕食は、久しぶりに栄養をつけるため中華料理を食べにティベリア市内にある<文茗閣

>に出かけた。

メニューは、ビーフ・チャイニーズベジタブル炒め、ポークのスイート&サワー、フラ

イドライス(炒飯)、セント・ピーターズ・フィッシュの唐揚げ、エッグスープと豪華

である。 もちろん食べきらないので残りをテイクアウト、夜食に充てることにした。

  

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            ガリラヤ湖上のサンタ・マリア号にてティベリアを背景に
 

 

▼10月25~27日 ティベリア滞在 
 <Meyouhas Youth Hostel> 連泊  ドミトリ1泊18US$ 
 
 
 
■    10月28日  <ヘブロン/ベツレヘム/エルサレム散策> 
 
エルサレムに向かう>

エルサレム行バス(バス#963 エリコ経由)は、夕闇迫るヨルダン川の流れを紅く染

め、対岸のヨルダンの村々の灯火が点き始めている風景を見せてくれる。

またバスは、ティベリアとエルサレムの中間、Nabulus/ナブルスでトイレ休憩、途中沢

山の防禦用半地下トーチカや検問所を通過、臨戦態勢のイスラエルの国を守る姿勢と覚

悟を見せられる。

 

            イスラエル全土でみられる防禦用半地下トーチカ


                                           
現在のイスラエルは、主権と生存権を認めないアラブ諸国との本格的戦争は避けら

れてはいるが、いまなおイスラエルの独立を認めないパレスチナとの臨戦体制下に

あることには変わりない。
 
すでに述べたように、1947年国際連合パレスチナ分割決議を成立させたのに応

じ、シオニズム運動はイスラエルの独立宣言に引き継がれる一方、分割に反対する

周辺アラブ諸国パレスチナに侵攻し、第一次から第四次中東戦争へと発展してい

った。

その後、アラブ国家との戦争は避けられ、非政府組織であるパレスチナ解放機構

PLO)などとのゲリラ・テロ戦争へと変化してきている。

イスラエルは、徴兵制のもと臨戦態勢下にあるのである。

<注 : 2023年11月末現在、アラブ諸国の一部、UAEアラブ首長国連邦)やスーダンサウジアラビアは、アメリカの仲介によるイスラエルとの技術提携を求めて国交正常化を持ち始めている>
 
 
天地創造の地、パレスチナ

パレスチナ、そこは地の塩を囲む、赤い砂の世界である。

過酷なまでに人を寄せ付けないこの不毛の地に、人の精神だけで生きてきた時の流れが

いまなお脈打ち続けている。

純粋にしてすべてをもぎ取られたような涸れ果てた地の底から、沸き起こる純粋な光が

神々しさを醸し出している不可思議な地である。

小さな一粒の赤い砂、手植えされた緑の葉っぱ、砂漠にしみ込んで消えゆく引かれた一

滴の水、そこに降り注ぐ一条の太陽の光、一陣の風に舞う砂埃、目に飛び込む一瞬の砂

漠の風景にここパレスチナの流れゆく時の豊かさとともに、不毛のなかにみなぎる宗教

性を感じる。

不毛の土地でありながら、そこには慈愛に満ちた神のあたたかい導きを感じるのであ

る。
 
いま、ティベリヤからバスに揺られて緑豊かなヨルダン川の西岸<ウエスト・バンク>

を南下し、飛び地であるエリコを経てエルサレムに向かっている。


 
<エリコ・Jelichoという聖書の街>

バスは、ここウエスト・バンク(ヨルダン川西岸)、パレスチナ自治区であるエリコの

街に立寄り、エルサレムに向かって走り出した。

いまから3000年も前、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、シナ

イ山でモーセ十戒を授かり、モーセの後継者ヨシュアの指揮のもと、シナイ半島の砂

漠を40年間彷徨したあと、神によって約束された待望のここカナンの地に入った。

ここエリコは、街の周りを7回ラッパを吹いて回ったら城壁が崩れ落ちたという有名な

<エリコの戦い>の舞台である。

旧約聖書ヨシュア記6章3-5)

                                  

        ヨルダン川西岸、エリコを染める聖なる夕焼け (ウエストバンク・エリコ)
 
 
エルサレム到着>

エルサレムのセントラル・バス・ステーションでは、発着するすべてのバスを利用する

乗客に対して、空港で行われるX線検査ではなく、より丁寧確実な手/目/鼻/耳を使って

の徹底したマンツーマンの手荷物・身体検査を受ける。

バス停を出た時には、すでに夜9時ごろになり今夜泊るユースホステルを探すのも億劫

になって来たので、タクシーの運転手に頼んでみた。 連れていかれたのはユダニズム

シオニズム)の世界連盟が運営する宿泊施設でユースホステルと同じく世界中のユダ

ヤ青年に安全な宿泊施設を提供している。 もちろんユダヤ人以外の宿泊も大歓迎であ

るが、わたしのエルサレムでのスケジュールを聞き、旧市街にあるシタデル・ユースホ

ステルを紹介するという。
 
エルサレム巡礼の前に、ヘブロンベツレヘムを訪問することにしてエルサレムでの滞

在先であるシタデル・ユースホステルエルサレム旧市街アルメニア人地区・ヤッフォ

門から約5分)に荷物を置き、先にヘブロンベツレヘムに出かけることにした。 短

期間のエルサレム滞在になるため、同室者に気を使わなくてもいいように部屋はシング

ルルームとし、次なる旅先であるアフリカ縦断に備えて体を休め、アフリカ行きの準備

に備えることにした。

朝食付き1泊43US$で、シングルルームといっても、ドームである4人部屋を借り切る

だけのことであるが、久しぶりに広い部屋に一人寝である。
 
このYHの部屋から旧エルサレムを取り囲む城壁が見える。 ライトアップされ美し

く、聖書の世界にいることを実感させられる。 しかしできれば、わたしにはイエス

生涯最後のエルサレムという暗闇と静寂の舞台設定が欲しかった。
 
<▼10月28~29日    エルサレム  
             シタデル・ユースホステル連泊  シングル@43US$>

      

 

                <シタデル・ユースホステルエルサレム


ヘブロンベツレヘムの街は、エルサレムやエリコと同じくヨルダン川西岸地区<パレ

スチナ自治区/ウエストバンク>にあり、1967年の第三次中東戦争以来イスラエルの占

領地となっている。

現在、エルサレムヘブロンベツレヘム・エリコを含む西岸地区は、イスラエル軍

パレスチナ政府によって統治されており、多くのイスラエル軍兵士よってパトロール

れている。
 
エルサレムからは、アラブ・バスが運行されており、北西にあるセントラル・バスステ

ーションのヤッファ通りに面するバス停のバス#23に乗車(5NIS)し、約1時間30

分でヘブロンに着く。

また、ダマスカス門を出たところからもヘブロン行ミニバスが出ている。

                                                  

ヘブロン散策― 旧約聖書・マクペラの洞窟>

エルサレムから一歩郊外に出るとイスラエル軍は臨戦態勢である。ヘルメットをかぶ

り、重機関銃を構え、装甲車で停止線をつくり、引き金に指をかけている。 アラブ・パ

レスチナのテロ襲撃に備えているのだろうが、実に生々しく、緊張感が走る。

平和な日本から来た者にとっては異様に感じるが、ここ聖書の地は、旧約の時代から緊

張の中に平和が保たれてきたのである。

パレスチナ側の心情も痛いほど理解できる。

再度、ユダヤ民族のディアスポラ(離散)の歴史をのぞいておきたい。

エス誕生の1世紀ほど前、支配者ローマに反乱してユダヤ民族は追放され、ディアス

ポラ(離散)を余儀なくされた。 このユダの地(イスラエル)を離れ、世界中に散ら

ばったのである。

1945年シオニズム運動のもと、2000年程前のパレスチナの地への帰還を国際連合の決

議によって認められたが、その間エルサレムや各聖地を守り続けてきたのは、ユダヤ

族無きあと祖国としてきたパレスチナの国であり、パレスチナ人であった。 いくら祖

父の地であるといって帰還してきたユダヤ人に、これまた彼らの祖父の地を明け渡す理

不尽さに抵抗するのは当然であるとパレスチナの人々は考えているのである。

この両者の当然の主張が、相譲ることのできない不審と憎しみと戦いを続けさせている

のであり、交わることのない主張が存在し、終わりなき敵対が続いているのである。

ユダヤ人の理不尽なパレスチナ帰還、イスラエルの建国は、反対にパレスチナ人のディ

アスポラ(離散)を引き起こそうとしていると、パレスチナ人やアラブ諸国は危惧して

いるのである。
 
エルサレムを離れると、瓦礫と岩がゴロゴロした赤い丘が続く。 このような荒れた土

地だからこそ人々は神にすがったのであろう。 イエスがこの地に生まれたことが当然

なように思えてならない。 自然との熾烈な戦いのない豊かな地に主イエスが誕生する

ことはなかったといえる。
 
ヘブロンは、パレスチナ政府の管轄下にあり、ヘブロン出入りの車やバスはイスラエル

軍によって厳しくチェックされている。

ヘブロンには、イスラエル最初の族長アブラハムの墓がある。

アブラハムは、ノアの洪水後、神による人類救済の出発点として選ばれ祝福された最初

預言者であり、「信仰の父」とも呼ばれる。 ユダヤ教イスラム教、キリスト教

祖であり、預言者であり、聖人でもある。

旧約聖書『創世記』23章8-9節における<マクペラの洞穴>の記述は、妻サラを埋葬す

るためにアブラハムがマクペラと呼ばれる地を含んだ畑をヘト人エフロンから買い取っ

たとある。

「民族の父母」と呼ばれるアブラハム、サラをはじめ、イサク、リベカ、ヤコブ、レア

の6人が埋葬されており、「マクペラの洞窟」はユダヤ教第2の聖地であり、キリスト教

だけでなく、イスラム教徒からも聖地とされ、巡礼者があとをたたない。

 

 

 

イスラエル軍ヘブロンへの検問所   ヘブロン市街への緩衝地帯を抜けて<マクペラの洞窟>へ向かう


 
緊迫したイスラエルパレスチナの争いのなか、どこから迷い込んできたのか真っ白い

鳩が<アブラハムの墓>の上にとまっているのに出会った。 緊迫した情勢の中にもの

どかさと、融和を求めるしるしに見えた。 アブラハムやその家族の墓を管理するのは

パレスチナ側で、中ではイスラム教徒もユダヤ教徒も共に詣でているが、礼拝所はそれ

ぞれ別々になっている。
 
アブラハムの墓のある<マクペラの洞窟>の周りは、誰も住まない死の街だが、追い出

されたパレスチナ人の家にイスラエルの旗がひるがえり、電気屋が不法に商売を始めて

いた。 入植は危険だが、ユダヤ人はこの危険こそ国のためだとの考えから、どんどん

入植を進めているのが現状である。 ユダヤ人のイスラエル建国への想いは、入植とい

う形で拡張されて行っているように思える。
 
無人である緩衝地帯<死の街>をとおり、アブラハムの聖所に向かっている時、若いイ

スラエル兵の一隊が私を取り囲み、「よくここまでたどり着きましたね。 ここからは

私たちがあなたを守ってこの緩衝地帯を通過します。 これは私たちの役目であり、義

務です。」と、声をかけてきた。

さっそく防弾チョッキを着せられ、各人自動小銃を構え、先頭の指揮官、わたしを中に

前方・後方の左右に兵士4人が守り、後方に無線機を持った兵士の6人の構成である。 

たえずテロによる狙撃を警戒しての前進防禦の姿勢である。 緊張感に解放されたと

き、すでにアブラハム墓所である<マクペラの洞窟>の入口に立っていた。

 

 

         

                 ヘブロン・マクベラの洞窟付近地図
 
 
人が生活している、人がそこにいる、それだけで人間というのは安心感にひたれる。

戦場や国境の無人地帯ほど不気味さを感じ、不安を感じる所はない。 この世から人間

が消えてしまったような無が支配する空間といえる。 これは山や氷河や海上での孤独

感とは違って、生命の鼓動を感じることのできない虚無・廃墟の世界であるといえる。

小学1年生の時、日本への引揚げ前に経験した、北朝鮮に侵攻され廃墟となったソウル

京城)を彷徨した時も死の街を歩いた。 また世界各地を回りながらそれぞれの国境

を徒歩で横断するときの無人地帯の不気味さを思い出していた。

                

 

   無人緩衝地帯の不気味さ      マクペラの洞窟(ヘブロンアブラハム・モスク 

 

          

            マクペラの洞窟にはアブラハムや妻サラ、家族の墓がある 

             

            

                     アブラハムの聖所

 

アブラハムの墓では、警戒のイスラエル兵も銃をおき、防弾チョッキを脱ぎ、キパ(ユ

ダヤ教男子の帽子)をかぶり墓に詣でていた。 墓所では、神のもとジューイッシュも

ムスリムも、クリスチャンも平等公平であり、それぞれの信仰を邪魔しないという暗黙

のルールが成立しているようである。

この日、アブラハム墓所には観光客はわたし一人であり、ムスレムの行者数人がコー

ランを唱え、瞑想にふけっていた。

どうも現在のイスラエルパレスチナ関係の険悪化から観光ツアーは組まれていないよ

うである。

この時期のただ一人の観光客として、イスラエルパレスチナ両サイドからそれぞれの

歓待を受けたのには驚かされた。 両サイドから、それぞれの和平願望の度合いを伝え

るため、好意的待遇を与えてくれたのであろうか。

 

 

     ヘブロン旧市街入口                  ヘブロン旧市街市場


 
アブラハム墓所>にぬかずいたあと、イスラエル小隊による6人の護衛を受け帰路

についた。

ヘブロンの旧市街を散策し、ヘブロンより同じくヨルダン河西岸にあるベツレヘムの街

に乗合バスで向かった。

しかし途中、道路がバリケートで封鎖されているということで、バスは通過できないと

のことである。 乗客は降ろされ、シェルートという乗合ワゴンでヘブロン脱出という

ことになった。
 

ベツレヘム散策―イエス生誕地>

西岸地区(ウエストバンク)にある飛び地・パレスチナ自治区ベツレヘムへは、ボー

ダライン(イスラエルパレスチナの境界線)を越えて旧市街へは、われわれの乗った

シェルート(乗合ワゴン)は入れないということで、乗客は降ろされた。

ヘブロンと同じく入域するためにはイスラエル軍の厳重な検問を受け、緩衝無人地帯を

歩いて行くことになる。
 
私はいま緩衝無人地帯、戦闘地区の最前線にいて、いつ狙撃されるかもしれないと思う

だけで恐怖を感じながらボーダライン(無人境界地帯)を越境中である。 この荒涼と

した無人地帯も、もし登山中であれば冒険心をかきたてられるであろうし、人間さえい

なければ、ここパレスチナの地も蜜に溢れた桃源郷であろうと思う。 人間の存在は、

愛と共に醜さをもたらすものであることを強く感じた。
 
ベツレヘムの蝋燭の光が揺れるこの薄暗い<聖誕教会>が、イエス・キリストが生まれ

た飼い葉桶のあった聖なるところである。 あの東方の博士たちがラクダに乗り、流れ

星に導かれて、この地にやってきて幼子イエスに拝したように、わたしも又東方日本よ

りやってきてこの聖なる場に座ってしばし瞑目した。

外の騒しさは消え、静寂だけが漂っている。 ヘブロンアブラハムの墓の物々しい警

戒に比べたら、ここ聖誕教会の聖なる地にはほとんど人影無く、だれでも自由に詣でる

ことが出来る。
 
ここベツレヘムは、ヘブロンと同じくパレスチナ自治区が統括管理しているが、その治

安に驚くほどの違いがあるのには驚かされた。

 

              ベツレヘムパレスチナ自治区)のメインストリートで

 

               パレスチナ武装闘争民兵募集の貼紙
 

                聖誕教会のメンジャー広場にて

 

    

       聖誕教会             洞窟跡にあるイエス生誕飼い葉桶

 

 
聖誕教会の入口付近に馬小屋として使われた洞窟があったといわれ、現在は<ベツレヘ

ムの星>を配した祭壇が置かれ、イエス生誕地であることを示している。

燭台の上の蝋燭の炎が揺れ、その前にある飼い葉桶に生誕のイエスが寝かされたのであ

る。

子供のころ教会学校ではじめて聞いた、あの清らかな主イエス降誕を祝う讃美歌(10

9)とオルガンの音が、こころに響き広がって行った。

久しぶりに、清々しい<無の風が>体を吹き抜けていった。
 
     「きーよしこの夜 星はひかり すくいーのみー子は まぶねーの中に 

                    ねむりーたもうー いーとやーすくー」
 
ヨルダン河西岸地区にあり、イスラエル兵による厳重な警戒のもとにあるヘブロンやベ

ツレムヘムの散策で、おおくのパレスチナの住民と接することが出来た。 露店でバナ

ナを買ったとき、貧しい服装のパレスチナの主人は、東洋からの客人と知って<

Welcome to Palestine !>といい、代金を受け取ってもらえなかった。 多くのパレス

チナの人々は人懐っこく、純真な人びとである。 いつの世も政治と民衆は、切り離し

てみるべきなのかもしれない。

乗合バスでも、運転手の手渡してくれたヒマワリの種を口に含んで、バスの窓から殻を

お互い吹き飛ばしては友情を深めたものである。

しかし、ヘブロンにしても、ベツレヘムにしても大きな街であり、雑然とした街並み、

騒然とした賑やかさに少し失望させられたことも事実である。 ひっそりとした聖書的

静寂さと人々の生活を想い描いていただけに、願望に過ぎなかったことに気づかされ

た。

ここは、パレスチナイスラエルが、生存をかけた地であり、生活の場なのである。
 


<ヨルダン河西岸での危機対策>

ヘブロンベツレヘム訪問を終え、<アブラハムの墓>では帽子をかぶれと警備のイス

ラエル兵士に言われ、聖誕教会では帽子を脱げといわれた真逆の指示に、いまだ真意を

計りかねている。

帽子を脱ぐと云うことは聖なる場所では当然のマナーと思うがいまだその意味を解しか

ねている。これまたテロへの警戒からか。
 
ヘブロンベツレヘムというパレスチナ自治区への路線バスは、その時のイスラエル

パレスチニア間の政治情勢やテロによる騒乱などにより突然の運転休止が度々行われ

る。 代わりに乗合ワゴンが地区別に乗客が集まり次第出ているから問題はない。

またバス路線には、緊急突発時に備えて脱出路があり、道路がバリケートやブロックで

ふさがれたり、爆弾による道路陥没を避けるための裏道が完備している。 ただ慌てる

ことなく乗客と同じ行動をとっていれば安心である。 道なき道を脱出することになる

が、これまた問題はなく、心配することはない。 ここはパレスチナなのであり、すべて覚悟して行動すればいいだけである。
 
危険を感じたといえば、ヘブロンアブラハムの墓に向かう道中の無人地帯であろう

か。 この無人地帯を抜けなければイスラエル兵が占拠しているアブラハム・モスク・

エリアに入れないのだから、覚悟が必要である。 この緩衝・無人地帯の向こうに護衛

イスラエル兵が迎えてくれたことは先に述べた。 イスラエル兵に迎えられるまで、

死の恐怖を感じたといえば大げさだが、猫一匹の動く音に肝を冷やしたり、こわれた窓

からの狙撃におびえて軒下を縫って歩くのだから、戦闘地域を潜りぬけているのであ

る。

住民の強制退去によって出来上がった無人地帯は、住民の生活があっただけに、その廃

墟は空虚な空間として無機質に残された遺跡のような静寂さが漂う。 不気味であり、

おのれの足音にも冷汗をかいたが、イスラエル兵の小隊に出迎えられた時には、こころ

から安堵したものである。
 
では、ベツレヘムを後にして、乗合ワゴンでエルサレムに戻ることにする。

夕方、嘆きの壁に出かけ、広場のうしろに座ってユダヤ教徒の敬虔な祈りの場に接し

た。

 

         

                 ヨルダン西岸地区の乗合ワゴン

 


エルサレム旧市街を歩き、死海をへてエイラットに向かう>

ベツレヘムを後にして、乗合ワゴンでエルサレムに戻った。

夕方、嘆きの壁に出かけ、広場のうしろに座ってユダヤ教徒の敬虔な祈りの場に接

した。

 

                 岩のドームに接する嘆きの壁

 

明日は、エルサレム旧市街のイエスが最後に歩かれた道<ヴィアドロローサ/悲し

みの道>をたどることにする

 

<▼10月28~29日  エルサレム  シタデル・ユース・ホステル連泊 

                  シングル @43US$ >

 

   

          エルサレム旧市街にあるシタデル・ユースホステルレリーフ

 

■ 10月29日 エルサレム巡礼

 

 エルサレムは、ユダヤ教キリスト教イスラム教の三大宗教にとって特別な聖

地である。

ユダヤ教徒にとっては神から与えられた土地であり、キリスト教徒にとってはキリ

ストが亡くなった場所であり、そしてイスラム教徒にとってはマホメットムハン

マド)の「夜の旅」の到着地で、ここから天馬に乗って天へ昇ったとされる重要な

聖地である。

この待望の三大宗教の聖地であるエルサレムの旧市街を歩いた。

 

              イエスが歩かれたエルサレム旧市街地図

 

 

   ヤッファ―門をスタート    エルサレム旧市街を取り巻く城壁に隣接する<ダビデの塔>          

 

 嘆きの壁

嘆きの壁は、岩のドームの建つ神殿の丘を取り囲む城壁(ヘロデ大王時代のエルサ

レム神殿の外壁)の現存する一角にあり、ユダヤ教の聖地である。

この<嘆きの壁の広場>は、機関銃を持った兵士や、警官、私服によるパトロー

が厳しくなされ、周囲の建物の屋上には迷彩色の網をかぶせた監視所が張り巡ら

され、機関銃が顔をのぞかせている。広場への出入りは、厳重な検査がなされ、そ

の物々しさに驚かされた。わたしは出かける前に宿泊先に、金属類(ナイフ・ハサ

ミ・爪切りほか)を置いてきたので案外スムーズに広場に入ることが出来た。

そのような厳重な雰囲気の中で、多くのユダヤ人が壁に向かって左側に男性が、右

側に女性に分かれ、タルムードやトーラを、声を出して読んでいる。特に男性側に

ユダヤ教超正統派の黒ずくめの人たちが目立つ。

滞在先のユースホステルに近く、城壁巡りの入口のある旧市街西壁のヤッファ―門

をスタートし、<ダビデの塔>を経て、<嘆きの壁>に向かった。

 

            ユダヤ人祈りの場所<嘆きの壁

 

            死海の塩水で描いた<嘆きの壁>スケッチ

                    Sketched by Sanehisa Goto

 

わたしは広場のうしろの方で、この<嘆きの壁>に向かって祈るユダヤ教徒を目に

しながら、持参した新約聖書のマルコの福音書を開き、イエス・キリストエルサ

レムでの最後の日々を、時間を追いながら読んだあと、スケッチを終え静かに<

きの壁広場>を離れた。

嘆きの壁>を出て、南側にあるモロッコ門をくぐり、<神殿の丘>にある<エ

ル・アスク・モスク>(男子専用礼拝所)と<岩のドーム>(女子専用礼拝所)に

向かう。

 

    

                                      エルサレムの旧市街を囲む城壁にあるロッコ

 

<神殿の丘 - 岩のドーム

神殿の丘、岩のドームには、神殿の丘を取り囲む城壁西側にある<嘆きの壁>の南

側にあるモロッコ門から高架橋を渡って入る。

岩のドームに立寄って見ると、イスラエル兵によりバリケートが築かれ、関係者以

外は入場禁止であると告げられる。あとでわかったが、岩のドームは女性専用のモ

スクで男性は入れないと云ことである。礼拝は男女によってわかれ、男性はモロッ

門を入ったところに位置する<エル・アクサ・モスク>で礼拝することになって

いる。

ユダヤ教徒にとって、神殿の丘は、アブラハムが神の命令に従って息子イサクを献

げようとしたかってのモリヤの丘であったという。3000年前ダビデがそこに契

約の箱を置き、子ソロモン王が神殿を建てた場所で、ユダヤ教キリスト教の聖な

る場所である。

内部の岩は、世界が創造された際の<基礎石/エペン・シュテイヤ>と呼ばれ、世

界の中心であるとされている。

一方、イスラム教にとってもエルサレムは、サウジアラビアのメッカ、メディナ

次いで3番目に重要な聖地である。

7世紀、イスラム教徒がエルサレムを征服し、ユダヤ教の神殿跡に岩のドームを建

設した。
 

イスラム教の創始者であり預言者であるマホメットは夢の中でメッカから天子ガブ

リエルに連れられてエルサレム神殿まで旅をし、神殿の岩から昇天し、メッカに戻

ったと言い伝えられていることは先にも述べた。

岩のドームの下にある洞窟をムスリムは<魂の井戸>と呼び、最後の審判の日が訪

れた時、すべての魂がここに集まるという。

 

              城壁で囲まれたエリアが<神殿の丘>

 

              手前のエル・アクサ・モスクと岩のドーム(奥)

 

岩のドームを後にし、神殿の丘を囲む城壁の東門<黄金門>を出て、オリーブ山に向かう。

 

<オリーブ山 と 主の涙の教会>

オリーブ山の北側、旧エルサレムを望むところに<主の涙の教会>がある。

ちびロバに乗られたイエスキリストがこの場所からエルサレムを見渡し、その行く

末を案じ、涙を流されたという新約聖書に基づいて建てられた教会である。

ルカによる福音書19節41~44節>

祭壇越しに見える岩のドームは、その神秘性を今に伝えている。

<主の涙の教会>は泪をモチーフに、その祭壇はイエスが望まれた方向である西向

きに建てられている。

 

 

   主が泣かれた教会  主が泣かれた場所の祭壇越しに岩のドーム/エルサレム旧市街を眺める

 

                  オリーブ山近景を望む①

 

            エルサレム旧市街よりオリーブ山遠景を望む②

 

           オリーブ山頂より旧エルサレム市街と岩のドームを望む

 

                                                オリーブ山より旧エルサレム岩のドームを望む

                  Sketched by Sanehisa Goto 

 

<ケデロンの谷>

オリーブ山とエルサレム旧市街南にあるダビデの町の間を隔てる古い岩窟が並ぶ集落が<ケデロンの谷>と呼ばれている。

ここはダビデ王の時代からの古い墓地があり、最後の審判の日に死者が蘇るといわれている。オリーブの樹の間からは古代の切石造りの旧約聖書にゆかりのある預言者の岩墓がみられる。

 

                                                エルサレム旧市街城壁より シオンの丘を眺める

 

                                                                     ダビデの町遺跡

 

ダビデの町は、ユダヤ民族の最盛期を支配したダビデ王とそれに続くソロモン王が第一神殿時代に築かれたと思われる街である。

 

                   ケデロンの谷にある岩墓群

 

<シオンの丘周辺>

エルサレム旧市街の南西、シオン門に隣接する地域に、ダビデ王の墓・最後の晩餐

の部屋・鶏鳴教会・マリア永眠教会が集まっている。

ダビデ王の墓には、新旧聖書<新約聖書 使徒行伝2章29節 /  旧約聖書 列王記上

2章10節>に記されているダビデ王が葬られ、ダビデの星が刺繍されたビロードの

布で覆われたダビデの石棺があり、聖書に出てくるダビデ王との対面を果たすこと

が出来た。

 

                   

                ダビデの墓にあるダビデ王の棺

 

最後の晩餐の部屋は、ダビデの墓の上階にある。

エスは、1000年後のダビデの子孫である。ダビデの墓の上階が、イエスが処刑

される前に12人の弟子と最後の晩餐をした部屋であり、旧約と新約の接点として

残されている史実と、その予言の不思議さに驚かされる。

 

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    最後の晩餐の部屋              ダビンチの最後の晩餐

 

         

            

                  ダビデの星


 

鶏鳴教会は、ユダの裏切りによりゲッセマネの園でとらえられたイエスが、ここシオンの丘にある大祭司カイアファの屋敷に連れてこられた場所に1931年に建てられた聖ペテロ教会のことを言う。

この鶏鳴教会は、ペテロが群衆に「イエスの仲間だ」と言われ、イエスの預言通り「知らない」と3回も嘘を言ってしまった屋敷の中庭にある。

その後、ペテロは悔い改め、イエス昇天後は弟子たちのリーダーとして誠心誠意布教につとめた。

ここに出てくるイエスの弟子であったユダとペテロの違いについて考えておきたい。ユダは、イエスユダヤ当局に引き渡す手引きをした裏切り者であり、ペテロは先にも述べたように弟子でありながら「イエスを知らないと」と言って、イエスを裏切ったのである。

二人の裏切り者は、ペテロが後悔し忠実なイエスの僕に変貌する一方、ユダは悲しみを癒されず自ら命を絶ってすべてを終わらせてしまう。

 

           教会のドームの上の十字架に鶏が飾られている鶏鳴教会

 

マリア永眠教会もまた、エルサレム旧市街南にあるシオン門の近く<シオンの丘>にある。地下聖堂に階段で下りると、イエスの母<聖母マリアの像>が安置されている。

 

              シオン門近くの城壁よりマリア永眠教会を望む

 

          

              マリア永眠教会の地下に眠る聖母マリアの像

 

              《シオンの丘ゲッセマネの園ヴィアドロローサ/悲しみの道

                                                                    ➔ゴルゴダの丘/聖墳墓教会

 

シオンの丘にあるダビデの墓、マリア永眠教会、鶏鳴教会、最後の晩餐の部屋の見学を終え、シオン門よりユダヤ教徒地区を横切って<糞門>に向かう。門を出て城壁沿いにある<主の祈りの教会>、<ゲッセマネの園>を訪れたあと、<ライオン門>より、イエスが十字架を担がれて歩かれた聖なる道<ヴィア・ドーロローサ/悲しみの道>をたどり<ゴルゴダの丘>にある<聖墳墓教会―イエスの墓>に向かう。

 

ゲッセマネの園>

ゲツセマネ の園は、オリーブ山の麓にあり、イエス・キリストが受難に先立って苦悩し,最後の祈りをささげ,捕縛された場所である。

 

       

                    ゲッセマネの園

 

 

   《ヴィア・ドーロローサ / 悲しみの道》

 

ゲッセネマの園から城壁<ライオン門>をくぐり、イスラム地区の狭い路地を進むと標識<VIA DOLOROSAに出会う。

これより、十字架を背負って歩んだイエスの足跡をたどることになる。

 

<ヴィア・ドーロローサ/悲しみの道>を歩くにあたって、エルサレム旧市街のイエスが歩まれた地図を再掲しておきたい。

 

                エルサレム旧市街マップ

            <ヴィア・ドーロローサ/悲しみの道>

              ・・・➡・・・エス最後の足跡

 

ユダヤ教指導者たちから死刑を強く求められたイエスは、ローマ総督ピラトのもとに連れていかれた。判決権を持つピラトはイエスが死刑に値するとは考えなかったが、ユダヤ教の指導者によって煽られた民衆が強烈に死刑を求めたため、イエスに死刑判決を下したといわれている。

 

        

                VIA DOLOROSA ・悲しみの道

                     イエスの歩まれた道標

 

<第1ステーション:地図内①>である死刑判決のなされたローマ総督ピラドの官邸から、イエスは茨の冠をかぶせられ、十字架を背負わされ歩み、<第14ステーション:地図内⑭>である磔の刑に処されたゴルゴダの丘までの約1㎞を歩まれた。この場所に聖墳墓教会が建てられている。

このイエスが十字架を背負わされ歩かれた道が<VIA DOLOROSA> (ヴィア・ドロローサ/悲しみの道)である。

ヴィア・ドロローサには、聖書の記述や伝承に従って、次の14ステーションが指定されている。


 第1ステーション ① : イエス、死刑判決を受ける  

              (ローマ総督ピラトの官邸・アントニオ要塞)

 

                          

                 ①ローマ総督ピラトの官邸・アントニオ要塞

    現在学校が建っている地下にローマ総督ピラトの官邸・アントニオ要塞跡が残されている。

 

第2ステーション ② :  イエス、十字架を背負わされる  

              (鞭打ちの教会/ホッケ・ホモ・アーチ)

 

 

 

           鞭打ちの教会           ホッケ・ホモ・アーチ

 

     ローマ総督ピラトがイエスを群衆の前に引き出して、「ホッケ・ホモ」すなわち

    <ラテン語:この人を見よ>と叫んだ場所だといわれている。

 

第3ステーション ③ :  イエス、十字架の重みで倒れる  

              (ポーランドカトリック教会)

 

            

        ポーランドカトリック教会のレリーフ<十字架の重みに倒れるイエス

 

 

第4ステーション ④ :  イエス、悲しむ母マリアに出会う     

              (ヴィア・ドロローサレリーフに見る)

 

 

           <イエス、悲しむ母マリアに出会う>レリーフ

 

第5ステーション⑤: イエスの代わりに、シモンが十字架を背負わされる  

        

              

                  <ラテン語の石板標識>

 

第6ステーション ⑥:ベロニカがイエスの顔を拭いたといわれる場所

この辺りは狭い路地に多くの土産物店が立ち並んでいる。
ベロニカが拭いた布にイエスの顔の跡が付いたといわれ、その布はローマのサン・ピエトロ寺院に保存されているという。

 

          

           聖ベロニカ教会(ベロニカが住んでいた家といわれる)

 

 

第7ステーション ⑦ : イエス、2度目に倒れたといわれる場所

 

         

          


            イエスが、2度目に倒れたといわれる場所付近

 

 

第8ステーション ⑧ : イエス、悲しむ女性たちを慰めた場所

 

 

    第8ステーションの標識         第8ステーションに埋め込まれたラテン十字架

 

第9ステーション ⑨ :  イエス、3度目に倒れた場所   

                コプト教会の入口右横(聖墳墓教会内)

 

            

            


                  イエス
3度目に倒れた場所 

                    コプト教会の入口横

 

第10ステーション ⑩ : イエス、衣を脱がされた場所   

              聖墳墓教会入口右階段を上がった小聖堂

 

         

              聖墳墓教会入口右階段を上がった小聖堂

 

第11ステーション ⑪  イエス、十字架に付けられる   

             聖墳墓教会ローマカトリック祭壇  

聖墳墓教会の階段を上がったところにあるローマカトリックの祭壇に<十字架に張り付け終わったイエス>がおられる。

 

       

                聖墳墓教会ローマカトリック祭壇 

 

第12ステーション ⑫  イエス、十字架上で息を引き取る  

             聖墳墓教会ギリシャ正教祭壇

第11ステージの左隣にあるギリシャ正教の祭壇に<十字架上で息を引き取ったイエス>がおられる。

 

        

                 聖墳墓教会ギリシャ正教祭壇

 

第13ステーション ⑬ :アリマタヤのヨセフ、イエスの遺体を引き取る

 

                 

           イエス、弟子たちによって十字架から降ろされる様子

 

 

第14ステーション ⑭ : <ゴルゴダの丘> イエス、埋葬される 

               イエスの墓 聖墳墓教会

 

        

                  イエスの墓 聖墳墓教会

 

ゴルゴダの丘 ― 聖墳墓教会

ここゴルゴダの丘は、イエスが十字架を背負わされ歩んだ<ヴィアドロローサ/悲しみの道>の最終地であり、十字架に磔にされたイエス最後の地である。イエスの墓があり、聖墳墓教会が建てられている。

最初、ゴルゴダの丘は、オリーブ山やシオンの丘のようにエルサレム旧市街を取り囲む城壁の外にあるものとばかり思いこんでいたが、現地で城壁内の聖墳墓教会そのものがゴロゴダの丘であることを知った。

 

   

                ゴルゴダの丘に建てられた聖墳墓教会

 

           

            

                イエスの墓といわれる大理石の石棺

 

 

            エルサレム 聖墳墓教会イエス・キリストの墓の前で

 

イエス・キリストの受難の道である<悲しみの道/ヴィア・ドロローサ>をイエスの生涯を顧みながら、こころ静かに歩いた。

その後、西側城壁に上がり、エルサレムの街をこころに刻み、エルサレムに別れを告げた。

 

         エルサレム西側城壁より旧エルサレム市街を望み、別れを告げる

 

           

           エルサレムを去るにあたって新市街を散策

 

エルサレムの街には、髪の毛を頭のうしろで結んだ娘さんたちが、戦闘服に身を包み、軍靴を履き、自動小銃をもって歩いている姿に多く出会う。

自分たちの国は、自分たち若者が守るのだという覚悟が伝わってくる。生きいきした目の輝きには、このイスラエルの国を離れず、先人たちの過ちを二度と繰り返さないという強い意志が感じられる。

若者の血を、祖国のため、子孫のため、未来のため沸き立たせることが民族生き残りの条件であり、基本であるということを自覚し、理解しているといえる。

平和の中に埋没している日本の若者とは、取り巻く環境からくる人生観・世界観そのものが異次元であるといっていい。

トーラを読み、口ずさむユダヤの人々の多いこと。バスの中、バス停、街角など、時間を惜しんでトーラを諳んじている姿には、神との繋がりにこそ民族の存続があり、生かされている証があることを確認しているようである。

ユダヤ民族が存続し、これからも存続し続けるためには、規律と戒律が必要であることを自覚しており、民族の財産が民族愛であり、言語であり、宗教であり、神であることを示している。

<▼エルサレム旧市街滞在 10月28~29日  シタデル・ユースホステル連泊  1室@43US$ >

 

いよいよエルサレムを離れ、出エジプト記に書かれているモーセのエジプト脱出からカナンの地への逆ルートをたどり、シナイ半島を経由してエジプトにむかう。モーセ率いるイスラエル人の帰郷大作戦である苦難の彷徨40年間の足跡をたどる。

イスラエル人が、神の導きでエジプトを脱出するにあたり、神との契約を守るという代償を背負うこととなった。正統ユダヤ教徒は、今なお<神に選ばれた民>としての生き方を、<神との契約>として厳密に守り通している。

 砂漠地帯であるシナイ(エジプト)へ向かうにあたっての準備として、まずはカイロまでのバス事情・ルートの収集、エジプト入国に必要な書類やエイラットのエジプト領事館の関する情報を集めることにした。

 

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1993年にイスラエルのラビン首相とPLOパレスチナ解放機構)のアラファト議長の間

で交わされたオスロ合意により、 翌年の1994、ヨルダン川西岸地区は、ガザ地区

共に「パレスチナ自治区」になった。

しかし、わたしがイスラエル縦断中の2001年当時も、ヨルダン川西岸地区は面積の半分

以上がイスラエルの軍事支配下に置かれ、常に厳しく監視されていた。 また、イスラエ

ルの入植地が拡大していた。

パレスチナ自治政府の完全な統治下にあったガザ地区への入域の厳しさに比べて、占領

ヨルダン川西岸地区へは、自由に入域でき、旅行を続けることができた。

かかる事情により、2001年当時のガザ地区への入域は禁止されていたことから、残念な

がら、パレスチナ人のガザ居住区の情勢や日常生活を垣間見ることが出来なかった。 

今回のイスラエルパレスチナ紛争で、ようやくガザの実情が世界に発信されたことに

なる。 旧約の世界のイスラエル人・パレスナ人の平和共存の時代に戻ることができる

のであろうか。 いや、さらなる両者の離反、憎しみの連鎖が継続されるのであろう

か、悲しいことだが、民族・宗教紛争の解決の糸口は見えていないと言っていい。

 

いつかパレスチナの地に平和が訪れることを切に祈りつつ<イスラエル縦断1000kmの

旅>Ⅰ・前編を終えたい。

引き続き、 <イスラエル縦断1000kmの旅>Ⅱ・後編へとすすめたい。


 
    聖誕日・クリスマスを前に、 志賀の里にて
    この世で、苦しむ人々、病める人々の上に神の御手がありますように・・・
       そして、戦いのない日々が訪れますように・・・

 

                      2023年12月 志賀の里 孤庵にて

 

 

 

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           イスラエル縦断 1000kmの旅》Ⅱ

                 ―後編―

 

                   に続く

 

 

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<関連ブログ>

2001『星の巡礼 イスラエル縦断の旅 1000km』Ⅱ

 

 

 

星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000km』 《イスラエル縦断 1000kmの旅》Ⅱ ―後編― 紀行文&スケッチ 後藤實久 ■ 10月30日 エンゲディ ― クムラン渓谷トレッキング/死海浮遊体験 次なる目的地である死海に面した<エン・ゲディ>に向かうため、…

 

 

 2001『星の巡礼 ロシア・シベリア横断 10350 kmの旅』 

 

 

星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』

Ⅰ 《ロシア・シベリア横断 10350kmの旅》  Ⅱ 《イスラエル縦断 1000kmの旅》 Ⅲ 《ヨーロッパ周遊 11000kmの旅》 Ⅳ 《アフリカ縦断 15650km》 

 

■2023『星の巡礼  シベリア横断の景色 スケッチ展』 

 

 

星の巡礼 シベリア横断の景色 スケッチ展』 スケッチ・挿絵 後藤實久 2022年春、ロシア大統領によるウクライナへの<特別軍事作戦>という侵略戦争が開 始されたのをきっかけに、ロシアとは一体どのような歴史と体質をもつ国かと、あらた めて考えてみまし…

 

2023『星の巡礼  シベリア横断の景色 スケッチ展』

 

 

   星の巡礼  シベリア横断の景色 スケッチ展』

 

              スケッチ・挿絵  後藤實久  

 

 

 2022年春、ロシア大統領によるウクライナへの<特別軍事作戦>という侵略戦争が開

始されたのをきっかけに、ロシアとは一体どのような歴史と体質をもつ国かと、あらた

めて考えてみました。

長い間、本棚に埃をかぶっていた2001年に踏破した旅日記『ユーラシア・アフリカ二大

陸踏破 38000kmの旅』の《Ⅰ ロシア・シベリア横断 10350km》で、ノートに描き

残した挿や、スケッチ、俳句、詩を取りだしてみました。

スケッチ等より見てとれるシベリアの景色から、ロシアの原風景を眺めていただければ

いです。

 

 

         <ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅>

                      全ルート地図

                                        シベリア横断鉄道<モスクワ⇦ウラジオストク

 

 

               シベリア横断鉄道主要通過駅

 

 

           

                      <Tahk MC-1>

                 1938ウラジオストク海事博物館にて

 

 

                       シベリヤ横断鉄道<ロシアⅠ号> 

                                                                    動力車&コンパートメント

                     Sketched by Sanehisa 

 

 

 

  

           <べロゴルスクー駅でピーマンを売るシベリアの老婆>

                    Sketched by Sanehisa Goto

 

 

           《白菜の シベリア顔や 皺きざみ》   實久

          ―はくさいの しべりあのかおや しわきざみ― 

 

 

  

                  白樺林越しにバイカル湖を望む         

               Sketched by Sanehisa Goto

 

 

          《オリオンを 手に獲りて観る 近き冬》  實久

           ―おりおんを てにとりてみる ちかくふゆ―

 

                          《 濡れダリヤ  雨を纏いて  冬支度 》          實久

                                 ―ぬれだりあ あめをまといて ふゆじたく―

 

 

  

               車窓を飾るシベリアの白樺林

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

         《白樺の  バレリーナ翔ぶ  バイカル湖 》  實久

           ―しらかばの ばれりーなとぶ ばいかるこー

 

           《秋寂し ここは地の果て ロシアかな》   實久

                  ―あきさびし ここはちのはれ ろしあかな―

 

 

  

                  Blue Russian Cat

                                                      シルカ駅にて

                       Sketched by Sanehisa Goto

 

 

  

            バイカル湖産の鮭の一種である<キャッター>

                   (別名バイカル・オームリ)

                     Sketched by Sanehisa 

 

 

        《 バイカルの サーモン踊りし 朝餉かな 》  實久

                 ―ばいかるの さーもんおどりし あさげかな―

 

 

  

                     <シベリアの野草>

                     左・レベダ/キノア(薬草) 上・チエノブリ/ヨモギ 下・クレビアル/クローバー

                    Sketched by Sanehisa 

 

 

  

              シベリア横断列車で出会ったロシアン・ビール達

                    Sketched by Sanehisa Goto

 

 

       

  

               シベリア <インディ・ヤス 村>の夜明け前

                    シベリヤ横断鉄道通過村

                   Sketched by Sanehisa Goto

                                       2001/9/14 05:41

 

 

       

              独裁者スターリンをモチーフとした煙草ケース

                    Sketched by Sanehisa Goto

 

 

       

                 ロシアン・ビール<コサック元帥>

                  Sketched by Sanehisa Goto

 

 

               <ああわれシベリアにおりて>

                         詩   後藤實久

 

            わが同胞 長きにわたり ここシベリアの大地に 眠りおりて

              家族を想う気持ち 耐えがたき別離に 望郷の念 増しに増す

 

                           この世もまた神の国 人はみな神の子と言いつ 殺生やまず

                           無念の念を法の声に聞こえない 人の浅はかさに 闇夜明かず

 

                           ああわれいまシベリアにおりて 無念のうちに斃れし 将兵

                           無の風流るるを識りて こころの慰めに 照りし光認めしや

 

 

       

                 臨時停車駅チュルィムスカヤ 駅舎

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

                                                <読書―トルストイ著「人はなんで生きるか」>

                                                   толстовцы ― “Зачем живут?”

 

                                   ➀ 人間の中にあるものは何であるか ― 愛である

                                   ② 人間に与えられていないものは何か ― 死である

                                   ➂ 人間はなんで生きるか ― ひと(他人)のために生きる

 

                    ―ひとが自分で自分のことを考える心遣いによって生きていると思うのは、

                                   人がただそう思うだけのことに過ぎないと言う。

                      ―実際はただ、愛の力だけによって生きているのだと言うことが、

                                                         分かるはずだと言う。

                                               ―なぜなら、神は愛だからと言う。

                     

                                                       トルストイの名言が頭によみがえった・・・

                               <幸福になりたいと思い、幸福になろうと努力を重ねること、

                                             これが幸福への一番の近道である。>

                       <過去も未来も存在しない。あるのは現在と言うこの瞬間だけだ。>

 

 

 

  

                  バラビンスカヤ大平原

                シベリア・オムスク付近

                      Sketched by Sanehisa Goto

                 

 

 

       

                     息子を見送る老夫婦

                     あるシベリアの小さい駅で

                    Sketched by Sanehisa Goto

 

 

                          <大地に還る>

                                      詩  後藤實久

 

                              シベリアの大地 丸みの中に 色づきて うるわし

                              魅惑の風景に酔いつ ユートピアランドを 駈走す 

                              詩を読み 揺れに身をまかせ  悠久の時に沈みて

                              一木一草着飾りし 移りゆく秋化粧を 楽しみおる

 

                             いや シベリアの農民の暗さ わが胸を打ち止まず

                             貧しさに花咲くことなく 自然の美しさに埋没せし

                             命揺れ   シベリアに没す すべての農民を憂いしや

                             神の創りしこの世界 すべての命 大地に還りしか

                   

 

  

                ウスヤンスキー寺院(クレムリン・赤い広場)

                  Sketched by Sanehisa 

 

 

 

       

                  聖ワシリー寺院 / Basil’s Cathedral

                                                         赤い広場・モスクワ

                                      Sketched by Sanehisa Goto

 

 

 

       

               レーニン(1870~1924)記念切手 
              ソビエト連邦の紋章<鍵と鎌>を背景に

                  Sketched by Sanehisa Goto

                

 

 

  

              ロシア正教の十字架を崇めるロシア人民のイラスト          

                    Sketched by Sanehisa Goto     

 

 

         

             

                  キエフ駅停車中の狭軌電気機関車

 

 

             

                   トルストイ邸ガーデンで飲んだ

                                                                             <ブーバチカの呟き>

 

 

  

                 トルストイ肖像画

                                        Sketched by Sanehisa Goto

 

 

 

       

                   ピヨトール大帝の愛煙煙草

                  Sketched by Sanehisa Goto

 

 

       

             黄金のパンサーと鹿の彫像(エルミタージュ美術館)               

                Sketched by Sanehisa Goto

 

 

      

              シベリアの白樺並木を楽しむ同室者 ミセス・R

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

       

                        Mr. Goto

                画 ネフラソフ・ワーレリー

                サンペテルブルグ・ロシア

 

 

 

                

                   ロシア国旗

 

 

 

<シベリア横断の景色>ブログ・スケッチ展にお立ち寄りくださり、有難うございまし

た。 なお、ロシアの深層については、『星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破

38000kmの旅』<Ⅰ ロシア・シベリア踏破>の旅日記、コンパートメント同室者 ミセ

ス R の講話から、触れていただければ幸いです。      (後藤實久 記)

 

 

 

 

<関連ブログ> 

 

 

 

 

 



     《シベリア横断の景色 スケッチ展》

 

 

                    


                         

 

2001『星の巡礼 ロシア・シベリア横断 10350 kmの旅』

                 

               

                      『星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』

                         Ⅰ  《ロシア・シベリア横断 10350kmの旅》

           -----------------------------------------------

                                       Ⅱ 《イスラエル縦断 1000kmの旅》 

 

               Ⅲ  《ヨーロッパ周遊 11000kmの旅》

           

                                     Ⅳ 《アフリカ縦断 15650km》 

 

 

随分と世界を歩き回ったが、一回の旅で約38000Kmを、3か月に渡って二大陸を踏破

した旅は初めてである。

2022年3月、ロシアによるウクライナへの特別軍事作戦が開始され、世界の目がロシア

大統領の前近代的歴史観<大ロシア帝国>により、<国土回復、いや一度ロシア領で

あった地域は、ロシアの地に還る>というロシア正教独特な考えを見せられることとな

った。

さっそく、本棚に眠っていた旅日記『2001 星の巡礼 神と同行二人旅』を取りだして、

約20年前のソビエット連邦から解放されて間もない2001年当時のロシアを覗いてみた

くなったのである。

ここでは、シベリア横断鉄道でロシアを横断し、ヨーロッパを縦断後、パレスチナから

エジプトに入り、カイロから南アフリカ喜望峰までのユーラシア・アフリカ二大陸

38000㎞を、いくつかの地理的セクションに分けてご案内したいと思う。

 

 

         <ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅>

                      全ルート地図

 

 

 

                    Ⅰ《ロシア・シベリア横断 10350㎞》 

       <シベリア横断鉄道に乗る ウラジオストク➡モスクワ➡サンペトロブルグ>

 

 

■  9月7日 <寝台列車で、新潟へ向かう>

ロシア極東の玄関であるウラジオストクに飛び、シベリア横断鉄道に乗るため新潟空港

に向かう。

久しぶりの寝台急行、旅情に浸りながら俳句をひねる。

 

    《秋刀魚焼く におい香し 駅隣り》             志賀の里 9/7 18:15

      ーさんまやく においかぐわし えきどなり―

 

    《秋時雨 残像曇る 車窓かな》       寝台列車にて

        ーあきしぐれ ざんぞうくもる しゃそうかな―

 

    《神の御手  こころ触れなん  秋の陽や》

         ーかみのみて こころふれなん あきのひや―

 

    《黄金垂る  豊けき国を  焼付けし》

       ―こがねなる ゆたけきくにを やきつけし―

 

    《赤土に  掘られ和みし  薩摩芋》

        ―あかつちに ほられなごみし さつまいもー

 

    《われも飛ぶ 北を睨みし 赤蜻蛉》   新潟空港 9/8 10:00

     ―われもまた  きたをにらみし あかとんぼ―

 

 

                      <シベリア横断鉄道>へ誘う新潟行き寝台特急列車に揺れながら俳句を綴る

 

 

■ 9月8~9日 <新潟➡ウラジオストク滞在>

 

新潟空港にて>

新潟空港には、ロシアに帰国するロシア人で溢れていた。

10年前、1991年に起こったソビエット連邦崩壊前には見られない光景である。

日露戦争(1894~95)、ロシア革命に干渉したシベリア出兵(1918~22)、第二次大戦

におけるソ連赤軍参戦(日ソ不可侵条約破棄1945/8/8)、敗戦後のシベリア抑留などや、

北方四島未返還を考えると、ここ<新潟空港>は不思議にして、複雑な歴史の時空の中

にある。

 

         ―神は人間同士の争いには不干渉であるー

 

と言うことは、どちらをも神自ら罰しないと言うことである。

人間同士の争いは、争いを起した当人たちが決着をつけ、人間の営みを継続させる責任

があると云ことのようである。

故に、正義だけが勝つわけではない。悪もまた、神の御名のもとにあるのだ。

ただ、悪を悪として認め、正義を行うもののところに神の栄光があるということに

なる。

(注・ブログ制作中の2023年10月現在、ロシアは特別軍事作戦の名のもとに、ウクライナ侵攻中である)

 

 

新潟空港より、ウラジオストクに向かう>

      飛行距離950km  /  飛行時間2時間10分

   「VLACIVOSTOK AIRLINE」 (機種TU-154 : ツポレフ154)

     V/A ウラジオストク航空 #RA-85685 Flight #XF-808

    新潟空港 15:40発➡ウラジオストク空港 17:50着 (時差1時間・現地時間18:50)

 

目の前のツボレフTU-154は、当時の旅客機の中でも、30年以上前のソビエト連邦時代

のモデルを引き継いだロングセラーであり、そのペンシル型胴体後部に三基のエンジン

を搭載したシンプルで洗練された姿を見せていた。

 

         ツポレフ<TU-154> (ウラジオストク航空・ロシア政府提供)  

 

         

                       ロシア国旗

 

 

この日は、快晴である。 

窓から日本海に囲まれた航空母艦の様に見える佐渡島を眺めながら、日本海海戦Z旗

ニイタカヤマニノボレ>を回想する間もなく、ユーラシア大陸の峰々が、緑濃く視野

に飛び込んできた。

まさしくロシアは一番近い隣国なのである。 

北海道最北端・宗谷岬からサハリン(樺太)の南端までは、わずか43キロである。

対馬と韓国の間は約50キロ、与那国島から台湾東海岸の宣蘭縣蘚澳鎮までは約100キロ

である。

ウラジオストクは、緯度に見ると札幌とほぼ並び、東京よりも札幌に近く、日本から一

番近いヨーロッパへの玄関口である。

日本名<ウラジオストク>は、英名Vladivostok、ロシア語でВладивостокと表記さ

れ、その意味は「東方を征服せよ」・「東方を支配する街」・「東洋の領地」と言われ

る。

ウラジオストクは、ロシアの重要な<東洋の入口>でもある。

ロシアと日本の最初の接点は、1778年(安政7)、慢性的な食料不足に悩んでいた千島

列島のウルップ島でラッコ捕獲事業者が、生活物資を得ようと根室に上陸したことにあ

る。

だが、当時日本は、鎖国政策をとっていいたため松前藩の役人に断られている。

わずか220年程前のことである。

 

正式には、14年後の 1792 年(寛政4)、ロシア皇帝エカテリーナ2世の国書をたずさえた

一行が、日本の漂流民 大黒屋光太夫らを伴い、軍艦で根室にやってきた。

たずさえてきた国書には、生活物資を日本との交易によって調達したいと書かれてい

た。

これが、日本とロシア政府間の最初の外交接点となった。

 

18世紀以来、不凍港獲得を目指すロシアの東進政策は、清朝との国境策定を巡って衝突

を続けていた。 1860年、アロー戦争時、清朝と英仏の講和の仲介により、北京条約を

結び沿海州にあるウラジオストクを獲得することとなった。

ロシアにとっては、ウラジオストクが冬季も凍結せず、ほぼ年間を通じて使用できる不

凍港であったので、一応念願を達成したことになるが、その後、さらなる南進<朝鮮半

島>に目を向けたため、40年後の日露戦争(1904~5)へとつながっていく。

 

TU-154というロシア製旅客機には、はじめて乗った。

ボーイングや、エアーバスにしか乗っていない者にとって、TU-154はとても軽量に思

えた。 構造自体や、飛行時のかすかな衝撃波などに特徴が見られたからである。 

何故そう思ったのだろうか、旅客機の豪華さに慣れた者にとって、ロシア製の質素さに

まず驚き、かすかな不安がよぎったからかも知れない。

宇宙船を飛ばした国ロシア(旧ソ連)、しかしどこか謎めいた神秘性を残したロシ

ア・・・まだ見ぬロシアに夢を大きくふくらましながらウラジオストクに近づいた。

 

ツポレフTU-154は、無事飛び続け、多くの旧日本軍捕虜が抑留されたシベリアの玄関

口でもあるウラジオストクに、定刻の現地時間18:50に着陸した。

 

空港の奥の方に、四発のターボジェットエンジンを持った核弾搭載型戦略爆撃機と思わ

れる姿が遠望できた。ウラジオストクは、日本はじめ、極東全体をにらむロシアの前線

基地でもある。

後でも触れるが、短いウラジオストク滞在中、2度に渡って撮影対象が軍事機密であっ

たからか、尋問とフイルム没収と言うスパイの嫌疑をかけられた。

また、ウラジオストク空港のマークに、10年前に崩壊したソビエト連邦時代の国旗、ハ

ンマーと鎌のシンボルマークが取り除かれておらず、ソビエト連邦からロシアへの回

帰、いや転換期に立っていることを自覚させられた。

 

 

         ウラジオストク空港にいまだ残るソビエト連邦赤旗<鎌と槌マーク>

 

 

<ガイド、ユージン氏の出迎えでホテルに向かう>

空港を出ると、出迎えのユージン氏の持つカードに名前を見つけた。

彼は、中国語を専攻し、富山を訪問したことがあるとホテルまでの40分、ウラジオスト

クの夜景を見せながら、自己紹介をした。

奥さんと、16歳の息子、10歳の娘との4人家族。 善良そうな中年のロシア人である。

ホテルに着くと、私以外全員中国人なのだろうか、ビジネスマンや商人の甲高い漢語が

び交っていた。 あたかも中国の上海かどこかと見まがう光景や、振る舞いにまず驚

された。

 

そういえばウラジオストクは、もともと中国領で<海参崴hai-can-wei>(清王朝時代

の中国名)と言われていたことを思いだした。 イギリスに100年間借款された香港とよ

く似た立場にある国際都市といえる。

ウラジオストク在住の中国人やビジネスマンには、<領土を割譲させられた屈辱的な歴

史を忘れるな>という、怨念があることを知った。

ただ、ソ連軍による北方領土占領時でも見られるように、島民全員の強制離島による占

拠はここウラジオストクでは見られていない。

割譲と不法占拠、ウラジオストク北方領土では全く意味が異なるという事である。

 

▼ 9/8~9 ウラジオストク連泊   

      <ウラジオストク ホテル> @6800円>

        VLADIVOSTOK HOTEL  (Naberezhnaya str 10)

 

ウラジオストク ホテル>は、海<スポーツ湾>が見える高台にあり、市中心部まで

徒歩約10分のところにある。

8階建てのうち、4階が、海外からの旅行客専用に当てられているようで、チェックイ

ンも4階で行われた。

夕食は、ホテル4階にあるスナックバーでとる。

    <夕食メニュー> 野菜サラダ(キューリ/トマト/ピーマン/ロシア辛子ソース付)

            フライド・カジキ/ライス/コンソメ・スープ 390p(約13US$)

  

                                                               ウラジオストク革命戦士広場にて

 

<ホテル ウラジオストック>は、中級ホテル、部屋の内装・調度品・アメニティも充

実していた。

テレビでは、ソビエットという統制国家から解放後10年で、自由にパリ・ファッショ

ン・USテニスオープン・英語講座などをみることが出来たのには、目を見張った。

しかし、外に出れば、自由に写真を撮れない不自由さが残っていた。 

散策に出かけ、港の見える小高い丘の上から海の風景を撮った時と、港で記念写真を撮

った時、軍港がその方向にあったのでろうか、すぐに憲兵隊が駆け寄り、写真機を取り

上げ、フイルムを抜き去って立ち去った。 どうも、撮影方向に<ロシア太平洋艦隊本

部>と、軍港としての<金角湾>映っていたようである。

 

<統制から解放への過渡期のロシア>

2001年、このロシア旅行自体、すべての行程表を提出し、すべての行程に監視役と思わ

れるガイドが付いていた。 また、ホテルの各階には、出入りをチェックする要員であ

ろうか、フロア監視員が階段をにらんでいた。

これらの監視制度は、ロシアだけでなく、旧ソビエット連邦に属していた東欧の国々に

も残っていた。

当局としては、旅行者へのサービス提供としているが、こちらは自由旅行への制限・監

視として映ったものである。

この頃の旧ソビエト連邦諸国を旅行すること自体、自由旅行は受け入れられず、すべて

バケット方式>をとり、旅行社に全行程の時系列のスケジュール表を提出して、旅行

社の指定したホテルに泊まりながら旅行を続けることになる。 旅行者の出入国はじめ

、滞在中のすべてが旅行社を通して、当局に把握されていたといっていい。

ウラジオストクに立ってみて、はじめてソ連の統制時代から、ロシアの解放時代への過

渡期に立合っているという緊張感が伝わって来た。

 

その監視員としての役割は、旧ソビエット時代の公務員と同じく冷たさを感じた。 た

だ、仕事を離れ一対一になった時の彼らは、人間性を取り戻し、人間愛にあふれた個性

豊かな小市民であったことに、同じ人間としての連帯の情が湧いてきたものである。 

しかし、ホテルや旅行社の持つサービス精神にもとづいた西欧世界に見られる自由旅行

のあり様は、ここロシアでは、今しばらく望むことは難しそうである。

 

 

■  9月10日  《シベリア横断鉄道 1日目》

       ウラジオストックハバロフスク間  757㎞>

 

 

ウラジオストク散策後、シベリア横断鉄道乗車>

ウラジオストクは、この旅38000kmの起点であるー

 

ウラジオストクは、これから始まるシベリア横断鉄道を含む<ロシア横断列車の旅9888㎞>ウラジオストク➡モスクワ9288km + モスクワ➡ペテルブルグ600km)と、南アフリカケープタウンまでの《二大陸踏破 38000kmの旅》 の起点である。

 

<金角湾 : Golden Horn Bay>  曇強風 波高し 9℃ 

シベリア横断鉄道の発車まで時間があり、ウラジオストクの散策を楽しんだ。

ウラジオストク駅前に広がる金角湾に停泊するルーシ号を発見して驚いた。

実は当初、飛行機ではなく富山伏木港よりロシア客船ルーシ号による船旅を楽しむつも

りであった。 

しかし、北方四島の漁業権に関する外交問題から、日本政府の寄港拒否によりキャンセ

ルされていた。

ロシアは、近くしてはるか遠い国である現実に、ルーシ号寄港拒否という日本の外交姿

勢の中に感じられた。

 

         富山伏木港より乗船予定であったロシア貨客船 ルーシ号 

                (金角湾ウラジオストク港にて)

 

              ウラジオストク市内観光に利用したタクシー

 

<州立博物館付近の風景>

博物館前のアウレツーカヤ通りには、市電が走り、ウラジオストクの古き良き風景を残

している。

博物館の屋上に立つ赤軍兵士の銅像は、10年前の旧ソビエト連邦政権の影をノスタルジ

ックに、いや体質的に残しているように思えた。

古き良き市電の前を、西欧的超ミニが良く似合う若い娘さん達が闊歩する姿に、急速な

西欧化、いや自由化に驚きを隠せなかった。

なぜなら、10年前までのソビエト(共産)圏の地味で抑制された人民服、無味乾燥な服

飾を知っていたからである。

少年期、日本降伏直前まで朝鮮半島の北部におり、ソ連軍の南進により、38度線を越

え、南朝鮮への逃避行を経験している。

街角には、老婆による中世的はマッチ売りの屋台風景に出会って、カチューシャ物語

夢想した。 屋台には、ローソクのほかチューインガムが並んでいた。 いまだ、豊か

さが持たされていない現実に触れたような気がした。

近くの砂浜では、晴天ではあるものの9℃と寒いが、泳ぐ数組の男女が、北国の短い夏

を楽しんでいるようである。 限られた太陽の光をこよなく愛するシベリアの光景であ

る。

 

 

                  ウラジオストクの市電

 

<強制退去>

今回の旅では、ロシアはじめ東欧の旧ソビエト連邦諸国に滞在するため、社会主義国

のスパイ活動に間違えられる行動を慎むことに心していたつもりである。

しかし、昨日の私服憲兵隊によるフイルムの抜取り事件で肝に銘じていたが、またまた

海軍ミリタリーポリスのジープに呼び止められ、パスポートのチェックを受け、<軍事

機密エリアに進入しているので、強制的に退去>させられた。 どうも立入禁止地区で

ある「海軍ヤード」に、いつしか迷い込んでいたようである。

 

 

<Tahk MC-1> 1938ウラジオストク海事博物館にて          <Tahk T-28>1938

 

 

<ステパン・マカロフ提督の銅像

ホテル・ウラジオストクの側にあるスポーツ湾公園に、日本海方面をにらむマカロフ海

軍提督の銅像が立っている。 1904年2月開戦の日露戦争の折、乃木将軍率いる旅順攻

撃隊を撃滅するために、バルチック艦隊ウラジオストクに回航した時の司令官が、マ

カロフ海軍提督である。

日本帝国海軍・連合艦隊司令長官であった東郷平八郎元帥は、1905年日露戦争日本海

海戦で、マカロフ提督率いるロシアのバルチック艦隊を迎え撃ち、歴史的大勝利をおさ

めた。

海戦史上、いつも東郷元帥と比較される悲劇の司令官でもある。

 

 

      マカロフ提督の銅像                東郷平八郎元帥銅像

   ウラジオストク スポーツ湾公園             鹿児島市 多賀山公園

 

マカロフ提督の、言うに言われない日本海に向ける屈辱の眼差しを背に、6泊7日の<

シベリア横断鉄道の旅>の出発地である<ウラジオストク駅>に向かった。

 

                 革命戦士広場より州政府庁舎を背に

 

 

     《シベリア横断鉄道 ロシア号 乗車記》

 

 

■  9月11日 15:37発 <ロシアⅠ号>乗車 (シベリア横断鉄道) 

           ロシアⅠ号 5号車 コンパートメント#3

 

                 <ロシアⅠ号>を牽引する機関車

 

                     ウラジオストク駅 

           シベリア横断鉄道の発着駅 <ウラジオストク➡モスクワ 9288㎞>

             

 

                <ロシアⅠ号客車> 列車番号#022-12330

                <モスクワーウラジオストク

 

 

                   

                              シベリア横断鉄道基点標識 9288㎞ <ウラジオストク駅➡モスクワ駅>

 

 

<コンパートメント同室者>

Mrs. R<ミセス・R /  R女史>: 1923年生 76歳 ウクライナキエフ在・地質

学者、ここでは<ミセス・R>と呼ぶことにする。

第二次大戦中は、赤軍の情報将校として従軍。 終戦後は、日ソ中立条約を破棄し、進

駐した満州北方領土からの日本軍捕虜の統括本部で、旧日本軍将校の尋問にあたる。 

情報・諜報将校として日本共産党の袴田共産党員とも接触していたとのこと。

シベリア横断鉄道沿線にも沢山の旧日本軍捕虜<シベリア抑留>と言われた強制労

働収容所<ラーゲリ>があったと、ミセス・R は説明してくれた。

 

 

<シベリア抑留―強制労働収容所>

乗車したシベリア横断鉄道路線には、1964年当時、第2次大戦後、ソ連赤軍によって連

行された旧日本軍将兵の捕虜約60万人がラーゲリ(強制労働所)に収容され、遅れて

バム鉄道シベリア鉄道の設置工事などの強制労働に従事させられ、6万人以上が

亡したという痛ましい事実があった。

 

              ソ連領内日本兵強制労働収容所(ラーゲリ)分布図 

              (1946年当時・シベリア抑留者支援・記録センター提供)

 

        日本兵捕虜はかかる有蓋貨物車で施錠の上、輸送された (note.com写真提供)

 

  

        シベリア横断鉄道乗車前に訪れた舞鶴引揚記念館<ラーゲリ紹介展示>

           及び 1946年当時のシベリアからの舞鶴引上げ風景



 

       《シベリア横断鉄道<ロシアⅠ号>列車案内》

 

    ・時刻表  : <9/10  15:37 ウラジオストク発➡9/17  16:42 モスクワ着予定>

         (▼ 車中泊 6泊7日)

    ・路線全長  : 9288km <世界最長路線>

   ・区  間  : ウラジオストク駅 ➡ モスクワ・ヤロスラフスキー駅

   ・ロシアⅠ号 :  列車番号上り<001> 5号車 コンパートメント#3  

           (偶数日ウラジオストク駅発夜行寝台列車

   ・列車編成 : 16両 (食堂車・貨物車を含む、季節により変動あり)

   ・5号車担当車掌(1名): ミセス・アドブラ

   ・コンパートメント  : ハード・クラス寝台車(二等)・4人用個室

 

1916年に全線開通したシベリア横断鉄道に、85年後のこの年(2001年)にチャレンジしたことになる。 1904年の日露戦争や、その後の1917年の2月革命を抱えながらシベリヤ横断鉄道は多難なスタートをした。

後に続く、第2シベリア鉄道と言われるイカル・アムール鉄道バム鉄道)敷設には、多くの旧日本軍捕虜が動員<強制労働>され、多くの犠牲者を出している。

 

 

 

             <ロシアⅠ号 停車駅/時刻表>

 



 

 

             <シベリア横断鉄道  路線図>

 

                  シベリア横断鉄道主要停車/通過駅
           

        

                         シベリア横断鉄道 《ロシアⅠ号》

          <ハード・クラス(2等)車両案内>

 

   ・旅行者専用コンパートメント

    ハードクラス(2等) 数車両       9室(4人1室)      1両36名定員

       ソフトクラス(1等)   2車両       9室(2人1室)      1両18名定員

 

  ・コンパートメントの鍵 : 各コンパートメントは内掛けタイプであり、

    コンパートメントを離れる際は車両担当車掌に鍵を掛けてもらう。

 

  ・スーツケース : 通常の大きさのスーツケースの場合は下段のベッドを持ち

    上げると収納スペースがある。また、上段のベッドの場合はコンパートメント

    入り口の上に収納スペースがある。

             

  ・乗車に際して : 列車に乗り込む場合、各車両前で出迎えている車掌に切符を

    見せ、必ず控えを受取り、下車するまで保管すること。 

    列車内での支払いは全てルーブルとなるので。事前に細かく両替をしておくこと。

 

  ・ベッドシーツ  : 寝台ベッドのシーツ代約30ルーブルは、別料金となる。 

    車掌に支払い、シーツを受とる。

 

  ・食堂車、ならびに給湯施設<サモワール> :

    ロシアⅠ号の場合、食堂車は中央の9号車に連結されており、途中駅で閉鎖する場合も

    あるので注意。 

    給湯施設<サモワール>は各車両の車掌室の前にあり、24時間自由に利用できる。

 

  

 

   

 

      給湯施設<サモワール>                 トイレ

 

  ・シャワー、トイレ : 乗客用シャワーはない。ただし、一定の条件で使用できる。

    詳細は別項で述べたい。 トイレは、各車両の進行方向の先頭左側にある。

    停車駅では施錠される。トイレットペーパー持参のこと。

    また、列車内では深夜24時になると消灯するので、懐中電灯があると便利。

 

 

   

               シベリヤ横断鉄道<ロシアⅠ号> 列車案内

           動力車・サモワール(給湯器)・コンパートメント内

                    Sketched by Sanehisa 
         

 

15時37分、乗客の夢を乗せた銀河鉄道<シベリア横断鉄道 ロシアⅠ号>は、多くの見

りを受け、9288km先のモスクワに向かって、ウラジオストク駅を後にした。

 

 

<バウチャーによる旅行システム>

この2001年、ソ連崩壊後のロシアを旅行するために採られたシステムが<バウチャー制

>である。

バウチャー制とは、滞在中の全スケジュールと、ルートを決め、旅行社を通じて予約

し、全代金を日本で支払って受取る「予約証明書と支払証明書」のことである。

ロシア旅行中、旅行者はパスポートと共に、この<バウチャー>の必携が、義務付けら

れる。

現在、バウチャー制は、ほとんど廃止されているようだが、当時のロシアは経済基盤を

安定させるため、外貨獲得源として重宝されていた。

バウチャー制は、統制国家で見られる配給制と似ているところがあり、少年時代に経験

した戦時戦後の配給制を懐かしく思い出したものである。 

自由を愛するバックパッカーにとってのモットー<規制なく自由に、いかなる場所に、

何時でも旅ができる>に反して、出発前に行き先が決まり、乗る路線も決まり、宿泊先

も決まっているという、出来上がったレールの上に坐っているだけの旅なのである。

この数年後のブータンの旅で<バウチャー制>に出会って、懐かしさを覚えたものであ

る。

でもよく考えてみれば、団体旅行そのものが<バウチャー制>といっていいのである。

 

2001年当時の旧ソ連を旅するためには、現地旅行社と提携する専門旅行社でしかバウチ

ャーを発行してもらえなかった。 <バウチャー制>は、他方、ソビエト時代の相互監

制度を受継いでいるように思えた。

 

 

 

<ミセス・R の講話>

シベリア横断鉄道<ロシアⅠ号>に揺られながら、ミセス・R の<ロシア民族の精神や歴史>などについての講話を受けた。

 

  

         <生命 жизнь> ―トルストイ曰くー

         生命についてトルストイは次のように語っている。

 

           ―自然・民衆・人類・神の意志という名において、

               他への愛によって生きるならば、

                  死はもはやその人においては、

                幸福と生命の中絶とは思われなくなる。

                そして、死は永遠の生を維持する。―

 

 

 

      <プラストール Пластолл> ―ロシア民族のこころー

 

   「プラストール」というロシア語は、「広大なる土地」や、「自由」の広がりを示す

         <ロシア人の心象風景>を言い表している言葉であるという。

        流れ去るシベリアの大平原にぴったり当てはまるではないか。

      また、プラストールのいう「自由」とは、あまりに広大なる土地がゆえに、

         この国をどうにかしようとする野心をおこさせる自由ではなく、

               広大なる土地に埋没する自由を愛し、

      日常の平凡なるわずらわしさを忘れる自由を感じてさせてくれる平和的・牧歌的・

        厭世的な言葉として使われていると、ミセス・Rはおっしゃる。

 

 

シベリア横断鉄道に乗り、車窓から見る数日間にわたるロシアの広大な平原は、どこま

でも無限に続いているのではないかと言う錯覚に落ちてしまうのである。 ミセス・R の

講話は続く。 

 

 

      <ドルゴチエルペーニエの民  Жители Долгочи Эрпения>

              ―忍耐・辛抱・農耕の民―

 

旅した2001年当時、ソ連崩壊時の1990年の1億5000万人をピークの減少に転じたが、

2013年ウクライナのクリミア併合で人口300万を増やしたロシアの人口は、その後2023年までの10年間、平

均1億4000万人超で推移している。 

国土面積は、17億ヘクタールで世界一、日本の45倍の面積を持つ資源国・農業国である。

しかし、国土の大半がツンドラ・ステップ気候と言う寒帯・亜寒帯に属し、栽培作物も限られている。

主要農産物は、小麦・大麦等穀物と、てん菜・馬鈴薯・向日葵の種などである。

1990年、ソ連崩壊後国民の購買力低下と国内市場の衰退から、一時その生産量は半減したと言われる。

農民減少の原因は、この<ドルゴチエルペーニエの民>―忍耐・辛抱・農耕の民―から逃れ、都市部への出稼

ぎにあったと、ミセス・R の解説である。

 

 

 

           <ロシア帝国の日本への関心>

    ー流れゆくシベリアの大地を眺めながら、高校で学んだ日ロの歴史を復習してみたー

 

鎖国政策の厳しい江戸時代であっても、廻船・漁船の漂流による近隣諸国への漂着はあ

った。 鈴鹿市生まれの大黒屋光大夫(31歳)が、1782年三重の白子浜を出航し、嵐の

ためカムチャッカの小さい島に漂着、1784年にロシアに渡り、ペテルブルグで日本語学

を開設し、エカテリーナ女帝にも謁見を許され、帰国を直訴した。

1792(寛政4年)、日本との交易を求める使節アダム・クラスマンと共に、根室に帰り着く。

その後、1804(文化元年 江戸時代) 徳川家斉の治世にアレクサンドル一世の親書を

もってレザーノフが公式に日本を訪問している。

ロシアを見てきた最初の日本人として、将軍や老中の質疑にも的確に答えたが、鎖国

策を守る幕府は、光大夫を危険人物として江戸番町の薬園に居宅を与え、幽閉してしま

った。

 

 

         <帝政ロシア詩人レールモントフにみる祖国賛歌>

レールモントフは、祖国の自然、ロシアの広大な自然を愛し、その愛を高らかに謳いあげていると、ミセス・R が紹介してくれた。

 

            『祖国   レールモントフ

 

         わたしは祖国を愛しているが、それはふしぎな愛によってである

               わたしも理性もこの愛を打ち負かせない

                   血であがなわれた栄光も

                尊大な信頼の心でみたされた安らぎも

                さだかでないいにしえの伝えごとも

           わたしの心の中に喜ばしい想いをかきたててはくれない

              けれども、なぜか知らぬが、わたしは愛する

                   その大草原の冷たい沈黙を

                 その広漠たる森林のゆらぐさまを

                 大海にも似た河の満々たる水を・・・・・

 

 

 

<ロシア人の季節感>

ロシアの大地では、春の雪解けを待って農耕の作業が始まり、霜を見るころに農機具を

納屋におさめて、長い冬将軍を迎え、短期間に農作業の労働を集中させ、緊張から安ら

ぎの長い冬を迎えるという。

極端から極端へと変わる季節の移り変わりと共にロシア農民は生涯を過ごすのだと、ミ

セス・R は悲しげにロシア農民の一生を説明してくれた。

車窓から見るシベリアの農家の地味な存在にその一生を見る思いであった。

 

 

ナロードに見るロシア人>

ミセス・R の言う、貧しいロシアの農民は、ロシアの歴史の根本をなす農民運動に行き

着いている。

1860~70年にかけてロシアで起こった社会運動<ナロードニキ運動>は、農民の啓蒙と

革命運動への組織化により帝政を打倒し、自由な農村共同体を基礎にした新社会建設を

目指したという。 

そして、最終的に1917年の<ロシア革命>を誘発したのだという。

ロシアの主人公は<ナロード>、すなわち人民であり、農民であると・・・

そして、有名な箴言メメント・モリ>を一言残して、ミセス・R の講話は終った。

 

 

メメント・モリ memento mori ラテン語の警句

   ―死を思えば、汝も死すべき身であることを想起せよ―

   メメント・モリ>とは、「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」・

  「死を想え」という箴言である。

 

シベリアの大地に浸っていると、生きとして生きるもの、人間を含めた動物たち、木や

植物は、静かに美しく魂を残して消えていく、いや死んでいくことに気づく。

ミセス・R の最後の言葉、<メメント・モリ>(死を想え) がこころの中に深く沈んでい

った。

天命が<死をとおして悠久なる命を継ぐ>ことにあることをシベリアの大地は、確信さ

せてくれるのである。

 

しかし、ロシアの農民は何時も権力者に搾取されているにもかかわらず、何時の時代も

その権力者に搾取され続けていることになれてしまっているように思えてならない。

その方が、抵抗するよりも、生きやすく平和であることを知ってしまったと云える。

大多数のシベリアの農民が貧しいことは、シベリヤ横断鉄道の7日間の車窓から、また

停車するプラットホームに露店を出す農民の姿や農産品を見ても、その貧困さを見てと

る。

 

 

               ロシア版シベリア横断鉄道路線

 

 

<同志 ミセス・R >

私は今、<銀河鉄道 ロシアⅠ号>に乗って、モスクワ星に向かっているのだ。

同じ列車、コンパートメントには、旧ソ連赤軍の情報将校、それも日本捕虜の将校尋問

担当であったミセス・R が、モスクワまでのメーテル役として、またパートナーとして

一緒である。

彼女の父は、貨物船の船長として世界中を巡り、なかでも日本に憧れ、神戸・横浜には

何度も訪れ、お土産や、絵葉書を子供だった彼女に送ってくれたという。

彼女は、大の日本びいきで、モスクワへの7日間、その知日派としての親しみを持って

接してくれた。 また、ロシアの現状・歴史について講話と言う形で、多くのことを語

ってくれた。

彼女は、ウクライナ・キーウ(旧キエフ)出身である。

     (ここでは、2023年現在ロシアによる特別軍事作戦中、ウクライナ侵攻中を考慮し、

      差しさわりのない話だけを載せることを了承願いたい)

 

一方、誇りあるソビエット赤軍の元将校としてのプライドと威厳を最後まで持ち続け、

崩すことがなかった。

ソ連崩壊から10年を過ぎていたこの旅でも、元将校としての勲章を、誇らしく胸に飾っ

ていたのが印象的であった。 先にも述べたが、彼女は鉱物学者である。

 

シベリア横断鉄道から見る広大な大地に何を思い描いていたことであろうか・・・

 

 

        後日送られてきた同志ミセス・R の勇姿(80歳・イスラエルにて)

 

 

1日目 17:00頃 <ウスリースク駅停車>  

     (ウラジオストクより118㎞ / モスクワへ9170㎞)

 

当初、シベリヤ横断鉄道<ロシアⅠ号>は、大きな拠点駅だけに停まるものと思ってい

たが、小さな駅にも貨物や郵便物、列車交換・切り離しで停車することが分かった。

時々停まってくれるので運動不足の乗客にとっては、絶好の散策時間となる。こちらは

わずかな停車時間を、ホーム沿いの野草の採集や、スケッチ、物売りを物色したりと忙

しい。

ただ、この当時、駅での写真を撮るのは、ウラジオストクでの教訓を生かし、出来る限

りの撮影を控えた。

このシベリア横断鉄道紀行記で、写真の少ないことにお気づきのことだと思う。代わり

に、出来る限りノートに挿し絵、スケッチを画くことにした。

 

最初の停車駅ともあって、<ウスリースク駅>では、沢山の人々が手荷物を持って列車

に乗り込んできた。

世界地図を見るとよくわかるが、ウラジオストク駅を出たシベリア横断鉄道は西に向か

うのではなく、最初北に向かうのである。 その理由は、ハバロフスクより南下するウ

スリー川が中国との国境であり、欲しかった満州をロシアが手に入れることが出来なか

ったからである。

シベリア鉄道は、まずシベリアをハバロフスクに向かって約800㎞北上する。 

もし、ウラジオストク駅を出て、バイカル湖近くのウラン・ウデンに出られたら、現在

のシベリア横断鉄道は、随分と短縮できたに違いない。

ロシアにとって旧満州占拠・帰属は長年の夢であった。

 

 

             シベリア横断鉄道最初に停車した<ウスリースク駅> 

                  プラットフォームの物売り風景

 

 

1日目 19:00頃 <シビルツブエ駅>停車 

      <ウラジオストクより180㎞ / モスクワへ9108㎞>

 

シベリア鉄道は、地方都市の駅にも止まり、野菜や穀物、荷物や郵便物を荷下ろしする

ようだ。 

ここシビルツブエ駅でも、地元のおばさんやおじさん達が蒸かしポテトや、トマト、ペ

ットボトルを窓越しに売り歩いたり、ホームに商品を並べ、青空市場が出現する。

 

 

<垂れ流し、だが一見水洗トイレ>

列車は駅に停車する度に、車掌によってトイレは鍵が掛けられ、使用できなくなる。

水洗式垂れ流しトイレとは、一応便器に水を張り(押上方式)、用を足し、それを線路

に向かって垂れ流すのである。

垂れ流しによる駅構内の線路上の汚物、衛生面を考慮してのトイレ使用禁止である。

日本でも新幹線開通以前の列車の便所は、垂れ流し(当時は便器から走り去る線路が見

えていた)というより、車速により空中に霧散させるという非衛生的な処分の仕方であ

った。

笑い話になるが、学生時代(1960年代)に日本アルプスに登山に出掛けた時には、夜行

列車に揺れ、涼しい風を浴びながら駅弁を食べていると、細かい霧が窓から吹き込み、

顔や弁当にかかったものである。

今から思うと、のんびりした世の中であった。

人糞が、作物の肥料であった時代であることを思うと、逆に健康的・科学的であったか

も知れない。

 

<シャワー>は、使用代を車掌に払えば、使用できるらしい。 やはり水圧が低く、わず

かな水量でのシャワーは難しいとのこと。 われわれの車両では、乗車期間中、利用す

る乗客を見かけることはなかった。

こちらは、バックパッカーである。 シャワー無しには慣れているので、ロシア号のシャ

ワーは使わず、身体の清潔を自分なりの方法<濡れタオルでの体拭き>で保った。

                         

 

 

■ 9月11日  《シベリア横断鉄道2日目》  (車内15℃/外気6℃)

 

2日目   05:46  <ベロゴルスク駅>停車  

  (ウラジオストクより1453㎞/モスクワへ7835/km) 

 

 <シベリアのニューヨークと言われるべロゴルスク市>

北に向かっていたロシアⅠ号は、ハバロフスクから西方に頭を向けたようである。

東からの夜明けが、列車後方から始まったからである。

後方より射すオレンジ色の炎を背に、列車が吸い込まれるように、シベリアの大平原を

滑りぬけていく。 淡い空に残影を見せるオリオン座が進行方向に向かって、左手(南

側)地平近くに消え去りそうな姿に、何とも言えない感動を覚えた。

 

   《オリオンを 手に獲りて観る 近き冬》  實久

    ―おりおんを てにとりてみる ちかくふゆ―

 

シベリア横断鉄道2日目 早朝のぺロゴルスク駅はいまだ暗く、少し寒気を感じた。

停車に気づかないコンパートメントからは、ロシア人のいびきの大合唱である。

乗降は、ほとんどがアジア系ロシア人、中国や朝鮮半島から出稼ぎに来て居ついたので

あろうか、それとも強制的に連れてこられたのであろうか。

すこし控えめな接し方が気になった。

 

長めの停車、トイレは鍵を掛けられ、プラットホームに出て運動を兼ねて散策、青空売

店で朝食や果物を購入、スケッチを楽しんだ。

少数乗客であるロシア人ミセス・R と肩を並べて英語でおしゃべりしているのだから、

不思議な取り合わせのように見られたものである。

 

ここは、トルストイが神と共に生き、ドフトエスキーが労働をとおして神に出会ったロ

シアの地である。

その大地に、その時の冷たさに、その時の太陽が輝き、空はどこまでも深く、緑に満ち

た緑の大地が、この目の前に広がっていた。

至福の時間が静かに流れいく・・・。 

 

欧米や、日本では人間によって大地はコントロールされ、たえず自然と戦わなければな

らない。

シベリアの大地は、自然が人間を支配し、自然との共存の営みのなかに、ロシア人のロ

マンが潜んでいるように感じられた。 なぜなら、ここはモスクワでもなく、もちろん

ヨーロッパの入口である大都会サンクトペテルブルグでもない。シベリアの農民からは

土の匂いが皺にまで染みわたっているからである。 

ここには、時間の流れが滔々と流れているのを見てとることができる。

 

一人のピーマン売りのお婆さんに、その姿を見つけ、許しを得てスケッチさせてもらっ

た。

 

   《白菜の シベリア顔や 皺きざみ》   實久

   ―はくさいの しべりあのかおや しわきざみ― 

 

 

           <べロゴルスクーでピーマンを売るシベリアの老婆>

                  Sketched by Sanehisa Goto

 

 

            我らを乗せシベリアを横断する動力車 

    

 

                ぺロゴルスク駅にて

 

ぺロゴルスクー市は、1860年に入植が開始され、市民は<シベリアのニューヨーク>と

呼び、屈託のない笑い声をシベリア大草原に放っていた。

 

シベリア横断列車は、シベリアの大地に線路の軋みをしみ込ませながら、シベリアの風

を切り、ただただシベリアの大平原を走り続けている。

ヘッドホーンからは、坂本龍一作曲の<リゲイン>が・・・

タンタンタンターンターン・ドットトレドットトト・・・”

ピアノの旋律が、こころに広がり、宇宙に広がり、ここシベリアの大地に響くように聴

こえている。

同室のミセス・R は、老眼鏡をかけドフトエスキーの<カラマーゾフの兄弟>を読書中

である。

わたしは音楽を聴きながら、グレビアル駅で採集し、押し葉にしたシベリアの草たちを

スケッチし始めた。

トイレに立つときは、ながい汽車旅のこと、15分程、通路でリフレシュを兼ね、軽い体

操をすることにしていた。

片脚づつ直角に200回上げ、つま先立ち50回、手すりで腕立て100回、スクワット100回

と、行き交う乗客に奇妙な目で見られながら・・・これまたシベリア横断鉄道の想い出

の1頁である。(後半は、喫煙者のいない喫煙室でのリフレッシュに変更)

 

バックパッカー流シベリア横断列車での食事メニュー>

      07:00 朝食 携行食 <ビスケット・チーズ・ピーナツ・柿の種・ドライナッツ・コーヒー>

      12:00 昼食 簡易食 <インスタントラーメン・プルーン・わかめスープ>

                       匂いを気にする同室者Mrs.ユートミラーにもお裾分けし、口封じ作戦

       18:00  夕食 自家製 <干飯―ほしいい・五目乾燥野菜・鮭缶詰・味噌スープ>

 

もちろん、食堂車もあり、ロシア料理やウオッカを堪能することができる。 ただし、

お客がある時だけの開店もあるので注意。

今回は、38000km、約3か月のバックパックの旅、食事は可能な限りレストラン食を

避け、現地での購入食材や、インスタント食で乗り切ることにしているからである。

なぜなら、この旅では、砂漠地帯有、戦闘地域あり、アフリカの貧困地帯や食旅調達を

見込めないエリアを旅しなければならない。 その準備・訓練を兼ねて、粗食に慣れ、

飲料の節水に慣れなければならないのである。

そして、長期のシャワー無しの旅に対処するための準備・訓練をこの汽車旅行で行うこ

とにしているからである。

 

 

<ミセス・R の日本史観>

ミセス・R については、先に旧ソビエット連邦赤軍の情報将校であり、シベリア抑留の

旧日本軍捕虜の尋問にあたっていたと紹介した。

彼女の亡き父親は、貨客船の船長をしており、日本の横浜港や神戸港に航海ごとに寄港

し、日本をくまなく歩きまわったほどの親日家であったということも書いた。

特に天皇制や、武士道に傾倒し、日本からキエフウクライナの首都)の留守宅へ、日

本の風景や風俗を紹介する絵葉書を送ってきたという。

<万歳・腹切・エンペラ・武士道・侘び寂・茶道・芸者・富士山・アイヌ・・・>と、

父親譲りの日本観を聞かせてくれた。

赤軍をリタイアするまで、接していた捕虜の旧日本軍将兵からも、多くの日本人の物の

見方や、考え方を学んだようで、まるで日本史観の講義を彷彿とさせたものである。

 

彼女の専門であった赤軍での情報将校の立場からも、当時の旧日本軍捕虜の収容所内や

釈放後の思考や行動についても語ってくれた。

沢山の旧日本兵が、釈放後、ロシア人と結婚し、ロシアに永住していることを知ってい

るという。

そうせざる終えない日本軍の捕虜に対する考え方<皇軍は決して降伏し、虜囚の辱めを

受けてならない>。 日本軍は降伏前に自決することを教えられていたという。

捕虜となった真面目な一部の旧日本軍将兵は、家族とも再会を拒み、虜囚の身であった

とを恥じたという。

今なお、高齢に達した旧日本将兵が、ロシアという異国の地で愛する人や家族を想いな

ら過ごしていることに想いを馳せるべきだと、女史は悲しげに語ってくれた。

 

 

サモアール:給湯器> ―サモアールは命の恩人―

サモアールのお湯、そのお湯の有難さを綴ったシベリア抑留記に何度出会ったことか。

厳冬の強制労働に立ち向かった捕虜の命を救ったのが、収容所の各棟にあったこの<サ

モアール:給湯器>であったという。

約60年前のシベリア抑留旧日本軍兵士が厳冬の重労働のあとサモアールに命の光を見た

であろうことを思いつつ、食事時に世話になった車両に備え付けのサモアールに対し慈

愛の眼差しで接したものである。

サモアールは、24時間休むことなく湯を沸かし続けてくれるのである。 それは昔も今

も、そうシベリアでの捕虜収容所でもサモワールは、旧兵士に帰国と言う夢と希望を与

え続けたのである。

シベリアでは、サモアール無くして生きていけないことを知った。

ロシアⅠ号の車両に備え付けられたサモアールの前に立って、ここが強制労働所でない

ことに平和の尊さを感じるとともに、この地シベリアで60万近くの同胞が、飢餓のもと

強制的に重労働を強いられ、6万人という多くの犠牲者を出したことを思い起こした。

 

        

           厳冬のシベリアの命の光 給湯器<サモアール>

 

 

2日目 13:25 <アルハル駅>停車  

     (ウラジオストクより1238㎞/モスクワへ8050㎞)

 

赤毛の女駅員が、乗降者をウオッチ(監視)しているように見えて、一瞬戦慄が走っ

た。 鍵を駈けられた貨車に、積み込まれた旧日本軍将兵を、貨車の隙間から覗き見た

監視の赤軍の兵士のように見えたからである。

 

シベリア横断鉄道<ロシアⅠ号>は、一日中、白樺の大平原を走り続けている。 シベリ

アの強制収容所へ送られていることを告げられていない捕虜となった旧日本軍将兵は、

不安に苛まれていたに違いない。 いや、不安の中にもかすかな希望を、この大平原の白

樺林に求めていたかもしれない。 

 

   《白樺の  バレリーナ翔ぶ  バイカル湖 》  實久

     ―しらかばの ばれりーなとぶ ばいかるこー

 

              バイカル湖畔を彩る白樺林

 

                      

               車窓を飾るシベリアの白樺林

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

<ミセス・R 談>

当時24歳と言う若き旧ソビエット赤軍情報将校であった彼女は、旧日本軍捕虜の尋問に

関わっていただけあって、<リヒャルト ゾルゲ・日本共産党袴田里見裕仁天皇>につ

いての女史なりの見識を持っていた。

 

列車に揺れながら、日本の無条件降伏前後の国際情勢や、捕虜をシベリア開発に投入す

るとともに赤軍のシンパに育成する過程について話聞かせてくれたものである。

さらに、尾崎秀実らと共謀し、日本軍の対ソ戦略の情報を集めていたソ連のスパイ・ゾ

ルゲの的確な報告は、スターリンを喜ばせ、信望を得ていたという。

また、日本共産党袴田里見は、21歳でソ連に渡り、モスクワのクートヴェ(東方勤

労者共産大学)に学び、コミンテルンに賛同して、日本共産党を再建し、世界共産革命

に献身した同志であったこと、当時戦勝国であったソビエトは、日本の降伏宣言を発し

裕仁天皇の責任追及を厳しくすべきだとする方針を決定していたことなどを回顧しつ

つ、列車の揺れをも楽しみながら、ゆっくりと話を聞かせてくれた。

 

これがわずか10年前であれば、彼女はソビエト連邦の機密を東洋人にもらした罪で罰せ

られたことであろう。 しかしソ連が崩壊し、こうして語り合える自由を、ここロシアの

地シベリアで味わえていることに驚きを禁じ得なかった。

コンパートメントと言う個室で、二人だけの旅という<自由なる空間>を彼女は、心か

ら愛していたようだ。

(ここでは残念だが、旅行後に送られてきた旅先での写真以外、ミセス・R の顔写真や、名前を伏せさせてもらっていることをご了承願いたい)

 

2日目 21:06  <トゥイグダ駅> 停車中である     

                  <ウラジオストクより1760km/モスクワへ7528km> 

 

 

 

 9月12日 <シベリア横断鉄道 3日目> 

      (トゥイグダ駅チタ間 1324km)

     

3日目  07:25   <アマザル駅>停車  

     ウラジオストクより2319㎞ / モスクワへ6974km)

 

モスクワに向かっての進行方向、右手にアムール川黒竜江)に合流するシルカ川が

シベリア鉄道と並行して流れている。 シベリア横断鉄道は、ここでアムール

(R.Amur)を離れ、シルカ川(R.Silka)沿いに大都市チタ(Chita)に向かう。

 

     ロシアⅠ号はAmur(アムール)河を離れ、Shilka(シルカ)川沿いにChita(チタ)に向かう

 

シベリアの夜がゆっくりと明けていく。

黄色に染まった白樺林が、徐々にその美しい立ち姿を見せ、シベリアの秋の風景を見せ

始めた。

朝もやに、流れ行く白樺林、シベリアの美しさを切り取った額縁である車窓を、いつま

でも飽きることなく見入った。

 

 <シベリアの大地を眺めながら>

シベリア横断鉄道に揺れながら、広大な湿原や大平原の流れゆく様を眺めていると、つ

ぎつぎと日ごろ忘れ去っていることが頭に浮かんでくるのである。

人間の行いや、人間に与えられる災害や苦難、悲しみや忍耐、そして生きていくうえで

与えられるすべての行為や感情が、《神を識る》ことによって与えられているように思

える。

おのれが行うのでも、対処するのでもなく、神がなさしめていることに気づかされるの

である。

 コンパートメントでは、時間を見つけては、停車駅で出会って、観察した野草や花、動

物の名前や、過ぎ行くシベリアの樹々の名前をミセス・R に教えてもらった。

 

・アラヒス/арахис/落花生

・カーシャ/тыква/南瓜

・クラン/кран/鶴

・クリズンテーマ/хризантема/菊

・ベレヤベローザ/белая берёза/白樺

・ソスナ/сосна/松

・ケデュル/Кедр/杉

・スビニャー/свинья/豚

 

 

ソビエト赤軍革命・大粛清> (ミセス・R 談)

1937~38年にソ連軍高官に対する裁判が非公開でとり行なわれ,多くの軍人が処刑された。

共産世界で行われた一種の権力闘争であって、<見世物裁判、見せしめ裁判、粛清裁判

>と呼ばれた一種の《人民裁判》によって、人民の敵として処刑してしまう、大粛清が

行われたという。

人民裁判とは、共産主義国家における政敵や、階級闘争・反体制派の粛清、占領地の人

的浄化を行う一種のリンチである。 少年時代に見た、朝鮮戦争下における北朝鮮軍の

とった占領地における統治方法でもあった。

一方、スパイとして裁判も行われずに逮捕、銃殺されたり、収容所に送られ姿を消され

ソ連高官、いやスターリンの気に食わない、敵対する、反対意見を言うもの達が、暗

殺されていった。

 

(2023年現在のロシアにおける権力闘争や体質も又、病死・暗殺・自殺・投獄による不審な死がつづくのと

なんら変わりはなかったようだ。どうもロシアと言う国、いやロシア人の体質と言えるのかもしれない。)

 

そこにはスターリンの神格化の推進と、反対派の殲滅にあった。

この間、逮捕者250万。 その内、処刑68万人、獄死16万人の計84万人という反体制派

を根こそぎ消し去ったという。

 

話し終えて、「権力闘争や、戦争はすべきでない」と・・・一言。

しかし、現在、世界の至る所で内戦がおこり、宗教戦争が絶えず、独裁者による歴史の

復活を目論むなど、痛ましい状況が続いていることを嘆きつつ、深く息をしながらミセ

ス・R は話をおえた。

 

多分、コンパートメントと言う密室で、それも一介の東洋人、いや日本人であるわたし

を信じ、忌まわしいソビエト時代の恐怖を語ってくれたのであろうと思う。

私もまた、1945年8月の終戦時、ソビエット赤軍の南下に伴い、両親の赴任先である北

朝鮮(現 朝鮮民主主義人民共国)から、命からがら、朝鮮半島を二分する中間線<

38度線>を越えて、南朝鮮(現大韓民国)ソウルへ避難民として越境していた。

そこで見た<朝鮮戦争>の北朝鮮共産軍による、人民裁判という恐怖統治を子供ながら

経験していたので、ミセス・R の話が、ダイレクトに伝わってきたものである。

 

(2011年、88歳の生涯を、故郷であるウクライナの首都 キエフ(現キーウ)で、静かに旧ソビエト連邦時代を知る一人のウクライナ人が、波乱の一生を閉じたという連絡が入った。ご冥福をお祈りしたい)

 

(あれから20数年が過ぎ、鬼籍の人となった女史を弔いながら、懐かしく想いだすのである。それも女史が愛

するロシアが、女史の母国であるウクライナに対して、<ウクライナはロシア領だ>と主張し、攻め込んでい

るのだから歴史は繰り返すものだと実感している)

 

 

3日目 09:45 <チェルヌイシェフスク・ザバイカリスキー駅>停車

     ウラジオストクより2733km / モスクワへ6555km>

 

<ロシア人乗客に見る食事考>

食事時間になると、大半の乗客は、持ち込んだ食材をホーロー鍋やカップ入れて、サ

モワール(給湯器)に列をなす。 

果物類や、茹でジャガイモ、黒パン、ソーセージ、ヨーグルト、ゆで卵、茶葉、クッキ

ーなどが彼らの主なる食料である。 この他に、必要なものや不足分は、各停車駅の青

空屋台で、生野菜・果物・ピロシキ・茹でジャガイモ・トウモロコシ・パン類を購入し

ている。

私の今日の昼食メニューである醤油味のインスタントラーメン、クッキー、乾燥ナッ

ツ、紅茶と比べてみても、庶民的であり、バックパッカー風食材であり、メニューで

ある。

どこか戦後の和気あいあいとした夜汽車の食事風景を思い出していた。

 

7日間通して同じ列車で旅を続けるのは、今回が初めてである。

シベリア横断列車のなんと庶民的で、牧歌的であることか、これこそロシア的鉄道旅行

と言えようか・・・

かえって貧乏旅行をしているバックパッカーにとっては居心地の良い乗客たちであり、

列車であった。

もちろんシベリア横断列車で、シャンパンを持込み、キャビアを楽しんだり、食堂車で

ロシア料理にウオッカを楽しむことも出来ることも記しておきたい。

 

            <シベリア横断鉄道7日間の携帯食料リスト> (資料)

 

      

 

 

 

                 Blue Russian Cat

                                                     シルカ駅にて

              Sketched by Sanehisa Goto

 

 

<広大なシベリアに想う>

シベリアの大平原を見ていると、この広大な領土を戦争により占拠することは不可能に

近いと云える。

ロシアは、永遠に滅亡することはないのだろうか。 

初期のロシアは、サンクトペテルブルクを中心に小さな帝国であったのが、不凍港を求

めて東進しながら領土を拡張し、大帝国を築いてきた。

ローマ帝国や、オスマントルコが滅亡したように、このロシアという大帝国が消滅した

ら、どれだけの多くの国家が誕生し、解放された少数民族が喜ぶことだろうか、世界史

の今後を考えてしまった。

ロシア帝国に帰属させられてきた広大な土地は、ほとんど手つかずにある。 

このような土地が、この地球上にいまだ放置されていることに不思議さを覚えた。

なぜ、他民族やアフリカなど全世界からの移民や避難民を迎え入れて開拓しないのだろ

うか。

ところどころに棚引く煙は、貧しい農民の家からのものであろうか、貧乏にあえいでい

る姿が、頭によぎった。

灰色に沈む農家では、ドフトエスキー的な<写実的ヒューマニズムを見つめながらの生

活>が、またトルストイ的な<神と共に歩む生活>が営まれているのではないかと想像

した。

 

   《秋寂し ここは地の果て ロシアかな》    實久

     ―あきさびし ここはちのはれ ろしあかな―

 

   《 濡れダリヤ  雨を纏いて  冬支度 》             實久

     ―ぬれだりあ あめをまといて ふゆじたく―

 

車窓から、つぎつぎ途切れることなくつづく大草原、白樺林、大湿原を楽しみながら、

ミセス・R と食堂車で仕入れたロシアン・ビール<NETPOBCKOE / ネットポブコー>

で、シベリアに乾杯し、のどを潤した。

ほろ酔いしながら、ラベルのコサック兵が馬に跨り、列車ロシア号を襲ってくる様を思

い描いてみた。

 

         

              湿原地帯 ウランウド駅付近            

 

 

       

           ロシアン・ビール<NETPOBCKOE / ネットポブコー>

 

シベリアの大自然は、穏やかで、母性的で、気品すら漂わせ、悠然としている。 

そして純で、美しい。

神の力を感じる、わたしの好きな風景である。

 

しかし、そこに住み着いた人たちは、なんと貧しく、色あせた生活の中に沈んでいるこ

とか・・・

仮の住まいでもあるまいに、なんの装飾もまく、一片のペンキの色さえ認められない貧

しい家・・・

ただただ、腐り、滅びゆく色と言うか、朽ちていく色である。

 

<シベリアの農民>

シべリアをおおっている大自然の美しさに比べ、人間は何故このような無神経な家に住

み、貧しい生活に甘んじているのであろうか。

農民の自立心の欠如からなのか、それとも農奴制解放から農民世帯の収入が悪化し、出

稼ぎによる副業収入を求めざるを得なくなり、働き手が都市部にとられたためか・・・

いずれにしても、政治の貧困が深く根差しているような気がした。

シベリアの農民すべてが、この大自然の中で幸せを享受して欲しいと願った。

 

<日本の歌謡曲に聴き入るミセス・R>

父親が、大の日本ファンであっただけあって、ミセス・R も日本の童謡に慣れ親しんだ

そうである。 持参したテレコから流れる美空ひばりの歌謡曲に、レシーバを離すことなく夢中に聴き入っていた。

本人はプッシーニのトスカがお気に入りだとおっしゃる・・・ 素敵なキエフ(現キーウ)出身のウクライナ老婦人との同室に感謝した。

 

 

 <汚れなきシベリアの大自然

もし天国に行けたら、多分シベリアのような無垢な自然なる景色を見るであろう。

天国のようなシベリアの大自然を、人間と言う汚れた生き物が、不釣り合いな小屋や

習で自然破壊を繰り返す様は、滑稽でもある。

自然を征服したであろう人間が、一番醜い存在として、夜空に美しく輝く星空のもと、

モラルを失っていく姿に悲しみを隠し得なかった。

汚れなきシベリアの大自然が失われるとき、人類は滅亡へと向かうであろう。 

それも近い将来に起こりくるように思えた。

しかし、シベリアの夜は、星が輝き、実に美しい。

 

次のチタ駅からは、<ザバイカリスク>-国境―<満洲里/マンチョウリ>経由で、中

国<興安嶺/シンアンリン>行の列車がでると、女史が教えてくれた。

ロシア帝国が夢に描き、満州占拠によるウラジオストクへの最短列車路線を敷設したか

った路線である。 現在、乗車しているシベリア横断鉄道は、先でも述べたがハバロフス

ク経由、北へ向かっての迂回路線である。

 

 

  

9月13日 <シベリア横断鉄道 4日目> 

       (チタ ➡ イルクーツク間 1013㎞)

 

4日目 00:00 <チタ駅>停車  

     (ウラジオストクより3084km / モスクワへ6204km)

 

<チタ/Чита II/CHITA>

真夜中、ミセス・R にチタに停車していると、爆睡中に起された。

まず、写真を撮りに車外、プラットホームへ走った。

チタが、シベリアの臍にあたるところであり、漠然と何かを期待していたのである。

19世紀に入って、ロシア革命のもとになった皇帝の即位に反対するロシア高官たち<デ

カプリスト集団=12月集団>の反逆者の流刑地となり、彼らを中心に<チタ共和国>が

設立された首都チタは、人口30万人ほどの中堅都市であり、車両工場のあるシベリアの

交通の要所である。

チタからは、ロシアが敷設した鉄路が、チチハル経由ハルピンまで延びており、日本統

治時代の満州国の主要路線でもあった。

ここチタは、1918年9月、ロシア革命後の<シベリア出兵>により派遣された日本軍が

一時占拠し、駐屯したことがある。

また、終戦時の1945年以降、シベリア抑留による日本兵捕虜による鉄道建設に酷使され

た中心地でもある。

 

ソ連、日本に宣戦布告>  (ミセス・R 談)

女史は、1945年8月6日、モスクワを出発し、ウケベー(インタールー内務省特班)

の同志(コムラッド)5人と共に、シベリア鉄道SSLに乗り、終戦記念旅行としてウラ

ジオストクへ向かう途中、8月9日<ソ連、日本に宣戦布告>のニュースが伝えられたと

いう。

旅行中、8月6日の広島ウラン型原爆投下、8月9日プルトニウム型長崎原爆投下、ソ連

可侵条約を破棄し対日参戦、8月15日天皇による<終戦詔書>による敗戦受託と歴史

の瞬間に立合った、と話は続く・・・

また、日本へ脱出するため列車に隠れ乗っていた2人の日本人外交官(大使館員)が、

こチタあたりでソビエト内務班外事課のスパイ摘発班に連行されて、下車させられて

のも目撃したと。

 歴史講話を聴きながら、車窓から見るタイガー・ツンドラ地帯の風景を追っていた。

タイガー地帯は針葉樹林の海原であり、ツンドラ地帯は永遠の不毛地帯を表現してい

た。

ここは無限に広がると思われるシベリアの地なのである。

不毛地帯で繰り広げられる人間のドラマは、不思議な物語でもある。

 

 

      針葉樹林帯<タイガー>             不毛地帯ツンドラ

 

チタを出たロシア号は次駅、ペトロフスキー・ザヴォート駅に停まった。

この間も、ミセス・R の講話は続く。 

窓からはきれいな星空が広がっている。 

しかし、長時間の講話に、こちらも耐えながら立ち向かっていたが、いかんせんこちら

は眠くて仕方がない。 しかし、女史は、旧情報将校らしく、姿勢を正し、赤軍の歴史

や、旧日本軍将校に聴取した歴史的伝聞を詳細にわたって、この日本人に伝えてくれて

いるのである。

 

果てしないシベリアを、我々を乗せたロシア号は、三日月とオリオン座に見守られ一

路、大熊座の先に眠るモスクワに向かって疾走している。 その振動は、暁に居眠

りしながら講話を聴くわたしに、心地よく伝わって来た。

 

ウラン・ウデ駅手前のザウディンスキー駅から<ロ蒙中鉄道/モンゴル縦貫鉄道>が、

ウランバートル経由北京方面へ延びている。

 

(2017年、モンゴルを訪れ、モンゴル縦貫鉄道にも乗ってみた。 また、ゴビ砂漠で野営し、夜空の星たちをスケッチしてきた。その時の<モンゴル縦貫鉄道乗車記>は、2017『星の巡礼 モンゴル紀行』の#1~14に書き残している。)

    shiganosato-goto.hatenablog.com

 

                 モンゴル縦貫鉄道路線

 

 

               モンゴル縦貫鉄道新旧動力車

 

 

4日目  08:09 <ウラン・ウデ駅> 12分間停車  

                      (ウラジオストクより3641km  /  モスクワへ5467km) 

 

ウラン・ウデは、人口35万、ブリシャード共和国の首都である。

車窓からの印象は、素朴のなかに貧困が目立つウラン・ウデである。 ロシアの共和制

はどのような仕組みで、市民にどのような福祉を提供しているのであろうかと、興味を

持った。

構内で、行商のお婆さんからバイカル湖産の鮭の一種である<キャッター>(別名バイ

カル・オームリ)を勧められ、購入した。 (@15p/ルーブル 

淡緑と紅色の見事なグラデーションに魅了され、スケッチして見たくなったのである。

何といっても、この幻の鮭がバイカル湖の住人であったことに惹かれた。

また、ウラン・ウデ駅周辺に生えていたシベリアの野草を採集し、ミセス・R に草の名

前を教わりながらスケッチに収めた。

 

 

      バイカル湖産の鮭の一種である<キャッター>(別名バイカル・オームリ)

                   Sketched by Sanehisa 

        

 

 

           オームリ(琵琶湖博物館提供)         コンパートメントでスケッチ中

 

朝食は、スケッチ後のバイカル・オームレイ(鮭の一種)をライ麦パンに乗せて、レモ

ン汁と塩胡椒をふり掛け、シンプルにいただいた。

 

     

     《 バイカルの サーモン踊りし 朝餉かな 》  實久

         ―ばいかるの さーもんおどりし あさげかな―

 

 

                   <シベリアの野草>

      左・レベダ/キノア(薬草) 上・チエノブリ/ヨモギ 下・クレビアル/クローバー

              Sketched by Sanehisa 

 

 

ウラン・ウデ駅を出たシベリア横断鉄道は、バイカル湖に流れ込むただ一つの川である

<セレンガ川>を渡る。

 長旅の場合、いつもの通りだが、体調を保つために就寝時に軟便剤を一錠口に放り込む

ことにしている。

シベリア横断列車では、生野菜や果物が絶対的に不足するから、便通には適時 浣腸も併

用して健康には特に注意した。 トイレには、初日だけトイレットペーパーと洗剤が用意

されていたが、2日目からは準備されず、その都度持参することとなった。

 

<昼食メニュー>

インスタントラーメン、干ブドウ、乾燥ワカメ、すき焼缶詰を器にぶち込み、サモワールの熱湯を注ぐと、これまた絶品のランチとなった。 

 

 

4日目  16:38 <スリュジャンカ駅>停車 

      (ウラジオストクより3971km/モスクワへ5317km)

 

ミセス・R は、バイカル湖特産の<Hot Smoked Fish>を手に入れて、夕食に

するのだと興奮気味である。

女史は、78歳だというのに、80㎏越えの体重をゆすってチャーミングであり、お元気で

ある。

 

スリュジャンカ駅より労働者二人が乗車、コンパートメントは4人となり賑やかになっ

た。 ここから3時間ほどのイルクーツク駅まで行くのだという。 シベリア横断鉄道で、

この区間だけが4人同室で、純朴なロシア人との同乗と言う素晴らしい経験をさせても

らった。

外は寒いのであろう、防寒服を着用した彼らにくらべTシャツ姿のこちらとは対照的で

ある。

 

 

4日目 19:15 <イルクーツク駅>停車 

      (ウラジオストクより4097km / モスクワへ5191km)

 

イルクーツクは、ウラジオストクを出て、はじめての近代都市であり、人口60万人を擁

するロシア中部最大の都市である。

日本人女性2人と男性1人が下車、この先はロシア号ただ一人の日本人乗客となった。

また、同室のスリュジャンカ駅からの労働者二人も、イルクーツクで下車したので、

女史が手に入れたバイカル湖産の鮭を囲んで夕食をとった。 

 

<4日目夕食 : 乾飯/かれいひ・わかめスープ・鰯オイル缶・バイカル鮭・リンゴ・プルーン・緑茶>

 

イルクーツクは、石油・天然ガスのコンビナート地帯であり、今まで暗闇を走って来た

シベリア横断列車<ロシアⅠ号>は照明にきらめき、鮮やかなバイカル湖畔に広がる夜

景を見ながら西進、モスクワに向う。

また、シベリア鉄道に沿って延々と続くヨーロッパ向けの輸送管や、すれ違う油送タン

ク車の多さに目を見張った。

資源の開発により、最貧のシベリアにも、光明が訪れているようである。

ロシアの資源外交、特にヨーロッパへの石油・天然ガスの拡大により、より一層の外貨

獲得に励んでいる姿が見られる。

 

(2023年現在、ロシアによるウクライナ侵攻により、西欧側の禁輸処置で稼働を縮小している)

 

 

                  白樺林越しにバイカル湖を望む         

               Sketched by Sanehisa Goto

 

 

              シベリア横断列車で出会ったロシアン・ビール達

                    Sketched by Sanehisa Goto

 

       

 

■  9月14日 <シベリア横断鉄道 5日目> 

      イルクーツク  ➡ ノボシビルスク 1843㎞)

 

 

              シベリア <インディ・ヤス 村>の夜明け前

                    シベリヤ横断鉄道通過村

                   Sketched by Sanehisa Goto

                                       2001/9/14 05:41

 

 

5日目 07:25 <レショトゥィ駅>停車 

    ウラジオストクより4830㎞ / モスクワへ4458km)

 

ここレショトゥィ駅付近が、シベリア横断鉄道のほぼ中間点である。

東西に走るサヤン山脈のふもとにある小さな村だが、工業地帯が広がり活気に満ちてい

るのに驚かされた。

未開拓の東シベリアより走り続けてきたシベリア横断列車は徐々に文明の灯りに近づい

ているようである。

 

 

                     レショトゥィ駅 

 

 

5日目 08:54 <クラスノヤルスク駅>停車

     ウラジオストクより5184㎞  /  モスクワへ4104㎞)

 

エニセイ川を渡るとシベリア第三の都市であり、人口100万人を抱える工業都市クラス

ノヤルスクに着く。

車窓から<MITSUBISHI>の広告塔が見える。 日本企業が多数進出しているのだ。

石油コンビナート、アルミ、木材の工場群がつづく。

何よりもホッとさせられたのは、建物にカラフルな色<ブルー・グリーン・レッド>が

塗られており、ようやくシベリアを抜け出し、ヨーロッパに近づいていることに気づか

される。

住民の大半は、ロシア人とウクライナ人で占められていると、ウクライナ人のミセス・

が説明してくれた。 その理由は、スターリン時代にウクライナ人やベラルーシ人を天

然資源の掘削労働力として送り込んだ流刑地であったという。 ロシア国内のニッケ

ル・コバルト・銅の70%以上を産出しているという。

またここにもシベリアに多く点在していた日本兵捕虜収容所<ラーゲリ>の一つ、<ク

ラスノヤルスク収容所>があった。

 

<シベリア・クラスノヤルスク捕虜収容所>

ハイラルソ連軍の捕虜となった旧日本軍将兵は、貨物列車に乗せられて降車したのは

こ<シベリア・クラスノヤルスク収容所>であったという。

この旅の前に、厳しい労働とソ連憲兵との軋轢、日本人捕虜同士の齟齬など、語りきれ

ないほど辛い体験をしたとの抑留体験記に接していた。

ここクラスノヤルスクで、苦しい重労働に命を落とした多くの元将兵の魂を慰めるた

め、持参した日本米と乾燥梅干、仁丹と征露丸をシベリアの水で湿らせ、線香の前に備

え、小林旭の『北帰行』を流し、慰霊の祈りをささげた。

ミセス・R が、かすかに流れる『北帰行』の曲に、ハミングで応えていたのに驚いたも

のである。

 

ここクラスノヤルスク駅には、20分間の停車である。

小雨のなか、おばちゃん達の物売り籠の中を物色しながら散策、 トマト8個と女史に新

聞<プラウダ>を購入した。

スターリン肖像画入りのシガレット(タバコ)を見つけて、スケッチする。

ソビエット連邦時代の独裁者で、3000万人ともいわれる反体制派粛清および犠牲者をだ

したと言われるスターリンの亡霊に出会って驚かされるとともに、ソ連崩壊後もなおス

ターリンの人気があることにっ目を見張った。

   

                         

     

              独裁者スターリンをモチーフとした煙草ケース

                    Sketched by Sanehisa Goto

 

  

             <ああわれシベリアにおりて>

                 詩   後藤實久

 

      わが同胞 長きにわたり ここシベリアの大地に 眠りおりて

       家族を想う気持ち 耐えがたき別離に 望郷の念 増しに増す

 

         この世もまた神の国 人はみな神の子と言いつ 殺生やまず

       無念の念を法の声に聞こえない 人の浅はかさに 闇夜明かず

 

       ああわれいまシベリアにおりて 無念のうちに斃れし 将兵

       無の風流るるを識りて こころの慰めに 照りし光認めしや

     

      

 

<各車両見て歩きーシベリヤ横断鉄道>

 ➀ ジョギング・スペースを見つけるー喫煙室 

   車両間に喫煙室があり、定位置でのジョギングが可能である。

   もちろん喫煙者がいないとき、運動不足の体を動かしていた。

   車両の通路でもいいのだが、何分狭いことと、通路を走ることに気が

   引けるのである。

 ② 各車両により、同乗者の地域・国別により独特な匂いがするものだ。

   ロシア婦人の腋臭の残る車両、面白いことに足に剛毛をもつ婦人ほど、

   腋臭も強烈であることである。

   インスタントラーメンの匂う車両、バックパッカーか東洋系の乗客が

   乗っているとわかる。

   強烈なニンニクの匂いが充満した車両、朝鮮系のロシア人なのであろうか、

   民族豊かな匂いである。

  ➂  一般車両のほかに、ロシア帝政時代を彷彿とさせる豪華な特別車両も連結

   していた。

  ④  食堂車両は清楚で、落ち着いた雰囲気であった。

   こちらはアフリカ希望岬までたどるバックパッカー、写真だけを撮らせて

   もらった。(ウオッカ・ワイン・ビールなど飲物は購入可能、利用した)

  ⑤  各車両でのアナウンスは、ロシア語だけで、外国からの観光客には不便を

   感じると思われる。 こちらは英語が堪能なミセス・R が通訳して

   くれたので、快適な旅となった。(2001年当時)

 

  

          シベリヤ横断鉄道<ロシアⅠ号>食堂車        

 

 

               コンパートメントでのバックパッカーの食事風景

 

 

                 <大地に還る>

                   詩  後藤實久

 

         シベリアの大地 丸みの中に 色づきて うるわし

         魅惑の風景に酔いつ ユートピアランドを 駈走す 

         詩を詠み 揺れに身をまかせ  悠久の時に沈みて

         一木一草着飾りし 移りゆく秋化粧を 楽しみおる

 

         いや シベリアの農民の暗さ わが胸を打ち止まず

         貧しさに花咲くことなく 自然の美しさに埋没せし

         命揺れ   シベリアに没す すべての農民を憂いしや

         神の創りしこの世界 すべての命 大地に還りしか

            

 

寒くなると、このシベリア横断鉄道ロシアⅠ号にも暖房が入る。

9月中旬のシベリア、寒暖計は、車外の温度が零度を示している。 

車両の金属部分を触ると手がしびれるのを感じる。

 

 

<シベリアで知った9:11事件>

クラスノヤルスク駅で購入した新聞<プラウダ>を、ミセス・R に手渡すと同時に、ニ

ューヨークの貿易センタービルがテロ攻撃を受け、崩壊したと言うではないか。

最初、なぜという疑問が湧き、ニューヨークに20年在住し、見慣れていた貿易センタ

ー・ツインビルに何が起こったのか想像すらできなかった。

 

プラウダ紙の第一面には、旅客機が貿易センタービルに突っ込み、黒煙が吹き上げてい

る、まさにその一瞬を切り取った写真である。 この写真は、プラットホームで購入時に

目にしていたが、どこかのビル火災にしか受け取っていなかった。 ロシアの文字を読

めない人間の無関心さ、そのものであったことを恥じた。

 

女史の英語解説によると、2001年9月11日の火曜の朝、イスラム過激派テロ組織アルカ

イダによって行われた<アメリカ同時多発テロ事件>であるという。

テロ組織アルカイダは旅客機4機をハイジャックし、 2機によるワールドトレードセ

ンター・ツインタワーへのテロ攻撃、そして1機によるバージニア州のあるペンタゴン

国防総省)へのテロ攻撃、あと1機が首都ワシントンDCへ向かう途中であったが、乗

客の抵抗にあい、野原に墜落したという。

 

ワールドトレードセンター・ツインタワーは、世界資本主義のシンボルであり、アメリ

金融街の中心に建つアメリカ繁栄の象徴でもある。

新聞写真に見るアメリカ市民の悲し気な顔には、ベトナム戦争敗北以来の喪失感が見

とれた。

この痛ましい<アメリカ同時多発テロ事件>で、2500人以上の犠牲者が出ていると、

じていた。

 

この事件の影響は、喜望峰への旅の途次、幾多の障害となって立ちはだかるとは、ここ

シベリア横断鉄道ロシア号では知る由もなかった。

            

                  <アメリカ同時多発テロ事件>          

       ニューヨークにあるツイン・タワー南棟に突入した瞬間を報じるプラウダ紙写真

              

 

 

5日目   14:35 <ジマ駅>動力車の交換作業風景を楽しむ   

      (ウラジオストクより5442㎞/モスクワへ3846㎞)

          ジマ駅は、クラスノヤルスク駅から258㎞先にある動力車交換・車両切り離し駅である。

 

 

                                                                  車両切り離し作業中 <ジマ駅>

 

   

5日目 20:46 <ノボシビルスク>到着  外気5℃

         ウラジオストクより5940㎞  /  モスクワへ3343km)

 

ノボシビルスクは、人口150万人、シベリア最大の都市である。

 

シベリヤ横断鉄道ロシア号は、ノボシビルスク駅を出るとオビ川を渡り、バラビンスク

駅を経てオムスク駅に向かう。

コンパートメントの照明を落とし、車窓から見上げるシベリアの夜空は、星がちりばめ

られ、その明るさを競っているようだ。 

星の輝きは、アメリ同時多発テロによる多くの犠牲者を追悼しているようで、揺れて

見えた。 

われわれも、ノースポールの回転軸上に輝く北極星を見つけ、食堂車で手に入れたロシ

アン・ビール<コサック元帥>を捧げて、ささやかな追悼の時間を持った。

プラウダの新聞記事には、特派員によるスーサイド・キラーとか、第二のパールハーバ

と言う言葉が悲しく踊り、いまだアメリカ人の<真珠湾攻撃>に対する怨念が、潜在

に残っているような伝え方をしていた。

 

              

       

                 ロシアン・ビール<コサック元帥>

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

                

       

                 臨時停車駅チュルィムスカヤ 駅舎

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

 

9月15日 <シベリア横断鉄道 6日目>  (室内気温 15℃  /  外気 5℃) 

      (オムスク➡エカテルンブルグ間 1206㎞)

        

6日目 02:30 <バラビンスク駅>到着

     ウラジオストクより5940㎞/モスクワへ3343km)

 

 バックパッカー長旅における体を清潔に保つ工夫>

長旅や、ロングトレイルを縦走していると1~2週間シャワーや風呂に出会わないのが

常である。

ロシア号では、トイレのチョロチョロ水でタオルを濡らし、肌を擦り、良く拭いた。

一種の寒風摩擦みたいもので、肌の代謝を良くし、体をリラックスさせる効果がある。

また、健康保持上、下着には特に気を付けた。

携行した2枚のTシャツや、パンツは、朝と夕に互いに履き替えるのである。

その都度、着替え分は裏返して空気に触れさせて消毒・消臭(笑い)、次回の着替えに

は、裏返しのままTシャツ・パンツを着用するのである。

体臭の変化には、Tシャツの脇や、パンツの窓に微小のオーデコロンを付けた。

大小の局所には、殺菌用ウエットティッシュが大活躍である。

歯磨きは、食後必ずブラッシングし、歯垢をためないように注意した。

エチケットとして、ブラッシング後、仁丹を一粒口に放り込むのである。

とにかく、野宿であろうと、軒下であろうと、水のある所で泊まれる時には、必ず下着

や靴下、ハンカチやタオルを洗うことにしている。

 

 

ロシア号は、早朝のバラビンスカヤ大平原を、モスクワに向かって走り抜けていく。

              

                  バラビンスカヤ大平原

                      Sketched by Sanehisa Goto

 

 

6日目 07:05 <オムスク>到着 

     (ウラジオストクより6264㎞/モスクワへ3019km)

 

オムスクは、シベリア開拓の拠点であり、人口115万人のシベリア第2の都市である。

1850年より4年間、ロシアの文豪ドフトエスキーが流刑された地であり、その記録は

死の家の記録」として発表されている。 

 

<ミセス・R の講話 ―地下鉄サリン事件―>

今朝、朝食をしながらミセス・R の講話に耳を傾けた。

突如、サリンの話が始まった。 

1995年の地下鉄サリン事件を思い出し、その凶悪性に身震いしたものである。

女史によれば、サリンは、第二次世界大戦前のドイツで、有機リン系殺虫剤を製造する

課程で発見され、戦時中は無色無臭の神経性毒ガスとして一部の戦場で使われていたそ

うである。

化学式は、<C4H10FO2P>だと、ノートに書いてくれたが、それは科学者の姿であ

る。

ドイツ降伏後、ソ連サリン工場や技術者を国内に移し、サリンを毒ガスとして兵器化

していたという。

オウム真理教土谷正実が合成に成功、地下鉄サリン事件を引き起こしている。

事件当時の日本の新聞では、オウム真理教サリン使用にあたっての毒性や解毒方法を

学ぶため、ソ連で訓練をしていたと報じていたことを思い出した。

7年前の地下鉄サリン事件オウム真理教のことを女史は、まるで担当検察官だったよ

うに記憶していたことに驚きを隠せなかった。

旧ソ連軍の情報将校、日本軍将校捕虜担当をしたあと退役軍人に退いたと自己紹介して

いたが、戦後も上級情報将校として対日諜報に関係していたのではないだろうかと…思

ってみた。

講話が終わると、持参したソニーのテープコーダーにセットされている歌謡曲 美空ひ

ばりの歌「柔」(やわら)に聴き入り、車窓から白樺の景色を楽しみながら、覚えたメ

ロディーを口ずさんでいた。

 

       

      

                シベリアの白樺並木を楽しむ ミセス・R

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

<読書―トルストイ著「人はなんで生きるか」>

   толстовцы ― “Зачем живут?”

 

  ➀ 人間の中にあるものは何であるか ― 愛である

  ② 人間に与えられていないものは何か ― 死である

  ➂ 人間はなんで生きるか ― ひと(他人)のために生きる

 

   ―ひとが自分で自分のことを考える心遣いによって生きていると思うのは、

     人がただそう思うだけのことに過ぎないと言う。

    ―実際はただ、愛の力だけによって生きているのだと言うことが、

     分かるはずだと言う。

    ―なぜなら、神は愛だからと言う。

                     

トルストイの名言が頭によみがえった・・・

  <幸福になりたいと思い、幸福になろうと努力を重ねること、

   これが幸福への一番の近道である。>

  <過去も未来も存在しない。あるのは現在と言うこの瞬間だけだ。>

 

この38000㎞に及ぶ踏破旅行に携行した一冊の本がトルストイ著作の『ひとはなんで生

きるか』であり、ほかに携帯用『新約聖書』である。 

シベリヤ横断鉄道の旅の日常である、就寝・食事・同室者からの<ロシア帝国・ソビエ

ト連邦>及び<旧日本軍捕虜収容所であるラーゲリ―>の歴史秘話に関する講話・スケ

ッチ・車窓からの自然観察・旅行本からの情報収集・通過駅の確認と記録・喫煙室での

柔軟体操・停車駅での食料購入や植物採集・散策などのルーティン・スケジュールのほ

かに、音楽鑑賞と読書が唯一の娯楽である。

 

 

6日目  19:15 <スベルトロッスク駅>到着 

     ウラジオストクより5940㎞  /  モスクワへ3343km)

 

スベルトロッスク駅で、約6時間の遅れだという。 

モスクワに16:30着予定なので、22:00以降に到着する予想である。

シベリア横断鉄道で6時間遅れは普通だという。 

2~3日遅れではないので驚くことでは無いと言われてしまった。 

ここは広大なロシアの大地なのだ。

 

 

 

 

 9月16日 シベリア横断鉄道7日目最終日 <モスクワ駅>到着    

      晴れ・車内18℃/外気2℃

     

 

<シベリア横断鉄道の旅>最終日である。

シベリア独特の朝靄が大地を這い、幻想の世界を演出する。

モスクワは、走り続けてきたシベリアの大平原よりも北に位置しているのであろうか、

空気が少し変わったような気がする。 冷たく感じるのである。

ドヴォルザークの「家路」交響曲第9番「新世界より」第2楽章をレシーバーで

聴きながら、長年夢に見てきたシベリア横断鉄道の旅を思い返した。

 

アジアとヨーロッパの分水嶺であるウラル山脈を越えると、白樺の葉の色も黄色から紅

葉に変え、美しい姿で旅人を迎えてくれる。

 

 

7日目  07:00 <バレジノ駅>停車   

     ウラジオストクより8094㎞  /  モスクワへ1194km)

 

発車時間を確認してから、駅構内を散策していると、<ロシアン・ブルー・キャット>

がホームで迎えてくれた。

日本でも見かける野花を線路沿いに見つけてはスケッチ、しばし列車外のシベリアの空

気を満喫しながら野花とのお喋りを楽しんだ。 

「君はどこから来たの? 日本からだよ」 

「君たち、シベリアの厳冬によく耐えられるね!」 

「わたしたちシベリア生まれなのよ!」

 

   

                     シベリアの野花たち                    

            クローバ ②クリサンセマム イヌガラシ

                   Sketched by Sanehisa Goto

 

 

               ロシアン ブルー キャット /  RUSSIAN BLUE CATs

                                                       Sketched by Sanehisa Goto

 

 

シベリア横断鉄道の7日間、同室で過ごしたミセス・R の観察によれば、就寝後ほどな

して呟き、日本語でまくしたてるそうだ。 そう寝言だが、それも毎晩だという。 

このように爽やかで、穏やかな旅なのに、一体何を恐れ、何に追われているのであろう

か。

シベリアに抑留され、無念に散っていった旧日本将兵の魂の叫びに、何とか救い出そう

と喚いていたとしか思えない。

おのれを静め、亡き将兵の魂を鎮めるために、お香を焚いてそのかおりを深く吸い込ん

で、その無念をかみしめた。

 

7日間もシベリア横断鉄道に揺れ、シャワーも浴びず、下着二枚を交換し、裏返しては

また使う手法では、やはり体臭が沁みついて、如何しがたい匂いが漂っていたに違いな

い。 

同室の元ソ連赤軍高級将校の婦人は、よくぞ耐えてくれたと、感謝したものだ。

時には、あまりの体臭に香水をふり掛けた時など、ミセス・R に<It smells nice!>とい

われて赤面、穴があれば入りたい思いであった。

その上、お香までたいたのだから、一体コンパートメントはどんなにおいが充満してい

たのだろうか、考えただけで恥ずかしくて、気が遠くなりそうである。

 

<シベリア横断鉄道 最終日の朝食のメニュー>

バナナ1/2・鮭燻製・ライパン・クラッカー・レーズン・プルーン・紅茶・ビタミン&カルシウム各1錠

 

7日間のメニューは、基本食材に、地元で手に入れた果物や、魚の燻製、ソーセージ、

煮卵を加えて過ごした。

これこそ、バックパッカーのオリジナルメニューである。

体重も、間食をしないものだから、腹がへっこみ、体が締まり、軽くなったようだ。

 

 

7日目  10:10 <キーロフ駅>到着  

     ウラジオストクより8331㎞  /  モスクワへ957km)

 

キーロフ駅停車中に、駅舎の時刻表で、正確なモスクア着時間を確かめることにした。

           《時刻表 モスクア 14:58着(7時間の遅延)モスクワ到着予定21:58》

 

 

            停車中のキーロフ駅舎の<シベリア横断鉄道路線地図>前で

 

 

<あのジャパニーズは、君のハズバンドか?>

7日間もシベリア横断鉄道に乗っていると、同室者のミセス・Rとはまるで夫婦の

ような雰囲気を醸し出しているようである。

78歳の女史は、同乗者から《Это твой муж японец? あのジャパニーズは、君のハズバンド

か?》 と聞かれたといって、嬉しそうにこちらをからかうのである。 

周囲からは、随分と世話焼きな姉女房に見られているのであろう。

いつも二人連れで、停車駅では高笑いしながら散策するのだから、仲の良い異色の夫婦

に見えていたに違いない。

これまた、旅における国際親善のホームドラマの一コマである。

今回のロシアⅠ号の中で、モスクワまでのシベリア横断鉄道全線9288kmを踏破し

たただ一人のジャパニーズだから目立っていたのかもしれない。

私自身、人種を越えて、人間としての垣根を感じないものだから、すぐ現地に溶け込ん

でしまうのである。 これこそバックパッカーの心髄であると思って、旅を、いや人生

そのものを楽しんでいる。

 

ふと、車窓に息子を見送る老夫妻の姿が映った。 

青年はこれより未知の世界へ第一歩を踏み出す不安な様子を隠すこともなく、ここ寒空

のシベリアの片田舎駅のプラットホームでうなだれている。 

ご両親の愛する息子を送り出す悲しみの様子もはっきりと見てとれる。

世の親子に見られる不変なる平和な光景である。 

65年前、同じ路線を貨車に乗せられ、シベリアの捕虜収容所に送られ往く日本の青年兵

の不安げな顔々を重ね、こころに痛みを感じた。

 

  

        

                     息子を見送る老夫婦

                     あるシベリアの小さい駅で

                    Sketched by Sanehisa Goto

 

 

<風邪を引いたようだね・・・>

シベリアの昼夜の気温の変化に加えて、列車は随分とシベリアの北部に滑り込んだよう

である。 スチーム暖房が入ったり切れたりと、重ね着のタイミングがつかめず風邪っ気

がさらに進んだ。 

さらにウラジオストクからの鼻炎が加わり、鼻水が止まらない。 

シベリア横断鉄道で経験したただ一つの体調変化である。

もちろん、持参した風邪薬を飲んでいるが、症状は変わらなかった。

どうも、汗をかくのが一番悪いようである。 

 

 

7日目  22:32  <モスクワ・ヤロスラフスキー終着駅>到着

     ウラジオストクより9288㎞  /  モスクワへ0km)

 

<モスクワよ、初めまして!>

14:58着予定のロシアⅠ号は、7時間34分の遅れのなか、午後10時32分ゆっくりと、疲

れた車体を引きずりながら<モスクワ・ヤロスラフスキー終着駅>に到着した。 

銀河鉄道ロシアⅠ号で、夢に見た<シベリア横断鉄道>9288㎞を、6泊7日(150時間55

分)で走り抜けた。

 

<モスクワよ、コンニチワ!>

シベリア横断鉄道制覇の喜びに浸っていると、銀河鉄道999メーテル役を務めてくれ

たミセス・R から別れの声がかかった。

お香の煙を互いに振りながら、お互いの人生に弥栄を贈り、夢多き生を楽しもうと誓い

合って別れた。

彼女からは、人種・年齢・思想に関係なく、人間は平等であり、制約無き自由の尊さ

と、愛ある言動の大切さを学んだ。

女史は、モスクワから列車に乗り換えて、キエフ(現在キーウ)の自宅に向かうとい

う。 

列車だと、キエフ(現キーウ)までの576㎞を、約9時間かかるという。

 

《私のベッドはFREEDOM, いつでも帰っておいでよ。 あなたのスペースを空けておき

ます》 というドイツの歌があるという。

ドイツの女共が、戦争にかりだされ、遠くシベリアの地で戦う夫に、書き送った手紙だ

と、笑いながらミセス・R は歌い聞かせてくれた。

メーテル役の女史は、最後まで笑いを絶やさず、こころの優しさを見せてくれた。

 

7日間の友情に感謝し、文通による近況報告を約し、別れを告げた。

(天に召される88歳、2011年までの10年間、キーウの自宅からウクライナの季節の便りや、旅先からの絵

 葉書や写真をいただいた。 ご冥福を祈りたい。)

            

    

               イスラエルラクダに乗るミセス・R (80歳)

 

 

<シベリア横断鉄道、ありがとう!>

女史からは、第二次世界大戦時の連合国側の対日戦線、特に日本降伏時におけるソ連

軍の戦争捕虜の扱いについての話を聞くことが出来た。

広大な領土を開発する労働力の確保をいかにするか、領土拡大を国是としてきたロシア

の変わらない課題であった。 中世から多くの反体制派や、政治犯、囚人、捕虜、拉致

者、強制移住者などあらゆる労働を総動員してシベリア開拓にあたってきたのである。

<シベリア横断鉄道>敷設もまた、これら多くの搾取された強制労働力と犠牲者のうえ

に完成していると思えば、悲しき鉄道路線でもある。

 

旅行者の不安も、シベリア的ノンビリズムに慣れれば、車掌に見られる公務員的ビジネ

ス的態度に見送られて、モスクワの駅に下り立つことができた。

 

約7時間遅れのロシア号を、夜中、ロシア側の女性ガイドが出迎えてくれた。

日本人的に7時間遅れと思うが、遅延が日常的であれば、ガイドもその時間に出迎えて

くれるわけで、こちらは心配しなくてもいいわけである。

しかし、深夜の出迎えに、日本的に申し訳なくおもったものだ。

 

 

               <モスクワ・ヤロスラフスキー終着駅>に到着 

               モスクワ地下鉄(コムソモーリスカヤ駅)連絡口 

           

 

ここは広大な領土を有するロシア、西の飛び地カリーニングラードと東のカムチャッカ

では10時間の時差がある。 故に、全土を一元的に捉える鉄道の時刻表などは,現地時

間に係わらず,モスクワ時間で書かれているから注意を要する。 

ちなみに、日本では全国で同じ標準時を使っているため,国内で時差を感じることは

い。

現地時間と、列車のモスクワ時間とを比較、確認するため、デジタル表示付きの針腕時

を持参した。

 

▼9/16モスクワ滞在宿泊先  <ソビエツカヤ ホテル> HOTEL SOVETSKAYA

        Lemonfovsky Prospect, 43/1  MOCKBA

                  Tel 329-9500  Fax 251-8890

 

簡潔にロシア国内、モスクワでの観光上の注意や説明を受けたあと、遅いと言うことで

今夜の宿泊先<ホテル・ソビエツカヤ / HOTEL SOVETSKAYA>に送り込んでくれた。

18階建ての17階1718号室に案内された。

 

深夜となったが、7日間シャワー無しの体を温かめのシャワーで清め、テレビに映りだ

されている若者向けのビートの効いたバンド・ロックンロールを眺めながら、眠りにつ

いた。

シベリア横断鉄道による6泊7日という征西踏破を終え、満足しきってベッドの人となっ

た。

 

テレビでは朝のニュースとして、ここロシアでCNNを見ることが出来た。

9:11同時多発テロ事件における激突飛行機の同乗者に多くの外国人がおり、この日は

イギリスでの犠牲者追悼式の模様が流れていた。

 

     

              <HOTEL SOVETSKAYA> ソビエツカヤ ホテル

 

 

 9月17~19日 <モスクワ滞在・散策>

 

9月17日  <モスクワ市内散策>  モスクワ滞在1日目

 

モスクワ1日目の朝、7日間の<シベリア横断鉄道の旅>の心地よい疲れで、目覚めは6

時45分、すでにモスクワのラッシュアワーを迎えていた。

ソビエツカヤ・ホテルの17階の窓からは、うっすらと明けゆく空のもと、モスクワの街

灯の灯りが美しく輝いていた。

相変わらず、シベリア横断鉄道での風邪気は治らず、シベリアのヘイヒーバー(アレル

ギー性鼻炎)も加わって鼻水が止まらないモスクワの朝である。

 

ホテルのダイニングでバイキング形式の朝食・・・

野菜を中心として、チーズ・オリーブ・鮭のムニュエル・肉団子・焼き飯・フルーツジ

ュース・パン・コーヒーをとったあと、クレムリン見物に出かけた。

出かける前、フロントで日本宛ファックス<無事モスクワ着>送信を頼んでみたが、英

語を解するスタッフがおらず断念、トラブルを避けるため、後日英語圏で試みることに

した。

 

クレムリン宮殿を軸にしたモスクワは、モスクワ河畔の森に、放射状に広がる都市で、

ロシアの政治、文化、科学、工業の中心都市として1147年に築かれた。

10年前までソビエト連邦の首都であり国際社会主義国家のセンターであったが、1991

年の8月革命によりその地位は大きく後退した。

人口は988万人(2001)、金属、機械、化学、車両などの工業コンビナートの中心地で

もある。

 

モスクワ滞在には、スケジュール全体からして時間的制限があり、<世界遺産クレムリ

ンと赤の広場>の見学と、<トルストイの生家訪問>に絞ることにした。

 

 

世界遺産クレムリン赤の広場>  

宿泊先<ホテル・ソビエツカヤ>隣接の地下鉄駅<メトロ3号線/イズマイロフスキーバ

ルク>より乗車し、<メトロ3号線/レボリューション駅>(革命広場)で下車、徒歩5分

程で、モスクワの中心<クレムリン/赤の広場>に着く。

まず、モスクワ河畔にあるクレムリンの外周を散策して、その広大な規模を足で確かめ

た。

モスクワ川沿いに咲いていたタンポポの黄色い花をクレムリン記念として、押し花にす

る。  首に白いマフラーをしたロシアのスマートなカラス<ニシコクマルガラス>の

啄みを眺めながらクレムリンを一周した。

芝生がよく手入れされ、その緑がクレムリンにそびえる聖ワシリー寺院のカラフルな尖

塔によくマッチしていた。

  

 

          ロシャタンポポ                ニシコクマルガラス

 

1991年3月の政変<ソ連崩壊>をロシア国民がよく受け入れたものである。

2001年時点でもソビエト連邦を懐かしむロシア国民は50%を超えると言われる。

ここモスクワで見る限り、ロシア国民が自由<Freedom>を受入れる適応性を見せて

いるような気もした。

地下鉄駅付近にある自由社会のシンボルともいえる<マクドナルド>の店の前に若者た

ちが列をなしている姿を見たからである。

しかし、どことなく吹く風に、ロシア帝国再生の芽生えや、ソビエト連邦時代へのノス

タルジックな憧れが、シベリアの大地に息づいているようにも見えたものである。 

さて、ロシアは体質的に、<帝政復活か、ソビエト連邦回帰か>まだまだ歴史に翻弄さ

れそうである。

 

  

                 モスクワ・メトロ路線図 (2023現在)

 

             

                  <モスクワ・メトロ> 地下鉄切符

 

 

世界遺産 クレムリン赤の広場

赤の広場の真中に立って、10年前まで行われてきた赤軍による軍事パレードを想い描い

ていた。

閲兵するスターリンモロトフ、時代は変わってブレジネフ、フルッチョフがひな壇に

並び、核弾道を装填したICBMの車列に向かって、笑みを浮かべて閲兵する姿が、いま

だ脳裏に去来するのである。

 

 

      

           レーニン像を飾った1990ソビエト連邦赤軍最後の軍事パレード

 

 

<なぜ共産主義を御旗に労働者階級の救世主であったソビエト連邦が崩壊したのか>

階級を特権化し、特権階級を貴族化し、一部が富を独占し始めた<テクノクラート>の

存在は、マルクス・レーニン主義に反し、ソビエト連邦を弱体化していったといえる。

 マルクスレーニンの言う・・・

 

    <革命後、全ての生産手段が社会化される共産主義に至るまでの時期には、 

     反革命勢力となるブルジョワジーが残存しており、革命勢力であるプロ

     レタリアートは奪った権力を行使して、これを抑圧しなければならない>

 

という崇高な<革命テーゼ>は、スターリンによって歪曲され、元貴族や資産家、自作

農ばかりでなく、体制に反対した市民などを<人民の敵>として、チエーカ、GPUとい

う抑圧機関(秘密警察)や、<人民裁判>のもと無制限に処刑したといわれている。

 

その人民抑圧の計画が練られ、指令が出されたところが、ここ赤の広場に立つクレムリ

ンにある大統領府であった。

 1991年12月25日、ソビエト連邦国旗が降ろされ、ロシア国旗がクレムリンにひるがえ

った。

         

  

           ソビエト連邦国旗                 ロシア国旗          

   

         モスクワ・赤の広場に立つ (背後・国立博物館  右手・クレムリン)

                

   

                  レーニン廟前で (赤の広場)        

                   奥・クレムリン(大統領府)

 

レーニン廟>

1917年のロシア革命を指導したレーニンユダヤ人でもあり、イスラエルのギブツの原

共産主義を理想として、人民による集団労働の果実を分配するという理想共産主義

掲げてソビエットなる組織を作った。 追われ、搾取されている農民・労働者を開放

し、人民軍である赤軍と共に労働規律を確立することにあった。

しかし、革命に反対するいかなる勢力も許さいという方針は、秘密警察を生み、スター

リンのような独裁者を生む結果につながっていく。

そして、レーニンの願った理想国家<ソビエット>は、1992年に姿を消すことになっ

た。 いや、1924年レーニンの死と共にすでに独裁国家へと変貌し、一部の独占階級

<オルガルヒ/富裕層>によって搾取の時代にもどっていたと云える。

 

                   

         

                    レーニン1870~1924

 

 

レーニンの遺体は、いまだ<レーニン廟>に安置され、彼の願いに関係なく、後の権力

者の御旗として利用さている。 

恐らく偉大なるロシア帝国再興の精神的支柱として、であろうか。

 

<聖ワシリー大聖堂> 赤の広場

赤の広場に建つユネスコ世界遺産<聖ワシリー大聖堂>は、1560年、雷帝イヴァン4

世によって建てられたロシア大正教の大聖堂である。 

訪れた時は、一部改装中であったが、その配色とシルエットは言葉で言い表せないほど

美しい。 

日本では見ることが困難な色彩・配色である。

まるでトルコ・イスタンブールにあるソフィア大聖堂(モスク・アヤソフィア)を小さ

くした上に、絵本に出てくるようなカラフルに飾り立てられたような聖堂である。

 

 

               改装中の聖ワシリー寺院前で(赤の広場

                  

        

               聖ワシリー寺院/Basil’s Cathedral(絵葉書)

                       赤の広場

               

                                

 

       

                  聖ワシリー寺院/Basil’s Cathedral

                                      Sketched by Sanehisa Goto

 

 

クレムリン

クレムリンは、三方を城壁で囲み、底辺である南側の城壁は、モスクワ河に接し、防御

のための濠として利用した城塞である。

クレムリンに入るには、赤の広場とは反対側、ただ一つのクレムリン入口である<クタ

フィヤ塔>の前にあるチケット売り場で、拝観を希望するチケットを購入して入場す

る。

 

     2001年当時、クレムリンのみの入場券は150p、クレムリンと5つの教会入場券200p、

     以上と催し物入場券付きの350pと分かれる。 他に1日4回の入場が許されるレーニン

     廟へは別途250pが必要である。(P:рубль:ルーブル:ロシア通貨)

 

入場券をもって、クレムリン入口の<クタフィヤ塔>で身体検査を受ける。

なぜか警告アラートが鳴り、軍服を着た警備員のボディーと手荷物の厳しいチェックを

受ける。 一瞬肝を冷やしたが、危険物は見当たらず入場を許された。

ここが、赤化を目指した世界同時革命の本拠地であったことを思うと、時の流れにロシ

アの変貌を見た思いであった。

 

目の前にそびえる<トロツカヤ/ スパスカヤ タワー>を潜ると、

右に<クレムリン大宮殿>

左側に<武器庫>

十二使途教会(ウスペンスキー聖堂・クレムリン博物館として開放)とつづく。

ここ十二使途教会に、観光客も使用できるトイレがあるので助かる。

その後、ロシア正教会のグラノヴィータヤ宮殿、

ブラゴヴェシェンスキー聖堂、

アルハンゲリスキー聖堂、

テレムノイ宮殿付属教会、

祭服教会をまわり、キリストのイコンや壁画を観賞した。

歴代ロシア皇帝墓所となっており、聖堂内部にはたくさんの棺が置かれている

アルハンゲリスキー聖堂では、聖歌に出迎えられた。

 

 

 クレムリン案内図(LATERRA INTERNATIONAL提供)

 

ロシア正教会は、ローマカトリックプロテスタントと並ぶ3大キリスト教の1つである

正教会に属する。 正教会は、主に国家単位、民族単位で独立し、<ロシア正教会

リシャ正教会>の様に公称される。

全世界で2億人の信者を擁するともいわれる。

1054年にカトリック正教会は共に破門状を叩き付けて分裂し、正教会ギリシャから

小アジア、バルカンを経由して東欧を中心に成立した。 

更にロシアを経由して日本に至り、日本正教会の信者は約10000(2001年現在)

と言われる。

 

 

<スパスカヤ塔 ― クレムリン

クレムリンの中で、時計を持った一番大きな塔である。

ナポレオンも、1812年9月の40万の大軍を率いたロシア大遠征で、ここモスクワ・クレ

ムリン、スパスカヤ塔に立寄っている。 

しかし冬将軍の到来で糧道(補給路)が途絶え、遠征を中止し、将兵の大半を失いつ、

撤退している。

時の流れに身を置きながら、ロシア帝国の大きさ、底知れない資源の豊かさ、自然の厳

しさを感じたものである。

スケッチをしていると、おおくのロシア人観光客に囲まれ、水彩絵の具の醸し出す鮮や

かな色彩を褒めてくれるのだ。

そう、スケッチは、言葉の通じない現地に溶け込むコミュニケーション・ツールとして

バックパッカーとして旅している私にとって、とても重要なツールなのである。

 

 

        クレムリンの中で時計を持つ一番大きい塔<スパスカヤ塔>前で

                左がクレムリン大統領府

 

 

             スパスカヤ塔 と アルハンゲリスキー聖堂のコラボ

                      (クレムリン

               Sketched by Sanehisa 

 

 

ここモスクワのクレムリンに立っていると、日本では実感しえないリアルな地政学的歴

史の流れの中にいることに気づかされる。 

戦乱に躍動したスターリンや、ヒットラーチャーチルの幻影が目の前をいそがし気に

歩いているような気がした。

ここクレムリンの建物の雰囲気やモスクワの街並みが、世界史の大舞台であったことを

実感させてくれるのである。

 

約4時間のクレムリン散策で、多くの外国人団体客が、ツアー旗のもと興味と好奇に満

ちた眼差しで、観光している姿に新鮮さがあった。 

10年前までは絶対に入れなかったソビエト連邦の本丸にいることの不思議さに、みな一

様に緊張しているようにも見えた。

 

   

                   アルハンゲリスキー聖堂    

 

             クレムリンの中心に建つイワン大帝の鐘楼の前で

 

 クレムリンの東側には、南北に緑の広場が広がるアレクサンドロフスキー公園がある。

公園を散策していると、日本人に興味があったのか、モスクワ大学鉄道管制工学部に

学ぶ3人の学生たちが話しかけてきた。

日本の新幹線システムに専門的感心があるというが、どうも日本の学生生活や日本語

のプラクティスの方に興味があるようである。

こちらも日本では大学組織に籍を置いていた関係で、学生気質や日常の学生生活を伝え

ることはできた。 彼らも、少年時代にコムソモールと言うソビエト赤軍

少年隊に所属していたという。

コムソモール は、マルクス・レーニン主義党配下のいわゆる青年団の一種で、共産

主義青年団のことをさす。ソビエト連邦共産党に協力するボランティア組織であり、

汚職を告発するスパイと密告者の養成機関でもあったといわれる。

彼らが12歳頃、ソビエット連邦崩壊と共にコムソモールも解散し、民主化運動のもと

学生生活を送ってきていると話してくれた。

興味深かったのは、自由を勝ち取った彼らも日本の学生と同じく、紫煙を愛し、ビール

を飲み、青春を謳歌していると、親しみを込めて語ってくれた。

彼らの興味はほかに、世界の若者の流行は? モダンジャズの傾向は? 日本のリニア

モーターの計画は? なぜロシアを旅行しているか? モスクワの印象は?・・・

質問は尽きないのである。

 

世界どこを旅していても、青年たちが一番自由な発想のもと、貪欲に文化の吸収を

図り、進取性のある意見を語り、賢明な考えを聞かせてくれるのである。 

そこには、汚れはなく、純粋な青年としての夢を求め、語ってくれるから私の一番

大切な友人たちであり、星の王子様達である。

 楽しいロシアの青年たちとの語らいを終え、クレムリンを後にした。

 

マクドナルド・モスクワ店>

昼食に、ホットドックとコークをとった、支払いの時、釣銭のことで不自由を感じて

ると、背後の青年が親切に助けてくれた。 

といえば、ニューヨークのタイムズスクエア近くのマグドナルドの風景に見えて不思議

ではない。 

しかし、ここは10年前までアメリカと敵対していたソビエト連邦の本拠地モスクワで

ると言うことである。

資本主義の代表格でもあるアメリカを象徴するマクドナルドのモスクワ店なのである。

時間の流れのなか、歴史的転換期にモスクワにいることを実感したものである。

 

この青年は失業中で、ソビエト時代の切手や、記章類を観光客に売っているのだとい

う。 興味があったのと、転換期のロシア、それもモスクワ訪問の記念としてレーニン

スターリンの古切手とソビエト赤軍の記章を、お礼を含めて購入することにした。

 

 

               レーニン(1870~1924)記念切手 
              ソビエト連邦の紋章<鍵と鎌>を背景に

                  Sketched by Sanehisa Goto

 

          

                    ソビエト連邦赤軍帽章

      

 

              ロシア正教の十字架を崇めるロシア人民のイラスト          

                    Sketched by Sanehisa Goto           

 

 

       

       ユーラシア・アフリカ踏破32000㎞の旅を支え、見守ってくれた十字架と数珠

 

 

<青い目のモスクワっ子>

スリムな体、白い肌に青い目、太陽光線の薄いモスクワでは、典型的な若い女性たちの

姿である。

公園のベンチに座って、先ほど手に入れたソビエット赤軍の帽章を見ていると、隣の女

の子がしゃべりかけてきた。

名はアーニャ、アナウンサー養成学校(インスティチュート)に通い、夜はバーでミク

シングなど音響を担当していると自己紹介があった。

ソビエット連邦が崩壊した今、この赤軍帽章を持っていても問題はないかと、さっそく

聞いてみた。

ロシア人は、赤軍を誇りに思っているので問題はないという。

それ以上に、ロシア返りになり、外国人から少しでも英語を学びたいという意欲が青年

たちの間で強いことを聞かせてくれた。 その傾向は、モスクワを歩いていて、いたる

ところで若者にブロークン・イングリッシュで語りかけられることである。

アーニャもその一人であり、わたしを英会話のレッスン相手として話しかけたようで

ある。

 

このあと、どこへ行くのかと尋ねるので、アルバート通りの歩行者天国を歩きに行く

というと、ぜひ一緒したいという。 もちろん英会話のレッスンのつもりなのであろ

う、ブルーの目をした、少し汗かきの、髪の毛を後ろに束ねた美しい女の子が、胸を突

き出し、先に立って案内してくれた。

モスクワっ子は、このアンバランスなカップルに、不思議な取り合わせだとは思ってい

ないようである。

 

アルバート通りの歩行者天国

あまりエキサイティングな歩行者天国ではなかった。

ただ、共産主義国ソビエトが、短日中にこのような歩行者天国を作り上げ、多くの若

者がヒッピー顔負けの演奏をし、たむろしている若者集団には驚いたが、店のショーウ

インドウには、いまなおコケシ見たいな木彫りの人形マトリョーシカ(体の中に一回り

小さな人形がいくつも入れ子になっているロシアの代表的工芸品)ばかりが並んでいる

のには少し気が引けたものである。

なぜか、歩行者天国の両脇に、たくさんの似顔絵描きが並んで客待ちをしていたこと

に、ソビエト後のロシアの若者にいまだに働く場所が不足しているように見受けられ

た。

彼女も就職探しには苦労していると聞かせてくれた。

 

ここでは、いまなお完治しない風邪薬を見つけて手振り身振りで症状を伝えたり、地下

深くにある地下鉄に乗ったり、宮殿のような地下鉄の駅の装飾を観賞したりと楽しい時

間を持てたことを喜んでいる。

 

<モスクワの地下鉄>

モスクワの地下鉄は、総延長約400㎞あり、乗降者数では東京駅に次いで世界2番目

に多いという。

230ほどの駅の48が文化遺産と言うから驚きの地下鉄である。

またモスクワの地下鉄は、ソビエト時代の影響で豪華な装飾が施されていて、美術館や

宮殿のような雰囲気をもち<地下宮殿>、いやモザイク画が配された<美術館>のよう

でもある。

道路入口から駅までのエスカレータの長いこと、まるで鉱山の坑道を地下深く吸い込ま

れていくような錯覚に陥る。

もちろん地下の深さは、ソビエト時代、核戦争勃発時の核シェルターとして駅が造ら

れ、それも長期間の退避・避難を想定して駅構内の空間を大きく取り、そこに宮殿のよ

うな装飾を施して、市民の無味乾燥で長期な避難生活を慰めるために造られたともいわ

れている。

    

         地下宮殿のような豪華な5号線<コムソモーリスカヤ駅>構内

 

                                  

      美術館のような3号線<プローシャチ・レヴァリューツィイ駅>革命広場下車駅構内

 

 

 ■ 9月18日  <トルストイ冬の家訪問>  モスクワ滞在2日目

 

モスクワ滞在2日目のスケジュールは、ホテルで朝食をとったあと、モスクワの鉄道駅

キエフ駅>に立寄った。

 

モスクワ地下鉄<メトロ>環状5号線に乗り、<キエフ駅>に来ている。

駅は、ウクライナの絵画や図案、民族画で飾られている。

地方名を採り入れた駅名<キエフ駅>にちなんだ駅風というものが感じられる。 

乗客や駅員にもどこかソビエト風暗さの中にウクライナの明るさが感じられる。 

多くは工場労働者風で、顔たちは東ヨーロッパ系である。

線路は広軌で、列車は狭軌用の面長型電気機関車が列車を引っ張っているようだ。

広軌狭軌がどのように組み合わされているか興味があったが、線路にも下りられず後

日の宿題とした。 

もちろんプラットホームと列車の間に30㎝ほどの隙間が生じていて、驚いたもの

である。

駅周辺には、フリーマーケットがあり、金属や工具類が山のように積まれ売られて

いた。

 

 

          キエフ列車駅に立寄る            キエフ駅停車中の狭軌電気機関車

 

 

<憧れのトルストイ邸訪問>

キエフスカヤ駅から地下鉄(メトロ)環状5号線反時計(左)回りで、次駅<バルク・

クリトウルイ>で下車し、憧れのトルストイ邸に向かう。

バルク・クリトウルイ駅から、トルストイ邸へは徒歩で約1㎞、15分程のところに

ある。

レフ・トルストイ通りの中ほどにある高い板塀で囲まれ、豊かな緑樹を持った家が、

トルストイ邸である。戦争と平和」や「アンナ・カレリーナ」発表後の1882年から

20年間、冬の家として使っていたという。

ここでは、「イワン・イリイッチの死」など約100点以上の作品を世に出している。

 

トルストイ自作の靴や、老後に楽しんだ自転車など、私物も4000点ほど保存されて

た。 また、この冬の家では、多くの友人を招いて討論会や朗読会、チェスやコンサート

開いている。

地主貴族出身のトルストイにしては、全体的に庶民的で、質素な生活を楽しんでいた

ようである。

 

ここトルストイ邸から、クレムリンに向かうプレスチェンカ通り沿いに<トルストイ

物館>もある。

 

緑豊かなトルストイ邸の静かなガーデンで、ランチをいただいた。

トルストイも、この庭園をとても愛したようで、たくさんの庭園写真にトルストイ自身

が写っている。

子供が8人いたのだろうか、たくさんの子供たちに囲まれて、バーベーキューをした

り、ゲームを楽しんだりしている。 ソフィア夫人とも仲良く庭を散策している写真もあ

り、トルストイの愛妻家ぶりを見る思いである。

 

出されたランチは、ピロシキ・バナナ・菓子パン・スプライト風<ブーバチカの呟き>

と庶民的メニューに、かえってくつろげたものだ。

 

               

                  <トルストイ邸> モスクワ

                     

 

                                                                       トルストイ邸の書斎で

      

 

                               トルストイ邸の緑豊かな庭園を散策           トルストイ邸ガーデンで飲んだ

                                                                                                                                 <ブーバチカの呟き>

 

  

                 トルストイ肖像画

                                        Sketched by Sanehisa Goto

 

 

今日もよく歩いた。

ホテル・ソビエツカヤにもどり、一階の保管庫よりバックパックを取りだし、次の訪問

地<サンクトペテルブルグ>行の列車に乗るために、モスクワ出発駅<レニングラーツ

キー駅>に向かった。

 

              

                                                                モスクワ<レニングラーツキー駅>             

                                                                   サンペテルブルグ行列車発着駅

 

モスクワの宿泊先<ホテル・ソビエツカヤ>を出て、サンペテルブルグ行列車発着駅で

ある<レニングラーツキー駅> に発車3時間前に到着。

待合室に入り、防犯上バックパックをまず椅子にチエン・ロックでくくりつけ、赤の広

場で手に入れたソ連赤軍の帽章とスターリンの標語をスケッチしながら、ロシア人・モ

スクワ市民の行動や慣習を観察して過ごした。

 

 

 9月18日 特急寝台 《赤い矢号Ⅱ》 列車移動  

<モスクワ・レニングラード駅23:55発 ➡ サンクトペテルブルグ・モスクワ駅07:55着>

 2等寝台車上下段4人一室

   

             サンクトベルグへ向かう寝台特急《赤い矢号Ⅱ》      

 

 

モスクワ~サンペテルブルグ路線は、ロシア帝国ソビエト連邦の歴史を担って来た、

誇り高い路線である。

列車内部は、シベリア横断鉄道の<ロシア号>と違ってインテリアや家具等の素材が良

く、西欧的と言おうか貴族的な華やかさが見てとれる。

その誇りは、シベリア横断鉄道のロシア号の8時間遅延に比べて、まさに時間通りの定

刻到着を果たした近代国家の列車運行であった。

英語が使えなかったシベリア横断列車にくらべ、さすがに国際列車、アナウンスも英語

があり、乗務員が英語を話せ、食堂のメニューも英文字が添えてある。

特急寝台《赤い矢号》は、ヨーロッパの走る玄関としての役割を果たしているようだ。

 

 

      4名一室のコンパートメントでは、サンクトペテルブルク在住の若いカップルと同室

 

▼9/18  車中伯    サンクトペテルブルク行 特急寝台 《赤い矢号Ⅱ》

 

 

 9月19日  <サンクトペテルブルク

 

ソビエト連邦が崩壊し、何時かは復活するであろう、いや、まだ明け切らない暗闇にあ

る帝政ロシア、そしてあらゆるロシア革命、帝政の美しさの粋を集めた古都・サンクト

ペテルブルグにある終着駅<モスクワ駅>に、列車《赤い矢号Ⅱ》は、朝6時40分、時

間通りに滑り込んだ。

 

◎ 07:30 サンクトペテルブルク 1日目

   <ソビエツカヤ ホテル>にチェックイン

 

寝台特急《赤い矢号Ⅱ》での同室者との遅くまでの話し込みに、今朝は眠さに襲われ

る。 バックパッカーのホテル到着後のルーティンである、部屋の防犯上のチェックを

したあと、シャワーを浴び、簡単に下着を手洗いし、ロープ干しを行った。

朝食も、モスクワの屋台で購入した携帯食<パン・粉ミルクたっぷりコーヒー・シャケ

缶詰・トマト・キューリ・バナナ)で済ませる。

テレビは、その後の9:11事件<同時多発テロ事件>のCNNニュースを英語で流して

いる。 ニューヨーク貿易センターの崩壊したツインタワーや、ペンタゴンなどでの死

亡者が300人近くに上っていることを繰り返し伝えていた。

 

いよいよ、明日ロシアともお別れである。

今日は、ゆっくりと古都サンクトペテルブルク散策を楽しみたい。

サンペテルブルグは、1703年から約200年間、ロシア帝国の首都として栄えた。

ピヨトール大帝は、スエーデンによって閉ざされていたバルト海進出を、北方戦争によ

って果たし、この地に港を開き、港防衛のための要塞を建設したのが、古都サンクトペ

テルブルクの起源である。

 

ピヨトール大帝は、ロシアの西欧化、近代化を推し進めた賢明な帝であった。 みずから

英国に乗込み、造船術や、航海術を修得したり、大勢の農奴や労働者を動員したり、強

制的に技術者や要人をモスクワから移住させてサンクトペテルブルクの街づくりに情熱

を注いでいる。

 

歴史的にみると、ここ古都サンクトペテルブルクで起こった事件は、農奴制に反対する

貴族青年将校による反乱「デカプリストの乱」(1825)はじめ、ロシアのインテリゲン

チャ―(青年知識人層)によるナロードニキ革命運動「人民の中へ」(1870年代)な

ど、ロシアにおける革命の歴史の主役でもあった。

 

その後、数度のロシア革命をへて革命政権が樹立されたのを機に、200年ぶりに再び首

都は、モスクワに戻された。 

首都がモスクワへ移されると、街の名は<ペトログラード>から、レーニンの死去に伴

い<レニングラード>に変り、1991年のクーデター失敗を機にようやく<サンクトペテ

ルブルク>(聖なるピーター)の旧名にもどった。

現在の<サンクトペテルブルク>は、第2次世界大戦中の約1000日に及ぶナチス・ドイ

ツ軍との攻防戦で100万人を超える犠牲者を出し、街の大半を破壊されたが、再び修復

され、美しい古都の景観を取り戻し、<ロシアのヨーロッパ>の地位を確立している。

 

わずか1日の古都サンクトペテルブルクだが、是非訪れたかった<エルミタージュ美術

館>に走った。

一度は訪れたかったエルミタージュ美術館、日本人に興味を持ったのか、声をかけてき

た地元画家ネフラソフ・ワーレリーに案内されて館内を一巡し、その豪華な収集品を焼

付けていった。

 

専制君主であったエカテリーナ2世は、文化・芸術の発展にも寄与し、膨大な絵画・美

品を収集、現在のエルミタージュ美術館の基礎をつくった。 収蔵品は、皇帝の冬の宮

殿を中心に廊下で結ばれた建物に所蔵され、世界三大美術館としてその名が知られてい

る。

 

とにかく広い、その上時間に制約のある身、ボランティアをかって出てくれたネフに、

ゴッホ・ベラスケス・ラファエロレンブランドの名を告げ、案内してもらいどうにか

鑑賞できた。

 

               世界三大ミュージアムの<エルミタージュ美術館

               サンクトペテルブルク・ロシア

 

 

                 世界遺産エルミタージュ美術館

                      宮殿広場にて

               サンクトペテルブルク・ロシア

 

 

  

                  <エルミタージュ美術館>入口にて                 

   

                  <エルミタージュ美術館>にて

 

 

 

       ゴッホ<夜の白い家>1890            ベラスケス<昼食>1816

 

 

 

 ラファエロ<聖母子と髭のない聖ヨセフ >1506         レンブランド<天使のいる聖家族>1645

 

 

          古都サンクトペテルブルクの中央を流れる運河風のモイカ川にて

 

     

        

                   ピヨトール大帝の愛煙煙草

                Sketched by Sanehisa Goto

 

ここエルミタージュ美術館に来館した記念として、黄金の彫像をスケッチしだしたら、

ネフはその私の似顔絵を描いてくれたものだ。 彼が貧乏絵描きなのだろうことは、声を

掛けられた時に気づいていた。

彼の助けがなければ、このエルミタージュ美術館の膨大な展示絵画や彫刻を見て歩けな

かったであろうし、ましてや英語での案内も嬉しかったうえに、似顔絵までプレゼント

され、こちらも感謝の気ちとして、こころばかりのお礼をさせてもらった。

 

 

      

             黄金のパンサーと鹿の彫像(エルミタージュ美術館)               

             Sketched by Sanehisa Goto

 

 

      

                        Mr. Goto

                画 ネフラソフ・ワーレリー

               エルミタージュ美術館サンペテルブルグ

      

 

明日、いよいよロシアを離れ、ヨーロッパに向かう。

北欧ースカンジナビアフィンランドノルウェー、スエーデン3国を巡り、

西欧ーデンマーク・オランダ・ベルギー・イギリス・北アイルランドアイルランド

    フランス・ルクセンブルグ・ドイツ・オーストリア・スイス・イタリア・ギリシャ

東欧ーポーランドチェコスロバキアハンガリー

 

 

その後、中東<イスラエル・パレスチニア>を巡り、今回の旅のアフリカの入口であるエジプトに入ることにしている。

<ユーラシア・アフリカ  2大陸踏破32000㎞の旅>は、まだまだ続く・・・

 

ロシア・シベリア横断、<ウラジオストクサンクトペテルブルク 9888㎞>踏破の心

地よい疲れと、達成感の安堵に誘われて、ソビエツカヤ ホテル>でのロシア最後の

夜を赤ワインで乾杯、無事に感謝し、ベットに転がり込んだ。

 

 

           

            《ありがとうシベリア、乾杯!》

             ”Спасибо, Сибирь, ура! ”

 

        ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

22年間眠っていた<シベリア横断鉄道>乗車記を一気に書き上げた。

その動機は、やはりロシアによるウクライナ侵攻というショックな出来事にある。

歴史的にも、宗教的にも隣人であり、兄弟国であったロシアとウクライナが、血で血を

もって争う悲惨な戦争状態に入り、殺戮を繰り返していることに胸を痛めたためであ

る。

ロシアは、日本とも近き隣人である。 

眠れる巨人は、たえず領土を拡大してきて、東進制覇は北方四島をまで呑込んで現在に

至っている。

ロシアに接する多くの隣国は、ロシアの顔色をうかがいながら、歴史を享受してきた

が、ようやくその脅威からの離脱をウクライナの侵攻を見て、覚悟したように見受けら

れる。

シベリアを横断した時の、あの牧歌的なロシアがまたまた牙をむいたと思うと、歴史は

繰り替えすこと、人間の醜さや欲望は尽きないことを知った。

 

ブログを書き上げたあとで、ロシアの友人の名前も、記述の一部や写真をも削除する不

自由に出会い、戸惑いを覚えた。

 

一日も早い自由の回復を祈りたい。

中東でも、イスラエルパレスチナの憎しみあいに火が付いたようである。

人間とは、過去を学ぶことのできない餓鬼なのであろうか。

人間の愛と英知を信じたい。

 

 

            ーーーーーーーーーーーーーー

 

 

資料Ⅰ <旅のルール・バックパッカー編>

1) 各国・各駅に着いて行うべき事

 ➀両替(電話用コインを含む)

 ②荷物はコインロッカーに預ける(宿泊滞在以外)

 ③交通案内地図を手に入れる(インフォーメーションCにて)

 ④次の列車・バス・飛行機の出発場所・時間の確認

 ⑤次の目的地への交通機関の予約・スケジュールの確認

 ➅宿泊YHより、次のYHに予約電話(チェックイン午後10時迄を確認)

 ⑦WCで用を必ず足しておくこと

 ⑧水(ミネラルウオーター)の確認・非常食の購入

 ⑨留守宅連絡(日時・国都市名・宿泊先ほか)

 

2)列車利用時の注意事項(ユーレイルパス含む)

 ➀乗車列車の確認(行先・列車番号・指定座席・発車到着時刻ほか)

 ②ホームの列車編成表で予約座席の車番号を確認

 ③座席周囲の乗客に下車駅を伝えておく

 ④車内検札時、必ず行先と到着時間を確認のこと

 ⑤ユーレイルパス提示(私鉄・バス利用時)

 ➅ユーレイルパスで自動改札を通過の場合、窓口で「通過証」もらう事

 ⑦TGV乗車時、座席指定了必要

 ⑧予約必要<TGV/ICE/寝台クシェット/氷河特急/ユーロ―スター>

 ⑨予約の仕方<乗車2時間前迄可能・早朝の場合前日16時までに>

 ⑩列車により出入口ドアの窓を降し、外のノブを回してドアを開ける場合がある

 

 

資料Ⅱ <ユーラシア&アフリカ  二大陸踏破38000㎞>携行品リスト

 



 

 

         『ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』

            Ⅰ ロシア・シベリア横断 10350km

 

                   

   

    

         星の巡礼 ユーラシア・アフリカ二大陸踏破 38000kmの旅』

                             Ⅱ 《イスラエル縦断 1000kmの旅』 

                  Ⅲ  《ヨーロッパ周遊 11000kmの旅》

                  Ⅳ 《アフリカ縦断 15650km》 

                  に続く             

                                                                      

                          

                    

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<関連ブログ>

星の巡礼 シベリア横断の景色 スケッチ展』
アイキャッチ画像
星の巡礼 シベリア横断の景色 スケッチ展』 スケッチ・挿絵 後藤實久 2022年春、ロシア大統領によるウクライナへの<特別軍事作戦>という侵略戦争が開 始されたのをきっかけに、ロシアとは一体どのような歴史と体質をもつ国かと、あらた めて考えてみました。 長い間、本棚に埃をかぶっていた2001年に踏破した旅日記『ユーラシア・アフリカ二大 陸踏破 38000kmの旅』の《Ⅰ ロシア・シベリア横断 10350km》で、ノートに描き 残した挿絵や、スケッチ、俳句、詩を取りだしてみました。 スケッチ等より見てとれるシベリアの景色から、ロシアの原風景を眺めていただければ 幸いです。 <ユーラシア・アフリ…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023『星の巡礼 病床の若き友を見舞って』

 

 

 <病床の若き友を見舞って>

 

秋晴れの清々しい風に導かれ、仲間の同志社ローバーOGOB会長 山科隆雄夫妻と共に、自宅療養中の若き友を訪ねてきた。

 

この5月に昏睡状態になり、集中治療室に入ったということを同志社ローバー仲間から知らされた。

その後、父親と山科会長から、昏睡からの脱却・覚醒への祈りに参加して欲しいとの願いを受けて、同志社ローバー<絆の祈り>の輪を広げ、朝七時それぞれが、その場での祈りを実践してきた。

ご家族や医療関係者の献身的な介護、多くの仲間の祈りがあって、奇跡的に自宅療養にまで回復したが、いまだ覚醒に至っていないという医者の判断である。

現在、父親の呼びかけで、彼を知る友人・仲間による、覚醒のための刺激を実施されている。

 

わたしは、仲間であっても世代が違い吉村和馬君とは、一度も顔を合わせていない。

ただ、<絆の祈り>以来、彼を想い描き、彼と祈りを交感し、写真参加という形で旅にも連れ出してきた。

この機会に、彼との<向かわずして愛語を聴くは、肝に銘じ魂に銘ず、愛語よく回転の力あるを学すべきなり>という道元禅師の言葉や、祈りの力を信じ、病床の若き友に会いに行く決心をした。

 

ご自宅を訪問するとご両親と妹さんに出迎えられた。

彼は、奥の部屋、バリアフリーの完全介護設計の部屋で眠りの中にあった。

そこには、思ったより大男であって、ごっついおっさんのような顔に、すこし髭が伸びた逞しい凛々しい青年が横たわっていた。

弱々しい義経のようなイメージを抱いていたわたしには少し以外であった。

そこには、立派に成長した青年が横たわり、

「おい、和馬、こんなところで昼間っから横になって何してんだ!」と言いかけたほど、リアルな若き友の元気そうにみえる姿が、そこにあった。

 

声掛けに、薄目を開けて睨みつけるように「おのりゃー張ったおすぞ、子ども扱いしやがって!」と気迫さえ感じられたものであある。

そこには生きる力がみなぎり、それを表現できないもどかしさが滲み、どこか少し腹を立てているような表情を見せた。

 

しかし、ガリバーが手足を縛られているように、たくさんの生命維持装置の管に縛られた彼の姿には、なにか神々しささえ感じられる威厳に満ちた、ふてぶてしささえ感じたものである。

「生きろ、目を覚ましてくれ!」 同志社ローバー仲間一人一人の願いを込め、ふたたびそっと少しぽっちゃりした、ぬくもりのある手を握りしめた。

 

病床の大男の固く結んだ左目の目尻にうっすらとにじんだ涙を認めた時、すべてを感じとっている若き仲間の無念さが伝わって来た。 そして感謝の気持ちが伝わって来た。

「ありがとう和馬!」 再度、手を握りしめ、また会う日まで、別れを告げた。

 

最後に、和馬君のお父さま 吉村 伸さんより、同志社ローバーOGOB会員・現役同志社ローバース の<絆の祈り>参加者一人ひとりへの感謝の言葉をいただいた。

 

 吉村家の居間に飾られていた額 《神のなされることは、皆その時にかなって美しい》という言葉に、生きる力をもらって吉村家をあとにした。

感謝である。

 

《平安に  体ゆだねし  君なれど  悔しさ滲む  目尻の涙》

―へいあんに からだゆだねし きみなれど くやしさにじむ めじりにのなみだ―

 

(写真 吉村 伸さん提供)

 

               自宅療養中の仲間 吉村和馬君を見舞って

 

 

        同志社ローバー<絆の祈り>参加者一同として 『スカウトの誓』 を贈る

 

      

         <家康追跡の旅>写真参加時の和馬君と介助犬カロリーナ

2023『星の巡礼 短歌集<絆の祈り>』

                                                            短歌集

                                                   《絆の祈り》                           

                        ―かずま頑張れ―

 

                                            同志社ローバーOGOB一同

          

                             

                                                     2023(令和5)   5月17日~8月10日

 

                                                                  詠み人 吉村和馬

                                                                  詠み人 後藤實久

                         

 

 

 

《仲間 吉村和馬君の回復を祈って》 (5月28日)

 

重篤の若い仲間 吉村和馬君が、気管切開を行い、眠りの中、生死

の境にあるという。

共に、仲間の回復を祈ろうとの山科隆雄OGOB会長からの呼びか

けがあった。

また、和馬君のお父様からも、昏睡の中にある彼に祈りを届けて

ほしいとの切実な願いが届いている。

今朝、ここ志賀の里でも、病室にある友の深い呼吸に合わせて、

祈りをささげた。

それぞれの場所で、<朝7時の祈り>に加わっていただき、同志社

ローバーOGOBによる<絆の祈り>を届けたいと思います。

 

《君と共に、いま、こここの世にありて、天に向かいて祈り、

                結ばれしを喜ぶなり、 痛みを分かち合い、

          与えられし道を共に歩み、光あるを切に祈るものなり》

 

  

 

《感謝》  (5月30日)

同志社ローバーOGOB有志による朝7時の<絆の祈り>に集い、

若き仲間 吉村和馬君の意識回復を願い、今朝も又、それぞれの場所で

祈りを持てたことに感謝します。

軒先を打つ雨滴音に、病床の若き仲間の息遣いを重ねています。

 

 

《吉村和馬君のお父様からのメッセージ》

(吉村 伸 5月31日)

 

本当に感謝します。 皆さんのお祈りのおかげでなんとか復活して

ほしいとおもっています。 ほんのわずかな確率といわれていますが。

和馬は24団ビーバースカウトに入隊してから病気がわかり、カブ

スカウトの後期に車椅子になりましたがみなさんの協力で車いす

のままずっとボーイスカウトをつづけました。 もちろんできること

はしれてましたが、その学年の結束は大きく、ベンチャーまで誰も

やめなかったことも、お役にたてたのではないかと思っています。

ボーイのときは比良山の登り口までではありますが、車いすにロー

プをつけて何人もで引っ張って登山をしたこともあります。

アグーナリーは、神戸、滋賀、富士と三回参加し、三年前の磐梯山

も参加申し込みしていたのですが、コロナで四年延びてしまい、

今回は無理になってしまいました。

実は磐梯山のアグーナリーには、24団のチーフでなく同志社ロー

バーのチーフをしていくことを決めていたのですが、ちょっと実現

しなくなってしまいました。

障害者年金をいただいて生活していますが、その中から最後に出金

したのは同志社ローバーOB会の会費の振込でした。

長々と失礼しました。 みなさまによろしくお伝えください。

去年のOB総会には私も介助に入って参加申し込みしていたのです

が、コロナで中止になってしまい、みなさまにご挨拶できません

でした。それがこうして繋がれてうれしく思います。

今後共よろしくお願いします。   

 

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■<私たちを見てよ!> ―ぺらぺらヨメナ合唱団- (6月1日)

 

耳をそっと傾ける。 路地裏の片隅に、お日さまに顔を向け、合唱の練習

に声張り上げる少年少女合唱団<ペラペラヨメナ>に出会った。

まるで、病床にある仲間に<和馬、目を覚ませ!>よと、謳いあげている

ように聴こえてきた。

 

《心地よく ぺらぺらヨメナ 肩寄せて ハモル姿や 君に届けし》  實久

 ―ここちよく ぺらぺらよめな かたよせて はもるすがたや きみにとどけし―

 

 

   

                      ぺらぺらヨメナ                          

 

 

■<命のメロディー>  ―朝顔の産声―  (6月2日)

 

新しい生命が芽吹き、その希望の背伸びに、こころ豊かにさせられた。

病床の若き仲間の意識回復を見る思いで、ローズマリー朝顔の命溢れる産声に

そっと耳を近づけてみた。 歌手・梓 みちよの<こんにちは赤ちゃん> の軽やかな

メロディーが、体中に広がった。 喜びのなか、豊かな時の流れに沈んだ。

仲間が集中治療室から、一般病棟に移ったとの報せを受けた。 一人ひとりの祈り

が通じたことに感謝している。

 

《君迎え 過ぎ去りし曲 コンニチハ 赤ちゃん歌う 我や懐かし》 實久

 ―きみむかえ すぎさりしきょく こんにちは あかちゃんうたう われやなつかし―

 

 

 

   

                       朝顔の産声

 

 

 

                                               《絆の祈り》

 

今朝は、すこし寝坊して<絆の祈り>に遅れた。 静かな朝である。

一週間前に蒔いた朝顔の種が顔を出していた。

仲間・吉村和馬君の意識回復を見たような、気持ちの高揚を抑えきれ

なかった。 同志社ローバーによる<絆の祈り>に感謝である。

 

 《向かわずして祈りを聴くは、肝に銘じ魂に銘ず、

       祈りよく回転の力あるを学すべきなり》 道元禅師

 

 

 

《 多くのみなさんの祈りが通じたようです 》  

 

吉村和馬君の病状経過について和馬君のお父さんより次のように

報告がありました。

お父さんの問いかけに、まばたきの反応があったとのことです。

 

同志社ローバースによる《絆の祈り》のパワーも仲間 吉村和馬君に届いた

ようです。 お父様から以下のように、経過報告と感謝のメッセージが出さ

れています。

各個人の祈りは、引き続きよろしくお願いいたします。

有難うございました。 

 

《目を覚ませ 息吹き返せ 若き友 絆の祈り 奇跡生みしや》     實久

ーめをさませ いきふきかえせ わかきとも きずなのいのり きせきうみしや―

 

 

 

《さらに奇蹟が起ころうとしています》   

     (吉村 伸 6月2日)

 

今朝、先生からの連絡で、状態が安定してきたのでICU(集中治療室)から

一般救急病棟に移棟するとの事。 コロナのため面会謝絶ですが、15時半に

移棟するので、その時間に合わせて届け物をと、教えてもらいました。

廊下でたまたますれ違った!という面会ではない確信犯面会で、和馬に声かけも

できました。 声をかけると、うっすら目を開けて反応していました。

「声はきこえてますよ。 でも医学的には覚醒には至りません」との説明ですが、

確実に奇蹟が起こる、自信が出ました。 

祈りは通じる!さらによろしくお願いします

 

 

■<台風のあとの水溜り>  (6月3日)

 

この列島に猛烈な雨を降らせた台風が去り、晴れ間が戻って、水溜まりに

白雲を映していた。 水溜りの奥底に光る魅力的な白雲の誘いに、

いつまでもみとれた。

病床の仲間に、かすかな光りを見た思いであった。

 

《天翔ける 誘いし雲は 永遠にして 踊る白雲 君と戯むる》  實久

 ―あまかける さそいしくもは とわにして おどるしらくも きみとたわむる―

 

   

   

                         水溜り            

 

 

 

■<悠久の満月>       (6月4日)

 

久しぶりに夕方の散歩を楽しんだ。

びわ湖の東の空に、悠久の時の流れを見続けている月様が浮かんでいた。

ふと、病床に伏せる若き仲間の真丸い顔が月様にかぶさった。

友の息遣いをじっと見つめ、今日一日の無事を祈ってくれているようだ。

共に祈ってくれている月様に感謝した。

 

《悠久の 時を見つめし 月様と 共に祈りし 友の目覚めや》  實久

 ―ゆうきゅうの ときをみつめし つきさまと ともにいのりし とものめざめや―

 

       

                      悠久の満月

 

 

 

■<雪の下>(ユキノシタ)   (6月5日)

 

この素晴らしいファッションを見よ、とばかり白燕尾服を着こなした貴公子

ユキノシタ>が、今年もツツジの影から顔を出してくれた。

その清楚なファッションに拍手喝采で応えたとき、ユキノシタ

「人間は、こころを磨くことによってその美しさを変化自在に変えられるの

だから羨ましい。」と語ってくれた。

ふと、病床の若き友に、この白燕尾服を着せてみたくなった。

 

《清楚なる 君美しき 雪の下 愛あるエール 永遠に響きし》  實久

 ―せいそなる きみうつくしき ゆきのした あいあるえーる とわにひびきし―

 

 

      

                         雪の下         

 

 

 

■<ビヨウヤナギの祈り>  (6月6日)

 

三年前に挿し木したビヨウヤナギに待望の黄色い花が咲いた。

気高い雰囲気を醸すビヨウヤナギ。 その顔には与えられた命を慈しみ、精一杯

生き抜こうとする美しさが溢れていた。

今朝も、天からの光を満々と受け、感謝の詩を歌う彼女に命の大切さを教えて

もらった。 ビヨウヤナギの花一輪に、病床にいる意識なき若い友の顔をみた。 

祈りは愛である。

 

《祈りあう われらが愛を 受け止めて 生きよ笑えと ビヨウヤナギ》  實久

 ―いのりあう われらがあいを うけとめて いきよわらえと びようやなぎ―

 

   

                     ビヨウヤナギの祈り 

 

 

 

■<蜘蛛の巣>   (6月7日)

 

蜘蛛画伯による見事な幾何学模様の世界を創作している姿に、吸い寄せられた。

体長0.5㎝ほどの小さな生命体が、同じデザイン・パターンを織りなす姿は、

神の領域に属するように見えた。 創造主による見事な作品でもある蜘蛛が、その

能力を最大限に発揮している姿にエールを送った。 われわれ人間も、それぞれに

与えられた能力をそれなりに、ほどほどに発揮できれば、どんなに幸せであろうか。

病床の若き友は今日も意識が戻らないという。 彼もまた目を覚まし、与えられた

命に汗することを信じて祈りたい。

 

《天に問う 生きて残せし この作業 何を想うて 創り給うか》  實久

 ―てんにとう いきてのこせし このさぎょう なにをおもうて つくりたもうか―

 

      

                       蜘蛛の巣 

 

 

      

■<浮き雲>         (6月8日)

 

なんと楽しげに浮かんでいるのだろうか。 すべてを忘れ、変化自在に姿を

変え、姿さえ消してしまう魔法使いである浮き雲は、何時まで眺めていても

飽きないのである。 浮雲になって、病床の若い仲間を誘い、天空を飛び回

ってみたい。 なんと素敵な夢物語であろうか。

 

《まん丸い 笑顔嬉しや 浮き雲の われと翔け舞う 病の友と》 實久

 ―まんまるい えがをうれしや うきぐもの われとかけまう やまいのともと―

 

 

 

    

                       浮き雲

        

 

 

■<小さな命―ツマグロオオヨコバイ>  (6月14日)

 

この愛らしい虫さんも、この大きな自然を構成する一員である。 「いまを一生懸命に

生きる」姿にくぎ付けになった。 彼から見れば、こちらはガリバー的存在、しかし、

存在する宇宙・世界は同じ、生きるという共通の目的も同じ、対等な存在である

ことに、連帯を感じた。

病床の意識なき若き仲間も、一生懸命戦い続けている。 連帯の祈りが通じ

ますように!

 

《静寂なる 宇宙の響き 聴こえ来て 祈り満つるや 友の命に》  實久

 ―しじまなる うちゅうのひびき かたりきて いのりみつるや とものいのちに―

 

   

                        小さな命

 

 

■<祈りの梅雨空>   (6月15日)

 

雨を運ぶ雲が、稲田の水面で泳いでいる。 この世のすべてが、私たちの心の中で

泳いでいると思うと、こころを清らかに磨いておく必要がありそうだ。

目を閉じて、こころに映し見て、はじめてこころに宿るのであろう。

病に臥せる若き友のこころを映して、祈りを交感した。

 

《宿り来し 友のこころや 映りおり 願い届けと 祈り交わせし》  實久

 ―やどりきし とものこころや うつりおり ねがいとどけと いのりかわせし―

 

    

                     祈りの梅雨空 

        

 

■<ムラサキカタバミ>      (6月19日)

 

夏日が西に傾きかけた散歩道で、「この生きいきした健康な私たちを見てよ!」

と、ムラサキカタバミの娘さん達が語りかけてくれた。 なんと素晴らしい喜びの

顔をしているのだろうか。 いま、病床にあるすべての人に安らぎを送り届けたい、

そんな思いにかられた時、吉報が届いた。

すべての祈りが通じたのであろう、昏睡の病床にあった若き友に語りかけた父親

の問いかけに、まばたきで応えたとの便りがあった。 感謝である。

 

《喜びの 伝わりし花 生きとして 臥せる君らに 祈り贈らん》  實久

 ―よろこびの つたわりしはな いきとして ふせるきみらに いのりおくらん―

 

   

                    ムラサキカタバミ

 

 

 

《本日、第二日赤から、宇多野病院に転院しました》

         (吉村 伸  6月19日)

 

これまで何度も入院している病院、担当の可愛い看護師さんは、

吉村家のクリスマスカードを知ってるほどの方で安心しました。

何よりも一番安心したのは和馬の様子。

バッチリ目ぇ見開いて、「かずまー!」の呼びかけにも反応。

「聞こえてたらまばたきして!」て言ったらまばたきまで!

またまた「これ、起きてますやん」言うてしまいました。

いやあ、予想以上に安心しました。

 

主治医の白石先生の説明をきき、そう簡単には目覚めそうにはない

ものの、在宅治療を目標に頑張ろうと言ってもらえました。

第二日赤では一切面会謝絶したが、宇多野はもう少し規制が緩和

されているようで、一日四家族に限られますが、面会はさせて

 

もらえるとのこと。

頑張って声かけに通います。今できることはそれくらい!

みなさんのお祈りに加わっていただき、ありがとうございます。

頑張ります!  引き続き宜しくお願いします。

 

                    

                  

■<栗の花の祈り>  (6月20日

                       

毎年、大きな実をつける若い栗の木が家の近くにある。

この時期、若木に今まで見過ごしていた異様な突起花が天を突いていた。

そして、その花の淡い匂いに、遠い青春時代が宿った。

雌花は受粉すると栗のイガになるという。

それぞれの命に与えられた神の業に出会っては、驚かされる毎日である。

病床の若き仲間の意識が戻り、与えられた命に花を咲かせてくれそうである。

祈りに感謝である。 

                       

《匂い来し 青春宿る 栗の花 目覚めよ君も 立ちて笑えと》  實久

 ―においきし せいしゅんやどる くりのはな めざめよみみも たちてわらえよ―

 

   

                    栗の花の祈り

 

        

 

■<シロツメクサ>       (6月21日)

 

びわ湖岸で、懐かしいシロツメクサ<クローバー>の花に囲まれた。

子供のころ首飾りを作ったりした楽しい想い出が宿った。 「白詰草」と

書くという、素敵なネーミングだ。 これは江戸時代にオランダから輸入

されたガラス製品の梱包に緩衝材として詰められていたことから来て

いるという。

病床にある若き友のために四葉のクローバーを探さなくちゃ!

 

《ぼんぼりの 白き頭や 風に乗り 祈り運びし 友の目覚めや》 實久

 ―ぼんぼりの しろきあたまや かぜにのり いのりはこびし とものめざめや

 

   

                     シロツメグサ

 

 

 

■<雨垂れの歌>     (6月22日)

 

志賀の里は、霧雨に霞む風景の中に沈んでいる。

デッキに鎮座し、雨滴音の中に沈み、雨音を楽しんだ。

雨、それは人のこころを潤し、いつくしみの雨に変わる瞬間の<慈雨>がいい。

氷雨(ひさめ)・時雨(しぐれ)・春雨(はるさめ)・五月雨(さみだれ)も大好きな

雨の表情である。

病床の若き友にも雨滴音が聴こえていることを祈る。

 

《雨垂れの 打ちて踊りし 軒の下 聞き耳たてし すみれ草かな》 實久

 ―あまだれの  うちておどりし のきのした ききみみたてし すみれそうかな―

 

   

                      雨垂れの歌              

 

 

 

■<ドクダミの花>    (6月25日)

 

今朝は、昨夜の仲間と飲んだ般若湯の余韻に、眠さの中にある。

眠さを吹き飛ばしたいと出かけた散歩道で出会ったドクダミ、半日陰にひっそり

咲く鮮やかな純白の花は魅力的である。

臭いがきつい個性豊かな雑草だが、野生独特の生きる力を感じさせてくれるのが

好きである。

今朝も、群がり咲くドクダミの純白の花たちは、病床の若き仲間に届けとばかりに、

シャンソンエディット・ピアフの「愛の賛歌」を絶唱していた。

 

《路地裏の 純白乙女 顔揃え シャンソン謳う 調べ豊けき》  實久

 ―ろじうらの じゅんぱくおとめ かおそろえ しゃんそんうたう しらべゆたけき―

 

   

                      どくだみの花

 

 

 

■<森からの景色>    (6月26日)

 

梅雨の間の青空に誘われて、久しぶりに山を歩いて来た。

山間から眺める広々とした琵琶湖、そして、青い空にうかぶ雲、そこには広大無辺な

天空が広がり一枚の絵画を見ているようだ。 心豊かにさせられた。 病床にいる若き

仲間にも見せてやりたい。 雲と遊ぶ若き友の姿を想い描きながら回復を祈った。

 

《病床で 眺むる絵画 広がりて 雲溶け流る 永遠の景色や》  實久

 ―びょうしょうで ながむるかいが ひろがりて くもとけながる とわのけしきや―

 

 

    

                     森からの景色           

 

 

 

■<アカバナ・ユウゲショウ>  (6月27日)

 

あわいピンク色の化粧をした可憐な花<アカバナ・ユウゲショウ/赤花夕化粧>

が、曇り空のもと独り寂しげにたたずんでいた。 老いを重ねると、青春に立ち

帰って、相手の心を先読みし、感傷に耽ることが多くなってきた。

彼女には彼女なりの憂いを抱えているのだろう。 生きるとは、なんと繊細な

感情にこころ揺さぶられるのだろうか。 お互いの心を労わりつつ、目礼を

交わし離れた。

病床の若き仲間も、自分の想いを訴えかけているように思えた。

 

《比良の影 覆いし花や 夕化粧 憂いのこころ 重ね想いし》  實久

 ―ひらのかげ おおいしはなや ゆうげしょう うれいのこころ かさねおもいし―

 

                   アカバナ・ユウゲショウ

 

 

 

■<南天の花>     (6月28日) 

 

今年も、所属するローバースカウト(青年)隊は、新しいスカウト仲間を迎えて

入隊式、そして懇親会を持った。 オールドボーイから見るほぼ60年差の若さ

に、その夢ある姿がまぶしく見えたものだ。 彼等の漕ぎだしたカヌーは試練を

乗越え、夢あるフロンティアにたどり着くことを祈った。

今朝、庭に咲く南天の花に彼らを重ね、病床にある若きスカウトOB仲間と

共に前途を祝福した。

 

《漕ぎだせし 力満ちたる フレッシュマン 試練乗越え 挑むカヌーや》 實久

 ―こぎだせし ちからみちたる ふれっしゅまん しれんのりこえ いどむかぬーや―

 

   

                       南天の花

 

             

 

■<野に舞う ぺらぺらヨメナ> (6月29日)

 

志賀の里、風に戯れる野生の<ぺらぺらヨメナ>が曇る比良の峰をバックに、

今日もまた、優雅に舞っていた。 この自由な空間にわが身をゆだねている姿に、

彼女らの真の喜びが感じ取れる。 嵐も闇も受け入れて咲き誇る彼女らのよせる

信頼の主の慈愛が、こちらにも伝わって来た。

病床にある若き友と一緒に、われわれも信頼の主に抱かれていることに感謝した。

 

《主にまかせ 風に戯むる 嫁菜草 幸せ満つる 日々感謝せり》  實久

 ―しゅにまかせ かぜにたわむる よめなぐさ しあわせみつる ひびかんしゃせり―

 

   

                     ぺらぺらヨメナ

 

 

■<ヤマボウシの祈り>  (6月30日)

 

この季節、お山は真白な帽子をかぶった<ヤマボウシ>が見ごろである。

ヤマボウシは、山歩きの初夏、清楚な貴婦人の顔を見せ、深い秋には目も覚める

ような紅葉のマントを羽織り、いつも単独行のわたしを迎え、魅了してくれたもの

である。

名前からして、志賀の里より遠望できる比叡山延暦寺の山法師を想い描いては、

その白装束を楽しんでいる。

山法師と言えば、病床の若武者がぴったりであることを思いだし、ふと和んだ。

 

《病床の 若武者の友 山法師 重ね宿りて 和み祈りし》  實久

 ―びょうしょうの わかむしゃのとも やまぼうし かさねやどりて なごみいのりし―

 

 

   

                       ヤマボウシ           

 

 

 

■<間伐杉>     (7月1日)

 

役目を終えた杉の間伐材に出会った。

年輪を数えてみたら約45本、45年の歳月を生きてきたことが分かる。

そう、森林は二酸化炭素を吸収する自然の<クリーンな化学工場>である。

今日は、病床の若き仲間と、地球温暖化の防止に貢献している杉の生き様

に迫ってみた。

 

《隠されし 己の使命 知らずして 役立ちおるを 知りて嬉しき》 實久

 ―かくされし おのれのしめい しらずして やくたちおるを しれいてうれしき―

 

   

                       間伐材 

 

 

 

■<マーガレットの想い出>  (7月2日)

 

梅雨の間の太陽がまぶしい! マーガレット達も<故郷の空>を大合唱で

ある。 マーガレットには懐かしい思い出がある。

ニューヨーク在住の折、キャッツキルにあるニューヨーク禅堂(金剛峯寺

での座禅会に参加したおり、山門で出迎えてくれたのがマーガレットたち

であった。 今朝も、マーガレットに再会し、若き病床の友と共に、風に合わ

せながら、歩き禅である<経行>(きんひん)を楽しんだ。

 

《只々に 己無くして 見つめるに 脱け殻ありて 無の風抜けし》 實久

 ―ただただに おのれなくして みつめるに むのかぜぬけし ぬけがらありて―

 

 

   

                       マーガレット      

 

 

 

■<満月を飲み干す>   (7月3日)

 

ここ志賀の里、びわ湖に映る満月は、波に揺れ微笑んでいるように見える。

半夏生の満月を酒杯に浮かべて愛でる、優雅な時間を過ごした。

月様の微笑みに誘われて李白漢詩を高らかに吟じた。

病床の若き友のこころにも満月が満ちたたことであろう。

満月を酒盃に浮かべて、病床の若き友と満月に舞った。

 

《飲み干せし 盃の華 満月や 病の友と 君愛でおりし》    實久

 ―のみほせし さかずきのはな まんげつや やまいのともと きみめでおりし―

 

《志賀の里 いでし満月 琵琶に映え 揺れし微笑み 盃のなか》 實久

 ―しがのさと いでしまんげつ びわはえ ゆれしほほえみ さかづきのなか―

 

    

                        満月

 

 

 

■<天使の梯子>     (7月6日)

 

今朝一瞬、姿を見せた雲間に、太陽と天使の梯子びわ湖に舞った。

美しい天地創造の一瞬に立合え、病床の若き友と創造主の恵みに触れた。

 

《舞い降りし 天使の梯子 湖に抱かれ 満ちし平安 友癒せしや》 實久

 ―まいおりし てんしのはしご こにだかれ みちしへいあん ともいやせしや―

 

 

   

                      天使の梯子              

 

 

 

■<ブライダルベールの合唱>  (7月7日) 

 

今日は七夕である。

気を付けないと行きすぎるほど小さく、可憐な花<ブライダルベール>に

呼びかけられた。 なんと可愛らしい三弁花なのだろうか。 まるで花嫁が

かぶる純白のベールのように美しい。

この小さな命にも人は名を付けて、愛でる優しさがあることに心うたれた。

自分たちに目を向けて、語りかけてくれたわたしたちに、坂本九ちゃんの

<幸せなら手を叩こう>を合唱し、感謝の気持ちを伝えきた。

病床の若き友と一緒に、七夕に願いを込め、手を叩いて合唱に加わった。

 

《純白の 君に見せたし 花嫁の 神の祝福 白きベールを》 實久

―じゅんぱくの きみにみせたし はなよめの かみのしゅくふく しろきべーるを―

 

                                                                       ブライダルベール 

 

 

 

■リシマキア・ミッドナイトサン  (7月9日)

 

びわ湖岸のお宅の外庭に咲き乱れていた星形の花が<リシマキア・ミッド

ナイトサン>と教えてもらい、素敵な名前に喜んでしまった。

星形の黄色い花<Star>が、<Might-Night-Sun>に輝いている姿を

想い描くだけで、宮沢賢治銀河鉄道の夜に引きこまれた。

人の豊かな想像力や祈りは、世界を変え、人を変え、おのれを変えられると

思うと、強いパワーを感じたのである。

いま、苦しみの中にいるすべての人々に強いパワーを送り続けていることの

大切さをかみしめた。

近いうち一週間ほど、病床の若き友を勝手に連れ出して(写真同伴)、

戦国武将・家康公の足跡を追って城巡りに出かけてきたい。

 

《眠りより 目覚めよ友と 祈りてや 共に旅する 銀河鉄道》 實久

 ―ねむりより めざめよともと いのりてや ともにたびする ぎんがてつどう―

 

 

   

                 リシマキア・ミッドナイトサン

 

 

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      星の巡礼 どうする家康紀行>に写真参加して

          (2023/7/10~14)

 

             義経(吉村和馬&ピエール)

               

 

 

                  病床の若きOB仲間 吉村和馬君を連れ出して(写真参加)、天下人

                  徳川家康公ゆかりの城・古戦場を巡って短歌を詠ん来た。

                  寄稿文は、ブログにまとめたので立寄っていただければ幸いです。

                  ここでは、城址や古戦場での短歌のみを載せておきます。

            武蔵野弁慶(後藤實久)

 

2023『星の巡礼 どうする家康紀行』

https://shiganosato-goto.hatenablog.com/entry/2023/07/19/081125

 

 

   

     追跡者:義経(吉村和馬&ピエール)       追跡者:武蔵野弁慶(後藤實久)

 

                         

 

《それぞれの 命ひとつ 輝きて 主の導きし 追跡うれし》                   和馬     

 ―それぞれの いのちひとつ かがやきて しゅのみちびきし ついせきうれし―     

 

《われらみな 闇夜におりて さすらいし 思えば同じ 寂しき身をや》 實久

 ―われらみな やみよにおりて さすらいし おもえばおなじ わびしきみをや― 

 

 

         

 <岡崎城> 1542(天文11)年 <家康誕生の城にて>

 

《日ノ本を 束ねし公の 産声や 明るき世へと 響き渡れり》               和馬

 ―ひのもとの たばねしこうの うぶごえや あかるきよへと ひびきわたれりー

 

《屁をこきて 知らぬ存ぜぬ 夏の風 産声聴こゆ 龍ヶ城》                   實久

 ―へをこきて しらぬぞんぜぬ なつのかぜ うぶごえきこゆ りゅうがじょう―

 

          

       

             岡崎城前で追跡サイン獲得              

 

 

② <桶狭間の戦い> 1560年5月19日 <家康17歳>

 

《忍び足 やんちゃ坊主の 鬨の声 聴きて槍だす ドン・キホーテ》 和馬

 ―しのびあし やんちゃぼうずの ときのこえ ききてやりだす どん・きほーて―                                                  

 

《目閉ずれば 殺生空し 人の道 無常なる風 頬打ち去りし》    實久

 ―めとずれば せっしょうむなし ひとのみち むじょうなるかぜ ほほうちさりし―

 

       

                 桶狭間 旧石柱と

 

■ ムラサキツユクサ<紫露草>の祈り

      ―桶狭間古戦場で出会いて―

 

紫露草、なんと素敵なネーミングであろうか

桶狭間の古戦場跡にひっそりと咲く可憐な花に出会った

気品がみなぎり、可愛らしさを見せている

 

ひと時の幸せを忍ばせているようで、祈りの切なさが伝わってきた

刹那、無の風がわれわれの祈りのなかを吹き抜けていった

 

毎日、次々と花を咲かすのだが、彼女たちは

一日で枯れてしまう運命にあるのだ

まるで、古戦場で散っていった兵(つわもの)たちに

出会ったようにである

病床の若き仲間 義経Kazumaと、共にしばし彼らの祈りに耳を傾けた

 

《儚さの 夢見る君や 露草の 無の風吹きて 祈り響きし》  實久

 ―はかなさの ゆめみるきみや つゆくさの むのかぜふきて いのりひびきし―

 

   

                     ムラサキツユクサ         

 

 

     

 <掛川城> 1568(永禄11)  <家康 26歳>

 

《城に見る 世の常悲し 立ち姿 氏真守り 家康攻めし》  和馬

 ―しろにみる よのつねかなし たちすがた うじづねまもり いえやすせめし―

 

掛川の 別れ旅路の ちぎり雲  義兄弟見る 攻防の果て》   實久

 ―かけかわの わかれたびじの ちぎりくも ぎきょうだいみる 攻防の果て―

 

   

                   掛川城で追跡サイン獲得

 


 ■ 落葉の独り言 掛川城公園で―                         

 

山内一豊によって改修された掛川城は、本格木造天守閣として復元された

東海の名城である

周囲には、多くの桜の木が植えられ、市民の憩いの場である公園として提供

されている

掛川城外の木陰に舞い散った落葉に、約450年前の兵どもの姿を重ね

われわれ義経Kazumaと弁慶Saneは、耳を傾けて

その言い伝え(伝説)に聞き入った

武田軍の駿府館攻略により、掛川城に逃げ込んだ氏真を家康軍の攻撃から

守ったのは、天守閣脇にある井戸から立ち込めた霧であったと教えてくれた

 霧が城をすっぽりと覆い隠し、徳川軍は攻撃できなくなったという

それ以来、掛川城は「雲霧城」とも呼ばれているという

われわれは、落葉たちとの気の交感をして別れた

 

 《貴族的 白塗り天主 雲霧の 遠江拠点 息吹おりしや》 實久 

 ―きぞくてき しろぬりてんしゅ くもきりの とうとおみきょてん いぶきおりしや―

 

    

                   掛川城の落葉

 

 

 

④ <浜松城> 1570年 姉川の戦いに勝利、浜松城に移る

 

《浮き沈み 知る由もなし 戦国の 生き残りしも 勝運のうち》   和馬

 ―うきしずみ しるよしもなし せんごくの いきのこりしも しょううんのうち―

 

《出世城 人の一生 分からじや 時が見下ろす 主何處やと》    實久

 ―しゅっせいじろ ひとのいっしょう わからじや ときがみおろす あるじどこやと― 

 

 

       

                  浜松城で追跡サイン獲得

 

 

■ 内気な半夏生  ―浜松城下にてー

 

 掛川城より、浜松城へ向かう途中で、葉のつけねからでた穂状の突起に

たくさんの控えめな白い粒花をつけた半夏生に出会った

梅雨明け宣言がなされるなか、水路にひっそりと葉を白く染め

日とともに緑に戻す<ハンゲショウ>が、内気にたたずむ姿に心惹かれた 

何か、自分たちに似ているねと写真参加中の病床の友・義経Kazuma

語りあったものである

 

《人知れず 川辺賑わす 半夏生 出会い嬉しや はにかみおりて》  實久

 ―ひとしれず かわべにぎわす はんげしょう であいうれしや はにかみおりて―

 

   

                       半夏生                         

 

 

 

⑤ <三方原古戦場> 1572年(元亀3)  <家康 30歳>

 

《人の世や つわもの共の 夏の夢 立ちて悲しき 戦いの跡》     和馬

 ―ひとのよや つわものどもの なつのゆめ たちてかなしき たたかいのあと

 

《葉を揺らす 風の命の 無常さに われら誘いし 碑なる虚しさ》   實久

 ―はをゆらす かぜのいのちの むじょうさに われらさそいし ひなるむなしさ

 

   

            <三方ヶ原古戦場>石碑で追跡サイン獲得    

 

■  パープルハート<紫御殿> 三方ヶ原古戦場跡にて

 

優しい表情で話しかけてくれる小さな紫の花に、ここ三方ヶ原の公共墓地で

義経Kazumaと弁慶Saneは出会った

まさしく名の通り<パープルハート>の可憐さに心躍ったものだ。

日本名は<紫御殿>というらしい、なぜだが分からないが

少し侘しさに包まれた

写真参加している病床の若き友にニックネームを付けてみたくなった

義経として参加しているが、<ダニーボーイ>、<西郷どん>、<星の王子様>

<サッカークレージ>と、友の別なるイメージが広がった

 

《想い寄せ  祈り合いしや 共にいま パープルハート 結ばれおりし》 實久

 ―おもいよせ いのりあいしや ともにいま ぱーぷるはーと むすばれおりし―

 

 

    

                      パープルハート

 

 

 

 <二俣城址 1572~75(元亀3~6) <家康 30~33歳>

 

《石垣の もの悲しげな 蝉の声 まぼろし集う つわもの共の夢》     和馬

 ―いしがきの ものがなしげな せみのこえ まぼろしつどう つわものどもや―

 

《目を閉ずれば 悲しき戦い 迫り来て 無の風頬を 打ちて去りにし》 實久

 ―めをとずれば かなしきたたかい せまりきて むのかぜほほを うちてさりにし―

 

   

               二俣城址で追跡サイン獲得

 

 

■< 宵待草>   二俣城址

 

二俣城址の広々した芝の広場にでる道すがら、はにかみながらこちらを見つめる

黄色い宵待草に気づいた。

その姿に浴後の美人、竹久夢二の作詞作曲の「宵待草」のメロディーが、弁慶Sane

の口から流れ出た。

弁慶には懐かしい青春歌である。 だが、義経Kazumaには、馴染みのない

大正のメロディーである。

しかし、聴こえるセミの鳴き声が、兵(つわもの)どもの悲しい声となって、

宵待草の気分をかき消してしまった。

 

《出会いしや 宵待ち草の 二俣城 兵どもの 鬨に変りし》  實久

 ―であいしや よいまちぐさの ふたまたじょう つわものどもの とき(のこえ)にかわりしー

 

                

    

                        宵待草

 

 

 

⑦ <長篠城址> 1575(天正3)年  <家康 33歳>

 

《人の世の 無常なる道 絶えざるや 戦無き世 求めて止まず》  和馬

 ―ひとのよの むじょうなるみち たえざるや たたかいなきよ もとめてやまず―

 

《右衛門の 叫び木霊す 長篠で 磔に見る いのち尊き》       實久

 ―うえもんの さけびこだます ながしので はりつけrにみる いのちとうとき―

 

 

   

               長篠城址碑で追跡サイン獲得                   

 

 

■ <ドクゼリの叫び>  長篠城址で

 

長篠城址の主郭があった広場を、草刈り機のエンジン音が満ちていた。

刈り忘れられた数本のドクゼリの花が、やれやれ助かったという顔を輝か

せていた。 

人の世も同じだなーと相棒の義経Kazumaが一句詠んでくれた。

 

 《うなだるる 城址の哀れ 時を越え 屍越えし ドクゼリの鬨》  和馬

 ―うなだるる じょうしのあわれ ときをこえ しかばねこえし どくぜりのとき(のこえ)―

 

    

                        ドクゼリ 

 

 

 

⑧ <長篠・設楽原決戦場>  1575(天正3)年5月21日 (家康 33歳)

   (ながしの/したらがはら) 

 

《勝ち負けの 世の常にして 戦いて 無常の情け いつ終わりしか》 和馬

 ―かちまけの よのつねにして たたかいて むじょうのなさけ いつおわりしか―

 

《放たれた 完膚なきまで 鉄砲玉 騎馬隊撃ちて 止むこと無きや》 實久

 ―はなたれた かんぷなkまで てっぽうたま きばたいうちし やむことなきや―

 

    

    

            <長篠・設楽原決戦場>防馬柵で追跡サイン獲得                                     

 

 

■ <ヤマゴボウの嘆き>  長篠・設楽原決戦場で

 

設楽原(したらがはら)の戦場に立つ防馬柵の山側にヤマゴボウの実を

見つけた。 彼らが設楽原の戦いを知っているとは思わないが、なにかの

縁でこの古戦場を眺めているのである。

こちらは追跡者、常住のヤマゴボウさんに設楽原の戦いについて問い

かけてみた。 意外にも、ヤマゴボウは言い伝えを聞かせてくれた。

信長の鉄砲隊は雷を落し、その轟音は天地を揺り動かし、勝頼軍は

一瞬にして消えたと、聞いているという。

 

《一斉に 火を噴く銃や 雷神か 消えし騎馬隊 この世失せしや》 實久

 ―いっせいに ひをふくじゅうや らいしんか きえしきばたい このようせしや―

 

    

                      ヤマゴボウ

 

 

 

 <小牧・長久手古戦場>  1584(天正12)年3月  <家康 42歳>

 

《両雄の 対決せしや 長久手の 天下競いし 日ノ本の国》  和馬

―りょうゆうの たいけつせしや ながくての てんかきそいし ひのもとのくにー

 

《時の運 乗りし秀吉 天下取り 時を待つのも 家康の訓》     實久

―ときのうん のりしひでよし てんかとり ときをまつのも いえやすのくん(おしえ)―

 

       

             小牧・長久手古戦場跡で追跡サイン獲得    

 

■ <ハエドクソウ>  小牧・長久手古戦場跡で

 

秀吉方の武将、池田恒興(勝入)戦死地<勝入塚>(しょうにゅうづか)の裏に

広がる薄暗き森のなかを散策していると、雑草に混じって<ハエドクソウ>

の可憐な花がひっそりと咲いていた。

古戦場で出会う花たちには、格別な思い入れがあり、古戦場に散った兵

(つわもの)どもの化身のように見えてくるのである。

相棒の義経Kazumaが一句詠んでくれた。

 

もののふの 小さきいのち 叫びおり 歴史に埋る 祈り悲しき》 和馬 

 ―もののふの ちいさきいのち さけびおり れきしにうもる いのりかなしきー

 

 

                      ハエドクソウ 

 

 

            

 ⑩ <犬山城>  1600年(慶長5年) <家康 58歳>

    関ヶ原の戦いに勝利した徳川の城となる 

 

《精霊の 飛び交う城や 夏の夢 石段上る こころ重きや》   和馬

 ―せいれいの とびかうしろや なつのゆめ いしだんのぼる こころおもきや―

 

《無情なる 城の運命や 敵味方 流される血に 悲哀眺めし》  實久

 ―むじょうなる しろのさだめや てきみかた ながされるちに ひあいながめし―

 

       

                 山城で追跡サイン獲得

 

■  <再会の宵待草>   山城で

 

家康追跡の旅のある日、<小牧・長久手古戦場>で終えた。 

朝を迎え、木曽連峰からあがる太陽の恵みを受けながら、<犬山城>に

向かった。

朝一番、犬山神社横の駐車場に車を止め、苔むす石段を上っていくと

城門に着く。

開門には少し時間があり、散策をしていると、二俣城で出会った宵待草に

再会した。 二俣城での非業の死を遂げた徳川信康(家康の嫡男)の怨念

の祈りが聞こえてきそうであった。

 

《再会の 君美しき 微笑みに もののふの声 響き悲しや》 實久

 ―さいかいの きみうつくしき ほほえみに もののふのこえ ひびきかなしや―

 

                        

                 再会の宵待草

 

 

 

⑪ <岐阜城> 1600(慶長5)年8月  <家康 58歳>

 

《われ招く 見よこの景色 山城の 美濃制する 者となりしや》  和馬

 ―われまねく みよこのけしき うあましろの みのうせいする ものとなりしや―

 

 《浮き沈み 世の常と言う 長良川 岐阜の城また 主を変えてや》  實久

 ―うきしずみ よのつねという ながらかわ ぎふのしろまた ぬしをかえてやー

 

    

                  岐阜城天守閣で追跡サイン獲得

 

 

■ <アンズタケ>   岐阜城   

 

岐阜城は、信長が稲葉山城を改名した城である。

長良川両岸に広がる岐阜の街や、その先に広がる濃尾平野を一望できる。

岐阜城は、ロープウェイ山頂駅より、なお200mほど歩いた金華山頂にある。

この道すがら、汗するわれらを励ます茸<アンズタケ>に出会った。

信長も苦戦した難攻不落の<稲葉山城>を、一日で落とす離れ業を見せた

竹中半兵衛の逸話を聞かせてくれた。 

それは知恵と策略による<城乗っ取り>であったという。

信長は、三顧の礼と破格の待遇で竹中半兵衛を召し抱えたい旨、秀吉を介し

て伝え、味方に引き入れた。 

その後、豊臣秀吉の天下取りの軍師として、無くてはならない人物なったと、

話してくれた。

竹中半兵衛は、明智光秀と同じく美濃国の出身で、土岐氏滅亡のあと斎藤

道三、信長に仕えた。

光秀は本能寺の変を起し滅亡するが、半兵衛は、秀吉の軍師として天下

取りに参加する。

 

 《いかほどに 頑強な城 誇りても 知略に勝る 術無しという》  實久

 ―いかほどに がんきょうなしろ ほこりても ちらくにまさる すべなしという―

 

   

                      アンズタケ

 

 

 

⑫ <大垣城> 1600年(慶長5)年9月 <家康 58歳>

 

《籠城か ここは思案の しどころと 三成迷う 大垣城》  和馬

 ーろうじょうか ここはしあんの しどころと みつなりまよう おおがきじょう―

 

《一瞬の 天下の分け目 人の道 たどりし果ての 悲喜こもごもや》 實久

 ―いっしゅんの てんかのわけめ ひとのみち たどりしはての ひきこもごもや―

 

大垣城は、輪郭複合式平城で、四重にも水堀を巡らした総構えの城である。

岐阜城関ヶ原の間にあり、1600年の<関ヶ原の戦い>において、一時

西軍の本陣であった。

西軍の石田三成は1600年8月10日に、大垣城に入り守りを固めて

いる。

一方、東軍の徳川家康も、大垣城兵糧攻めにする計画を立てていたが、

一気に勝敗を決するため、

武田信玄との<三方ヶ原の戦い>での敗戦の教訓を採り入れ、大垣城西に

広がる関が原での決戦を決断し、石田三成の西軍を関が原へ誘い出している。

 

 

                   

                    大垣城で追跡サイン獲得

 

 

 

⑬ <関ヶ原の戦> 1600(慶長5)年10月21日 <家康 58歳>

 

豊臣秀吉の死後に発生した豊臣政権内部の抗争、身内同士が東西に分かれて

覇権を競うことになったのが<関ヶ原の戦い>である。 

徳川家康を総大将とし福島正則黒田長政らを中心に構成された東軍と、

毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家石田三成らを中心に結成された反徳川の

西軍の両陣営が、秀吉亡き後の天下取りをかけて、関ヶ原での決戦に挑んだ。

関ヶ原の戦い>の結果、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、

秀吉没後の豊臣政権を構成していた五大老五奉行体制を解体し、 家康の権力

掌握は徳川氏を中心とする江戸幕府成立の基礎<幕藩体制確立>へと繋がっ

ていく。 長年耐えてきた家康の待ちに待った心境が成就した一瞬でもある。

 

          《啼かぬなら 啼くまで待とう  ホトトギス》 

 

   

               関ヶ原古戦場にて(2023)追跡サイン獲得 

                    

 

■ <懐かしき想い出>

   ―関ヶ原合戦場の畦道に臥して、もののふの鬨の声を聴く―

 

懐かしいなー、今から12年前、東北大震災が起こった年、所属していた

同好会の50周年を記念して歩いた<中山道てくてくラリー530km>。 

中山道関ヶ原宿>では、ここ<関ヶ原合戦場>のど真ん中の畦道にテントを

張り、当時脳梗塞の後遺症のため病床にあったスカウト同好会仲間(喜多さん・

田中祥介氏・79年度生・写真参加)と寝袋に臥して、聴こえ来る兵(つわもの)

どもの鬨(とき)の声に耳を澄ませたものである。

今回も又、病床の若き仲間 義経Kazumaとともに、<関ヶ原合戦場>に

立っていることに感謝した。

 

もののふの 別れ悲しき 関ヶ原 夕陽薄れて 静寂に立ちし》  實

 ―もののふの わかれかなしき せきがはら ゆうひうすれて しじまにたちし―

 

《河鹿鳴く 武士悲し 関ヶ原 歴史覗きし 我もおりてや》  和馬

 ―かじかなく もののふかなし せきがはら れきしのぞきし われもおりてや―

 

    

     

   

                   関ヶ原古戦場でテント張る(2011 )

                同志社ローバー50周年記<中山道てくてくラリー>途上、故田中祥介君とテントで寝る

 

 

 

⑭ <駿府城址> 1607(慶長12)年  <家康 65歳>

 

《幼少の 人質の身や 懐かしき 人の情けを 学び育ちし》    和馬

 ―ようしょうの ひとじちのみや なつかしき ひとのなさけを まなびそだちし― 

 

《風に乗り まわり廻って 駿府城 大御所として 幕府睨みし》  實久

 ―かぜにのり まわりまわって すんぷじょう おおごしょとして ばくふにらみし―

 

             

               駿府城で追跡サイン獲得

 

 

■ 菱(ヒシ)― お堀に植えた菱で敵浸入を防ぐ

 

菱は、堀や池で水中に丈夫な蔓をのばす水生植物である。

戦国時代の城を外敵から守るため、お濠に菱を植え付け、その蔓が絡み

付いて手足の自由を奪い、侵入者を防いだという。

ここ駿府城もそうだが、多くの城が廃城となり、現在では天守を持つ城は

全国で12しか残っていないという。

しかし、城は姿を消しても、堀は残っており、その規模によりその城の

骨格や築城の目的を推測することができるというから面白い。

 

 《濠潜る 忍者隠れし 菱の陰 闇夜に響く 夜鷹の奇声》  實久

 ―ほりもぐる にんじゃかくれし ひしのかげ やみよにひびく よたかのきせい―

 

                        

              お城の濠に植えられた菱        

 

 

 

⑮ <名古屋城 1610年(慶長15年)  <家康 68歳>  

 

家康不人気の、一面をもあえて詠んで、『星の巡礼 どうする家康紀行』

―家康公ゆかりの城・古戦場を巡る―追跡の旅を終えたい。

 

《良き部下に 恵まる主君 家康の 耐えて絞りし 豊けき知恵や》     實久

 ―よきぶかに めぐまるしゅくん いえやすの たえてしぼりし ゆたけきちえや―

 

《天下人 魅力に欠けし 家康の 華々しさも 潔さも無きと》             實久

 ―てんかびと みりょくにかけし いえやすの はなばなしさも きよさもなきと―

 

《権力に 意地やプライド 投げ捨てて おのれ律して 先を読みしや》 實久

 ―けんりょくに いじやぷらいど なげすてて おのれりっして さきをよみしや―

 

《義理薄く 絆切り捨つ 冷たさに 人情無きと 人見るという》            實久

 ―ぎりうすく きずなきりすつ つめたさに にんじょうなきと ひとみるというー

 

                

                      

           最終地<名古屋城>にて和馬&ピエール、追跡サイン獲得

 

 

                                                 《どうする家康 追跡隊》

                                                              任務完了ス

 

 

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炎天下のもと、あえて古戦場跡に近い場所で車中泊をしながら、歴史の

中に埋没してきた。

本当は、二人してテントを張りたかったが、今回の追跡ハイキング許可条件

の一つに、<年齢を考えろ>との約束があり、行動を律した。

出来る限り、古戦場の兵どもの鬨の声を聴きながら、タイムトンネルを

潜りたかったからである。

無理して連れ出した写真参加の相棒 義経Kazuma&ピエールも、汗して

行動を共にしてくれた。

 

現在、病院にいるが、こころは古戦場を駈け巡り、攻防に汗したことであろうし、

天守からの景色を堪能してくれたと思う。

(現在、病院から家に帰り、自宅療養に入っている)

ましてや、狭い病床から、心だけでも広々とした古戦場に連れ出し、青空の下、

のびのびと駈け回って欲しかった。

これを一つの契機に、覚醒にいたることを切に祈るものである

 

わたしも、病床の若き友より、おおくの学びがあった。

感謝である。

 

《それぞれの 命ひとつ 輝きて 主の導きし 追跡うれし》   和馬

 ―それぞれの いのちひとつ かがやきて しゅのみちびきし ついせきうれし―

 

《垣根超え 挨拶交わす 朝顔や かよいて嬉し こころ内かな》 實久

 ―かきねこえ あいさつかわす あさがおや かよいつれし こころうちかな―

 

 

 《われらみな 闇夜におりて さすらいし 思えば同じ 寂しき身をや》  

                 和馬&實久

 ―われらみな やみよにおりて さすらいし おもえばおなじ わびしきみをや―

 

 

               感謝

       2023年8月12日 自宅療養スタートを祝って

 

          《どうする家康 追跡隊》

 

        追跡者:吉村和馬 (義経&ピエール・写真参加) 

            追跡者:後藤實久 (武蔵坊弁慶

 

    

              

 

               (関連ブログ) https://shiganosato-goto.hatenablog.com/

 

 

                          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023『星の巡礼 同志社ローバースカウト歴史点描Ⅰ』

 

 

            同志社ローバースカウト歴史点描Ⅰ

               《路線闘争》

 

            ―1964年度生 故 紺矢久光君を偲んでー

                                                       2023年8月10日没

 

 

              《君も又 ローバー愛す 同志社人 共に論ぜし あの日懐かし》   實久

      ―きみもまた ろーばーあいす どうししゃじん ともにろんぜし あのひなつかし―

 

     《弥栄の 勲章ひかる 老兵の 消え去りてなお 営火見つめし》  實久

     ―いやさかの くしょうひかる ろうへいの きえさりてなお えいかみつめし―

 

 

まず、路線闘争と言っていいのだろうか・・・

1961同志社ローバースカウト発足当初(佐藤義雄隊長・八木潔団委員長)は、原隊を持つ隊長はじめ原隊

指導者の集まりであり、原隊運営のための研究会はじめ、情報交換、親睦のためのサークルであった。

中でも、同志社レンジャースカウトとの親睦は、同好会としての最重要テーマであったといえる。

同志社ローバー隊に続いて、ガールスカウトの『同志社レンジャースカウト』(西村リーダー)も発足した

からである。

当時、同志社ローバーと同志社レンジャースカウトの総隊員は、60名に近かったと記憶する。

 

 

         同志社レンジャースカウト隊発足式にて(1963・同志社アーモスト館)

                (残念だが紺矢久光君は同席していない)

 

同志社における体育会系に属し、『同志社スカウト同好会』として部室も与えられ、ローバー・レンジャーの交流は盛んであった。 後年、レンジャースカウトが解散し、ローバースカウトとの合流により女子隊員が誕生する現在の姿に引き継がれた。 また当時、ローバーとレンジャーのカップル誕生を多く見ることとなった。

 

ただ、このレンジャーとの親睦からくるローバースカウト本来の訓練・野外活動の欠如を嘆き、心配する『スカウト正統派』と、現状を肯定する『親睦推進派』との路線闘争に入っていくのは目に見えていた。

 

両隊発足当初は、原隊指導が中心であって、双方の親睦中心の活動に違和感がなかったのだが、数年後にはこの和気あいあいとした親睦中心の同好会に憧れて入隊するスカウト未経験者が増えていったのも当然の成り行きであった。

 

発隊5年後の1966年、紺矢久光君たちがローバー隊幹部に就いたとき、路線闘争が勃発した。

丁度、ブラジル・スカウト移民に区切りをつけ帰国し、レストラン事業に参加していたわたしの下に

紺矢久光君と渡辺康志君(1964年度生)が、調停役を求めてきた。

 

四条烏丸の西にあった<織協会館>の5階「ツーリスト・グリル」のラウンジに授業を終えた、武闘派と言われる『スカウト正統派』と、現状維持を主張する『親睦推進派』の両派が集合し、論戦に青春をかけていた。

 

両派からしたら、調停役ながら、ただにこやかに論戦を見守るだけの姿に不満があったであろうことは知っ

てはいた。 だから両派が、何を論じ、何を主張していたか。 その後どうなったかあまり記憶に残って

いない。

 

青春とは、両派がぶつかり、論じ尽くすエネルギーの燃焼にあると見ていたからである。 

なぜなら、同志社ローバーは、この両者が融合したところに存在するという持論があったからかも知れない。

 

しかし、当時の現役の路線闘争は、ベーテンパウエルの<ローバーリング論>を主軸に据えた論争にあった

だけに、青春をかけた激しい論争であり、以降の各々の人生の在り方にも影響したであろうと思っている。

 

また紺矢久光君は、京都連盟でも反骨精神に満ちた第28団に所属し、その薫陶を受けた<戦うスカウト>の

一人であった。 武闘派である荒木勲団委員長を先頭に、立川章三郎氏、同志社ローバーOB故竹内正照氏

(61年度生)、荒木碵哉氏らとともに戦うスカウト集団の一員を構成していた。

 

故 紺矢久光君は、同志社ローバースカウト武闘派の元祖であった、と言うにふさわしい同志であった。 

路線闘争によく立合わされた彼の厳しいが、どこかやんちゃ坊主の様に胸を張って絶叫している姿や、

意見が聞き入れられずに憮然としている顔が懐かしく蘇るのである。

わたしのローバー人生で、忘れられない仲間の一人となった。 

長年の闘病生活にあったと聞く、安らかに眠ってもらいたい。             

                                                                 

                       

                                                                 

                           

 

                                                                 (後藤實久記 60年度生)


 

 

   

 

 

             

 

2023『星の巡礼 同志を偲ぶ会に立合いて』

 

 

                               <同志 元ちゃんを偲ぶ短歌集>

                                詠み人 後藤實久

 

 

1960年代、同志社で学生時代を共に過ごした仲間は、後期高齢者に達している。

この日<偲ぶ会>を持った仲間 東山元子(旧姓 諏訪)さんは、この三月に天国に召された。

同志社スカウト同好会同期前後の友人と、遺族のみなさん、故人が所属していた

団体の友人が集まり、彼女を偲んだ。

スカウトらしく簡素な飾りつけのなか、遺影を囲んで、笑いあり涙ありと亡き同志の

人柄に花を咲かせた。 

 

短歌にしたため遺影に捧げたい。

 

    

 

《久しぶり 乗りし列車の 偲ぶ会 翔ける景色や 颯がごとし》

―ひさしぶり のりしれっしゃの しのぶかい かけるけしきや はやてがごとし―

 

《ふんわりと 臥せし白雲 スヤスヤと 寝息聴こえし 亡き友の顔》

―ふんわりと ふせししらくも すやすやと ねいききこえし なきとものかお―


《友抱く 比叡のお山 霞おり 蝉時雨止む 事知らずして》

―ともいだく ひえいのおやま かすみおり せみしぐれやむ ことしらずしてー


《滑りゆく 列車の揺らぎ 心地よく 向いし京や 亡き友待ちし》

―すべりゆく れっしゃのゆらぎ ここちよく むかいしきょうや なきともまちし―


《亡き友を 偲びたいとの 者集い 記憶たどりて イブを語りし》

―なきともを しのびたいとの ものつどい きおくたどりて いぶをかたりし―


《爺婆の 昔帰りや 青春の 王子の恋や 姫の夢かな》

―じじばばの むかしがえりや せいしゅんの おうじのこいや ひめのゆめかな―


《集いきて 喋り喋るは 青春の 腹を抱えし あの日懐かし》

―つどいきて しゃべるはしゃべる せいしゅんの はらをかかえし あのひなつかし―


《微笑みし 遺影の中の 君なれど 耐えしあの日の 努め厳しき》

―ほほえみし いえいのなかの きみなれど たえしあのひの つとめきびしき―


《若き日の 楽しあれこれ 笑い合い 君忍びてや 想い出尽きじ》

―わかきひの たのしあれこれ わらいあい きみしのびてや おもいでつきじ―


《母に似し 仕草一つに 和みてや 昔帰りに 花咲きやまず》

―ははににし しぐさひとつに なごみてや むかしがえりに はなさきやまず―

 

《目元似る 元ちゃん二世 母語り 知りて驚く 友の想い出》

―めもとにる げんちゃんにせい ははかたり しりておどろく とものおもいで―

 

      《驚愕の 実弟語る イブの日や オデンの種に カネテツありと》

      ―きょうがくの じっていかたる いぶのひや おでんのたねに かねてつありと―

 

     《想い出の スカウトペース 懐かしき 隊歌叫びつ ハイキングかな》

        ーおもいでの すかうとぺーす なつかしき たいかさけびつ はいきんぐかなー


《老友の 昔は良かった 溜め息に 頷く我も おりて驚く》

―ろうゆうの むかしはよかった ためいきに うなずくわれも おりておどろく―


《もし道を 違えて居れば 今は無き 友想いてや 一人うなずく》

―もしみちを ちがえておれば いまはなき ともおもいてや ひとりうなずく―


《あの世から 眺むる君の 一言を 聴きたくもあり 語り合いたし》

―あのよから ながむるきみの ひとことを ききたくもあり かたりあいたしー

 

《老いたりし つわもの共の 今昔 語り合いてや おいお前かな》

―おいたりし つわものどもの いまむかし かたりあいてや おいおまえかな―

 

《偲ぶ会 微かなる跡 絞りだし 語るも涙 聴きても笑い》

―しのぶかい かすかなるあと しぼりだし かたるもなみだ ききてもわらい―

 

浮雲の 彼方におりし 君なれど 微笑み豊か いついつまでも》

―うきぐもの かなたにおりし きみなれど ほほえみゆたか いついつぃまでも―

 

 

 

 

 

  

          関係者が集い青春時代に花を咲かせ、遺影に語りかけた

           

                 後列 田中公郎・諏訪靖二・東山香子・畦崎桂子

               前列 桐山隆雄・後藤實久・遺影 東山元子・篠田常生・西村豊子

               (写真撮影 佐藤恵子・途中退席 篠田佳奈)

               2023年7月23日 14:00~16:00              

                                                      於・ボーイスカウト京都連盟会議室

 

 

 

                    《永遠のスカウト》

            ーONCE A SCOUT,  ALWAYS A SCOUTー

 

        一度スカウトに 誓いを立ててなりし身は いつもいつもスカウトだ

       

         一度スカウトに 誓いを立てし身は いまの今もスカウトだ

 

        一度スカウトに 誓いを立ててなりし身は 死ぬ時までもスカウトだ

 

        この世のスカウトに いのち捧げて使えなば 死してのちもスカウトだ

 

 

 

 

             <同志 元ちゃんを偲ぶ短歌集>

 

 

                   

 

 

 

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<関連ブログ>

2023<星の巡礼 仲間を偲んでー東山元子さん>

https://shiganosato-goto.hatenablog.com/entry/2023/03/07/164912

 

 

《短歌集 - 偲ぶ草》 ースカウト仲間 東山(諏訪)元子さんを偲んでー 短歌&スケッチ 後藤實久 わびすけ(白侘助/寒椿) 1961年当時、部室無き「同志社スカウト同好会」発足時、今出川通りの校門前の喫茶店<わびすけ>(侘助・十数年前に閉店)が同志社レ…